魔櫻

志菩龍彦

第1話 



 午後六時を過ぎても、日射しは相変わらず暖かく学舎を照らしていた。

 市立二之宮高校の校庭を囲むように植えられた桜が、今を盛りにと惜しみなく花を咲かせている。

 その下を歩いていた支倉千尋はせくらちひろは、黒のセーラー服にひたりと落ちた花弁を摘み、頭上に目をやった。

 千尋の赤いフレームの眼鏡には、一面の桜色が映っている。花弁はセミロングの髪にもまばらについていた。ひとつそよ風が吹けば、花の雨が降る。豊かな胸の前で結ばれた赤いスカーフ、長目のスカートにスニーカー、学校指定の鞄――何時の間にやら、彼女の全身は花弁で彩られていた。

「桜……桜かァ……」

 くりっとした目で、一枚の花弁と桜の枝を交互に見ながら、千尋は呟いた。

 耳の中では、つい先程受けたお叱りの言葉がまだ反響していた。所属している文芸部の部長から、原稿を催促されたのだ。部員の中でまだ未提出なのは彼女だけである。

 入学式も終わり、新入生は期待と不安に胸を膨らませながら、学生生活を送っている。体育会系・文化系を問わず、各部は部員勧誘に熱を上げていた。どこの部活も、新人が欲しいのだ。

 現に今もグラウンドでは野球部やサッカー部が、いつも以上に声を張り上げて練習している。多少なりとも新入生を意識しているのは言うまでもない。

 千尋が手持ち無沙汰に散歩しているのは、ネタを見つける為だった。将来の夢は作家と公言して憚らない彼女だが、始動の遅さは自他共に認めるところである。書き出せばアッと言う間に完成させるのだが、エンジンがかかるまでは一ミリも前に進むことが出来ない。

「流石に落としたら洒落になんないよね……」

 深深と溜息を吐くと、千尋は太い幹に体を預け、制服についた花弁を一枚一枚剥がしていった。剥がしたそばからまた降ってくるのだが、本人はあまり気にしてはいない。心ここにあらずといった様子である。

 文芸部の新入生勧誘は同人誌の特別号と決まっていた。一文字も書いていない原稿は、それに載せる為のものである。もし落とせば信用問題だった。普段、大言壮語しているだけにどれだけ馬鹿にされることか。想像するだに恐ろしい。

 ネタ出しに苦しむ時の千尋の行動は決まっていた。兎に角、動くということである。部屋の中で本やパソコンを前にしていても駄目なのだ。得てして、別のことをしている時の方がアイデアは浮かびやすい。

 千尋は手遊びを止めて、また散歩を始めた。出来るだけ心を空にして、五感を研ぎ澄ませる。金属バットが球を打つ音、花花の色彩と芳香、舌に残っているレモンキャンディの味、頬を撫でる風の感触。そういったものが、ゴチャゴチャと空の心に入りこみ、ぶつかり合い、ある種の化学反応が起きるのである。

「……桜! 校舎の裏の桜! 変な噂のある奴!」

 突然、千尋は叫んだ。脳内で火花が散り、電流が駆け巡った。ネタを思いついたのだ。

 二之宮高校には校庭以外に、もう一カ所だけ桜が植樹されている一画がある。そこは、校舎の大きさと位置の関係で常に陰に覆われており、夏でも冷気を感じる程の場所だ。

 そこに巨大な桜の老木が生えていた。場所が不気味なせいか、奇妙な噂話もある。呪いや祟りといった類のものだった気がするが、千尋もよくは覚えていない。

思い立ったら即行動が千尋の信条である。兎に角、まず現物を確認してみなくては。

 千尋は陽の当たる世界に背を向けて、校舎裏へと走り出した。

 

                ※


 その空間に入る手前で、思わず千尋は足を止めていた。

 この角を曲がればすぐそこに噂の老木はある。早く見たいのだが、ふと足下を冷気が掠めたような気がして、身が竦んだのだ。

 放課後の校舎裏ともなれば人気もなく、辺りは静寂に沈んでいた。遠くから聞こえる運動部の声も、幻聴か何かのように曖昧である。地面を伸びる細長い自身の影は、頭の方から薄闇に食われてしまっていた。

 だが、千尋には時間がないのだ。それに強く好奇心を刺激されていた。この手の話は、どちらかと言えば好きな方なのである。

 鼻孔を刺激する湿った腐葉土の匂いを、鼻息荒く吹き返し、思い切って校舎裏へと踏み込んだ。

 瞬間、二つのものに目を奪われ、呼吸が止まってしまった。

 一つは満開の花を咲かせる桜の老木。

 もう一つは、思いもよらぬ人間の影だった。

 老木の前に、少女が立っていた。千尋と同じセーラー服を着ている。ショートボブの黒髪と反比例するように異様に顔が蒼白い。服からのぞく手も足もまた白く、細長かった。

 少女はついと千尋の方に顔を向けた。垂れ気味の目をしているが、細い眉がやや強気に上がっている。目元には泣き黒子があり、睫毛が長い。

 千尋と少女の目と目が合った。

途端に、千尋は脱力して、その場にしゃがみ込んでしまった。少女が自分のよく知る人物だったからである。

「もう、驚かせないでよ。箏子、何でこんなとこに幽霊みたいにつっ立ってんの?」

 上目遣いで怨めしげに責める千尋に、少女は片眉を軽く上げて、

「何で言われてもな。ふらっと来てみただけや」

 吉備津箏子きびつことこというのが彼女の名前だった。恐らく千尋ともっとも親交の深い友人である。元元、関西地方の出身で、今でも訛りが抜けていない。否、直すつもりがないのだ。

「心臓に悪いからやめてよ。ただでさえ、箏子はそっち系なんだから」

 腰を上げた千尋は、恥ずかしさもあってか、わざと怒ってみせた。華奢で色白な箏子は、暗い場所で見れば何か不気味な者に見えてしまう。顔立ちが整っている分、余計に。

 千尋の文句にも、箏子は些かも動じず、肩を竦めただけだった。

「それで、千尋は何しにここに来たん?」

 外見に似合わぬやや低い声で訊かれて、千尋はようやく当初の目的を思い出した。

「ああ、これよこれ。この桜を見に来たの。小説のネタにしようと思ってね」

 箏子の横に並び、千尋は改めて桜の老木を見上げた。

 桜の幹は高く伸び、そこから枝垂れ桜のように、枝を伸ばし花を咲かせていた。見ている人間に覆い被さってくるような迫力がある。相当の樹齢であることは、素人の千尋にも解った。瘡蓋のような樹皮、地面に張り出した太い根には苔が生えている。

 この桜を一言で言い表すなら、異様という言葉が一番しっくりくるだろう。

 明らかに校庭の桜とは品種が違う。花弁の色合いもこちらは赤味が強い。紅とまでは言わずとも、桜の花の色とは思えなかった。まるで水に溶いた血の色である。

 千尋はその異様に圧倒され、思わず生唾を飲み込んでいた。

「いくらネタに困っとるからて、これはあかんで」

 魅入られたような千尋を見かねてか、彼女の腕に箏子は軽く肘鉄を喰らわせた。いきなりの衝撃に、千尋はギョッとして彼女から距離をとる。パクパクと口を動かしているが言葉が出てこない。

「これ危ない奴や。見てみィ、うちの膚もこないなっとる」

 無造作に制服の袖を捲り上げた箏子の膚は、鳥肌が立っていた。更に、無言で彼女が指差す方に目をやると、桜の回りには黄色と黒のバリケードが張られており、これ以上近づけないようになっていた。

「なにそれ……本物ってこと?」

 千尋が確認するように言うと、小さく箏子は頷いた。

 千尋は箏子のことをよく知っている。彼女がある種の特殊な感覚の持ち主であることを。

「うち、帰るわ」

 暫く二人で桜を眺めていたが、箏子はくるりと踵を返して、スタスタと正門のある校庭の方へと行ってしまった。

 千尋は逡巡したが、箏子から警告を受けた以上、少なくとも一人でここに残る勇気はなかった。母の手を求める幼子の如く、慌てて彼女の後を追う。

 湿った薄闇の空間を抜けると、暖かい春の世界が千尋を迎え入れてくれた。気持ちだけでなく、不思議と体まで明るく、軽くなった気がする。

 振り返ると、あの場所は校舎の完全な死角になっていて、もう見えなかった。

「ほら、モタモタしてると置いてくで」

 乱暴な口調ではあったが、箏子はちゃんと千尋を待ってくれていた。その姿に、千尋は言いようのない安堵感を覚えた。

 並んだ二人は生徒達の活気溢れる声の中を、世間話をしながら通っていった。

 正門のところで別れる寸前、千尋はハッとして鞄の中を漁りだした。訝しがる箏子に、千尋は一冊の文庫本を手渡した。

「忘れるとこだった。前に言ってたお薦めの小説ってこれだよ」

 受け取った箏子は、その出来すぎた偶然に苦笑いを浮かべた。

「えらいタイムリーな題名やな」

 文庫本は講談社文芸文庫で、著者は坂口安吾である。

『桜の森の満開の下』――それが本のタイトルだった。


                                 

                                 つづく

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