黒い薙刀

   


 白い草原……チガヤだろうか。

 穂先の花が既に種に成長し、飛び立つ瞬間を待って風に揺れている。

 陽がやけに高い。冬のはずなのに……

 彩季は、何も視界を遮る物の無い果てしなく続く草原の只中にいた。

 足元が濡れている。でこぼこした沼地だ。

 ここは何処だろう。

 ふと思ったが、その場所を彼女は何度も訪れ知っている気がした。

 同時に見覚えが全く無い気もした。

 何故こんな所にいるのだろう。

 誰かに呼ばれた気がして、その方を見た。

 青鷺が一羽飛び立った気配だった。

 制服が……暑い。

 そうだ、チガヤの綿毛が風を待つのは夏だ。

 海はどっちだろう。唐突に思った。

「彩季!」

 今度こそ人の声だった。

 振り返った彼女の視界に彼は立っていた。

 彼女は彼の方へ一歩踏み出した。

「……如月さん。」

 彼女の無事な様子に、ほっとした表情を見せ駆け寄ろうとした如月は、彼女の頭上の空を凝視した。空間が何か鋭い刃物の様な物で切り裂かれ、闇が漏れ出す様に真っ黒で巨大な亀がその裂け目から頭を出したのだ。

「逃げるぞ。走れるか。」

 答える間も置かず彩季の手を取り、引き寄せて駆け出す如月。

 後ろで地響きのような足音がしている。

 走りながら、何か異質な音を聞いて彩季は振り返った。

「うそ……」

 巨大な亀の口の中が、マグマのように赤く光っているのを見たのだ。それこそ気を溜めて撃って来るイメージが過る。

「如月さん!」

 彩季は如月の手を自分の方へ引っ張って斜めに跳んだ。唐突な彼女の動作にバランスを崩し共に湿原に転げながらも、自分達の軌道を読んだ亀の口射砲とでも言うべき凄まじい一撃の着弾に、彼は彩季を自分の背後に隠し亀を見た。余りの熱量に何かが反応しハラハラと灰が降って来る。

 亀が四肢を踏ん張り、目を見開いてはっきりとした人間の声で叫んだ。

《何処へ行く!》

 少なくとも彩季にはそう聞こえた。

 彼は彼女に、後ろへ下がれと言いながら腰に下げた長剣をスラリと抜いた。その瞬間彼の服装までもが変った。あの白い陣羽織だ。

 驚きながらも、怪獣並みの相手に剣なんて何になるのかと思ってしまう彩季だった。 

 そんな彼女の不安を払拭する様に、如月が口の中で短く何かを唱え剣を上段に構えると、手の中でそれは光を帯びて対戦車砲に形を変えた。彼は慣れた様に肩に担ぎ、照準を合わせると躊躇わず引き金を引いた。着弾寸前に亀の影がそれこそ空間を歪めた様に揺らいだ。

《お前に護り切れるのか、そのを。》

 如月には亀の声はただの咆哮にしか聞こえていないのか答えもしない。

 歪めた空間はそんなに長く保てないのか、短い足で歩き始めた亀の姿がハッキリと像を結んでくる。その瞬間を狙って如月は第二弾を放ち、弾は進んでくる亀の頭に着弾した。

 亀が苦し紛れに身をくねらせて首を振ったと同時に光る何かが無数に舞い上がった。金属片だと気付いた時には、彩季は跳び付いて来た如月に覆い被さられ、地面に身動きも出来ない状態で仰向けになり、狭い視界にやっと亀を捉えるような格好になっていた。頭部を地面に打ち付けなかったのは如月が抱きかかえる腕でガードしてくれたお陰だった。

「大丈夫か……」

 呻くように言いながら、手を放し彩季と共に立ち上がる如月の様子は明らかにおかしかった。よろめきながらも、剣を支えに亀に対峙しようとするが、彼はそのまま彩季にもたれ掛かって来た。

「如月さん!」

 彼の背中に手を回して彩季は愕然とした。何か尖った物が無数に生えている。いや、刺さっているのだ。手の平に付いた生温かい物の感触に彩季は、自分の鼓動がこんなにも大きく鳴るのかと思う程の音を聞いていた。

「彩季……、にげろ……」

 崩れる様に倒れ込む如月を必死に支え、ゆっくり地面に横たえると、彩季は泥だらけになりながら立ち上がり亀に目を向けた。

 不思議と彼女の中には恐怖など一欠片も無く、ただ息を整えながら亀を強い目線で見た。

「私の武器えものは何処?」

 無意識にそんな言葉が口を突いて出た。

 自分でも気が付かない内に彼女は左手に何かを握っていた。その重さに見ると、手に馴染む黒光りした薙刀が有った。握る感覚も何も違和感無く全て自分の物だと何故か思った。

 彩季は震えを抑えるために深く息を吸い込んだ。血液が体を流れる音が聞こえる。

 四百mリレーの第一走スタートラインに立った時も、テニスコートのエンドラインでサーブトスを上げた瞬間も、いつも同じ物が手に握られていたのだ。

 そしてどの場面も逃げ出したい程に緊張していた。最後まで気をしっかり持っていないと負ける。それは確実だった。

 亀は傷付いた片目を閉じ、もう片方の目で彩季を見た。

 彼女は、ぐったりと動かない如月に一刻の猶予も許さない状況だと思いながらも、込み上げて来る何かを感じて薙刀を握り直した。

「久し振りね、サンドラ。三太夫って呼んであげた方がいいのかしら?」

 亀は人がやるように傷付いた目を押さえた。

 彩季は睥睨するように亀を見た。

「助けてやった恩も忘れて、この有様は一体なんなの? もう餌あげないわよ。」

 亀が彩季の前で二足立ちした。見上げんばかりの巨体である。それにも動じず、

「重かったのよ、あの時は私も小学生だったから。手提げバッグの中だって汚れて母さんにメチャクチャ叱られたわ。こんな汚い野良ガメ捨てて来なさい! って。」

 亀の口がにやりと歪んだ。

《そんな昔の事を、よく覚えているな。》

 彩季は如月の血が付いた手を握り締めた。

「古くなんかないわ。たったの九年前よ。」

 彼女の言葉に三太夫がまた笑った。

《そうだ、俺が封印されていた時間に比べたら、ほんのちょっとの時間だ。君も随分大人っぽくなった。》

「女らしくなったって言いなさいよ。亀なんかに言われて嬉しい筈もないけどね。」

《なるほど、本当だ。》

「お前がこんなんだって想像もしてなかったわ。意外と早く走れるんじゃない。」

《俺も驚いているんだ。それよりも、やっぱり君とは話しが出来る。嬉しいなぁ。》

 彩季はチラリと口元に笑みを浮かべた。

「ねぇ、さっきからって。お前って一人称が俺の雌なの、それとも本物の雄なの?」

《どう言う意味だ?》

「そのままだけど。だって他の雄亀たちと仲良かったじゃない。モドキ君なんてお前に求愛してたでしょ。モテモテだったよね。てっきり雌なんだと思っていたわ。」

 彩季は可笑しくてたまらないと含み笑いを堪え、手の中にそれこそ血のように真っ赤な唐辛子の粉末が入った袋を出現させた。彼女はそれが大して変な事とも感じていない。

《気持ちの悪い事を思い出させないでくれるか。あんなヤツ等と同居させられて、一日だって安心して眠れた日は無かった。》

 うんざりした様な声で話す三太夫の目を、じ~っと見詰める彩季。ふと何かに気付いて一歩前に出る。彼女の目付きがいきなり戦闘モードから研究者モードに切り替わった事に亀は気付き、思わず一歩下がった。殺気の無い目。どちらかと言えば嬉しそうな目だ。

「ちょっと、やっぱり。お前、始まってるわ。目の中の模様一部消えて黒くなってきてる所が有るよ。イヤぁ本当なんだ。もっとちゃんと見せてよ。やっぱり男の子なんだね。黒化しないオカマなのかと思ってたのに。」

 彩季はいきなり笑顔になると、手に持った薙刀を下に置きスタスタと三太夫に歩み寄った。彼女が纏っていた殺気は微塵も無くペタペタと何時もの様に甲羅に触られ、大亀も動揺しながら緊張を解かざるを得なくなった。

《別に何も変わってないと思うが。大体俺がこの姿になって、なっ、何年経つと思っている。今更・今更黒化なんて有る訳が無い。》

 亀に、もっと頭を低くして、と見上げる元飼い主。こんな目の彼女は思い通りにさせてやらないととにかく怖い。両者のサイズは違うにしても、裏返されたり尻尾を引っ張られたり、甲羅からはみ出した足の肉をぷにぷに押されたりした記憶は消えない。それに慣れてしまっただけに三太夫も条件反射のように顔を近付ける。彩季はそんな亀の盥級の目を隈なく覗き、一点を凝視……後ろ手に持った唐辛子を思いっ切り、振り掛けた!

 その瞬間火箸で突いた様な痛みが亀を襲う。

《何を***! ぐおぉぉぉ!》

 目には物が入っただけで痛い。ましてや唐辛子なんて、堪ったもんじゃない。

 彩季は粉末の袋をポイッ! と投げ捨てた。

「何すんだとは、こっちの台詞よ! このバカガメがぁ!」

 三太夫の声が聞き取れなくなり、体が見る見る縮んだのを見た彩季は、如月の傍らに置いた武器を素早く拾った。それは何の不思議も無く今度は魚捕りの網に変化していた。亀を素早く振り返り、不敵な笑みを口元に網を構えた彩季は深紅のジャージに黒長靴。ある意味薙刀を構えるより亀には怖いと言えた。

 咄嗟に身の危険を感じ、水の臭いを頼りに四足で走り出す実体サイズの亀。

「逃がすかぁ! サンドラぁ!」

 亀は闇雲に逃げ回るがここは海辺で淡水性の沼亀が逃げ込める淡水は無い。ところが二十m程走ると、チガヤから白い冬枯れのススキ野に変った野原に横一線の窪みが見えた。それが川だと気付いたのか、バシバシ振り下ろす彩季の網を掻い潜り、亀は全力で逃げた。ススキに阻まれて捕らえられず、行く手を見切って跳んだ彩季は、水際五mの所でとうとう亀を網の中に捕らえられた。

「さぁて、名前書き直してやる。覚悟しろ。」

 ニヤリと笑い彼女は網の中で暴れる亀を足でギュッと踏みつけ、柔らかい泥にめり込ませて大人しくさせると、出られないように網の口を捻った。先程まであんなに大きかったのに標準サイズの亀は彩季に負けず泥だらけになっていた。剥げた名前を一応確認し、ポケットから白ペンキマジックを出してキャップを取った。ツンとした独特な臭いが立った。

「私ん家出てから何処に行ってたんだ?」

 答える代わりに亀は小さな炎を口から吐いた。それでもビニルの網を破るには丁度いい。

「うわっ!」

 網が解け思わず足を放した一瞬に、ステンレスの網にするんだったと愚痴る彩季。本気モードで逃げた亀を慌てて探した。

「どこへ逃げた!」

 そう言って川を振り返った瞬間、

 ドボン! 鈍い音がした。

「しまった。」

 その後は、予想通り再び巨大化した亀が水面を盛り上げて騒々しく立ち上がった。

 先程まで無かった亀の殺気が辺りを覆った。

 それでも彩季は逃げなかった。彼女はペンの蓋を閉めて素早くポケットに入れると、再び網を正面に持ち構え直した。こんな網では捕まえる事も出来ない。むしろ正反対のリスクが高い。しかし、彼女のビジョンはブレなかった。ススキの生える場所まで亀を睨みながら小さな上り斜面を後ずさる。

《久し振りに、人でも食うか。》

「大人しくするなら、また家で面倒見られる様に母さんに頼んであげるわよ。」

 大亀は、片目で彩季を見据えながらノソリノソリと川から上がって来た。

は好きだが、断る。》

「交渉決裂ね。」

 さっき と思い描き、薙刀が出現した時、手の中に感じた感覚は自分が作り出したものではなく、何から与えられたものだと彩季は敏感に感じ取っていた。

 それまで薙刀など持った事も、ましてや使った事も無かった。しかし、彼女は思うままにそれを手にし、思う通りに構えたのだ。

 今、手の中で亀に向けた網は再び薙刀に姿を変え服装もジャージから高校の紺の制服に戻っていた。その瞬間、地面から精気のように青く光る何かが立ち昇り、彩季を中心として薙刀で半球を描いたドームが現れた。

 薙刀がズシリと重くなった。しっかりと刃先を見詰め、亀に向けて下段に構え直す。ほんの少しそんな動作をしたたけで切っ先が空を切るのを感じた。これは直接敵を切る刃物ではない。自分と地のエネルギーを融合させ攻撃手段として使う媒体に過ぎない。そんなイメージだ。

 ドームが集約し薙刀の刀身に吸い込まれて行く。

 薙刀は怪しいまでに鈍い光を帯びた。

 亀はたじろぎ、ヘビに睨まれた蛙のように固まって動けなくなった。

 彩季は躊躇い無く力強く踏み込むと同時に、薙刀の切っ先を何気なく真っ直ぐ前へ出した。すると、直線的な光が、空気の壁を切り裂いて三太夫の顔の横を掠めた。

《その細腕で、俺が斬れると思うのか?》

 彩季は、亀に言い返そうにも、実はそんな余裕も無く、重い薙刀を構えるだけで精一杯だった。

 三太夫は彩季の構えに本気を見たのか、背を丸めるようにして口を開け、空気を吸い込み始めた。

 亀の口の中に小さな炎を見た彩季は、亀から目を逸らさず、薙刀を打ち出そうとしたが、空間に縫い付けられたように意に反して重く先程のようには素早く動かせなかった。

(重い……持っていられそうにない。)

 手を前後にもう一度上段に構え直そうとしたが全く動かせなかった。

 三太夫の動きが先に止まり、太陽のように眩い光が口の中に現れた。何かが彩季に完成しない内にと言う焦りなのか慌てた様に、動かない彼女目掛けて火の玉を撃ち出した。

 それに対して彩季は、薙刀の切っ先を少し向けただけに留まった。気取られたくないがそれが精一杯の動きだったが、亀の攻撃に対してはそれだけで充分だった。纏った陽炎が見渡す限りの空間から青い光を引きずり出すように巻き込み、彼女を中心とした渦が出現し、渦の一番外側で三太夫が口腔から吐いたエネルギーの玉が砕け、ただの火花になり、彩季には火の粉一つさえ届かなかったのだ。

 亀の顔が驚愕に歪んだ。

 彩季は速くなる鼓動を抑え、薙刀を持つ手に集まる力の重さを感じながら上段に構え、渾身の力を込め思い切り振り下ろした。

「このバカ亀、どこか行っちゃえ!」

 彩季を取り巻く銀色の渦が、彼女の描いた切っ先の軌道を増幅させ、縦の眩い光の扇型を形作り三太夫を真っ二つに斬った。光の扇はそれだけに留まらず、威力が果てるまで空間を切り裂き続け、その裂口部に亀の咆哮をも呑み込んで消えて行った。


 彩季はフッと息を吐き出すと、如月の元へ駆け戻った。先程より更に白い冬枯れのススキの野に彼の白い影が横たわっていた。

(如月さん!)

 叫ぼうとしたが声が出せなかった。

 余りに辺りが静かで風の音さえしない。

 それが妙な気がして彩季はふと周りを見た。

 先程までの騒々しさなど嘘の様に静まり返っている。

 何も聞こえない。

 風に葉が擦れる音さえも。

 いや、音を立てているはずの動きをしているのに、彩季は聞えていないのは自分だと気が付き、如月の元へ行くのもおぼつか無い足取りになってしまった。

 足とは関係ないのに早く歩けないのだ。

 無言のまま如月の傍に座り込み、彼の顔を覗き込みながら肩を叩くが全く反応が無かった。傷は見れば分かる。背中に刺さった金属片によるものだ。彩季はどうすればいいのか全く分からなかった。とにかく向かい合わせに座った位置から彼の傍ににじり寄り、彼の頭を持ち上げ、横に崩した自分の片内膝に乗せてやると、安定させる為に上にした右腕を腰に回させた。首筋に触れてみると微かだが脈は有った。彼は生きている。でも、このままでは助けられない。少し遠慮がちに首の下に腕を回して顔の位置を少し上向かせる。これで少しは呼吸が楽になるはずだ。

 不安が溢れ出そうだった。

(誰か来て!)

 何処かに連絡を、とにかく助けを求めなくては。どうすればいい。どうすれば。

 パニックになりそうな自分を抑えようと彩季は携帯電話を取り出した。最早それが繋がる場所ではない事ぐらい分かっているが、画面を見た。電源は入っている。こんな時は普通に救急車を……

 番号を震えながら押す。当たり前だが、救急も消防も警察も繫がらない。最後に思い付いたのは如月に渡された番号だった。それが最後の望みのような気がして、彩季は指の震えを必死に抑え、登録してある番号を探した。不思議な事に他の音は一切聞こえないのに、携帯を耳に当てるとコール音が聞こえた。

〈はい、弁天堂観光、藤間です。〉

 咄嗟に言葉が出ない彩季だったが、搾り出すように言った。

「あっ、あの……」

 その声に反応してあちらから問われた。

〈もしかして、天音様ですか?〉

「はい。天音彩季です。如月さんが……大怪我をして、今、ここ何処だか分からない川原に倒れてます。助けて下さい。」

〈如月が怪我? どんな具合ですか。〉

「背中に大きな金属の破片が刺さってます。私を庇って怪我を……意識が有りません。」

 電話の向こうの声はあくまで冷静だ。

〈確か化け亀の捜索に向ったと思いますが、亀はどうなりましたか?〉

「何とか……追い払いました。早く来て下さい。このままだとこの人、死んでしまう。」

〈ご安心下さい。只今この電話の発信源を策定中です。〉

 探していると言われ少し安心する彩季。

〈場所が特定出来たようです。至急向いますので、今暫くお待ち下さい。大丈夫。落ち着いて。如月はそんな事ぐらいでは死にません。……ところで天音様、亀はどの様にして追い払われましたか?〉

 こんな時に何を聞かれるのかと思いながら、

「あの……薙刀を使いました。上手く行ったのかどうか分かりません。とりあえずここに亀はいません。」

〈あの薙刀を? 私も拝見したかったです。〉

「えっ?」

〈何でも有りません。失礼しました。私は如月の部下で藤間と申します。〉

 その時、気を失っていた如月が微かに目を開けた。向かい合わせの体勢である。

 思わず嬉しくなって声が大きくなる彩季。

「藤間さん。如月さん意識が戻ったみたい。」

 その言葉に、如月は眉間に皺を寄せ、首を横に振りながら彩季の携帯に手を伸ばした。

「弁天堂に繋がってます。藤間さんって人です。助けを寄越してくれるそうです。」

 如月は携帯を受取り、いきなり切った。

「何するの!」

 彼は携帯を彼女に返し苦しそうに息を吐きながら言った。

「何と名乗ろうが、おそらくそいつは三太夫の下僕……奴もかなりの手練れ。場所を特定されたかもしれん。早くここを離れなくては。」

「どう言う事?」

「藤間はあの温室の前で我々を待っているんだ。場所も伝えてある……」

 そう言いながらも、また意識を失いかける彼の手を彩季は思わず握った。

「如月さん、どうしたらいいのか教えて! どうすればここから出られるの? どうすれば元の所に戻れるの?」

 雨が無情にも降り始めた。あんなに青かった空に黒雲が湧き、風が唸り始めたのだ。

「解陣印……を描いて。」

「あの時の陣形? でも、私書けないよ。」

「大丈夫、思い出せる。頭の中で描くんだ。お前なら出来る……きっと……」

「ダメ。出来ない。一度見ただけなのに。」

 必死に訴える彩季に如月は彼女の目を見た。

「拓海に君が教えた頭の中で誰かの声を思い出す様に、私が描いた呪紋の一条でいい……後は私が一緒に呪を唱えるから……」

 辺りはたちまち真っ暗になり、轟々と怒る様に風が吹き荒れ始めた。

 浅く小刻みに息を吐く如月の様子に、彼の目を彩季は覗き込んだ。

「苦しいの?」

 彼は額に油汗を滲ませ小さく首を振った。

「いや……大丈夫……」

 まだ幼かった頃、親戚の急な不幸の為に弟の拓海と二人きりで留守番をさせられた夜、絵本を読めとせがまれて、その内に膝枕のままで小さな弟は不安で一杯の姉をよそに寝てしまった事があった。風の音も雷も怖くない。ただ怖いのは、誰も帰って来ないのではないかと想像する事だった。

「準備……出来たか?」

「うん。やってみるしか無いよね。私の携帯を持っていて。私だけ別の所へ飛んでしまったら、藤間さんに電話して。眠っちゃダメだからね。」

 如月に携帯を握らせ、彩季は激しくなる雨でこれ以上彼が濡れないように、制服の上着を脱ぐと頭から被り、彼の頭を抱いて覆い被さると、額と額を合わせ、目を閉じ、初めて会った時、彼が指で岩肌を撫でる様に光る線で描いた紋様を思い浮かべた。囁く様な如月の声が聞こえ、体が不意に軽くなり、彩季は上も下も分からない感覚に呑み込まれた。


 彩季は、正体が化け物だろうと小さな亀の姿のままでいるなら、今まで通り三太夫を家に置いてやっても構わなかったと思っていた。ただ聞いておけば良かったと思う。あの顔を思い出せない夢の中の幼馴染も、夢をお前が食べた為に名前を忘れてしまったのかと。そうだとしたら、それに何の意味が有るのかと。


                          つづく




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