第2話

 去年の秋、藤本は課長を久しぶりに昼食に誘ってみた。体よく断られ、一人で行きつけの蕎麦屋へ行った。


 そこへ村井が入って来た。


 店が混んでいたせいか藤本の隣に座った。村井は腰を降ろすなり、カバンから読みかけの新聞を抜き取った。それを広げようとした途端、テーブルにある藤本の湯飲みを手で引っ掛けてしまった。


「あちッ」

 藤本は咄嗟に叫んだ。


「あっすみません。申し訳ありません!」

 村井は急いで立ち上がり、ポケットからハンカチを出し、藤本の膝の上にそれを当ててしきりに頭を下げた。


「大丈夫ですか。火傷しませんでしたか」

「ああ大丈夫ですよ。そんなに熱くなかったですから」

 

 藤本は多少不愉快そうに言って、自分もハンカチを取り出してズボンの濡れた部分に当てた。


 藤本が蕎麦を食べ終えて、会計で支払いを済ませようとすると、村井が近づいてきてもう一度謝り、会計は自分にさせてくれと言い出した。


「けっこうですよ。何ともありませんから」

「でも、ご迷惑をお掛けしましたから」

「いや、けっこうですから」


 藤本は、支払いを済ませ店を出た。

 すると村井もすぐに店から出て来て、藤本の後ろから声を掛けた。


「あのー、本当にすみませんでした。私、こういう者です。せめてクリーニング代だけでも支払わせて下さいませんか」

 藤本が振り向くと村井が名刺を両手でつかんで差し出し、藤本に渡した。


 藤本は名刺を受け取ると、目のそばまで持っていった。


 良く見ると、自分と同じ業界の人間で、人事部長の肩書が付いていた。藤本は、面倒臭いと思いながらも、おもむろに名刺入れから自分のを一枚取り出し、村井に手渡した。


「おお、Z社の方でした。いやどうも失礼いたしました。まったくお恥ずかしい」

 村井が頭を掻き、ペコペコ御辞儀をするのを見て、藤本は何となくこの男に親近感が湧いて来た。


「いやあ、とんでもない。御社のような会社の方が良い仕事をしていると思いますよ。うちなんか図体ばかり大きくて、近頃はロクな仕事してませんよ」

「御謙遜をおっしゃらなくてもいいですよ。天下のZ社があればこそ、我々なんか生きていけるようなもんですよ。

 それにしても先程は本当にすみませんでした。何か償いをしたいのですが...

もし宜しかったら、今晩どうでしょうか。いろいろとお話し伺えたら嬉しいのですが、この近くに私の知っている、いい店があるので...」


「ちょっと待って下さい。えーと、今晩は何もないからいいですよ」


「本当ですか、有難うございます。嬉しいなあ。これも何かの縁ですね。それでは蕎麦屋の前で6時でどうでしょう」


 村井は再びペコペコと頭を下げた。

 藤本は優越感を味わうと同時に、この村井と言う男に興味を持った。



 

 その晩、二人は業界の話に終始した。

 村井は藤本の話に耳を良く傾け、しきりに頷づいた。


 

 それから三、四日して村井から連絡があり再会したい旨を申し入れてきた。

 藤本は快く受けて前回と同じ店で会った。



「そんな事、急に言われたって村井さん、困るよ。冗談でしょ」


「いや、我が社は本気ですよ。藤本さんのような方が必要なんです」


「しかし、そんな好待遇だったら、他にもたくさん人材がいるでしょ。私でなくても...」


「藤本さんの御経歴と、御人格を拝見致しまして申し上げてるんです。

 是非とも我が社へ来て下さい」


「急に言われても、それは無理と言うもんですよ」


「当然だと思います。しかしそこを何とかお願いします。今度、担当取締役に会って貰いたいと思って居ります」


 村井は真剣な顔で藤本を見つめ、頭を下げた。


 藤本の心の片隅には、この時、既に異変が生じていた。

 その後、村井との会合を重ねるうち、藤本の決心は固まっていったのである。




「あなた、もうちょっとしたら定年でしょ。今更そんな無理しない方がいいんじゃないの。退職金の額だって全然違ってくるでしょうに」

「その会社はな、うちの会社より定年が五年先なんだ。だからそのくらい問題ないよ。年収だって今の1.5倍だぞ。悪くないだろう。それに役員になれば定年に関係なく、役員報酬が入るんだ。その時点で退職金だってグンとアップするし...」


 そう言いながら妻の方を見ると、すでにスース―と寝息を立てていた。


(俺はもう決めた。誰が何と言ったって辞めるぞ。週明けには辞表を出す)

 そう心に言い聞かせると、


(次男の良雄も去年就職したし、家のローンはたっぷり残っているとはいっても、年収が増えれば何の問題もない。生活は今よりずっと楽になる。もし役員になって会社が上場でもしたら、俺はもう、ちょっとした名士だ。どう考えてもマイナス要素は一つもないじゃないか)

 

 その晩は妻のかくいびきをうるさいとも思わず、明け方まで頭が冴えて眠れなかった。

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