54、人生で一番泣いた日

 その日は文化祭前日で、朝からサークルでライブ企画の準備がありました。

 生憎朝寝坊をした私は、昼近くになって会場まで赴きました。交通規制で自転車が使えないばかりでなく、その日からスマホが解約されていて、不便という他ありませんでした。

 会場に着くと、準備はとっくに終わっていて、皆それぞれが喋ったりくつろいだりしていました。やることがなかった私は、とりあえず同じ係の先輩と一緒に喋っていました。

 一連の騒動を知っていた先輩は、私のことを心配していたらしく、色々と状況を聞いてくれました。私は父のことも含め、話せることを少しずつ話しました。いつもの癖で、あまり深刻なニュアンスではなく、笑い混じりのおしゃべりになりました。

 そばでは別の男の先輩も話を聞いていました。口をはさまず、暇つぶしという具合です。

 その人が不意に口を開きました。


「でもさ、結局は自分だけじゃどうにもならないんだし、いずれお父さんときちんと話さなきゃだめだよね。俺だったら、お父さんに自分の気持ち伝えて、協力が必要な所は協力してくれって頭下げるよ」


 話の流れを聞いていれば、たいていの人はこう思うのだろうという、当然の話でした。

 だけど、私の身体はぴしりと強張りました。


「鍵を置いて行けって言われたんでしょ? 勘当するとか、授業料払わないとか、そういうのもさ、なんか無理言って引き留めようとしてる感じしない? 結局そっちが折れるのを待ってるっていうか、出て行ってほしくはないように思えるけど」


 思い当たる節はありました。

 正論には違いないのですが、だからこそ、打ちのめされた気分でした。

 いずれは父と会わなければいけない。話をしなければいけない。そんなの、とっくにわかっていた。それを改めて突き付けられた。たったそれだけ。

 

 だけど、その少しの衝撃で、何かが決壊した気がしました。


 気づくと涙が出ていました。訳も分からず次々に溢れてきて、泣いている顔を見られたくなかった私は、「すみません」と言ってその場にしゃがみ込みました。最初に話を聞いてくれていた先輩が、背中をさすっているのがわかりました。

 しばらくしても涙は止まりそうになくて、落ち着くまでトイレの個室に籠りました。十数分程度、そうして個室にいたけれど、涙はひとりでに出るばかりでした。少し落ち着いても、何かを考えて、普段は泣かないような些細なことでぶり返す。こんなことは初めてで、私は混乱していました。

 埒が明かないので、元の教室に戻りました。泣き腫らした私を見て、何人かが明らかにぎょっとした顔をしました。

 何か作業をしていると気がまぎれたので、何かやることを探しては手伝いました。何かをしていないと、何か暗いものに再びのまれてしまいそうでした。


 夕方。前夜祭が始まり、キャンパス内は活気に満ちていました。

 サークルの上級生が出るステージを見たり、他のサークルのパフォーマンスを見たりする時間は、私にとって心安らぐものになりました。

 華やかで賑やかできらきらしていて、見ている間は何も考えなくてよかった。それだけに、気を抜くと飲まれてしまいそうになる淀みが遠ざかるようでした。

 娯楽というのは、何かを考えだすと泥沼に落ちていくときに、何も考えなくても済むようにあるのかもしれない、と思いました。


 帰り道。少しでも気を緩めたら泣くのは相変わらずでした。一人で音楽を聴きながら、歩きながら泣けてくるなんて、本当に初めてのことでした。

 部屋に帰っても、ふとした拍子に涙がとめどなく溢れていました。家を出てからそれまで、泣くことなんかあまりなかったのに、ダムが決壊して一気に放出されたようでした。

「これ本当にヤバいんじゃないか」「なんでこんなにメンタル死んでるんだ」と、自分でも思うほどでした。誰かと一緒にいたらいつもは涙が収まるのに、友達の部屋に行ってもずっと泣いていました。


 クレンジングシートで化粧を落とした時、アイシャドーが少しもつかなかったくらいには、私は号泣続きでした。

 不意に、家に一人残った妹のことが頭をよぎりました。私は妹を残して家を出た。中学生の時、私と妹だけを置いて出て行った母と、まるで同じことをしてしまった。妹は心細くないだろうか。私と違って父とはうまくやっていたけれど、それでも、何かあったら。

 そうは思うのだけれど、父と妹がつながっていることを一度疑うと、怖くて連絡もできません。そんな自分がふがいなくて、なお泣きました。

 古文に出てくるような、涙で海ができるとかいう表現。なんて大袈裟な比喩なのと受験期には思っていましたが、存外そうでもないなと思いました。

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