第6話

 それから十日程して、やっとの事で資料の処理を終え、それを大川の机の上へ投げつけるように置いてやった。


「やっと終りましたか。じゃ次、これをお願いします」


 藤本は何の文句も言わず、それを受け取ると足早にコンピューター室に消えて行った。その後姿を追いかけるように大川は、


「こんなもの、若い担当にやらせれば三日で終る仕事なのに、全く優雅なもんだ」

 と藤本に聞こえるように言った。


 藤本は大川に何を言われても気にならなくなっていた。


 実は二日前、仕事の帰りに都心の大型書店に立ち寄り、ビジネス書を数冊買い求めていた。パソコン関連の本を買うつもりだったが、それには手を出さずに会社経営のコーナーに立ち止まった。


 買った本の中の一冊に、中小企業に詳しい項目があった。良く読んでみると、概して中小企業、特に小、零細に至っては、社長がどんな細かい事でも独断で決定していく傾向がある云々と書かれていた。


 それを読んで藤本は早速、社長に面会を申し込み、現在の会社の状態、自分の置かれている立場、社員の教育などに付いて率直に話し合い、会社の将来の為に改善するよう要請してみようと、レポート用紙に必須事項をしたため、準備を整えていた。


 今日は、三階の奥にある社長室に村井を通さず直接行って会うよう、朝からその機会を狙っていた。


 社長は、いつも十一時頃出社して三時頃までは会社にいることを、他の社員から確認済みである。昼休みの後、何が何でも顔を合わせて、時間があまりなければこのレポートだけでも手渡そうと思いながら、コンピューター室に入り、スイッチを入れじっと画面に向かい合った。



 予定の時刻が近付いて来た。


 藤本はパソコンのスイッチを切り、冷静さを保とうと深呼吸を数回繰り返した。それからレポートを入れた封筒が胸のポケットにあることを確かめて、静かにドアを開け、階段を使って階下の三階に降りた。


 入口をそっと開けると気のせいか、全員が自分に注目しているように思えた。


 奥の社長室に目をやると、秘書らしきいかつい男が藤本に気付くと、怪訝そうな視線を投げかけてきた。藤本はかまわず、机の脇を通り抜けその男の前に立った。


「四階の藤本だが、社長に会いたい」


 藤本が言うと、男は立ち上がった。立つと男は藤本の首一つ分、背が高かった。


「社長は会議中です。四階に内線の番号表があるでしょ。来る前に内線で確認すればいいのに」


 と太い声で藤本を見下ろして言った。そして、四階へさっさと戻るよう態度で促した。

 藤本は一瞬ひるみそうになったが、ふんばって、


「ちょっとここで待たせて貰います」

 と言ってから、男の机の傍らにあった長椅子に腰掛けた。


「困りますな、あなた。社長は忙しんだ。まず面会を先に申し込んでから来なさい」


 そう言うなり、いきなり藤本の腕をつかんだ。藤本は予想していなかった成り行きに、たじたじとしながら男と揉み合った。周りの社員がこちらを覗き込んでくすくす笑っている。


 藤本はどうして良いものか全く分からず、顔を真赤にして座り込んで動かなかった。


 今度は本気で男が藤本の腕をつかんで引きずり上げようとした。

 

 その瞬間、社長室のドアが開き、村井が社長と大声で笑いながら出て来た。男はその場に直立不動になった。


「それじゃ今晩、例の処でよろしく」


 社長は村井に言い渡すと、藤本の脇を通り抜けようとした。


「あの、社長ちょっと」


 と手を伸ばして声を掛けたが、その太い体をすっとかわして下を向いたまま藤本と目を合わせないように軽く会釈をして出て行ってしまった。


 村井は藤本に気が付き、

「いったいどうしたんですか、藤本さん。もう少し冷静になって貰わないと困りますなあ。何かあったらまず私に話して下さい。少しは周囲の事も考えて下さいよ」


 小声で藤本の耳元で言うと、村井は男に目配せして、藤本の肩を抱きかかえるようにして、社長室に招き入れた。


 そこは思ったより狭い部屋で、社長の大きな机の前に応接セットが置かれていたが、それだけで部屋は一杯であった。村井はソファに座るよう藤本を促すと、次のように話し始めた。


「実はね。うちの社長は見かけ倒しは大嫌いなんですよ。

 藤本さんはZ社の方だから、当然パソコンの教育なんかとっくに終っていて、むしろ指導しているんじゃないかと私も社長に対して、これでも随分、売り込んだつもりです。

 それなのに事実はちょっと違うでしょ。こんな小さな会社ですから、社長には何でも筒抜けなんですよ。それでね、藤本さん。

 社長曰く、基本的な事も出来ない人間が、他の面で一体どれ程、成績を上げられるかって、私に問いただすもんですから、


『大川がいったい何を言ったんですか』

 

 て聞いたんですが、社長、何も言わないんですよ。

 藤本さん、大川と何かあったんですか。部下を上手に使ってこそ上司と言えると思うんですよ。

 いったい何かあったんですか」


「....」


「それで私、社長に、『藤本氏に限って決してそんな事はありません。二カ月もすれば完全にマスターして事務に支障をきたすような事態にならない事を私が保証します』って言ってやったんですよ。

 だからね、藤本さん何とか頑張って下さい。大川の鼻をあかして下さい。私も奴の事は良く思ってないんですよ。私の顔をもう一度、立てて下さいよ、藤本さん。

 社長もやっぱり藤本さんを入れて良かったと思うように、何とか頑張って下さい」


 村井は自分の言う事だけ終えると立ち上がり、藤本の肩をたたいた。


「今度何かあったら、私にまず話して下さいよ」

 そう言いながら、藤本と一緒に社長室を出た。

 村井は階段まで藤本を送ると、


「それじゃ」


 と言って自分はエレベーターへ乗り込んだ。

 藤本はエレベーターが一階に降りて行くのを確認すると、


(又、外出か、あいつは外ばっかり出歩いてやがる)


 と心の中で呟きながら階段を上り始めた。


 藤本は自分の目の前から、一筋の希望の光がスーッと消えて行くのをぼんやりと見つめた。

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