第3話

「常務、ちょっとお時間いただけますか」

 藤本は常務室に入るといきなり木村常務に話しかけた。


「今日はどういう風の吹き回しだね。朝一番のお目見えとは。何か良い事でもあったのかね」


「これ、受け取って下さい」


 と藤本が言うと、窓際に立っていた木村は肩をグルグル回しながら、

「いや、昨日のゴルフ、スイングに無理があったかなあ、ちょっと肩が痛くて」


 そう言いながら机に戻り椅子に座ると、おもむろに藤本が机の上に置いた封筒を見た。


「何、これは辞表じゃないか。突然どうしたの君、朝っぱらから何考えてるんだね」

 封筒を手に取りながらびっくりした様子で、机の前に突っ立っている藤本を見上げた。


「これは単なる衝動ではありません。じっくり考えた末の結論です。私の意志は変わりません」


 藤本のキッパリとした口調を聞いて、


「それはそうでしょう。いい大人が簡単に辞表なんか出せる訳がない。しかし出来る事ならもう一度、考え直してみてくれないか。君は我が社でも勤続年数が長い方だし、貢献度も高い。

 部下への影響も大きいと思うが...まあ取り合えず、一時預かっておきましょう」

 木村は落ち着き払った調子で話した。


「私の気持ちは全く変わりません。早急に、受理して頂きたい」


「分かった。とりあえず二日ばかり時間をくれたまえ。追って連絡するから」

 木村がそう言うと、藤本はサッと立ち上がり部屋から立ち去った。



 次の日の午後早速、藤本は木村に呼ばれた。


「藤本君、どうもどうも、こちらへかけなさい」

 

 木村は応接用のソファに藤本を座らせると、秘書にお茶を持って来させ、開口一番、

「いやあ、君の決心には驚いたよ。しかし実は他の部署からも、こいつは課長なんだが、やはり辞表が届いてねえ。ここんとこ、優秀な人材が離れて行く傾向にあるんだが、全く困ったもんだよ。

 だが、君の決心は変わらないと思うんで、当社としても良く検討した結果、君の辞表は受理された。

 詳しいことは、人事の斉藤から連絡が行く筈だ。私ちょっと、これから会議なんで悪いがこれで失礼するよ。君とはもっと、じっくり話をしたかったんだが、他社へ行っても体に気を付けて頑張ってくれたまえ」


 と言って藤本を部屋から出るよう促した。


 藤本は、出されたお茶をそのままにして部屋を出た。


 ものの五分もかかったろうか。藤本はあまりにもあっさりと終わってしまったので、拍子抜けしてエレベーター階数を間違えてしまった。

 

 扉が開くと屋上に来ていた。

 そのままフラッと外へ出ると、比較的暖かく冬の陽が広場一面に差し込んでいた。

藤本は両手で手擦りを握り締め、空を見上げた。


「長い間勤めてきて、辞める時はこんなもんか」

 藤本は別に悔しくもなかった。かえって木村や次長の江川の顔が馬鹿に見えてきた。


「さあ、来月からはここともさよならだ」

 右手の拳を握り締めると、


「そうだ、すぐにも村井に電話して喜ばしてやろう。今晩はあいつと一杯やりたいな」

 藤本は急いで自分の部屋に降りて行った。



「あ、部長!  退職されるそうですね、今伺いました」

 ドアの開けると目の前にびっくりした顔をした吉田礼子が立っていた。

「おお、そうなんだ。君にはいろいろとお世話になったね。いつも頑張ってくれてありがとう」

「とんでもありません。こちらこそとても良くしていただいて、感謝しています。

でも突然で、本当に驚きました」


「いやあ、まあ」

「今度はどちらへ行かれるんですか」

「え、おお、まだ決めてないんだけどね」

「えええ、そうなんですか。また私はすごい会社に引き抜かれたのかと思いました」


「ええ?なんでそんなこと思ったの」

「あ、はあい。今、聞いたばっかりなんですけど、誰からって言うのはちょっと...」


藤本は席について早速残務整理に取り掛かった。

ニ十分もしないうちに江川が机に近づいてきた。


「部長、退職されるそうで。今まで大変お世話になりました。本当に部長の下で働かせていただいて、本当に勉強になりました。」


藤本は話の広がり方のあまりの速さにびっくりした。


(常務が江川にもう話したのか。それとも人事の方から漏れたのか)


 そんなことはどうでもいい、早くこの会社から抜け出したいと思うと藤本は居ても立っても居られなくなった。


「ちょっと君、外へ出てくるから」


「部長、大丈夫ですよ。残務は私も手伝いますから。どうぞ退職されてからもお元気で。ご活躍されることをお祈りいたします。次の所でも頑張ってください」

 と江川は答えた。


(何て嫌味な奴なんだ。こいつの顔を見なくなるだけですっきりする)


 そう呟きながら、オーバーを取って部屋から出た。




 部主催のささやかな送別会の時、藤本はさきほどから礼子が寂しそうにしているのに気がついていた。


(あの子だけは私に良く尽くしてくれた。本当に良い子だ。俺に力があればあの子も連れて行くんだが)

 そう思いながら、他の社員たちの妙に楽しそうな様子に腹が立った。


 礼子がそっと藤本の席に近付いて来て、

「お体に気を付けて、無理しないで下さいね、部長」

 とビールをグラスに注いでくれた。藤本は胸にこみ上げて来るものを押さえた。


「貴方も早く、良い人を見付けて結婚することだ。もっとも、この部にはろくな者はおらんが」

「まあ、部長ったら。私、部長みたいなタイプの男性がいたらすぐ結婚します」


 礼子はそう言って藤本のグラスに再びビールを注いだ。藤本と礼子の間には何の特別な関係もなかったが、今になって礼子にそんなことを言われると、今までもったいないチャンスを逃していたのかもしれないと、勝手な想像をして年がいもなく照れて赤くなるのであった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る