10. シエル



 僕は飛んだ。

 

 着水はまだまだ下手だった。でもジャンプの高さは良かったはず。だって階段に座るお客さんの顔が、ちゃんと上から下まで見えたから。

 そして――もしかしたらと思っていたものも。


 コッコ。


 赤い帽子は被っていなかった。でも彼女だった。

 よく見ると頭から下まで、ずぶ濡れになっていた。コッコもやっぱり他の人間みたいに、水をかぶるのが好きなのかな。

 だって外は雨が降っているけれど、水避けの透明な幕を持っていないみたいだし。


 でもおかげで、彼女の姿がよく見えたんだ。それがうれしかった。このショーでいちばんの元気をもらった。

 コッコは本当に素敵な笑顔で笑っていた。目の下にたくさんの水たまりを作って。


 じゃあ僕からのお返しをするね。

 次にジャンプした時に僕の鳴き声を聞いてね。僕らの言葉でいうよ。

 ありがとうって。




「最後にお礼を言わせて下さい。これで二度目になりますが」

 娘の父は満面の笑みで、ダイキに握手を求めてきた。ダイキは照れながらも、その手に力をこめて応えた。

「それに娘のわがままを聞いてもらって申し訳ありません。最後にどうしても、シエル君に会っていきたいそうで」

「本当にここからで、よろしいのですか? 何なら直接プールサイドからでも、いいんですが…」


 少女はその会話を聞いていた。大人たちに向かってかぶりを振った。

 彼女はあの時と同じように、赤い帽子をかぶり、ガラスの前に座っている。掌を水槽につけて、じっとシエルを眺めていた。

 少女が口を開いた。

「私、あなたにたくさんの勇気と幸せをもらった。けれど返せるものはこれしかない。ママのお腹にいた、大事な弟に聞かせていた歌なの。受け取って」


 彼女は額をガラスにつけて、歌いだした。

 かすかで、空気を震わせるには弱いと感じるぐらいの音。なのにその声を受け取っている向こう側のシエルが、とてもリラックスした気分で漂っている。

 初めて体験するダイキには、不思議な現象だった。


「ところで最初に聞こうと思っていたのですが、なぜ彼はシエルという名前なのですか?」

 唐突な父親の質問に驚いたダイキは、少女とイルカの邪魔をしないよう、耳元で答えをささやいた。

 父親は目を見開いた。そしてしばらく考え込んでしまった。やがて彼はダイキに向かって、耳打ちを返した。

「ほ、本当ですか!?」

 今度はダイキが黙りこむ番だった。彼は考え、悩んだ末に父親に、視線を送った。父親は意図を察し、無言で首を縦に振った。


 歌い終わった少女は、祈りを終えた後のように、恍惚とした表情で、静かな余韻を味わっていた。

 ダイキはゆっくりと少女の横に座り込むと、耳もとで静かに「そのこと」を語った。


 それを聞いて少女は振り向き、ダイキを、そして父を見つめた。再び向き直って、何ごともなく泳ぐシエルに視線を注ぐ。

 彼女は胸に手をあて、うつむいた。記憶がひとつひとつ、蘇ってくる。どれもが愛しい記憶だった。少女の目は潤み、涙がこぼれ落ちていった。心が静まるまで泣いて、少女はようやく顔をあげた。

「もういいかな?」

 父が訪ねた。少女はひとつだけと、ジェスチャーをして、ガラスに顔を近づけた。

 息をはいてガラスを曇らせ、そこに文字を書く。消して、また書き直した。シエルが間近に来て、その様子をずっと眺めていた。


 少女は様々な願いをこめて、ガラスのすぐ向こうにいるシエルに額をあわせ、最後の挨拶をした。


  さようなら、私のかわいいシエル


 やがて父に抱きかかえられた少女は、出口に向かう通路へと消えていった。



 二人を見送ると、ダイキはかがみこみ、少女がいた場所に書かれた文字を見た。少し考えて、理解した。


 ら・そ


 シエルはその文字の前で、ゆったりとした水槽の流れに身をまかせ、いつまでも漂っていた。





空(そら) おわり

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