メシア降臨編

プロローグ

「我は魔王なり」


 テレビに映る男はそう言った。

 一昔前の、所謂ビジュアル系バンドのヴォーカル。そんな男だった。


「ヤッバイ、なにコイツ」

 朝食の納豆をこねながら、七美ななみは呟いた。

 けやき七美ななみ。ごく普通のOLだ。仕事も私生活も容姿も中の上。本人はそう自負している。因みに、世間の評価は「まあ……普通」だ。

 普通の学生生活を送り、普通な会社へ就職し、普通に歳を重ね、「そろそろ普通の結婚でもして普通に仕事を離れたいなぁ……」最近そんな事を思っていた。

 しかし、たった今その企みが潰えた事を、この時は知るよしもなかった。


「これより、現世と魔界は重なり一つとなる」


 お椀と口を繋ぐ糸を巻き取りながら、男の演説を眺めた。

 いい歳の大人が大真面目に……。仕事だとしても、自分にはムリだ。こういうのは特殊な才能が必要だ。相手の目を見て、笑顔で、微塵の罪悪感も羞恥心も感じずにウソを吐ける。そしてそれを忘れる事ができる。そういう才能がないとムリだ。


「精々抗うが良い。我を楽しませてみせよ」


 または、本気でそう思い、本気でそう信じている。

 つまり、七美はこう思っている。頭がオカシイか人間性が欠如しているか、この手合いはそのどちらかだ。


「我は魔王なり。世界を滅ぼす者なり」


「……」

 乗せ忘れた海苔を齧りながら、そんな事を思っていた。

 しかし、結論から言うと、この男は脳内に広がるファンタジー世界の住人というわけではなかった。彼は大真面目に言っていた。いや、単に事実を告げていたに過ぎない。どちらかと言えば、今や七美の方がファンタジー世界も住人なのであると、朝食を終えて歯を磨く頃には、彼女もその事に薄々気が付いていた。


「我は魔王なり」

 洗面台の鏡の中にもあの男がいた。


「……」


「これより、現世と魔界は重なり一つとなる」

 着替えを映すスタイルミラーにも彼は居た。


「……」


「精々抗うが良い。我を楽しませてみせよ」

 携帯を取り出せば、そこにも彼が居た。


「……」


 彼は外にも溢れいた。ガラス窓に、街頭テレビに、水溜まりに、カーブミラーに、電車の窓に、果ては居眠りサラリーマンの禿げ頭にまで、彼は居た。


「我は魔王なり。世界を滅ぼす者なり」


「……ヤッバイ。マジっぽい」

 自分のデスクに座り、電源の入っていないPCモニターに映る男を見つめて呟いた。

 しかし、周りを見渡せば――何時もと変わらぬオフィスに何時もと変わらぬ顔ぶれが並んでいる。


 特に、世界は変わっていない。


 動揺はしているが、何時通りだ。皆何時もと同じように――何時もと変わらぬ日常を送ろうとしている。そうすることで、何時もの日常になるのだと思っているようだ。


「……そっか。主人公が変わったんだ」


 世界は変わっていない。この世界の主人公が変わったのだ。出番を終えた役者が、その事に気が付かずに舞台の中央に残っているのだ。それが眼前の光景であり、世の中になった。

 ならば、これから何が始まるのか……それは想像に難くない。



「我は魔王なり――」

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