第4話 去りゆく背中
一九四四年、四月。
国父州に帰郷してから、一年とすこしが経った。
翼を失ったこととひきかえに、ぼくはこの国の市民権を手に入れた。
戻ってからしばらくは、居留外国人の互助会で、手伝いのようなことをしていた。他になにをすればいいのかは、まったく分からなかった。
心の針路をつくることができないまま過ごした日々は、まるで停滞しているかのようだった。でも、国同士のおおきな争いは、ひとときとして止むことはなかった。
ぼくが参加していた戦いは、今では「神学者州都市区攻防戦」と呼ばれている。「大都市を戦場とした、史上かつてないほどの消耗戦であった」……と、真新しい歴史書の年表では、一行でそう総括されていた。
(年表の一行は、ぼくたちの命をかんたんに呑み込んでしまうのだな)
これから、あと何行のできごとがあって、それはどれくらいの人の命を呑み込むのだろう。
その頃のぼくは、歴史というものをひとつのおおきな墓碑銘のようにとらえてしまうようになっていた。歴史とは、ひとに教訓をもたらすものではなかったのかもしれない。それはただ、文章にのこせぬ悲しみを、たえず叫びつづけるものでしかない。
結局、ぼくはその悲しみに耐えて、耳を傾けることができなかった。
生き残った兵士たちのうち、あのときの惨状を言葉として書き残すことができる勇気ある者もいる。でも、ぼくにはできなかった。互助会での手伝いを終えてから、宿所でひとりっきりの夜を過ごしているときに、ぼくはなんども、見聞きした戦いのことを書き記そうと試みた。
でも、それはかなわなかった。
書き記すことは、心という石版に文字を刻みつけることにも似ている。
ひとたび記した物事は、きっと二度とぼくの心からは消えなくなってしまうだろうから。
ただ、外国人互助会で顔を合わせる年かさの従軍経験者は、こうも言ってくれた。
「月並みな言い方かもしれないが、時間が過ぎていくのを待ちなさい。そうすれば、つらかったことを、子細に眺めることができるようになるから」と。
かれは、互助会で地域の世話人を勤める年老いた地上人の男性だった。ぼくはその言葉を信じた。時間によって磨き上げられた真実であってほしい、と思いながら。
そして、数ヶ月ほど前に、ぼくは互助会の外に仕事をみつけた。
以前に通っていた学校での、雑務の仕事だ。戦地から復員してきた学生の便宜をはかったり、かつてのぼくと同じような居留外国人たちの生活支援をしたりしている。
戦争はずっと続いているけれど、新帝国の敗色は、日増しに濃くなっているようだった。ラジオでは、戦勝報告がたびたび流れていた。でも、これを戦地で聞いた兵士たちがどんな気持ちになるのかは、まだ覚えている。
願うのは、戦いが一刻もはやく終わることと、戻ってきた人たちがすこしでも早くもとの生活に戻れることだ。
深く傷ついた人は、戦地だけではなく、国の中のいたるところにいる。いまのぼくに残っている気力があれば、そういった人たちの助けとなるために使いたかった。
日々をせわしなく過ごすうちに、いつしか四月になっていた。
事務室での仕事を終えて、夕刻。人影もまばらとなった校庭を抜けて、校舎に入る。
夕暮れの光に染まる教室には、もうだれも残っていなかった。
ぼくが戦争に行く前に、ここで言葉を交わした友達のことを、ふと思い出す。
ルサルカ。
やさしかった彼女は、狙撃手学校に進んだ。
おしゃべりや議論のすきな彼女は、話のあいだじゅう、たおやかな指先で身振り手振りをしていた。ほがらかな笑顔も、目をつぶればただちに思い出せる。どうか、あの笑顔が曇らぬままに在ってくれれば、と思う。
(だけど、それはありえないことだろう)
敵をわが手にかけるということが、どれほどまでにひとの心を蝕むか。
それは皮膚を焼きつらぬく烙印のように、けして消えない罪と後悔の記憶となる。
敵を撃つ。
撃たなければ、自分が撃たれるか、背後の指導将校からのけん責が待っている。やむにやまれず敵を撃てば……その銃弾は敵だけではなく、おのれの心をも砕く。
狙撃手として戦地に赴けば、敵を撃たずに過ごすことはできない。
そして、敵を殺したときには……己の心のどこかが、確実に死ぬのだろう。
――ぼくは窓の外の、街並みを見る。赤く染まった世界の向こうで、夕陽は燃え落ちる前の姿を晒していた。
じきに夜がくる。ぼくはここを立ち去ろうと、窓に背を向けた。
そのとき、入り口に立っていた人影に、はじめて気づいた。
「……ごめんなさい。どう声をかけようか、ちょっと困っちゃって」
弱々しい声で、その人は言った。軍服を身にまとった、地上人の女性だった。
それが誰なのかは、すぐに分かった。
「ルサルカ。無事に戻ってこられたんだね。……嬉しいよ」
このとき、ぼくはできうるかぎりの笑顔をうかべて、彼女を迎えた。でも、鳥人の表情は、顔をおおう羽毛と硬いくちばしのせいで、地上人にはわかりにくいそうだ。
「リドリィ……。あなた、翼が」
ルサルカはぼくの背中に視線をそそぐ。くもる表情。でも、ぼくは残った片方の翼をばさばさと動かした。
「飛べなくなってしまったけれど、ぼくは大丈夫。心配しないで。ありがとう」
このとき、ぼくに心を癒す時間をくれたすべてのものに感謝したいと思った。そうなんだ。ぼくは、戻ってくるルサルカを笑顔で迎えたかったんだ。
おずおずとこちらに歩み寄るルサルカ。
「ほんとうに久しぶりね、リドリィ」
「ルサルカが、大きな怪我をしていなくて、ほんとうに良かったよ」
ぼくがそう言うと、ルサルカは遠慮がちに微笑んだ。その笑顔には、見覚えがあった。
(……戦地から戻ったばかりのひとの顔だ)
互助会や学校で、戦地から復員してきた兵士たちを迎えるとき、かれらの多くはこんな笑顔を浮かべていた。僚友が死んでいくのを見送り、そして、敵を殺めたことへの罪の心が、こういう泣き笑いのようなかたちをつくって、こわばる。
だから、ぼくは言った。
「ルサルカ、これで従軍期間は終わったんだよね。……いま、ぼくは復員兵の生活支援の仕事をしているんだ。もしよかったら、ルサルカがもとの生活に戻るための手伝いをぼくにさせてくれないか。……つらいことがたくさんあっただろうけど、まずはここで、ゆっくりと休んでほしいんだ」
軍服姿のルサルカは、その端正な姿に反して、まるでよるべのないひな鳥のように弱々しく見えた。ぼくは願う。どうか、頼ってほしい。ぼくは、ルサルカの助けになりたかった。
だけど、ルサルカは小さく顔を横に振ったのちに、こう言った。
「ありがとう」と。「でも、ここには戻れない」
「期間が終わったんじゃ……ないのかい?」
「期間は、なくなってしまったわ。私は、この国の士官になってしまった」
そう答えた彼女の胸には、小さな勲章略綬がつけられていた。それは、祖国のために忠勇をつくし、大きな活躍をした兵に贈られる「大祖国忠誠勲章」とよばれるものだ。
「ルサルカ、それは……」
「リドリィ、私の家は前の革命で倒れた体制に与していたの。だから、いまの体制ができたときに、私の家族はたくさんのものをなくしたわ。だからこの学校に入れてくれた両親に報いるには、どうしても……大きな働きを示さなければならなかった」
「…………」
ひとたび名誉を失った者は、この国で生きていくのがどれほどにつらいか。それは、この国の影そのものだ。体制に刃向かったとされる者は、いつまでも粛清に怯えていなくてはならなかった。
ぼくが市民権を得られて、この国で働けるのも、「軍に身を捧げたという献身」に対する代価にほかならない。そして、軍から身を引くことができたのは、翼を失ったことへの代価。それを示すものが、「従軍記章」と「負傷者記章」だ。
だからルサルカは、これからもずっと、名誉にふさわしい献身を続けていかなければならない。死をおそれて軍務から逃れたとしたら、彼女の名誉は剥奪されてしまう。
「リドリィ、私はこれから次の作戦に従事することになるの。作戦が始まったら、つぎに戻れるのはいつになるか分からない。……そのまえに、あなたに会っておきたかったの」
「次の作戦って……」
「詳しいことは、市民となったあなたには言えない。……新帝国に占領されたままになっている国土を回復するための作戦。でも、この作戦が終わっても、きっと私はここに戻ってくることはできないでしょう」
「…………」
彼女がにごした言葉から、その「作戦」の輪郭がおぼろげながら理解できた。きっと、国土を回復するだけでなく、「逆侵攻」をもくろんだ作戦なのだろう。
きっと、長い戦いが始まることになる。
硬くきびしい表情を浮かべていた彼女の貌が、ふいにやわらいだ。
「リドリィ。たしかに、私はこれからずっと、国家に尽くして生きていくことになる。そのために、かわいそうな敵兵をたくさん殺すでしょうし、死んでいく仲間たちをたくさん看取っていくことになるでしょう。……だから」
「……うん」
そして、ルサルカは淡く微笑んだ。
「――だから私は、学生だったころの心を、いちばん幸せだったときの心を、ここに置いていくね。ここで過ごした日々を、リドリィ、あなたが覚えていてくれるだけで、私はもう十分に幸せだから、ね……」
ルサルカの細められたまなじりに、涙が浮かんでいた。こんなに悲しい笑顔を、ぼくは見たことがなかった。
ぼくは彼女の名を呼んだ。
「リドリィ」
「なに?」
「かならず、生きて還ってきてね。きみの心を守りながら、ぼくはここで待っているから」
「――ありがとう」
じきに夜が訪れる。窓から差し込む夕陽は衰え、天井には闇が濃くわだかまっていた。
ルサルカの姿は、まるで光と影のはざまに溶けこんでいくかのように、消えていった。
去りゆく彼女を、ぼくはずっと見続けていた。
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