もう一人の天音彩季

 除霊調伏の儀式が始まり、彩季は厳かに奏でられる雅楽に似た曲調に溜息を吐いた。

 緋色の振袖に黒い袴、深緑色の甲冑を付けた若者が中央に進み出ると、手に持つ黒い薙刀を振りながら舞を始めた。甲冑には赤い牡丹の花が描かれ、黒い夏烏帽子から透けて見える黒髪の髻にも小さな牡丹の花が飾られている。足にはやはり如月が履いていた様な黒い皮のロングブーツに似たものを履いている。

 彼が武器を振る度に、彩季があの薙刀を持った時と同じ様な、今度は透明な紫の光が、白い胴幕の内側の見物人達のいる席の辺りを包み囲んで行く。まるで何かから守るために遮蔽壁を作り出している様だった。彩季達の牛車の前も幕の様に紫色の光の壁が出来た。

 不思議な事に見物客達はその光が見えないのか、気付いている者は殆どいない気がした。それが守護に成る者と成れない者の差だと彩季はまだ知らない。 

 薙刀の使い手は、武器を片手に軽々と櫓に上がった。光の遮蔽壁を維持する為なのか、薙刀を両手で高く掲げ、床をドンと一突きし、そのまま仁王立ちになった。その瞬間、光が落ち着いた色に変った。

 玉蘭が身を乗り出して誇らしげに言った。

「やっぱり私達が踊るよりずっと素敵だわ。あの踊り手は私の兄上なのよ。」

 薙刀の主、陵英淳。玉蘭の腹違いの兄だ。

「それじゃあ、あの踊りを玉蘭さんと私が踊る筈だったのですか?」

 稽古を抜け出して鰐に遭遇したのだと言われたのを思い出したが、あれは難しいと言うものでは無く、子供には到底無理な気がした。

「だからもっと練習しようって言ってたのよ。負けたくないもの。今日みたいにこんなにいっぱいの人が集まっているのは、ユキの為にユキのお父上の守護の守が踊られるからなの。あなたに怪我をさせた鰐だもの、当り前よね。ちゃんと見ておいて。何時かユキも大きくなったら踊らなきゃならないんだからね。」

 自分の為と言われ、彩季は何だか気恥ずかしいような、複雑な気分になった。


 黒装束の者達が、ぐるりと密に会場を取り囲んだ見物客達を後ろに一回りも大きく引かせ、二重に円陣を造る。今から始まる調伏の儀式の為の囲みである事は言わなくても分かる。その間も香木の匂いが立ち込め、雅な笙と篳篥の音色は絶える事無く続いている。

 鰐と言われるモノが鉄格子の嵌った大きな箱に入れられ、舞台の中央へ馬に牽かれた台車に乗せられて来た。金色に光る常人では見えない糸が檻の内側の壁から無数に伸び、首と言わず鰐の体を立ったままの姿勢で身動きの出来ないように絡んでいた。

 その姿に彩季は息を呑んだ。元は狼だと聞いていたのに、どう見てもライオン程もある見た事も無い巨大な猛獣なのだ。

 守護は霊力もさる事ながら、武道の達人でもあるらしい。見物の者達の目が安心し切っているように見えるのはその為なのだ。

 箱が底の部分だけ残して取り払われた。それでも光る糸は消えずに鰐を縛り続けている。

 如月の父が玉蘭の兄の構築する舞台に進み出てきた。白い陣羽織の背中には独特な紋様の金糸の刺繍がされており、如月が着ていた物と同じ紋の様だった。竹に雀でもなく竜宮城の様な桃源郷の様な世界観を表現した物だ。

 そして、今日は玉蘭が言うように本当に特別な日の様だ。公隆を見るなり見物人達の喧騒が一瞬にして止んだのだ。老いも若きも、村人も御所車の中のやんごとない方々もそこに集う者達の目が彼、守護の守如月公隆を見ている。ましてや女たちは溜息交じり、陶然と見詰めているのだ。

 黒髪に青い瞳。彩季の目から見ると目鼻立ちはヨーロッパ的で、あまつさえ目元を強調するように化粧をしているのもあり、ききりと結ばれた髻が凛々しさを増幅させていた。

「おじ様って、ユキとやっぱり似てるね。」

 玉蘭の目にはそれこそただのオジサンに映るらしいが、一児の父とは言え、公隆はその容色未だ衰えぬ類い稀なる美丈夫である。

 雅楽に似た伴奏の中、腰に下げた長剣をスラリと抜き放ち、公隆は燻るように唸る鰐に切っ先を向け剣舞を舞い始めた。鮮やかにひらりひらりと袖を振り、まるで対峙する猛獣を挑発するような優雅な舞である。鰐は彼の動きと音楽に初めの内は関係なく唸り続けたが、踊りが速くなるにつれじっと跳び掛る間を計るように目を見開いて凝視し始めた。

 金色の光の糸を、舞の動きに合わせて切っ先で一本一本切ってゆく公隆。激しい動きにも関わらず額には汗一つ浮いていない。糸が切られる度に鰐は動きに自由が戻り、その代わり回りを取り囲む黒ずくめの者達からは緊張が滲み出ていた。しっかり結んだ口元はよく見ると何かを唱えている。

 彩季は糸が弾けて行くのを見ながらも、鰐が公隆に襲い掛からないか気が気ではなかった。彼女が想像するに、幾重にも重ねて縛っていた光の糸を一旦解かないと、きっと糸自体が逆に繭の様に守りになって鰐を退治する事が出来ないのだろう。

 鰐の首に絡んでいた最後の一本がとうとう切られた。彩季は目を見張った。鰐の姿がまるで立ち上がった時のサンドラの様に巨大化したのだ。それを目にした途端、手の平が熱くなる彩季。薙刀を出現させたあの感覚だ。

 その鰐を前に公隆は舞い続けた。

 周りを取り囲んだ見物人達の目には、弱り切ってはいるが猛獣の前で公隆が厳かに舞を披露しているとしか見えていないらしい。どの者達の目も不安など微塵も伺えないのだ。

 しかし、玉蘭は違うらしい。彩季と同じで彼女の手を握ったまま息も付けない程の緊張の中にいるようだ。

 曲調が変わり、強い調子の竜笛のような横笛が旋律を奏で始め、巨大化した鰐が公隆の動きに合わせ微かに踊り始めた。それは本当に不思議な光景だった。公隆が長剣を地面すれすれに這わせる様に動かすと、剣の切っ先から光が放たれ、体を揺らす巨大化した鰐が地面から離れた。弱った獣から影が離れたのだ。浮き上がった鰐自身は、笛の音に酔っているのか酩酊した様子で分離した事に気付いていない様だ。

 その時、いきなり李恩が牛車の欄干から身を乗り出し、陣幕に何かを投げ付けた。

 彩季はアッと息を呑んだ。

 彼女がこげ茶色の糸の塊だと気付いた時には、それは巨大な蜘蛛の様に蠢き、陣幕に小さな穴を開けると黒い煙の様な粒子となった。中へ流れ込む様に侵入すると、鰐と対峙する公隆の体に背後から這い上がり一気に実体化し絡み付いたのだ。

 投げ込んだ李恩は得意げに笑みを漏らし牛車の奥に姿を消した。

 呪縛糸から完全に解かれた鰐が、一つ地を踏み鳴らした。

 ドオンと腹の底に響く様な不気味な音が彩季を総毛立たせた。

 縫い付けられた様に動かない自分の手足に絡んだ蜘蛛の足を見る公隆。

 鰐が俄かに地響きの様な雄叫びを上げた。

 このままでは彼が危ない。そう思った瞬間、彩季は思わず立ち上がろうとしたが、身体は何かに押さえ付けられている様に自由がきかなかった。

 玉蘭を見ると彼女も同じなのか、彩季の方を見て声も出せない様子で微かに手を差し出そうとしていた。自分達はいつの間にか悪意の有る何者かの搦め手に遭ってしまっていた様だ。

 彩季の視界の中、公隆が今正に襲い掛かろうとしている鰐ではなく、自分達の方を見ているのに気が付いた。まさか、自分達は人質にされていのではと思いが至ると彼女は自由を奪われつつある自分の小さな拳をしっかり握った。

 あの薙刀の時と同じとは行かなかったが、何かが手の中に感覚として有った。

 彼女はそれを目の前の空間に向けて海の中で渦を描く様に振り回した。

 明らかに空気が変わり身体が自由になった。

 玉蘭も縄を解かれた様に大きく息を吸った。

「玉蘭さん、ここにいて!」

 止めようとする玉蘭の手を振り切り彩季は牛車を飛び出した。

 その手の中にはっきりと武器を握り、あちらとこちらを隔てる光の幕にそれを翳すと、目の前の見えぬ薄絹が裂けた様な感覚と共に開いた。


 楽奏は、ほんの少し乱れたが続いている。それが有るお蔭で紫の光の天幕は保たれているのだ。櫓の上の玉蘭の兄も微動だにせず薙刀を構えているが、その表情は尋常ではない。もしこれが崩れたら、巨大化した鰐が見物客を襲い大惨事となると知っているのだ。

 倒れ込んだ公隆と鰐の間に躍り出た小さな勇者に見物客から歓声が上がったが、そんな声は彩季には一切聞えなかった。

 動けなくなった公隆を背にして、息を整え彩季は武器を構えた。

 今は襲い掛かるこの鰐から彼を守らなければ。

 それしか考えられなかった。

 しかし、横殴りに襲ってきた鰐の爪をギリギリで受け止めていたのは、薙刀ではなく、刃渡り三十㎝程の短刀だった。

「えっ、小っちゃ。」

 体が小学二年生なのだから、武器も合わせて小さくなったのだろうが武器は武器だ。こんな小さな体では持ち堪えられない筈が、受け止めたのは大きさの問題ではないらしい。

 公隆は、手足が地面に縫い付けられた様に動かせない状態にも関わらず、剣を地面に突き立て鰐に対峙しようとする。

「雪貴!」

 その刹那、もう一つ人影が彩季の開けた隙間から天幕の中に飛び込んで来た。

 ポニーテイルに紺の制服姿の女子高生だ。

 彼女は無言のまま鰐に踊り掛かり、突然の出現に唖然としている彩季を尻目に、鰐の頭に空中回し蹴り、足の裏で一撃を加えた。鰐は巨体を後ろにのけぞらせながら絶叫した。

 現れた女子高生は彩季を素早く横抱きにすると、彼女が持つ短刀で公隆の手足の自由を奪っている蜘蛛を切り、倒れ込んだ彼に素早く手を貸し、共に天幕の際へ難を逃れた。斬られた蜘蛛は黒い煙となって消えた。

 公隆は女子高生の横顔を見て驚いていた。

「秀蘭?」

 彼女は彩季を下に降ろしながらも、鰐から目を逸らさず答えた。

「いいえ。私は天音彩季と申します。」

 如月少年彩季は更に目を丸くしている。

(えぇっ、私?)

 彼女もこの緊迫した状況の中、彩季を見下ろし、やや早口で言った。

「細かい事はこれを除霊してから。調伏は始めからやり直しだ。こうなったら稚児の出番だ。踊りは私を見て真似ろ、いいな。」

 彩季は、意思確認もせず話を勝手に進める女子高生のスカートに取り縋った。

「私も踊るの?」

 咆哮を上げる鰐。一刻の猶予も無い。

「他に誰がいる。アイツはもう檻から出されたのだ、後戻りは出来ん。」

 聞いている公隆も目を丸くしている。それにも構わず女子高生が彼を見る。

「私達の稚児の舞で鰐を小さくさせます。その後シテである守護の守・如月様が鰐を昇天させる。その手筈で宜しいですね?」

 見ず知らずの女子高生に思いがけず名前を呼ばれ、公隆は驚きながらも答えた。

「承知した。」

 女子高生は、小袖袴姿の少年彩季の前に膝間付くと、何処から取り出したのか紐で襷を掛けさせ、肩に手を置いて顔を覗き込み彼女にだけ聞えるように言った。

「私が付いている。お前なら大丈夫、彩季。」

「もしかして、如月さんなの?」

 彼女の問いに女子高生如月は小さく頷いた。

「探したぞ。策定糸が切れていて難儀した。」

「私、結んであったのを切っちゃったの?」

 自分の周りを見回す如月少年彩季に苦笑する女子高生如月。

「詳細は後で。短刀を構えろ。出るぞ。」

「はい!」

 でもどうしろと言うのか。踊りは先程から公隆のを見ていたから何となく分かるが。

「基本、手と足は右と右。左と左で連動して動く。向かい合って鰐を挟み舞う。いいな。鰐は人の心を読み弱い部分に付け込んでくる。決して敵意を向けてはいけない。野良犬でも手懐けるもりで微笑みながら踊るのだ。」

 この状況で笑顔さえ難しいのに、色々要求されても困るのだが、やるしかないのだ。

 如月が、いつの間にか手に持つ鞘に収まった長剣を抜刀し構えてみせた。






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