月の間

 

 の為に用意されていたのは、如月家でも一番の客間だった。


 小さな灯明が窓際と枕元の壁際に灯してあり、月見窓から見える青白い光が照らす庭を見た彩季はその景色の見事さに溜息を吐いた。白い石が敷き詰められ、山から海へ流れる水の辿る旅を、観る者に連想させる無駄を一切省いた荘厳な絵画のような世界感だ。正に今夜の青い月光が、昼間には見せないこの庭の本当の顔を浮び上がらせている様だった。

 宴席を辞する際、礼の姿勢を解き、顔を上げて見た大人達の視線を思い出し、子供がやる事にしてはちょっと調子に乗り過ぎだったろうかとも思うが、この家の長男なら当然だったろうとも思い直す事にした。 

 窓際のテーブルと椅子三点セットも手が込んだ造りの物が置かれ、如月がじっと窓際で庭を眺める彩季に、備え着けの茶を淹れながら椅子に掛ける様に促した。

 少しだけ話が有ると言って、案内して来た侍女は帰したが、外に人気が無いのを確かめて如月が言った。

「お前には次から次へと驚かされるな。度胸が座っているっていると言うのか。」

 彩季は照れながら、

「私だって元々こんな性格じゃなかったのよ。母さんが、女は行儀作法もちゃんと出来ないといけないって、茶道教室に放り込まれたの。そこの先生に矯正されたって言うのか、もっと堂々していなさいって教えられたの。」

「なるほど。それで挨拶もしっかり出来るのか。じゃじゃ馬に教えるのは師匠にとって苦労な事だったろうな。まぁ、それが子供の姿だと更に可愛いと。」

 いきなり人差し指で頬を押されて、触った如月の手をビシビシ叩く彩季。

「じゃじゃ馬って。確かにそうかもしれないけど、緊張したんだから。」

「それに、抱き心地も最高に気持ちいいな。」

 暗にさっきの庭での事を言っているのだが、

「ハグされるのは嫌いじゃないけど。いきなりだったから、心臓が口から羽ばたいて出ちゃいそうだったわよ。」

「それはすまなかったな。でも私の父は、きっと寂しかったのだろうなと思って。」

 笑っていた如月は急に神妙な面持ちになって月を見上げた。彩季は、両親を見る彼の目が、何となく寂しそうな事に気付いていたが理由を敢えて聞かないでいたのだ。

「……どう言う意味?」

「私は正直、父に懐かない子供だった。父は子供の目にも気高くて、何となく怖くて近寄れない存在だった。だから、お前と接する父の普通の若い父親みたいな笑顔は一度も見た事がなかった。こんな顔をして笑った人だったのかと何とも複雑な気持ちになる。」

「だったって……それじゃあまるで……」

 如月は深く息を整えると改めて彩季を見た。

「私にとって今日と言う日は、忘れもしない。……父の命日なんだ。」

「えっ……命日? 亡くなったって事?」

 それで彼はさっき顔を上げられなかったのだ。

 彩季は何も上手く言えなくなってしまった。

「どう……して?」

 漏れ聞こえる宴の歓声に表情を切なげに緩め、如月は静かに言った。

「あの日の私には、少しの勇気が足りなくて、昼間調伏したあの鰐に呑まれて父は死んだ。鰐を縛る糸に足を取られたんだ。」

 彩季に公隆に抱き上げられた時の彼の手の感覚が瞬時に蘇った。もしもあのタイミングで自分が飛び出して行かなかったら、彼が死んでいたと言うのか? それで如月はずっとあんな顔をして、自分に楽しげに話し掛ける公隆を見ていたのだ。

「……如月さん。もしかして、自分のせいでお父様が亡くなったって思ってるの?」

「助けられたかもしれないのに、私は足が竦んで何も出来なかった。父が鰐に引き裂かれそうになっているのに。」

「違うよ。あんなの小学生には無理よ。私は中身が高校生だから飛び出せたの。」

 実際にそうだと思う。高校生ならば少しは自分に自信が有るから一歩が出るが、実際この小さな体では、鰐の爪を受け止めただけで無理だと即座に後悔したのだ。それにあれは公隆の過失でも如月のせいでもない。故意に投げ込まれたあののせいだ。

「もしも自分がもう少し大きかったらと何度も思った。母も父が亡くなってからはずっと塞ぎぎみだったのに、力付けてもやれなかった。あんなに仲のいい二人だったなんて……」

「思い出して。何だか分からないけど、あの現場にはもう一つ変なモノが紛れていたでしょう。お父様は私達を人質に取られていて動けなかったんじゃないのかな。姿は見えなかったけど、何かに首を絞められる様な変な感覚が有ったのよ。それを払おうとして必死になったら短剣が出せたって言うか……」

 彩季の脳裏に、あの騒ぎの最中に自分達を見ていた公隆の姿が過った。

「だとしても、動けなかった私のせいだ。」

「それは違うわよ。そんな事を企んだヤツが悪いに決まっている。」

 そう言った途端に、如月はふと何か曇りが晴れた様な表情をしたが、それにも気付かず彩季は切なげに窓の外に目線を移した。

 これは本当に過ぎた時間の中なのだろうか。彩季は心がちりちりと痛むのを必死に堪えた。自分が必死にやればやるほど如月を傷付けてしまっているのではないだろうかと。それでも公隆は今となっては、如月の父と言うだけの見知らぬ人ではないのだ。

「すっ、素敵なご両親よね。お母様もとっても素敵で。うちの母さんとは大違い。最初から比べようもないか……」

 如月は、無理に話題を変えようとする幼子の姿の彩季が酷く健気に見えて仕方が無かった。

「私でもあんな風に母に抱き寄せられた事が無いのに。母に何て言ったんだ? 何か話しをしていただろう? 凄く嬉しそうだったが。」

 その言葉には少々何かが含まれている。

「別に……今日はどうしたの? って聞かれただけ。」

「それで?」

「お母様が天の川の天女様みたいにあんまりお綺麗だから、見とれていましたって、言っただけ。」

 如月が呆れたように目を丸くして見せる。

「はっ、母にそんな事を言ったのか。」

 彩季はだから何だと言いたげに。

「これ、お世辞じゃないから。素直に思った通りに言っただけだから。ダメだったの?」

 七歳の男子の口から出たとすればお世辞とは受取られないだろう。

「私には絶対言えなかったろう言葉だ。」

 彩季は、わざとうっとりしたように少し上を見て、思い出しながら溜息を吐いた。

「お父様の踊りは素晴らしかったわ。鰐を縛る呪縛糸を切って行く時はドキドキしちゃったけど、鰐が一緒に踊るなんて驚いたわ。」

 如月も頷いた。

「鰐の怒りを鎮めこの世への執着を断ち切らせる儀式だ。父はシテを演じれば天聖界でも歴代五本の指に数えられる名手だと言われていた。その事が私にとっては何にも代えられない誇りでもあり、同時に負担でもあった。実際にその舞をこの目で見られて本当に嬉しかった。鰐があんな風に穏やかに天に昇って行ってこそ、本物の調伏の儀式なんだとつくづく力の差を感じた。お前も大したものだ。」

 彩季は彼の様子を見ながら、そんな悲劇が有った同じ日が、本当にこの日だったとは信じられない気持ちで一杯だった。宴に集った者達のあの楽しそうな笑顔が、全て悲しみの涙で濡れていたなんて。

「泣いたりしないでよ、如月さん。」

 自分が泣きそうになっているのを誤魔化すつもりで言ったのに、如月がつい溢れてしまった涙を隠すために目を逸らしたのに気付き、彩季は何か見てはいけない物を見てしまったような気がして息苦しくなった。

「とっ、ところで、元の世界にはどうすれば戻れるの? ここがあなたの夢の中だとすれば、あなたが目を醒ませば出られるの?」

 彩季の問いに言葉が出ない如月。

 泣くまいとわざと話題を変えたが、どうも失敗だった。隠そうとすればするほど口調がきつくなってしまうのだ。

「まさか……あなたも閉じ込められたとか言わないでね。実は現実世界であなたまで意識不明の重体とか。……そう言えば、回復していると思う、なんて言ってたわよね。」

 椅子にもたれ掛り、天井を見る如月。彼女の心の揺らぎなど彼には手に取るように分かっているようだ。それもこれも、ただ自分への気遣いからである事も。

「閉じ込められてはいないが……」

 ふと思い付いたように腕時計を見る。もちろん高校生彩季の持ち物である。昼間に太陽の高さで時刻を合わせてあるらしい。

「あっ、いけない。もーこんな時刻だ。幼いとは言えお前も一応今は男子だ。何をしているんだと変に怪しまれかねない。」

 無理矢理路線変更しようとする彼の意図など丸見えだが、まるで何かの茶番劇だ。それが彼の遠回しな優しさなのかもしれないが、やたら真面目な顔をして、自分を艶っぽい横目で見詰める如月を彩季は呆れて見るしかなかった。

 閉じ込められている件について、ちゃんとした回答を返さない彼に彼女が黙っていると、彼は徐に椅子から体を起した。

「それとも、あれか? 私に色々教えて欲しいとか? それならそうと素直に言った方がいい。いや、でも、それは幾らなんでもマズかろう。お前は女子な訳だし、おまけに初体験の相手が自分だと変な事になる。それに、あいにく私も女の体になったのは初めてだからな。上手くできるかどうか自信は無い。」

 無駄に色っぽく艶かしく映ってしまうのは月光のせいだろうか……つまりはもう帰って寝ろと言ってくれているのだが、女子高生の神経はそんな方面には別の回路が有り、滅法過敏に出来ているものだ。そこを突いた攻撃だ。彩季は真っ赤になって立ち上がり、その勢いのまま如月に飛び付いた。

「うら若き乙女に向って何言うのよ! もぉ、何処に仕舞ってあんの、そのやらしい発言わざとするセクハラオヤジ男子モード!」

 すました顔で座る如月の膝の上に飛び乗り、小二の小さな両手で彼の頬を抓った。

 思った通りの彼女の反応に笑いを堪え彼女の手を振り払おうとするが、抓まれてしまってはどうしようもない。

「やめろ、痛い、痛い。冗談、冗談。」

 手を放して目を吊り上げ怒った表情のまま彼を睨む彩季。

「当り前でしょ! つまり、自力脱出は無理かなぁって思っている訳ねぇ。」

 黙っていると泣きそうで、その反動だ。

「察しがいいな。とにかくもう暫くこのままだ。この後の続きも気になるしな。」

「何よ、ドラマでも観てるみたいな言い方して。」

 彩季は如月の膝をポンと飛び降りた。

「しょうがないな。分かったわ。じゃぁ、……おやすみなさいっ。」

 送ってくれようと言うのか、如月も椅子を立って出口に向う彩季の後に付いて来た。

 いきなり彼女は、振り返りざまに女子高生如月の腰に黙って抱き付き、驚いている彼に顔を押し付けたまま、

「今日がそんな日だったなんて知らなかったから、何て言っていいのか分かんないよ。」

 彩季の神経は如月が席を立った瞬間に緊張を解いてしまったらしい。

 建物のずっと遠くから人々の笑い声が聞えている。宴はまだ続いているようだ。

 彼女の涙声に苦笑し、如月はそっと囁いた。

「ありがとう、彩季。」

 しゃくり上げる背中を優しく如月に摩るように撫でられて、やっと落ち着き彩季は顔を上げた。

「おやすみ、彩季。」


 次回からは第二章「事の起こり」へ入って参ります。

 百戦錬磨の守護隊を率いる隊長だった筈の如月公隆を亡き者にしたのは、一体誰だったのか。全ての事の起こりが明らかにされて行きます。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る