放し飼い

歩隅カナエ

放し飼い


 もしかしたら。

 私の胸中にわだかまっている所謂いわゆるひとつの恋心というものは、初めは接頭にそんな推量の副詞が付いてしまうくらいには確信の持てない模糊もことした感情でした。しかし、そのふわふわとした感情は次第に輪郭を顕現けんげんさせ、今では確かな原動力でって、私を突き動かしています。

 それはとっても甘くて。

 それから、とっても苦くて。

 その感情自体が、まるで甘露かんろのように酷く魅惑的なのでした。

 しかし、この恋は少女漫画のように円滑に、あるいはドラマチックには進行してくれませんでした。その原因はひとえに、私の経歴にあると考えてよいでしょう。

 私は中学校から高校までエスカレーター式の女子校に通っていましたから、そういった男女関係の方面には滅法めっぽううとく、また男性に対しての免疫がまったくと言っていいほどにありませんでした。それが、つまりは確かな遠因として私の恋路の邪魔をしていたのです。恋愛という戦における経験値と、そして知識が、私には決定的に欠如していました。

 このままではいけないと、一ヶ月ほど前のことでしょうか、私は自分の愚かさにほとほと嫌気が差しまして、ですから自らに喝を入れ、一念発起しようと強く決意しました。彩りのない、未だ真っ白なままの人生という名のカンバスに、ひとつ絵の具を垂らしてやろうと思い至ったわけです。

 そうと決まれば。勇猛果敢ゆうもうかかんなことに定評のある私はすぐさま行動に移ります。

 恋愛初心者の私が殊勝にも恋愛成就の戦旗を掲げるということで、急遽きゅうきょ、脳内懐疑的会議が開会されることと相成りました。人生の岐路に立った際に行われるこの脳内懐疑的会議には、およそ決め付けというものが存在しません。あらゆる可能性を計算した上で、しかし否定意見は廃棄せずに織り込み、最も理にかなった結論を導き出すのです。

 一週間に渡る就寝前の脳内懐疑的会議によって、恋愛事に疎い私がそれを一人で成就させるのはあまりにも無謀だという結論が出されました。いささか不本意ではありましたが、今までの人生でこれといった恋愛経験のなかった私は、その悲しい現実を素直に受け止める他ありません。納得できずとも、前に進むためにはその悲しい現実をごっくんと嚥下えんげしなければならなかったのです。

 これからの方針はそうして定められたわけですが、さしあたっては同じ学部で比較的仲の良い鈴木さんという方に、他言無用と断って相談をすることにしました。彼女は自他共に認める大変立派な人格者ですから、たとえ未熟な私の恋愛相談であろうと、きっと親身になって考えてくださることだろうと思ったのです。

 その期待の通り、彼女はそれが己の使命であると言わんばかりに快く請け負ってくださいました。聖人君子ここにあり!

 しかし、「その相手が誰なのか」という問に対し、身の程も知らない私があっけらかんと答えた時、それはそれは、物凄い剣幕で詰め寄られました。曰くに、彼は世間で疎まれがちな「ヤンキー」という人種だと言うのです。彼女の話を聞く限りでは、ヤンキーは女性を性処理の道具として扱い、また弱き者から金品を巻き上げ、あまつさえ学費や生活費を稼いでくれている両親に対して日常的に殴る蹴る等の暴行を加えているという、人倫にもとる社会的勢力であるとか。私はそんな人間が現代の日本に蔓延はびこっているということに戦慄しました。世紀末でも、人がそこまで非道になれることはないでしょう。

 平穏な檻の中で生きてきた私の周囲は嫌気さえ差すほどに安穏としていましたから、敬愛している鈴木さんの言葉とはいえ、それは私にとって俄かには信じ難いことでした。

 そういった人間が現代の日本に蔓延っているかどうかは兎も角として、彼に限ってはそんなこともありませんと一応の説得を試みた私でしたが、鈴木さんは彼に対して偏見を持っているらしく、まるで聞く耳を持ってはくれませんでした。私に人を説得させられるだけの信頼がもう少しでもあれば、きっと彼女の誤解を解くことも出来たのでしょうが。

 ええ、言い訳のしようもありません。

 けれど、そう、私は身を以って知っているのです。彼は確かに粗暴で、他人を寄せ付けない威圧的な瞳を持った方ではありますが、しかし、本当は清く優しい心の持ち主なのだと。

 あれは確か、そう、ちょうど一ヶ月ほど前のことだったと記憶しています。






 その日も私は迫り来るサークル勧誘の嵐から命からがら逃げおおせ、涙目になりながら帰路に着きました。当時はまだ大学に通い始めて日も浅かったので、私は駅までの道程を詳細には把握しておらず、前を歩く同じ大学の生徒に着いて行くという形で登下校を乗り切っていました。ええ、今になって思えば、なんと浅はかだったのだろうと忸怩じくじたる思いがします。

 そうして、やはり不測の事態が起こりました。非常にお恥ずかしい話ではありますが、そうですね、はっきり言って、私は迷子になってしまっていたのです。上京したばかりで世間知らずなことに加え、都会というものに未知の恐怖を感じていた身としては、交番へ行くことはおろか、道行く人に駅までの道程を尋ねるなんて大逸だいそれたことも出来ませんでした。

 何度も何度も、同じ道を行ったり来たり。堂々巡りとはまさにあのことでしょう。

 そして気付けば、陽の当たらない薄暗い路地裏にて、五人ばかりの男性に囲まれていました。皆さん個性的な方ばかりで、とても奇抜な格好をしていたのを覚えています。どこかで転んだのでしょうか、ジーンズが破れてしまっていたのが可哀想でしたけれど。

 それと、彼らが口々に言っていた「キミカワウィーネ」や「オチャシナーイ」がどこの国の挨拶だったのか、学の浅い私には到底分かりませんでした。あれから大学の図書館を利用して調べてはみたのですが、少なくともアジアの言語ではなかったようです。流行りの挨拶か、あるいは方言だったのかしら。だとすれば、随分と田舎者に見られていたことでしょう。まったく、お恥ずかしい。

 ともあれ、そうしてロクに返答も出来ず、あうあうと狼狽えていた私の腕を、一人の男性が突然がっと掴んだのです。男性の突飛な行動に、私はひゃん!と悲鳴を上げました。その瞬間、自分がかなり危ないことに巻き込まれているのではないかという恐怖にとらわれたことを覚えています。

 泣き出しそうになった、その時でした。

 たったと軽やかな足音がして、私と男性の間に人が割り込んできたのです。こちらに背中を向けていたので、その時はまだ顔を拝見することは叶いませんでしたが、体格と服装からは男性であることが分かりました。背丈はかなり高い方で、その大きな背中は今も尚、瞼の裏に焼き付いて離れません。あるいは、その時にはもう恋のストロボが焚かれていたのかもしれませんね。なんて。

 あら嫌だわ。私ったら。

 ともあれ、そうして彼が颯爽と登場すると、先程まで軽薄な笑みを浮かべていた男性方は打って変わり、不機嫌そうな表情で彼に詰め寄り始めました。私はやめましょう!と声を荒げましたが、悲しいことに、誰一人として私の言葉に耳を傾けてくれる方はいませんでした。挙げ句の果てには、激しい罵倒が飛び交う事態にまで発展し、あわや大乱闘というところにまで来ていました。

 これは大変なことになったぞ、と思いました。

 唐突に勃発した舌戦ぜっせんに、私には事態を収めるどころか、もはや口を挟むことすら許されません。男性方の舌の回り具合と言えば、さながら機関銃のようで、もはや何を言っているのか聞き取れないレベルにまで達していました。

 仲裁にも入れずに狼狽する私をぐいと後ろへ追いやって、彼は「この人、俺の彼女なんで」と毅然きぜんとした態度で言い放ちました。

 なんじゃそりゃ!と抗議を口にしようとしたところで、私はその台詞にどこか聞き覚えがあることに気が付きます。目の前の事態そっちのけで思索しさくに耽るのもどうかと思われましたが、しかし、それを知ることが事態の把握に繋がる気がしたので、男性には悪いと思いつつも、一旦落ち着いて考えることに決めました。

 私はどうにか思い出そうと、目を閉じて海馬を掘り起こします。むむむ、と考え込んでいるうちに、それが中学生時代に友人の家で読んだ漫画に出てきた台詞だということに気が付きました。確か、表紙には瞳の大きな可愛らしい女の子が描かれていたような。

 そうです。その物語の冒頭が、まさに今、私の置かれている状況と一致していたのです。

 それは主人公の女の子が柄の悪い殿方に絡まれていたところを、通りすがりの男の子が「自分の彼女だ」と嘘を吐いて相手の意欲を削ぎ、女の子を助け出す、というものでした。

 そこで私は遅ればせながら、自分が男性方に絡まれていたのだということに思い至りました。奇抜な格好の男性方が話し掛けてきたのは、俗に言う軟派(と、後に鈴木さんから教わりました)という行為だったのです。私をターゲットにするだなんて、なんとまあ、奇特な方々なのでしょう。

 いえいえ、わかっていますよ。冗談です。おそらくは土地勘がないことから無知な田舎者だと軽視されたのでしょう。まったく腹立たしい!

 そうして私が事態を把握してからも、しばらく彼らは白熱した舌戦を繰り広げていましたが、男性方は彼の物怖じしない態度が面白くなかったようで、やがてぞろぞろと路地裏から出て行きました。それまで騒がしかった路地裏に、突然の静寂が舞い降ります。その中で、彼が小さく息を吐きました。それを聞いてようやく、私も安堵の息を吐くことができました。

 ああ、お父様、お母様。都会とはかくも物騒なところなのです。私は少しだけ、この街で生きていく自信が失くなりました。

 都会に対しての恐怖を募らせつつ、私は助けていただいたことに対して心よりの謝辞を述べようと、すでにその場を立ち去りつつあった彼を「あの!」と上擦った声で呼び止めました。しかし、彼は私の謝辞を受け取る気など更々ないようで、大きく踵を鳴らして足早に立ち去ろうとします。

 私は思わず、「待ってください!」と声を荒げました。彼はぴたりと足を止めると、ゆっくりと振り返り、まだ何かあるのかとでも言いたげな表情で私を見据えました。その時、初めて彼の顔を視界の内に捉えました。

 くっと吊り上がり、ぎらぎらと輝きを放つ鋭い瞳に、その敵意を抑えるように添えられた小さな泣きぼくろ。すっと通った鼻筋。いかにも不機嫌そうな、むっとした口元。

 一見すると、交番の前の掲示板に「指名手配!」なんて物騒なレッテルを貼られていそうな悪人面ですが、しかし、たった今、彼は確かに私を助けてくれたのです。どうして、怖いなどと思えますでしょう。むしろ、その矛盾したような正反対のギャップ(というのでしたっけ?)に、私は一周回って彼が愛おしくさえ思えてきました。

 恐るべし、ギャップ萌え!

 依然として煩わしさを醸し出す彼に、私は深々と頭を下げて「ありがとうございました」と謝辞を述べました。幼少より、お礼だけは忘れるなと父から再三叱りを受けていましたから。

 そうすると、彼は怪訝な顔で、それでも「どういたしまして」とぶっきらぼうに返事をしました。それを聞いて、私は何故か落ち着かない気持ちになりました。もう少し話していたいなと、そんな我儘なことを思ったのです。

 ですから、彼がそそくさと立ち去ろうとしたのを見て私は咄嗟に彼の手をがしっと掴んで強引に引き止めました。突然の強行に驚いたのか、彼は大きく肩を跳ねさせ、そうして緩慢な動作でこちらを振り返ります。なんとも言えぬ空気の中、彼の射殺すような眼光が私の眉間にぐさりと突き刺さっていました。

 お名前を教えて頂けませんか。

 消え入るような声でそう言うと、彼は意味がわからんとばかりに首を傾げました。自身の大胆な行動に混乱していた私も途端に気恥ずかしくなって、路地裏の地面と睨めっこを開始します。燃えるような顔の熱さだけが、逃げ出したい気持ちとは裏腹に、これから何をするべきかを教えてくれているような気がしました。

 ぐっと手を引き、強引に振り解こうとする彼に私は尚も食い下がりましたが、どうやら道中を急いでいるらしいということが窺えたので、ならばせめて携帯電話のメールアドレスを教えてくださいと要請しました。

 ええ、そうですね、自分にしては頑張ったのではないかと自負しています。あんな積極性を発揮したのは、小学生の頃に「子供はどうしたら生まれてくるのか」ということを父と母に追及した時くらいのものです。まさか厚生労働省の子供政策にコウノトリが起用されているとは知りませんでしたけど。

 そんな積極性を発揮した私に観念したのか、おそらくは譲歩なのでしょう、彼は「LINEじゃダメなのか」と言いました。

 私は咄嗟にラインとは何かと訊き返しました。その返答に彼は眉を寄せ、またしても面倒臭そうな表情を作りました。私は何か悪いことをしたのかと不安に駆られましたが、きっとそれが顔に出ていたのでしょう、彼は「わかった。わかった」と頻りに頷くと、ズボンのポケットから何やら平べったい機械を取り出しました。

 私は一瞬、それが何であるのか理解できませんでした。しかし、彼がひょいひょいと弄り始めたのを見て、母が「折り畳まない携帯もあるらしいよ」と言っていたことを思い出し、これが噂の! と俄かに興奮を覚えました。とは言え、私は昔から機械が得意ではありませんでしたから、もしも手にする機会があったとしても、それこそ手に余るものと思われました。時代に置いていかれないように、私も日々成長していかなければならないと決意を固めた瞬間でもありました。

 ともあれ、彼がさながら印籠をかざす格さんのように豪快にアドレスを提示してくれたので、私は自身の連絡先にせっせと打ち込んでいきました。先程とは一転して、波を打ったように静まり返った路地裏に、かこかこと小気味よい音が響いていました。

 やがて私が打ち終えたことを確認すれば、彼は何も言わずに去って行ってしまいました。その去り際もあっさりとしたものです。颯爽と現れ、颯爽と去っていくその姿は、さながら特撮映画のヒーローのように私の目には映りました。

 私はその日、どこか夢見心地な気分で帰宅しました。

 ええ、勿論、大学の最寄り駅まで辿り着くのに小一時間ほど彷徨い続けましたが、しかし何故でしょう、それほど悪い気分でもなかったのです。

 それ以来、私はその路地裏の君(仮)のことがどうにも気になってしまい、夜も眠れない日々が続きました。また何処かでお会いできないものかと密かに祈っていたものです。迷子になってナンパされていれば会えるだろうかと、そんな馬鹿げたことを考えてしまうくらいには、私は彼に参ってしまっていました。

 だからこそ、大学の講義で彼を見掛けた時の私の心境と言えば、狂喜乱舞という言葉の意味を数分違わず体現していたに違いありません。私が幼き頃に編み出した「喜びの舞・天地の型」は、しかし周囲に人が多すぎたため遠慮しました。もしも狂喜を抑えきれず心赴くままに踊り出していたのなら、きっと大学構内は喧々囂々けんけんごうごう、お祭り騒ぎとなっていたに違いありません。あんな恐ろしい舞を生み出してしまったことは、私の人生で唯一の汚点です。

 そうして密かに、しかし着実に恋心を募らせていった私は、脳内懐疑的会議を経て鈴木さんへの相談に踏切り、殊勝にも彼に気持ちを告白する決意をしたのでした。

 鈴木さんは最後まで私のことを心配してくださっていて、最後には「何かあったら、すぐにに言いなさいね。頑張りなさい」と鼓舞の言葉まで頂きました。

 ええ、そうですね。

 彼女はいつだって、私の敬愛すべき友人なのです。






 決戦の月曜日がやってきました。

 もうすぐに講義が終わろうという時分、私は緊張のあまり心臓が爆発しそうになるのを堪

えながら、ノートと睨めっこをしていました。心頭滅却とばかりに必死でシャープペンを走らせ、身を襲う緊張を排します。しかし、心なしか、文字には粗が見えました。それが私の心象を投影しているであろうことは想像に難くありません。

 ここまで緊張したのは、小学生時代にクラスメイトの下村くんが私のリコーダーを舐め回していた現場を目撃した時以来でしょう。教室にて犯行に及んでいた彼に見つからないように、息を殺してその場を立ち去ったあの五分間の緊張と言えば、実に筆舌に尽くし難い! 詳しくは下村くんの名誉の為にも割愛させてもらいますが、今の私の心臓はあの時と同じくらい激しく脈打っていました。

 そのワクワクともウキウキとも違うそれが、世に言う恋というものなのだと鈴木さんは言っていました。そうして私のそれを「初恋心はつこいごころ」と仮称したのです。

 初心の中に恋慕在り。

 ええ、とても良い餞別せんべつをいただきました。

 緊張がピークに達そうとしている中、私が板書を写し終えると同時に、終業のチャイムがキンコンカンコンと鳴り響きました。教壇に立っていた初老の先生は石を擦り合わせたような掠れた声で「今日はここまで」と言って、のっそのっそと身体を揺らしながら教室を出て行きました。大半の生徒達が板書を写し終え、次の受講室へと向かいますが、彼は未だつらつらとシャープペンを走らせていました。

 一分程経った頃合いでしょうか。彼が授業道具をリュックへと仕舞い、席から立ち上がったのを見計らって、私は「あの!」と声を掛けました。緊張のあまり声が上擦っていましたが、そんなことは些細なことだと割り切って、次の言葉を紡ぎます。

「あの、この間は困っていたところを助けて頂いて、本当にありがとうございました」

 私が改めてお礼を述べると、彼は初め、思い当たる節がないような顔をしていましたが、私が携帯電話に登録されている彼のメールアドレスを提示すると、すぐに想起に至ったようでした。

「すみません。突然で申し訳ないのですが、折り入ってお願いがありまして」

 私の言葉に、彼が小首を傾げます。

 大事な台詞を噛んではならないと、何度となく改稿を繰り返した告白の台詞を私は頭の中に反芻はんすうさせました。あとは呼吸に、音と気持ちを乗せるだけです。

 しかし、どうしたことでしょう。

 彼への好意を自覚すると、途端に喉が固まりました。かあっと顔が熱くなり、脳裏にはあの路地裏でのワンシーンが思い出されます。お腹の底がぐつぐつと煮えたぎるように熱を持ち、まるでそれが全身へと広がっていくように感じました。

 私はそれでも懸命に、自らの内にくすぶる彼への恋慕を言葉にして伝えました。胸いっぱいに満ち満ちているこの圧倒的な感情を、私は叫ばずにはいられなかったのです。そうしなければ、口から鼻から、湯水のように溢れてしまうのです。

 しかして、彼の口にした返事は私を喜ばせるものではありませんでした。「興味ないから」というなんとも素っ気ない台詞で、彼は私の申し出を取り付く島もなく拒絶したのです。その時の衝撃と言えば、小学生の時に隣の席の小山田くんから「サンタクロースの正体って実はお父さんなんだぜ」と甚だしい嘘を吐かれた時のそれに匹敵すると思われますした。まったく、そんなわけもないのに、精神的にもまだ子供だった私は彼の話を鵜呑みにし、危うく持てる限りの語彙で以って父を糾弾するところでした。たとえ年端も行かぬ子供であろうと、そんな幼稚な冗談に引っかかってしまうだなんて、私は本当に底の浅い人間です。ええ、本当に。

 そうこうしているうちに、彼はいつかのようにさっさと立ち去ろうとしました。逃してなるものか!と私もまたいつかのように彼の手を掴んで引き止めます。彼の攻撃的な瞳が殊更に鋭くなったように感じましたが、それでも私だって、この手を離すつもりはありません。

 しばらく「離せ」「離しません」の押し問答が続きました。私は持ち前のしつこさを最大限に発揮し、まるで駄々を捏ねる子供のように執拗しつように食い下がります。

 そこで私は、周囲が異様に静かなことに気が付きました。講義が終わっているとはいえ、次の講義もあるので誰もいなくなるということはないはずです。不思議に思い周囲を見渡してみれば、なんということでしょう、私と彼を取り囲むように大きな人集りができていました。あれだけ騒いでいたのですから、人が集まってくるのも無理からぬことでした。

 私と彼は動きを止め、一旦、互いの顔色を伺いました。

 一瞬の静寂。

 心臓がひとつ、大きな音を立てました。

 次には彼は私の手を強引に振り払い、弾けたように身をひるがえして走り出したのです。人混みを掻き分け、私からどんどん離れて行きます。

 ええい、ままよ!と。

 私は逡巡の後にスタートダッシュを決め込みました。人の間を縫うようにすり抜け、彼の逃げた方へ向かいます。

 角をふたり曲がり、彼の背中を捉えると同時に、私はリノリウムの床を右足で力いっぱい踏み切りました。膝の伸縮性を最大限に利用し、大きく跳躍したのです。一秒にも満たない滞空を経て、私は彼の大きな背中へと抱き着きました。お腹に手を回し、今度こそ逃さないように、がっしりとホールドを決めます。そのまま彼諸共、推進力のままに前方へと華麗なダイビングを披露しました。滑るように床へと突っ込むと、互いに悲鳴を上げながら、ごろごろと転がります。横へと力が働いている所為か、しかし、それほどの衝撃はありませんでした。

 揉みくちゃになりながら廊下を転がり、私が上になったり、彼が上になったり、やがて振ったサイコロが目を示す時のようにゆっくりと回転し、そうして最後には、仰向けになっている彼の上に私が覆い被さっている形で落ち着きました。肩で息をして呼吸を落ち着かせてから、ばっと勢いよく身体を起こすと、私も彼もあちこち埃まみれであることが見てとれました。服ははだけていて、髪もぼさぼさ、ムードも何もあったものではありません。

 彼は観念したように、そのままの体勢で「なんでこんなことをするのか」と私に尋ねました。想いは思考を凌駕して、伝えたい言葉を紡ぎます。

「私は、あなたのことがとても気になっています。あれから、あなたのことばかりを考えてしまうのです。お付き合いがダメなら、友達からでも構いません。私と、仲良くしていただけないでしょうか」

 彼はしばらく放心したように目を見開いていましたが、やがて大きな溜息を吐き出すと、こくんと小さく頷きました。自然と笑みが溢れ、そうすると、足の先からするすると力が抜けて行きます。途方もない緊張が過ぎ去った心に、穏やかな風が吹き抜けました。彼の世界に入ることを許されたような、そんな気持ちがしました。

 不本意だという顔をする彼に、私は微笑んで言いました。

「そういえば、自己紹介を済ませていませんでしたね。私は宮坂とおると言います。どうぞ、今後ともよしなに」

 差し出した私の手を、彼はやはり拒絶しました。






 恋とはいったいなんでしょう。私にはその理由も作用も意味もさっぱりわかりません。ですが、それが叫び出しそうなほどに充足させたい感情なのだということはわかりました。他人に定義してもらわなければ、これが恋だというものに気付くこともなかったのかもしれません。

 ともあれ、ようやく見つけることができたのです。世界でただ一人、好きだと思える方を。

 この想いが、その事実が、私には彼しかいないのだということを教えてくれます。こうして巡り合えた奇跡に、あるいはその采配を担った神様に、私は感謝すべきなのでしょう。

 だって、男の人に軟派をされて、困っていた私を助けてくれた彼のことを私はこんなに気になっているのです。こんなに模範的な恋愛がありますでしょうか? 厳しい家柄に生まれ、両親の期待に応え続けることのみを自らの幸せとしてきた私にとって、レールの上にいることの安心以上に、満たしてくれるものはありません。

 ええ、本当によかったです。これでようやく、私は私自身の領域で幸せになれます。

 いつか、彼を実家に招待して、両親を驚かせてやりたいものですね。彼女たちも人の親ですから、きっと私の幸せを心から喜んでくれることでしょう。






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