第4話

 明日は出社という前の晩、藤本は妻に猛烈に挑んだ。

 男が希望に燃えると、この年になってもこんなに頑張れるものかと妻はあきれたり喜んだりで、二人とも三十年前の若かりし日の事を思い出さずにはいられなかった。


「あなた、明日は初日でしょ。もう寝ましょ」

「大丈夫だ。俺は今、気力が充実しているんだ」


 藤本は再び妻に挑みかかると、妻はこれを拒むわけにもいかず、こんな事はこの人が死ぬまで二度とないだろうと思い、受け入れながら目頭が熱くなった。




 翌朝、藤本は台所の物音で目が覚めた。

 慌てて時計を見たが、未だ七時だったので、ほっとして枕に頭を落とすと、


「あなた、熱いお茶が入ったわよ。どうぞ」

 と妻の声が聞こえた。

 朝はたいてい不機嫌な妻が、優しい声でこう呼ぶので、急いで跳び起き台所へ行った。


 朝食もすでにテーブルにセットされていて、その傍らに朝刊まで置かれていた。藤本はびっくりした様子も見せずに、椅子に座るとおもむろに新聞を開き、咳ばらいをしながら家の中を見回したが、確かに間違いなくそこは自分の家ではあった。


 藤本は、心の底からやる気が湧いて来た。


 昨日の疲れは全く感じてはいない。生まれ変わったような、みずみずしい精気を全身に漲らせて、勢い良く玄関を飛び出すと、一目散に駅に向かって歩き出した。


「さあ、今日は新しい部下にどんなスピーチをしようか」

 藤本は道々、今日起こるであろう出来事を心の中で何度も反復した。


 


会社は、以前よりも十五分ほど家から近く、九時半出社だと更にゆとりがある。


 ビルの三、四階を借り切ったオフィスで社員全員で四十人程の成員だが、藤本は四階の奥の部屋と聞いていたので、直接四階までエレベーターで行ってみた。

 入口を押し開けると、誰も藤本に気が付かない様子だったので、近くのOLに、


「あのう、藤本ですが、村井さんお願いします」

 と尋ねた。


「村井は三階です。直接三階へ行ってみてください」

 と冷たく言い放った。

 このOLは藤本が来訪者だと勘違いしていると思ってもう一度、


「今日からこちらでお世話になる藤本です」

 と言い直すと、

「ああ、あなたが藤本さん。ちょっとお待ち下さい」

 と言って受話器を取り上げ、内線で村井を呼んでいるようであった。


「今すぐ村井が参りますので、そこへお掛けください」

 と言って後ろの長椅子を手で示してから、クルッと自分の机に向き直り、大きなあくびをした。



「藤本さん、困りますよ。何時だと思っているんですか。初日から困りますよ、遅刻してもらっては」

 村井が別の入口から入って来て藤本をいきなり怒鳴りつけた。

 

 藤本はまさか自分の事を言われているとは思わず、キョトンとして座っていると、村井は藤本の目の前に立って、自分の腕時計の時間を藤本の顔に近づけて、


「これが見えないんですか。一時間も過ぎていますよ。ミーティングもとっくに終わっています。勘弁してください、初日っから。だから大企業出身者は困るんだよ」

 と立て続けに文句を言った。


 藤本はハッとして自分の腕時計を見たが、未だ九時二十五分である。出社は九時半の筈だ。確かに村井は自分にそう言った筈だと思って立ち上がった。


「村井さん、だって貴方、出社時間は九時半と私に言ったでしょ。変ですね」

 と言い返すと、


「藤本さん、それは役員以上の出社時刻だ。貴方は一応、部長待遇で入社して頂いたが、遅くとも八時には出社して貰わないと困りますよ」

 村井はうんざりした顔つきで、藤本を顎で促し、部屋の奥へ案内した。


 そこには、机が二つずつ向かい合わせになっていて、奥の一つが空いていた。村井はその席を指さすと、


「あそこが貴方のデスクです」

 と言って、そこに居合わせている他の三人を紹介し始めた。藤本の机の前の男が立ち上がって、


「大川です、宜しく」

 と言うと再び座り直した。

 村井が追いかけるように、


「彼がここの課長ですから、当分は、わからない事があったら彼に聞いて下さい」

 そう言ってから、他の二人にも同じように挨拶させた。


 三人目の自己紹介が終わると、村井は、


「私はいつも三階にいます。後の事は大川君が面倒をみますので何でも彼に聞いて下さい。では、又後程お会いしましょう。私はちょっと出掛けますので」

 と言い残し、急ぎ足で部屋を出て行った。


 藤本は椅子に座ると、あたりを見回してみた。


 先程のOL嬢のダルそうな姿が十メートル程先に見えた。ここは典型的な大部屋タイプのオフィスである。しかも、上司の机が部下のそれとくっついていて同じサイズでありどっちが上司だか見分けがつかない。事実、藤本の机は前に座っている大川課長のそれと全く同じで、椅子もどうやら同じようである。

 

 他人が見たら大川が上司と思うかもしれない。


 藤本は暫くの間、何だか訳が分からず椅子に座ったままじっとしていた。


「藤本さん、今日はこれに目を通しておいて下さい。コンピューターと端末の操作方法です。明日からこの資料の入力を手伝って貰いたいと思っているんですよ。宜しくお願いします」


 大川がはっきりした口調で、半分命令するように言ってきたので、一瞬藤本はムッとしたが、初日から腹を立ててもしょうがない、と思い直し、大川の差し出したコンピューターの仕様書をパラパラとめくってみた。


 藤本は営業畑を長年歩んできているので、コンピューターというものに触れた事もない。今でこそどの部署にもコンピューターが導入されているが、そういう作業はすべて部下のやる仕事で、藤本は営業方針を立て陣頭指揮を取るのが仕事だった。


(この年になって、コンピューターの入力の仕事もないだろう)

 と思ったが、


(今のうちは会社の方針に従うしかないだろう。まあ、最初のうちは会社全体の概要を私に知らせる方法として、村井が指示しているのだろう。そのうちだんだんに本節に入って行けばいい。慌てる事はない)


 と思い直し、もう一度座り直してその冊子のページをめくってみた。

 

 しかし、藤本にはどのページを見ても何が書いてあるのかさっぱり理解できない。日本語で書かれていても藤本にとってコンピューター関係は全くの門外漢で脳が受け付けないのである。


 藤本は、やおらその冊子を閉じると、

「君、いや大川君。顧客リストに目を通しておきたいんだが、どこにあるかね」


 大川は書き物のペンを置いて藤本の方に顔を上げた。

「そういった関係は社長がすべて管理してるんですよ。うちは重要書類は社長の許可がないと閲覧できませんよ」

 

 そっけなくそう言い終えると自分の仕事を再開した。


 藤本にとって

「自分の会社の社長」

 とは、あまりにも遠い存在で、大川が何を言っているのかピンと来なかったが、後で村井がいろいろと教えてくれるだろうと気を取り直し、胸の内ポケットからタバコを取り出しそれに火をつけた。


 机の上を見ると灰皿がないので、近くの女性に声をかけようとしたら、大川は藤本の顔も見ずに、

「ここは禁煙だってこと村井さん言わなかったのかなあ」

 と誰に言うともなくつぶやいた。


 藤本はハッとして立ち上がりそのまま廊下に出た。するとその隅のトイレのドアの隣に小さなプラスチックの椅子が二脚とスタンド式の灰皿が無造作に置いてあった。そこに急いで近づき、持っていたタバコの灰を灰皿に落とし、苦虫をかみつぶしたような顔をして残りをスパスパとふかした。


(そう言えば、さっきから誰も俺の席に、お茶を運んでこないなあ。いったい村井は、私の事を全員に話してあるのか。それとも今晩、歓迎会があってその席で正式に紹介するつもりかなあ)


 こんな事をとりとめもなく考えていると、若い男子社員がトイレの隣の湯沸かし室に入っていった。何しに来たのだろうと見ていると、湯飲みを持って出て来た。ここは若い社員はお茶はセルフサービスだという事がわかって、会社の方針らしきものを強く感じた。


 藤本はタバコを吸い終えると、三階に行って村井に会ってみようと思い、エレベーターに乗った。三階の入口をそっと開けてみると奥の方に村井の姿が見えた。恰幅の良い男にやたら頭を下げている。


(あれが社長だな。会社の案内書の写真より太った男だなあ)


 ドア越しに眺めていると村井は藤本に気づいたらしく、急いで近寄って来た。


「藤本さん、どうかしましたか。大川に言われた通りにしばらくは仕事をしていて下さい。社内の事を一通り覚えてもらって、それから実戦部隊に加わって貰いますから。私は今日はこのまま直帰しますので藤本さんも六時頃には上がって下さい」


 藤本は村井の話を聞いて少し安心した。


 席に戻ると、相変わらず大川は忙しそうにしていた。藤本は席に着くともう一度、先程の冊子に目を通しながら、


「大川君、お茶が欲しいんだが女の子に頼んでくれるかなあ」


 恐る恐る尋ねると、大川は口をポカンと開けて、こちらを向いた。


「はあ、今何か言いましたか」

「いや、お茶を一杯、ちょっと喉が渇いたもんだから」 

 と言い直すと、


「おおい、ちょっと来てくれ」


 大川は入口付近の先程のOL嬢を呼んだ。


「ちょっと君、忙しいとこ悪いんだが、この人にうちのシステムを教えてやってくれ、今手が離せないんだ」

「私も同じなんだけどなあ、まあいいか。それじゃおじさん、あ、いけない、藤本さんだったっけ、ちょっとこっち来てくれる」


 と手招きして藤本の同行を求めた。藤本は、狐につままれたような顔付きで立ち上がり、

「はいっ」と答えてOL嬢の後に従った。


「あの、お茶はここで自分で入れて下さい。お茶葉と急須はこの中、あんまり入れ過ぎると減りが早いと言って課長に文句言われるので。それからコピー機はあっちのコンピューター室にあるから、そこで取ってね。使い終わったらスイッチはいつも予熱にしておく事。大体以上です。何か質問あります」


「いや、別に」

「あっそう、それじゃ」


 彼女はそそくさと、藤本をその場に置いて自分の席に戻って行こうとした。


 廊下の途中でいきなり振り向き、


「あ、そうそう。湯飲み茶碗は、自分で用意して下さい、藤本さん」


「はあ...」


(これは何かの手違いだ)

 藤本は自分に言い聞かせた。



 退社して一人、駅に向かいながらいろいろ考えてみたが、結論として次の様に答えを出した。


(部長待遇で入社したことを、皆知らないのではないか。その証拠に俺の事を名前で呼んでいる。大川とOL嬢の態度はひどすぎる。社員教育がなってない。あれでは会社の評判が落ちてしまう。明日、はっきりと村井に進言しよう)


 藤本は胸を張って、家路を急いだ。



「ただいま」


「あら、早かったのね。今日は宴会か何かで遅くなると思ってたわ。ごめんなさいね。今すぐ食事の支度するから。お風呂にでも入ってて」


 妻の言葉に藤本はほっとして居間に座り込んだ。



次の日、藤本は会社に八時前に着くように家を出た。


(今日は一番乗りして、全員の顔を一人一人じっくり観察してやろう)


 藤本は勢い良くエレベーターに乗り込んだ。

 三階で降りて入口の前に立つと、ザワザワと人の声が聞こえて来た。


(もう誰か来ているのか。早朝会議でもあるのかなあ)


 扉を開けると、何とほとんど全員が席に着いていた。誰も藤本に目を止めようとせず、それぞれ互いに話し合っていた。


 仕方なく、スゴスゴと大川の前に行って、椅子に座ると、


「おはようございます。今日は早速コンピューター室に行ってこれを入力してください」

 大川は資料らしきものを手渡したきり、それ以上何も言わなかった。


 藤本は大川の口のきき方に腹を立てて、怒鳴りつけてやろうと思ったが、村井に良く事情を聞いた上でないとまずいと思い、その場はグッと我慢した。すると今度は、大川が藤本を見て、


「コンピューター室はあっちですよ。その入力は、来週月曜日までに終らせてくださいね。でないと次の業務に移れませんので」


 藤本は真赤になり、今にも火を噴きそうであったが、その資料を握り締めコンピューター室へ向かった。


 そこには別の社員がすでに来ていて、しきりにキーを叩いていた。たいして広い部屋でもなく、見るとパソコンセットが5台しか入っていない。藤本が入って行くと、二人の社員が必死に画面に向かい合っていた。藤本は入口近くの椅子に腰を降ろして、渡された資料を机の脇に置くと、ムカムカと吐き気をもようした。


(ともかく、村井に話そう)


 そう決めると立ち上がって三階へ行ってみた。


「村井さんは、まだ来てませんよ。今日は客先を回ると言っていましたから、昼過ぎだと思いますよ」


 入口近くの女性が藤本に突っけんどんに答えた。藤本は仕方なくコンピューター室に戻ると、いきり立ってパソコンのスイッチを入れ、机の上の資料と睨み合った。


 夕方、四時頃、廊下で村井の声がしたので慌ててコンピューター室のドアを開け、村井を大声で呼んだ。村井はびっくりして藤本の方を向くと、


「どうしたんですか。何かあったんですか」

 と言って藤本に近付いて来た。


 藤本は早口で昨日と今日の出来事を村井にまくし立てた。村井は周りを気にしながら、今晩、七時にいつもの店で藤本と会う事を約束して、その場を切り抜けた。





 


 

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