放生津の主
李恩が雪貴に追い返されてから十日の後……除霊祭が行われた。
惨劇の祭の後、暴走した鰐に影響を受けてか、鰐があちこちに出没し、守警隊だけではとても手が回らない状態が続いていた。そんな中、李恩は裏木戸をこっそり開けて屋敷の外へ出た。
あの時、彼は祭の為に繰り出した牛車の中で、暴走した鰐に村人達が次々と襲われるのを見ていた。父・郭雲も、彼を従者に任せて参拝の晴れ着のまま鎮圧に飛び出して行った。
今までお祭り気分を楽しんでいた人々の悲鳴を聞き、やっと李恩は正気に戻ったが何が起こっているのか一瞬分からなかった。
ソレを陣幕に投げ入れれば楽しい事が起こると言われ、何も疑わず、何も考えず、何も考えられずにあの男に従ってしまったのだ。
(僕があんなモノを拾って来たせいで……)
李恩は恐ろしくて頭を抱え込んだ。
雪貴を完全に怒らせてしまった。どうすればいいのかと嘆き、とにかく悲しくて拾った石を部屋に篭って握り締めていた。するとその中から黒く奇妙な男が現れ、その姿を見た途端、仮にも守護の家の者である自分がそいつに何もかもを支配され、言われるままに手渡された蜘蛛を持って祭りに出掛けてしまったのだ。
自分でも事件を起こしてしまったのだと充分分かっていた。父の郭雲が疑いを掛けられ守警隊に目の前で捕らえられて行く中、李恩は一人その場を抜け出したのだ。
(こんな石を持っていると誰かに知られたら大変だ。早く捨てなくちゃ。)
彼は履物が脱げるのも構わずぬかるんだ道を走った。そこにしか他にアレを捨てられる場所など無いと感じていたのだ。あそこの主なら何とかしてくれる。放生津の主ならば。
ところが石は、何時の間にか李恩の脇腹に袋を破って癒着し、それを目にした彼は益々恐怖に駆られた。剥がし取ろうとしても石はまるで生き物の様に彼の体にめり込み激痛が走った。
ススキの野を渡る風は唸り、黒い大きな影が李恩の背後に忍び寄って来た。儀式で公隆が仕留め損ねた鰐が、その時嗅いだ強烈な魂の腐臭を放つ李恩を喰おうと探していたのだ。
薄暗い湿地を黒い煙の様に流れて来た鰐は、辺りを伺い獲物の李恩を見定めたのか、涎を垂らして舌なめずりした。
荒い鼻息がススキを揺らす風に紛れる。
その鰐は、元は麓の村々で強盗を働く盗人として処刑された男の悪霊と、家畜や女や子供を襲って食い殺し、地元の自警団によって射殺された狼が合わさったものだった。
李恩は、体に入り込んで来る石を放り出したい一心で、背後の鰐には気付かないまま懐の小刀で自分に取り付いた石に刃を立てた。
「あぁぁ‼」
身を捩りながら、それでも立ち上がり石を投げ捨て躓きながら駆け出した。
酷い臭気を発しながら転がる血染めの小石に、鰐は周りをうかがい小石を咥えようと姿勢を低くした。しかしその時、突如落ちて来た大岩が彼を難なくその場に抑え込んだ。
《騒がしい奴だね。知らないのか、ここで人を喰うのは厳禁だ。そいつも元は人の魂だぞ。》
大岩と見たのは大亀の足だった。
鰐が嘲笑交じりに憎々しげな声で言った。
《人を喰うなだと? 漁師の魂を取って喰ってた奴が何をぬかしやがる。邪魔をするな。俺は腹が減ったんだ。》
足の下へ更に力を入れ、大亀三太夫は鰐を踏み付けた。
《流れ着いた外道が。》
彼は留めを射すように鰐を、少し加減を強めた足で砕いた。
鰐の絶叫が短く響き、止むとそれを待っていたのか、骸を漁る様々な物達が沼から続々と出て来て騒々しく集ると、鰐はたちまち喰われ跡形も無くなってしまった。
三太夫は雑魚共の喧騒の中、李恩が捨てて行った血染めの小石を咥えて飲み込んだ。どんな妄執に取り憑かれこんな塊になってしまったのかと哀れにさえ思ったのだ。しかしその時、彼の中へ混沌とした想いが轟々と流れ込んで来た。その中には彼にとって信じ難い事実も含まれていた。
《守護の守の一人が……命を落とした……うそだ……》
亀は腹の中の気が一度に噴き出る様な憤りを覚え、沼地に足を取られながら慌てふためいて逃げて行く子供の気配を振り返った。
《何が有ったんだ。あんな雑魚にお前が殺られたなんて。何かの間違いだと言ってくれ如月公隆!》
大亀の叫びは放生の芦原を揺るがした。
《この腕を振れば、大波を起こし湿原ごとあの子供を吞みこんで敵を討てるのに。それも我慢しろと言うのか!》
亀の脳裏に古い記憶の中のまだ幼かった元の飼い主 如月公隆が、この放生津潟の畔で別れる際に言った言葉が過ぎった。
また会いに来るから、元気でね。
どんなにお腹が空いても、人だけは食べちゃいけないよ。
そんな事をしたらその時は私がお前を滅せねばならなくなる。
そんな事はしたくないんだ。
分かったら、ここで大人しくしているんだよ、三太夫。
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