第2話
「まあ座りなさい」
日本史担当の教師である重富に促されて、千尋は遠慮がちに椅子に腰を下ろした。
職員室の一角に設けられた簡易な応接間は、元元喫煙所だったらしく、壁や天井がヤニで茶色く汚れていた。禁煙となった今でも、名残なのか微かに煙草の匂いが感じられる。
重富は定年を間近に控えた男性教師である。彼の年齢ならばとっくに教頭などになっていてもおかしくないのだが、彼は出世欲と無縁の男だった。恵比寿顔と柔らかい物腰。真っ白な髪と顎髭がトレードマークで、生徒の間では「重じい」の愛称で親しまれている。
千尋が重富を訪ねたのは、彼がこの高校の最古参の教師であり、趣味で郷土史の研究をしているからだ。文芸部で彼の世話になった人間は多く、千尋もまたその一人である。
先日、箏子から関わらないように釘を刺された千尋だが、背に腹はかえられない。やはり、桜のネタでいくことにしたのだ。
「今度は何を調べてるんだ? 前は戦国時代の武将についてだったが……」
皺の寄った紺色のスーツを着た重富は、興味津津という様子で千尋の顔を窺っている。
千尋はどう切り出したものかと今更になって悩んだが、思い切って単刀直入に、
「あの、校舎裏に古い桜の木があるじゃないですか。あれについて教えてもらえたらなァと思いまして」
予想だにしない質問だったからか、重富は面食らった様子だったが、
「桜……ああ、あの『人喰い桜』か。久しぶりに聞いたなァ。昔はよく話題に上ったが」
「やっぱり何か謂われがあるんですか?」
彼の口から飛び出した物騒な単語に、千尋は食いついた。伝説か何かが既にあるのなら、ネタとしてこれ程都合の良いものはない。
「この高校の定番の怪談だったんだよ、あの桜は。やれ幽霊が出るだの神隠しに遭うだの。もう廃れたもんだと思っていたが、まだ残ってたんだなァ」
重富は感慨深げに何度も頷いたが、千尋が知りたいのはそこではない。何故、あの桜なのかということなのだ。その旨を彼に伝えると、それまでの恵比寿顔が急に引き締まった。
暫時、黙して顎髭を触っていた重富は、ひとつ大きく息を吐いて、
「支倉は、将門の首塚というのを知っているかね?」
平将門の首塚は有名なオカルト話である。東京都千代田区という大都会にぽつねんと存在し、その塚を動かそうとすると祟りがあると恐れられている塚だ。実際に戦後GHQがこれを撤去しようとした際に事故が起こり、結局工事を断念したという。
「校舎裏の桜はその類だよ。もしかしたら、歴史も同じくらい古いかもしれない」
重富は「ちょっと待っていなさい」と言うと、一旦席を外した。すぐに戻ってきた彼の手には、何冊かの郷土史の本と資料らしき紙の束が抱えられていた。
「二之宮高校がこの土地に建てられたのは戦後になってからだ。それ以前は、そもそも学校じゃなかったんだよ」
コピー用紙に印刷された戦前の地図を千尋の前に置いて、重富は現在の校舎のある場所を指差した。その地点をトントンと指で叩きながら、
「ここには神社があったんだ。由緒正しい神社でね。そもそも、この高校の名前も神社の格である二之宮に由来してるんだ。もっとも、空襲で全部焼けてしまったがね」
重富の言う通り、地図上には神社の名前が記されている。素直に聞いていた千尋だったが、ふと妙なことに気がついた。今、重富は「全部焼けてしまった」と言った。
「でも……桜は残ってますよね? 神社は跡形も無く燃えてしまったのに」
「そうなんだ。あの桜だけは、燃えなかったんだ。不思議なことにね」
焼け野原に一本だけ立っている桜の樹という情景を思い浮かべ、千尋は何か得体の知れない恐怖を覚えた。本来なら、神様の霊験とでも解釈すればいいのだが、あの桜なら話は別である。
重富も同じ思いなのか、やや重苦しい口調で、
「だから、何かしらの力があるんだろう。私はそういう力を否定はしない。校舎を建てる時に、あの桜を切ろうとした者が精神に異常を来して入院したなんて話もある。あれを隠すように校舎が建っているのも、そのせいだと……まあ、本当かどうかは解らないが」
噂が正しければ、間違いなく平将門の首塚と同類である。悪戯に触れてはいけない存在。
「元元、この土地には神社が二つあったんだ。桜は、もっと時代の古い方の神社のものだ」
資料の中から古ぼけた白黒の写真を拾い、重富は続ける。写真には石造りの鳥居と小さな社が映っていた。
「同じ土地に複数の神社があるのは別に珍しいことではない。だが、これは……」
そこでまた重富は黙ってしまった。衝立の外から教師達の他愛もない会話が聞こえてくるが、重い空気に跳ね返されるように、二人の耳までは入ってこなかった。まるで時が止まったかのような重重しさが、場を支配していた。
「重富先生、最初に『人喰い桜』って言いましたよね。あれも伝説か何かあるんですか?」
千尋は神社の話題を無理矢理に変えることにした。これでは一向に話が進まない。
「ああ、伝説だよ。郷土史の本にも載っているが、当時の武士が残した文章があってね。日記の類なんだが、その中に神社の桜の話が出て来る」
重富も何故かホッとした様子で、本をパラパラと捲った。額には薄く汗が浮いていた。
「当時、桜に近付いた人間が神隠しに合うということが頻繁に起こったらしくてね。それで、そんな名前がついた訳だ。まァ、神隠しという現象自体は珍しいものじゃないが」
神隠しについての講義を始めようとした矢先、重富は別の女性教師から声をかけられた。
「先生、職員会議の打ち合わせをしたいんですが……」
重富は腰を浮かせ、すぐに行くと応えると、机の上の資料を一纏めにして、千尋の前に置いた。
「悪いが急用が出来た。これを貸してあげるから、読んで見るといい。何かの参考になるだろう。ただし、ちゃんと返してくれよ」
ニッコリと笑うと、そのままさっさと応接間の外へと行ってしまった。
取り残された千尋はキョトンとしていたが、我に返ると目の前の紙の束をなんとか鞄に詰め込んだ。そして、重富の背中にきちんと頭を下げてから、職員室を後にした。
つづく
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