あばら一寸。

 十兵衛は荒木を誘って木津川に川釣りに出かけることにした。

 正木坂道場に帰ってきた十兵衛が稽古着も着ずに釣竿を用意せよというので門弟たちは困惑したが、十兵衛がこのような気まぐれを起こすのは平素いつものことだった。


「闇雲に稽古をすれば剣理が見えるというものでもあるまい」


 それが十兵衛の言い分だった。弟子たちも供をすると主張したが、十兵衛は二人だけの方が気楽だと言って聞かなかった。

 十兵衛と荒木は柳生から一ト山を越えた山城国大河原村にほど近い、弓ヶ淵と呼ばれる上流で糸を垂らした。

 この木津川はこれよりさらに上流の夢絃峡と呼ばれる峡谷で名張川と伊賀川とが合流してできた川で、ここまで来るには峡谷の険しい山道を通っていく必要があった。

 木々に覆われた木津川は弓形ゆみなりに蛇行していかにも迅く、二人はしばらくその瀬音に聞き入ったように何も話さなかった。

 二人の魚籠に二、三匹の魚がが入ったところで、荒木が口を開いた。

「今回の沙汰について、江戸の師匠は何か処置をされておるのか」

 荒木はいまだに宗矩のことを師匠と呼んでいた。

「親父殿なら、伊達の黄門さまの方面に事を荒立てぬよう色々と説得をしているようだ。親父殿と政宗侯は昔から懇意の間柄だからな……」

 もっとも相手があの独眼竜とあっては、宗矩とて容易な相手ではないだろう。

「……お前の嫁の方はどうだ?」

 今度は十兵衛が荒木に訊ねた。

「みねか? みねの奴なら、弟の源大夫が殺されたというのに俺が一向に動こうとせぬものだから、俺を薄情者だと罵っておるよ。我が子や弟の敵を討てぬのは戦国からの武士の掟だと言ってもまるで聞かん。そんな道理の通らぬ掟を定めた武士の方こそおかしいと言う始末だ」

 荒木はふん、と鼻息を鳴らした。

「まったく性質がはげしいというか、今どき珍しい女だよ、あれは……」

 と、そこで荒木は傍らの十兵衛が己を見てにやにや笑っているのに気が付いた。

「なんだ、なにがおかしい?」

「いやなに、お前は自分の嫁の話になると、妙に嬉しそうな顔をするのでな……」

「……む」

 荒木の頬に、ふっと薄く朱が差した。

「どうやら、相変わらず夫婦仲は良好のようだな……」

「……まあ、否定することでもあるまい、か」

 荒木が竿を上げると、糸の先に鮎が一匹掛かっていた。


「……娘が生まれた。まんという名だ」


 そう言って、いかつい顔を綻ばせた。

「これが母親似のとんだわがまま娘でな。乳母のやつも随分手を焼いておるようだ」

 荒木は川面のきらめきに跳ねる魚を見つめつつ、妻子の話を飽きることなく十兵衛に語り続けた。どうやら今日は、ずっとその報告をしたかったらしい。

 やがて弓が淵の空に焚火の煙が上がり、二人の剣豪がその下で魚を焼き始めた。

 無精な二人はあろうことか自分の佩刀で魚の腹を裂いて内臓はらわたを取り出し、そのまま串に刺して火で炙った。

 武士の命とも言うべき刀をこのようなことに使うのを助九郎のような古武士が見れば、恐らく卒倒せんばかりの衝撃を受けることだろう。

 十兵衛と荒木は河原の岩に座って焼き魚を頬張りながら、暫くとりとめのない話を続けていた。

 しばらくして、荒木は不意にまじめな顔をして十兵衛に言った。


「十兵衛、俺はお前が好きだ」


「……」

 十兵衛は食いかけの手を留めて、荒木の顔をまじまじと見つめた。

「おっと――とはいっても、将軍家や池田候の言うような意味での好きではないぞ」

 十兵衛の視線の意味に気づいた荒木は、慌てて訂正する。

「つまり――荒木又右衛門という男には、こうしてお前と河原に座って、くだらない話に興ずる時間が必要だということだ」

 荒木はもごもごと口を動かしながら話し続ける。

「妻子を抱えた一家の主でもなく――大和郡山の剣術指南役でもなく、況してや旗本と大名の対立の渦中にあって得意の剣も振るえぬ無力な男でもない――」

 荒木は十兵衛の顔をまっすぐに見据えた。

である時間が、俺には必要なのだ」

「……」

「俺という男はまだまだこれからも、柳生十兵衛という男と付き合っていくつもりであるのだからな。お前にしてもそうだ。駿河国五十五万石が、いったい何だというのだ。そんなもの、こうして俺とお前が過ごしている時間に比べればどうでもよいことではないか」

「……荒木」

「だから――俺はお前に負けてほしくない。俺はお前に死んでもらっては困るのだ。それゆえ、お前が勝つためなら俺は何でもするつもりだ」

 荒木はそう言うと、おもむろに立ち上がって食い終わった魚の串を川に抛った。


「さて、では二人で推察してみるとするか――音に聞く源信斎の秘剣とやらをな」



***



「八寸の延矩か……」

 荒木が唸った。


「字義通りに捉えるならば、これは刀剣の間合が八寸延びる――ということだな」


 八寸の延矩における「かね」という漢字は大工が用いる物差しである曲尺かねじゃくのことを指し、つまりは敵方との距離を測る「間合」を意味する。現に後年に八寸の延矩の技法を再現したとされる江戸後期の天真一刀流の剣術家・白井享は八寸の伸曲尺のべがねという表記でこの刀法を述べている。

「なにやら、俺の我流・新陰流と考え方が似ているな……」

「うむ」

 荒木の言葉に、十兵衛が首肯した。

 かつて十兵衛が荒木の長刀を用いた我流・新陰流に手古摺らされたように、間合の変化は兵法家にとって恐るべきものである。

 それはいわば、剣術における太刀先の「見切り」を破る技であるからだ。

「これは以前に尾張を訪れたとき従兄弟の柳生兵庫殿から聞いた話だが、武蔵の圓明流に『一寸の見切り』なる境地があるという。兵庫殿によれば、これは敵の太刀先と我が身の間合僅か一寸を見切る、という境地だそうだ」

「新陰流にもこれに似た言葉で、『あばら一寸』というものがあるだろう。敵の刀が我が肋骨一寸を切り懸かるとき、我が刀は既に敵の死命を制する、というアレだ」

 荒木にもその言葉には覚えがあった。

「肉を斬らせて骨を断つとはいうが、この場合骨を斬らせてまで相手の命を奪おうというのだから物騒な見切りであるがな」

「まったくだ。……そういえば、以前とある大名の屋敷を訪れたとき、こんなことがあった……」


 十兵衛は剣術をもって世渡りをしているという若い牢人に引き合わされた。

 この牢人と十兵衛は二度立ち合い、いずれも相討ちであった。否、大名と牢人の目には、これは相討ちと映ったのである。

 だが十兵衛は、


「見えたか」


 と一言いい、「この勝負見分けられずは是非なし」として相討ちだと主張する牢人にまるで取り合わなかった。

 怒り心頭した牢人は十兵衛に真剣勝負を挑み、大名もこれを許した。十兵衛は二つなき命であるからやめにせられよと言ったが、結局この牢人と立ち合い、牢人は肩前六寸ばかりを斬られ、二言もいわず血煙を上げて倒れた。

 十兵衛が主人に着衣を見せると、着用の黒羽二枝の小袖、下着の綿絋わたまでは切先はずれに斬り裂かれていたが、下着の裏は残っていたという。


「あばら一寸どころか、着衣を斬られたのみで済んだというわけだな」

 荒木が苦笑したが、十兵衛は笑わなかった。


「あたら若い命を散らしたわけだ。あまり自慢になる話でもあるまい」


 兎も角――斯くのごとく剣術の届く届かざるとは五分一寸の間にあるものである。

 兵法家は五体を動かして太刀筋を躱す見切りの修業をするが、その技が高ずるにつれてむやみに五体を動かさず、四寸、三寸――やがて一寸の見切りを身に付けねばならないのだ。

 では。

 仮に小笠原源信斎の魔剣をこの「見切り」を破る間合崩しの技であると推定たとして、源信斎は八寸の間合をいかにして延ばすというのであろうか。

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