命の重さ

 探し物は何ですか~♪見つけにくいものですか~♪カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからないのに♪まだまだ探す気ですか~♪それより僕と踊りませんか♪夢の中へ~♪夢の中へ~♪行ってみたいと思いませんか~♪うふっふ~♪うふっふ~♪うふっふ~♪さぁ~あぁ~♪

「好い日よりだなぁ、遼太」

「そうだね、兄さん」

そこは見渡す限り、錆びついたガードレールと海しか見えない沿岸の道で、安樂が運転する軽貨物自動車は、その風景に溶け込んでいて、些かの違和感もない。

「おい、お腹空かないか、宗司」

「そうだね、兄さん」

「だよなぁ、腹減ったなぁ」

暫く走ると前方に小さな漁村の寂れたパン屋の看板が見える。安樂はパン屋の前に車を停め、三人はパン屋の引き戸を開き中に入った。

「こんにちわー、開いてますかぁ」

「はいはい、開いていますよ」

すると高い上がり框の向こうから老婆の声がする。

「いらっしゃい」

老婆はニコニコとしながらレジの前に立った。木製の商品棚は随分と朽ちて、ところどころが欠け落ちている。棚を支える鉄のアングルは赤く錆びていて、そこには埃塗れの生活用品が少しと、今日の朝に配達された少しのパンが陳列されているだけだった。

「お前ら、好きなの選べ」

「はい、兄さん」

安樂はパンを選ぶ二人に背を向け、老婆の方を向く。

「おばあちゃん、もう長いんですかぁ、ここに住んで」

「ええ、生まれた時からこの村に居るからね、もう九十年になるわね」

「へぇ、すると、戦前からなんですねぇ」

「そうだよ、あの戦争は酷い戦争だった。国民の誰も、戦争なんかしたくなかったのにね、新聞が世論を煽って、無知な国民を戦争に巻き込んで行ったんだよ」

「おばあちゃんは、戦争反対だったの」

「そりゃ反対さ、私だけじゃなく、皆んなが心の中では反対だった。でもね、それを言いだせない時代を、論調を、新聞が作ってしまったんだよ」

「大変だったね、おばあちゃん」

「ええ、ええ、そりゃもう大変だったけれど、この辺りはね、ほら、昔からこんなだから、空襲も殆どなくてね、だから私は生き残れたんだよ」

言われてみればそうだった。川の流れの影響を殆ど受けない浅瀬の窪みの様に、この村は時間という流れとはまるで無縁の様に、沿岸に佇んでいる。

「だからね、私は幸せだったと思うの」

「あんなに酷い戦争があったのに?」

「そりゃ、酷い時代もあったけど、戦争が終わって高度経済成長の時代には、ほら、ここからもう少し先に鐵工所があるんだけれど、そこは、私の息子が興したんだよ。もう今は廃工場になっているけれど、私はここでずっと、家族で暮らせて、本当に幸せな人生だったと思う」

「聞いたかい、遼太、宗司」

遼太と宗司は、各々が選んだパンを片手に振り返った。

「人の人生ってのはねぇ、他人には計り知れない苦労とその中で積み上げて来た努力の塊なんだよ。どんな人も、苦労して、苦労して、人生を生き抜いて来て、このおばあちゃんみたいに、最後に自分は幸せだったと言える様、生きるのが本当だ、ねぇおばあちゃん」

「そんな大袈裟なものではないけれどね」

「おばあちゃん、とっても勉強になりました」

安樂は二人が手にしているパンと、自分は適当に棚にあるパンを取り上げて、それを老婆の前に置く。

「おいくらですか」

「はいはい、三百八十円になりますよ」

安樂は一万円札を一枚レジに置く。

「大きいのしかなくて、だからお釣りは要りません」

「あらあら駄目ですよ、そんな」

「いいんです、この子達の授業代ですよ、さぁ行こう、遼太、宗司」

「はい、兄さん」

安樂は二人を促すと、もう老婆を振り向くことなく店を後にした。そして500メートルほど車を走らせてから、また停車させる。

「あのおばあちゃん、この漁村に生まれ、きっと小さい頃から親の仕事を手伝って育ったんだね。そして、戦火の中で結婚をして、子供を産んで、育てて、息子がこの鐵工所を興したって言ってたね」

停車した車の左に、あの老婆が言っていた廃工場が今も在る。潮に曝され、赤錆びたその建屋は、もはや誰も近寄らない廃墟と化していた。

「息子が営む鐵工所で働く人の為に、おばあちゃんはあのパン屋さんを始めたんだろうね、この辺りは何もないところだから」

安樂は車から降りて、その赤錆びた鐵工所に向かい声を掛ける。

「おーい、伊藤、大西」

すると、人などいる筈の無い屋内から声が聞こえる。安樂はその声を聞くと、遼太と宗司を車から降ろした。

「生まれてからずっと、こんな小さな漁村で生きた。つまらない人生だと人は言うかもしれない。けれどね、そんなつまらない人生をひたむきに生きる人が沢山いるから、国は成り立つんだよ。だからあのおばあちゃんは、この国の国民の、鏡の様な人だ。とても、とても、尊い人だ。どんなに偉い人より偉大で尊い人なんだよ」

「叔父貴、準備出来ています、見て下さい」

廃工場から出て来た伊藤と大西が安樂にそう言う。しかし安樂はそれに答えず、先に遼太と宗司に命令をする。

「あのおばあちゃんを、殺して来い」

「はい、兄さん」

「直ぐに殺しては駄目ですよぉ、なるべく時間を掛けて、残酷に、ゆっくりと、殺すんです」

「はい、兄さん」

「罪のない人を、理由も無く殺す。その人の生きた時間を、愛する人たちとの思い出を、歴史を、何の理由も無く踏み潰し、奪い、そして葬り去ると云う事が、どんな事か、じっくり学んでくるんだ。心配ない、お前らなら出来る。俺と同じ、悲しくもないのに流す涙を、さぁ、お前らも、流しておいで」

「はい、兄さん」

二人は店に戻り、無言で引き戸を開き中に入り店内を見回すが、しかし、老婆はそこに居なかった。

「あら、どうしたんだい、あんた達、忘れ物かい」

すると先程同様、上がり框の向こうから老婆の声が聞こえ、今度二人は、自分達から框を上がり、老婆の声のする方に入る。そこは三畳ほどの茶の間に小さな台所とトイレが設置されていて、恐らく、老婆はここで暮らしているのだろうと思われた。

「どうしたことかしらね、珍しい、今日は二度もお客さんが来た。鐵工所を畳んでからはもう、子供達は都会だし、主人は仏様になったし、ここに人が来るなんて滅多にない。さぁ、そこに座りなさい」

老婆は寂しげな背中をこちらに向けて台所に立つ。二人は老婆に言われた通り、間違いなく骨董品と呼べるほど年季の入った桐の卓袱台の前に座る。

「私はね、幸せだよ。私には、沢山、主人や、子供達との幸せな思い出があるもの。人はね、あの世に行く時、六文銭の他に、ひとつだけ、持たせてもらえるものがあるの。それはね、思い出。幸せな思い出だけは、誰にも盗られやしないのよ」

アルマイトの薬罐から湯気が立ち上り、急須に湯を注ぎながら老婆は続けた。

「あんた達に、家族はあるのかい?その家族はあんた達に優しかったかい?楽しい思い出はあるのかい?もしあるなら、それを大切にしなさい。無いなら、とっとと家族の元に帰って、楽しい思い出をいっぱいお創りなさい。それは、人間があの世に持って行ける、唯一の宝物、なんだからね」

遼太の意識は、全てのものを白く覆い尽くす雪の大地に立っていた。見渡す限りの新雪は、誰にも踏まれてはおらず、その穢れを知らぬ白さは、しかし、残酷なほどに冷たかった。指先に感覚など無く、その残酷な冷たさが、見る見るうちに遼太の体温を奪って行く。

「あぁ、俺は、ここで、死ぬんだ」

何の疑いもなくそう思った時、遼太は寂しくて、淋しくて、誰かの名前を呼びたいと思った。でも、誰の名を呼んで良いのか、それが思い出せない。

・・・遼太・・・

耳を掠めるその声は、吹き荒ぶ白い雪に混じって聞こえた気がした。

・・・てめぇ、男は米だろ!・・・

温かい声だった。

・・・俺はお前がどこの誰だろうが、変わらねぇ、俺は俺だからよ・・・

満面の雪に閉ざされた山小屋の小窓から漏れる温かい光の様に、その声は温かい。

・・家族はあるのかい・・その家族はあんた達に優しかったかい・・楽しい思い出はあるのかい・・もしあるなら、それを大切にしなさい・・

・・俺の・・大切な・・家族・・

込み上げる郷愁の正体が、分からない。誰の声を俺は、俺は・・・

「うおごぅうわぉあぁぁぉーー!」

絶叫と血飛沫に新雪の世界か掻き消される。見ると、最早、物言わぬ老婆は血の海に横たわり、その老婆の骸を滅多刺しにしている宗司が居た。宗司は泣いていた。少しも悲しい顔をしていないのに、彼の両眼から涙は絶え間なく溢れ、血の海に零れ落ちている。

自分に家族など無い。自分は産まれてすぐ、売られたのだ。母の胸に一度すら抱かれる事のないまま売られ、暗い地下牢の中で育った。本当は直ぐに死ぬ筈だった。お前はその様な病なのだと教えられて、それでも今日、自分はここに生きている。

どうして生きている。どうして死なない。いつまで生きるか分からぬなら、どうして一思いに殺してくれない。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてどうして、どうしてお母さんは、どうしてお母さんは、僕を売り飛ばしたの。僕を生きたまま、売り飛ばしたの。

僕は、お母さんに殺されるなら、それで良かったのに・・・

九十年と云う歳月、積み上げられて来た筈の老婆の尊厳は、老婆の歴史は、何の理由も無く踏み躙られた。ただ朴訥に、ただ純朴に、大切に、一所懸命に生きた老婆の命は、訳もなく、ゆかりの無い者の、伺い知れぬ、関わりない憎しみに踏み躙られた。

「これが、戦争と云う質(もの)の本質だよ、解かるかい、遼太、宗司」

安樂は室内に入り、宗司が惨殺した老婆の血を指で拭う。

「この血は、この肉の中で、九十年、人を、時代を育んで来た尊い血だ。それをこんな風にめちゃめちゃにする事が、どれほど罪深いか。でも、その罪の重さを知って、充分に知っていて、その上で、罪を犯す。その時の気持ちが大切だ。遼太、お前なら解るだろ、あの部屋に置かれていた水槽を、壊滅させたお前なら」

安樂は遼太に歩み寄る。

「あの小さな世界を壊滅させたとき、お前はどう思った」

遼太が手に握られた真新しいナイフを畳の上に落とす。安樂はそれを拾い上げ、その切っ先で遼太の股間を撫でる。

「勃起したんだろ?正直に言ってみろよ」

「そ、そ、そうだね、に、に、兄さん」

「ふふふ、良い子だ」

安樂は更に、そして激しく、ナイフでっ遼太の股間を愛撫する。

「狭い箱の中で、親兄弟を犯し、血が穢れ、奇形ばかりが生まれた世界。その醜い魚が、共食いをする気持ちの悪い世界を壊し、滅した時、お前は、勃起したんだ、そうだろう」

「そう、だね、にい、さん」

「魚に罪はない。魚は、与えられた環境で、必死に繁殖し、生きようとしていただけだ。でも、お前は、自分が気持ち悪いと思う、その気持ちだけで、あの魚たちの世界を壊滅させた、股間を勃起させながら、そうだろ」

「そ、う、べべ、ぎぎ、あが、ぉご、うぎぃえぃおぉぉぉうですぅ、に、い、さ」

「そしてお前はその後、母親を、ここを勃起させたまま、いかがわしい気持ちのまま、殺した、そうだろ」

「うがぁぁぁぁあぁぁぁ」

強烈な大型汽船の汽笛の様な悲鳴と共に、遼太は失神して血の海に倒れる。

「叔父貴・・・」

何時の間にが大西と伊藤が背後に立っていた。

「駄目だな、遼太くんは、まだ何かにしがみついている。心の中に、まだ何かがあるんだねぇ、だから俺たちと同じ涙が流せない。まぁ、良い。とりあえずは、俺の木偶になったし、使えるなら、それでいい」

そう言って振り返った時、大西と伊藤は泣いていた。悲しくもないのに泣いていた。

「お前らみたいに、遼太くんにも、泣いて欲しいんだけどなぁ」

安樂はそう言って大西と伊藤を抱きしめた。

「こいつらを向こうに運んでくれ」

「分かりました」

廃屋となった鐵工所は、海辺であるが故に錆に朽ちている。その朽ち方が、いったい、どれ程の月日、人が入っていなかったのかを偲ばせる。倒産時に処分し切れなかったのか、何台かの加工機械が、これもまた、見事なまでに赤茶けている。その中で、一番大きな工作機の陰にそれは隠されていた。

「叔父貴、これです」

大西が指差す先には、北朝鮮の木造船があった。

「上手く出来たな、ありがとうねぇ、お前たち」

「外観は、漂着した木造船のパーツを拾い集めて組んでいます」

「エンジンは」

「はい、YAMAHAのF/FL425Aを手に入れました。こいつはⅤ型8気筒、排気量5559cc、最高出力425馬力の新開発エンジンです」

安樂は木造船に乗り込み、その内部を確認する。木造船の船底には、小型潜水艦ディープフライトが格納されていた。ディープフライトは、アメリカ・サンフランシスコの企業ディープフライト社が開発した、個人購入が可能な二人乗りの潜水艦である。価格は1億7千万。大西達はさらに8千万円を上乗せし、三人乗りのオーダーメイドを作らせ、ダミー会社を介しこれを入手していた。

「これは手に入れるのに苦労したろう」

「ええ、このディープフライトを手に入れる為に、架空の観光会社を立ち上げるところからやりましたからね」

 大西は自慢げにそう言った。

「ところで叔父貴、遼太と宗司は、どうします?」

 伊藤が安樂に問う。

「作戦決行は一週間後だからな、宗司のヘロインは段階的に抜いてやれ。遼太は今日から五日間漬といて、六日目にヘロインを一気に抜いて、お仕置きしてから船に乗せようか。ったく、世話の焼ける弟ですよぉ」

「だとよ、遼太、宗司、立て!」

遼太と宗司は大西と伊藤に抱き抱えられ、工場の屋根裏に運ばれた。伊藤は金属製の小さなトレイにきな粉に似た茶色い粉末を適量入れ、水を加え、沸騰させないようライターでトレイを加熱する。軽くトレイから湯気が出ると、茶色い粉末は綺麗に溶けていた。それを冷ました後、伊藤は取り出したインスリン用の注射器でトレイの液体を吸い上げる。

「可哀想だがしかたねぇ、六日目の地獄まで、しばらく天国で遊んでろ」

ゴムチューブで縛った遼太の腕の血管に伊藤は注射器を突き立て、ピストンを軽く引いた後、ゆっくりと薬液を注入していく。先程まで、あれほど険しかった遼太の顔から、見る見る内に苦しみが取り払われて行く。

「恐ろしい薬だぜ、ヘロインってのはよ、どんな苦しみも一瞬で消す代わりに、薬が切れたら、消した苦しみが百倍になって帰って来やがる」

「あぁ、麻薬にも色々あるが、これだけは絶対に御免だぜ」

遼太に対して宗司には注射ではなく、トレイを焙って出た煙を吸わせる。

「お前は今日から少しずつだ、心配するな。少しずつ抜いて行けば、遼太に来るような地獄を、お前は見なくて済む」

二人は遼太の恍惚の表情を確認すると、彼を床に転がし、宗司を連れて下に降りる。

「いよいよですね、叔父貴」

大西が安樂の背中にそう言葉を投げた。

「そうだな、もう一度、確認をしておこうか」

安樂は振り返ると二人を手招いた。

「大和堆で散開させた木造船が海自や海保を攪乱している隙に、俺たちは元山を目指す」

「はい」

「追手が無ければ、そのまま元山港に上陸するが、そう簡単にはいかないだろう。追手が俺たちに気付いたら、格納されているディープフライトを切り離し、二手に分かれる」

「はい」

「偽装している木製の外装は直ぐに脱着できるんだな」

「大丈夫です」

「外装を外せばパワーから考えて、お前らの乗る船に追い着ける船は無い。中身は届け出のある日本船籍だ。お前らは日本人として北朝鮮に不法侵入し、軍に拘束されると云う形を執る」

「はい」

「その際、拘束に来た軍人を好きなだけ撃ち殺せ。日本人が人民解放軍の軍人を殺したとなれば、もう、日本政府は俺たちに一切の手出しが出来なくなる」

「流石だ、叔父貴、やっぱり、叔父貴は、神様だ」

安樂を仰ぎ見て、溜め息交じりにそう言う二人に、安樂はニコリと微笑む。

「なんだよぉ、お前らぁ、言葉責め得意かぁ、照れるじゃねぇかよぉ」

「お世辞じゃないですよ、俺たちは本当に、本当に、叔父貴に出逢えて、幸せです」

「ぷぷぷ、ありがとうよ、お前ら、絶対に、海自と海保に拿捕されんじゃねぇぞ。北朝鮮に入れば、そこには、俺たちの夢のユートピアが有る、必ず、生きて帰って来い」

「はい!」


             2

「新庄さん、しかし、あんた何故、配下を木造船団に潜り込ませようと」

「既成事実を作るんだ。発砲させるんだよ、北朝鮮側からな。あいつらは自分たちが発砲すればどうなるかを熟知しているから発砲しない、しかし、あいつらが発砲しなければこの国の機関は身動きが出来ない、そうだろ」

北朝鮮の漁船は漁師ではなく、北朝鮮の軍の指揮下にある兵士による違法操業である事は明らかになっている。北海道松前町の松前小島で昨年12月、発電機を盗んだとして、北朝鮮の木造船の乗組員が窃盗容疑で逮捕された事件で、拿捕した北朝鮮の漁船には、それが軍の所有であると明記されたプレートが確認されている。

「いくら漁師だと言い張っても、北朝鮮が日本に対して発砲を行えば、武力行使の新三要件は満たしたとの認識で自衛権を発動出来る」

「確かに」

「そして、更に、漁船団を朝鮮人民軍だと断定出来れば、日米安保条約の発動対象にすることも可能、違うか」

「新庄さん、そこまで考えて」

「ははは、米朝首脳会談では完全にドランプは後手に回った。あれじゃ、武力行使を行わないとドランプは確約したようなもんだからな。その証拠に、実務者会議では、北朝鮮は、全く非核化に向けて動こうともしない。完全に舐められた形になったアメリカに、武力行使の口実を作ってやるのも悪くないだろうと思ってな、だが・・・」

「だが?」

「惠ちゃんの作戦が無ければ、正直、散開した漁船のどれが発砲したか、その船が軍の船なのかどうかを特定、断定するのも困難だから、成功させる自信は無かったんだが、敵を対馬海流に乗せて一列に出来るなら、俺の作戦は成功させられる」

「新庄さん」

「なんだぁ?」

「牧田もそうだけどよ、極道なんか辞めて、この件が片付いて俺が自衛隊に戻ったら、俺のとこに来ませんか、惠ちゃんもどうよ、マジであんたら、欲しいんですけど」

「馬鹿野郎、なんで俺らがいまさら自衛隊なんだよ」

「そんな事言わずによ」

「ぜーーーったいに嫌だ」

山田のそれに新庄、牧田、惠が一斉に、きっぱりとお断りをする。

「だが、たとえ自衛権の発動に成功しても、憲法9条が有る限り、たかがマシンガン一丁のマガジンが空になるていど発砲を受けたところでフルスペックの攻撃が許されるわけじゃない。精々、実弾による艦砲威嚇射撃がいっぱいってところだ」

「そうだ。だから俺たちは、海自と海保が船団を包囲している間に、日本海沿岸の何処かから出現する安樂たちを見つけ出し、確保する」

「俺たちが乗る中国企業の偽装船は」

「舞鶴付近で準備させている。勿論、その企業の上は、商談の利益と現金で抑える手筈だ」

そう説明する山田を見て、新庄が笑いながら頷いて見せる。

「ははは、山田、お前こそ、そいつら連れてよ、自衛隊辞めて俺んとこ来い」

しかし今度は、山田、清水、大谷が口を揃えて言う。

「ぜーーーったいに、嫌だ!」

新庄のそれでその場の皆が大声で笑った。

「とにかくこの戦闘は、先に発砲した方が、戦局的にも、政治的にも動けなくなる。山田、くれぐれもそれを、総理に」

「分った。そろそろ舞鶴も近くなって来た、俺は今から総理に作戦の内容を伝えに行って来る。お前らは武装を終わらせて、はしだてを下船する準備をしておいてくれ」

その頃、元山港では、朝鮮人民軍が、いよいよ動き出そうとしていた。

「この出航、本当に烏賊漁だと思うか」

「あり得ねぇよ、こんな貧相な装備で、燃料だって片道分しか入ってない。おい、お前ら、救命胴衣をつけておけ、オールは積んでいるだろうな、いいか、極力、エンジンはかけるな、なるべく節約して海流に任せて漂う」

「ちょっと待て、そんな事したら銃殺刑だぞ」

「大丈夫だ、俺はある情報を掴んでいる」

「情報?」

「ああ、九州に覚醒剤を運んだ船が、代金として受け取った大量の札束を海に撒き散らして沈んだらしい」

「ほ、本当なのか」

「本当だ、たがら海流に任せて漂っていれば、烏賊なんかより良いものが獲れる。ナイロン袋に詰め込まれた札束がな」

「他の奴らは知ってるのか」

「あぁ、あの豪勢なエンジンに満タンの燃料を積んだ母船以外の連中には伝えてある。生きて帰るんだ、必ず生きて帰って、掴んだ札束で、家族に美味いものを食わせてやろうぜ」


             3

「山田くん、了解しました。安樂栄治だけは必ず確保して下さい、遅発性ウイルスの治療薬はまだどうにかなるかもしれない、しかし、あの男に核の発射ボタンを握らせる事だけは、断固として阻止しなければならない」

「はい、我々が必ず、確保してみせます、この命に代えても」

山田の確固たる信念に、安武は深々と頭を下げる。

「総理、ペンタゴンから衛星写真が」

官房長官の言葉に山田が安武に質問する。

「総理、アメリカ国防総省に?」

「ええ。もし万が一、君たちが安樂栄治を確保出来なかった時は・・・」

「武力行使、ですか」

「はい。新庄さんが作ってくれるであろう既成事実を基に、日米安保を発動、北朝鮮の核兵器施設を壊滅する運びになるでしょう」

安武はそこで言葉を切り、拳を握り締める。

「武力行使が起きれば、計り知れない程の人命が失われます、山田くん、どうか、どうか、日本国民だけならず、北朝鮮の罪なき人々の為にも、必ず、安樂栄治を確保して下さい」

安武は火を噴く様な目で山田を見つめながらそう言った。


             4

「これより作戦を開始する。従来型の木造船が日本海沿岸に散開したら、我々はそれに紛れて領海に進入して来る日本国籍の船を発見し、援護して元山港まで誘導する」

人民軍幹部が操船する母船団全体に行動開始の無線が入った。

「その船に安樂同志が乗船しているのわけですね」

「そうだ。その際、彼らは囮の木造船に発砲しながら領海内に侵入してくるが、我が方は何が有っても、発砲はまかりならないと囮船団に伝達しておけ」

「日本船籍の船に発砲をさせて、日本側の政治的動きを封じる作戦ですか。もちろん、空砲なのでしょうね」

「実弾だ」

「それでは、我が方の人民が大勢死ぬことになる」

「射殺された人民軍兵士の死体を乗せた木造船が、大量に日本海沿岸に漂着する。それを我々の息が掛かった新聞などのオールドメディアがセンセーショナルに取り上げる。更に、日本共産党などの野党政治家がそれを国会で追及すれば、安武内閣は終わりだ」

「いけませんな司令官、それは愚策!」

「人柱だ、諦めろ。革命に犠牲はつきものだ。彼らは朝鮮の未来の為に、立派に死んでもらう。良し!囮船団、母船団、作戦開始だ!出航!」

俄雨に遮られた弱々しい太陽が没すると、やがて空に暴力的な雷鳴が轟いた。


             5

「嵐ですかね、叔父貴」

「夕立だ、直ぐに止む、伊藤、大西、ワイヤーを切れ」

滑走台に張られていたワイヤーが切断され、安樂たちが乗船する船がゆっくりと海に浮いていく。安樂はラジオのスイッチを入れた。砂漠の砂嵐が絶え間なく壁面を叩く様な雑音と雨音だけが、無言の船上に流れる。やがて雑音の中にチョソンマル、チョソノが断片的に見え隠れをし始め、黒い雲と、黒い海の境界線を見詰めていた安楽がニヤリとする。

「叔父貴、何か聞こえましたか」

「あぁ、作戦開始の合図だ。深夜から早朝にかけ、俺たちを援護する工作員が乗り込んだ日本船籍の漁船が動き出す前に沖に辿り着き、漁船に船影をまぎれさせ、木造船団の到着を待つ、出航だ!」

安樂の号令で、YAMAHA、F/FL425A、Ⅴ8、425馬力エンジンに火が入り、彼らは一路、沖に向かい走り出した。


            6

「おいおい、どうするんだ、そんな大量の重火器類」

舞鶴港に接岸したはしだてに、大量の銃器の搬入が始まった。

「不測の事態に備えてだ」

その声に牧田達が振り返ると、そこには船底から上がってきた山田が立っていた。

「俺たちは飽くまでも民間商社の社員としてこの騒動に巻き込まれる形だから、装備はこのしょぼくれた中国製だが、発砲確認から自衛権の発動がなされれば、日本製の火器が使用できるようになる。火器で武装した海自と海保が動き出せば、人民軍は、非武装のこの船に群がるだろう」

「はしだてを人質、或いは盾に」

「俺が向こうの司令官ならその作戦を執る。そこで不測の事態に備えて、このはしだても武装しておくんだ」

「山田さん、偽装船の準備が整いました、作戦開始です」

山田の民間部隊にその知らせを告げに来たのは、あの貝原だった。

「山田さん、何卒、何卒、無事でご帰還下さい」

「貝原さん、アメリカ国防総省を動かさずに作戦を終えるには、このはしだても、かなり厳しい事になると思います。総理を、この国の為、命を賭して船底に居るあのは人達を、必ず、無傷で帰還させて頂きたい」

「勿論!私達も自衛官の端くれです、この命に代えても、必ずや、船底の方々を守り抜いてお見せします」

貝原の肩には、まるで燃え立つ日差しに浮き上がる蜃気楼の様な熱意が弛たり、それを見た山田は、貝原と握手を交わした。

「良し!お前ら覚悟はいいな!」

「はい!」

「作戦開始だ!出航する!」


             7

元山港を出た囮船団は、予定通り各々が違う方向に散開しながら沖を目指した。しかし、暫くすると、散開したはずの囮船団が、東西に一列になり始める。

「おい、見ろ、情報は本当だ!札束が漂っている!」

囮船団の下級兵士たちは、流れてくる北朝鮮ウォンに群がり、海流に沿って集まる。しかしそれは忽ちのうちに母船団に発見された。

「貴様ら!何をしている!散開せんか!作戦を無視すれば銃殺だぞ!」

何が起こっているのか分からない先程の司令官が激怒して囮船の元に走り出す。

「司令官、これを見て下さい」

するとこれも先程、司令官の無慈悲に愚策だと訴えをしていた下士官が、海面からナイロンに入った札束を拾い上げ司令官に見せる。

「これは、何故こんなものが漂っている」

下士官は一瞬だけ小さく口角を上げたが、直ぐに真顔になり司令官に報告をする。

「先程、情報が入りました。外貨不足を補うため、史上最大の覚醒剤取引を済ませた我が国の船舶が九州沖で沈没し、その代金が海に撒かれたようです」

「あいつらはそれを回収に」

「そうです、司令官、これは忌々しき事です、直ぐに出来る限りの現金を回収するべきです」

司令官は暫く腕を胸の前で組んだまま考える顔をしていたが、直ぐに正気を取り戻し下士官に命令する。

「駄目だ、この度の作戦はそんな事よりも優先順位が高い、将来、我々の首領となる方をお迎えに上がり援護するのだ、札束は捨ておけ!」

「司令官!数百億の現金ですよ。司令官だって家族が飢えているのでしょう。配給は完全に滞り、闇市でさえ物価が高騰して食べ物が買えない」

「これは北朝鮮ウォンだ、こんな貨幣価値の無い札束を回収しても」

「日本近海には、米ドルと人民元が漂っているそうですよ」

「な、なんだと!」

現在の北朝鮮で米ドルと人民元は黄金に匹敵する価値がある。

「米ドルと人民元が手に入れば、飢えた子供達に、美味しい食べ物を、食べさせられる。司令官。人民がどれ程の飢餓に苦しんでいるか、司令官が一番にお解りでしょう」

「駄目だと言ったら駄目だ!貴様!俺の命令に背く気か!」

「司令官!あの囮船団の者達は、これまで自らの命を賭して冬の日本海で漁を続けて来た者達です。あの者達が私利私欲に走ると思いますか!諸外国の人権団体から支援される物資は全て軍の高官が搾取する。その物資を奴らは高額で闇市に流し、私腹を肥やす。我々下々の者は、そうと分かっていても高いお金を払ってそれを買うしかない。これは、下々の人民に、食べ物を与える最大のチャンスです!」

この司令官も、下士官が言う事など痛いほどに理解しているのである。軍の配給は全くに滞り、本来なら内乱が起きても不思議ではないのが北朝鮮の現状。それをさせないのは、銀一族の徹底した恐怖政治と洗脳によるものである。

「あの者達は、本当に心根の優しい者ばかりです。心根が優しいからこそ、他人を思い遣るからこそ、こんな無茶な作戦にも、家族を思い、友人を思い、参加している。命懸けで漁をして、少しでも人民の飢えを和らげるために、彼等は戦っているんです」

ここで漸く、司令官が再び胸の前で腕を組む。

「どうしてあの様に心根の優しい、そして愛する者の為に勇敢な者達が、こんな悲劇を抱えねばならないのです。銀一族と、一部の高官が贅を尽くす為に、ただそれだけの為に飢えねばならないのです」

「しかし、命令に逆らえば」

「司令官、いい加減に、我々は気付くべきです。本当に大切なのは、銀一族でも、取り巻きの高官でもない。我々が一番に大切なのは、家族ではありませんか。貴方の身体を思い遣り、心配し、愛してくれる両親や妻。貴方の胸に全てを委ね、貴方にすがりつく、小さな手。貴方の働き無しでは生きられない、小さな、貴方の子供達ではありませんか」

司令官はこれ以上は出来ないと云うほどに、硬く、固く目を瞑り、下士官の言葉を吟味している。

「あの札束があれば多くの人が、これから数ヶ月、いや、一年くらいは生きられるかもしれない。貴方の大切な人の為に、彼等の大切な人達の為に、司令官!」

「駄目だ。矢張り命令に背く事は出来ない!札束の回収は中止させろ!」

しかし、司令官の言葉が終わらぬ内に、下士官の拳が司令官の鳩尾を貫く。

「ぐぅふぅっ」

下士官の強烈なパンチは司令官をそのまま沈黙させた。

「あんたは優秀な人だ。これほどの状況でも、約束を守ろうとする。信じた事を弥の様に貫く、それは立派な事だか、あんたは、立派な人間だからこそ、間違えてはいかんのだ。立派な人間が、優秀な人間が、間違った事をするのは大きな罪だ。立派な人間だからこそ、優秀な人だからこそ、本当に大切なのは何かを見失っちゃいけねぇ」

自らの拳に崩れ落ちる司令官を見ながら、下士官はそう言った。

ピピピ・・ピピピ・・

「おう、俺だ、待たせたな、首尾はどうだ」

「こっちは完了ですよ。一人だけ聞き分けのないのが居たから、今、黙らせたところです」

「殺してねぇだろうな」

「大丈夫、眠らせただけです」

「良し、そのまま船団を日本領海に誘導してくれ、領海内に船団が入ったら、お前は、はしだてに向けて発砲しろ。はしだてが非武装船だと情報は流しているな」

「ええ」

「なら、お前は、はしだてに囮船団を集めて漁師達を守れ、俺は、はしだてに帰還してお前らを北朝鮮領海まで安全に先導する様、話を通してくる」

「了解。さてとぉ、おい、展開している母船はこれを含めて、確か三隻だったな」

「はい、そろそろ時間です」

ドムッ!

下士官の質問に乗組員のひとりが答えたその時、鈍い爆発音が海面を伝わり、東西で二つの黒煙が上がる。

「これで母船はこの一隻だけだ。囮船団を率いて特務艦はしだてを包囲しろ」

乗組員の男たちは、下士官の言葉にニコリと笑って頷き、次から次へと木造船を誘導し始める。

「これでやっと、仇が打てます」

新庄に依頼された下士官がスカウトしたこの男達は皆、平壌の南にある黄海北道(ファンヘブクト)の松林(ソンリム)市に在る黄海製鉄所で起こった惨殺事件被害者の家族だった。国を思い、仲間を思い、命懸けでトウモロコシを手に入れた末、彼等は銀一族に家族を惨殺されたのである。

「よし!俺たちが空に放つ銃弾が、日本の自衛隊を動かす。家族への葬いだと思って、ぶっ放せ」

「はい」

ズダダダダダダダ!ダダ!ズダダダダダダ!

間近に迫ったはしだてが浮かぶ空に向けて放たれたその銃声に、一瞬、雲に覆われた空が哭いた気がした。下士官と男達は、銃弾が飲み込まれた曇天に向かい、暫く黙祷をした後、木造船をはしだての周りに集め、沈没しようとする二隻の母船に向かい走り出す。

「しかし下士官、貴方はどうしてこんな危険な作戦に参加したのです。私達は家族を殺された恨みがあるが、貴方は」

「俺には俺の事情があるんだよ」

破壊された母船の乗組員に救命胴衣を投げながら、彼は、はしだてが浮かんでいる更に向こう、日本の海を見据えながらこう言った。

「後は頼んだぜ、秀夫」


              8

「発砲!」

「人民軍より発砲を確認!」

「本艦は木造船に包囲されました」

「自衛権の発動要請!」

安武の指示により、海上自衛隊、舞鶴警備隊、多用途支援艦、ひうち、第2ミサイル艇隊、はやぶさ、うみたかが先行、他、舞鶴基地13隻全てが海上封鎖に乗り出す。それと同時に、舞鶴海上保安部より、巡視船だいせん(ヘリコプター1機搭載型巡視船)巡視船みうら(3000トン型巡視船)巡視船わかさ(1000トン型巡視船)巡視艇ゆらかぜ(20メートル型巡視艇)巡視艇あおい(20メートル型巡視艇)が出動、はしだての周りに集められた木造船を広範囲に取り囲む。

「よし、私たちは木造船を排他的経済水域まで押し返します。向こうからこれ以上の攻撃は無い筈ですが、くれぐれも間違いを起こさない様、各員に武装を維持したまま待機する様、命じて下さい」

これにより、囮の木造船団は網に囲われた魚群の様な形になる。

「北の勇敢な漁師の皆さん、どうかこのまま家族の元に帰り、健やかにお過ごしください」

安武は心からそれを祈っていた。その昔、パンドラの箱より解き放たれた悪意は、見境なく人間に憑りつき、人間の中に溶け込んだ。それにより、どんな時代の、どんなロケーションにも、悪意を胸に秘めた、人間の皮を被る化け物が、絶え間なく現れる、それがこの世界の現実なのだ。化け物は、時として政権を獲り、その悪意に満ちた悪政で、人々を不幸のどん底に突き落とす。

・・・我々は、それに屈してはならない・・・

パンドラの箱に、もしも、希望が入っていなかったとしたら。希望とは、とても簡単に捨てられるものだ。希望さえ捨ててしまえば、命はこの上なく希薄で軽い質になり、それを抱え生きる苦労からも解放される。しかし、それで良いのだろうか。

「宇宙は、時間と共に、エントロピー(乱雑な状態)が増大する」というのが、物理学の常識である。エントロピーの増大した終焉、世界が平衡状態に達した状態というのは、宇宙のありとあらゆるところが同じ温度、同じ物質の密度となった混沌の海のようなものである。その世界では、もはや新しい現象は起こらず、新しい現象が起こらないと云う事は、時間も止まり、生命などというものは存在せず、永久に、熱的死と云う、その静かな終焉状態を保つことになる。

ならば希望とは何であろう。

希望とは、自然発生するエントロピーの増大を、何かの意思が、その意思の力により、限定された一方向に、エントロピーを抑制させる事ではないだろうか。量子の揺らぎから始まったこの世界のどこから意思と云うのが働き始めたのか、それは誰にも分らない。しかし、何時の頃からか、音も光も無い真空に、ひとつの意思が誕生した。その意志により、この世界は始まり、阿僧祇(あそうぎ)の変化を繰り返し、増大するエントロピーを抑制しながら時の流れを維持している。エントロピーと云う悪意からこの世界を守る事。時の流れを止めず、永遠の変化の中で遺伝子を伝え、そのつながりの先で人間が生き続けると云う事。それには膨大な、弛まぬ努力が必要だ。弛まぬ努力を続けるには、果てしのない苦痛がつきまとう。

「人は、苦しむ為に生まれ、生きて、死んで行く・・・希望を貫く苦痛に耐える為に生まれ、生きて、死んで行く」

馬鹿げた努力である。しかし、それでも人が痛みに耐え希望を貫くのは、変化が無くなり、時間が止まり、全てが飽和した熱的死の世界に幸せは無いからだ。どんなに辛くとも、時間を止めてはいけない。時の流れが作り出す変化を継続させねばならない。人が幸せである為に、パンドラの匣が撒き散らしたエントロピーと云う悪意に屈してはならない。国も、肌の色も関係ない。大切なのは誰もが幸せであると云う事。共産主義、社会主義、民主主義、資本主義、そんなものはどれでも構わない。その時代の人間が、その時代に即したものを選び、的確に採用すれば良い。大切な事は、エントロピーを抑制し、秩序立てて、時間の流れを維持し、その流れの中で、白人も黒人も黄色人種も、人間誰しもが自分より小さな手を守り、育み、遺伝子を伝えて行ける、その様な当たり前の平凡な幸せを保証される事だ。

はしだてに着艦したゴムボートから降り立った新庄は、安武の居る甲板を目指し階段を登って行く。悪意、悪事、悪人、悪政。この世に悪の尽きる事は無いだろう。リベラル派がどんなに騒ぎ立て人権を掲げ行動をしても、差別が無くなり世界が平等になる事は無い。しかし、どんなに強力な独裁者が現れ、独裁政治が行われても、自由と平等が失われる事が無いのもまたしかり。生物の誕生とは、人間と云う存在は、もしかしたら、エントロピーの増大を防ぐための装置なのかもしれない。この宇宙の局地である地球に生まれた生命が、もし、世界が一方向による混沌で死を向かえない為に在るとしたら。新庄は、潮風に吹かれるがまま遠くを見ている安武の背中に近寄る。

「遠離一切、顛倒夢想、究竟涅槃」

安武は新庄の接近を知ってか、知らずにか、そう呟く。

「般若心経、ですか」

「ええ、遠離一切、顛倒夢想、究竟涅槃とはね」

人は普通、自分のことは自分でしていると思っている。だが、本当にそうだろうか。たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?この体を作ったのは、自分か?熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか?それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。それは存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。

「と・・・そのような事を述べている部分なのです」

振り返った安武を新庄が見詰める。

「人類は、どこに向かっているのでしょね、総理」

「それは私にも分からない、けれど、我々人間が、生きると云う変化と、その変化が織りなす時間の中で、一時的に、ここに在るしかないのであれば、生きている間は、どんな人も、幸せであるべきではないでしょうか」

遠い目で自分を見る安武に新庄はニコリとする。

「たとえここが、終わりのない争いの世界であり、我々はそこで希望に縋り、永遠に苦しみ続けるしかない存在であったとしても、私は、だからこそ、人々の笑顔を、絶やしたくないのです」

二人は無言で遠ざかる日本の海に目を向ける。

 ・・・後は頼んだぞ、秀夫・・・

 ・・・頼みましたよ、秀さん・・・


          解離性同一性障害

「深昏睡は」

「変化・・・ありません・・・JCSで300、GCSで3です・・・瞳孔の固定、瞳孔径、左右とも4mm以上・・・」

「脳幹反射の消失状態は」

「対光反射 、角膜反射 、毛様脊髄反射 ,眼球頭反射 、前庭反射、咽頭反射 、咳反射・・・ありません・・・脳波も・・・平坦を維持、自発呼吸も・・・」

美月が脳死判定を受けてから、既に72時間が経過していた。宗嗣は自身で美月の瞳孔を調べる。生物的反射を一切伴わない、人形の眼球の様に、美月の瞳孔は開いたままである。

「昌子、どうだ」

宗嗣は美月に向けていた視線を昌子に移す。

「確実に、どんな医師でも、脳死と判定すると思うわ、でも・・・」

「でも?」

「何かが違う。これまで数え切れない人の死を見て来たけれど」

「お前もか」

「彼方もそう思うの」

「あぁ、器質的には完全にこの子の脳は死んでいる。しかし、何かが、何かがこの子の中で、生きている気がするんだ、非器質的な部分、器質的死の境界を超えた向こうに、何かが生きている」


             2

「アンちゃん、どこ、美月、こわいよぉ」

幽かな光である。ロウソクの火には到底およばない程の、火垂るの光に似た淡い緑の灯が美月の足元から続く曲がりくねった坂道の上まで続いていた。美月はその道を知っている。普段は綺麗な花が咲き乱れている長閑な坂道で、天気が良い時は蒼穹の向こうに海も見える。美月はアンちゃんに会う時、この坂道を登るのだ。

「美月ちゃん」

淡い光が続く真っ暗な坂道の上から美月を呼ぶ誰かが居た。

「アンちゃん、アンちゃんなの、美月こわいよぉ、迎えに来てよぉ」

プレシナプスとポストシナプスの間を神経伝達物質が通るときに起きる膨大な電気信号の総体を我々は自我、或は心と呼んでいる。つまり、心とは非物質であり、質量を持たない。物質世界に生きる人間は、物質世界の理に置き換えなければ物事を論理的に考えられない。然るに脳は質量の無い世界に、電気信号を駆使して物質世界の光景を疑似的に造り出す。それが、我々が自己の中に存在を確信する精神世界であり、夢と云う質の構造だろう。質量を必要としないこの世界では電気信号の動きだけでどんな物でも創り出すことが可能だ。自分以外の人格を持った、ひとりの人間を創り出す事も。

「さぁ、美月ちゃん、勇気をだして、私の居るところまで登って来て」

「嫌だよぉ、こわいよぉ、暗いから無理だもん」

そう言うアンちゃんの声に、美月は耳を塞いで蹲ってしまう。

「聞いて美月ちゃん、もう直ぐここは消えてなくなってしまうの。だから、さぁ、勇気を出して立ち上がりなさい」

「無理だよぉ、アンちゃんがここに来てよぉ」

「駄目なの、私がそこに降りて行けば、あなたはもう二度と、目覚めることが出来なくなる」

能動的な行動も思考も、あらゆる人間らしい尊厳を踏み躙られたまま、美月の時間は過ぎて行った。何時の頃からだろう。母親の暴力が始まると、美月は泣きながらここに来る、否、自然とここに来てしまうようになっていた。春夏秋冬、全ての季節の花々が一緒に咲き乱れるこの楽園の丘。その丘の曲がりくねった坂道を登って行くと、アンちゃんは最初からそこに居た。美月が行くとアンちゃんは何時も後ろから美月を優しく抱いて、そして温かい掌で目隠しをしてくれた。美月は目隠しをされると、次に呪文を唱える。

 ・・・私はお人形・・・

  ・・・何時も笑っているだけのお人形・・・

アンちゃんに教えてもらったその呪文を唱えると、何も怖くなくなって、感じるのはアンちゃんの掌の温かさだけになる。そうすると、とても気持がちよくなって、美月は何時も眠ってしまうのだ。

「どうして、どうして今日はこんなに真っ暗なの、こわいよぉ、こわくて登れないよぉ」

「美月ちゃん、言ったでしょ、ここはもう終わるの。私も、あなたも、ここにずっと居ることは出来ないのよ」

「嫌だ、美月はここがいい」

「本当にここにずっと居るの美月ちゃん、本当にそれでいいの」

「ここがいいったらここがいいの」

・・・美月ちゃん、言いたい事があれば何でも言って良いし、言いたくない事は言わなくてもいい・・・

足元を照らす火垂るの様な灯が一つ消えると、それと引き換えに、美月の脳裏に蘇るものがあった。

・・・大丈夫、私は、これからは、どんな事があっても、美月ちゃんの家族だから。どんな時も一緒だから、何も心配しないで、何でも言っていいんだよ・・・

それはとても優しい、温かい声だった。

・・・だからママって呼びなさい・・・

夢中で遊んだ公園で、夕闇迫る茜空を見た時の様な郷愁が美月の中を駆け抜ける。

「ナレギィリュキョンミャンツゲェサー」(私を起こしたら殺すからな)

しかし次の瞬間、また違う声が美月を凍り付かせた。その恐怖に美月は呪文を唱えようとする。

・・・私はお人形・・・

「駄目!美月ちゃん!もう呪文を唱えては駄目!」

・・・何時も笑っているだけのお人形・・・

美月が呪文を唱えると丘の頂上に続いていた灯は瞬く間に消えてゆき、美月は漆黒の暗闇に包まれる。

・・・ねぇ、ママ、あのね・・・

・・・ん、なんですか、お嬢様・・・

・・・ママは美月のこと、すき・・・

  ・・・うん、大好きだよ・・・

「アンちゃん、何も見えないよ、本当に真っ暗になっちゃったよぉ」

「美月ちゃん、お願い、勇気を出してここに来て、私は、今から自分をちゃんと考えながら、あなだがここに来るのを、待っているから」

「アンちゃん、ママって、ママって・・・」

「そうよ美月ちゃん、ママ、それをよく思い出して。あなたはもう、ひとりじゃない」

アンはそう言うと、美月に向けていた意識を自分の中に向け、沈黙の中に沈んだ。神様は私が嫌いなのだと思っていた。あの女は、北の工作員として日本に潜入しながら、そのまま脱北し、外国人証明書も、住民票もパスポートも必要としない、アンダーグラウンドの世界に逃げた。私は彼女が日本で怪しまれず工作活動をする為、強制収容施設から彼女に連れ出された彼女の道具だった。そもそも道具として用意された私を、彼女は飽く迄も道具として扱い、私は、一度も、誰からも、人間として扱われた事は無かった。

道具としての私の存在意義は子供である事。成長してしまうと、私はもはや、道具としての価値も失い、必要がなくなった私は、ただ殺されるだけ。殺される、殺される、殺される。何時しかその恐怖心は不思議な事に、私の、身体の成長を止めた。

「ママって、ママって、なに・・・」

・・・ねぇねぇ、お姉ちゃん、カジってなぁに・・・

  ・・・ん、あぁ、家事は、掃除とか、洗濯とか、お料理とか、主婦がやるお仕事の事よ・・・

・・・主婦ってなぁに・・・

 ・・・そのお家の、お母さんの事、かな・・・

・・・お姉ちゃんは、この家の、お母さんになったの・・・

 ・・・ええ、そうよ・・・

 ・・・お母さんって、ママの事・・・

・・・そうだよ・・・

「ママって・・・」

寄せては返す波に運ばれる貝殻の様に、美月の中に記憶の断片が押し寄せる。

・・・やったー、ねぇ、ママ、プリン買ってもいい・・・

 ・・・いいよ、秀さんとパパの分も選んであげてね・・・

「ひ・・・で・・・さん?・・・パパ・・・?」

・・・ねぇ、ママ・・・

・・・ん、なに・・・

・・・美月ちゃんじゃなくって、美月って呼んで・・・

・・・えー、なんか照れるなぁ、ふふふ、美月・・・

・・・ママ・・・

・・・美月・・・

・・・ママ・・・

・・・あっはっはっはっ、やだ、もう・・・

やがて波に運ばれて来たその記憶が一対の何かに象られた。

「ママ!秀さん!パパ!」

一対に象られたその記憶は、美月がここで目を閉ざした時間の中では僅かなものである。もう二十年以上、美月はここに居るのだから。しかし、美月にとって、それは何物にも代え難い、大切な、大切な記憶。

美月の生きて来た時間の中で、美月に手を差し伸べてくれた人も居るには居た。ぬいぐるみを買ってくれたパパ、日本語を教えてくれたパパ、それらの人達は美月に優しかった。だが、彼らは自分を可哀想だと思っても、けして愛おしいと思ってくれたわけではない。それはつまり、ただ優しいだけの優しさであり、愛情とは程遠い、冷たい、木枯らしの様な優しさだった。でも、神崎惠、牧田秀夫、横山遼太、彼らは違った。彼らは美月の事を「好き」そう言ってくれた唯一の人達だった。彼らの「好き」その言葉は春を知らせる風の様だった。この大地で芽吹き、思いのままに生きて良いのだと神が生き物に注ぐ温かい春風の様に、美月の心を、身体を温め、上を向く力をくれた。

「ママ・・・パパ・・・秀さん・・・」

そう呟くと、凛とした勇気が美月の中に沸き起こる。その凛とした勇気を支えに、もはや自分の手足さえ見えない暗闇の中で美月は立ち上がった。

・・・会いたい・・・

 ・・・もう一度、会いたい・・・

・・・ママのお料理をもう一度食べたい・・・

 ・・・秀さんの大きな手で、撫でられたい・・・

・・・パパのはにかんだような笑顔を・・・・

・・・もう一度、見るんだ・・・

美月の小さな両手は、ざらついた岩肌の突起を掴んでいた。一寸先も見えないこの暗闇の中で曲がりくねった丘へ向かう道を歩く事はもう出来ない。そんな事をしていれば、この暗闇が自分自身の存在さえ包み込み、消してしまう事を美月は感覚的に理解している。丘の上にはたったひとつだけ、淡い蛍火が見えている。それを目指して一直線、最短距離で辿り着くしか、もう大切な自分の家族の笑顔を見る事は叶わないのだ。

「負けるもんか」

美月はついに岩肌を、一歩、また一歩と、手に伝わる触覚だけを頼りに登りはじめた。脆い岩肌は何度も何度も美月の指先で崩れた。その度に美月の爪には破片が食い込み、やがて人差し指、親指の爪が剥がれる。その激痛は美月の中に恐怖を呼び起こす。

「こわいよぉ」

激痛で吹いた臆病風が美月の手足を止める。

「恐いと云う感情を無視する事」「恐いと云う感情を見ないようにする事」その様にして、むやみに恐い事に対し戦いに挑むことを「蛮勇」と言う。「蛮勇」とは、「勇」であっても、決して「勇気」とは似て非なるもの。それは「蛮勇」にあるのは「諦め」であり、「勇気」にあるのは「明らめ」だからだ。

「運が悪けりゃ死ぬだけさ」

1980年代のハードボイルドはこんなセリフが多かった。恐いもの知らずの、命知らずの男が、如何にも人生を達観している様なセリフだが、反吐が出る。命を何だと思っている。己ひとりでこの大地に立ち、生きている様なこんなセリフは、勘違いの極みではないだろうか。幾星霜の歳月の中、環境の激変を乗り越え、命をつないできた生物たち。食物連鎖の中、数多の戦いを潜り抜け、戦争を生き抜き、そんな英霊が守り抜いた命が、今、この瞬間、ここに在る命である、

「どうせ人間、何時かは死ぬんだ」

「早いか遅いかだけの違いだ」

このセリフは間違いのない事である。しかし、このセリフを吐いて良いのは、人生を生き抜き、何かを守り通した者達だけである。

硫黄島で、本土に生きる家族の為に命を賭して戦い死んで行った英霊の中に「運が悪けりゃ死ぬだけさ」などと思い戦った人は一人も居ない。ゼロ戦で特攻を駆けた若者にも、回天で特攻を駆けた若者にも、そんな風に命を軽んじた者など一人も居ない。どんな人も死の恐怖と向き合い、自分の大切な、大好きな家族を守る為、葛藤の中、自らの命を捧げ戦う道を貫いた。

畢竟「勇気」とは、自らの死と云う最大の恐怖と向き合い、それでも、大切な何かの為にその恐怖を乗り越え、未来を明らかにする事、未来を明らめる事であり「蛮勇」とは、命の連鎖の先に立ち、今、ここに在る生きていると云う事を軽んじ、ここに在る命を粗末にし、死と云う最大の恐怖から逃げる事、生き抜く事を、何かを守る事を諦めてしまう事である。

「こわいよぉ」

 ・・・美月ちゃん・・・大好きだよ・・・

吹き荒ぶ臆病風の中、一抹の声が聞こえる。

 ・・・あなたに会えてよかった・・・

その声は、惠の声ではなく

 ・・・生まれて来てくれて、本当にありがとう・・・

また、牧田の声でも、遼太の声でもなかった。

 ・・・あなたが生きている事が、私の幸せ・・・

切り立った丘の斜面から伸びた両手が、力強く美月を抱き上げた。

「アンちゃん」

「美月ちゃん、ごめんね、今まで、本当にごめんね」

何時しか美月は、丘の頂上に居た筈の彼女の胸に抱き上げられていた。

「どうしてアンちゃんが謝るの、美月の事を、何時も守ってくれたのはアンちゃんだよ」

彼女はそんな美月を見てニコリとする。

「違うの美月ちゃん、私が美月ちゃんを守って来たんじゃない、美月ちゃんが私を守って来たんだよ」


             3

幽かに微笑んでいる。そう紀子には見えた。

「楽しい夢だといいのに」

紀子は、これから黄泉に旅立つ人の寝顔を多く見て来た。それは自分の職業として当然の事だったし、だからこそ、美月の寝顔が黄泉の国からの迎えを待つ人のそれである事を、紀子は経験則から感じていた。

「苦しくない、美月ちゃん、こんなに小さな子が、どうして」

紀子は思わず溢れようとする自分の涙に居た堪れなくなり、美月の額を優しく撫で席を立ちあがった。しかし、立ち上がって直ぐ、紀子は自分の指先に微かな違和感を感じる。

「う・・・ごい・・・た・・・?」

心臓が完全に止まってしまった遺体でも萎縮していた筋肉が伸び、稀にそういう反射を起こすケースはある。脳死した患者でも条件反射を示す事もある。しかし、今の一瞬の動きは・・・

紀子はもう一度、違う箇所に刺激を与えることにした。いちばん敏感に痛みを感じるであろう指先の爪の間に、ポケットから取り出した点滴用の注射針を刺してみる。肢体には何の反応もない、しかし、針を刺した瞬間、確かに美月の眉間に小さな皺が刻まれたのを紀子は見逃さなかった。

「せ!先生!片山先生!」

「どうしたんです大谷さん!」

仮眠を取っていた宗嗣と昌子が紀子の声に飛び起きる。

「反応です!これは反射ではなく、美月ちゃんに、反応が!」

宗嗣と昌子は早速、自ら紀子の言うそれを確認してみる。

「こ、これは!」

「あ、あなた!」

「脳幹の中には乗降性脳幹網様体というのがあるんだが、その部分が生きているのかもしれん。脳死の患者でも家族が面会に来ると、特に母親が来ると涙を流すという例がある。母親などの親族なら、患者の非常に微細な表情の違いを見つける時があるんだが、よく見つけたね、大谷さん」

宗嗣は紀子のそれを絶賛した。惠が以前感じた、美月の中にある形而上の点、その小さな小さな場所で、美月は今、ここに戻ろうと必死で何かと戦っているのだ。

「よし!この子の戦いを我々は全力でサポートする!絶対に、何が何でも、この子が帰ってくるこの身体を死なせはしない!昌子、大谷さん、頼んだぞ!」

「はい!」

・・・戻って来い・・・戻って来るんだ・・・美月ちゃん・・・


            

「分った」

ヘッドセットのボタンを切った山田に全員の視線が向く。

「新庄さんか」

「あぁ、はしだてが、木造船団の包囲に成功した」

「よっしゃ」

山田のその報告に、優樹はガッツポーズをする。

「時間から考えて奴らはこの海域に出ている筈、総員、戦闘準備だ」


            

「遅すぎませんか」

「あぁ、失敗の様だな、これを見ろ」

安樂は海面に漂う札束入りのビニール袋を拾い上げる。

「叔父貴、それはいったい!」

「撒き餌だよぉ。迎えはもう来ないでしょうねぇ」

工作員が操船するイカ釣り漁船が安樂たちの乗る船体を囲む。

「大西、伊藤」

「はい」

「こんな仕掛けがしてあったって事は、奴らはもう俺たちの動向を掴んでいる筈だ」

「行くんですね、叔父貴」

「あぁ、お前ら、必ず生きて帰って来い」

「はい!」

            

「発見!領海内に大型の木造船を発見」

「場所は!」

「37度02‘46.4“N 132度12’44.0”E、竹島付近です!」

「よし、民間部隊にデータを送信しろ!」

            

「衛星写真の解析データが来ました、部長の思惑通りです」

「あぁ、どうやらその様だ、船影が見えて来たぞ」

山田は一瞬だけどや顔でこちらを見た後、直ぐに双眼鏡に目を戻す。そのどや顔を優樹が真似て見せると、皆は大笑いした。

「お前ら、笑ってる場合じゃねーぞ」

「どうした山田」

山田のそれに牧田が問う。

「日本船籍のイカ釣り漁船四隻が、木造船を包囲している」

「日本に潜り込んでいた工作員が漁船を」

「あぁ、こいつは不味い、迂闊に攻撃できねぇ、高橋、あの漁船の船籍抹消を政府に依頼しろ」

「はい」

            

「総理、木造船を発見しました、が、山田さんの予想通り、竹島近海です。更に日本船籍の漁船が四隻、木造船を包囲していて、今、高橋さんから船籍抹消の依頼が」

「うむ、抹消は直ぐ関係個所に指示してくれ」

「総理、韓国領海に入られたら不味い事に」

「大丈夫だ。山田君を信じよう、彼に何か策が有る筈だ」

            

「山田」

「何だ」

「どうする、策はあるんだろ」

「無い」

牧田の質問に山田がきっぱりと答える。

「てめぇ!きっぱり言うな!きっぱり!」

「ここから先は韓国領海、それにこの竹島は韓国と日本にとって非常にデリケートな場所だ、下手には動けん、それを知って安樂も行動している」

それを聞いていた惠がハッとした顔になる。

「山田さん、ヘリを至急要請してください」

「どうしたんだ惠ちゃん」

「私達の作戦が成功して敵は動けなくなったんじゃない」

「え?」

「ここは双方が政治的に動きにくい場所。安樂は動けないのではなく、最初から動かない積りなんです」

「どう云う事だ」

「あの木造船と漁船は囮。安樂は海に潜るのかもしれない」

「惠さん、それは考え難い。いくら安樂でも潜水艦を国内に持ち込むのは」

しかし山田は高橋の言葉を遮り更に高橋に命令をする。

「待て高橋!潜水艦は無理かもしれんが、簡易な潜水艇なら可能性はある!磁器捜索装置を積んだヘリを呼べ!」

「部長、本気ですか」

「ソノブイも必要だ!P1の出動も要請しろ」

「わ、分りました」

「しかし、安樂の乗る潜水艇の位置を特定できてもこれは想定外です、我々は対潜水艇用兵器を何も装備していません」

「部長、今から舞鶴基地に潜水艦の出動要請を」

「遅い、それじゃあ間に合わねぇ。高橋、弾頭を外したホーミング魚雷を一発積んで来る様ヘリに指示しろ」

「ぶ!部長!まさか!」

「心配するな、俺じゃねぇ、牧田にやってもらう」

「えぇぇぇぇ!俺?」

「悪い、牧田、国の為に死んでくれ」

「待て、山田、てめぇ、何考えてやがる!」

「文字通りの人間魚雷だ。大丈夫、お前ならやれる」

山田はダイビング用具一式を牧田に無理やり手渡す。

「い、嫌だ」

「嫌だとかは、残念ながら、無い」

「こ、断る!」

「断るとかも、残念ながら、無い」

「う、嘘だーーー!」

「嘘じゃない、残念ながら、本当だ、受け入れろ、牧田」

「山田」

「何だ」

「俺、実は、泳げないんだよ」

「大丈夫、お前は泳ぐ必要はない、魚雷がお前を運んでくれる」

「山田」

「何だ」

「もし生きて帰ったら、お前をぶっ殺す!」

「シャンパン用意して待ってるぜ、牧田」


              4

「美月が・・・アンちゃんを・・・」

「そうだよ、大人になってはいけない私は、大人にならないあなたの中に逃げ込んだ」

「美月の、中に」

「そう、あの時、私は、あなたの中に逃げ込んだの」

まだ私が、私の中のあなたと云う存在を知る前の事だった。

「美月ちゃんは覚えていない?かっぼちゃの煮物とキムチが大好きだったお父さんの事」

「覚えてないよ」

「そうだよね、覚えてないよね」

海に近い商店街の近くに一人で住んでいたその男の人は、本当に優しい人だった。身寄りは無く、妻も子供もいない。

賭け事はせず、造船所で油にまみれ働き、仕事の帰り、お気に入りの惣菜屋で数種類の惣菜を買い、家に帰るとテレビを見ながら、惣菜をあてに焼酎を二杯飲むだけの人だった。容姿はお世辞にも良いとは言えない人だったけど、北朝鮮と連絡を絶ち、工作員としての仕事を放棄し追われる身になった私達にとって、あの父さんは絶好の居場所だった。

女はお父さんの気を引くのに、当然ながら私を使った。何故ならそれが私の存在意義だったから。私が生まれた強制収容所はこの世の地獄だった。私の親は政治犯として強制収容所に収容され、私が生まれる前に父が、生まれてすぐ母が処刑された。だから私は本当の両親の顔を見た事は無いし、両親や自分がいったいどんな罪で収容所に入れられていたのかも知らない。

私は人が人の肉を喰い、見境なく女を犯す男たちが蔓延る中で生きねばならなかった。それにはどうすれば大人の気を引けるか、どうすれば愛らしく見え、可愛がって貰えるか、どの立ち位置で、どの角度からの笑顔が一番可愛く見えるか、どんな仕草をすれば大人の憐憫を引き出せるか、それだけを考え、練習し、毎日、毎日、それに明け暮れた。

何時の頃からか、本当の自分が分からなくなった。私は、生き残るために、愛らしい演技をする自分の中に溶け込んで行く。そんなある日、工作員の女が工作活動用の子供を探しに収容所を訪れた。それが鄭蘋茹、あの女だった。

工作員に選ばれる事。それだけがこの地獄から抜け出す唯一の方法。私は女の前で、渾身の演技を披露した。女に選ばれた私はあの地獄の門から抜け出すことに成功した

「役に立つなら優しくしてあげるし可愛がってあげる」

女これ以上は無いと云う柔和な顔で私に言った。

「でも、役に立たなくなったら、直ぐに処分する」

しかし、その後にそう言った女の目は、何者をも凍らせる残虐な目をしていた。

そんな女の命令で、私はお父さんに近付いた。日本人の大人は収容所の大人とは比べ物にならないほど簡単だった。そんなに演技を凝らさなくとも、日本人の大人は子供に優しいからだ。

仕事帰りのお父さんに話し掛けると、直ぐにお父さんは私を可愛がってくれた。私がお父さんと仲良くなって三日目にはもう、母と私はお父さんの部屋に居た。

私達の様な工作員から脱北した者は例外なく見つかれば殺される。身元が分かる様なものは全て回収され、毎年千人、延べ二万人を越えるこの国に於ける身元不明者遺体として処理される。私達が生き残るためには偽造した身分証明を使い、日本人と婚姻関係を結び、日本国籍を手に入れるしかない。それから間もなく、お父さんと私たちは戸籍上、本当の家族になった。

「ただいま」

「おかぁえりぃなさぁい」

その日、仕事を終え何時もの様に線路沿いを歩いて帰って来たお父さんに母が片言で言うお帰りなさいは普段とどこかが違っていた。お父さんはそんなあの人のお帰りなさいに気付くことなく、何時もの様にテレビを見ながら母の韓国料理に舌鼓を打ち焼酎を二杯飲んだ。すると、いつもと違う事が起こった。お父さんは急に苦しみだした。母がドクゼリから採取したシクトキシンとシクチンがたっぷりと入ったキムチを食べて。お父さんは痙攣し、口から泡を吐き、それでも、なかなか死ななかった。

「美月、あの人の鼻と口を塞げ」

私は女に言われた通り、痙攣するお父さんの鼻と口を塞いだ。この一年、お父さんは私に本当に優しかった。でも私は、母の言葉に従がった。私の掌の下でお父さんの唇が動いていた。唇の動き方が同じ動き方をしていた。お父さんは何かを言おううとしていたのだ。私はお父さんが何を言おうとしているのか、掌の下で動くお父さんの唇の動きに神経を集中させた。


   に

     げ

       ろ


私がそう感じた次の瞬間、お父さんは大きな痙攣をひとつして動かなくなった。この女以外、誰一人知る者の居ない他国の大地で、子供の私にどこに逃げろと言うのか。私に逃げる場所などこの世界の何処にも無い。

「だから私は、あなたの中に逃げた」

「じゃあ、アンちゃんと美月は、同じなの」

「そうだよ、私は以前は美月だった。けれどあの時、あなたの中に逃げ込んだ私は、あなたにとってのアンちゃんになった」

「そうなの」

「うん、だから、私が美月ちゃんを守っていたんじゃなく、本当は、私があなたに守られてきたの。美月ちゃん、今迄、本当に辛かったね、ありがとう」

アンが美月を抱きしめる。

「だから今度は、私があなたを守る番。美月ちゃん、私の事、好き?」

「マニ チョアヘヨ(大好きだよ)」

「ありがとう。美月ちゃん、これから私はもうあなたとこうして話せなくなる。でも、私は、あなたの中でずっと生きている。だから、これからは、一人で頑張るの。どんなに辛くても、一人で頑張るんだよ」

「アンちゃん」

「さぁ、行こう、美月ちゃん」

「どこに行くの」

「ママのところよ」


             5

「やるよねぇ、惠ちゃんってば」

安樂は自分の作戦が惠によって全て看破された事を知る。射殺した筈の金城が新庄によって救われ、北に潜った金城の引率により黄海北道の松林市に在る黄海製鉄所で起こった惨殺事件被害者の家族たちがクーデターを起こした。日本側から発砲をさせ、日本政府の政治的動きを封じる予定が、クーデターにより北朝鮮側から発砲が行われ、自衛権が発動された日本は木造船団をEEZまで押し返し、元山港沖は舞鶴地方隊の護衛艦と海上保安庁の警備艇で封鎖されてしまった。しかし、そこまでは安樂の想定内だった。囮の大西と伊藤を元山港に向かわせ、自らは予てから連絡を取っていた韓国大統領、文在虎の手配により竹島に上陸、そこからは韓国政府の護衛の下、陸路から平壌に入れば良い。竹島は日本と韓国にとって非常にデリケートな場所である。ここに上陸してしまえば日本政府は安樂に手出しは出来ない。

「なんだとぉ・・・」

ところが竹島近海に向けて日本からスクランブルが掛かる。P1哨戒機がソノブイを投下、ヘリが上空から探査の姿勢に入った。

「あの女、ディープブルーまで見抜きやがった。大西、伊藤、ソノブイを破壊、撤去したら元山へ行け!」

「はい」

安樂はそう言うと無線機を握り漁船に乗る工作員に指示を出す。

「9K38 イグラ(ソビエト連邦が開発した携帯式防空ミサイルシステム)を発射しろ。哨戒機とヘリを撃墜したら奴らの偽装船に突っ込んで自爆しろ、漁船もろとも偽装船を沈めるんだ」

「イェ(はい)」

大西、伊藤の機銃が海面のソノブイを次々と破壊。木造船から散開した漁船の9K38 イグラが火を噴く。P1とヘリがそれに被弾、黒煙を上げ海面に墜落する。

            

「くそっ!不味い!これじゃあ安樂の潜水艇を追えん!墜落したヘリに向かえ!魚雷を探すんだ!」

しかし、山田の指示で動き出した偽装船の行く手に漁船四隻が立ちはだかる。

「どけ!俺がやる」

牧田は懐のホルスターからM500を抜き出す。

「宏太!漁船の後尾に付けろ」

「どうするんですか、牧田さん」

「あいつら、証拠を消すために俺達もろとも船を自爆させる腹だろうが、そうはさせねぇ、三隻のスクリューだけを狙ってぶっ壊す、山田!残った一隻をぶん捕って船から逃げた工作員を全員確保しろ!」

「牧田」

「なんだ!」

「頼むから自衛隊に来い!」

「うるせー!生きて帰ったらマジぶっ殺すぞテメェ!」

山田は牧田にニコリと笑い警察権を行使できる高橋を連れゴムボートに乗り込んだ。

「優樹、援護しろ、惠、俺の下半身がぶれないように支えてくれ!」

舳先でスタンディングポジションを採った牧田が優樹と惠に指示すると二人は一斉に牧田の指示に従う。

ドゴォォォーーーン!

S&W M500が火を噴く。右端の漁船がスクリューを撃ち抜かれ推力を失い離脱、それを見た左端の漁船が180度回頭して牧田たちに襲い掛かる。

ズダダダ、ズダダダダダ!

「向こうもAK47だ、性能は互角、打ち負けるな優樹」

「はい!」

ズダダダ、ズダダダダダ!

「宏太!右舷30度に切り込め!」

「はい!」

ドゴォォォーーーン!

回頭し、猛進して来た漁船は右側面からスクリューを撃ち抜かれ推力を失い波に漂った。

 ・・・すごい・・・

・・・こんな不安定な状態なのに、あの四インチのM500で完璧な射撃だ・・・

 ・・・神業ですよ、秀さん・・・

「秀さぁぁん!」

「なんだぁ!弾でも切れたか優樹!」

「秀さん!マジで自衛隊に来ませんか!」

「馬鹿やろぉぉう!お前も山田と一緒にぶっ殺すぞ!」

ズダダダ、ズダダダダダ!

「うぐっ!」

しかし、猛進して来た漁船の陰から現れた別の漁船からの銃弾を牧田が右腕に被弾、牧田の手からM500が離れる。

「秀さん!」

惠は左腕で後ろに倒れようとする牧田を支え、右手で落下して来たM500を受けとめる。

ドゴォォォーーーン!

惠は手にしたM500で間一髪にすれ違った漁船の後尾目掛け片手うちでトリガーを引いた。

ガシャラッラララ!

惠の右手から放たれた500S&Wマグナム弾は見事にスクリューを破壊、漁船は波間で動きを止めた。

「おいおいおい!片手打ちでM500をぶっ放して当てるって!どんだけすげーんだ!」

優樹があきれ返る人の様に溜め息を漏らす。

「惠さぁぁん!お願いだから自衛隊に!」

「うるせー!お前らも山田と一緒にぶっ殺すぞ」

惠が牧田の言い様を真似る。するとそこで四人は一斉に大笑いした。

「秀さん、大丈夫」

「大丈夫だ、ほらよ」

牧田は被弾した部分の筋肉に渾身の力を込める。すると、その筋肉の圧力で押し返された銃弾が、ポロリと甲板に転がった。

「秀さん」

「なんだ」

「スーパーマンの子孫とかですか」

「馬鹿たれ!俺は生粋の日本人だ!」

「秀さん!あれ!」

宏太の声に全員が海上に目を向ける。9K38 イグラによりAH64Dヘリは、メインローターを破壊されたものの、高度が極端に低かった為、機体は壊れずまだ浮力があり、自衛官三名は海上に逃れ生きている。

「よし、救助だ」

宏太は舵をヘリに向け、牧田たちは途中に浮いている自衛官三名を船上に引き上げた。

「大丈夫か」

「はい、しかし、97式が」

牧田は再び舳先に立ち、老練な漁師の様な目で海上を網羅する。

「あったぜ、ヘリが沈む前に回収だ」

97式魚雷は木箱に梱包されていた為、木材の浮力で辛うじて波間に浮かんでいた。

「しかし、ソノブイは破壊され磁気捜索装置もなしに、どうやって索敵すれば」

宏太の操船で機体近くに浮遊する魚雷に牧田が手を伸ばしたその時、惠が暗雲立ち込める上空を仰ぎ見た。

「どうした、惠」

牧田は魚雷が入った木箱から垂れていたワイヤーを掴みながら惠に視線を向ける。

「来る」

それは牧田の質問に応じた答えではなく、惠が感じたものをそのまま口にした言葉だった。暗雲に風穴が開く。そこを潜り抜けて来た光は惠に降り注ぎ、その光と共に運ばれた風が一瞬、惠の髪を揺らした。

・・・オンマ・・・

・・・マニ チョアヘヨ(大好きだよ)・・・


             6

我々が物を見ることができるのは、何故だろう。明るいところでは物が見えるが、真っ暗なところで物は見えない。どこからも光が入らない様にした場所に閉じこもると、物はまったく見えなくなる。太陽や電灯のように、自分から光を放つ物のことを「光源」と云い、光源は自分で光を出しているから当然見える。パソコンのモニタやテレビの画面は自が光を発しているので暗闇の中でも見える。つまり、物が見えるというのは、この光源から出た光が物にあたり、反射した光を目が受け止め、瞳から入った光が角膜と、水晶体を通ったときに屈折して網膜で像を結ぶからだ。では、この世界を照らす光とはいったい何なのか。

我々は光の存在を感覚として知っているが、しかし、我々は、光の本質を全く知らない。光を分ける素子に光子を入れると、横偏光の光が反射した場合、横偏光に回転、そのまま透過した場合、縦偏光の回転になる。横偏光なら0、縦偏光なら1とし、この0と1を重ね合わせ、同時に表現可能なものが量子ビット、量子コンピューターである。300量子ビットの量子コンピューターがあれば、観測可能な宇宙の全ての原子の数が表現可能になると言う。

犬の皮膚に棲むダニは「犬」と云う存在の全てを理解しているだろうか。ダニは、そもそそも「犬」などと云う概念から離れた場所で犬の血を吸い生き、繁殖をしている。それと同じ様に、我々は目で見て、光を感じながら、光を全く見ていない。光の本質を離れた場所で、光りの本質を知らないまま、ダニと同じ様に繁殖をして生きている。

 その、我々が知らない光の本質の一端に、偶然アクセスしてしまった時、人はそれを「摩訶不思議」「超常現象」「心霊」などと呼ぶのではないだろうか。

  ・・・美月・・・

体の中心を何かが駆け抜けた。それは昔、何時の頃からか会うことが出来なくなった何か。とても優しく、とても崇高にして、尊敬できる、あの何かだった。

  ・・・オンマ・・・

この宇宙の紀元前、熱的死を向かえようとしていた過去の宇宙に存在した高等知能は、膨大なエネルギーの塊の中にひとつのプログラムをダウンロードした。そのプログラムが起動した時、大きな爆発と膨張が始まり、この世界はここに生まれた。その時から、非物質世界に形成されていたプログラムは自動更新を繰り返し、熱的死に向かうエントロピーの増大を防ぐためのあらゆる可能性を模索、そのノウハウを蓄積しながら膨張するこの世界を維持している。

「私たちはその智慧の一部であり、可能性の欠片であり、プログラムの一端」

その思考は惠のものでありながら惠のものではなかった。惠をインターフェイスとして、溢れ出す宇宙にプログラムされた先人の意思。ヒグス場の向こう側にある非物質世界で、この世界を育む神の智慧。

・・・お帰り、美月・・・

               

「先生!呼吸が!呼吸が戻りました!脳波も検出されています!」

「よく頑張った!美月ちゃん!偉いぞ!よくぞ、よくぞ戻って来てくれた!」

宗嗣、昌子、紀子は、まだ目を覚まさないが、完全に蘇生した美月を囲み、手に手を取り合って歓喜する。

「もう大丈夫だ!この子は必ず、目を覚ます!紀子さん、惠ちゃんにすぐ連絡を!」

               

「え!本当なの母さん、分った、秀さんと惠さんに伝える」

優樹は母からの連絡をそのまま大声で叫ぶ。

「秀さん!惠さん!美月ちゃんの呼吸と脳波が戻りました!」

「なんだと!優樹!本当か!」

「本当です!良かった、ホントに、良かった」

言葉を交わした二人の瞳から同時に涙が溢れる。

「おい!惠!美月が!」

「うん、知ってる、まだ目を覚ましていないでしょ」

「な、何でお前、そんな事が分かるんだ」

「今ね、美月は、私のここに居るから」

自分の胸に手を当て、ここに居ると云うジェスチャーをしながら振り返った惠の瞳にも、感極まる涙が溢れていた。

「魚雷をホーミングから有線誘導に切り替えて」

惠は牧田が掴んでいたワイヤーを手に取り、優樹にそう指示する。

「宏太くん、私の指示に従って。進路021、フルアヘッポート」

             

木造船の船底から放出されたディープブルーは、ベントを開きダウントリム一杯に急速潜航を開始する。深度120メートルと雖も、探知機材なしでの索敵は不可能。

「ぷぷぷ、一將功成萬骨枯」

安樂はコクピットのメーターを睨みながらひとり呟いた。《一將功成萬骨枯》とは中国・唐の時代の詩に出てくる言葉で、1人の功績が成就するためには、多くの人が犠牲になる」と云う意味だ。

「俺は、俺から全てを奪った神を許さない」

時間と云う川を流れる水の正体は、幸福と不幸の二種類しかない。幸福と云う清水に流れる者はいい。誕生を期待され、喜ばれ、生まれて来た事を感謝し、愛に包まれ、愛に育まれ、多少の困難に苛まれても、その者達は概ね、幸せな人生を送れる。しかし、自分の様にそうではない、不幸と云う汚水に流れる者もまた、数多に存在するのだ。

人としてこの世に生を受けた筈なのに、人として必要な物は何一つ与えられなかった。人と云う理を得て生まれながら、人としての全てを否定され、獣のように育てられた。物心も付かぬうちからから麻薬を嗅がされ、麻薬で操られ、人を殺め続けて来た。

嘘を吐き。物を盗み、人を騙し、人を殺すことを楽しいと覚えさせられた。仏教で云うところの『八斎戒』全てを踏み躙り、もはや人間ではない化け物となった自分と対峙し、漸くそれを受け入れ、魔道を歩き出した自分に、あの女は天使の羽を落とし己の罪に焼かれる苦痛を与えた。

どうして自分ばかりがこの様な苦しみばかりを受けねばならぬのか。どうしてこの世はこんなに不平等で不条理に溢れるのか。この不公平を取り除くには、この不条理を正すには。

「簡単な事だ、壊して混ぜればいいだけだ」

強いものが幸福を貪り、弱い者が不幸ばかりを押し付けられる不条理な世の中など、毀して混ぜればよい。

「お前があの水槽にした事が、この世界を本当の平等に導く答えだ」

安樂は後ろに乗せている遼太と宗司を振り返る。段階的に薬から離脱した宗司は死んだように眠り、一気に薬を抜かれた遼太は縛られたまま地獄の苦しみにのたうち回っている。

宇宙内部の存在全てが一様な平衡状態になれば、時間は止まり、そこからは幸福も不幸も消失する。

「涅槃寂静。永遠の混沌こそが、究極の平等だ。その日が来るまで、俺は何度生まれ変わろうと、差別される側ではなく、差別する側から世界を壊してやる」

「うぎぃやぁぁぁぁ」

叫び声と嘔吐を繰り返す遼太は汚物に塗れ、吐く内容物を失った彼の口からは黄色い胆液が溢れ出す。

「好い子だ、お前は才能がある。あの壊滅した水槽を見た時、俺はそう感じた。受け入れろ遼太。俺と同じ涙を流せ。この世界を、涅槃寂静の混沌へとお前が導くんだ」


木箱から取り出した97式を牧田が肩に抱え、惠はワイヤーの端を握り船首に立った。

「ポート5」

「ポート5」

惠の指示に宏太が復唱しながら操船する。

「スターボード18」

「スターボード18」

・・・美月、ママに力を貸して・・・

惠はゆっくりと意識を海中に沈めて行く。

・・・見えた・・・・

「ハーフダウン、ミジップ」

「ハーフダウン、ミジップ」

「秀さん、ここから真っ直ぐに投げて!距離200」

「よっしゃぁぁぁ!」

掛け声と共に牧田は渾身の力で魚雷を海中に投げ込む。惠は目を閉じたままワイヤーを握りしめた。すると、97式魚雷は、まるで有線誘導されているかのような動きを見せ、惠の意志に従がい海中を突き進んだ。

ドムッ!

鈍い衝突音が海面に伝わる。そして衝突音からやや遅れ、海面に気泡が沸き上がったかと思うと、スクリューをワイヤーに巻かれたディープブルーがその戦闘機に似た機体を海面に浮上させた。

             

「やるなぁ、あいつら」

山田はゴムボートの上から戦況を見て溜め息を漏らす。

「本当に凄いですね、牧田さんも、惠さんも・・・想定外でしたよ」

「想定外?」

高橋のその言葉に山田が振り向くと、高橋の手に握られたシグザウアーP220の銃口が山田の眉間に向いていた。

「高橋・・・」

             

「スローダウン」

「スローダウン」

惠の指示で微速前進する偽造船の舳先で、牧田は惠に手渡されたワイヤーを引き、漂うディープブルーを引き寄せて行く。ディープブルーの船上に縦に三つ並んだ半球状の透明なハッチ最前部が開き、カラシニコフを構え立ち上がったのは安樂栄治だった。

「兄貴ぃ、お久しぶりですぅ」

安樂がそう言うのと同時に残り二つのハッチが開く。その中には身動き一つしない遼太と宗司が横たわっていた。無言の牧田と惠の眉間に殺意にも似た戦慄の皺が浮き上がる。

「そんな怖い顔しなくても大丈夫ですよぉ、二人とも生きていますから」

安樂はカラシニコフの銃口を二人に向け、二人の安否を舳先に告げる。

「でもぉ、少しぃ、危険な状態ですぅ、ヘロインに漬けてたのを、急に抜いてますんでぇ、下手に動かすとショックで死んじゃうかもですぅ、ぷぷぷ」

「遼太・・・宗司・・・」

             

「高橋、てめぇ、何時からだ」

高橋は山田の目をじっと見つめたまま話し始める。

「シマリスを二匹、飼っていたんですよ、あの子」

「何の事だ」

「とても器用に作っていました。小さなシマリスに着せる小さな小さな青と赤のベストを、彼女は自分で縫って二匹に着せていた」

「だから何の話だと聞いてるんだ!高橋!」

激昂する山田を威圧する様に、高橋はシグザウアーのトリガーに指を掛け山田を睨み据える。

「彼女は、青い方をアボジ(父)赤い方をオモニ(母)と呼んで、それは大切に、大切に、その二匹を育てていました」

高橋の威圧と真剣な眼差しに、山田は高橋の話を聞く姿勢になる。

スパイ防止法の無い日本国内には、共産主義国家のスパイで溢れていると言っても過言でない。隣国である韓国、共産主義国家であるロシア、中国。とりわけ、北朝鮮からは多くのスパイが潜入している。そんな人々の全部が強靭な意志を持ち、国家と共産主義に命を捧げる生粋の愛国者ばかりだろうか。スパイとして国内に潜入して来た時点では洗脳が効いている、がしかし、日本の文化に触れ、この国の平和さに触れ、豊富な食べ物が安易に手に入る豊かさに触れ、北朝鮮を捨て、韓国のスパイに転身する者、二重スパを請け負う者、そのままアンダーグラウンドに逃亡する者、そんな者達は大勢に居る筈である。しかし、脱北をすると云う事は、スパイが国を裏切って逃亡すると云う事は、それは銀王朝が人質にしている、彼ら家族の死を意味する。

「収容所から彼女を送り出す時、彼女の両親は、言ったそうです。お前だけは生きろと。山田部長、どう思いますか。両親が殺されると分かっていても、それでもあの国から逃げ出し、命の鎖をつなごうともがく事が、どんな事だと思いますか」

山田は黙って高橋の次の言葉を待つ。

「年間8万人が失踪するこの国で、国籍を金で買うことはそう難しい事じゃない」

人身売買で売られた失踪者の中から、身寄りがなく、捜索届の出ていない者の戸籍は、アンダーグラウンドで売買される。

「彼女はそれを手に入れる為に、ネットで覚醒剤を売り、地下に潜って金を貯めていた。しかし・・・」

「発見されたのか」

「ええ・・・それは酷い殺され方でした。この国の人間は、平和ボケした日本人は、余りにも苛酷さの中で生きるあの国の人々の惨状を知らなさすぎる。そして知ろうと云う努力もしないクズどもばかりだ!」

「悪いのはあの銀王朝だ、だから俺たちは」

「専守防衛の自衛隊に、憲法に縛られた警察に何が出来るというんです。だから私は、独自のネットワークを構築した」

「独自の?」

「オンラインゲームですよ」

「高橋・・・お前・・・」

「アメリカがあの調子では、北から銀王朝を抹殺するのは不可能。ならば、銀日正の正統継承者である横山遼太に銀王朝を継がせるしかない」

「馬鹿野郎!安樂栄治は北の核を握ろうとしているんだぞ!」

「安樂栄治は確かに危険です、必ず排除します」

「どうやって排除する、竹島に上陸されてしまえば、俺たちはもう手出しが・・・高橋・・・お前・・・もしや・・・」

「文在虎はそんなに馬鹿じゃない」

「韓国にリークしたのか」

「韓国だけではありません、中国にもリークしました」

「すると、銀恩正は・・・」

「数年後には始末されるでしょう。銀恩正ではない、別の中国人、楚金平国家主席の政敵としてね」

「お前、韓国の・・・」

「そうです、横山遼太は韓国が貰う、日本の手には断じて渡さない」

「南北朝鮮の統一は朝鮮民族の悲願。しかし、何処かの新興宗教が唱えるクソの様な教義と同じに、クソの様な銀一族の主体思想で朝鮮半島を統一すれば、必ず朝鮮民族は絶滅の危機に陥る。だが、銀一族の影響力を除いて北の民を統べるのも、また不可能に近い」

「そうですよ部長。南北統一は民主主義、議会政治の元で行われなければならない。独裁国家はこの地球から消えるべきです。だから私は、朝鮮半島を日本の様に作り変える」

「象徴天皇制か」

「ええ」

象徴(しょうちょう)天皇制(てんのうせい)とは、日本国憲法で規定された、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする制度を指して言う。

「銀正男が殺されたのは痛かった。私たちは彼を象徴に据え、朝鮮の天皇とし、南北統一を考えていた。だが結果オーライでね、横山遼太と云う逸材が現れた今、正男が死んでくれて良かったと考えています」

「高橋、遭難している北の工作員の回収だ」

「部長・・・」

「お前の考えが全て正しいとは言えん、がしかし、今の時点でお前の考えは間違ってはいない」

山田が立ち上がると、高橋は銃口を床に降ろす。

「キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神ヤハウェや、仏教の如来は、この世界と乖離した非物質の世界に居る存在だ。キリストもムハマンドも釈迦も、死んだ人間の成れの果て。俺は、この世界に居ない神や、死んだ人間の形骸で今を生きる人間の未来を考えるべきではないと常々思っていた」

「私も、そう思っています」

「人の未来は、生きた人物をを中心とし、生きた人間が考えるものだ。日本の天皇陛下が国を思う姿勢、民を思う気持ち、これは世界中、何処を探してもあり得ない貴重なものだ。日本の天皇陛下ほど、私心を捨て公に生きる命(みこと)を俺は知らない。もしそんな尊い命の元で、くだらん思想や宗教を駆逐して人が人の未来を考えるなら、核は無くなり、戦争もなくなるんじゃないかとそう思う、お前はどうなんだ高橋」

「その通りです、部長」

「中国も、韓国も、朝鮮も、日本も、何時か、くだらん対立から離れて、皆が幸せになるべきだ、しかし高橋、今は、安樂を確保する事だけを考えろ。あいつは人類全部の、共通の敵だ。」

「・・・部長」


              8

海上自衛隊、舞鶴警備隊、舞鶴海上保安武の船艇に包囲されたまま、北の木造船団がEEZに押し返されえ行く。

「来ました、総理、朝鮮人民海軍です」

モニターに映し出された人民軍の船影は、こちらの数をはるかに上回るものだった。

「哨戒機から報告、敵潜水艦多数確認」

「動かせる艦の全てを投入して来たって感じだな」

人民軍が映し出されたモニターを見ながら新庄が呟く。

「こんなもので、彼らは我々に挑もうと云うのか・・・」

安武の口から洩れたその言葉が、人民軍の軍容のなんたるかを物語っていた。

潜水艦は潜っていると云うだけで潜水艦として全く機能していない。中国人民解放軍からライセンス生産を受けたフリゲート、056コルベット艦等、辛うじて戦力と云える艦も無くは無い。しかし、その他はどれもがもはや骨董品。浮かんでいるのが不思議と思えるような旧態然としたガラクタの艦隊だった。

「総理、ヘリからの映像です、フリゲート艦の船首に銀恩正が!」

「自らの軍容をわざと晒しに来た、と云う事か」

また独りごとのようにつぶやく新庄のそれに安武が応える。

「その様ですね、彼はこの惨々たる海軍の現状を見せる事で、我々に戦闘の意思が無い事を示しているのでしょう」

「総理、ドランプ大統領から電話会談の申し入れです」

「なんだと、このタイミングでか」

「は、はい」

安武の目に戸惑いの色が映る。

「よし、繋いでくれ」

安武はそれから15分の電話会談を行った。

「安武さん、ドランプはなんて言って来たんだい」

会談を終えた安武に新庄が質問する。

「アメリカ政府に対してリークがあったようだ、そのリークの発信元が日本からだと彼は言った」

「リークの内容は」

「先程、山田君が我々に提出したレポートの内容だ。米政府が早急に調査した結果、レポートの内容は極めて信憑性が高いとの回答だ」

「山田が・・・まさか・・・」

「否、時系列から考えると、山田君がレポートを提出に来た時、既にリークは行われていた可能性が高い」

「と云う事は、レポートを作成した高橋がリークしたのか」

「高橋君、どうしてそんな事を」

問題に頭を抱える二人へ更に追い打ちを掛ける様に交換手が報告する。

「総理、人民軍より入電、回線を開いて欲しいとの要求です」

「通訳を用意して回線を繋げ」

30秒後、安武は繋がった受話器を取り上げ耳に当てる。

「初めまして、私は、朝鮮労働党委員長、銀恩正です」

「初めまして、私は日本国総理大臣、安武晋三です」

・・・全艦に戦闘準備の指令を・・・

新庄は小声で貝原に指示する。このはしだてに総理の安武が乗艦しているとなれば、北がどんな攻撃を仕掛けて来るか予想も出来ないからだ。

「銀委員長、貴男は、まごう事なきあの、銀恩正その人なのでしょうか」

「それはご想像にお任せする、しかし私は、フリゲート艦の艦首、つまり、あなた方から一番、狙撃しやすい絶好の場所にこうして立っている。その意味を御理解いただきたい」

安武は恩正のその言葉で全てを悟る。

「では、米中の二国間ではもう」

「米中二国間だけではなく、韓国政府内でも既、迅速に進んでいます。世界に独裁国家はもう要らない。戦後米国主導で運営されて来た国連も、そろそろ解体、再編の時期を迎えていると、私は、あの一族の傍に居て、痛切にそれを考えた一人です」

「では、核を拡散するべきではないと」

「もちろんです。アメリカファーストを掲げるドランプ大統領の出現でアメリカは世界の警察としての役割を終える。旧態然として機能しなくなった国連を、全世界の国々が一団となって再編するべきです」

「貴男を動かしたのは、いったい、誰なのです」

「カネシロ、彼はそう私に名乗りました。もうこの国に、あの一族の血は必要ない。私はこれより朝鮮戦争を終結をし、南北統一を韓国議会の主導で実現した後、完全かつ不可逆的な核兵器の廃止と、日本人拉致問題の解決に最善を尽くす積りです。勇敢なる自衛隊諸君、我らの人民、漂流した漁師たちを救い、ここまで送迎してくれた事を、心から感謝する」


            9

「さぁ、兄貴、その手に持っているワイヤーを離してもらおうかなぁ」

「てめぇ・・・」

安樂は宗司に向けたカラシニコウフのトリガーに力を込める仕草をする。牧田は安樂を睨みながらワイヤーを海中に投げ捨てた。安樂はスクリューを逆回転させ、もつれたワイヤーを外す。

「親子の情愛って美しいねぇ、ぷぷぷ、それに免じて、ほら、起きろ!宗司!」

ズダダダダダ!

安樂が宗司の耳元でカラシニコフを発射すると、宗司は顔面蒼白のまま艇上に立ち上がった。宗司の腰にはウエイトベルト(重り)が巻かれている。

「宗司、もういいよ、ママの所へ帰れ」

「はい、兄さん」

洗脳の中に在る宗司は安樂の命令で海に飛び込む。

「宗司!」

惠が宗司の名を叫びながら海面にダイブする。

「宏太!ゴムボートだ!」

宏太は舵を離し、救助用ゴムボートの準備に走った。

「どのみち同じなんですけどねぇ、どうせ皆、死ぬんだから」

安樂は必死に宗司の救助をしている彼らを嘲うかのようにそう言うと、再びハッチを閉め、海中に潜航した。

暗雲に遮られた日本海はどこまでも黒く、その黒に吸い込まるがまま宗司は海底に沈んで行く。ヘロインにより極限まで体力を削られた宗司の肉体には、もはやウエイトベルトの重さに抗う力は無かった。光が届かないが故、透明でありながら漆黒である海水は、どこまでも、どこまでも冷たく彼の存在を黒く染める。チアノーゼの苦しみから脳で分泌されたベータエンドルフィンが彼を安らかに包んだ。この至極の快感が痛みと苦しみを超越した瞬間、人は天国の入り口で人生を振り返るのだろう。

あの地下の牢獄は何時も便臭と尿臭に満ちていた。収監されている子供たちの排泄物が雨が降るまで地下に留め置かれるからだ。雨が降ると、その雨水が樋を伝って地下に流れ込み、それが排泄物を洗い流す。それ以外、あの地下で清掃など行われなかった。不衛生であるが故に多くの子供が死んだ。

買い手が決まるか死ぬかのどちらかでしかあの牢獄からは誰も出ることは出来ない。酷い時は急いでいるのか、牢内で子供達に麻酔を施し、目当ての臓器だけを取り出して死体をそのまま置いて帰る業者もいた。

大西や伊藤が見るテレビ放送と、次から次に浚われてくる子供達との会話の中で言葉を学んだ。そして、言葉とは朧げな感情に形を与えるものなのだと知った時、自分には絶望しかないと云うのを知った。起きて、排泄をして、食べて、寝る。それだけが、無間地獄の様に、ただ続く。まるで食肉にされる動物と同じだった。死にたかった。早く死んで仕舞いたかった。でも、死ねなかった。

それは、たった一つだけ、願いが有ったから。たった一度でいい。言葉などいらない。ただ、母の胸に抱かれ、その温もりを感じてみたかったから。

・・・お母さん・・・

その光は力強く、海水に散光されることなく一直線に降り注いできた。まるで光そのものに意志があるかのように真っ直ぐに突き進んで来る。そして、その光を額で感じた時、・・・大丈夫・・・光はそう言っていた。・・・あぁ・・・訳もなく、何も分からないまま、涙腺から溢れた涙が閉じた瞳をこじ開けた。・・・温かい手・・・温かい肌の温もり・・・柔らかい何かに抱きしめられた。

そしてその柔らかい何かが唇に触れると、大丈夫と云う言葉の意味を宿した気体が、自分の肺に注がれ、満たされる。

・・・お母さん・・・

海水と涙に阻まれ朧朦(ぼんやり)としか見る事の出来ないそれはしかし、言葉ではない意識の伝達で確かに自分に話し掛けて来る。

・・・もう大丈夫だから・・・

・・・お母さん・・・

・・・お帰り、宗司・・・

            

「秀さん!泳げないんじゃ!俺が行きます!」

「いい、俺が行く、お前は竹島に向けて船を走らせろ」

「でも!」

「不思議な感覚なんだ、宏太」

「え?」

「ほら、あの雲の切れ間から注ぐ光に貫かれた時、ここに誰かが入って来た気がする」

牧田は惠と同じ様に自分の右胸を拳で叩くと、そう宏太に言った。

「そいつはどうやら、泳げるらしい」

牧田は酸素ボンベを背負い、ウエイトベルトを腰に巻くと海に飛び込んだ。

「ひ、秀さん!」

              

もう一人、光に導かれ、この暗闇に降りて来た者が腰の錘を外しているのに宗司は気付く。言葉も、視覚も、海の中で遮られている筈なのに、酸素を得た宗司には明瞭(はっきり)と、それが誰なのかが見えていた。

・・・宗司・・・

そう呟いた見えない筈の父は、宗司の脳裏で鮮やかに像を結んでいた。父は、それは優しい、優しい顔で自分に微笑み、そして泣いている。

・・・宗司、僕は、優しいと云う事、人を思い遣ると云う事の本当の意味を、間違えていた。その為に、君をこんなつらい目に遭わせてしまった・・・ごめんよ・・・宗司・・・

「お父さん」

  ・・・優しい事ととは、愛する人をただ思い遣る事だと思っていた・・・

 ・・・愛する者を守る為に、命を惜しまない事が勇気だと思っていた・・・

  ・・・でも、それは違うんだ・・・

 ・・・そんな優しさは、単なる自己犠牲でしかない・・・

  ・・・本当の優しさとは・・・本当の愛とは・・・

 ・・・何が有っても、どんな事が有っても、最後まで生き抜く・・・

  ・・・その覚悟を持つ事だ・・・

 ・・・たとえそれが、自分の生が、自分の命が、愛する人を苦しめるとしても・・・

  ・・・人は生きなければならない・・・

 ・・・それは何故かと云うとね・・・

  ・・・自分が生きる事により愛する人がたとえ苦しんだとしても・・・

 ・・・その苦しみは、愛する人を成長させる糧となるからだ・・・

  ・・・そして、自分が死と向き合い、必死で生きる姿で・・・

 ・・・人は、愛する者に命の尊さを教える義務があるからだ・・・

  「でもお父さん、僕には生きる資格なんてない、僕は人殺しなんだ」

 ・・・宗司・・・

  ・・・命と云うのは、そもそも、残酷なまでに他を犠牲にして成立しているものなんだよ・・・

 ・・・君が生きる為に犠牲になった他の全てへの償いは、君が他の命の犠牲になる事でしか補填出来ない・・・

 ・・・神によって人に死が与えられるのは、その望まぬ死によって、全てを贖うためだ・・・

 ・・・生きなさい宗司・・・

  ・・・何が有っても、死ぬべき時まで、屹度、生きなさい・・・

 ・・・それが、たったひとつの、君の贖罪への道だ・・・

宗司の額に降り注いでいた光は、何時しか宗司と惠、そして牧田を包み込み、三人を海面へと誘っている。宗司は記憶にない頃の記憶を感じていた。

「昔、母から生まれ出る時も、僕はこんな風に感じていたのかな」

自分の両脇を抱え浮上する二人の掌からは、この上なく、自分を、自分の命を尊ぶ、誠実さに満ちた温もりが伝わって来る。その温もりが、自分は疎まれたのではなく、愛されて、期待されて生まれて来たのだと云う事を宗司に気付かせた。海面近くの海水は、胎水のように心地よく暖かい。

 ・・・お父さん・・・

  ・・・僕はもう一度産まれます・・・

 ・・・そして・・・

  ・・・もう一度与えらえたこの命を・・・

 ・・・最後まで・・・

 ・・・懸命に生きます・・・

「よし、惠、先に上がれ、宗司を引き上げろ」

惠は牧田の指示に従い宗司をいったん牧田に預けるとゴムボートに上り宗司に手を伸ばした。

「宗司、さぁ」

「お母さん」

惠は、ゴムボートに引き上げた宗司を、そのままの姿勢で思い切り抱きしめる。

「宗司、ありがとう、生きていてくれて、本当にありがとう」

宗司は夢にまで見た母の胸に抱かれ、声にならない声で泣いた。それを見ていた牧田は、暫くゴムボートには上らず、曇天の切れ間に在るあの光を見上げながら言う。

 ・・・良かったな、宗利・・・

一瞬、この深い海の底までも照らす程に曇天に在る光が瞬いた。まるで、牧田のその思いに応えるかのように。


             9

探し物は何ですか~♪

貧しいと云う事を恥と捉えるこの国に生まれて、恥ずかしい、恥ずかしいと、後ろめたい気持ちで貧困の街に生きて来た。

「伊藤、元山に向かうのは無理の様だな」

「あぁ」

見つけにくいものですか~♪

住んでいる部屋が汚いと馬鹿にされ、着ている服がみすぼらしいと辱められ、そんなものしか与えられぬ親を呪い、社会を拒絶した。

「でも、楽しかったな、大西」

「あぁ、楽しかった」

鞄の中も、机に中も、探したけれど見つからないのに♪

親がろくでなしだと云う事、お金がないと云う事、住んでいる場所が汚いと云う事、着ている服が襤褸だと云う事、お風呂に入れないと云う事、痩せていると云う事、肌の色が少し違うと云う事

【それが、僕ですか?】

             

「哨戒機より報告、大型木造船が一隻、後方から接近」

             

まだまだ探す気ですか~♪

立派な両親が居て、綺麗な家に住んで、最新の家電に囲まれて、良い車に乗り、毎日お風呂に入り、太ることを気にしながら美味しいものを食べて、温かい布団で眠る。

【君は何者ですか?】

             

「はやぶさ、うみたか、後方支援に回れ、90式艦対艦誘導弾 連装発射筒準備、待機」

「接近中の木造船に告ぐ、これ以上EEZに近付く事を禁ずる、従わなければ敵とみなし、即時攻撃を開始する」

             

それより僕と踊りませんか♪

「おい、木造船の外観、全部外せたか」

「出来たぜ、大西」

「ぎゃっはっはっ、良し、旭日旗を掲げろ!特攻だ!打て!打て!打て!」

             

「繰り返す!接近中の木造船に告ぐ、これ以上EEZに近付く事を禁ずる、従わなければ敵とみなし、即時攻撃を開始する」

             

夢の中へ♪夢に中へ♪行ってみたいと思いませんか~うふっふ~♪うふっふ~♪うふっふ~♪さぁ~♪

             

【君は僕の、何を知っていますか】

「伊藤ぉぉ!シャブだぁぁ!好きなだけぶっこめやぁぁ!」

「ぎゃっはっはっはっ」

ズダダダダダ!ズダダダダダ!

【薪をくべながら眠れない夜の寒さを知っていますか】

【お腹が空いて眠れない辛さを知っていますか】

【その隣で、愛する者が衰弱して死んで行く】

【その寂しさと悔しさを、君は知っていますか】

           

「おらぁぁぁ」

ズダダダダダ!ズダダダダダ!ズダダダダダ!

「90式艦対艦誘導弾、発射用意!」

【僕と君は何が違いますか】

【君は僕を知ろうとしない】

【君が何者か僕にはわからない】

【だから、僕は銃を撃ちまくるのです】

【だから、僕は君を憎むのです】

ーーーー

ーー

「90式艦対艦誘導弾、発射!」

ーーー

           来世

安樂は竹島沖に浮上した。ハッチを開け、潜水艇の上に出ると、水平線の彼方で爆発音が轟き、きのこ雲が空を押し上げた。

「楽しかったか、お前ら、またいつか、遊ぼうな」

そして、そのきのこ雲を背負う様に、優樹と宏太が乗った偽装船と、山田と高橋を乗せたゴムボート、そして最後に、牧田、惠、宗司を乗せたゴムボートが安樂の潜水艇を取り囲む。安樂は竹島を見る。竹島沿岸には、韓国軍が港を封鎖する形で陣取っていて、それが自分に対し友好的では無い事を、安樂は悟った。

「なるほどねぇ、高橋君、君が裏切ったってことかぃ」

「彼方の負けですよ安樂さん、そして僕も、彼女に負けた」

「どう云う事だ、高橋君」

「彼女は最初から、僕がソーシャルゲームを通じて独自のネットワークを展開している事に気付いていた。そして、韓国領事館の一件で、彼女は韓国政府と彼方の関係も勘破していた」

「なるほどねぇ、じゃ、君も彼女に」

「ええ、韓国政府と、中国政府にリークしたのは僕ですが、それは彼女の立案です」

山田以下その場の全員が驚愕の眼差しを高橋と惠に向ける中、安樂と惠の視線が海上で絡み合う。

「新庄さんが木造船団に逆工作員を潜り込ませていると言った時点で、私は金城修三の生存を知った。金城修三がどう動くか、それを基点に私がこうなるよう予想して情報リークを提案したの」

「金城修三の工作で崔竜海が銀恩正を裏切るとなぜ読めた」

「崔竜海が銀恩正を裏切ったんじゃない。朝鮮半島を踏み躙り、人民を裏切り続けて来たのは銀一族よ!崔竜海ではなくとも、北朝鮮、いいえ、朝鮮半島の人々の誰が彼の立場に立ったとしても、この現実は起こるべくして起こった事。朝鮮半島に【銀一族はもう要らない】それが朝鮮人民の総意、朝鮮半島に住む全員が、引き裂かれた南北を統一し、会えなくなった大切な家族に再会し、民主主義国家として、平和に、幸せに暮らしたい、そう願っている。その願いが、彼を動かさない筈が無い!」

惠の後を引き継ぐように高橋が言う。

「崔竜海が象徴天皇として振る舞い、韓国議会を主導に南北統一を果たすと云うなら、惠さん、僕は、極限で苦しむ、名も無き在日朝鮮人を代表して、貴女に負けを認める」

高橋の言葉を受け、惠は目を見開き、安樂を睨み据えたまま言う。

「安樂栄治!遼太を帰しなさい!」

「嫌でしょう普通にぃ、お断りですよぉ」

惠が船上からそう言うと、安樂は軽く笑いながら遼太が乗る席のハッチを開ける。

「って事は、こいつはもう、使えないわけだ」

「り、遼太・・・」

開かれたハッチの中に見える遼太はもはや、惠や牧田の知る、何者にも不敵に振舞う、あの遼太ではなかった。

「に・・兄さん・・お願い・・く・・薬を・・薬を下さい・・お願いします・・」

余りの恐怖と苦しみに、掻き毟った頭髪が膝の上に散乱し、胃液すら吐き尽くしたその容貌は、まるで亡霊のように痩せこけ、蒼褪めている。

「エンドルフィン類(μ受容体)、エンケファリン類(δ受容体)、ダイノルフィン類(κ受容体)この3つに対して完全に作用する特殊なオピオイド拮抗剤を投与している、あんたなら、それの意味が解るよな」

それを聞いた惠は戦慄の顔になる。

「な、なんて事を・・・」

1972年に脳の中心部に多くある「オピオイド受容体」が発見されると、これが、大けがなどの際に痛みを感じなくさせるためのスイッチとして機能していることが解って来た。それが脳内麻薬などと称される「エンドルフィン」や「エンケファリン」「エンドモルヒネ」などと呼ばれる物質だ。これらはアミノ酸が連なったペプチドで、これがオピオイド受容体に結合することで、強力な鎮痛作用を示す。逆に、このオピオイド受容体の働きを阻害する物質も次々と見つかった。代表的なのものはナロキソンで、モルヒネ中毒の治療薬としても機能する。ナルトレキソンというさらに強い拮抗薬も存在し、エルトフィンの解毒薬として獣医分野で使われている。

交通事故や、転落などで大きな怪我をしたことがある者は感じたことが有る筈である。事故当初は酷い怪我になっているのが怪(お)訝(か)しいくらいに痛みがなく、冷静な判断ができてしまう。それは、人間が大きなダメージを受けた時、痛みに苦悶していては危機を回避できないからだ。然るに、痛みを一旦オフにし、危機を回避するための行動を起こせるよう、脳は脳内麻薬を分泌して痛みを感じさせなくするのである。

この、生きるための脳の仕組みこそが、オピオイド受容体の仕事だと言える。これを転じて考えると、理論的には、人間を拷問にかける前にオピオイド拮抗剤を投与しておけば、脳内麻薬による、苦痛の先の桃源郷へ現実逃避させることを出来なくさせることも可能になる。

惠は遼太の顔を観察する。本当の苦痛に耐える時、人間は苦痛に満ちた表情などしない。全身全霊を傾け、脳内麻薬を分泌しようとする人間の顔は、「無」である。本当の苦痛、死に瀕した苦痛に直面すると、人間は痛いと云う表情すら作る事が出来なくなるのである。虚空を見据える蒼褪めた遼太の顔が、正にその顔であった。

「お前と云う奴は、どこまで!!」

牧田は怒髪天を衝く憤慨の表情でM500を安樂に向ける。

「待って!秀さん!」

「止めるな惠!ぶっ殺してやる!」

「駄目よ!少しでも大きな衝撃を与えれば、遼太が死んでしまう」

「なんだと!」

「オピオイド拮抗剤を投与されている遼太は、痛みを緩和する術がないの!今のあの子には、この波の揺れでさえ、ハンマーで全身を殴られているぐらいの痛みを感じている筈」

「そうそう、流石は神崎先生、よーく状況が理解出来ている、ぷぷぷ」

安樂はそう言うと、人差し指を牧田と惠の後方にかざした。

「ぷぷぷ、そろそろ、そっちも効き目が出て来る時間ですねぇ」

安樂のそれに牧田と惠が振り返ると、宗司までもが、遼太と同じ「無」の顔になっている。

「オピオイド拮抗剤が切れるまでの五時間、そのままねぇ、僕のする事を、黙って見学しておいて下さいよぉ」


崔竜海が反旗を翻し、軍事的にも政治的にも北朝鮮が鎮圧され、それを受けたアメリカ政府の水面下の動きで、文在虎と韓国軍は横山遼太確保を放棄し、静観の姿勢を決めた。

中国に対しては楚金平ではなく、指導部人事が決まる秋の第19回党大会で、政治局入りがほぼ確実になった次期中国共産党総書記、陳敏爾、本人に対し、極秘にリークされている。これにより、中国に亡命した銀恩正は陳敏爾の手により、周到な形で暗殺されるはずである。その総てを立案し、あらゆる国際的利害を計算し、高橋を動かし、安武を動かし、日本政府を動かし、アメリカ政府をも動かしたのは、惠の頭脳だった。

しかし、銃でもなく、ミサイルでもなく、人質の脳内に、薬物を使って時限爆弾を仕掛けて来るとは、さすがの惠にも看過することが出来なかった。

「惠さん、一時間あれば、国内から麻酔銃とヘロインを運ばせることが出来る。麻酔銃で彼にヘロインを投与しては?」

山田が苦肉の策を惠に提案する。

「ありがとう山田さん、早急に手配して下さい。でも、それも今は無駄です、拮抗剤で脳内のレセプターを塞がれている以上、何をしても、脳内物質も代替物質も、全てが阻害されてしまいます」

「ということは・・・」

「ええ、遼太も、せっかく取り戻した宗司も・・・」

「今から五時間は、安樂に脳みそを鷲掴みにされていると云う事か」

「はい・・・」

各々のゴムボートから偽装船に集合した彼らを後目に、惠は一人、舳先に立った。

・・・美月、私に力を貸して・・・

惠は一度、空を仰ぎ見る。この空の上空1000キロ辺りまでは大気が存在し、そこでは毎日、物質の流出と流入が繰り返されている。年間4万トンの物質が宇宙から降り注ぐ一方で、それを差し引いても、地球は年間、5万トン、宇宙に物質を流出させ、軽くなっている。地球は、宇宙空間との間である程度物質のやり取りがあり、核反応も起こしている為、完全に質量が保存されているわけではない。しかし、失われる質量は、地球の質量の0.000000000000001パーセント(10京分の1)つまり概ね、地球上の人口が増え、巨大なビルなどの建造物が建っても、地球全体の質量は変わらない。人間も物も、地球上にもともとある物質が、形を変えて作られていくのだけなのだ。同じ大地と、同じ大気の中、命と云う理を得て生まれる事。

君は今は先進国の人間として理を得てこの大地に立っているかもしれない。けれど、君を象る質(もの)は、その昔、貧困の地で、非業の死を遂げた人々の塵で出来ている。生まれ変わりは有るのではなく、命とは、生まれ変わる事でしか繋がらないのだ。それぞれに記憶は無くとも、日本人の君は、朝鮮人の生まれ変わりであり、朝鮮人の君は、日本人の生まれ変わりなのだ。中国人の君は、アメリカ人の生まれ変わりであり、アメリカ人の君は、アフリカ人の生まれ変わりであり、もしかしたらイラン人の生まれ変わりかもしれない。僕は過去、ロシア人だったかもしれないのに、今は、日本人としてこの国の大地に立っている。けれど、この度の命が終われば、次は朝鮮に生まれるかもしれない。

自分の行いがもし、過去に愛した家族や、その子孫の命を脅かし、迫害しているとしたら。未来に自分が再び生を受ける土地を貧困に貶めているとしたら。君はそれを願いますか。君はそれで、本当に良いのですか。

僕ならそんな事は願い下げだ。

誰だって次に生まれる事が分かっていたら、生まれるべき国が、豊かで、幸福に満ちた場所である事を願う。物質に国境は無い。太陽と地球の重力に抱かれ、ここに居る限り、過去の記憶は失っても、僕らは永遠に、どこにでも産まれ、生きて、次の人生を歩かねばならない。それならば、どこの国に、どんな形で生まれようとも、幸せな生を願うのが当たり前ではないだろうか。

人が産まれ、生きていく中で、やるべき事はたったひとつでいい。

どんな国であろうと、どんな肌の色であろうと、どんな歴史の中で、どんな言語を話そうとも、目の前に在る、自分より弱く、自分の手より小さな手を守る事。

君を生かすために無償で動く君の心臓の声を、君の肺の声を、君の細胞全部の声を、感じて欲しい。君の心臓を構成する物質は、その昔、敵として憎み合い、不条理な戦闘で非業の死を遂げた者たちが、今は一緒になって、君と云う命を無償で支えているのかもしれない。古に憎み合った者同士が、重なり合い、混じり合い、君の今を象っているのだとしたら、侵略戦争なんてものにいったい、何の意味があるのだろう。武力を悪戯に行使してはならない。国を、土地を、命を守ると云う立場に於いてのみ、武力とは許されるものだ。

国を守る事、土地を守る事、他の利益を妨げず、自らの利益を損なわない事。侵略を行わない事。それを突き詰めて初めて、人は国境と宗教と肌の色を越えられるのではないだろうか。侵略を放棄し、祖国を愛し、守る事。それを突き詰めて初めて、世界はひとつになれるのではないだろうか。

惠は、胸の裡に居る美月に、美月はもう一人の自分、アンに、アンは空に居る宗利に、宗利は、昔、惠がつながっていた、あの大いなる何かに思いを向ける。その道筋が、この世界を、大いなるものへと、全てへとつなげていく。根底にある質は、あらゆる物質の根底は、ひとつの質。そこには差別も差異も無い。全ての質はそこで繋がり、そこで始まり、本当の記憶とは、全て、そこで共有されている。

・・・私達は、憎み合う為に生まれたんじゃない。殺し合う為に生まれたんじゃないんだよ、栄治くん・・・

「栄治くん」

「なんですよぉ、その呼び方、気持ちの悪い、子供の頃の続きですかぁ」

惠は目を閉じ、眉間の中心で安樂の暗闇を探す。

「結局、あなたは、何がしたいの」

「ええー、それ聞きます、俺に?」

「私を殺したいの」

「そりゃもちろん」

「じゃあ、殺しなさい、いいよ、殺しても」

「あんた、馬鹿じゃないの、はい、じゃあ、殺しますってあんた殺して、何が面白いんですよぉ」

「栄治くんの面白いって、いったい何なの」

「決まってるじゃない、この世界を滅亡させて、その全部の責任をあんたに負わせることですよぉ。あんた、何か勘違いしていない?」

「勘違い?」

「そうですよぉ、あんたは、俺が悪者だと勘違いしているんですよぉ。本当の悪者は、あんたじゃないですかぁ」

「わる・・・もの・・・」

「考えてみて下さいよぉ、俺は自分で好き好んで生まれて来たんですか?」

「違う」

「俺があの芙紗子を親に選んだんですか?」

「違う」

「あんな風に育てられたのは、俺が頼んだ事?」

「違う」

「俺の中の化け物を育てたのは、俺?」

「違う」

「その化け物を封じ込めたくせに、怖くなって逃げ出したのはあんたじゃないですかぁ」

安樂は何時ものように、何時の間にか泣いていた。しかし、今日の安樂は、本当に、心から、悲しい顔をして泣いている。安樂の背後に彼の暗黒が形を生し浮き上がる。惠はそれを慎重に自分の想いで包み込み、引き剥がして行く。

「俺は、悪い?俺が、悪者ですかぁ?」

「ううん」

「俺・・・僕・・・は・・・何も悪くないじゃないか!」

「そうだね、栄治くんは、悪くないよ、悪いのは、全部、私だよ」

「そうだよ!惠・・・惠さんが悪いんじゃないか!」

 ・・・部長、麻酔銃とヘロインが届きました・・・

  ・・・よし、配置に就け、絶対に気付かれるな・・・

 ・・・はい・・・ 

・・・牧田、拮抗剤の効き目が切れたら、高橋、清水、大谷が三方向から麻酔銃で彼にヘロインを投与する。お前はそれと同時に安樂を打て、勿論、殺さないようにだ・・・

山田は殺傷力の低い92式拳銃を牧田に手渡す。

・・・俺は海に飛び込んで安樂を確保し、遼太くんを救い出す・・・

山田は一番危険な任務を自分が引き受ける。

・・・山田、てめぇ・・・

・・・これで貸し借り無しだぜ、お前の息子は俺が絶対に助ける・・・

五人はその後、無言で笑みを交わし、それぞれの配置に着く。

暗雲が消えていく。それは何処かに流されると云うのではなく、降り注ぐ光に溶かされるように消えて行く。風は止み、海が凪ぐ。静寂の水平線に囲まれたそこには、もう、光りしかなかった。

「僕があの時、どんな気持ちになったとおもうんですか」

「栄治くん」

舳先に立ち目を閉じ、大いなる何かと繋がった惠の姿は、翼を纏った天使になる。その翼は昔、安樂栄治の闇から逃げた時、惠が失ったものだ。

「僕は、僕は、惠さんが大好きだった。ずっと、ずっと、一緒に居たかった。それなのに、惠さんは、惠さんは!」

「ごめんね、栄治くん、あなたは悪者じゃない、悪者は、私だよ」

天使の翼がひとつ羽ばたくと、その柔らかい羽毛が舞い、安樂の頭上に降り注ぐ。そこには、剥き出しの栄治が居た。闇の中から惠に抱き上げられた、本当の栄治の姿が在った。しかし、飛散した闇が栄治の後方で型を成す。

「うがあぁぁ!よくもやりやがったなぁぁぁ!俺はお前を絶対に許さねぇぇぇ!お前の所為でこの世界は滅びるんだぁぁ!その罪悪感を永遠にお前に背負わせてやるぅぅ!」

 ・・・ぶ、部長!陳敏爾が!楚金平の手で粛清されたとの報告が今!・・・

  ・・・な、なんだと!・・・

 ・・・国防総省の衛星写真で、中国の大陸間弾道ミサイルが一機、竹島上空に!・・・

  ・・・血迷ったかぁぁ!!銀恩正ぇぇぇ!・・・

「ごめんね、栄治くん、あの時は、私に力が足りなかった、でも今は違う、もう迷わないで、私が彼方の闇を全部、引き受ける。秀さん!」

惠は全神経を、栄治の背後にある暗黒に集中する。

「あの黒い塊を狙って!後は私がやる!」

「もう遅いよ、惠さん、もう、遅い・・・」

雲が消えた蒼天に白銀の反射がキラリと走り、大きな物体が飛翔して来るのが分かる。その一直線上に固められた暗黒の塊を目掛け、牧田が92式から持ち替えたM500のトリガーを引いた。

ドゴォォォォオォォン!

惠は銃声と共に自らが纏う全ての光を暗黒にぶつける。漆黒の闇と、純白の光が、混じることなく渦を巻いて、牧田が放った500S&Wマグナム弾を包み込み、それが遥か上空でミサイルを直撃した。

高度約1700メートル。牧田の弾丸を被弾した核搭載ミサイルの再突入体は、爆発と同時に、空中の爆発点の温度が数百万度にまで熱せられ、周りの空気から白熱に輝く火球が現れる。1万分の1秒後、火球は直径28メートルに広がり、温度は30万度近く。1秒後には、火球は最大直径約 280メートルにまで急膨張した。

爆発の瞬間に強烈な 熱線と放射能が発生し、周囲の空気がすさまじい力で膨張し爆風になる。この瞬間、たった1秒たりとも、その場に生きる総ての生命に生存の余地は無かった。しかし、成層圏の向こうで起こったそれを、何かの意思が包み込み、熱風、爆風、放射性物質の全てを大気圏外に排除した。自身の全てを蒸発させ、全てを投げ打って、その意志は、その下にあるすべての命を守った。

 ・・・さようなら・・・

  ・・・惠・・・

 ・・・宗司・・・

・・・父さん・・・

 ・・・母さん・・・

「全員射撃開始、打て!」

山田の檄が飛ぶ。それに反応した安樂が遼太に銃口を向け、トリガーに指を掛ける。三人が放たった麻酔銃のヘロイン弾が遼太の身体に突き刺さり、遼太が海面に投げ出される。山田が海に飛び込む。牧田が左手の92式で安樂の右肩を狙い撃つ。その時、牧田は見た。安樂栄治は泣いていた。本当に悲しい顔で、涙を流して泣いていた。

「ぷぷっ、兄貴の射撃は正確だから助かる」

安樂は少し背伸びをして、カラシニコフを手放し、両手で天を掴むように自分の肩の位置に自分の心臓を据えた。

バスンッ!

回転する9㎜パラメダム弾が安樂の体内を通過して行く。痛いとは思わない。むしろ、この苦しみから解放される事に、至極の快楽すら覚える。

「栄治くん!」

惠の絶叫に、遼太を射撃した三人が海に飛び込み安樂栄治の確保に向かう。

・・・惠さんの馬鹿・・・

・・・もう遅いんですよぉ・・・

・・・もっと早く・・・殺して欲しかった・・・

貫通した9㎜パラメダム弾は確実に安樂栄治の命の火をその体外に持ち出し、海面へと叩き込んだ。

・・・大好きでしたよ、貴女の事が・・・

・・・次は、あなたの子供に、生まれられたら・・・いいのになぁ・・・

牧田が発砲した9mmパラメダム弾により、自分の命が叩き込まれた海面へと、安樂の身体が二回、螺旋を描く様に回りながら落ちて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る