第3話
――彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延ばした時にはもはや消えていました。あとには花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした――。
それが『桜の森の満開の下』という物語の最後だった。
自室のベッドの上、俯せの姿勢で文庫本を読んでいた箏子は、パタリと本を閉じると、それを枕元に置いた。それから仰向けになり、天井を見つめながら内容を反芻してみた。
確かに面白い小説である。不気味さと耽美さ、狂気が書かれている。ただ、何か引っかかるものがある。小説の内容ではなく、何故これを千尋が薦めてきたかということだ。
千尋の小説の趣味を考えればおかしいことではない。しかし、校舎裏の桜の件の時によりによってこの小説である。千尋がわざとそうした可能性は低い。彼女の様子では、桜のことに思い到ったのは寸前のことであり、小説とは無関係と考える方が自然だ。
つまりは偶然である。だが、箏子は偶然よりも必然、因果を信じる人間だった。
何かの因縁が作用している。何かが自分を巻き込もうとしている。そんな気がした。
その時、廊下から誰かの足音が近づいて来るのが聞こえた。箏子の家は両親と彼女の三人暮らしで、この家で両親以外の足音が鳴ったとすると、該当する人物は一人しかいない。
「こんちわー。入るよー?」
ノックと同時に部屋のドアが開いて、千尋が顔を出した。学校からの帰りにそのまま寄ったらしく、制服のままである。箏子はと言えば、とうに青色のTシャツと短パンに着替えている。
「なんかしらんけど、ご機嫌やな。嫌な予感しかせェへんわ」
まずは主の許可無く勝手にドアを開けたことを咎めるべきなのだろうが、慣れているのか箏子は特に気にした風もない。それよりも、千尋の妙な明るさが気になった。
「そのパンパンの鞄どうしたん?」
ベッドで胡座をかき、箏子は千尋の鞄を顎でしゃくった。鞄は限界ギリギリまで物が詰め込まれているらしく、通常の二倍近くの大きさまで膨らんでいた。
「これ? 重じいが貸してくれた本とかだよ。桜の小説の資料にって」
言いながら、千尋はクッションを引き寄せて座った。鞄を開けると、バサバサと紙の束やら本やらが勢いよく飛び出してきた。
箏子は重じいが誰を指すのか解らず、首を捻った。生徒の間では常識なのだが、千尋以外と殆ど会話をしない彼女には、聞き慣れないあだ名だったのである。千尋が資料を綺麗に並べたところで、ようやく日本史担当の重富だろうと見当がついた。
「……うち、あれに関わるな言わんかったっけ?」
箏子がドスの効いた声で睨むと、千尋は気不味げに顔を背けた。先程までの脳天気な態度と打って変わって、悪戯の見つかった子供のように解り易く焦りの色が出ている。
何か良い弁解のしようがないかと、千尋は無い知恵を絞ろうとしたが、いきなり頭を叩かれて悲鳴をあげた。
見上げると、手に文庫本を持った箏子が苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。枕元の文庫本で箏子を叩いたのだ。勿論、手加減はしているが痛いことに変わりはない。
「アホか! もう知らんわ!」
憤然と文庫本を千尋に返すと、そのままベッドに戻って寝っ転がってしまった。無言で背中を千尋に向けることによって、直接言葉にする以上の怒りをぶつけている。
千尋は本を手にしたまま、友人に声をかけようとするが、何と言えばいいのかすぐに思いつかなかった。ここまで箏子が腹を立てるとは想像していなかったのだ。
双方とも無言で、ただ時計が時を刻む音と家の外を走る自動車のエンジン音だけが、部屋の空気を震わせていた。
どれだけの時間が経っただろうか、最初に口を開いたのは、千尋だった。
「ごめん……。止めろって言われたのに。本当にごめんなさい……」
箏子の態度も無理はなかった。彼女は、千尋の身を案じたからこそ警告したのだ。その気持ちを無視した以上、千尋には弁解する権利など何も無かった。
千尋は肩を落とし、頭を下げた。箏子が見ているかどうかは関係ない。真剣に心配してくれた友人に対して、こちらも真剣に謝罪するのが礼儀である。
「あの桜にはもう絶対に近付かない。小説のネタにはするけど……絶対にあそこには近付かないから」
深く反省はしていた。だが、千尋も原稿を落とすことは出来ない。信用問題というより、己のプライドの問題だった。本気で小説家を目指している以上、自分を裏切るような真似は出来なかった。
顔を俯かせた千尋の耳に、ベッドの軋みと、箏子の足音が聞こえた。
箏子が本気で怒ったところは数える程しか見たことないが、場合によっては張り手の一つも覚悟しなければならない。千尋は目をギュッと瞑り身を固くして備えた。
だが、何の衝撃もやって来ず、急に鼻の辺りが軽くなった気がした。
「本当に桜の側には寄らんのやな?」
鼻が軽くなったのは、眼鏡を取り上げられたからだった。近視の千尋には、語りかけてくる箏子の顔がぼやけて見えた。どんな表情をしているのか解らない。しかし、千尋は意に介さず大きく頷いた。
「約束する。絶対に約束は守るよ」
箏子は凝ッと千尋を見つめていたが、諦めたように苦笑して、
「かなわんなァ。ええわ、それくらい許したる。ただし、うちが監視しとくからな」
ひょいと千尋の眼鏡を自分にかけて、クシャクシャと彼女の髪を掻き混ぜた。
「ちーちゃんは無茶しよるからな。ほっとけんわ」
もう箏子の身体から怒気は消え失せていた。顔がちゃんと見えなくとも、空気で千尋にはそれが解った。その証拠に、千尋の顔が明るくなった。許されたこともそうだが、懐かしい愛称で呼ばれたのが妙に嬉しかったのだ。
「ちょっと、眼鏡は返してよ。ド近眼なの知ってるでしょ」
子犬のようにじゃれついてくる千尋を片手であやしながら、箏子は何気なく散らばっていた一枚の紙切れを拾った。眼鏡を外して、千尋が資料と呼んだそれに目を走らせる。
紙には戦前の二之宮高校周辺の地図が描かれていた。以前は神社の境内だったが、敷地を丸ごと使ったらしく、その範囲が現在の二之宮高校のそれとピタリと一致する。その為、校舎等が当時は何処に位置していたかがすぐに解った。
頭の中で想像図を描いてみると、にわかに箏子の顔が険しくなった。
「気付かんかったわ。
地図を睨みながら、彼女はそう呟いた。
※
文芸部の部室は、西日がまともに当たる部屋だった。
冬は良いが、夏は古い扇風機なしでは活動などとても出来ない、天然のサウナと化す。春ですら汗ばむ陽気となれば辛いのだが、幸いにも放課後になればまだまだ涼しい。
部長である福本は自身の肥満体質を大して気にしていないが、こと暑さの問題となると話は別である。今も愛用の扇子でパタパタと首筋辺りを扇いでいた。
小説や漫画、部が制作した同人誌が乱雑に積まれた部室の中で、福本は肩身の狭い思いをしていた。権力を振りかざすタイプではないが部長としての矜恃はある。しかし、今この時においては、下級生の二人に気を遣わずにはいられなかった。
正式な部員である支倉千尋はせっせとノートに小説を書いている。原稿がようやく進み始めたらしく、喜ばしいことだった。新入生歓迎用同人誌の締切は間近に迫っている。
問題なのは吉備津箏子の方である。彼女が千尋の友人なのはよく知っているし、この学校で唯一関西弁を喋る変わった少女としても有名だ。文芸部にも稀にだが顔を出していた。
ただ、福本は箏子が苦手だった。女子に苦手意識はないので、単純に彼女という人間が苦手なのだ。迂遠な方法で相手と距離を測る自分に対して、箏子はあまりに直接的過ぎる。
箏子は千尋の隣の椅子に座り、むっつり顔で黙黙と本を読んでいた。表紙には郷土史研究会の文字が見える。千尋の小説の資料だと福本は聞いていた。
「ええと、支倉、それに吉備津君。ジュースでも飲むかい? ちょっと飲み物を買ってこようと思うんだけど」
場の空気を変えようと思い、軽い口調で福本は言ったのだが、千尋は小説に夢中で返事をせず、箏子は顔すら動かさず「結構です」とにべもなかった。
部長としての威厳を蔑ろにされたようで不満ではあったが、彼女達に非がある訳でもないし、部室から追い出すなどもっての他だ。自己中心的な動機による職権濫用である。
結局、福本は辟易としながらも我慢をすることにした。
開け放たれた窓から入ってきた紋白蝶の動きをぼんやりと目で追っていると、
「そう言えば、部長は校舎裏の桜をネタにしようと思ったことはないんですか?」
一段落ついたのか、ノートから顔を上げた千尋が伸びをしながら訊いてきた。やっとまともに会話が出来るからか福本はほっとした様子で、
「あるよ。一年の時だったかな。夏のホラー物という企画の時に。本物も観に行った。花は咲いてなかったけどね」
「やだもー、部長。咲いていないって、夏なら当たり前じゃないですか」
千尋はケラケラと笑ったが、その反応に福本はキョトンとした。
「いや、そりゃそうだが。あの桜はそもそも、花が咲かないんだ。咲かずの桜なんだよ。知らなかったのか?」
思いがけぬ福本の発言に、今度は千尋がポカンとなった。何時の間にか、箏子も本を閉じて怪訝な顔をしている。
校舎の裏の桜は見事に満開の花を咲かせていた。千尋だけならまだしも、箏子も見ているので、見間違いなどあろうはずもない。
「でも、咲いてましたよ。変な色の花が。この間、見ましたもん」
「え、本当に? おかしいなァ……僕はそう聞いていたし、実際咲いたところ見たことないんだけど」
福本は腕組みをして、しきりに首を捻っている。自分の記憶を探ってみるが、集めた噂のことはちゃんと覚えているし、何より肝心な部分なので誤って覚えている可能性は低い。
「妙やな。咲かんのなら、あの樹が桜なんて解らんやろ。少なくとも、うちには花の咲かん樹の区別なんてつかへんけど」
箏子も眉根を寄せて、二人を一瞥した。福本も千尋も同意見だった。花の区別はつくが、樹だけとなると話は別である。幹や枝など気にしたことはないし、あの不気味な桜をちゃんと観察する人間など殆どいなかっただろう。不可能ではないが難しいはずだ。
「でも、噂では祟りのある桜ってことになってますよね。やっぱり咲いたことがあるんじゃないですか?」
「どうだろう。言われるまで気がつかなかったけど、確かにおかしいなァ」
千尋と福本は顔を付き合わせ、ああでもないこうでもないと議論を交わした。ただ、箏子だけが沈思黙考して、噂の矛盾の正体を突き止めようとしていた。
「あるとしたら、故意に誰かが噂を流したってことや。元から桜と知っとった人間が」
箏子は、自分が導き出した答えを、呟くように二人に提示した。
千尋達もその意見には納得することが出来た。だが、そこで新たな疑問が湧いてくる。
そんな噂を、一体誰が、何の為に。
この疑問を解くのは容易ではない。噂話はその最初の発信源を辿ることが一番難しく、現実的に無理なのだ。
「……福本先輩。ちょっと出て来るんで、千尋を見張っといてください」
箏子は郷土史の本を片手に立ち上がると、福本に念を押した。自身が何処に行くかも告げず、それを訊ねようとした千尋を眼力で黙らせた。
ただ、千尋にも見当はついていた。あの様子からして、箏子が向かう場所は一つだ。
校舎裏の桜の老木。
全ての発端の場所である。
つづく
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