第1話-03 刃を握り

 笑鬼? 一体何のことだろう?

 聞き覚えのない単語が耳に飛び込んできて、僕は警戒を解かないままドアを睨みつけ続けた。だが、辺りに響いていた警官のものらしき足音は徐々に遠ざかり、僕たちのいる仮眠室には静寂が落ちていく。

 もしかしたら外では何か大変な事態が起こってしまっていて、自分たちは逃げ遅れてしまったのではないか。そう疑念を抱いた僕は、ドアノブを握って降姫を振り向いた。


「降姫はここにいて。すぐに確かめて戻ってくるから」


 言い置いて、僕は部屋の外へとゆっくりと歩み出る。

 そろそろと足音を殺しながら灰色の廊下を進んでいく。しかしあれほどいた警察官たちに鉢合わせることはなく、僕は緊張が喉の奥まで満ちていくのを感じていた。

 やっぱり何かマズい事態が起こってしまっているんだ。僕は降姫のもとに戻って一緒に逃げようと踵を返し――ちょうどそこに走ってきた二人の男と鉢合わせた。


「えっ、な……?」


 見るからに怪しい彼らが何者なのか咄嗟に分からず、間抜けな声を上げてしまう。その男たちは安っぽい笑顔の鬼の面をつけており、ずっと下の位置にある僕の顔を見下ろしていたのだ。僕は慌てて彼らから距離を取ろうとし――後頭部を襲った衝撃によってそれは阻まれた。






「う、うぅ……」


 自分の口から漏れ出た呻き声で意識がぐっと浮上していく。いつのまにか閉じられていた瞼を一回ぎゅっと震わせた後そっと目を開いた。


「どこ、ここ……」


 目の前に広がっていたのは、打ちっ放しのコンクリートに囲われた薄暗い室内だった。普段は倉庫か何かに使われているようで、乱雑に並べられた棚とその上に積まれた工具が目に入る。

 頭を押さえて床から体を起こす。視界の端に赤色が映った。


「外彦くん!」

「降姫!」


 一気に目が覚めた僕は部屋の隅で座り込んでいた降姫へと駆け寄ろうとする。しかしそれを引き裂くかのように部屋のドアは音を立てて開いた。


「おー起きたか坊ちゃん。俺たちのこと覚えてるか?」


 いやに馴れ馴れしく語りかけてきた男の顔を僕はじっと見つめ、数秒後、彼が何者なのかに気づいて後ずさった。

 こいつ……今朝僕たちを襲ったあいつらだ!


「ぼ、僕たちに何の用だ」


 精一杯の強気でそう尋ねると、男はにやりと気味の悪い笑みを浮かべながら仮面をひらひらと振ってみせた。


「俺たちは笑鬼。最近噂の鬼狩りってやつだよ不運な坊ちゃん」


 笑鬼。警察署でも聞いた名前だ。こいつらがそうなのか。僕は彼らの隙を窺いながら、目だけでちらりと降姫へと視線をやった。その瞬間、頰に衝撃が走り、僕は地面に倒れこんだ。殴られたんだ。頰に広がっていく熱に、僕は改めてそれを知る。


「いやあ、お前が金を貸してくれねえから借金で首が回らなくなっちまってよお。あれ以来あの辺りの警備が厳しくなっちまって商売上がったりなんだよ」


 何を言われているのか上手く理解できず、僕は男の顔を見る。男は僕を嘲笑った。


「つまり、俺たちはお前に恨みがあるってことさ」


 そんなの、逆恨みにも程がある。子供でもこんな言い訳は思いつかないだろうに。疑念と警戒の眼差しを向けるも、男のニヤニヤ顔は崩れることはない。どうやら本当にそう思って僕たちをここに連れてきたらしい。


「もののついでにお前を連れて逃げるの大変だったんだぞ? その分の働きはしてもらわないとな」

「く、来るな! 僕たちに何を……」


 再び顔の中心に衝撃が走る。後ろに倒れ込み、頭を床に打ちつける。顔に手をやると、べっとりと鼻血が付いた。急に怯えが腹の底から湧きあがり、僕は腰を抜かしたまま男を見上げることしかできなくなった。


「何って決まってんだろ。鬼欠片の抽出さ」


 男はしゃがみ込み、僕の髪の毛を掴んで顎を持ち上げる。晒された喉がぷるぷると震えた。


「欠片は鬼の呪いそのものだからな。恨まれれば恨まれるほど俺たち鬼は強くなる。そんなことも知らなかったのか?」


 嫌な笑みを浮かべた男を視線だけで必死に追う。このまま無抵抗のまま喉を切り裂かれて殺されてしまうのでは。そう思い浮かべるだけで涙が浮かんできた。半分だけ開いていたドアからもう一人の男が入ってきたのはその時だった。


「おっ来たな」


 髪から指を離されて、僕は崩れ落ちながらも部屋の隅にいる降姫に視線を飛ばす。降姫は怯えた目をこちらに向けていた。

 早く逃げるんだ。ここにいたら君まで殺されてしまう!


「んじゃそろそろ始めよう……ぜっ!」

「ぐっ……」


 腹を思い切り蹴りつけられ、そこを押さえながらゲホゲホと息を吐く。僕の両腕を男は軽々と頭の上で拘束し、僕は寝転がった姿勢で身動きが取れなくなってしまった。


「おい、しっかり押さえとけよ」

「外彦くん……!」


 足を動かして抵抗しようとするも、押さえつけてくる男の力が強すぎて身じろぎしかできそうにない。僕は震える視界のまま、目の前の男を精一杯にらみつけた。だが彼はそんな僕をあざ笑う。


「ハハ! 存分に俺たちを呪うといいさ。それが俺たちの力になるんだからな!」


 男は工具棚からナイフを取り出してきて、僕の胸の上にぴたりと当てた。切っ先の感覚が服ごしに感じられ、僕は歯を鳴らして身をよじる。


「や、やだ、やめて」

「嫌だね。心臓を取り出してゆっくりと食ってやるよ」

「ひっ……」


 ゆっくりとナイフが押し込められ、ナイフの刃が胸を傷つけようとする。

 もうだめだ。僕はここで死んでしまうんだ。

 そう思った瞬間、勢いよく部屋のドアは開かれた。


「『鬼切』だ! 大人しく投降しろ!」


 手帳を構えた彼は、大声でこちらに宣言してくる。男たちは一瞬だけ動きを止めた後、僕の体を無理やり立たせて、首にナイフを当ててきた。


「なっ、人質とは卑怯な!」


 軍刀に寄せていた手をぴたりと止め、鬼切の彼はこちらを睨みつけてくる。男たちはそんな彼をにやりと笑うと、僕を人質に取りながら、ポケットに入れていた小さな欠片を取り出した。


「ちょうどいい。お宝の試し撃ちといこうじゃねえか」

「ま、待て!」


 鬼切は素早く刀を抜きはらい、男たちに向かって振り下ろそうとした。しかし、男たちがそれを飲み込み、彼らの体が変容するほうが早かった。

 僕を人質に取っていた男の腕が肥大化し、服の上からでも筋肉が見えるようになる。男は僕を投げ捨てて、鬼切の青年の胴体にこぶしを叩きつけた。


「あ、がっ……!」


 鬼切の青年は軽々と吹き飛んで、降姫のすぐそばへと転がって動かなくなった。気絶しただけなのか、それとも死んでしまったのかは分からない。だがそのどちらだとしても、僕の恐怖を和らげることができるはずもなかった。僕は、青年の軍刀がすぐ近くに落ちる音を、どこか他人事のように聞いて震えていた。


「あー、漲る。力が溢れてくるぜぇ……」


 男たちの顔には鱗が浮かび上がり、首は奇妙に伸びて口は裂けていく。まるで蛇のようだ。男は長い舌を口の端から垂らしながら降姫へと一歩歩み寄った。


「さてと、じゃあ食事の続きとするか」

「ひっ……」


 降姫が小さく悲鳴を上げる。僕はその声を聞いて、一気に頭がさえていくのを感じた。駄目だ。こんなところで止まっていたら、降姫が殺されてしまう。僕はとっさに手元に落ちていた軍刀を掴み上げて立ち上がった。


「ま……待て!」


 男たちが振り返る。刀を握る拳が震える。だけど負けない。君を守ると誓ったんだ。こんなところで、君を失いたくない!


「その子に手を出したら、ゆ、許さないぞ!」


 刀の柄を両手で握りこみ、男たちに構えなおす。その瞬間、僕の内側から熱が吹き上がるのを感じた。

 どく、どく、と。鼓動が激しく鳴り響き、頭の中から指先に至るまで、熱い血潮がいきわたる。

 まるで刀から力が逆流しているみたいだ。――いや違う。僕の中にある僅かな鬼の欠片が刀に反応して脈打っているんだ。


「ははっ、何が許さないって? ガキが何を……」


 一閃。熱に突き動かされるまま、伸ばされていた男の手首を切りはらう。噴き出した血とともに手首は足元へと転がっていく。そのころになって男たちは僕を脅威に感じたようだった。


「テメェ!」


 もう一人の男が、異形の顔をさらにゆがめながら、僕を押さえ込もうと手を伸ばしてくる。僕は熱く煮えたぎる刀の熱のままに、一歩踏み込んでそれを躱し、男の胴体を切りつけた。


「ぐがぁ……!」


 刀による傷はかなり深かったようで、男はたった一撃で倒れ伏し、けいれんを始めた。

 相手は鬼だ。念のために首を落としてしまうべきだろうか。普段の僕ならば絶対に考え付かないことを脳裏でぐるぐると巡らせていると、手首を切り飛ばした方の男が腰を抜かして悲鳴を上げた。


「ひっ、なんだ、なんだよお前」


 まるで僕の顔におびえているかのようなその視線に、不快になって顔をしかめる。一歩踏み出して、彼も切り捨ててしまおうとしたその時、半分開いたままだったドアから勢いよく見覚えのある人影が飛び込んできた。


「『鬼切』だ! 投降しろ!」


 軍刀を片手にした彼を見て、手首を切り落とされた男は慌てて立ち上がってドアへと突進した。


「どけぇ!!」


 ドアの向こう側にいた数人の人影を押しのけて、暴漢は逃げ去っていく。軍刀の男は朗々と通る声で指示を飛ばした。


「追え! 必ず捕まえろ!」


 部下らしき人影たちは、あわただしい足音を立てながら暴漢を追いかけていく。残された男は軍刀を鞘に戻しながら、僕が切り伏せた男をつま先で転がして、その傷を見下ろした。


「これは君がやったのか」


 冷たい声と視線に僕は急に冷静になり、全身から冷や汗をかきながら僕は刀を取り落とす。


「あ……」


 ガシャンと刀が床に落ちる音がやけに大きく響く。僕は震えながら後ずさった。


「ちが、僕は……」


 もう一歩後ずさろうとしたが、まるで足が沼に取られてしまったかのように動かなくなる。鬼切の男は、自分の懐に手を入れて何かを取り出そうとした。


「ひっ……」


 殺される。こんなところを見られたんだ。きっと殺されてしまう。僕はぎゅっと目をつぶって身を縮こまらせる。

 しかし覚悟していた痛みは、いつまでたっても訪れなかった。

 おそるおそる目を開くと、僕の目の前には一枚のカードが差し出されていた。この暗都に入るときに作らされた身分証だ。


「これ、君のものだろう」


 きょとんと目を丸くしながらなんとかそれを受け取る。『鬼切』の男は少しだけ不機嫌そうな顔を崩してこちらに視線を合わせてきた。


「悪いと思ったが……身分証の中身を見せてもらった。君、行く当てがないんだろう」


 突然の問いかけに困惑で満ちた目を向けてしまいながら、僕はこくりと頷く。


「俺は犬崎。『鬼切』実行部隊犬崎班の隊長だ。よろしく」

「え、あ、布施下外彦です。そこの彼女は降姫」


 自己紹介を返し、降姫も指してみせる。しかし、犬崎は眉を寄せて彼女を見た。

「降姫……?」


 まるで奇妙なものを見るかのような目を犬崎は降姫に向けていた。僕はさらに不安になって犬崎に問いかける。


「えっと、降姫に変なところでも……?」

「ああいや、なんでもない」


 犬崎はこちらに顔を戻すと、生真面目そうな表情で言った。


「外彦くん。恐らく君には魔食刀を使いこなす才能がある。行くあてがないのなら、『鬼切』に入ってみないか」


 一瞬何を言われたのか分からず、僕は目をしばたかせる。その沈黙を否定と受け取ったのか、犬崎は視線を落としながらつぶやいた。


「君のような子供を誘うのは気が引けるんだが……」

「は、入ります!」


 犬崎に頭をぶつけそうなほどの勢いで僕は言った。どうせ食いぶちがないのは本当なのだ。いくら怖そうな組織でも、治安機関なら衣食住は保証されるだろう。僕は降姫を守るって決めたんだ。少しぐらい怖くたって我慢できる!

 彼はそんな僕を見てちょっと驚いた顔をした後、僕に手を差し伸べてきた。


「そうか。よろしく頼む」

「……はい!」


 僕は一瞬だけためらったあと、力強くその手を握り返した。





 霧深い街の闇を男は駆けていった。切り飛ばされた片手を庇いながら、人気のない道を選んで逃げていく。

 こんなはずじゃなかった。笑鬼の噂を借りて鬼の欠片を盗み取り、一儲けしてやろうと思っただけだっていうのに。


「ひっ、ひぃ、はぁ……」


 喉が悲鳴を上げ、立ち止まって肩で息をする。早く逃げなければ。鬼切に追いつかれてしまえば、今度こそ殺されてしまう。

 ――暗い路地の向こう側から、土を踏む音が聞こえてきたのはその時だった。


「だ、誰だ!」


 緊張からひっくり返る声で、男は叫ぶように問う。人影はそんな男にゆっくりと歩み寄ってきた。

 ざり、ざり、と足音は近づいてくる。足音の主の顔が男にも徐々に見えてくる。


「御機嫌よう偽物さん」


 近づいてきた人影の顔には、男が身に着けていたものとは比べようもないほど精工な笑顔の面があった。見ようによっては怒り顔にも見えるその面を見て、男は声を震わせる。


「ま、まさか本物のわらいお……」


 言い切らせないまま、笑鬼は男に接近した。ごきり、と。嫌な音が路地に響き渡り、男は地面に倒れ伏す。笑鬼はそんな彼から心臓を取り出し、口に運んだ。笑鬼の肌に一瞬鱗が浮き、消えていく。


「ああ、やっぱり不味いなあ」


 口の端から垂れる血を指で拭い、笑鬼は独り言ちた。

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