第166話

「……本当に——」


もうすぐ稜線の向こう側へ沈んでいってしまう太陽の、最後の光に反射して虹色に輝く瞳をそっと向けて白月が呟く。



「……本当に、なってくれるの? ……私の、唯一の理解者に……私の “特別” に……」


「あぁ、なってやる。お前だけの特別に。……何があっても、お前を決して1人にしないと、あらゆるものに誓ってやる」


強く、静かに、そう言い切る。



俺は今日から……いや、今この瞬間から、白月蒼子だけの特別になる。


例え、この先にどんな運命が待ち受けていようとも、その全てを薙ぎ払い、前へと進んでいくとここに誓おう。



しかし、それでもなお、白月は顔を俯かせる。


まだ、何か納得のいっていないことがあるのだろうか。俺の知り得ない何かが、白月を捕らえて離さないとでもいうのだろうか。


そんな漠然とした不安を覚えていると、長い前髪で顔を覆うように隠す白月が、掠れるような小さな声を発する。



「それなら……ちゃんと証明して……」


「証明?」


思わず訊き返す。



「……皇くんが、私の特別になってくれるっていう、……確かな証明」


そう言って少しだけ顔を上げた白月の瞳からは、明らかな羞恥の色とひとつまみの期待の色が窺える。


この場面で、わざわざ「何を」なんて尋ねるのは流石に野暮だろう。


俺は息を止めて脚を前に出し、白月との距離をぐっと縮める。すると、白月の顔が先程よりもよく見えるようになった。



1本1本がしなやかで真っ直ぐな黒い髪。

ぎゅっと強く閉じられた瞼と長い睫毛。

精巧に作られた人形のように白くきめ細やかな肌。

桜色の艶やかな唇。


彼女を作る1つ1つのパーツを眺めていると、樹や花や夜の匂いとは異なる、甘い香りが鼻腔をくすぐった。耳を澄ませば、白月の息遣いが微かに聞こえてくるようだ。



今まで、これほど近くで白月の顔を見たことがあっただろうか。


こうして、改めて白月という存在を強く意識すると、途端に体が熱くなった。心臓の鼓動もやけに煩い。



……いっそのこと、心臓が止まってしまえばいいのに。



それでも俺は呼吸を繰り返す。


自分が今、こうして初めて得た感情と向き合えていることに感謝しながら、固まる白月の肩に手を乗せる。


服越しだが、白月の肩からは掌を介して確かに俺と同じような熱を感じた。


俺はそんな、何かを待っているような白月に目を向けて覚悟を決める。



そして……。




「—— “蒼子”」


一瞬、時が止まったように感じた。



「……えっ?」


白月は何か言いたげな瞳をこちらに向けながら、予想とは何か異なることが起こったという戸惑いの声を洩らす。



「……ねぇ、皇くん」


あぁ、分かってる。

白月が何を言いたいのかは、しっかりと。

……けど、少し待ってくれ。


俺は言い訳じみた言葉を白月に返す。



「……今の俺には “それ” は無理だ。……だから、今はこれで勘弁してくれ」


『それ』だの『これ』だの、この会話を第三者が聞いたら、きっと何を言っているのかさっぱりだろう。とにかく、白月にさえ分かればそれでいい。


そんなことを考えて目線を彷徨わせていると、目の前に立つ白月から深いため息がこぼれた。



「それで、 “蒼子” なの?」


「…………」


返す言葉が見つからず沈黙する。

先程までの熱い汗が、冷や汗に変わっている。



「全く……」


そう言って白月……いや、蒼子は再び息を吐く。


あぁ、今回ばかりはこいつの言う通りだ。あれだけ言いたい放題言っておいて、肝心なところで逃げを選ぶなんて、情けないと自分でも思う。蒼子が呆れるのも無理はないだろう。


……これは失敗したな。



すると、そう思っていた俺の予想に反して、蒼子は今日一番の笑顔を浮かべて言った。



「でも、ヘタレな皇くん……いえ、 “晴人くん” にしては頑張った方だと思うわよ」


まるで揶揄うように向けられたその笑顔は、俺が昔大嫌いで、今は少しだけ好きになった彼女のもので間違いはなかった。


俺はそんな彼女の言葉に小さく笑みを浮かべると、今一度、彼女に向かってあの言葉を投げかける。



「帰ろう、蒼子。葉原が待ってる」



彼女はそれに対しにこりと微笑むと、手すりから手を離し歩き出した。


展望台から小さく見える、陽だまりのようなあの場所へ向かって——。

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