3. 失敗
僕と仲間たちがもう少し大きくなったある日、僕たちの生活に大きな変化が起こった。
例のあの「先」の世界に、たくさんの――本当にたくさんの――小さな生き物たちが訪れ始めたんだ。
大人に聞いたり、仲間とコソコソ相談した内容をまとめると、結論はこんな風になった。
・あれは「人間」がたくさんいるだけで、悪いものじゃない
・噛まれたり、傷つけられたりしない
・噛んだり、傷つけたりしたら駄目
・「ショー」つまり、僕たちがどんなに偉いかを見に来てる
だからいつも「パチパチ」が飛んでくる
・理由は良くわからないけれど、人は水をかぶるのが大好き
・透明でぶつかると痛いのが「ガラス」僕らの家は「プール」「ステージ」だって
正直小さな生き物たちの事はよく知っているし、人間は仲間だって思ってる。いつも僕たちに美味しい餌をくれるし、壁の掃除だってしてくれる。たまに僕たちの遊びにも付き合ってくれたりもする。
大人たちですら、小さな人間たちとうまくやっている。だって大人が開いた口に人間が入っても、食べたりしないんだもの。
それから僕は、人間たちを観察するのが日課になった。
プールの前にあるたくさんの段々(階段というらしい)には、ママやパパ(あんなに小さいのに!)、さらにもっと細かい子どもたちが、砂の粒みたいにギュウギュウに詰められている。
よくあんなに小さいのに、子供を間違えたりしないなって、いつも感心する。どこもかしこも甲高いピーピーの連続音。これは彼らが喋っているらしい。
人間のおチビたちがまた楽しい。僕がわざとガラスの前を通ると、たくさん張り付いている子供たちが、目を光らせてこっちを追いかけてくるんだ。また戻ってきたり、逆さになって泳いだり、その度にピーピーが鳴り止まないから、見ている仲間とお腹を抱えて笑っていた。悪い仲間は口から水をかけたりしてた! 怖いって泣いている子には、クルクル回って、少しだけ長くいてあげる事もある。
そんな生活だから全然退屈しなかった。相変わらずジャンプは上達しなかったけれどね。
残念だけれど、ショーが始まる時間になると、僕たち子供は追い出されてしまう。そうなると、しばらく狭くて壁だらけのプールで我慢しないといけない。けど次は誰がどんな泳ぎをするか、仲間と相談するのはとっても楽しかった。
「☆△@@ーーー!! □◆△2L☆☆@@!!」
意味は分からなくても、僕たちはその音をきちんと記憶している。ショーの終わりだ。
いつもみたいに、たくさんのパチパチが水の中まで聞こえてきた。
大人たちが滑るように家に返ってきて、お互いに仕事終わりの挨拶を交わしている。
片付けが終わると僕らが泳げる自由時間がやってくる。僕たち子供は待ちきれず、周回のスピードを上げる始めた。やがて人間が青いネットの垣根を取り去ると、僕たちはさっと放射状に散って、それぞれ広い世界に飛び出していった。
「いるいる!」
案の定、ショー終わりのおチビさん達が大挙して、ガラスの前に残っていた。その後ろには大人たちもいる。今日もたくさん楽しめそうだ。
僕たちはプールの大外を並んで周りながら、誰がいちばん最初に行くかを決める、簡単な勝負をしていた。
その結果、僕は運悪くビリになってしまった。まあいいや、今日はあの子たちを飽きさせない、楽しい仕かけを考えたんだから。
まもなく大きな歓声が聞こえてきた。一番手のヤツだ。つかみは上々だね。
ひとりずつガラスの前を一往復。その分の楽しみを終わらせて、友達が周回の輪に戻ってきた。身体にタッチされ、次のひとりが、ガラスの前に出ていった。
今日は何やったんだいって聞こうとしたけれど、最初に戻った友達の様子が変だった。あんなにたくさんのパチパチをもらったのに、得意げな風もせず、不服そうな声で鳴いていた。
もうひとりも同じようだ。歓声をもらっていたのに、戻ってくる時の様子がおかしい。しきりに頭を振りながら、ふらふらとして、泳ぎにキレがなかった。
誰も原因を教えてくれないので、僕は不審になり、最初のやる気を失っていた。出番を引き継いだけれど、不安で蛇行しながら、ガラスへとゆっくり近づいていった。
とりあえず最初は無難に、背ビレを見せて泳いでみよう。それでガラスの半分まできたら、くるっと一回転して、相手の様子をみてやろう。
そういう作戦で僕のショーはスタートした。
少し遠目の距離から腰を振ってスピードをつけ、身体をくるりと横に倒す。背筋をぐっと伸ばして、自慢の黒い背びれと胸ビレを目立つように伸ばした。観客の前を通る時はなるべく動かず、優雅に滑るようにするといい。
すぐに背中の方から、子供の歓声が聞こえてきた。
これで僕の最初の緊張が解けた。ビクビクしすぎて、損した! いたずら好きの仲間に脅かされただけだったんだ。それではと、予定通りなめらかに、身体をくるりと回転させていく。
流れていく景色の中で、左目の端から人間の顔がたくさん、視界に入っていく。見れば大人も笑っている。今回は僕が仲間内で一番じゃないかって思った。
回転が終わろうとしていたその時、僕は喜んでいる子どもたちの顔と顔の間に、まったく違う物をみてびっくりした。
女の子だった。その子は他の誰ともまったく違う表情をしていた。
僕は仲間から、人間の
だからわかった。女の子はまったく笑っていないって。
僕たちは偉くって、強くって、格好いい。大人になったら人間を「笑顔」にする為に、ここで頑張っていると思っていた。
なのにあんな顔をする人間を見てしまった。まだ子供の僕には、そんな心の準備が出来ていなかった。
そうだ、まだ子供だから、未熟だから駄目なんだ。
往復の半分を終えた僕は、さっそく奥の手を出すことにした。すぐに
けれど現実はそれを許してくれなかった。僕は二つの失敗を犯していたんだ。
ひとつは、紐を取るのに夢中になって、息継ぎするのを忘れていた事。もうひとつは、そもそも今の僕が友達みたいに、機敏で正確に泳げない身体だって事。
いきなり息が苦しくなって、呼吸をしようと水上に急いだ時にはもう遅かった。乱れた水流のせいで、ロープは僕の柔らかい体に、螺旋状に絡んできていた。
溺れてしまうと焦った僕は、弱い助け声をあげた。
異常を感じた仲間たちが、必死に水上ジャンプを繰り返した。おかげですぐに人間たちがプールに飛び込んできて――情けないけど――助けてくれた。二人の人間に挟まれて、僕は小さな家へと引っ張られて行った。その時に横目で見ていたけれど、ガラス越しの子供達の様子はわからなかった。
ママには散々怒られた。
その晩、僕は友人たちにガラスの前で何があったかを訊いてみた。そうしたら二人とも「大人が持つ四角い箱の強烈な光で、目がくらんだ」という同じ答えだった。
僕は笑われるのを承知で、自分の体験を話してみた。そうしたら顔を見合わせた仲間に、本気で
馬鹿だな、人間の子供なんて、どれも同じにしか見えないよ。
だから僕はそれ以上、何も言わなかった。
僕は水面にプカプカ浮かびながら、ずっと考え続けた。水上に映るゆらゆら揺れる丸い月。丸い顔の子どもたち。赤いボール。
あの子を笑顔にできなかった悔しさとか、未熟な自分への情けなさ。そんなもやもやした想いもあった。
けれど、もっとすごく深い所で気づいた不思議なことが、心から離れなかった。
どうしてか僕は、女の子のあの顔に、出会ったことがある気がしたんだ。
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