始まり

 居酒屋の一室に、酔っぱらいの声が響いた。

「らぁ~かぁ~らぁ~、ウサギとぉネコがくるんれすぅ~」

 碓氷うすい幸子さちこは酔っていた。

「こやってぇ、膝のうえにぃ~」

 強かに酔っていた。

「へぇ……」


 もうかれこれ一時間、自宅に来るウサギとネコがいかに可愛いかをグダグダと語っていた。

「あのさ、別に子どもが居たって何とも思わないよ。何で頑なに定時に帰るのかとか、むしろ色々と合点がいってスッキリする」

「子どもらんていませんよぉ~」

「いやどう見たって、そのウサギとネコは着ぐるみを着た子どもとしか思えないんだけど」


 あの男と同類かと思いきや、変な妄想を拗らせていただけだった。いや、青少年なんたら条例に抵触する犯罪者かもしれない……。

 七美は、深いため息を漏らした。

 今までの普通を失った瞬間に、隣に次の普通が落ちていた。

「なーんて……そんな都合のいい展開はないか」

「ほら、ほら、こてなんて最高れしょ~」

 突き出された携帯の画面には――何処をどう見ても、着ぐるみを着た男児にしか見えないものが映っていた。


「いやだから、着ぐるみ着せた子どもでしょ?」

「もう……、しかたがらいなぁ~。ナイショれすよぉ?」

「なに?」

「じ~つわぁ……」

「……実は?」

「グフフフフ~」

「そういう溜めウザイ」

「これは、悪魔なんです」


「……小悪魔的とか、そういう事?」

「ちぃ~がいますぅ、悪魔なんれす~。魔界から召喚するんれすよぉ」

「唐揚げとカップケーキでねぇ……」

 画面を捲ると、ゴスロリファッションの幸子の自撮りが現れた。

 おもむろにそれを撮影し、幸子へ尋ねた。

「……へぇ。このゴスロリファッションで儀式でもすんの?」

「それわぁ……、趣味れす……」

 慌てて携帯を引っ込めた幸子は、ボソボソと呟いて画面を戻した。


 あてが外れた。

 テーブルに突っ伏し、携帯の画面に頬ずりする幸子を見つめ、七美はため息を漏らした。

 しかし、全くもって期待はずれではあったが、分かった事もあった。幸子は、別に避けるような存在でもなかった。

 気を取り直し、追加のドリンクをオーダーして席を立った。

「ちょっとトイレ行ってくるね」

 これからの世を渡って行く〝普通〟をどうやって知れば良いのか……。ため息混じりにトイレの扉を開け、七美は立ち止まった。


 人っぽいものが、人を食っていた。


 頭の代わりに巨大な唇が乗っていた。相手の頭にぱっくりと食い付き、ズルズルと飲み込んでいた。食われている方は生きているらしく、じたばたともがいてはいるが、声は聞こえない。


 始まった……。


 パタリと扉を閉じ、近くの男性店員に声をかけた。

「トイレでヤバイ事になってる」

「え? なんスか? 水漏れっスか?」

 トイレへ向かう彼へ背を向け、七美は幸子の元へ戻った。

「幸子、帰るよ」

「ん~……」

「ちょっと、起きてよ!」


 ふと、先程の男性店員の声が響いた。

「ちょっ――お客様!? お客様!?」

 一瞬声を振り返ったが、それは無視して幸子を引き起こした。

「ん~……、もう帰るのぉ~?」

「もう帰らないと、子供の世話もあるでしょ!?」

「らからぁ~、子供らんていませんよぉ~」

「とにかく帰るよ!」

 ぐずる幸子を強引に立たせ、七美は会計を済ませた。

 

「――お客様! お客様! ダメっス、トイレ内は飲食禁止っスよ!」

「……」

「ちょっ――ダメっスよ! お客様、オレもマジでいきますよ? マジっスよ? ガチっスよ?」

 聞いたことのない不気味な呻き声と、ベチベチと響く鈍い音を尻目に店を後にした。



 ◆



 先にタクシーを降りた七美は、深い眠りに落ちた幸子を引きずり下ろした。免許証とアパートの住所を見比べ、ズルズルと幸子を引きずった――

 何とか自宅へ引きずり込み、七美は玄関にへたり込んだ。

「なんで2階なのよ……」

 忌々し気に呟き、スヤスヤと眠る幸子へ鍵を投げ付けた。

 そのまま帰ろうかと思ったが……思い直して幸子をベッドへ運び、自分もゴロリと床に転がった。


 息を整えながら、ゆっくりと部屋を見回した。

 何とも華のない部屋だが、かろうじて住人が女であることは分かる。

「……」

 しかし、室内を見る限り、子供と一緒に暮らしている様子はない。

 唯一の痕跡は、カーテンレールにぶら下がっているパンダの着ぐるみ。

「……やっぱ着ぐるみじゃん」

 親戚とか……ご近所さんの子供とか……。


『ナイショれすよぉ』


 ふと、幸子の声が甦った。

 チラリと見上げた瞳には、何かに魅入られたような……妖しげな光が宿っていた。

 あの時は聞き流してしまったが……。


『グフフフフ~』


 そこじゃない。


『これは、悪魔なんです』

 その言葉が、頭の中をゆっくりと跳ね回った。トイレで見たあれは、どう見ても人間ではなかった。


『我は魔王なり』


「……」

 〝魔王〟というからには、率いているのは……。

「……悪魔」

 そう考えるべきだろう。

 ふと、七美は身を起こし、幸子のバッグから携帯を取り出した。

 ロックは、如何に複雑に仕上げたかを自慢する幸子が、縺れた舌で懇切丁寧に教えてくれた。


 画面に映る着ぐるみの男児を見つめ、ぽつりと呟いた。

「似てる……」

 スヤスヤと眠る幸子を振り返り、携帯に目を戻した。

「……まさかね」

 とりあえず携帯を幸子に投げ付け、部屋を後にした。



 ◆



『怪物に襲われている。昨日、全国各地で「怪物に襲われている、怪物が暴れている」という通報が相次で警察へ寄せられました』

 朝食の納豆をこねながら、七美は朝のニュースを見ていた。

 視聴者提供というテロップ入った怪物達の映像が、次々と画面に映し出され、昨夜のアレは現実の事であったのだと、改めて認識した。


 動画サイトには、全世中から怪物を捉えた映像が投稿され、猶予期間が終った事を確信した。

 携帯を放り、テレビに目を戻した。乗せ忘れた海苔を噛りながら、インタビューを受ける居酒屋店員を眺めた。

『どっちもお客様なんで、迷ったんスけどー、これはヤルしかねぇかなって思ってー。自分、体とかめっちゃ鍛えてるんでー、ちょっと臭かったんスけどー、ええ、拳で』


「……」

 モザイクがかかっているが、見覚えのあるシルエットと声だった。

『半分食われてたんスけどー、丸呑みだったみたいでー、ちょっと臭かったんスけどー、食われてたお客様も無事でー、マジ体鍛えてて良かったなって』

「……」

 テレビを消し、何時も通りの朝を過ごし、何時も通りの時間に家を出た。


 世の中は本当にヤバイ事になっているのに、未だ殆んどの者がそれに気が付いていない。怪物を捉えた映像に付けられたコメントからも、その事が窺えた。

 所謂、正常バイアスというものなのだろうか……。眼前に迫っている事のマズさに気が付いてはいるが、認めたくない。いや、認められないのだ。認めてしまえば、それは事実であり現実となる。

 大した事ない。そう思いたい、そうであって欲しい。その想いが、危機から目を逸らし曇らせてしまう。


「それは私も同じか……」

 自分デスクに座り、七美はぼやいた。

 8:50。何時も通りだ。結局、自分もこうするしかない。

 ため息を漏らし、ふと隣を見ると……そこだけ何時もと違った。

「……二日酔いかな」

 何時もなら既に居るはずの幸子の姿がなかった。

「……」

 もしこのまま幸子がバックレたら、自分も帰ってもう会社へは来ない。なんとなくそんな賭けをした。

 

 まあ結局、幸子はギリギリで駆け込んで来た。

「七美さん……、その……昨日はすみません……。途中から何も覚えてなくて……」

「ずいぶん酔ってたからね」

「気が付いたら家に居て……」

「よかった。ちゃんと帰れたのか気になってたんだよね」

「あの……昨日のお会計、お幾らでした……?」


「いいよ別に。今回は私の奢り」

「いや、それは……」

「別にいいって」

「でも……。いや、ダメです……」

「じゃあさ、お昼奢って。今日はお弁当作る暇なかったでしょ?」

 渋々妥協する幸子へ、七美はニッっと微笑んだ。

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