第三章 過ぎた時の中で

悲劇の引き金

   

 彩季が今いるこの天聖界は、魂の故郷と言うだけあって特に贅沢さえしなければそこそこ暮らして行ける。

 事故死は有るが、事故死の中には他殺も含まれるのだが、病死は無い。

 四季は移ろうが年中通して気温は二十度程で、寒過ぎる事も暑過ぎる事も無い。

 とは言うものの天候の件に関しては現世と何ら変わらず天災と呼ばれる事が起こる事も有るそうだ。 

 霊となってここにやって来た筈なのに、寿命が尽きて亡くなるのでなく、事故で死を迎えると、恨みや後悔などで悪霊化する事は頻繁に起こり、獣の身体に入り込んで鰐と成るケースこそは稀だが、それは普通の事らしい。その為に鎮める役回りの者が存在するのだ。



 十年程前の事になるらしいが、その時は特に異常で、雨がとにかく降らず、田や畑の作物が上手く育たない事が何年か続いたらしい。

 天候に関しては更に強力な霊力を持つ悪霊の類の仕業との公の見解から、これも特異な事例として、神託の矢が放たれる事になった。即ちその一本の矢によって霊鎮めの生贄を選んだのだ。

 その役を担ったのは当時十八歳の神官を務めるさかき家に生まれた娘、調伏の儀式の際に如月の父が女子高生如月を見て思わずそう呼んだ、秀蘭その人だった。

 彼女は稀に見る霊力の持ち主で、神官の家の者としての初の仕事がその弓を射る事になった。

 新月の夜、除霊調伏の儀が行われる広場にいつもより高い櫓が組まれ、神官のみが付き添い、目隠しをした彼女は地の力を集めた青白く燻る大弓から光の矢を星に向って放った。

 もしも矢が人家ではない所を示したならば、天は生贄を必要としていないと判断が下ったのだが、翌日矢は一軒の農家の屋根に刺さっていた。

 その家には年老いた両親と体の弱い兄、そしてその妹の四人が住んでいた。

 妹の名は綾と言った。見目麗しく、家業を手伝う傍ら舞踊を生業として家計を支える親孝行者だった。神に選ばれた身として、自分が去った後、家の事は心配だったが、村を救う事が出来るならと、生贄として上がる事を承知した。

 彼女の両親も兄も彼女が選ばれた事を誇りに思い、黙って彼女を見送った。村の者達は、彼女がきっとあちらの世では幸せな一生を送れますようにと、祭礼に向う生贄が乗せられた小さな輿に向かい手を合わせ祈った。

 通常、この天聖界で過ごす時間は、人それぞれその長さは現世で積んで来た善行とその質によって決まるらしいが、誰にもそれを記した閻魔帳の査定内容は閲覧できない様になっている。だが、今回の様な特異な場合は何がしかの加算がされるらしい事だけは確かなのだとか。天聖界と言っても元は間違いだらけの現世の荒波を泳いでいた魂が帰って来る場所なのだから、所謂聖域とは言えないのだ。時に惨たらしい犯罪も起きれば、心を洗われる様な出来事も起こる。つまりは現世と何ら変わらず、違いを強いて言うなら、人が物理的な発展を必要としない世界だろうか。


 さて、話を綾が臨む事に成った生贄の祭礼に戻すとしよう。


 男子禁制のこの儀式は、水を司るモノが男を嫌うとされていた為、輿の担ぎ手も全て顔を白い布で隠した 女子士おなごしが勤めるのが習わしとなっている。今回は旱魃を食い止める為の雨を望む雨乞いの儀式だが、精霊の井戸は、集落の中を流れる川の水源に位置しており、そこまでの途中、切り立った崖の斜面に張り付くように造られた急峻な山道を行かなければならなかった。つまりは一歩間違えば命すら危うい場所だった。

 朝からの茹だる様な暑さ。

 これで一体何日目だろう。

 高い空には鳶さえ鳴いていない。

 ところが、早朝の暗がりから出発した一行が、深い森を抜け崖の道を中程まで進んだ頃、雲行きが怪しくなって来たのだ。夏至から三十日程過ぎ、日が暮れるのも大分早くなりつつあるが、日没にはまだ間が有る。しかし、気が付くと辺りは闇に呑まれた様に暗かった。

 古参の女房が、輿の担ぎ手の女達を励ます様に言った。

「もう少しだよ、みんな頑張って。」

 先の様子を見に行っていた女が、慌てた様子で取って返して来た。

「タエさん。何だか様子がおかしいんだよ。」

「何が変だって言うんだい。」

「ここん所、雨もまともに降ってないってのに、崖の途中の山の壁から水がドンドン沁み出してる所が有んだよ。」

「ええっ!」

「この先の、小さく切れ込んで曲がっている所さ。引き返した方が良くないかい?」

 山際に住む彼女等の、親から子へ口伝えにされて来た厄災の記憶が頭をもたげた。

「山の大堤はどうなってんだろうね。」

 何かに気付いて担ぎ手の女達が足元を見た。

「泥水だ……何だってこんなに溢れて。」

 生贄は、輿に乗せられた時から井戸に付くまで一切口をきいてはいけない決まりだが、さすがに外の様子が気になり、覆いを捲くって顔を出した。

 その時、凄まじい地響きと共に立っていられない程の揺れが彼女らを襲った。

 地面が割れ、木が薙倒され、何が起こったのかも分からないままに一行は、斜面を崩れ落ちる土石流に呑み込まれてしまった。

 峰々からの雨水が集まる場所に治水の為にあった大堤の底や壁面には、異常に続いた乾燥によって深い亀裂が入っていたのだ。それまで旱魃に喘いでいたにも関わらず、山間部に集中的に降った膨大な量の雨で堤防が崩落し、大規模な鉄砲水が発生してしまったのだ。


 明らかに異常気象が原因なのだが、想定外の未曾有の災害に、人々の不安と怒りの矛先は矢を射た新米の神官、秀蘭に向けられ、彼女は職を解かれた。彼女の放った神託の矢が指した者が生贄に相応しくなく、受け取りを拒み怒りに狂った精霊がそれを引き起こしたのだと言う者がいたからだった。

 神から預かる矢が間違う訳が無いと、彼女の父、榊 斥宗せきしゅうは擁護するが、犠牲者が多数出てしまった以上どうする事も出来なかった。

 暫くして、犠牲になった者達の霊を現世に滞り無く下らせる御霊送りが執り行われ、それを最後に秀蘭は表舞台を完全に降りる事となったのだとか。



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