第一章 夢喰いと呼ばれた亀
入り込んだ非日常
高校の二月半ばと言えば三年生は殆ど登校せず、彼らがいない階から静寂が漂ってくる季節だ。二年生である彩季らの教室は正にその不気味な静けさに直接包まれるポジションである。何時も聴こえていた騒めきも何も無いと言うのは結構落ち着かないものだ。
特別編成で午前中だけとは言え、何故こうも空腹もピークの四限目と言う極限の時間帯に、数学の授業など組み込んで有るのかな、などと思いながらも彩季は設問を解いて行った。
隣の席のエリが、沈黙に包まれた教室の空気の中で、何か聞きたそうにこちらを見ていた。
〔何?〕筆談 彩季
〔この間から君がやっていた、蝶の低温下における夜短縮実験だが、その後どうなっているかね?〕エリ
〔羽化に成功した。やっぱ植物と同じ。気温はあまり関係無さそう。明・暗どちらが羽化するホルモンに影響しているのかははっきりしないけど、予想通りだった。蝶は温室でまだ生きているから見に来る?〕彩季
エリは生物部の部長を引き継いだ生き物オタクで、彩季は彼女を刺激するオタクな相棒である。思い付いた実験を計画するのも彩季だ。だが彼女は生物部ではない。
「何コソコソやってるかな。出来てるなら前に出て設問Aの3、横山、解いて。」
筆談に気付かれたとビクリとしたものの、違う奴らだった事に二人はホッと胸を撫で下ろした。
いいタイミングでチャイムが鳴った。
教師が仕方無さそうに時計を見た。
「次回は横山の設問Aの3から始めるから。」
日直の号令が掛かり本日の授業は終了した。
凍えた廊下の窓に当たる無数の軽い小さな音にそちらに目をやると、外は雪が降り始めていた。日直のエリと一緒に職員室までプリントを取りに行った帰り際、立ち止まった木造校舎廊下の隙間風は冷える事半端無い。
エリが手を擦り合わせながら彩季を見た。
超レトロな彩季達の通うこの高校の木造校舎は、噂では第二次世界大戦以前の物らしく、屋根は瓦葺きで三階建て。上から見た構造物は日の字型となっている。
「蝶は日曜にでも見に行こうと思うから、今日は、たこ焼き屋に寄って帰らないかね?」
友の提案に彩季は頷きながら応えた。
「賛成。お小遣い貰ったばっかりだから。」
「それにしても、何故雪なのだろうね。今年は降らないと勘違いする程、一昨日まで晴天が続いていたのに。まあ、そんなに寒くはないが。」
彩季はエリの言葉に思わずポケットに忍ばせて来た使い捨てカイロに触った。彼女はああ言うが、今日は持って来て正解だったと思う。
「冬には少なからず雪は降るものだって。」
エリは手指を温めるように息を吹きかた。
「暖冬の年は猛暑だと言うし、降ってくれないと水の心配も有るだろうしな。」
彩季は寒そうにしているエリに、仕方ないなと言いながら、
「ほら、温かいよ。一つあげる。」
彩季はカイロの内の一つを出して、彼女に手渡そうとしたがうっかり取り落とした。おまけに拾おうと屈んだ拍子につま先に当たって、カイロは前へスッと廊下を滑って行ってしまった。
「もう、何やってんだかぁ。」
自分で自分を愚痴りながら、慌てて後を追う彩季より先にそれを拾う手が有った。
「すみま……せ……ん……」
顔を上げながら、彼女には足の運びを見ただけで、それが誰なのか分っている気がした。
拾った手の主は彩季がじっと自分を見ている事に小さく溜息を吐いた。そして、
「よお。」
彼は笑みを投げて来た。
反射的に笑顔を返したが、彼女はそこにその人物がいると言う状況に、表情を堅くして立ち尽くしてしまった。鼓動が一際大きく鳴り始め手の平が熱くなった。
「何で? ……如月さん。」
そんな彩季の様子にも気付かず、エリは腕を組んで来た。
「申し訳ない、これの不手際で。」
彼女の言葉で彩季は金縛りから解けたようになったが、エリは愛想笑いを浮かべたまま肘で彼女を小突いて来た。
「どうした彩季。ボッとして。暫く会わなかったら先輩の事を見忘れたのか?」
親友の言葉に彩季は密かに息を呑んだ。
(えっ……先輩?)
這い上る緊張に彼女は口元を押さえた。
「何で……ここにいるの?」
彼は微かに笑みを浮かべて言った。
「何でって。ちょっと先生に入試の過去問の答え合わせしてもらいに来たんだ。」
全く不自然さの無い高校生の答えである。
「そっ……そう……過去問ね・過去問。」
如月は彩季に拾ったカイロを手渡して来た。
「ほら、気を付けろ。三年生の前でうっかり落とすなんてのは無しに頼むぞ。」
ハッとして、彩季は受取ったカイロをエリに差し出すと間髪入れずに言った。
「エリ、ちょっと先に行ってて。私、先輩に話が有るの。」
「えっ、ああ、分かった。」
彩季はエリにプリントも手渡すと、躊躇無く如月の手を取るや、スタスタと教室とは逆の方向へ歩き出した。
女子男子問わず生徒の間で金髪のナイトと呼ばれている如月雪貴を、こんな風に連れて行ける女子は彩季ぐらいしかいない。この自分とて彼女の親友と言う立場だから気安く声を掛けられるが、殆どの者達は百戦錬磨の教師であろうと彼を前にすると緊張の余りに口籠るのだ。それほど彼は醸し出すオーラが他の一般生徒とは違うとエリは自論ながら分析している。
「彩季のヤツ、相変わらずよくやりおる。」
エリは、彩季から貰ったカイロの温みにも表情を和ませ、廊下の角を曲がって行く二人の後姿を見送って教室へ戻った。
何故、彼はここにいる?
何故自分は、彼を身近な存在だと感じるのに全く何も思い出せないのだろう。
彩季の中に再び言葉にならない波が音を立てて渦巻き始めた。
歩きながら彩季は、金髪の学ラン高校生を振り返った。
「ねぇ、いつの間にウチの学校の生徒になってんの? おまけに何でエリはあなたの事を、先輩なんて呼ぶのよ?」
「予想はしていたが、君には
立ち止まり、涼しい顔でそう言った如月と向き合う彩季。怒っているわけではないのだが、肩が震えるのを抑えられず如月の腕を掴んでいる手を放した。
そんな彼女に彼は少し冷静な口調で言った。
「さっきはどうやって逃げた?」
「逃げたりしていないわ。気が付いたら元の場所に戻っていたのよ。逃げる理由どころか、方法さえ分からないのよ、私には。」
彩季は如月の目をまた見詰めた。
「あれはつまり夢じゃないのね? あなた何者なの? あの空間は何なのよ。三太夫なんて名前、亀に元々付いてたみたいな事言ってたけど、あれはどう見たってウチのサンドラが巨大化したものなのよ。」
こめかみを指先でつっ突く彩季の様子を、如月は見て密かに笑っている。
「アレを見ればさすがに混乱中か。」
「エリには、あなたについての記憶が有るって事なの? それって偽物よね。それとも、ここはまだあの夢の中なの?」
「安心しろ、ここは君の住む
彩季はもう一度彼を見た。昔から知っているその話し方も声も仕草も。彼に会った瞬間からずっと感じている壁の様な違和感さえ無かったら、彼が何者なのか思い出せるのか。
「君は私の仕掛けた《呪》も跳ね返す能力が備わっている様なのだ。私に君が気付かなければその他大勢に対する暗示も必要無くこのまま去ろうと思ったのだが、そうもいかなくなった。一般人の君に何故そんな能力が有るのかは疑問だが。なっ、何だ?」
如月は、眉間に縦ジワを寄せて自分を睨む様に見ている彩季の様子に言葉を切った。
「だから、何者なのかと、聞いているのよ。」
「わっ、私の事か?」
「他にいると思うの?」
彼女の強い眼差しに彼は目を泳がせた。
「私は……この辺り一帯の……何と言うのか、現代的に言い現すならば、霊的均衡を保つ為の管理官だ。」
「霊的均衡の管理官? 何それ。胡散臭い。」
彩季の眉間の皺が一段と険しくなる。彼女が欲しい答えはそんなものじゃないのだ。
「つっ……つまり、この世とあの世の霊的バランスと言うモノが存在し、それが狂えばこちらの世界にも影響が出る。私はその均衡を保つ仕事に就いている。封印を破って逃走した大亀を元に戻すのも役目の一つだ。」
彼の言葉はまるで突拍子も無いお伽話だが、彩季は相関図を組み立てようとしていた。
「サンドラを私の家に封印してあったって事なの? それってどうなのよ。」
「まさか。あれはあの潟で漁民の船を襲っては餌食にしていた
彩季は疲れたように溜息を吐いた。何か上手く納得出来ないが、無理矢理にでも納得せざるを得ない、そんな感じだ。
「私をどうするつもりなの?」
「それが問題だ。第一は三太夫を大人しくさせるのが役目だ。ヤツは君をあわよくば喰おうとしている。何かの為に君の力が欲しいのかもしれないが、はっきりとは分からん。」
彩季は訝しげに如月を見た。
「私の力って何よ。特別なものなんて心当たり無いわ。もしかして第六感? 食べたからってどうにかなるモノじゃないでしょ。」
「相手は化け物だ。何を考えているかは分からん。あの空間は言わば異空間なのだ。普段からそこに有るが、普通の人間はあの場所には入り込めない。第二の問題は君には自覚が無い事だ。君は警戒心も無くヤツのいる異空間に入った為に、危うく肉体と魂を切り離され命を落とすところだったのだ。」
命の危険などと言われている事の重大さにも関わらず、彩季には実感が全く無い。
「あの恩知らずめ。車に跳ねられて瀕死状態だったのを、拾って助けてやったのは私よ。」
彩季の提唱するサンドラは三太夫 で あ る、の否定を諦めたのか、如月は表情を緩め彼女を見ていた。
怯えて泣かれるよりはずっといいと思っているのかもしれない。
「君を囮に奴を誘き出す事も考えたのだが、悪戯に一般人を巻き込む事を善とはしない。君には少しの間だけ私の目の届く所にいて欲しい。亀を元の場所に戻し終わるまで。」
「目の届く所って、私は高校生なわけで、何処にも行けないのよ。心配しなくても。」
如月は、彼女が逃げも隠れもしないむしろ出来ないと確信したのか、頷いた。
「確かに。もう教室に戻った方がいいな。いざと言う時は私が護るから。」
護ると言われると、乙女はみんな胸をときめかせるものだが、彩季はそうでもない。
「如月さん……もしかして前にも私の記憶を消した事が有るとか、無いよね?」
「いや、 君に会うのはこれが初めてだが。」
「そう……だよね。それならいいの。」
何故か彼を如月と呼ぶ度に、もどかしい懐かしさが徐々に消え、新しいに何かに更新されて行く様な気がすると彩季は思った。
つづく
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