第7話


 真っ暗な空の下、何十、いや、何百、何千という桜の樹が見渡す限り広がっていた。

 まさしく桜の森の満開の下に、箏子は立っていた。

 だが、自身の足で立っているという感覚が曖昧で、むしろ宙に浮いているという表現の方がしっくりくる。実際、箏子の空間把握能力は機能していないに等しく、桜の花が頭上にあるので、自分は地面に立っているのだと思っているに過ぎない。

 思い切って一歩踏み出してみるが、やはり硬い地面の感触はない。何かを踏んでいるような気もするし、しない気もする。視神経が捉えた映像をもとに、脳がそう錯覚させているだけで、地面など存在しないのかもしれなかった。

「千尋。何処におるんや……返事せェ!」

 兎に角、叫んでみるが、その声は遙か彼方まで飛んでいくだけで、全く反響しなかった。この空間自体が果てもなく広がっているかのようである。

 箏子は自分が出てきたと思われる、桜の幹に触ってみた。やはり不確かな感触しかない。

 もはやそこに門となった亀裂はなく、ただの桜に戻っていた。

 落ち着くことがまず必要だった。箏子も常世に来たのは初めてである。そもそも、常世という世界からしてよく解らないのだ。この世でもあの世でもない場所。イメージのしようがない。どうやって元の世界に帰るかも重要な問題である。

 だが、それよりも先に千尋を見つけなければならなかった。彼女を助けるために、常世にやって来たのだから。

 箏子は取り敢えず桜の森を歩いてみることにした。じっとしているのは時間の無駄だったし、何より恐ろしかったからだ。

 先日、千尋に借りた本にも書いてあった。本来、桜は恐ろしいものだったと。特に人のいない桜という光景は。

 しかし、行けども行けども、目の前の風景は変わらない。ただ、桜の樹が続くだけだ。

 随分と歩いたところで、箏子は違和感を覚えた。どれだけの時間が経過したのか解らないが、一向に足が疲れないのだ。地面が柔らかいせいかとも思ったが、そもそも時間がちゃんと進んでいるのかすらはっきりしない。

 ふと、自分は同じ桜の樹の周りをグルグル回っているだけなのではないかという恐怖に襲われた。目に映っている世界は幻なのではないかと。

 疑い出せばきりがない。人間は五感を使って世界を把握し、構築している。それが働かなければ、世界は存在しないのと同じである。

 ならば五感は捨てるべきだと、箏子は気付いた。そもそもが、第六感によって入ってきた世界である。ならば、第六感で世界を知覚しなければならない。

 箏子は目を瞑った。意識して、耳、鼻、舌、触覚、全てを閉じた。

 何も見えない。何も聞こえない。何も匂わない、何の味もしない、何の感触もない。

 一旦、五感の全てを機能停止させ、第六感だけで周りを感じるのだ。

 修行僧のように、箏子は心を無にさせた。肉体の感覚を捨て、ただ第六感だけを信じる。

 どれだけそうしていたか、やがて何かが見えるようになってきた。地響きや獣の咆吼、話し声も聞こえてくる。目も閉じ、耳も塞いでいる。それなのに、見えて、聞こえる。

 箏子の目の前を、巨大な二本足が通り過ぎていった。足は人間の頭部から直接生えている。老人の顔をしたソレの眼窩から飛び出しているのは、何枚もの光る白い羽根だ。

 空の上では長大な百足が、身体をくねらせて泳いでいる。足は人間の指で、百足が動くのに合わせてピアノを引くように滑らかに踊っていた。

 足下では、数体の四肢のある時計がガチャガチャと耳障りなお喋りをしている。彼等が話す言語は、少なくとも人間のものではなかった。言葉というより歯車の軋む音だ。

 焼け焦げた空には、オレンジ色の三つの太陽が輝いていた。

 悪夢のような光景だった。まるでヒエロニムス・ボスの絵画のような世界。

 箏子は足が竦んで動けなかった。ガタガタと体中が震えている。悲鳴も出ないのが逆に救いだった。

 こんなバケモノが蔓延る世界など想像していなかった。これが第六感によって知覚される、常世だというのか。

 桜の森は消え失せてしまっていた。あれは幻影に過ぎなかったのだ。箏子の五感が作り出していた幻。

 呼吸すら止めて、ただ心の眼によってバケモノ達を見ていた箏子は、ふと妙なことに気付いた。

 バケモノ達は、自分以外の存在にまるで気を払っていないのだ。バケモノ同士が近寄っても、何が起こる訳でもない。同じ種類の連中は意志の疎通が出来るようだが、別種となると、そもそも存在していることにすら気付いていないようである。

 箏子の中で何か閃くものがあった。今まで体験したことを総合すると、ある可能性が浮かび上がってくる。

 世界は感覚によって構築される。感覚器がとらえた情報をもとに、世界が作られるのだ。独我論的ではあるが、自分がいなければ何も存在しないに等しい。

 バケモノ達は自分を主体とした世界にただ存在しているだけなのではないか。だから他のバケモノを認識出来ない。存在しないのと同じだからである。

 しかし、箏子には全てが知覚出来る。奴らと自分との違いは何なのか。あるとすれば、物質としての肉体を持ち、まだここへ来て時間が経っていないということである。

 全ては情報なのだ。このキメラ的なバケモノ群は、解体された上で再構築された情報の塊である。より相応しい言葉で言えば、霊体或いは魂だ。奴らもかつてはマトモな姿をしていたに違いない。だが、胃液に消化されるように原型の情報は崩され、それでも消えない自我が出鱈目に情報を吸収し、身体を作ろうとして出来たのが、あの異形なのである。

 つまるところ、常世とは情報の海なのだ。

 あくまで仮定の話だったが、箏子にはもうそれしかなかった。第六感のみを頼りに、バケモノの宴のど真ん中を突っ切って行く。

 誰も箏子に気付かない。誰も箏子を知覚出来ない。もはや意識なき情報の塊と化した者達には。

 バケモノの一匹がスッと消えた。舞台上のスポットライトの光が消えるかのように。

 一匹、また一匹と奴らは消えてゆく。太陽は光を失い、自我なき世界は崩壊する。

 常世では己こそが神なのである。第六感で消せぬものなど、造れぬものなどなにもない。

 全てが闇に消えた後に残ったのは、一本の桜の樹だった。

 血に似た赤い花を咲かせた樹の下に、千尋が倒れ伏していた。

 まだ確固とした自我を持つ千尋の情報は解体されていなかった。この千尋は箏子が再構築させたものではない。本物の千尋の魂とも言うべき存在だった。

 箏子はゆっくりと近付くと、千尋の身体を抱き起こした。額にかかっている髪を優しくどけてやり、少し涙の滲んだ目で彼女の顔を見つめる。

「心配かけて、ごめんな。結局、うちが巻き込んでしもうた。怖かったやろなァ……」

 聞こえていないと知りつつ、呟きながら、箏子は千尋の頭を抱き締めた。

「ちーちゃん、うちらの世界に帰ろう」

 箏子は千尋の手を握り、強く念じた。望んだ。願った。

 サッと一陣の風が吹いて、舞い落ちる大量の桜の花弁が、二人の身体を覆い隠す。

 花弁は、やがて彼女達の身体から剥がれ落ち、地面を斑に染めた。

 箏子と千尋の姿は、もう掻き消えていた。

 あとにはただ、薄暗闇の中、満開の桜が残されているだけだった。


                              つづく

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