第4話


 足を踏み入れた瞬間、箏子の背骨を冷たいものが貫いた。

 陽が傾いたとはいえ、校舎裏の一画はやはり別の暗さを持っていた。まさしく空間の質が違うのだ。そこだけが海の底のように、胸を絞める圧迫感と外界と遮断されたような静寂がある。

 桜は相変わらず血に似た色の花を咲かせていた。垂れ伸びた枝は、心なしか眼前の者を抱くような形になっている。校庭の桜はとうに散りかけているというのに、いまだにこの一本は咲き続けている。「咲かずの桜」と呼ばれた桜が。

 桜に集中していたせいか、箏子はそこに自分以外の人間がいることに気付かなかった。向こうから声をかけられて、初めて彼がいることを知った。

 皺の寄ったスーツを着た豊かな白髪の男。日本史担当の教師である重富だった。

「おや、君は……吉備津か。関西弁の娘だね」

 箏子は進学コースの関係で重富の授業を受けていない。それでも重富は箏子のことを覚えていた。やはり関西弁を喋る人間という認識で人の記憶に残っているらしい。

 重富はにこりと笑っていたが、箏子はそれが作り笑いであるような気がした。この空間に入ってから、どんどんと感覚が鋭くなっているのが自分でも解る。自身の持つ忌まわしい能力が何かに触発されたかのように。

「先生は何でここにおるんですか?」

 箏子はこめかみ辺りに感じた頭痛に顔を顰めながら聞いた。重富は桜を見上げ、

「これが咲いてると聞いたものだから、驚いてね。君は知らないと思うが、これはずっと花をつけていなかったんだよ。少なくとも、わたしが赴任してからは初めてだ。いや、それよりずっと前、父の代から……」

 そう言いかけて、ハッとして口を噤んだ。顔色を窺うように箏子に目をやり、

「いや、兎に角、珍しいことだからね。これでも郷土史のアマチュア研究家なんだ」

 笑って誤魔化そうとしているが、箏子の胸には既に疑念が渦巻いていた。彼女の能力は、重富の欺瞞を見抜いていた。

 重富は何かを隠している。他人に知られては不味いことを。小娘と言っていい箏子にさえ隠さねばならないこととは何なのか。

 また頭痛がした。まるで頭蓋骨の中で脳味噌が暴れているようだ。その痛さに、箏子の足下がふらついた。足にしっかりと力が入らない。

 流石に驚いた重富が駆け寄り、箏子を支えようとした。貧血を起こしたと思ったのだ。

 明滅する視界の中で、箏子は老木の近くにある地面から突き出した石に、何故か気を奪われていた。あれが何かを教えてくれる。根拠はないが、そんな直感があった。

 だから、わざと箏子は石の方に倒れた。それに触れられるよう手を伸ばしながら。

 やがて、箏子の意識は映画館の灯りが消えるように薄くなっていた。心も体も実体を失い、急速に深海に沈んでいくかのような感覚だけが残っていた。



                 ※



 箏子は桜の前に立っていた。

 頭痛は消え、何処に何があるかが、はっきりと解る。だが、色調がおかしかった。彩度が極端に下がっており、眼前の風景は白黒映画のようになってしまっている。

 それだけではない。桜の周りには鳥居や社があり、校舎は姿を消していた。時刻は夜半か、墨色の空に白い皿の如き満月が浮かんでいる。

 社の近くで、二人の人間がヒソヒソと話をしていた。一人は白装束を着た白髪の男。もう一人は、時代劇に出て来るような髷を結った着物姿の男だった。腰には大小二本の刀をさしている。

 箏子は自問自答する。自分は時代劇を見ているのだろうか、と。しかし、即座にそれを否定した。これは作り物ではない。目撃している光景は今まさに進行しているものなのだ。

 では、今は江戸時代か何かなのだろうか。有り得ない話ではあったが、箏子はそれをあっさりと受け入れていた。そうなのだろう、と。その感覚自体が、すでに彼女が特異な状態にあることの証左だった。

 二人は箏子の姿が見えないらしく、気にもとめていない。それもそうだろう。時間軸上、彼女はここに存在していないのだから。

「宮司、では三宅殿は神隠しにあったと申すか?」

 侍は鼻息荒く、白装束に詰め寄った。それに対し、社を預かる宮司は眉一つ動かさず、重重しく頷いた。

「左様にございます。三宅様が望まれたか、はたまた御神木に魅入られたか……」

 宮司はつと目を箏子に、いや、桜に向けた。桜は満開だった。風が吹く度に、花弁が散り、石畳を覆い隠していく。

「馬鹿馬鹿しい。三宅殿は御家老の甥御だぞ。拙者はなんと申し上げればよいのだ」

 吐き捨てるように言って、侍は地団駄を踏んだ。血走った目は、宮司の顔を睨み付けている。

 会話を聞いている内に、箏子にも大体の状況が飲み込めてきた。三宅という侍が姿を消してしまった。その三宅は身分の高い人間で、この侍はその男の行方を追う仕事を任されているのだ。

 侍が憤るのも当然だと箏子は思った。真逆、上司に「神隠しに遭いました」とは報告出来ないだろう。

 箏子はこの場にいる人間の心の内を読むことが出来た。察するという意味ではない。文字通り表に出ていない心を読んでいるのだ。

「心中お察し致します。しかし、真実のことなのです」

 今にも刀を抜きそうな程興奮している侍を前にしても、宮司は動揺していなかった。毅然とした態度で、淡淡と対応している。侍は怒りに肩を振るわせ、桜を指差しながら怒鳴った。

「御神木などと申すが、ただの樹ではないか。拙者はどうしても三宅殿を見つけ出さねばならんのだ。でなければ切腹の咎すら受けかねん」

 焦りに焦った侍の身体から放たれる殺気にも動じず、宮司は桜に近付いていった。そして、クルリと振り向くと、ハッキリと言い放った。

「この御神木は普通の樹ではありませぬ」

 神聖なものに対する畏怖を込めた目で桜を見上げながら、

「御神木は常世への門なのでございます」

 常世。宮司は確かにそう言った。箏子の耳にもはっきりと聞こえていた。

「常世とは何だ?」

 面食らった様子で侍は訊ねた。彼にとっては耳慣れぬ言葉である。宮司は渋い顔で、頭を振り、

「さて、現世うつしよにあらざる場所としか」

 書物や口伝による知識は持っていても、宮司にもそれがどんな所なのか解らない。

「高天原でも黄泉津比良坂でもございません。人智の及ばぬ場所なのです」

 古事記や日本書紀に記された現世ではない異界。常世もまたその一つである。海の彼方にあるともされ、そこから数柱の神神がやって来た。三輪山に座すオオモノヌシや、医薬を広めたとされるスクナビコナがそれに当たる。

彼等は常世から来た神であると同時に、国作りをした神でもあった。

「我が重富家は上古より御神木を守ってまいりました。二之宮の格を賜っております本宮は飾り。この御神木こそが、重富家が代代守り続けて来たものなのです」

 宮司には矜恃があった。神を奉る者としての矜恃が。武家などには理解出来ないであろうことは彼にも解っている。公家も僧侶も同じである。神を身近に感じ、奉仕する者にしか解りはしないのだ。

 この桜が如何に尊く、そして恐ろしいものなのか。

「くだらぬ。何が御神木か。こんなもの……」

 宮司の態度に業を煮やした侍は、カッとなって刀を抜き放った。だが、狙いは宮司ではない。彼が執拗に崇め奉る桜の老木である。

 侍は思っていた。神隠しなどありはしない。出来るものならやってみろ、と。

 宮司が止めるのも意に介さず、侍は刀を振り上げた。

 箏子はその一部始終を見ていた。彼女の瞳には、はっきりと映っていたのだ。侍がどうなってしまったのかが。

 声にならぬ絶叫が箏子の咽喉からほどばしった。



                 ※



 耳元で誰かの声がする。ぼんやりと箏子はそれを知覚していた。

 箏子は身体を動かそうとしたが、手も足も言うことをきかなかった。人形になってしまったかのように、四肢はその指先まで硬直してしまっている。

 唯一、動かせる眼球でグルグルと世界を見渡す。もう白黒ではなく、鮮やかな色彩が戻っていた。あの場所からは戻って来られたようだ。

 視界の中に男の顔が映った。それで箏子は理解した。二つの世界が繋がったのだ。

 教師の重富が、必死に箏子に呼びかけていた。その顔と白髪は、歴史を遡行した意識の果てで見た男によく似ていた。ここまで来れば疑う余地はない。

 重富は全てを知っている。桜の正体も、その危険性も、何もかも。

 それについて追求しなければならないと箏子は思った。千尋を危険から遠ざける為に。

 しかし、彼女の意に反して、身体は動かず、また周囲の景色もグニャグニャと歪んでいく。無意識だったとはいえ、今までにないレベルの能力の使用が、脳に過度な負担を与えた影響だった。

 箏子は薄れゆく意識の中で、届かないと知りながら、千尋の名前を呼んだ。



つづく

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