状況を把握せよ
あれから草原で再び気を失ってしまった彩季を、少女が呼んで来た大人達が屋敷に運び手当てをした様だった。
密かにかなりの大騒ぎだった事は言うまでも無い。
彼女が目を覚ました時には、寝間着に着替えさせられ見知らぬ座敷で寝かされていた。
暗がりに小さな灯明が一つ点っていて、頭や腕も肩も湿布を固定する為か、包帯が巻かれ、結ってあった髪ももちろん梳かれ楽になっていた。
「気が付かれましたか?」
そう声を掛けられ、驚いてそちらに目を向けると、見覚えの無い整った顔立ちの青年が微笑んでいた。
しかし何処かで聞いた声だと咄嗟に思った。
そうだ、あの電話の藤間と名乗った声と似ている。
それでも確証は無い。
「ふじ……ま……?」
そっと聞こえないくらいの声で言ってみると、青年は小さく頷いて安心したように彩季の額で温くなっている濡れ手拭を取った。
まさかこんな所で、声紋分析器と呼ばれたオタク的特技が活かせるとは思わなかった彩季だった。
「玉蘭様から、何処にいるのか何も分からないと若がおっしゃっていたとお聞きして、私の事までお忘れになってしまわれてはいないかと心配しておりました。」
彩季は濡れ手拭を額に乗せてくる彼を見ていた。
実際、彼の事は何も知らないが、確かなのは、彼、藤間が如月の部下である事だ。
そしてあの自分に似ている少女の名前は玉蘭。
自分はこの世界の誰かと入れ替わっているのかもしれないと彩季は思い付いた。
「殿と奥様も、今しがたまでいらっしゃったのですが、殿が明朝早くから鰐の捜索にお出ましの為、御部屋にお戻りになられました。」
しかし、体が重く思考も定まらなかった。
「ごめんなさい、何かぼんやりしてて。」
彼女の言葉に藤間は微笑んだ。
「鰐に出くわして掠り傷だけとは、さすが如月家のご長男だと皆感嘆致しております。」
(如月家の長男? ユキって? ここって如月さんの家? 何で選りにもよって。)
「ですが、先生方の目を盗んでお稽古を抜け出されるとは、感心致しかねますね。」
彩季は藤間の話す様子をじっと見ていた。
「気丈な銀嶺も、不意の鰐には驚いたのでしょう。若を振り落すとは。」
白馬が心配そうに自分を見ていた黒瞳を思い出し、援護するように彩季は藤間を見た。
「でも、それが一番いいと思ったんじゃ……ちゃんと逃げずに傍にいてくれた。」
「そうですね。お気付きになっておられたようですね。彼女は鰐と一戦交えたらしいです。前足後足と臀部に小さな傷がありました。馬は足が武器ですからね。彼女は鰐から若を立派に護ってくれたようです。牝馬は臆病で鰐狩りには向かないと言う者もおりましたが、さすが殿がお選びになった若の馬です。」
普段はこんなに喋らないだろう彼の話しぶりを彩季は黙って見ていた。
「別の場所でやはり鰐に襲われた村人がおりました。玉蘭様が若を見付けてお知らせ下さっていなかったら、鰐が再びとって返して襲って来た可能性も有ります。あの方もまだお小さいのに、大変しっかりした姫様です。でも、襲撃に遭われた際、姫がご一緒でなくて本当に幸いでした。もしもその時、姫までがお怪我をされていたら、お世話係として私はどれだけ自分を責めても足りませんでした。」
藤間は、彩季の額に乗っている手拭を取ると彼女が起きられるように手助けし、傍らの盆に乗せた湯呑をそっと差し出した。
「痛みが和らぐ薬湯です。もう少しお休み下さい。夜明けまではあと半時程ございます。」
それにしても何だろうこの現象は。
促されるまま薬湯を口に含み、優しい口当たりに喉を潤すと、胸の辺りの緊張が解きほぐれて行った。
彼女は体を支え起こしてくれている彼を改めて見た。
「ずっと付いていてくれたの?」
彩季の言葉に藤間は、当たり前のように微笑んだ。
「はい。」
「ありがとう。ここはもういいから、もう休んで。それと、心配かけてごめんなさいと父や母にも……」
「若……お伝えします。私の事はどうかお気遣いなさらずに。それが私の職務ですから。」
藤間は何故か半ば呆然としながら、彩季から器を受取ると、彼女が再び横になるのを手助けしてくれた。
「でも、明日が辛いと困るでしょ……」
「どうなされたのですか、急に大人びた事をおっしゃって。」
心無しか、藤間の声が上擦っているような気がした。
「少し一人で考え事がしたいだけ。」
それを聞き彼は口元に笑みを浮かべると、彼女の額に手を当て、熱が下がっている事でも確かめたのか、改まった様子で畳に手を付いて深く一礼した。
「そうですか。では、お休みなさいませ、雪貴様。お言葉に甘えて失礼させて頂きます。」
(ユキタカ……やっぱり。如月さんなのか……)
彩季の心情とは裏腹に、手を畳から上げた彼の顔にははにかんだ笑みが浮かんでいた。
翌日から所謂 鰐の捜索が始まった。
鰐。上手く説明出来ないが、人の悪霊に取り憑かれた獣らしい。
ケガをしていた如月はどうしているだろう。
結局この夢は醒めない。
いや、むしろ感覚もしっかりしている以上、これは夢だと言う概念を捨てなければならないと彩季は思った。
どうする事も出来ないなら、心配していても仕方が無いのだ。
それに現実世界の藤間がきっと何とかしてくれているに違いない。
如月と入れ替わっているのは分かったが、歳は小学二年生程だ。
落馬で全身打撲。
包帯で痛い所をあちこちぐるぐる巻きにされて、一日中藤間が傍に付いて、食事を摂ったり、トイレへ行ったりするのさえ手を貸して貰っている。
何か元の世界に戻る手立ては無いか調べようにも、そもそもどうすればいいのかさえ分からない。
いっそ藤間に全てを話して考えてもらおうか。
でも、弁天堂の有る次元と別だったら、頭がおかしくなったと思われて行動は著しく制限されてしまうに違いない。
如月雪貴はこの家にとって大事な若君なのだから。
とにかく、もう少し様子を見るべきだと思った。
如月の学友も心配して見舞いに来てくれたらしいが、藤間が上手く取り計らってくれて会わずに済んだ。
もし今の状態で会っていたら、子供は勘が鋭いから記憶の混濁では取り繕えない事態が発生していたかもしれない。
色々な溜息が出る。
それでも何とか過ごして行くしかないのだと彩季は窓の外を見た。
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