幸子
とあるオフィス。
PCに向かい、入力作業を行う幸子とその同僚の姿が見える。
「昨日、また悪魔騒ぎで電車止まってさぁ……。ホントいい加減にしてほしいよねぇ」
「これからもっと増えますよ」
と、平坦な声で幸子は返した。
『我は魔王なり』テレビに目を向けると、否応無しにそれが思い出された。『世界を滅ぼす者なり』信じようが信じまいが、世界は着実にそこへ向かっている。新しいニュースが流れる度に、その思いは強くなった。
「世の中凄いことになってんのに、コイツら何しに来てんだろうね……」
オフィスは空席が目立ち、出社してきても一日中テレビやネットのニュースを見ているだけという者も多い。
少なくとも、この会社はもう滅ぼされたと言っても良いかもしれない……。
「ま、ウチらも
「逃げてるんですよ。現実から」
「……そうだね。ホント、逃げ出したいよ」
「……栃木」
「え?」
「一番近い所なら栃木が比較的安全」
「なんで?」
「これから悪魔の出現はどんどん増えて、人類と悪魔との戦争になる。でも、栃木は戦場にならないそうです。悪魔の出現も少ない」
「……なんで分かんの?」
「聞いたんです」
「誰に?」
「悪魔」
「……ふ~ん」
互いに目を向ける事なく、カタカタと指を動かしながら淡々と続けた。
「逃げるつもりなら、来月の末までに逃げた方がいいですよ」
「何で?」
「
「何で?」
「蝕が進むと、各国の首都に魔王の支城や
「……ふ~ん。あんた何時もそんな妄想してたの? いい年こいてゴスロリ趣味は伊達じゃないって?」
「なんで知ってるんですか……」
「聞いた」
「誰に?」
「酔っ払ったあんた」
「……」
「つーかさ、蝕って何?」
「数千年に一度、
「……」
「別に信じなくてもいいですよ」
「まぁ……世界滅ぼすっていってたし、妄想でもないのかねぇ……。
じゃあ、私は男紹介するよ。軽いけど顔はいいよ。あんたみたいな地味っ娘が好きらしいから、死ぬ前に思い出作ってきたら?
どうせこれっぽっちも花の無い人生送ってきたんでしょ? とりあえず22才って事にしとくから、そこは自分でどうにかしてね」
「間に合ってます」
「……ゴメンよく聞こえなかった」
「間に合ってます」
「はぁぁぁ!?」
っと同時に、キツツキのような頭突きと大音声が幸子を襲った。
「おぉぉい! もしもしもしもしもしもーし!! 聞こえますかー!? もしもーし!! この期に及んで見栄張ってんじゃねぇぞ!? おぉぉい! あぁ!?」
「ち、近い……」
グリグリと押し付けられる額を押し退け、サチコは付け加えた。
「ちなみに人類は生き残るので、貯金使い切ったりしたらダメですよ」
「あぁ? 何でわかんだよ!?」
「だって、この戦いは――」
◆
「茶番……」
「そう、それだ。『予定調和の茶番劇』だ」
キツネの着ぐるみを着せられながら、いつか兄に聞いた話を語った。
「『人間は、圧倒的な力を行使する悪魔と果敢に戦う。そして大きな傷を負いながらも、最後は神の威光と奇跡により魔を退け、強い信仰を取り戻す。
人間は忘れるが得意でな……数千年に一度、人間の記憶に常世と――そこに住む神や悪魔の存在を刻みつける必要がある。悪魔に脅え、神に祈る。次の蝕が訪れるその時まで消えぬ深い記憶を刻まねばならない』
っと、兄上が言うておった。常世と現世はひょうり一体。もしもニンゲンが常世を忘れてしまえば、現世も消えてなくなる」
「なるほどー……。はい、出来ました」
「おぉ~、これは何という生き物なのだ?」
鏡の前に立ち、クルクル回りながら尋ねた。
「キツネです。本物に触れる所があるんですが……あの……」
「うむ。次はそこへ行こう。ほんとうにこんなにフワフワな尻尾があるのか?」
「もちろん」
「よし、それではけいやくを終わらせるぞ。我が
「し、
「ん? お前はわれが飼育するペットのしもべだ」
「ペット……?」
「さいしょの頃、目玉がきたであろう? あれだ」
「……」
「ん? 何を泣いておる。そんな事よりいやな予感がするのだ、どうにも目玉のようすが変でな……。さっさ終わらせるぞ。やりかたは心得ておる。大丈夫だ」
そう言うと、指先をナイフで小さく切り、サチコの指先も切った。
「――痛ッ」
血が滴るよりも早く、さっと傷口を合わせた。
指を伝いながら、黒と赤の血が混じり合い、黒に近い筋を描いた。
「サチコ」
「はい?」
描かれた筋の先で、揺れる滴が手を離れた――
「死んでくれるなよ」
「え――?」
「われを受け入れよ」
時を巻き戻すように、滴は手に戻り自らの軌跡を
「――!! 熱ッ!」
傷口に強い熱を感じた。火で
幸子は思わず膝を折って蹲った。
「痛い! 痛い!」
傷口から、血管を通り何かが侵入している。
指は真っ黒く変色し、ジワジワと手全体へ広がった――
「痛い! 痛い――ッ――ウッ」
喘ぐように息を吸い――顔を上げると、両頬に小さな手が添えられた。
「サチコ。われを受け入れよ」
「ウッ――ンンッ」
歯を喰いしばり、呻きを漏らす幸子の口から、鼻から、目から、耳から、ドス黒い液体が滲み出た。
沸騰しているように熱く、皮膚が
「ウッ――ウッッッッ――アァァァ!!」
断末魔のごとき叫びを上げ――体を反らせた幸子は倒れ込み、
喉を掻き
「サチコ! 抗うな! われを受け入れよ!」
弾き飛ばされたメガネがドス黒い液体に沈み、パキンッっと砕けた――
肉を裂き、骨を砕き――何かが体の中を這い回っている。そんな激痛が絶え間なく全身を駆け巡った。
小さな手が、再び幸子の両頬を捕らえた。
「いだい……くる……じい……」
「抗うな!! われを受け入れるのだ!!」
「たす……げて……じにたぐ……ない……」
必死に半身を起こし、すがり付こうとした幸子の目に――床に転がる手が見えた。傷を付けた指を中心に、枯れ枝の様に干からびていた。
自分の右腕を見ると、肘から先がぽっきりと折れて無くなっていた。
「……あ……ああ……ああアァァァァ!! ――ッ――ウェッ」
口や腹に手を宛がう間もなく、激しく
喉と口に残る感触と血の臭い……溶けた自分の中身。直感的に分かった。
「たすげ……て……おね……がい……」
この光景において……幸子の両眼から零れる涙が、酷く異質な物に見えた――
「抗うな!! われを受け入れるのだ!!」
「ッ――ウッ」
バケツを逆さまにしたように、溶けた臓物を吐き出し――その中へ倒れ込んだ。
吐瀉物の中へ顔を沈め、幸子は動かなくなった。彼女の口元に浮き上がる微かな気泡だけが、辛うじて彼女がまだ生きている事を示していた。
ついさっきまで――まるで眠ろうとしている者の目をこじ開けるかのようにハッキリとしていた意識が急に遠退いた。存分に苦痛を味わわせ、満足したとでも言いたげな……。
だが、正直なところ……意識と共に痛みも遠退き、ホッとしていた。これで苦痛から解放される――
「サチコ! サチコ! 死ぬな! 死んではならんぞ!! われを受け入れるのだ!!」
ふと、幸子は目を開いた。微かに聞こえた声を頼りに、残った左手腕を震わせ、体を支えた。
視界には幾つもの筋が走り、ひび割れたガラス越しに見ているようだった。右腕と同様に、砕けかかっているのだろう。
せめて――最後に声の主を瞳に焼き付けようと顔を上げた。その時――
枯れ枝を折るように腕が折れ、床に倒れた。
床に額を擦り付け……それでも身を起こそうとする幸子の目に、折れた右足が映った――同時に左の腿が砕け、幸子は力尽きた……。
ひび割れ――霞んだ視界に、魔法陣から何者かが出てくる様子が見えた。
「しに……が……み……」
呟くと同時に、砕けたステンドグラスのように、幸子の視界は崩れ落ちた。
「……あぁ! ザッバ! ザッバ!! なぜ上手くゆかんのだ!? なぜだ!? サチコが死んでしまう!!」
室内を見回したザッバは、いつになく厳しい口調で答えた。
「当たり前でございます。魔王の血族たる貴方様の血を、ただの人間ごときが受け止められるとでもお思いですか!
このような貧相な器! 砕け散って当然でございます」
ボロボロと崩れて行く幸子に駆け寄り、キツネは呼びかけ続けた。
「サチコ! サチコ!」
「魔王の血族、その血を賜るは
「われを受け入れるのだ!! われを受け入れよ!!」
「坊ちゃま!」
腕を掴んだザッバを振り払い、キツネは目を吊り上げた。
「帰りたくば一人で帰れ!! なぜ助けてくれぬのだ!! いつか、いつかお前をしゅくせいしてやる……!!」
目を吊り上げ、大きなキツネは泣きわめいた。
「……坊ち……ま……」
サチコの微かな声が聞こえ、口元にパシリとヒビが走った。
「サチコ! サチコ!! われを受け入れよ!! われを受け入れるのだ!!」
「ただの人間風情が……まだ砕けぬか……」
暫くの間――ザッバはじっと幸子の様子を窺い、何事か思案していたが……ふと泣き喚くキツネに歩み寄った。
「保証はありませんぞ? よろしいですか? 坊ちゃま」
「救えるのか……?」
「断言はできません。よろしいですか?」
「たのむ……たのむザッバ……。たすけてくれ!!」
ザッバが手をかざすと、幸子を包むように幾つもの魔法陣が現れ、幸子の崩壊が止まった。
「このまま魔王城へ持ち帰ります。城へ着いたら直ぐに魔王様をお呼び下さい。私は側に残りこれを維持せねばなりません」
「兄上を……?」
「ゲンコツの一つぐらいは覚悟して下され。この人間を救うには魔王様のお力が必要です。隠し通す事はできません」
「わ、分かった……」
「では――」
足下に巨大な魔法陣が現れ、部屋ごと沈むように消え去った――
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