荒木と十兵衛。

 寛永八年、八月。


 笠置山の山間にある柳生ノ庄には、この日も長閑な気候の中に包まれていた。

 蝉しぐれの降り注ぐ奈良街道を抜けて漸く柳生ノ庄に辿り着いた荒木又右衛門保和あらきまたえもんやすかずは、林を抜けた眩しい日差しに目を細めながら、この剣の里の変わらぬ情景に顔を綻ばせた。


柳生ここへ来るのも、ずいぶん久しぶりだな」


 綺麗に剃られた顎を撫でて感慨深げに呟く。かつては伸び放題だった蓬髪も今は綺麗に月代に剃られて、立派な藩士然とした風体である。

 荒木又衛門はもはや、かつて十兵衛と出会った時のような牢人ではない。

 今年三十二歳になる荒木は、大和郡山藩松平忠明に召し抱えられ、兵法指南役二五〇石に取り立てられた立派な藩士である。一昨年には愛妻みのを嫁に迎え、私生活においても最も充実した時期であった。


(まったく、沢庵和尚には頭があがらなくなってしまったな)


 彼が牢人の身からこうして無事に出仕をすることができたのも、ひとえに沢庵宗彭の力添えのためであった。

 だが、この年の七月にはのちに彼の運命を大きく揺るがすこととなる大事件が起こっており、荒木の前途には早くも暗雲が立ち込め始めていた。

「これは荒木さま……お待ちしておりました」

 門番たちもすっかり荒木を見知った様子で、すぐに荒木を正木坂道場へと通した。

 つい四年前には自分がこの道場の道場破りをしていたことを思うと、荒木はなんとも不思議な心持ちになる。

「お疲れでしょう。すぐに茶などを用意させます」

「うむ……十兵衛はどうしている?」

「若先生なら、朝から神社へと出かけられました」

「神社へ?」

「ええ、ここ最近はずっとそうしておられるのです」

 門弟たちによると、十兵衛が向かったというのは柳生の領内にある天之石立神社のことらしい。荒木は茶を飲んで喉を潤して、すぐにその神社へと向かった。

 天之石立神社は式台社といっても木でできた鳥居も拝殿も形ばかりの粗末なもので、真の意味で神域と呼べるものは神社の北側にある戸岩谷の巨石群であろう。木々の暗がりの中に幽玄と立ち並ぶ岩岩からは、まさに此処を異界と呼ぶに相応しき畏怖を感じせしめるものがあった。

 荒木がその神社に着くと、柳生十兵衛三厳はその戸岩谷の中でも取り分け目を惹く、中央で大きく二つに割れた巨石の上に寝そべっていた。

「……なんだ、何をしておるのかと思えば、日がな一日そこで寝ておるだけか」

「荒木か?」

 こちら側に背中を向けていた十兵衛がむくりと顔を上げた。

「試合は近いのだろう。そんなところで呆けておるくらいなら、いっそもっと山奥まで分け入って、兵法家らしく山籠もりでもしてみたらどうだ?」

「それで山で修業をしていれば、天狗が兵法を教授してくれるとでも?」

 十兵衛は微笑を浮かべる。

「ふふ、存外、現れるかもしれぬぞ、天狗が。この一刀石に座っておればな」

「どういうことだ?」

 十兵衛は柳生石舟斎の一刀石についての逸話を荒木に話した。

「胡散くさい話だな」

 荒木が呟いた。

「妖怪変化が出てくるのはこの際置いておくとして、天狗を斬る話と無刀取りとがまるで関係ないのが作り話にしてもよくわからん」

「そう言うな。古老たちの間ではこの話を本気で信じている者も多いのだからな」

 十兵衛は苦笑した。

「小笠原源信斎は八寸の延矩の秘剣をもって上泉伊勢守の新陰流を越えたという。なればこそ私は我が祖父の故事に倣い、この一刀石の上で座禅……もとい、寝っ転がっていたというわけさ」

 十兵衛は背筋を伸ばす。

「柳生石舟斎の兵法が上泉伊勢守の兵法を越えたという――まさにこの場所でな」

「なるほど」

 荒木は頷く。

「ふむ……で、天狗は見えたか?」

「いや」

 十兵衛はかぶりを振った。

「祖父さまの見た天狗も、明国で編み出したという秘剣を破る方策もな。そもそも秘剣の正体さえ判然とせぬのだから、対処のしようがない」

 十兵衛は苦笑しながら一刀石の割れた片側に座りなおして空間をあけた。どうやら座れということらしい。

「どうやら駿府の黄門さまは、よほど私の死ぬところが見たいらしい」

「お前らしくもない言葉だな」

 荒木は十兵衛の隣にどっかりと腰を降ろした。

「それほど源信斎の『八寸の延矩』が怖いか?」

「ああ、たしかに怖い。だが、同時に武者震いもしている。一流派を立てた不敗の大剣豪と立ち合える機会など、一生のうちにそう何度もあることではない。一人の兵法者としては無類の光栄だとも」

 それを聞いて、荒木は少し安堵した。

「私が気に入らんのは、この立ち合いの背後には、あまりにも謀略の影がちらついているということだ」

「……真剣試合のことか」

「ああ。家光と忠長公の三代将軍跡目争いの儀を知らぬものはいないからな。ついでにこれは私の勘だが、この試合には間違いなく殿

「……」

「まあ、そうはいえど相手は駿府五十五万石だ。断るわけにもいくまい。それに柳生新陰流の嫡男が、新陰流正統を決する勝負から逃げては天下の笑い者だ。

 ……なにより、爺の奴にああも泣かれてはな」

「相変わらずのようだな、助九郎も」

 荒木は苦笑する。

「いずれにせよ、お前は源信斎の秘剣を破らねば生きて柳生に帰ることはできんというわけだな」

 そう言って、荒木は仰向けに寝そべって空を見上げた。

「そのために、俺も暇を貰って柳生ここに来たわけだ」

「……」

 二人の頭上で鷹が高く空に弧を描いて、遠く鳴き声を上げていた。

「悪かったな……お前も例の事件で大変だろうに」

「……源大夫の一件のことか?」

 荒木の言葉に十兵衛は首肯うなずいた。

「私も、だいたいのあらまししか知らぬが……」

「なに、俺とて逆縁となれば、又五郎に手出しはできぬからな……」

 十兵衛と荒木の言う『源大夫の一件』とは、先年七月十一日、荒木又右衛門の義弟・渡辺源太夫が岡山藩の河合又五郎に殺害された事件を指していた――。



***



 それは、初めはただの衆道上の諍いに過ぎなかった。

 

 岡山藩きっての美童と謳われた渡辺源太夫は、神君家康公の外孫として権威を奮った岡山藩主・池田宮内少輔忠雄いけだくないしょうゆうただかつ侯の寵愛を受け、忠雄の側小姓として仕えていた。

 ところが、寛永七年七月、この関係に横恋慕をした同僚の河合又五郎が源大夫に関係を迫り、これを拒んだ源大夫が又五郎に斬殺された。

 凶報を聞いた忠雄はすぐに又五郎の父・河合半左衛門の屋敷へと追っ手を向かわせたが、又五郎は既に江戸へ逐電した後であった。

 半左衛門は息子の逐電をまるで素知らぬ風であったが、実は又五郎を逃がしたのはのは父本人だったことが後に明らかとなる。

 半左衛門はかつて高崎藩安藤家で同僚との諍いから殺人を犯し、池田家に逃げ込んで匿われた経歴があった。

 窮鳥懐に入ずれば、漁師もこれを撃たず――との喩えもある。

 この経験から、父は息子もまた何処かの武家の庇護に置かれまいかと考えたのだ。

 寛永八年二月、又五郎の意外な居場所が明らかとなる。又五郎はなんと、かつて父が殺人を犯した高崎安藤家の縁戚にあたる、江戸の旗本安藤家に匿われていた。

 安藤家にすれば、これはかつて半左衛門を引き渡さなかった池田家への意趣返しの意味合いを籠めていたのであろう。

 池田家は半左衛門と又五郎の父子交換という形で半左衛門の身柄を引き渡して事件解決を図るが、安藤家は又五郎を引き渡さず、交渉は決裂した。

 ここで池田家側に加担したのが、池田家と同様に関ヶ原以降に徳川家に仕えた外様大名であり、忠雄の舅でもある戦国の独眼竜・伊達黄門政宗だてこうもんまさむねである。

 一方、これに対抗し安藤家側に担ぎ上げられたのが、三河物語を執筆した徳川家旧くよりの家臣、天下の御意見番と呼ばれた直参旗本・大久保彦左衛門忠教おおくぼひこざえもんただたかであった。

 斯くして、二人の大物の参戦によって当初は単なる痴情のもつれに過ぎなかった源大夫殺害事件は、直参旗本八万騎と外様大名衆の全面抗争の様相を呈してきた。

 そしてその最悪の時機タイミングに、それまで政治の実権を握っていた大御所秀忠が病に倒れたのだ。

 幕府は将軍家の従兄弟にあたる池田候を蔑ろにもできず、さりとて大名側の肩を持てば、今度は旗本衆の背後で様子を窺う譜代高崎安藤家が黙ってはいまい。事件を静観するほかない三代将軍家光への不満は日に日に高まりつつあった。

 そして、このように政治の混乱が生じれば、叛意ある者が不穏な動きをするのもまた世の常である。駿府の一件もまたその一つであると言えた。


「こうした状況で、他ならぬ源太夫の姉婿であるはずの俺は


 荒木は悔しそうに呟いた。

 源大夫の実兄・渡辺数馬は何度も荒木に敵討ちの相談を持ち掛けたが、本来敵討ちとは尊属の仇を卑属が討つものと決まっており、卑属にあたる源大夫の敵討ちは許されることではなかったのだ。

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