サチコ

 ポコ――

 くぐもっているようで――澄み切っている。


 ポコン――

 気泡の音だ。


 ここは――水の中?


 いや――暖かく、優しい何かが体を包んでいる。

 とても、とても心地が良い。

 まぶたの隙間から僅かに光を取り込み、直ぐに閉じた。

 もう少し――


 このままで――



 ◆



「サチコ。サチコ」

 目を開くと、大きなウサギが立っていた。

 坊っちゃま――

 声にはならず、代わりにポコポコと気泡を吐き出した。


「サチコ」

 丸めた体を緩め――幸子はゆっくりと手を伸ばし、妙な感触のガラス越しに互いの手のひらを合わせた。

「サチコ。もう少しだぞ」

 幸子の口から、ポコポコと気泡が溢れ出た。



 ◆



 魔王城、大樹の間。

 とてつもなく巨大な幹は、立ちはだかる絶壁を思わせる。しかし、それは途中で折れ、枝も葉もない。

 透明な膜に覆われた無数のうろは、薄い黄を帯びた液体に満たされて――まるで、母親の胎内に居るかのように、体を丸めた悪魔達が産れる時を待っている。


 大きな亀のような生き物を連れたザッバと、小さなパンダが虚の前に立った。

 頭の代わりに巨大な目玉が乗った筋肉質な人型の悪魔が、亀の背に括った長椅子にフワフワの布団を被せた。

 上半身は人だが、腿の辺りから馬のような足へと変わり、歩く度にひづめがコツコツと小気味良い音を鳴らした。


 ――サクッと突き立てたナイフの根元から、黄を帯びた液体が吹き出した。ほど良く暖かく、少しトロッとした感触が心地よい。

 ナイフは一直線に膜を切り裂き、液面と共にゆっくりと幸子の体が下りてきた。

 幸子を取り出そうと手を伸ばしたザッバを、パンダが制した。

「わ、わが眷属けんぞくだ。わが手で……」


 ぼやけた視界に、パンダが映った。

「サチコ」

 液体を吐き出して咽せる幸子の背を、労るように小さな手が撫でた。

「坊っ……ちゃま……」

 立とうとするも――腰が抜けたように力の焦点が合わず、パンダにもたれかかった。

「申し……訳……ありま……せん……」

「よい。許す。しっかりと掴まれ」

「……はい」


 正面から抱きしめるように抱え、ズルズルと幸子を引きずり出した。

「おい、目玉! 手をかせ!」

「ヘイ!」

 筋肉目玉が幸子を受け取り長椅子へ横たえた。

「……」

「坊っちゃま、どうかなさいましたか?」


「気持ち悪い……」

「そ、そんなぁ……魔王様にいただいた立派な体で――」

「戻れ。あと、したを隠すものを履け」

「は、はい……」

「膝までブラブラと……鬱陶うっとうしい」

「馬の体も混じってまして……ヘヘッ」

 一体何処に収納したのか……ネチャグチャと耳障りな音を立てて体は目玉へ吸い込まれ、何時もの目玉に戻りパタパタと飛んで肩に留まった。


 亀を連れて歩くパンダと目玉を見送るザッバは、ふと気配を感じて振り返った。

「若……何時から……」

「ほら、何とかなるものだろう?」

「……はい。しかし、本当に宜かったのですか?」

「これでもう少し慎重に行動するようになるだろう。授業料が人間一匹なら安いものだ。

 ……それに、あれは案外拾いものやもしれん」


「して、本当の理由は?」

 ふと、後ろから声が割り込んだ。

「あにうえおねがいじまずーーって、顔をクチャクチャにしてさぁ……フフッ、ムフフッ」

「魔、王、様?」

 ハッと振り返ると、不機嫌の権化ごんげと化した老執事が立っていた。

「――あーキセキのジュンビがノコっているゆえ、われはイソぐ。アトにせよ」

 っと、魔王はきびすを返した。

「お待ち下さい魔王様! いくらなんでも甘――」


 ザッバは、後を追おうとする老執事の肩を掴んだ。

「まあ、まあ、良いではありませんか」

 遮られた老執事は、舌打ちを漏らしてザッバと向き合った。

「ザッバ殿は魔王様に甘過ぎますぞ」

 そう言って、ため息と共に怒りを静めた。

「人間を眷属になさるなど……」

「あの人間、よくもあそこまで耐えたと思いませぬか? 普通であれば、塵も残さずに消滅したはず」


「そこは私も素直に感心致しますが……」

「坊っちゃまへの忠義が成したのであれば……確かに拾いものやもしれませんぞ」

「ザッバ殿まで……」

 そう言って、老執事はふと思い出したように呟いた。

「そう言えば……私の祖父が、子が産まれたら心の清い人間を飼うと良い。っと言っておりましたな……良い教育になると」

「ふむ、心の清い……」


 っと――何故か先程の弛みきった魔王の顔が二人の脳裏を過った。


「……」

「……悪魔の召喚を試みる者の心は……清いのですかな」

「……ザッバ殿、何か……あの人間と坊っちゃまを二人きりにしてはならぬような……」

「ええ……後で目玉によく言い含めておきましょう……」


 一方――玉座の間。

「はい。魔王ですけど。ゴメン、ゴメン、ちょっと席外してて。

 は? もう少し攻撃を緩めてくれ? 何で? 光の戦士とやらはどうした? 戦力不足なんて事は――」



 ◆



「うぉぉぉぉぉぉ!! どうせ世界は滅ぼされるのだァァァ!!」

 蛮族は吠え――

「みんな死ぬんだァァァ!! 壊せェェ!! 殺せェェ!! ハァァァ壊シロォォォ!!」

 猛り狂う。


「至急! 至急! 応援を――うぁぁぁ!!」

 無力な正義を――

「ヒャッハァァァァ!!」

 蛮族が笑う。


「あ、あなた達! 恥ずかしくないのですか!?」

 さえずる子羊は――

「ウォォォ女だぁぁ!! 犯せぇぇぇ!! 輪姦ぇぇぇ!! 殺せェェ!!」

 喰い散らされる。


 そして、悪魔達はため息を漏らす。


 鏡が写し出す映像を見つめ、玉座に座る魔王は溜め息と共に天を仰いだ。

「ザッバ……分かるように説明してくれ……」

「この蛮族どもの鎮圧に戦力を割かれて前線に手が回らず、芳しくない前線の戦況に敗戦ムードが漂い、更なる蛮族を生むという悪循環に陥っている様子で……」

「分かりやすい説明をありがとう……」

「おそらく……最初の演説が効き過ぎたのかと……」


「効き過ぎた……? ならばなぜやいばを内へ向ける必要がある!? これから起こる異変の元凶はこいつであると、こいつを倒せば万事解決と、あれほど分かり易い演出があるか!?」

「……」

「祖父の代も……その前も、その前の前も! あの演説により人間は団結し、立ち向かってくると! 我々に立ち向かう以外の選択が生まれる余地が何処にある!?」


「思うに……現代の人間は、あまり生に希望をもっておらぬのでしょう……。しかし、生きているので取り敢えずは生きる。

 そんな中でしょくが始まり、生に希望を持たぬ者はたちまち折れ、座して死を待つのみ……。

 しかし、この理不尽に折り合いをつけてくれるはずの信仰は頼りなく……信仰を持たぬ者にはただただ理不尽。 

 希望はなく、ひたすら恐怖と絶望ばかりが募り行き――」


「ならばいっそ――その渦へ飛び込み同化してしまえば……」

「はい。蝕を免罪符に、抑圧されたものを思うままに解放し貪る。そうして自ら恐怖と絶望の尖兵となり心の安寧を得ているのかと……」

「仮にも先々代様の軍を打ち破った者達の末裔が……なんと嘆かわしい……」

 三つのため息が重なり、こだまするように響いた。


 暫くの間、魔王は頭を抱えていたが……キッと顔を上げた。

「爺、悪魔の出現を半分に。ザッバ、現時点で向う現世に出現している砦と支城のリストをくれ。大至急いくつかを人間に落とさせる。付いてこい! 天界との調整に入るぞ」

 魔王は席を立ち、ツカツカと歩いた。

「クソッ、あいつら天界求心力落ちすぎた。何が神秘性と威厳だ、こんな猿ども人間に小難しい話が通じるか!」



 一方――思わぬところで人類? の反撃が行われていた……。


 ベッドに横たわる幸子の顔を覗き込み、パンダが尋ねた。

「サチコ、具合はどうだ?」

「……大丈夫です。ありがとうございます……」

 パンダは顔を伏せ、モジモジと続けた。

「今回の事は……。わ、わ、我のしったいだ」

「いいえ、坊っちゃま……。私が坊っちゃまを受け止――」

「ちがう! 我のしったいだ!」

「坊っちゃま……」


「――うせ」

「え?」

「望みがあれば申せ! わ、われに出来ることなら……叶えてつかわす」

 紅の挿した顔を上げ、パンダは真っ直ぐに幸子を見つめた。

「……本当……ですか?」

「うむ。何なりと申してみよ」

「では――」



「――サチコ、こうか……?」

 ベッドに横たわる幸子の隣に、パンダが横たわった。

「あの……こちらを向いていただけると……」

「こうか?」

 素早く手を回しパンダを胸に抱き締めた。

「こ、これで良いのか?」

「は、はい……」

「どうした? こきゅうが乱れておるぞ……?」


「だ、大丈夫ですよ……」

 しかし、急速に理性を失って行く幸子は脚を巻き付けてパンダをカッチリと掴まえた。

「ほ、本当にだいじょうぶか……? かおが赤いぞ……? 目もうるんで――」

「ンンンッー! 坊っちゃまぁ~!!」


 鼻腔一杯にパンダを吸い込み、スリスリと頬擦りをしながらゴロゴロとベッドの上を転げ回った。

「ちょ――姐さん! 止め――」

 カットに入ろうとした目玉を、キッと睨み付けた。

 その瞬間――目玉は壁に叩きつけられ、コロコロと床を転がった。ブクブクと泡を吹き、痙攣けいれんするように身を震わせた。

「さ、さすが……坊っちゃまが眷属……」

 もう一睨みすると、目玉は廊下へ弾き出され――荒々しく扉が閉じた。


「サ、サチコ……? 本当にダイジョウブカ……?」

「ハァ、ハァ……」

「サチコ……? どうした……? 返事をしろ……」

「坊っちゃまが悪いんですよ……。弱ったところにこんなに優しく……」

 幸子の目に、フードから覗く旨そうな耳が映っていた。

「や、やめろ、みみを舐めるな――」


 一方、廊下では――

 ゲロでも吐くように、目玉は筋肉目玉へ変身しヨロヨロと立ち上がった。

「わ、わたしの力では……。ザ、ザッバの旦那を――」

 その瞬間、まるで部屋に補食されたかのように、筋肉目玉は元居た部屋へ引き戻された。

 暫くの間、扉の縁に掴まり抵抗していたようだが――敢えなく吸い込まれ、それきり静かになった。


 一方、ベッドの上では別の補食が行われていた――

「サチコ……あ、熱い……ムズムズする……」

「大丈夫。悪魔も人間も多分そう変わりません。正常な男子の反応です」

「ほんとうか……?」

「ええ」

 耳元で囁き、ゆっくりと唇を這わせた。

「さあ、坊っちゃま。我慢してはダメですよ。身を委ねて――」


 ――パクッ


 ハッと振り返り、魔王は足を止めた。

「魔王様? 如何なさいましたか?」

 老執事は訝しげに尋ねた。

「我が弟が――何か大切なものを失ったような気がして……。なんつって」

 っと、魔王は再び歩き始めた。

「まあ、あいつも目覚める年頃なのだろう。ハッハッハ」


 その後ろで、ザッバと老執事は顔を見合わせた。

「……」

「……」

「ザッバ殿……人間と言えど、魔王が血族の眷属……」

「いえ、あれはもう人間ではありません。キメラ目玉ごときには荷が重い……」


「ん? 二人ともどうした?」

「申し訳ありません魔王様。ザッバ殿と片付けておかねばならぬ急用を思い出しまして……すぐに戻ります」

 言い終えるが先か……ザッバは死に神の姿へ、老執事は巨大な赤鬼へと姿を変えて踵を返した。

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