十兵衛暗殺計画。

 江戸時代初期――駿府は江戸と並ぶ政治・経済上の重要拠点として大いに繁栄した国であった。それは、慶長十年に徳川家康が将軍職を秀忠に譲ったのち、翌々年の慶長十二年に城主を子の徳川頼宣よりのぶとした上で駿府城に「大御所」として隠居城を構えたことに由来する。

 だが先に述べた通り、これは隠居とは名ばかりの江戸と駿府の二元政治体制の構築に外ならず、政治の実権は依然として家康が握り続けた。これが上皇の院政に倣った政治体制であることは先に述べた通りである。

 また、関白職の世襲制に失敗した豊臣政権の前例もある。家康は自分の存命中に秀忠に将軍職を譲ることで、将軍職の世襲を既成事実化する必要があった。

 その後元和二年に家康が亡くなった後、元和九年に二代将軍秀忠もまた父と同様に将軍職を家光に譲って大御所となるが、秀忠は大御所と将軍の二元政治体制をより強化するために江戸城西の丸に隠居した。

 その後、名目上の城主であった頼宣は元和四年に紀州藩に移封となり、寛永元年に代わりに駿府城に入ったのが――現在の城主である駿河大納言忠長するがだいなごんただながである。


 さて――時に、寛永八年五月。


 くだんの駿府城の七階建ての天守閣の上空を、くるくると旋回しながら舞い降りた一羽の白鳩があった。

 ――忍び鳩である。

「……」

 白鳩の脚には小さな竹筒が括り付けられ、江戸からの密書が丸め込まれていた。

 その密書を取り出して拡げ、文面に目を通した駿河大納言附家老・鳥居土佐守成次とりいとさのかみなりつぐは息を呑む。

「……殿にお知らせせねば」

 鳥居成次は家康の家臣・鳥居元忠の三男であり、関ヶ原合戦・大坂の陣などで首級を得て、甲斐東部の郡内領主となった大名である。

 だが、駿府城主となった忠長が甲斐の国を拝領したことで、領主としての地位を維持したまま朝倉宣正とともに附家老として忠長に仕えることとなった。

 半刻後、駿府城中では忠長が薄笑いを浮かべながら密書に目を通していた。

「……なるほど、して――この密書の差出人はやはり不明であるということだな――成次」

「はっ……」

 成次は忠長の言葉に平伏する。

「密書は忍び鳩に結び付けられてましたゆえ、おそらくは伊賀者の手によるものかと思われますが、その背後にある人物については詳らかではありませぬ」

「ふむ……。だが、伊賀同心の忍び者が絡んでいるともなれば、差出人は恐らく江戸城中の者の手であろう。ここまで手の込んだことは市井の者にはできまい。まず十中八九は事実、と見るべきであろうな」

「では、やはり土井大炊頭どいおおいのかみさまの……」

 成次の脳裏に、江戸城西の丸の大御所とその忠実な出頭人の顔が浮かぶ。

「兄上め……天下の征夷大将軍が言うに事欠いてに手を染めるとは、生まれながらの将軍が聞いてあきれるわ」

 忠長の手にある密書には、柳生十兵衛が江戸城を追われる要因となった江戸城中での「秘事」が事細かに記され、さらには家光を罷免して忠長を将軍職に仰がんとする外様大名へ向けた連判状までもが同封されていた。

「いかにも――」

 成次は主君に同調する。

「この醜聞が巷間に知れ渡れば天下は大荒れ……現将軍家の威光は地に堕ちることは必定でありましょう」

 そして――あわよくば家光は失脚し、天下の趨勢は忠長に移る。

「……」

 誤解してはならないのは、この時代において衆道そのものは取り立てて忌避すべきものとされてはいないことだ。織田信長の寵愛した美童・森蘭丸をはじめ、当時の武士が殊更に男色を好んだ逸話は枚挙に暇がない。

 だが、その一方で家光には将軍家として世継ぎを残さねばならぬ責任がある。

 家光がいかに十兵衛を愛そうとも、衆道は子をすことができないのだ。

 衆道はあくまで武士の嗜みに過ぎず、子を営むための性交は別として行わなければならない。それが当時の武士の常識である。だが、家光は正室である鷹司孝子たかつかさたかこを事実上離縁し、女性との関係を一切持とうとしなかった。家光の十兵衛に対する愛情は、武士の嗜みの域を逸していた。

 家康が徳川幕閣を盤石のものとするために、将軍の世襲を何よりも重要視したことは先に述べた。もしも家光に世継ぎを作る気が全くないとすれば、家光に将軍を続ける資格はなかった。

「折良く、先年の池田家と安藤家の一件によって、外様の諸大名もまた現将軍家に対する不満が芽生え始めていると聞きます。忠長さま、一刻も早くこの醜聞を天下に知らしめましょうぞ」

 と、身を乗り出す成次に忠長は、


「成次――お前は馬鹿か?」


 と、冷ややかな視線を投げた。

「はっ――?」

「愚か者めが……仮令たといこの密書を儂の手ずから公布しようとも、柳生十兵衛三厳とやらが兄上の許から出奔したのは既に四年も前のことではないか。今さらこのような事実が露見すること自体が――」

「……」

「ついでいえば、証拠となりえるものはたかだか差出人もわからぬ紙一枚。お前はこの密書は土井が寄越したものではないかといったが、それとて証拠はない。俺が兄上との跡目争いに敗れ、兄を憎んでおることは天下に知れ渡っておる。幕府に瑕をつけんがため巷間にあらぬ流言を流したとして、公儀に叛意を疑われたとしても言い逃れはできぬわ」

「で、では、噂の出処が駿府城であるとは知られぬよう、あくまで風聞の域に留めて噂を流すべきであると?」

「それも良い――が、噂は噂に過ぎぬ。噂のみをもってして兄上の威光を傷つけるに至るかといえば、これは些か弱い」

「……」

「それよりも――」

 と、そこで忠長は残忍な笑みを浮かべる。

「その柳生十兵衛とやらの首級くびを兄上の元に送りつければ、兄上の顔はどれほど絶望に歪むであろうな?」

「なっ――?」

 成次は忠長の顔を見上げた。

のう、成次。人間というものは木刀のみであっても死ぬものであろうな?」

 忠長は訊ねる。

「そ、それは――むろんでございます。かの巌流島の決闘において、武蔵は木剣の一撃によって巌流を斃したとか――剣豪と呼ばれる者であれば、人を殺めることなど容易いことでございましょう。しかし――」

「……そうか」

 忠長は指でコツコツと月代さかやきに剃られた額を叩く。これが何か考えを巡らせている時のこの男の癖だった。

「近頃、駿府の城下に小笠原源信斎なる老人が現れたという」

「といえば、あの『八寸の延矩』の――?」

 明国から帰朝した小笠原源信斎は江戸で道場を開き、針ケ谷夕雲はりがやせきうんや後の直心流開祖の神谷伝心斎かみやでんしんさいをはじめとした多くの門下を育てたとされているが、最近の動向はつとに聞かなかった。

「そうだ、自分の流派を『真新陰流』と称し、自分の正統を証明せんがため、その生涯の最後を柳生新陰流で勝利を飾りたいと所望しておるそうだ。柳生の嫡男の相手として、これ以上の剣客はいまい」

「――で、では、殿の御前でこの小笠原源信斎と柳生十兵衛に試合をさせると?」

「……そうだ。そして激戦の末、柳生の御曹司はその試合の最中、

「……ッ」

 成次の顔は蒼白である。

 そのようなことをすれば、家光は忠長を許さないであろう。駿河五十五万石は確実に改易となる。そうなれば成次もまた失脚は免れない。

「と、殿、そのようなことをすれば……」

「――成次」

 忠長の声には恫喝の響きがあった。

「俺はな、もはや将軍職に就くことなど興味はないのだ。兄上との跡目争いに敗れ、江戸から追放されて駿河国に押し込められた俺に残るものはただひとつ――兄上への復讐心だけよ。それはもはや、兄上を殺めるだけでは飽き足らぬ。兄上に愛する者の死を見せることこそが、俺にとっての最大の復讐なのだ。――わかるであろう?」

「……殿」

 そう語る忠長の瞳には、幾たびの洗浄を駆け抜けた成次をして戦慄せしめる狂気の光が宿っていた。


(……やはり、殿はもう……)

 

 将軍家の跡目争いに敗れた忠長が、徐々に狂気に蝕まれていっていることは、忠長の近習である成次には判っていたことだった。

 それでも成次は、忠長にもう一度将軍となれる機会が巡ってくれば、また以前のような聡明さを取り戻してくれるものと信じていたのだ。

 だが、それに対する忠長の言葉は、まるで狂人の論理であった。忠長はもはや天下のことも、駿府のことも頭にない。

 忠長の脳髄には兄・家光に対する憎しみと――そして彼自身の殺人淫楽の欲動のみしか残されてはいなかったのだ。


「――十四郎はおるか」


 忠長の御前を退いた成次はすぐさま書状をしたため、紀州よりの根来忍者・大友十四郎を呼び出した。

「其許、この書状を持って肥後熊本へ赴いて忠弘さまにお渡しし、またこの連判状と同じものが加藤家へ届いておるかどうか確かめてくるのじゃ」

 肥後熊本藩主・加藤忠弘は駿河大納言忠長と昵懇の間柄であり、また先代の加藤清正は豊臣家恩顧の有力大名として、外様の中でも急先鋒の一人として知られていた。

「御意」

 十四郎はそう言うと、すぐさま九州へと発つ。


(殿の為じゃ……これも殿の為なのじゃ……)


 十四郎の背中を見送りながら、成次は呟く。


(殿自らが動かぬのであれば、このわしが忠長さま擁立のため動くほかない)


 だが、そう嘯く成次の眼には、戦国の世を生きた者らしい野心の光が差していた。

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