水底で待つ者

 ぽつり……

 鈍く光る滴りが小さく水面を打った。

 暗く生い茂る木々。

 木漏れ日も、この忘れられた池の水底までは届かない。

 彼は何かの気配に目を醒ました。長い眠りだった。決して心地よくはなかった。

 四肢を絡め彼を動けなくしているのは清い水だ。

 池の底から微かに湧き出す銀の糸。

 弱り果てた彼を留めるには充分過ぎた。それが細くなったのだ。

 長きに渡り彼をここに封じて来た清き流れの糸。


 今ならば、今ならば切る事が叶うかもしれない。


 鼻先を水面に向けるがまだ遠かった。

 何も見えない。目が開いているのか、閉じているのかさえも分からない。

 彼は母体から外界へ出ようとしている胎児の様に身をくねらせた。

 腕が微かに動く。

 指が感覚を持って水を掻く。

 ほんの小さな灯火に似た揺らぐ光が、彼の暗闇に灯っていた。


 あれは……あの光か。

 そうだ……俺を醒ましたのは……あれだ。

 彼の全身に震えが走った。

 糸が不意に切れた。

 待っていた……この時を。


 彼は必死に藻掻いた

 不意に目の前を黒い影が横切ろうとした。彼は反射的にそれに喰らい付いた。造作も無く哀れな一匹の魚が彼の口に捕らえられた。最後に物を口にしたのは何時の事だっただろうか。彼は感覚を取り戻しつつある指の爪で魚を引き裂いた。血の臭いが辺りに広がった。その臭いを嗅ぐや、今度こそ彼は目を開けその獲物に貪り付いた。

 ふと気付いた時、彼は口の中と言わず自らを覆う様に広がる血肉の臭いに噎せ返った。獲物は彼の渇き切った内臓を十分に満たしてくれた。


 ……こんな小さな命が。

 俺はそんなもんじゃなかった筈だ!

 もっと堂々と、もっと光に満ちた世界を生きていたんだ。

 主とも護り神とも言われて……


 光は小さくなり、遠ざかって行く。


 逃すものか。待つんだ。


 彼は水面に向かって水を掻いた。

 鼻先が水面に出た。皮膚を通してしか呼吸をしてこなかった肺の中に一気に外気が流れ込む。鼻から思わず水を吹き出す。

 池の縁にようやく指が触れた。体が重い。浮力とはこんなに有難いものだったのか。水の中にいた時は感じもしなかったそれと相反するものが彼の行く手を阻む。


 行くな。行かないでくれ。


 爪は縁に掛かったが、上手く行かず何度も何度も水に落ちた。それでも彼は諦めなかった。ようやく確かな手ごたえを感じ彼は力任せに体を持ち上げ外界へ乗り出した。爪が悲鳴を上げて根元の皮膚諸共に折れた。凄まじい痛みと共に水が赤く染まった。

 彼は初めて土を踏む生き物の様に滴る水の支配から逃れ地上に上がった。

 しかし、重力に押さえつけられ彼は地べたに這いつくばるしかなかった。

 顔さえも上げられない。

 体はまるで石のようだ。

 それでも彼は懸命に泥の上を光に向かって這った。


 俺の声を聞け!


 光が止まった。彼の叫びが聞こえた様に。

 彼はがむしゃらに手足を動かした。


 一人の少女が木漏れ日の降り注ぐ坂道の途中で立ち返り、今来た道を少し戻るとしゃがみ込み、瀕死の亀をしげしげと覗き込んだ。


「ブロックかと思ったら、カメだ……ねえ、名前何て言うの?」


 枯枝で甲羅を撫でられ、彼は自分の名を答えた。それを聞くと彼女は嬉しそうに笑った。


「サンドラ? サンドラって言うの、お前。」


 亀が彩季に出逢った時の記憶である。




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