4. きっかけ
それからしばらく、僕にあの大きなプールで泳げるチャンスは来なかった。
それどころか、ひとりだけのプールに閉じ込められてしまった。いつもは優しい人間たちだったけれど、さすがに僕の行動に怒ったんだろうなって思った。
でもときどき来てくれては、頭を撫でてくれたりした。本当は心配してくれてると気づいてからは、僕もあんなイタズラはやめようって思った――しばらくはね。
僕が練習できないあいだ、友達たちはどんどん成長して、技を覚えていった。
いちばん上手にできる一匹は、大人たちのショーに少しだけ出て、人間たちにジャンプをお披露目したんだ。
ますます開く友達との差。面白くないな…青いネットの後ろで、弧を描く仲間たちの妙技をただ眺める毎日は、本当に退屈だった。
そんな僕を見かねてか、人間たちは粋な計らいをしてくれた。
僕の部屋の、青い壁のひとつに穴をあけて、道を作ってくれたんだ(最初から穴が開いていたのかもしれない。だって何となく壁が薄い気がしていたから)
たぶん、お腹を見せて退屈さをアピールし続けたのが、効いたんだと思う。
そのトンネルを泳いでいくと、先にはまた小部屋があった。角がない丸い部屋で、いままでの所よりも狭く感じた。だけどそこには、前の住処にはない仕掛けがしてあった。
ガラスの壁だ! 僕は嬉しくなってケラケラ笑い、水面から飛び出そうになった。
壁の外は暗くて、最初は良く見えなかった。けれどその暗闇から、ときどき大人や子どもたちが来て、僕を指差し、笑い、そして去っていく。あの大きなガラスの外と比べたら、ここに来る人間なんて数える程しかない。しかも天井までガラスがあるから、僕も人もお互いに音が全然聞こえないみたいだ
それでも良かった。退屈がなくなるんなら大歓迎だ。この場所を独り占めできて、人間は僕
こうしてこの遊び場での僕の毎日が始まった。
本当はジャンプの練習への未練を捨てていたわけじゃない。でもこの狭い場所では、とうてい叶わない。だから僕は違うことを頑張った。
僕にはいろいろな遊びのアイディアがある。閉じ込められて暇だからといって、ただ浮かんでいたわけじゃない。この柔らかい頭の中で、たくさん研究していたんだ。
口から小粒の泡を出しながら、ヒレをなるべく立てて、クルクル回って泳ぐ。そうすると水の玉が身体にまきついて、模様みたいに見えるって知ってる?
水面に浮かんでる時に、いきなり力を抜く。するとゆっくりと周りながら底に向かって落ちていくんだ。水底ギリギリまで沈んで、子どもたちをできるだけ心配させたら、一気にバネを使って猛スピードで泳ぎ去る。復活した僕を、彼らが笑顔とパチパチで迎えてくれた。
こうして毎日、技を考え、披露していくうちに、気づいた。何だか最初の時より、僕を見に来る人たちが増えている気がした。
気のせいじゃない。だってガラスの前に張り付いている、子供と子供の隙間が少なくなってる。そして背後に立っている大人たちのも。
僕は得意になった。ここはいい。僕だけの場所、僕だけのお客さん。いらっしゃいませ。ここに来れば、毎日違うものが見れますよ!
その日はいつもより人が少なかった。
まだ朝だったし、前の日が特に混んでいたりすると、翌日にそういう時がある。
昨日張り切ったせいもあって、今日は練習を休む日にしていた。
仲間たちも同じ気分らしく、水音は聞こえない。もうひとつのプールでゆったりと、大人しくしているようだった。
浮かんでは沈みを繰り返して、肌に流れる水の感触に身体を預ける。こうしていると、耳がとても良く通り、いろいろな音が僕の柔らかい頭に入ってきた。
繰り返し弾ける泡たち、仲間の歯のカチカチ、つながっているどこかのプールで聞こえる、リズミカルなこする音の繰り返し――これは人間が棒で掃除してくれてる時に聞こえる。そして硬くて規則的なコツ、コツというとっても小さな音。
くるりと上半身を回転させて、頭をガラスの方に傾けた。いつの間にかそこに、影がひとつあった。
人だ。一人だけ。とても小さい。頭にフワフワな赤い物をかぶって――人間は寒がりだから――赤い「服」を着ていた。
プールの向こう側の床に座り、気だるそうに寄りかかりながら、細くて小さな指をガラスにあて、リズムを刻んでいた。
コツ、コツ。
僕は驚いた勢いでもう一回転してしまった。あの女の子じゃないか!
そして今日もぜんぜん、笑顔じゃない。
その子は、こんなに大きい僕が動いているのに、気にもしていないようだった。ごはんを食べれるとは思えないぐらい、小さな口。それを少し動かしながら、ひとり喋っているように見えた。
いったんプールの端までいき、そこからゆっくりと、お腹を見せながら、通過してみる。ごく自然に、相手を見ていない様子で。
駄目。僕の白い肌にも反応なし。
僕にだって少しは誇りがある。ちょっと脅かしてみようと思い、奥からスピードをつけて、ガラスに向かってぐんと迫った。急旋回して水面までターン。これでどう?
そこで女の子が、やっと顔をあげた。やったと思ったけれど、違う。彼女の興味は頭のフワフワの事だったみたいだ。
僕は完全に自信を失っていた。もう外の世界が見えない、青い壁の部屋に戻ろうと、通り道の位置を探る音を頭から出した。
いきなり女の子に動きがあった。指の動きをやめ、こっちを見ている。それだけじゃなくて、ちゃんと首を動かして泳ぐ僕を追いかけていた。
さすがに笑ってはいない。けれど初めて見せるその子の表情に、僕はドキドキした。
でもなぜ? あまりにも日常の事なので、何もしていないのにと思っていた。そうじゃない。僕はもう一度その「きっかけ」を試してみた。
コツコツ
少し早めのリズムでしっかりと、硬い音が帰ってきた。スゴイや! この女の子、僕の音が分かるんだ!
興味津々の僕は、ゆっくりと降りていって、口がガラスに付くギリギリの所まで、その子に近寄ってみた。
長い前髪に隠れて見えなかったその子の目が、初めて見えた。黒くて丸い、綺麗な瞳が二つ。僕が大好きなボールにそっくりだった。
少女は何か言いたげに口を動かすけれど、僕にはわからない。
ごめん、コツコツしかわからないんだよと、言うつもりで、音を返した。
女の子は少し考えると、顔をあげて近づけた口をゆっくり動かしながら、ガラスを叩いた。
コッ・コ
そして自分に向けて指をさした。
最初の音は少し強く、次の音は触れるぐらいに弱く。何か伝えたかったのだろうけれど、読み取れたのはそこまでだった。
女の子が急に振り向いた。黒い大きな靴が二つ近づいてくる。大人だった。二人は何か強く言いあっているようだ。
僕がもういちどプールを一周して戻ってきた時、その子は後からきた大人に抱きかかえられ、歩み去るところだった。
暗がりに消える彼女は、少し寂しそうな顔をしていた。
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