ヘッドハンティング

阿部亮平

第1話

 藤本は、履歴書を書き終えるとペンを置き一息ついた。

「おい、お茶を持って来てくれないか」

「今忙しいから、ご自分で入れて下さいな」

 いつも返って来る妻の返事を聞きながら藤本は台所に立った。


「俺は、自分の能力を過小評価してきた連中に一泡吹かしてやるんだ」


ぶつぶつ独り言を言うと、妻が風呂場の方から、

「私の分も入れておいてちょうだい」

と叫んだ。

 

 ターミナル駅の常磐線K駅まで一駅の私鉄T駅から徒歩で約15分。念願の戸建てを買い家族四人で隣のM駅のアパートから引っ越して来てから、早いもので20年が経つ。

 

 子供たちもまだ小学生で、藤本も若かった。都心への毎日の通勤もそれほど苦になることなく、あっと言う間に20年が過ぎた。しかし五十も過ぎたあたりから会社までの1時間半の通勤時間が少しずつ堪えるようになっていた。


「いやいやまだまだ。何を弱音を吐いているんだ。本番はこれからじゃないか」


 着膨れした朝の通勤電車の中で、藤本は力んだ。

「俺は取締役まで行くべき人間だ。なのに会社は全く俺の事を理解していない。

今までどれだけ会社に貢献し、儲けさせて来た事か」


 停車駅で電車が止まると、その反動で藤本の前に立っていた男がぐっと彼の胸に肩を押し付けてきた。

 

 藤本は、左肘でその肩をグッと押しやって迷惑そうに払いのけた。すると男は何も言わず藤本に背中を向け、彼に逆らわないようにスペースを取ろうとして前の一群に張り付いた。

 

 藤本は、自分の思い通りになった気分の良さから、男としての自信を取り戻したかのように吊革につかまりながら、会社での今後の身の振り方を思い巡らすのであった。




「おはようございます、部長。今朝はえらく顔色が良いですねえ」

 次長の江川が足早に近づいてきて、調子の良い顔をしながら、


「今日の午前中の営業会議、宜しくお願いします。

ちょっと木村常務との打ち合わせが入っちゃいまして。これ、昨日チェックしてコメント入れておきましたので後はお任せします。それじゃ」


 藤本にファイルを渡すと江川はそそくさと部屋から出て行った。

藤本はいつものように頭にカチンと来ながらも、


(どうせこいつとも長いことはない)

と思い直し書類を受け取りタバコに火をつけた。




 藤本は時計を気にしながら、会議がいつも昼休みにかかってしまうので、今日は適当な処で切り上げるよう課長に言い渡し、急ぎ足で会議室を出た。そしてコートを取りエレベーターに乗った。一階に着くまでの間やけに長く感じる程、気がせいていた。


 外に出て歩き出し、しばらくしてから寒さに気が付くと、コートを手に持ったままだった。藤本は慌ててコートを着込むと、小走りになって黄色になりかけた信号を渡り、角から二軒目の、普段はあまり行かない喫茶店の入り口に立った。


 左側の透明のガラス張りの窓を覗き込むと、一番奥の二人掛けの向かい合わせの席に、村井がこちらを向いて座っていた。


 藤本が入ってくるのに気が付くと村井は席から素早く立ち上がり、深々と藤本の方に向かって頭を下げた。そして、自分の前の席に手を差し延べた。


「さあ、どうぞどうぞ。お座り下さい」


 村井のカン高い良く通る声が店内に響くと藤本は、周囲を気にするように見回して、知り合いが誰もいない事を確認すると、漸く腰を下ろした。村井は腕時計にサッと目をやった後、急いで顔を藤本に向け話をつづけた。


「いやどうも。お忙しいところ、ご足労いただきまして恐縮です。

早速ですが履歴書はご持参いただけましたでしょうか。藤本さんの素晴らしいご経歴は既に存じ上げておりますが一応、人事部の手続き上の決まりでして」


 藤本は鞄から、昨日懇切丁寧に仕上げた履歴書を取り出し、テーブルの上に置いた。村井はそれを拝むようにして受け取り、中身を確かめもせずに自分のアタッシュケースにほおり込んだ。


「藤本さん、それでは退社の日取りは二月十日で間違いありませんね。

当社への出社はあまり時間を置くのも何ですから、月が変わり次第という事で宜しいでしょうか」


「はい、それで結構です。宜しくお願いいたします」

 そう言うと藤本はテーブルに手を付いて頭を下げた。


「ちょっと勘弁してください。藤本さんのように優秀な方にそう頭を下げられては、何と返答していいか...」


 村井は頭をかきかき、再び真顔で言った。


「一応当社といたしましては、先日の条件すべてが藤本さんの満足いくものとは思っておりませんが、三か月後には必ず見直させて頂きますので何卒ご理解の程、宜しくお願い申し上げます」


 村井は藤本と全く同じように、テーブルの端に両手を付き、深々と頭を下げた。


「とんでもない。私にとって決して悪い条件ではないし、何と言ってもやり甲斐が有りますからねえ」

 

 藤本がそう言い返すと、村井は上目使いに藤本を見上げて言った。


「いやあ、当社と致しましては、藤本さんのような人物を獲得できて誇りに思っています。何しろこちらはまだまだ業界では駆け出しですし、藤本さんの今のZ社に比べれば吹けば飛ぶような会社ですから。

いやいや、そんな事を申し上げては藤本さんに対して失礼でした。貴方が我が社へ来れば百人力ですからね。いずれは上場して将来は藤本さんに常務か専務までは勤めて頂かないと」


「何しろ全力で頑張ります。私はただ、会社が今より良くなってくれればそれでいいんです。それだけですよ」


「有り難うございます。藤本さんにそう言って頂けると私も本望です」


村井はそう言いながらウエイターを呼びつけた。 

「すみません。オーダーするのを忘れてまして。何にしますか」

と藤本に尋ねた。


「コーヒー下さい。いやレモンティーにしておこう」


「レモンティー一つ」

 慣れた口調で村井がウエイターに言うと、藤本は満足しきった様子で最初の一服を深々と吸い込み、村井の顔に煙がかからないように吐き出した。


 それを見た村井は、頭をかきかき何やら言い出しにくそうに言った。


「もう一つ言っておくことがあったんですが、すっかり忘れていました。

実はうちの会社のオフィスは禁煙なんですよ。勿論、廊下には喫煙場所はありますのでご安心ください。何しろ社長の方針でして」


 藤本は慌てて吸っていたタバコを口から離し、灰皿にもっていくと急いで揉み消した。

「大丈夫です。私もちょうどやめようと思っていたところです。かえって良かったですよ」

「いや、気になさらないで下さい。私の前ではいくら吸っても結構です。私も昔はかなりのヘビースモーカーでして、やめるのに苦労しました」


 そう言うと、藤本の様子を伺った。藤本は苦笑いした。


「えらいですなあ。良くやめられましたねえ。私も見習います」

 と頭を撫でた。村井はそれには答えずに、


「それでは一応、退職願受理書を確認の上、支度金をお渡しします。場所は追って連絡致します」


 そう言って立ち上がり藤本の肩を押えた。


「私はちょっと急ぎますので、これで失礼しますが、藤本さんはゆっくりしていって下さい。昼食まだでしたよね。ここのオムライスなかなかおいしいですよ。食べて行って下さい。私、注文しておきますから。それでは後程連絡お待ちしております」


 村井はそう言い終えると、出口の方へ歩き出し店員に何やら話しかけた。そして会計を終わらせてもう一度藤本に向かってお辞儀をすると、そそくさと店から出て行った。



 藤本は一人オムライスをほおばりながら、あれこれと思い巡らしていた。支度金はどうもあまり藤本の納得いく額ではなかった。しかし年収としては今の会社より格段に多い。それに将来、上場する事にでもなったら会社の株を買っておけばひと財産築ける。村井が言っていたように取締役の道も夢ではない。


 全く自分はあんな会社に長い間何の為に勤めてきたのか、考えれば考えるほど腹が立ってくる。


 「俺はやるぞ。あの会社に行って業界で俺の名を轟かしてやるんだ」


 興奮した藤本は、口にほお張ったオムライスをむせて吐き出しそうになり慌てて口を押えた。そしてもう一度、


「俺はやるぞ。これからが俺の出番だ。頑張るぞ」


 感極まった藤本は、一番奥の席で誰にも見えないのをいいことに、両眼から大粒の涙をぼとぼとと落とした。








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