第5話
「しかしまあ、支倉もよく辛抱出来るもんだな」
箏子のいなくなった部室で、同人誌を読んでいた福本が何気なく言った。
千尋は小説を書く手を止めて、汗をかきながら扇子を扇ぐ福本に目をやった。福本は扇子を閉じ、先程まで箏子の座っていた椅子を指しながら、
「吉備津君だよ。別に非難してるんじゃない。唯我独尊というか、僕にゃァ無理って話さ」
恐らく福本以外の殆どの人間が、箏子に対して同じ印象を持っているだろう。そもそも、人付き合いをしない上に愛想が悪いので、彼女と関わろうとする人間自体が少ないのだ。
「ぶっちゃけ自分勝手ですからね。あれは本人が悪いです。友達作る気とかないし」
苦笑しながら千尋は、福本の箏子評を肯定した。それが意外だったのか、福本は少し目を丸くする。てっきり擁護するものだと思っていたからだ。
「私も本当はこっちの人間じゃないんですよ。生まれは九州なんです。箏子と一緒で、中学に入る時に余所から引っ越して来たんですよ」
「でも、支倉は訛りとか全然ないよな。吉備津君は関西弁だけど」
意地でも訛りを直さないところに、箏子の我の強さが表れていた。自分を曲げるということが極端に嫌いなのだ。そのせいで、受けなくてもいい中傷を受けることもしばしばである。
一方の千尋は、訛りもすぐ直したし、社交的故にあっさりと新しい場に馴染むことが出来た。相手を立てるのが上手く、味方は作っても敵は作らない性格なのだ。箏子とは極めて対照的である。
しかし、千尋と箏子は他人が首を傾げる程に仲が良かった。同じ時期に転校して来たもの同士だったからかもしれない。お互いが、この土地で一番付き合いの長い人間だった。
一緒に過ごす時間が長ければ、色色と見えないものが見えてくる。相手の悪いところも、良いところも。
「ああ見えて優しいんですよ。私のこと心配してくれますし。まあ、小説は誉めてくれませんけど……」
千尋は大袈裟に肩を落としてみせた。箏子にはよく出来上がった小説を見せるのだが、返ってくるのは「よくわからん」「普通」という喜べない感想ばかりである。何時か、彼女に「面白い」と言わせるのが、千尋の目標だった。
「支倉の書いた奴、僕には充分面白いんだけどなァ。ま、人の感性はそれぞれだからね」
福本が慰めるように笑った時だった。
いきなり、勢いよく部室のドアが開けられた、ギョッとして二人がそちらを向くと、千尋と同学年の文藝部員の男子生徒が、肩で息をしていた。全力で走ってきたらしい。
何事かと福本が問う前に、彼は千尋を手で招き寄せながら、
「おい、支倉。吉備津が倒れたって騒ぎになってるぞ。校舎裏の方だって」
彼は同学年だけあって、千尋と箏子の仲を知っている。だから、この情報を一番に千尋の元へと届けてくれたのだ。
言葉の意味を理解した瞬間、千尋は部室を飛び出していた。
部室から校舎裏の桜の所までは、走って一分もかからない。すぐに辿り着けるはずだが、千尋の頭の中は混乱してまともに思考が出来ないでいた。
何故、箏子が倒れたのか。危険だといって、自分が桜に近付くことを禁じていた箏子。そんな危険な場所に、何故箏子は一人で向かったのだろう。いや、何故、自分は止めなかったのだろう。彼女が特別な力を持っているのは知っている。それが原因なのだろうか。
何故、何故、何故――そればかりが頭の中でグルグルと回転している。
鼓動が速いのは走っているからだけではない。拭えない不安が加速させているのだ。
現場に着いた千尋は、汗で曇った眼鏡を気にせず、箏子の姿を探した。
しかし、校舎裏の桜の前には誰もいなかった。箏子の影も形もない。
あの部員が言ったのは嘘だったのか。いや、そんなことをしても彼には何の得もない。
千尋が目を凝らしてよく見てみると、湿った地面には幾つもの足跡が残っていた。大勢の人間が集まっていた証拠である。何か事件でも起きない限り、ここに人が集まるとは考え難い。
千尋は桜に背を向け、呆然と立ち尽くした。
後から後から、後悔だけが押し寄せてくる。箏子は自分を心配してくれたが、自分は箏子を心配していただろうか。小説に熱中するあまり、彼女を軽視していたのではないか。
負の感情が場を支配していた。それが鍵になったのかもしれない。
桜の枝がザワザワと鳴っていた。花を散らしながら、まるで千尋の心に同調するかのように、不気味に蠢いていた。
一陣の風が吹いた。
枝枝は揺れ、花弁は舞い上がり、空間が薄紅色に染まる。
老木のざわめきが鳴り止んだ時、もうそこに千尋の姿はなかった。
腐葉土の匂いがする地面に、赤い眼鏡が落ちているだけだった。
つづく
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