普通

 初めの内は、特に何もなかった。

 独自の見解を披露する胡散臭い研究者や、歓喜する自称悪魔崇拝者などなど、メディアが面白い可笑しく騒動の様子を伝える程度で、これと言って何もなかった。

「我は魔王なり」

 テレビからは、何かにつけてあの時の映像が繰り返し流されていたが……日が経つにつれ、七美の周囲で彼の言葉を顧みる者は居なくなっていた。ただ一人を除いて……。


「ねえ、あんたは何で会社に来てんの?」

「……」

 ふと、七美は隣席の地味女へ尋ねた。もう二年も隣に座っているのに、話しかけたにはこれが初めてだ。

 特に親しい者は居ないようで、「はい」「いいえ」「すみません」「お疲れ様です」以外の言葉を口にするところを見たことがない。

 長い黒髪を垂らし、時折分厚い黒渕メガネを持ち上げながら、黙々とキーボードを叩いている。

 私服は全て某量販店製、一応化粧はしているが……七美に言わせればラクガキだ。


「辛気臭いから来るなとか、そんなんじゃないから」

「……」

 毎日定時に帰り、加えて付き合いも悪い。当然というか……彼女への風当たりは強く、陰口をよく耳にする。

 しかし、ミスが多いとか、仕事残して帰っているというわけでもない。何だかんだと理由をつけて繰り返される飲み会を断るのも別にどうでもいい。

 それよりも、毎回参加しておいてトイレで愚痴を垂れ流すのなら、彼女を倣って端から来るなと言いたい。給湯室で彼女の陰口を叩く暇があるのなら、時間内に仕事を終わらせる努力をしろと言いたい。


「まあ、私も辛気クセェとか、色々言ってたけどさ……」

「……」

 とまあ、七美も彼女の事を快く思っていないのも事実だ。ただ、理由は他とは少し違う。あまりにも自身の性を無視しているのが気に食わなかった。ミスを擦り付けられたり、嫌味を言われても黙っている。そんな姿勢も気に食わなかった。

 しかし、だからといって、彼女の代わりに言い返したり身だしなみに口を出したりなどという事はしない。正直、そこまで興味はない。そもそも、気に食わない奴に関わる気はない。


「ここはさ、あんたにとって凄く不愉快な場所でしょ? ヤバイ事になってんのにさ、何で律儀にそんな所に来てんのかなって思って」

 良くも悪くも、普通の人生を歩んできた。これからもそうするはずだった。しかし、その普通は……。


『――我は魔王なり』


 あの男の出現でなくなってしまい、色々とどうでもよくなっていた。どうでもよくなったついでに、彼女が考える普通の範囲の外にも手を伸ばした。つまりは『ほんの出来心』だった。

「……信じる?」

 全く期待していなかったのだが、意外な事に返事が返ってきた。


「え? ……あの男が言ってた事?」

「うん」

「そうだね……。あの日を境に、この世界の主役は私達人類ではなくなった。そんな気がするんだよね」

「……そう。これからは神と悪魔の時代」

 メガネの奥で、彼女の瞳に光が宿った。


 ヤッバイ……コイツ同類だ。

「……へえ」

 誰と? とは聞くまでもない。魔王を名乗ったあの男だ。

「いいえ、これからは悪魔の時代」

「……へえ」

 その時、モワンと広がる沈黙を、お昼のチャイムがかき消した。


「……ねえ、お昼行かない?」

「……え、わたし……お弁当、だから……」

「あたしもだけど」

「そう……なんだ……」

「うん」



 ◆



 屋上にポツンと座り、二人は弁当を開いた。通常は立ち入り禁止なのだが……所謂無敵の人に片足を突っ込んでいる七美には関係無かった。堂々と鍵箱から鍵を持ち出して屋上へ上った。

「立ち入り禁止じゃなかったっけ……?」

「普通はね。だから大丈夫」

「……どういう意味?」

「だって、もう普通じゃないし」

 まるで他人事のようにさらりと返し、箸を動かした。


「でさ、えっと……、幸薄い子だっけ?」

「……碓氷うすい幸子さちこです」

「だいたい合ってんじゃん」

 きょとんと幸子を見つめ、七美は卵焼きを噛った。

「……」

「あたしの名前は知ってる?」

「えっと……けやき七美ななみ、さん……」

「七美でいいよ。『さん』とかもいらないから」


「はい……七美……、さん……」

「話聞いてた?」

「……」

「……まあ、いいけど。でさ、幸子は何で会社に来てんの?」

 イマイチ箸が進まない幸子とは対照的に、七美はパクパクモグモグと何時も以上のペースで平らげていた。

「七美……さんは、どうして会社に来てるんですか?」

「質問返しかよ……。合コンじゃねぇんだぞ」

「……」


「あたしは、今のところそうするしかないからだよ。起きたら仕事に行く。終わったら帰って寝る。それしか知らないから。

 多分、殆んどの人がそうなんじゃない? それが普通だったし、これからもずっと続くと思ってたんだから、他の生き方を用意しいてた人の方が少ないんじゃない」

「……そう、ですか……」

「ねぇ、それ唐揚げ? 何かと換えてくんない?」

「えっと、じゃあ……卵焼き良いですか?」


 卵焼きをつまみ上げ、幸子はまじまじと眺めた。

「綺麗な卵焼き……」

「普通っしょ。綺麗な卵焼きとタコさんウインナー、プチトマトにふりかけ。普通のお弁当なら鉄板でしょ」

「普通のお弁当……」

「うん、普通のお弁当。あ、この唐揚げお店の味がする」


「スーパーのお惣菜なので……」

「でさ、何で会社に来てんの?」

「……お給料を貰わないと、生活が……」

「そんなもん貰えるかわかんないよ。どうせ会社が機能しなくなったら出ないよ。そもそもこの国がこの国であり続けられるかもわかんないよ」

「……」


「あんたには分かってるからじゃないの?」

「え?」

「もう暫くは今までの普通が通用する。それが分かってるからじゃないの?」

「……そうですね。もう暫くは……」

「ふーん」


「……」

「ねぇ、仕事終わったらちょっと付き合ってよ。お酒ぐらい飲めるでしょ?」

「えっと……その……」

「軽くね軽く。一時間ぐらい。どうしても嫌ならいいけど」


 なぜ、七美が自分に接近してきたのか……? 幸子は首を傾げた。約二年、隣に座っていながら目を合わせたことすらないほどに疎遠だった。そして、公私共にこの会社で最も縁遠く、ソリが合わないだろうと思っていたのが七美だ。

 しかし……だからこそ、少し興味が湧いた。

「少し……だけなら……」

 そう返した幸子へ、七美はニッと微笑みお弁当の残りをかき込んだ。


 槻七美。

 彼女は普通であることにこだわっていた。良い事も悪い事も、どちらもほどほど。良いも悪いも、大きく突き抜ければその分何処かにシワ寄せが行く。だから何事においても普通が一番。上を見過ぎず、かといって下も見過ぎない。平々凡々を理想とし、それを実践してきた。

 だが、それはあの男の出現で崩れ去った。いや、これから崩れるという強い確信をもっている。彼女の普通は、今やファンタジーになった……。


 ――しかし、彼女は新しい普通を見つけた。


 そう――あの男の同類、碓氷幸子。これからの普通は、コイツの頭の中にある……。

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