付き纏う者
友人達を撒いた後、彩季は、如月と約束をした弁天堂へ向って自転車を走らせていた。
彼女は湿った土の匂いを嗅ぎながら冬枯れの田園風景に目をやった。彼女の家は古い商店街の中に有るが、この辺りは、防風と建て替え資材を兼ね植えられた屋敷林を構える大きな屋敷が一軒一軒田畑に囲まれてばらばらに点在していて、この地域ではごく当たり前の風景だが、意外と珍しい景色らしい。
実は彩季には最近気になる事が有る。
この風景の中に、空き家になってしまっているのがこの所増えているのだ。放置された家の庭を見るのが趣味と言っていい彩季だが、このままではどうなってしまうのかと何だか不安なのだ。
守る人がいなければ家は風雨に晒され崩れて行ってしまう。
それに気付いたのは小学校四年の頃だ。
手入れの行き届いた綺麗な庭が、ある年を境に庭木の剪定がされなくなって下草が生え放題になり、屋根に落ちた杉の葉が樋を塞ぎ、窓がくすんで郵便受けがダイレクトメールや広告で溢れ、自転車や車がいつの間にか無くなり、しまいには窓ガラスが台風なんかで割れても放置され空き家になったんだなと、子供にも分かる状態になる。その後は家も死んだ様に段々崩れて廃屋になって行く。
如月が弁天堂と言ったあの家も、随分前からすっかり廃屋化しているのに、昨日はその壁に新しい貼り紙がしてあったのでつい目を留めたのだ。
白い紙に青いクレヨンで子供が描いた様なバスが書かれていたと思う。
それが何だか気になって、自転車を停めたのだ。
そしてその後……唐突に
弁天堂の他にも近くに空き家が何件か有り、彩季の趣味スポットになっている。
その中でも実は要注意物件と言うのが有る。
建物と庭を合わせて約三百坪、白い洋館作りで温室まで備える所謂豪邸だ。
バブル期に建てられたが、度々空き巣に入られ、裏のゴミ捨て場が放火され、その後持ち主の事業失敗で一家は夜逃げしたとか。
悪い噂の絶えない曰く付きの大物物件なのだ。
この家の一角は元々近所でも密かに評判のお化け屋敷が有った場所で、そのせいで会社が倒産したとか、孫が原因不明の病気になったとか、とにかく縁起の悪い所なのだ。さすがの彩季もここだけはお気入りに入れていない。
でもその家の庭には他には無い物が有る。
それは、今は冬で咲いていないが、家を覆い尽くさんばかりの勢いの、小さな薄桃色の花を咲かせるヒマラヤンムスクと言う名のツルバラだ。
ところが、今まさに通り掛ったその門を、人が入って行ったのを彩季は見たのだ。
彼女は思わず自転車を停めた。
あんな場所には間違っても近寄るものではない。
何がいけないかと言えば、酷く空気が淀んでいてカビ臭いのだ。
幾ら彩季が鈍感でもこれだけは分かる。
入って行った人影を、彩季は生垣越しに庭の中を覗いて探した。
冬枯れの荒れた庭の中を、奥に建つ温室へ向かって学生服の男子高校生が歩いているのが見えた。
自転車を留め、彩季は不本意ながら注意深く門扉脇の鍵の掛かっていない潜り戸をそっと開けた。
入り口を潜った瞬間、空気が変わった事に気が付いたが、中は想像したほど怪しい臭いはしておらず、むしろ清流の様な香りがした。
彩季は先程の高校生を追い掛けて足早に温室へ向かった。空き家と言っても、未だに所有者がいる私有地である事には変わりない。
こんな所を誰かに見咎められても面白くない。
見捨てられた庭にはバラの木が多数植えられたまま放置され、在るものは立ち枯れ、運良く生き延びた物も自らの重さに耐えられず地面を這ったような状態になっていた。
家の軒下は藤棚の様にツルバラを利用したパーゴラが延々と連なり、野放しにされたそれらが家の半分を覆う凄まじい勢いは威圧的とさえ感じた。
足元の地面は、積もった落ち葉が地面に張り付いていて、一昨日の雪で更に水を含んでズルズル滑った。
人影を見付け彩季は温室に急いだ。
近付いて見て、改めてその贅沢な建物の大きさに閉口した。
二階建ての母屋と同じ高さが有る入母屋造りのガラス張の窓は所々割れて落ちてはいるが、朽ちていると言う程でもなかった。
大きな暖房機や散水機、天井部分開閉のための設備は植物園並みだと思った。
「あれ?……もしかして、天音彩季君?」
後ろからの声に驚き、彩季は猫の様に跳び上がり振り返った。
探していた相手に逆に声を掛けられてしまったのだ。
「おっ、お久し振りです。仁科先輩がここへ入って行くのが見えたから、つい……」
仁科薫。彩季の一年上で、実はエリ達の話に上った先輩の彼氏である。
仁科と言う名前も騒動の後で知ったのだ。
彩季は愛想笑いを浮かべて頭を掻いた。
そんな彼女に、仁科もやや驚いている様だった。
「あっ……そう。」
自分から話し掛けておいて、何故か彼が照れているのが分かり、彩季も目を泳がせた。
「どうしたんですか、こんな所で。」
そう言いながら、自分の行動こそ彼にとっては違和感そのものかもしれないと思った。小中学生の頃は、恥ずかしい事だが話し掛けられてもびっくりして逃げ出していたのだ。実際彼とは何度も顔を合わせたが、まともに口をきいた事が無い。
それでも、何となく彼の優しさは雰囲気で分かっていた気がする。
仁科は思い直した様に口元を緩めた。
「ここは僕の母の実家だよ。今日は祖母に会いに来たんだ。こんな広い所に一人でいるからさ。ちょっと心配で。」
彼の言葉に、ここはもう誰も住んでいない空き家の筈だと反論しようとして、彩季はふと軽い目眩を覚え、ほんの少し動きを止め瞬きする間に豹変した景色に愕然となった。眼前の煤け外れかけたガラス戸が、完璧に磨かれた立派な温室のドアに変わっていたのだ。
(何……この超常現象……マズイでしょ。)
「中で今からお茶を頂くけど。君も一緒にどうだい?」
思わず両手を胸の前でダメダメと振る彩季。
「いえ、それは。先輩、ここに長く居ちゃ危険ですよ。ここはつまり……」
断られているのに仁科は嬉しそうに笑った。
「分かっているよ。やっぱり君にも見えるんだね。大丈夫。祖母に少し付き合って話しをしたら帰るから。君もどう?」
温室の扉を少し開けて微笑み、仁科は彩季を中に誘うが、彼女の警戒心は既に黄色から赤に変わり、これ以上この場に留まる事を拒絶していた。
その時、温室の中から声がした。
「---薫、誰か来たの?---」
それは何か奇妙なモノではなく、ごく普通の年配の女性の声だった。気味悪くもなく、本当に普通の声なのだ。
それが彼女の警戒レベルを引き下げてしまった。
彼は満面の笑みを湛え振り返ると、友達も一緒だけど、入っていいかな、と聞いた。
「---大歓迎よ。遠慮しないで、連れていらっしゃい。美味しいお菓子も有るわよ。---」
今行きます、と返事をしてから、仁科は一層優しげに微笑むと彩季に手招きをした。
「祖母は優しい人だったから、心配無いよ。」
「でも……」
「何か、僕を疑っているの?」
「いえ、違います。ただ……」
「分ってる。祖母は幽霊だ。でも何もしない筈だよ。お茶やお菓子を出されても、何も食べなきゃいいんだ。でも、君にまた会えて良かった。何だかあんな別れ方だったから。あっ、別れ方なんて言ったら、付き合ってたみたいに聞こえちゃうか、僕達。」
幽霊なのだとはっきり言われても、全然そんな風に聞こえなかったのだ。いや、彩季がこれが幽霊の声なのだと説明されたモノを意識して聞いたのは、おおよそこれが初めてだった。
仁科は笑いながら温室の中の様子を見た。
早くここから出た方がいいと分かっているのに、彩季は裏腹な返事をしてしまった。
「じゃぁ、少しだけ……お邪魔します。」
仁科は目を細めて彩季を見た。
「あの頃は、何故か君の部活の先輩の女子が邪魔をして君とゆっくり話しもさせてくれなかっただろう? 僕はもしかして君も 見る能力が有るのか確かめたかっただけなのに。」
彩季は、いい加減他人の彼氏に付き纏うな、と怒りを露に掴みかかって来た所謂仁科の彼女だと自他共に認めていたその人を、彼が名前も覚えていない様にただ女子とだけ呼んだ事に眉を寄せた。
そして自分さえ自覚していない能力たるものに、気付いていた者がいた事に驚きを隠せなかった。
「もう三年も前だけど、あの騒ぎのすぐ後、僕が父の仕事の都合で引っ越して、君にも誤解されたまま姿を消す事になっただろう。僕としてはもう一度君に会ってちゃんと話しをしたいなって思っていたんだ。僕の目に狂いは無かったね。ここだってどんな風に見えてる? もう廃墟には見えてないんだろう。前は立派な温室だったんだ。」
彼の言葉に頷きながら、庭へ入ってしまった事を彩季は今更ながら後悔した。
温室どころか庭や屋敷までが、以前の綺麗だった昔の姿に変わっているのだ。
それでも彼女は、何とかその場に押し留まろうと立ち止まった。
「仁科先輩は、高藤先輩と付き合っていたんじゃないんですか?」
彩季に合わせて仁科も立ち止まった。
「高藤さん? あの人はそんな名前だったんだ。僕が彼女と付き合っていたなんて事実は無いよ。完璧彼女の勘違いなんだ。あんな言い方をされてびっくりしたけどね。二三回学校からの帰りが一緒だった事は有るけど、挨拶を交わした程度で、とてもシャイな僕みたいな中学生が一年先輩の美人と付き合うなんて出来た訳無いじゃないか。むしろ彼女が僕の名前を知っていた事に驚いたくらいさ。」
彩季はそう言った仁科薫を改めて見た。彼の言葉が本当だとするならば、自分も含めたその他の者達が、勝手な憶測で全く別の人物像を作っていた事になるではないか。
「だけど、高藤先輩は仁科先輩の事を自分の彼氏だって。私には、もう彼に近付かないでって、それは酷く怒って……」
それを聞いて仁科は呆れたように笑った。
「何処でそんな話になってたの。ドラマなら、それ修羅場って言うんでしょ。参ったなぁ。ただ僕は、君が凄く困ってたから居たたまれずに出て行っただけで、まさか僕があの騒動の素だったなんて、今初めて知ったよ。」
仁科は人形の様に整った顔に笑みを浮かべ、
「実を言うとね、君の事をずっと前から観察してたんだ。だって君、毎日空き家の庭を見てたじゃないか。何してるんだろうって。」
「えっ、」
「僕が気にしていたのは君だったんだけどな。他から見れば後を付けてたみたいに見えただろうね。どちらかと言うと保護者的感覚でさ、危なっかしくて見ててハラハラしたよ。君が立ち去った後で、同じ所を覗いてみてやっと分かった。人がいなくなった跡に生えた植物とか棲み付いた動物とか。想像を掻き立てられるって言うか、そんな景色に大地が育む壮大な自然の縮図を君は見ているんだろうって思った。その中でも、僕は植物の根が遺跡を呑み込んだ風景って究極だと思う。植物は人より長く何千年も生きるからね。」
彩季の脳裏にも鮮やかに浮かぶ或る風景が有った。
「先輩も相当のマニアじゃないですか。」
「人間の遺跡は、長い地球の歴史の中で言えばクシャミみたいな物の痕に過ぎないんだ。」
同じ趣向だとは知らなかったが、そんなに観察されていた事にも全く気付かなかったとは、何たる不覚だと思った。
「中学二年まではこの家から学校へ通っていたんだけど。……えっ、知らなかった?」
仁科に呆れ顔をされて彩季は建物を指差した。
「ここ・ですか?」
「やっぱり。君は、草や木、蛙やトカゲは見てたけど、自分をチラ見してる男子には気付かないし、興味も無かったんだね。悲しい。」
そう言えば、いつも登校の際にこの辺りに差し掛かると、彼の後ろ姿が有った気がする。下校時も何かを見付けて夢中になっていると、いきなり話し掛けられた事も有ったと思う。それで校区は違うが顔だけは知っていたのだ。
「すみません。私って、見たい物しか目に入らないとか、そんなつもりないんですけど。」
「いや、結構そう言う所有るよ。今からはストーカーとかに気を付けた方がいいよ。僕が言うのもなんだけど。」
彩季は照れる半面、少し緊張しながらも仁科に続いて温室のドアを潜った。暖かい空気と共にレンガを濡らした水の臭いがしていた。
「それにしても凄い温室ですよね。一度中に入ってみたいと思っていたんです。」
彩季の問いに爽やかに笑う仁科。
「祖母の自慢の蘭の為の展示温室さ。」
「羨ましいです。
「君の家にも蘭好きの人いるの?」
「母と私です。私は主に実験を。」
「えっ、実験? どんな事をするの。」
「色々です。蝶の季節外れの羽化実験とか。」
入り口を飾った胡蝶蘭群の見事さについ、凄いですね、と言って感嘆符と共に見上げ、同意を求めようとした彼女の視界から、いつの間にか仁科がいなくなっていた。
不意に後ろでドアが音を立てて閉まった。
ハッとして振り返った視界の中、仁科がドアの外で中にいる彼女に笑い掛けていた。
「先輩!」
閉じ込められる! と瞬時に手を伸ばし踏み出した一歩の下に地面は無く、ただ口を開けた闇だけが広がり、落ちる感覚に彩季は思わず目を閉じた。
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