第6話
頭の中を何かが過ぎった衝撃で、箏子は目を覚ました。
瞳に映るのは白い天井。周りはカーテンで囲まれていた。背中の柔らかい感触で自分がベッドに寝かされているのだと解る。深呼吸をすると、消毒液の匂いがした。
ここが保健室だということに気付くのに、箏子は一分近くを要した。回転の遅い頭で、自分がこんな所にいる理由を思い出そうとし、慌てて跳ね起きた。
桜の老木のところで記憶はプッツリと途絶えていた。
そして、覚醒の切欠となったあの衝撃。誰かの悲鳴だろうか。いや、声など聞こえはしなかった。だとすれば、それは受信した思念だ。それも極身近な人間の。
箏子の胸の中で言い様の無い不安が湧き上がってくる。虫の知らせ。それも最悪の。
箏子はベッドから降りようとしたが、手に力が入らず、盛大な音を立てて床に落ちてしまった。手足に力が入らない。重い風邪を引いた時のような怠さが全身を襲っていた。
「どうした、大丈夫か吉備津」
サッとカーテンが引かれ、男の顔が中を覗き込んで来た。箏子と一緒にいたはずの重富だった。
心配そうに重富は箏子を抱き起こした。彼のズボンの膝頭が泥で汚れている。箏子を助ける際に地面に膝をつけたせいだった。彼が箏子をここまで運んだのである。
「保険の先生は貧血だろうと言っていたが、無理はするな。ちょうど今、席を外しているが待っていなさい。呼んで来てあげよう」
箏子をベッドに座らせ、保健室を出て行こうとする重富に、
「重富先生、うちを桜の所へ連れて行ってください」
弱弱しい声で、箏子は言った。事態は一刻を争う。彼女の勘がそう告げていた。
「何を言い出すんだ。無理しちゃいかん」
戻ってきた重富は、当然のように反対した。教師、大人としての義務感か。否、それだけではないはずである。箏子はそれを見抜いていた。
これまでにないくらいに、箏子の能力は冴えていた。他者の心すら読める程に。
どんな説明をしたところで、重富を動かすことは難しいだろう。だから、箏子は一番効果のある言葉を使うことにした。
「桜の……常世の門が開きました」
その単語を聞いた瞬間、重富の顔が強張った。ブルブルと手を震わせ、箏子を凝視している。何故、彼女がそんなことを知っているのか、まるで理解出来なかった。
「うちを……おんぶしてください。早くしないと……千尋が……」
上目遣いに懇願してくる箏子の前で、重富は身体を硬直させていた。咄嗟にどう動くべきか判断が出来なかった。普通だったなら、彼女の言葉を一笑に付していただろう。
だが、重富には箏子が嘘や冗談を言っている訳ではないのだと、確信が持てた。伊達に何十年も教師をしている訳ではない。生徒の言葉の真偽の判断くらい容易につく。
蛍光灯がパチパチと音を立てて明滅していた。外はもう夜の帷が下りかけている。
重富は決心すると、箏子に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「……乗りなさい。急いでいるんだろう?」
身体を引き摺りながら箏子が重富の背中に乗ると、その身体をしっかりと支えて、彼は保健室を飛び出し、校舎裏へと走った。
まだ校内に残っている教師や生徒達が、すれ違う度に怪訝な顔で二人を見たが、重富は少しも気にならなかった。そんなことに構っている場合ではないということが、箏子の必死さから察せられたのだ。
おぶわれた箏子は、重富に体重を預けてぐったりとしていたが、ふと呟くように、
「この土地は、元元、重富先生の家の……ものやったんですね」
衰えた身体に鞭打って走る重富に余裕はなかったが、
「そうだ。重富家の土地だ。売ったのは私の父だが、真逆、学校が建つなんて思ってもみなかった。父は勿論、私もだ」
いままで誰にも話したことはなかった。妻や娘にすら。あの桜のことを知っているのは、宮司である重富家の長男だけであり、彼がその最後の人間となるはずだった。
だからかもしれない。誰にも打ち明けられなかった自身の重い役目の話を、娘よりも若い少女に簡単に話してしまっていた。
「父は桜を監視していた。私も同じだ。教師として高校に残り、ずっと監視をして来たんだ。あれに誰かが飲み込まれないように」
例え神社がなくなったとしても、宮司としての責務は変わらない。戦時中、B―29の爆撃にすら耐えたあれは、人間の力ではどうすることも出来ない代物である。だとしても出来る限りのことはしなければならない。それが重富家の宿命だった。
「変な噂を流したのは……」
「ああ、私だ。あそこに人が近付いては不味いからね。怪談として、こんなに長く語り継がれるとは思いもしなかったが」
咲かないはずの呪いの桜。一歩間違えば人を引き寄せる怪談だが、実際多少なりとも効果はあった。近寄る人間は殆どいなかったし、常世へ消えた生徒は一人も出なかった。
「家に伝わっていた文書は戦災で全部焼けてしまった。だから、私も父からの口伝でしか知らないんだが、桜が常世の門になるのは、花を咲かせた時だけなんだよ」
短い距離だが足はもうガクガクで、心臓が爆発しそうだった。それなのに口だけはスラスラ動くのが、彼自身にも不思議でならなかった。全て話して楽になりたかったのかもしれない。
「あの桜はずっと咲いていなかった。父の代でもだ。曾祖父の代、明治維新の頃に一度咲いたという話は聞いたことがある。何時、花が咲くのかは重富の人間にも解らないんだ」
所詮、人類には計り知れない異物だというのが重富の見解だった。科学がいくら発達したとしても、解明出来ない領域の存在。出来るのは禍が起こらぬように祈るだけ。しかし、それこそが本来の神の姿なのだ。理解の及ばぬ畏怖の象徴こそが、神なのである。
校舎裏に着いた途端、重富はだらしなくその場に倒れ込んだ。箏子のことを考えて前のめりに倒れるのが精一杯だった。
箏子は重富の背中から転げ落ちると、その場で仰向けになって天を見た。金星の輝く空に、白い満月が浮かんでいる。あの時の情景によく似ている。
膝に力を入れて、箏子はゆっくりと立ち上がった。
ほのかな月明かりがあるだけで、視覚的には殆ど何も見えない。だが、今の箏子には全てが知覚出来た。五感ではない、もう一つの感覚で世界を捉えているからだ。
そして、地面に落ちている赤い眼鏡を見つけた。これで、疑念は確信へと変わった。
息も絶え絶えの重富に出来ることは、もはや何もなかった。あるとすれば、ただ、箏子を見守ることだけである。
箏子の精神がドンドンと研ぎ澄まされていった。漠然としていた意識が針のように鋭くなっていく。念によるエネルギーが渦を巻いて彼女の周囲に震動を起こす。
そうして生み出された念波をありったけの力で桜にぶつけた。
箏子は神に命令した――『門を開けよ』と。
桜の枝が猛烈な勢いでざわめき、伸びたかと思うと、箏子の身体を抱え込んだ。
老木の幹には、何時の間にかパックリと大きな亀裂が出来ていた。一切の光を許さない、底無しの闇が口腔を開いていた。
箏子は身体を絡み付く枝の望むままに任せた。いや、これこそが箏子の望みなのだ。桜は彼女の思念に応じたに過ぎない。
常世の門の中へ、箏子は自らの意志で入っていった。
つづく
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