第2話

 父の書斎で、僕はさっそく途方に暮れていた。

「えー……リュシアンってば、文字読めなさすぎだろう」

 適当に引き出した本を開いて、愕然となる。何が書いてあるかさっぱりなのだ。確かにまだ学校にも行ってないが、八才にもなって字が読めないって、なにそれ。

 もっとも、僕の記憶として、勉学に熱心でなかったことは残念ながら覚えている。

「これは、正直まいった」

 こちらの世界の学校は、貴族なら十才くらいで入学するという。これも強制ではないが、王立学校の教養科は大体の貴族の子女が通うらしい。その前にある程度の学力は、家庭教師による勉強で身に着けることになる。

 さらに魔法や剣術など家の方針による個人技は、専門の教師をつけて学校に行く前に体裁を整えるくらいはやっておくのが普通だ。学校はあくまで人間関係や、貴族の子女としての礼儀作法などを学ぶことを前提に通うのだ。騎士や、魔法を極めるものなどはさらに上の学校へ行ったり、専門の学校に行くことになるという。

 僕にも、むろん家庭教師はいる。

 ただ熱心ではなかったのだ。勉強嫌いだったと言ってもいい。

「なんてこった、読み書きからか……」

 さっそく父に頼んで、家庭教師の授業日数を増やしてもらった。そして兄ロドルクの剣術の先生の授業に、一緒に参加させてほしいとお願いした。

 この世界には、魔法もある。

 僕の体つきでは、兄のように逞しく成長することはないだろうから、魔法はそれを補うのに最適だと思った。けれど、その件を父に聞いたら困ったような顔をされた。

 この世界の子供は三才から五才くらいで魔力の適性を調べるらしいのだが、どうやら僕は適正なしと出たらしいのだ。

 なんてこった。その辺り、全然覚えてないよ。

 今ならわかる。おそらく認めたくなかったのだろう。だって、今ものすごくショックだからだ。過去の僕が、世を拗ねる要因の一つだったかもしれない

 ともかく、魔法の書物は書斎にあるから好きに読んでいいと言われた。それでこうして来たのだが、ぜんぜん読めなかったと、こういうわけだ。

「まずは、文字だよね」

 げんなりして、部屋を出る。そろそろ家庭教師が来る時間だ。自分の部屋に行くと、先生はもう来ていた。

「すみません、遅れました。よろしくお願いします」

「いいえ、今来たところです。授業を増やして欲しいとおっしゃられたそうで」

 五才の頃から教えてもらっている先生である。三十路を少し過ぎた頃の、ちょっとだけ厳しい目をした女性だ。細い銀縁メガネを、揃えた中指でクイッと持ち上げるのが癖である。彼女は、幼少期を担当する先生なので、特に科目ごとの専門ではなく、総合的な家庭教師という括りらしい。

 もっとも最初の文字で躓いていたので、他の科目どころではなかった。それまでの不勉強を反省し、きちんと文字を読めるようになりたいと言ったら、涙ながらにめっぽう感激された。

 どんだけ勉強嫌いだったんだ、リュシアン!

 やってみれば、どうして物覚えは悪い方ではないように思う。

 もとより前世では勉強はできた方である。

 とはいっても、天才というわけではなく努力したのだ。なにしろ、両親を早くに亡くして親戚の家を転々としたために、どこでも厄介者扱い。せめて勉強だけでも頑張ろうと健気なことを考えたわけだが、自分の子供よりできる他所の子というのは、それはそれで煙たがられる。でも出来なければ嫌味を言われるのだから理不尽極まりない。

 ともかく勉強は嫌いではないし、客観的に見て頭の出来も悪くなさそうだ。まるで乾いたスポンジが、水を吸収するように頭に入ってくる。

 この分なら読み書きはすぐに覚えられるだろう。また、出来ることを褒められるというのは存外励みになるものだとも思った。なにしろ前世では一切褒められなかった。必要だからやった、それだけだったのだ。

「なにやら勉強を頑張っているらしいな、リュク」

 食事の際に、父がそういって褒めてくれた。

「まだ勉強というほどではないです。初歩の読み書き程度なので」

 嬉しいけれど、恥ずかしいという何とも言えないむず痒い体験だった。照れ隠しに思わず謙遜すると、いやいやと首を振って「偉いぞ」と父は、自分のことのように嬉しそうに笑った。一緒になって母も賛同するものだから、いたたまれないくらいの気恥ずかしい思いをしたものだ。

 なにしろ、ただ本が読めるようになった程度なのだ。

 前世も合わせると五十にもなろうという年齢で、ここまでべた褒めにされると流石に穴でも掘って埋まりたくなる。下手をすると、お祝いでもしようという流れにもなりかねなかったので「それなら」と、代わりに授業の追加をおねだりした。

 歴史や世界情勢なども知りたいし、もうちょっと専門的な先生にも教わりたいと頼んでみると、少し早いのでは? と心配そうな顔をされたが、最終的には了解してくれた。

「そうだな、お前はなぜか計算は得意だし、そんなに勉強が好きなら、どんな先生でも呼んでやろう」

 文字を教えてくれた先生が、そろそろ計算を覚えたほうがいいといって数学、というか算数を教えようとしてくれたのだが、正直こちらの計算は遅れているとしか言いようがなかった。難なく解いた僕に、先生が唖然としていたのは、まだ記憶に新しい。

 手加減できるほどの問題ではなかった……。

 すこし不思議がられたが、もうそこは仕方がない。それより一日も早く社会に出るために、この世界のことがもっと知りたい。遠慮している場合じゃないのだ。

「剣術の方はどうなんだ?」

 一方、そんな父の問いには口をつぐんでしまった。少し笑いを堪えたような顔で、代わりに兄が答えてくれた。

「師匠が言うには、筋は決して悪くないみたいです。でも、体が小さいので剣に振り回されてしまうんだろうって」

「ふむ、もともとあまり身体は丈夫ではなかったからな」

 稽古は嫌いではないので続けてもらっているが、僕はどうやら剣で身を立てられそうもなかった。そうなると、やっぱり学問を進めるしかない。

 あの毒殺未遂事件から約一ケ月、いつの間にか大人に負けないくらい読み書きが達者になっていた。今なら父の部屋の書物は難なく読めるだろう。知識は有りすぎて困るということはないのだ。

 書斎には、いくつか気になる書物があった。 

 まだ文字もろくに読めなかった頃から目をつけていた、それは図柄がたくさん描かれたものだった。そして前世でも、似たようなものを見たことがある。

 これは、錬金術の本ではないだろうか?

 文字が読めるようになり、それらの本を片っ端から読み漁った結果、ほぼ予想通りであったことが分かった。

 この世界での初級錬金術は、ほぼ薬剤師と同義だった。

 鉱石や金属は扱いが難しく材料の調達も大変である。それに比べて薬の製作は需要も多く熟練度を上げるのに適当なレシピも多いからだ。錬金には例外なく等級が付き、同じ傷薬でも特級と粗悪品とでは天と地ほどの違いがある。

 薬剤師になるならないはともかく、有意義な知識になることは間違いなかった。

 そして、もう一つ。

 魔法学も、知識としては深めたいと思っていた。別に往生際が悪いとか、そういう事じゃなくて、知っていて損はないだろうと、そういう意味でね。

 ……本当だよ。

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