江戸柳生屋敷。
駿河大納言忠長――幼名・国千代は、兄である竹千代に代わって、母の愛を一身に受けた人物として知られている。
母の江は織田信長の妹・市の娘のいわゆる浅井三姉妹の末娘であり、彼女は伯父の信長と同じ織田家の血が流れていることを何よりの誇りと思っていた。その性状は信長と同じく苛烈で、一説によれば二代将軍秀忠が生涯江のほかに側室を持たなかったのは、この気の強い御台所を恐れてのことだったともいう。
ゆえに、江が家康の醜悪な狸面の遺伝子をを強く受け継いだ家光より、信長の面影を感じさせる眉目秀麗にして聡明な忠長を愛したのは当然のことであった。
だが、忠長が大伯父の聡明さのみならず比叡山延暦寺を焼き払った第六天魔王の恐るべき残虐さをも受け継いでいたことを、母は遂に気づきえなかった。
江の死を境に、忠長の研ぎ澄まされた脳髄はそのあまりの精緻さゆえに、徐々に破滅の
寛永三年に江が江戸城西の丸で亡くなった時、忠長は家光、秀忠らと共に京へ上洛し、江戸には不在であった。江戸に戻り、自分を愛し、自分にとっての全てであった母の亡骸を前にして、忠長は強い衝撃を受けた。母の死に立ち会えなかったことで、自分の人生は何か取り返しのつかない失敗をしたような気がした。
忠長は母の死を看取った者たちにその死の様子を執拗に問いただし、必死でその模様を頭に描きだそうとした。そうでなければ、自分は母を永遠に取り戻せないような気がした。
そして母の死の想像を幾たびも繰り返すうち、その妄執は彼の中で徐々に歪みを生じていった。
忠長は死にゆく母の頸を絞め、自らの手で母を殺害する瞬間を夢想したのだ。
後世に語り継がれる話では、晩年の忠長は家臣・小浜光隆の子七之助を始めとした臣下の者らを意味もなく手討ちにし、妊婦の腹を生きたまま切り裂き、また神君家康公の
なかでも忠長の異常性を最も示す逸話は、自らに仕えていた
この童女は生まれた頃から駿府城に仕えて忠長によく懐き、忠長もまた我が子のように童女を可愛がった。
だが、忠長はあるとき駿府城の庭園においてその童女を餓えた唐犬に襲わせた。忠長を信じていた童女は必死で助けを求めたが、忠長は童女が殺されていくのを見ているばかりであった。
やがて童女の顔は絶望へと変じ、喉笛を噛み千切られ臓腑を引きずり出され、小半刻も経った頃には白砂に遺る血の痕と僅かばかりの残骸が散らばっている他は、童女の痕跡はどこにも残されてはいなかった。
この凄惨極まる光景を、忠長は蒼白な顔で最後まで見届けていたという。
忠長はただ、この一刻のためだけにこれまで童女を慈しみ育ててきたのだ。
忠長にとってその童女が大切な存在であればあるほど、忠長はその命が消えていく瞬間を美しいと思えた。
殺すために育て、殺すために愛する――それが忠長にとっての愛であった。
真の愛とは、その関係の破壊の裡にしか見出せないものだと、忠長は固く信じていた。
「殿は――いつか私も殺すおつもりなのでございましょう」
忠長の正室の昌子は付近の者にそう漏らした。
この昌子は幼少の頃は久姫と呼ばれ、父は織田信長の孫である織田信良――即ち昌子自身は織田信長の曾孫にあたる娘だった。この婚姻は忠長の母・江の強い意向が働いていたとも言うが、これも江の血統意識のなせるものであろうか。
この昌子が元和九年に忠長に嫁いだのは、わずか十歳の時だった。そして忠長の狂気が進行していくにつれ、昌子もまた忠長の暴虐の餌食となっていった。
忠長が昌子を傍らに置くとき――それは尋常の夫婦の営みとは甚だしく性質を異にするものであった。
忠長の視線は昌子の肉体をまるで値踏みをするかのように嘗めまわし、ぶつぶつと独り言を呟きながら昌子を暴力的に抱く。動脈が集中し、人体の急所にあたる箇所には特に執拗な視線を送った。
忠長は昌子を愛しながら、常に昌子の命が途切れる瞬間を心に思い描いていたのである。
その血みどろの死の瞬間から逆算することでしか、忠長は誰の生をも愛することはできなかったのだ。
(兄上よ――俺はあなたが憎い。だが、俺はある意味で誰よりもあなたを理解していた。母の愛を一身に受ける俺を物欲しそうに見つめていたあなたを、この目で一番見ていたのはこの俺だ。あなたの姿が惨めであればあるほど、俺の胸はもどかしく疼いた。俺こそがあなたの最大の理解者だったのだ)
その晩、忠長は駿府城の
(それなのに、今やあなたは全てを手に入れた。欲しかったものが手に入らず、俺を羨ましそうに眺めているだけだったあの頃の竹千代はどこにもいないのだ。今やあなたはこの俺を見ようともしない。だから俺はもう一度あなたから、あなたの欲するものを奪う。そしてまた、あの頃と同じ目でこの俺を――国千代を見るのだ)
実の弟に裏切られ、愛する者を失った家光の絶望の表情――それこそが忠長の見たいものであった。
忠長の心にある家光への歪んだ愛憎――その正体が何であるのかは、忠長自身にさえ判断が付かなかった。
***
駿府城の一件から十日余りが経ったある日の夕刻である。
江戸八重洲河岸の柳生屋敷前に、一人の老武士の影が現れた。柳生家の門番は即座にこの来訪者の姓名を問いただそうと近づいたが、すぐに老武士が見知った顔であることに気が付いた。
「これはこれは木村さま!」
「うむ、駿府の木村助九郎友重が参ってござる。但馬さまはおわしますや?」
太祖・柳生石舟斎の頃よりの柳生一門の高弟、木村助九郎友重は駿河大納言忠長の命を受け、柳生宗矩にくだんの御前試合の旨を伝えに来ていた。
先の荒木又右衛門の一件で、一時は駿府への仕官が取りやめになるかとも思われた助九郎だったが、十兵衛の活躍によって彼は目出度く兵法指南役に抜擢され、すでに仕官から四年ほどが経過している。
この人の
助九郎が屋敷の者に取り次ぐと、宗矩はちょうど江戸城から下城した直後で、助九郎は師匠の待つ奥の座敷へと通された。
鄭重な挨拶を済ませ、助九郎が事の次第を伝えると、宗矩は熟考の末に応えた。
「駿府城の御前試合の件、相分かった」
宗矩は肩衣半袴姿で、煙管の紫煙をくゆらせる。
「むろん柳生新陰流は天下の御留流にて、尋常は他流試合は行わぬものとしておる。だが、十兵衛は武者修行に出ておる身であり、また他ならぬ上様の弟君であらせられる駿河公の君命とあらば、喜んで伜を試合に出向かる所存であると伝えよ」
「――はっ」
助九郎は宗矩に頭を下げた。
「
と、宗矩の目に奇妙な光が宿った。
「?」
「但し――新陰流正統たる柳生新陰流は、木剣ではなく真剣にて御前試合に臨むことを所望すると忠長公に伝えよ」
「なっ」
助九郎は驚いて顔を上げた。
「と、殿……それは……」
引き攣った表情の助九郎に対坐して、宗矩は常のように塑像の如き無表情である。
「何を驚く必要がある。小笠原源信斎と申す者、上泉信綱から正式に道統を継ぐ認可を受けた柳生新陰流を差し置き、真新陰流を名乗るとの狼藉、到底許しがたい」
「……」
「源信斎なる者、必ず一刀のもとに両断し、天下に於いて柳生新陰流こそが真の新陰流であると知らしめねば亡き父上に申し訳が立たぬわ」
「……」
ごくり――と助九郎の喉が動いた。
宗矩の冷酷な目は、助九郎を射竦めるかのように鋭い眼光を放つ。
「う、上様は――」
助九郎はやっと声を出した。
「殿がその御心算であるとしても――上様は……将軍家はそのことを御承諾あらせられるとお思いですか」
「……上様には駿府城の御前試合のことさえ伝えるつもりはない。武芸好きで知られる上様のこと、御前試合のことを聞き及べば無理を通してでも上覧遊ばされるに違いない。したがって上様には儂が瀬戸際まで事実を伏せておこう」
「……」
淡々とした口調で、宗矩は恐ろしいことを口にした。
「上様は……確かに我が主君じゃ。じゃがな助九郎、これは我が柳生新陰流と、奥山休賀斎が新陰流の間の問題である。上様からの咎めは凡て儂が受ける。お前はただ駿府に急ぎ戻って、駿府の黄門さまに事の次第を伝えさえすればよいのだ」
「……殿」
「助九郎……儂にみなまで言わせる気か? 松田織部之助がこと、そちとて忘れたわけではあるまい?」
宗矩の言葉に、助九郎はぞくりと背中を震わせた。
助九郎にも漸く宗矩の真意が読み取れたのだ。
(これは、御前試合を口実にした真新陰流当主の暗殺計画なのだ)
宗矩の言う「松田織部之助がこと」とは、慶長十一年に柳生石舟斎が没した直後、宗矩の命を受けた柳生四高弟の一人・庄田喜左衛門が新陰流同門の織部之助を暗殺したことを指している。
戦国時代、松田織部之助は柳生石舟斎が先鋒となった筒井勢によって討伐された戒重家(幕屋家)の家臣であり、主君を滅ぼされた織部之助は同門の柳生に恨みを抱き、当時天下の趨勢を握っていた豊臣家に「柳生ノ庄に隠し田あり」との密告をしたのだった。
これによって柳生家は領地を没収され、一族郎党は路頭に迷うことになったことは以前に語った通りである。
幸いにも隠し田騒動の以前にすでに徳川家に仕えていた宗矩の働きかけによって柳生一族は関ヶ原で武功を上げ、柳生家は再び領地を取り戻すに至ったが、宗矩は卑劣な密告をした織部之助を決して許しはしなかった。
(殿はあの時、
斯くして、松田織部之助の暗殺命令は実行された。実行したのは庄田喜左衛門であったが、しかし一歩間違えればこの暗殺命令を受けていたのは木村助九郎であったかもしれなかったことを、助九郎は後に聞かされた。
彼は紙一重の差で、その手を汚さずに済んだのである。
柳生屋敷を後にしたあとも、助九郎の顔は蒼褪めたままだ。この真剣試合を十兵衛自身に伝えるのも、おそらくは自分の役割だろう。自分はまたしても安全圏にいたまま、他人の手を血で汚させることになるのだろうか。
(十兵衛さま……)
助九郎は呻くように呟く。
主君の忠長は、おそらくこの宗矩の条件を承知するであろう。忠長の残忍な性格は、この人の好い老人も薄々と感じ取っていたのだ。
(十兵衛さま……どうか、どうか柳生家をお救い下され……)
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