第8話


「ねえねえ、どうどう? 面白かった?」

 千尋は缶コーヒーを片手に、同人誌を読む箏子に訊いた。箏子はページを捲りながら、

「まだ読んでる途中や。そう急かさんとき」

 三分おきに千尋は感想を催促してくる。落ち着いて読むことも出来ない。ただ、千尋の気持ちも解るだけに、箏子はことさら邪険には扱わなかった。

 放課後の文芸部の部室にはもう二人だけしか残っていなかった。他の部員は勿論、部長の福本も、部室の鍵を千尋に預けてさっさと下校してしまっている。

 文芸部が作った新入生歓迎号の同人誌に、千尋の小説はちゃんと載っていた。締切に無事に間に合ったのだ。かなりギリギリだったが、徹夜して何とか完成まで漕ぎ着けた。

 千尋は諦めたのか、溜息を吐いて缶コーヒーを一口飲んだ。微糖のはずだが、予想以上の甘ったるい味が舌の上に広がる。ブラックにしておけば良かったと今更ながら後悔した。

 まだ時間が掛かるだろうと思った千尋は、椅子から腰を上げた。飲みかけの缶を机に置き、窓辺に寄って、沈み行く夕陽を眺める。夏はまだ遠く、陽の光は柔らかい。

「結局、桜の呪いって本当だったのかな?」

 千尋は手を後ろで組んで、独りごちるように言った。箏子の耳にも入っているはずだが、反応はない。

「重富先生も足を骨折しちゃったし。ねえ、知ってる? あそこ本格的にバリケードが張られたんだよ。もう絶対近寄れないね」

 勿論、箏子もそのことは知っていた。重富が骨折した現場に居合わせたのは、何を隠そう彼女だからだ。だが、彼の骨折は呪いでも祟りでもない。重富は自らの手で、自身の足を折ったのだ。桜の呪いと言ったころで、普通ならば誰も相手にしてくれない。ただ、実害があるのなら話は別である。祟りが本当であろうとなかろうと、少しでも疑念が湧けば、大人は動く。特に生徒を預かっている教師なら。万が一を一番恐れるのは彼等である。

 だから、重富は自らの身体を傷つけ、それが桜のせいだと暗に仄めかした。二之宮高校の最長老格である彼の言葉だけに無碍にも出来ず、バリケードの強化という対策が採用された。

 それが重富にとっての責任のとり方なのだった。重富が直接口にした訳ではなかったが、箏子はそう解釈していた。

「桜の花も散ってもうたらしいな」

 箏子はページを捲り、文章に目を走らせながら呟いた。開いた窓から吹き込む春風が、彼女の短い髪を僅かに揺らす。

 桜の老木は、箏子達が帰ってきた途端、その役目を終えたが如くに萎れてしまった。あの不気味な枝には、若葉も生えていない。眠りについてしまったかのように。

「噂も怪談も所詮は作り物だったってことね。なんか浪漫がないなァ……」

 千尋は残念そうに溜息をついた。

 常世に連れ去られた時のことを、千尋は全く覚えていなかった。だから、箏子もあれは無かったこととして、敢えて話していない。知らない方が幸せなことなど、この世には幾らでもある。あの体験が、千尋にとってそうであるように。

「ま、全部が全部そういう訳やないと思うけどな」

 箏子は呟くと、本をパタンと閉じ、大きく伸びをした。机の上の缶コーヒーを手にとり、フラリと部室を出て行く。ポカンとそれ眺めていた千尋は、慌てて彼女の後を追った。

「ちょっと、まだ感想聞いてないわよ!」

 部室を出ると廊下があり、校庭へと続くドアがまだ開いていた。箏子は上履きが汚れるのも構わず、そこから校庭に出た。千尋の飲み残しの缶コーヒーを勝手にグビリと飲んで、空き缶をプラプラと揺らす。

 足音で追いかけてきた千尋に気付くと、振り向いて彼女の顔を凝ッと見つめた。その真っ直ぐな視線に、千尋は思わずドギマギしてしまう。

「……ベタな筋やけど、うちは嫌いやない」

 微笑を浮かべて、箏子は言った。それは今まで千尋が聞いた中でも最大級の賛辞だった。

 千尋は顔を綻ばせて、思わず箏子に飛び付いていた。夢が一つ叶ったのである。大袈裟すぎる反応に、箏子は驚きを通り越して呆れたように笑った。

 その時、眼前を薄紅の何かが過ぎった気がして、箏子は咄嗟に手を伸ばし掴み取った。

 しかし、開いた掌には何も無かった。ただ虚空があるだけだ。

 薄紅の幻影はもう存在しない。最初から何もなかったかのように。

 散るが花の美、散るが花の宿命――箏子はぼんやりとそんなことを考えながら、暮れ泥む世界に過ぎゆく春の気配を感じていた。

                                    


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魔櫻 志菩龍彦 @shivo7

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