細菌兵器

「隊長!何故なんです!」

「仕方ないんだよ優樹。俺たちは決して表に出てはならん存在だ。特にメディアに俺たちの動きを知られてはならない」

「でも隊長、もう、裏も殆ど取れているのに」

「証拠がない。高橋もそれで動けずにいる」

その時、防衛省庁舎の会議室の扉が開いた。

「すまないね、君たち、私の力が至らないばかりに」

高橋に導かれ、そう言いながら会議室に足を踏み入れたのは、そんな逆境を跳ね除け、再び総裁選を勝利した時の総理大臣、安武晋三だった。

「そ、総理!」

安武の登場で、山田以下、その場の全員が席を立ち敬礼をする。

「山田警視正、いや、今は海上自衛隊、特別警備隊長、1等海佐、山田直輝さんでしたね」

「はいっ」

安武の呼びかけに、山田は再度、敬礼をする。

「公安を通して高橋君から打診があり、今日は皆さんに会いにここを訪れました、皆さん、着席して楽にしてください」

「もう、直談判するしかないと思いまして」

「高橋、説明しろ」

「半年前のあの日、現場で押収した注射器は、隊長の睨んだ通り、一度、開封された物でしたが、注射器その物は未使用で、針やシリンダー内部からも、何も出なかった。それが鑑識の結果でした」

「それが怪訝しいんだ。使用済みの注射器を再生して売買する事件は過去に有ったが、何故、未使用の注射器を一度開封し、もう一度梱包する必要が有る」

「あの鑑識結果に、惠さんが異論を唱えたのが僕も引っ掛かっていました。なのであれから数百本のサンプルを、様々な覚醒剤事件の現場から押収し、民間の科捜研に、個人的に持ち込んで調べさせてみたんです」

「何か出たんですか、高橋さん」

「ええ」

麻薬に使用される注射器は、様々な医療機関に携わる者や、医療機器メーカーの心無い者が、横領した注射器を闇に流す。(現在は中国産のコピー商品が流通している)注射器の原価は驚くほど安いものだ。しかし、それが闇に流れ、末端の使用者の手に渡ると、一本が500円から、何かの事情で品不足になった時には、一本が数千円になる時もある。以前、医療機器メーカーであるテルモが生産するインスリン用注射器の九割が、使途不明のまま販売されていた事が問題になり、メーカーの重役が逮捕、送検される事件があった。あの当時など、事件でメーカーが不正に厳しくなった為、金を出しても注射器を手に入れる事の出来ない麻薬常習者は、アルミホイルで針の先を研ぎ、何度も何度も、同じ注射器を使っていた。注射器が不足すると、注射器を他人と共有する、いわゆる麻薬の回し打ちが起こる。それにより、C型肝炎やエイズの感染が拡大し、オランダなどでは、教会やボランティア団体が注射器を常習者に無料配布していたくらいだ。

「主だったものは、C型肝炎ウィルス、HIVウィルスが殆どでしたが、その中で、妙なウィルスが検出されたんです」

「妙なウィルス?」

「ええ、人為的に培養された遅発性ウィルスです」


            2

「遅発性ウィルス・・・」

楚金平は室内に持ち込まれたパソコンの画面を見てそう呟く。

「ドランプはアメリカの歴代大統領を鑑みても、これ程、破天荒で攻撃的な大統領もそう居ないでしょう。更に、彼はオバマとは違い、優秀、それは認めざるを得ない」

恩正はPowerPointのページを繰る。

「ドランプは交渉の達人であり、経済にも強い、事実、ドランプが当選してからのアメリカの好景気は異常なほど。減税政策で企業の底力は上がり、雇用は増え、失業者は減り、黒人の貧困層は掌を返したようにドランプを支持する様になりました。それは、ひとえに、あのトナルドドランプが歴代に類を見ない程、公約を守る大統領だからです。皇帝陛下。親子三代に渡りアメリカと対峙し、戦い続けて来た我々から見て、正直に申し上げて、相手が悪い」

「確かに、あの男は、歴代アメリカ大統領の中で、最も異質な男かもしれんな」

「国力、政策、外交に於ける天才的なディール、何処から考えても、あの男と戦うのは犠牲が大きすぎると私は判断し、核兵器を手放す覚悟を決めたのです、しかし」

「しかし?」

「彼にも、そして、日本の総理大臣、安武晋三にも、致命的な事が有る」

「任期、だな」

「はい。我々には任期が無い。皇帝陛下は貿易でアメリカの要求を甘んじて受けておられる、それは賢明な判断です。彼らには任期があり、この当面を凌げば、勝機は必ずや訪れるでしょう」

恩正がさらにPowerPointのページを繰ると、次のページには遅発性ウィルスの詳細が書かれていた。亜急性硬化性全脳炎(subacute sclerosing panencephalitis) は、その頭文字をとってSSPEともいわれている。

「麻疹(はしか)・・・天然痘(てんねんとう)ではなく・・・」

「そうです」

麻疹に感染してから、数年の潜伏期間の後に発病し、発病後は数月から数年の経過(亜急性)で神経症状が進行する。治療法は確立されておらず、現在でも予後が悪く、最期には死に至る。通常のウイルス感染が数日から数週の間に発症するのに対し、このように潜伏期間が数年と長く、ゆっくりと進行するウイルス感染を遅発性ウイルス感染と呼ばれている。SSPEはその代表的な病気の一つだ。

「我々は麻疹から、新しい生物兵器の開発に成功しました。初期の段階では麻疹としか診断されず、場合によっては単なる風邪としか診断されません」

「なるほど・・・」

「しかし、体内に留まったウィルスは、脳の中で潜伏、変異をし、徐々に、感染した人間の脳を侵して行きます」

第Ⅰ期:

軽度の知的障害、性格変化、脱力発作、歩行異常などの症状がみられる。

第Ⅱ期:

四肢が周期的にびくびくと動く不随意運動(ミオクローヌス)がみられるよう

になり、知的障害が次第に進行し、歩行障害など運動障害も著明になって来る。

第Ⅲ期:

知能、運動の障害はさらに進行して、歩行困難となり、食事の摂取も出来なくなります。この時期には体温の不規則な上昇、唾液分泌の亢進、発汗異常などの自律神経の症状がみられるようになる。

第Ⅳ期:

意識は消失し、全身の筋肉の緊張は著明に亢進し、ミオクローヌスも消失し、自発運動もなくなり、死に至る。

「これを使えば、じわじわと時間をかけ、他国の国力を奪う事が出来るのです、人知れず、疑われる事無く、そして任期を終えた彼らがそれに気付いた時には、もう手遅れとなる」

楚金平は俄かには信じがたいと云う目で恩正を見る。

「ワクチンの開発は出来ているのだろうな」

「ワクチンは必要ありません」

「何故だ!ワクチンがなければ、我々の身にも危険が及ぶではないか」

「心配いりません、このウィルスは先ず。空気感染はしないのです。更に遅発性であるがゆえ、ワクチンは必要ない。感染が確認されたら、我々が開発した新しいインターフェロン、「インターフェロンΩ」で治療すれば、この病気は、単なる麻疹でしかないのです」

「す、素晴らしい、我が国にも君の様な人間が居てくれたら」

「お褒めに与り、恐悦至極に御座います」

「しかし、空気感染をしないなら、どうやってウィルスの感染を拡大させるのだ」

「我々は国内に大規模な二つの化学工場を持ち、そこで、あらゆる麻薬の生産をしております」

恩正はPowerPointを閉じ、パソコンから記憶媒体を抜き取ると、楚金平に平然とそう述べた。

「我々の生産する麻薬は純度が高く、世界のブラックマーケットでは高い評価を得ています。すなわち、我々の生産する麻薬は、世界中のブラックマーケットで毎日買われ、世界中の麻薬中毒者が愛用しているのが現実。麻薬にウィルスは仕込めませんが、麻薬の摂取に欠かせない注射器、これにウィルスを仕込めば、この世界中に伸びた闇のパイプを使いウィルスをばら撒く事は至極簡単、時間をかけ、特定した国を亡ぼすのは、難しい事ではありません」

「君は、白人を滅ぼす積りなのか」

「違います、皇帝陛下、中華思想です。皇帝陛下のお膝元こそが中の華。それ以外は、全てが蛮族にございます」

それは、ゲルマン民族を最良とし、ユダヤを滅ぼそうとしたヒトラーを超える程の、究極の人種差別だった。しかし、楚金平にとって、それは、我が胸に秘めた悲願だった。 

中国を帝国の時代に戻し、自らが皇帝として君臨する事を夢想し、権力の拡大に心血を注いできた男が、楚金平と云う男なのである。

「中華にあらずば人間にあらず、そうで御座いましょう、皇帝陛下」

恩正は楚金平に歩み寄り、楚金平の前で再び跪いた。

「皇帝陛下、私は核兵器と共に、朝鮮と云う国を捨てます」

「な、なんだと」

「私は核を放棄したのち、日本で確保した、日正の血を引く我が弟に代を譲る積りです」

「銀正男の他に、君に兄弟が居たのか」

「はい。日本の赤軍から北の工作員になった芙紗子と云う女を父は寵愛しておりました。その女と父の間に生まれた子供が一人、日本で、その芙紗子によって、極秘裏に育てられておりました。父は私と対立が深まり、この子を隠し玉として使う積りだったのでしょうが、ふふふ、しかし、この隠し玉は、私が使います。日本で完全に洗脳した彼に、私は朝鮮を譲る。そうすれば彼は軍部のクーデターを一身に受け、私の身代わりに死んでくれるでしょう」

「君は・・・君は朝鮮を捨てて、いったい、どうすると云うのだ」

「お願いが御座います、皇帝陛下、私は、彼方の、後継者になりたい」


             3

「高橋さん、遅発性ウイルスって、いったい何なんです」

高橋は総理の着席の後、自分も椅子に腰かけながら優樹の質問に答える。

「麻疹ウイルスなんだが、北はこれを改良した。具体的には、この生物兵器として改良された麻疹ウイルスに感染すると、100%の確率で中枢神経系へと潜伏した後、ウイルスが変異を起こしてSSPEウイルス(SSPEは亜急性硬化性全脳炎の英語名の頭文字)となって、それが脳に持続感染することで、亜急性硬化性全脳炎が発生する」

「亜急性硬化性全脳炎?」

「そうだ、こいつが厄介なんだよ。感染者は多くないが、様々な治療が試みられてきたものの、現在においても延命治療が可能なだけで、根治法は存在しない」

「不治の病って事ですか・・・死に至るんですか?」

「あぁ、それも、数年から、長ければ20年後に、死に至る。だから遅発性って呼ばれているんだ」

「つまり、これまでの細菌兵器の概念とは真逆って事だな」

優樹に次いで山田が高橋に質問する。

「はい、これまでの化学兵器、細菌兵器は即効性でした、しかしこのウイルスは遅効性。時間をかけて浸透、敵国に蔓延させ、国力を著しく低下させるのが目的でしょう」

「しかし、何故、北はこんな回りくどい事を・・・」

宏太が独り言のようにつぶやいたそれに、総理の安武が反応した。

「政治的側面から考えれば、すべては繋がりますよ」

オバマ前大統領は北朝鮮問題に対して、柔軟と云えば言葉が良いが、腑抜けな政策を続け、今日の北による核開発問題を招いた。逆に言うなら、アメリカの大統領がオバマと云う人だったからこそ、北朝鮮は核を保有するまでに成長してしまったのだ。

9.11アメリカ同時多発テロから、テロと戦い続けたアメリカが、終にテロを鎮静化させ、次に目を向けたのが北朝鮮。アメリカが何故、これまで放置に等しい政策を執って来た北に目を向けたのか。それは北朝鮮がアメリカに届く大陸間弾道ミサイルをほぼ、完成にまで近づけたからである。時を同じくして、ヒラリークラントンを破り、あのトナルドドランプが大統領選を勝ち抜いた。

「優柔不断で弱腰な前大統領に比べ、トナルドは強固そのものな方でした。これ程、公約を忠実に果たそうと果敢に行動するアメリカ大統領は、私の知る限りで見た事が無い」

ドランプは挑発を続ける北朝鮮に対し、軍事オプションを前面に押し出し、経済制裁で徹底的に北朝鮮を叩いた。北朝鮮の不利は世界が認める事であり、世界はドランプが北朝鮮をどう追い詰めるか、それに注目していた。

「しかし、怪訝しいとは思いませんか?国力の差が歴然としたアメリカに対し、あれほどに牙を剥く北朝鮮の行動は、どう考えても理解し難いでしょう」

「確かに、自国民を餓死にまで追い込み、核開発を継続した銀恩正は気狂いだ」

「そうです、気狂いの三代目、それが世界の彼に対する評価です。しかし、本当に彼は気狂いなのでしょうか?本当に愚かな三代目なのでしょうか」

「総理、いったい何が・・・」

「彼はその年齢、若さの所為で愚かな気狂いと評価されていますが、私はそうは思いません。何かが、あるのです」

ドランプが強硬に北朝鮮を叩き始めた事に対し、北朝鮮は、真に狂人の如く核実験、ミサイル実験を続けた。どれほど楚金平やロシアのクーチン大統領が諌めても、恩正は一切、それに耳を傾けることなく猪突猛進を続ける。決して勝てる見込みの無い、世界最強の軍事大国に戦いを挑む、その姿は、第三国からみればドン・キホーテの行いであり、太陽に闘いを挑み焼け死んだ、あの蜂の武蔵の様なものである。

「私は、彼を見ていると、桶狭間以前の信長を連想してしまうのです」

「尾張のうつけ・・・そう呼ばれていた頃の、織田信長のことでしょうか」

「ええ」

織田信長は子供の頃から放蕩無頼を続け、終には「尾張の大うつけ」と近隣諸国から評されるようになった。しかし、それは信長による印象操作であり、彼は愚か者を装う事で近隣の実力者の目を欺き、油断させ、桶狭間で見事今川義元を打ち取ってから天下人への道を歩んでゆく。

「中国の意を汲むなら、これまでの様にギリギリの線でアメリカと敵対関係を続けるべきでした。しかし、恩正は楚金平の命令をものともせず、アメリカに挑みかかった。彼のこの無謀な行動の裏を考えてみてください」

「無謀な行動の裏・・・」

スターリンに見いだされた初代金成日から始まり、親子三代、北朝鮮は共産主義の最前線で資本主義と対峙して来た。つまり、ロシアや中国などの共産主義国にとって銀一族の存在意義は、緩衝地帯の雄として資本主義と対峙、敵対していてくれる事なのである。この役割を担った事により、農地は痩せ、経済はどん底にまで落ち込み、絶え間なく餓死者が出る程に人民は疲弊した。

「こんな国を継ぐ事を、選択肢の無い結果として与えられた恩正、彼の胸中を考えると、私なら、死にたくなりますよ」

安武は机に置いていた両腕を胸の前で組み、沈痛な面持ちで下を向く。

「彼は、世界が感じている様な狂人でもなければ、うつけでもない。あの若さにして彼は、信長を凌駕するほどの智勇の将だと、私は認識しています」

安武の発言に、山田以外、全員が凍り付いた様に彼の次の言葉を待った。

「恩正は祖父の代から受け継いだ役割を全部、捨てる積りなのではないでしょうか」

「役割と云うと、緩衝地帯としての役割の事でしょうか」

「そうです」

「狂人を装い、核でアメリカを挑発し、ドランプと云う人間の性格を利用し、アメリカを交渉の場に引きずり出す。ここで核兵器を手ばなす代わりに、在韓米軍を撤退させれば、長きに渡り緩衝地帯として苦しんで来た北朝鮮は、その役割を返上出来る、それが、恩正の本当の深慮遠謀ではないでしょうか」

「総理、その事と、この生物兵器は矢張り・・・」

「朝鮮と云う緩衝地帯が無くなれば、最前線はこの日本!」

安武は大きく目を見開き、組んでいた両腕で机を叩く様に立ち上がった。

「だから、これまでの概念とは真逆の、遅効性の生物兵器を、彼はこの日本に投入して来たのでしょう。ドランプ大統領にもそして私にも、任期と云うものが有る、それは民主主義国家であるからには当然の事です」

「任期、それはつまり」

「そうです、在韓米軍が撤退し、緩衝地帯が日本に移れば、次のターゲットは日本の米軍基地。彼は我々の任期が終わるまでに、徹底した工作を仕掛けてくる。尖閣諸島、沖縄、竹島、この国の野党政治家、オールドメディア、更にはアンダーグラウンドのヤクザ社会にまで工作を仕掛け、憲法改正を阻み、改憲の出来ないまま我々の任期が終われば・・・最早、我々は勝機を失います」

「な、なんていう事だ・・・すると、現在進行している、少子化による働き手不足を解消するための、移民の受け入も・・・」

「その時になって、このSSPEウイルスで、日本国民が壊滅的な減少をすれば、もはや、この国は、滅亡する」

「遅かった。あの時、惠ちゃんの意見を聞いて、詳細に知らべていれば・・・」

苦渋の顔でそう言いながら拳を握りしめる宏太と優樹に、突然安武が叱咤の声を上げる。

「馬鹿もん!!私は君たちに後悔をさせる為にここに来たんじゃない!」

どんな場合に於いても、温厚を絵に描いたような人物が、この安武晋三と云う男である。その彼が、怒髪冠を衝く勢いで、不退転の叱咤を山田以下に浴びせ掛けた。

「我が国はこれから、全力でこのSSPEウイルスのワクチンの開発、治療法の発見に掛かる!高橋君!」

「はっ、はいっ!」

「君は医療機器メーカーから販売されるすべての注射器の処理に当たってくれ、中国から密輸される注射器も全てだ」

「了解しました!」

「これより当分、覚醒剤使用に関わる被疑者は無期限で拘留、隔離をする様に法務省には伝達してある。山田君!大谷君!清水君!」

「はいっ!」

名前を呼ばれ立ち上がった三人を、安武は暫く正視した。

「君たちには、命令ではなく、頼みがある」

「総理・・・」

「君たちがどれ程に高い志の元、この国の為に働いて来てくれたか、それは十分に理解している積りだ、しかし・・・」

「憲法、9条、ですね」

「済まない、改憲を出来ないのは私の責任だと十分に理解している。だからこれは、総理大臣としてではなく、個人的な頼みだ、君たちは、自衛官を退官してはくれまいか」

「また、あれをやれと云う事ですか」

「そうだ。君たちの戸籍、身分証明、あらゆる君たちの存在根拠を、一時、抹消させてもらう」

「あれと云うのは、諜報活動を、やれという事ですか」

あれと言った山田の言葉に含まれる謎を手繰る様に優樹が安武に質問する。

「そうだ、超法規的措置による、スパイ任務、安樂栄治と金城修三の確保、そして、ウィルスに関する情報の収集、我々はなんとしても、ワクチンの情報が欲しいのだ、やってくれるかね」

「もちろんです、総理、僕らはこの国の為に命を捧げています」

優樹がそう返事をした瞬間、山田が安武に対して口を開いた。

「お待ちください総理、この任務を引き受けるには条件が有ります、聞いていただけますか」

「いいでしょう、山田君、出来る限りの事はさせて頂きます」

「清水と大谷は、自衛隊に残してください」

「隊長!」

「い、嫌ですよ隊長!」

二人に視線を向けそう言った山田の言葉に、宏太も勇樹も大声で異論を唱える。

「清水!大谷!これは命令だ!」

「嫌だ!隊長、それだけは、それだけは従がえません」

「そうです、我々は、隊長に着いて行きます!」

「おいおい、お前ら、山田の話を最後まで聞け」

そう言いながら遅れて会議室に入って来たのは牧田秀夫だった。

「秀さん!」

「ひ!秀さん!何でここに!」

宏太も優樹も、そして高橋までもが口を揃えてそう言う。

「遅かったじゃないか、秀さん」

「晋っちゃん、すまねぇ、道に迷ってた、つか、迷ってたのはゆきずりの婆さんだけどな」

「あはは、秀さんらしいですね」

この会議室に牧田が現れただけでなく、牧田が時の首相、安武晋三と旧知であるかの様に会話をした事に宏太と優樹が驚愕する。

「ひ、秀さん、そ、総理、これはいったい、どういう事なんですか」

「私はね、政治家になる前、神戸製鋼加古川製鉄所に勤務していましてね、その頃に彼とは知り合ったのですよ、ねぇ秀さん」

「あぁ、親父に頼まれてバーベキュー用の肉を志方に買いに行った時、金持ちのボンボンの癖に、ショボい肉を更に値切って、店員を困らせてた悪い奴なんだよ、この晋ちゃんは」

「いやいや、秀さん、金銭感覚は大切な事ですよ、誰とは言いませんが、取材の記者にカップ麺の値段を聞かれて、ひとつ千円なんて回答をした元総理大臣は、困りものですからね」

「あはは、まぁ、それは違ぇねぇや」

牧田が軽い笑いで場を和ませると、次に口を開いたのは山田だった。

「俺が以前、今回と同じ潜入をしていた事はお前らも知っているだろう。あの時の俺は警察官だったんだ」

「ええ!」

「なるほど、だからあの時」

高橋がそう漏らした。

「あの時って?」

優樹は高橋のその呟きに対し質問をする。

「怪しげな韓国領事館車両を見つけた時だよ、堀尾って明石警察の刑事が俺たちを自衛隊だと見抜いた、それが不思議だったんですが、顔見知りだった訳ですね、隊長」

「そうだ。俺は当時、内閣官房長官だった安武さんの意を受け、安武さんが心を砕いていた、北朝鮮による日本人拉致問題を解決する為の潜入を引き受けていた。しかし、潜入があの堀尾の密告で北に暴露てな」

「あの時は、本当に申し訳ない事をした」

そう言って頭を下げる安武に山田は黙礼をして話を続ける。

「あの時も、今回と同じ、個人的な存在根拠を全て抹消しての任務だった。故に国家も、安武さんですら、俺に救出の手を差し伸べる事が出来なかったんだ」

「最早、万事休すと思った時、私はこの秀さんの事を思い出したのです」

安武からの連絡を受け、二つ返事で牧田は独り、山田の救出に海へと出た。勿論、その当時、牧田は山田と云う人間を全く知らない。にも拘らず、

「ちぇっ、めんどくせーなぁ、もう、まぁ、でもよ、晋ちゃが頼むんなら仕方ねぇ、俺に任せとけ」

殆ど生きては帰れないだろうその頼みを、見ず知らずの男を命懸けで助ける理由を、たったのそれだけの事で請け負う。自分が信じた友人の為なら、どんな危険も顧みない。牧田はそう云う男だった。牧田は今まさに海に沈められようとしていた山田をその剛腕で難なく救出、船を北の軍人数名共々、海の藻屑と化し、人知れず海底に沈め、事件は暴力団の密輸事件として処理された。

「あの時、牧田が来なければ、俺は死んでいた」

「あーーっはっはっはっ、山田!思い出したか!俺様はお前の命の恩人だ!もっと敬え!もっと奉れ!」

ばっちこーーーん

「うるっせえーーわ、総理の前だぞ、このゴリラーマン!」

「おいっ!それが命の恩人に対する態度か!」

「やかましい!すみません総理、しかし、清水と大谷を、私の様な目に遭わせるわけにはいかない。清水にも大谷にも、この二人を思い遣る、大切な家族が居る。この二人は自衛隊に残して下さい、そして、私の後方で、出来る範囲で、私の援護をさせて下さい、それがこの任務を引き受ける、私の条件です」

「隊長、僕は、自分を育ててくれた家族を、大切に思っています。でも、それ以上に、僕を、そして僕の父、母を育み、命をつないでく来てくれた、この大地を、この祖国、日本を、大切に思っています」

「大谷・・・」

「僕は、そんな祖国、大切な日本を守りたい。そう思って自衛隊に入隊しました。この国を守る事、それは、延いては自分の家族の未来を守る事です」

「・・・」

「硫黄島で戦った人たちは、殆どが非戦闘員でした。学校の先生や、会社に勤める、普通の人々が、本土の家族の為に、或いは、まるで血の繋がらない、顔も知らない日本人の為に、あの米軍を震撼させるほどの戦いをしました。僕は、そんな、尊い命を犠牲にして戦った、硫黄島の英霊たちに、胸を張って言いたい、彼方たちの死は、決して無駄ではなかったと。だから隊長、お願いします!僕も連れて行って下さい!」

「いいぜ、連れて行ってやるよ、優樹」

しかし、そう言ったのは牧田だった。

「おい!牧田!」

「山田、ここまで言うんだから連れて行ってやれよ、その代り」

「その代り?」

「めんどくせーけどよ、俺も一緒に行ってやらぁ」

「ま、牧田、本気か」

「但し、お前の部下にはならねぇからな、俺は、何処まで行っても俺、牧田秀夫だ」

「ありがとう、秀さん、山田君、清水君、大谷君、君たちの行動は、私がこの命を懸けてバックアップする、喩えこの命に代えても、君たちを死なせはしない」

男たちの決意を前に、万感胸に迫る安武が涙を流しそう言う。

「さて、話が決まったところで、作戦会議と行きますか」

高橋の言葉に全員の視線が彼に向く。

「プランは有るのか、高橋」

「ええ、考えが有ります」

            3

安樂栄治の組織を吸収した金城組は、本家を遥かに凌ぐ巨大なテロ組織となっていた。しかし、表向きの金城組は、行方をくらませている組長の金城修三と安樂栄治の二人きりで、組織としては完全に地下に潜っている。公安はその事実を掴んでいたが、組織の裏に北朝鮮が関与しているため、手出しが出来ない。更に、警察も、北朝鮮工作員の安樂栄治が若頭補佐に就任したため、北朝鮮の息が掛かった野党議員や、現職の警察官たちに阻まれ、組織をあぶりだすことが出来ずにいた。米朝首脳会談が終わり、戦争の危機は去ったかに見えた。野党、オールドメディアは平和ムードを煽り、戦争の危機から日本国民の目を遠ざけ、国民に真実を知らせようとしない。

「国民の皆さん、この日本国憲法、この平和憲法があるからこそ、我々の日本は、間違った戦争を起こすことなく、永世、平和を守ることが出来るのです」

その結果、護憲派は躍進、憲法改正は最早、そんな議論が有った事すら忘れ去られようとしていた。

「え?自衛隊?無理無理無理、給料安いんでしょ?絶対に無いわ」

「戦争?そんなのアメリカに任せとけばいいでしょ?」

「嫌ですね、何で俺が、こんな日本の為に戦争に行かなきゃならないの?」

「アメリカが居るから大丈夫ですよ、その為にアメリカに高い金払ってんだから」

「つか、行くなら高齢者でしょ?あの人たち、税金使うばっかりで、何の役にも立たないんだから」

「そうそう、戦争に行かせるならお年寄りを行かせたらいいんじゃね」


           美月

「イーミツキ、ミクダ」(美月、入れ)

「イェ」(はい)

そう言われ、美月は室内に入った。室内はいたる所、コンビニの袋に詰め込まれたゴミが散乱していて、それが発する異臭に美月は顔をしかめる。

「イーパイギャネー」(分かってるな)

「クデェ、オンマ―」(はい、ママ)

そう答えると、美月は部屋の隅に置かれた段ボール箱の中に入る。女はそれを確認すると、水道水を汲んだペットボトルと、残飯が詰め込まれたコンビニ袋を、美月が入った段ボール箱に向かって投げつけた

「ナレギィリュキョンミャンツゲェサー」(私を起こしたら殺すからな)

女が布団に潜り込むと、美月は細心の注意をはらい、音をたてないように袋を開き、中にある残飯を口に入れ、ペットボトルの水を飲んだ。食べ終わると美月は、また細心の注意をはらい、まだ残飯の残っているゴミ袋を閉じ、ペットボトルの蓋を閉め、そしてまだ痛みのある顔の傷を手で撫でる。それは昨日、外に出される時、靴を履くのをしくじって、オンマ―に灰皿で叩かれた傷だ。

入る時は叩かれなくて良かったと美月は思う。トイレの横に置かれている、昔のお父さんが買ってくれた、大きな熊のぬいぐるみが入っていた段ボール箱の中だけが、美月のこの世界に於ける唯一の居場所だった。

美月は段ボール箱の中から台所の窓を見上げた。昨日まで山積みだったゴミが崩れ落ちたのだろう、ゴミが覆っていた筈の窓から、飴色の朝の光が漏れていた。随分と太陽を見ていなかった。太陽を見たのは何時だったろう、そう美月は思う。

ここには、色々なお父さんが来る。お父さんの中には偶に優しい人も居て、捨てられてしまったけど、大きなクマのぬいぐるみを買ってくれたお父さんや、外の公園に連れて行ってくれたり、日本語を教えてくれたお父さんも中には居た。

・・・また、優しいお父さん、来ないかな・・・

美月は悲しい気持ちになり、そっと女の様子を窺い見る。テーブルの上には使用済みの注射器が何本も散乱していて、女が宝物の様に大切にする透明な袋に入った白い粉はもう無くなっていた。女の寝息は随分と深くなっていて、美月は少しそれに安心する。白い粉が無い時、女は少々の事では起きて来ない事を美月は知っていたからだ。

・・・昨日のお父さん、また来るのかなぁ、嫌だなぁ・・・

昨日のお父さんの事が美月は嫌いだった。最近、頻繁に来る様になったこのお父さんは、裸のお母さんを虐めているところを美月に見せようとする人だった。そしてお母さんに向ける目と同じ目で、美月を見て来る。一度、お母さんがトイレに行ったきり暫く戻らなかった時、昨日のお父さんに裸にされてお母さんと同じ様にされそうになって、戻ったお母さんが、お父さんではなく、美月を、それはもう、死んでしまうほど、酷く叩いた事があった。

美月がそんな事を思い出しながら、また、残飯の入った袋を開こうとしたその時だった。本当なら揺すっても起きない筈の女が、突然むくりと起き上がった。美月は驚いて段ボール箱の中で寝たふりをする。女は携帯電話を手に持ち、アドレスにある売人に、次から次へと電話を掛け始めた。

「オネレントゥニードキーゼムニミダ、ツゥグミナド、ヤッグゥズゥデェヨ」

(今日はお金がないんだけど、少しだけ、ツケで薬を分けて)

女の要求はしかし、売人から悉く断られている様で、終にアドレスの売人を網羅してしまった女は、昨日の男の所に電話を掛けた。

「きょのよるぅ、もういっかい、これる、あなた」

女は片言の日本語で電話の向こうに居る昨日の男と話し始めた。

「そんなこと言わない、あなた、もいちど、きょう、くる」

「いいよ、みつき、さわてもいい」

「え、なに、犬?ビデオ?、あなた、それ、お金になる?」

「クスリ、いぱい、いいよ、わたし、それなら、怒らない」


             2

「こんばんわ、遼太くん、どうだい、研修は楽しかったかい」

安樂は椅子に腰かけ、懐から取り出した鉄鞭をゆらゆらと揺らす。

「叔父貴、質問をしてもいいですか」

「いいよ、なんだい」

「浚った子供たちは、どうなるんですか」

安樂は自分の向かいにある椅子を指さし、遼太にそこに腰かけるよう促した。

「遼太くん、この世が差別で満ち溢れている事は、理解できるよね、僕らが浚って来る子供たちは、差別する側ではなく、差別される側の子供達だ」

安樂はポケットから取り出した煙草を遼太に勧め、自分もそれを咥え、筒先に火を点ける。

「僕が君を拾ったのは、君が共産主義を深く学んでいるからだ。さぁ、紙芝居を始めるよ。君は、この差別が蔓延する世界を見て、共産主義をどう思う」

安樂の指に挟まれた煙草を見ながら、遼太は自分の指先に挟まれた煙草の煙を深く吸い込む。刹那、遼太の視覚は色彩を失い、全ての物が、黒と白だけの世界になった。

「共産主義は、素晴らしい思想だと、思い、ます」

「そうだ。頭の良い人は頭を使い、力のある人は力を使い、一人が万人の為、万人が一人の為に働く社会。上も下も無く、皆が平等に、差別も搾取も受けることの無い社会。それが理想の共産主義国家の在り方だ。そんな国に、浚った子供たちは行く。君は、それをどう思う」

「きっと、子供たちは、幸せだと、思い、ます」

鉄鞭がゆらゆらと揺れ、煙がゆらゆらと揺蕩る。

「宗教も、言葉の違いも、肌の色も、文化も、何も関係ない。思い遣りと優しさと愛に満ちた世界がこの国の北に在る。遼太くん、さぁ、救っておいで、不幸の中で泣く子供達を」

「はい」

遼太は安樂の言葉に返事をすると顔を上げた。そこには安樂ではなく、蟷螂が居た。遼太は別段驚かなかった、否、あの煙草の煙の所為で、驚けなかったのだろう。無表情のまま蟷螂に背を向けた遼太が見たのは、鉄格子の中に閉じ込められた数人の子供たちの姿だった。

「この子達も、教育が終わったら、然るべき場所に移され、幸せになる」

「叔父貴」

「なんだい」

「加藤さんは叔父貴を神様だといいました。なんとなくそれが今、解かった気がします」

「そうかい、それは良かった」

「叔父貴、行ってきます。あの子を、救いに」

「良い事だ。遼太くん、頑張るんだよ。その子を救い出したら、この地図にある場所に来るといい、君が長い時間、疑問に思っていた事の答えが、そこに有る」

遼太は手渡された封筒を開けることなく内ポケットにしまい、無言で蟷螂に対し首を縦に振った。大きな鎌を振って自分を見送る蟷螂を背に、遼太は黒い森に出た。漆黒と淡黒で描かれた様な夜の森を、遼太は来た道に歩を進める。あの日の夜の黄色い点滅信号に照らされた黄色いリンゴを思い出してみた。しかし、どんなに思い出そうとしても、あの黄色を思い出せない。赤く瑞々しい筈のリンゴは、もはや黒ずんだ黄色でさえ無く、彩を失い、遼太はただ、黒の濃淡だけのリンゴを頭の中に見ていた。

「俺は、なんの為に生まれ、何の為にここに居るんだろう」

その答えが・・・

遼太は胸元の封筒に衣服の上から触れ、しかし、それを取り出す事なくあの少女が住む町へと歩き出した。


             3

女は電話を切ると立ち上がり、美月が入っている段ボール箱に近付いてくる。美月は必死で眠ったふりをする。もし起きていると気づかれたら、また酷く叩かれるかもしれない。一切の感情を殺し、気配を消して寝たふりをする美月を女は見下ろし、そして言った。

「ナイキイョンタエ」

(私の可愛い娘)

「タニシィネイネイポムヨ」

(あなたは私の宝物よ)

美月は自分の耳を疑った。そんな事を、今迄一度たりともこの母から言われた事が無かったからだ。思わず瞼がピクリとし、それに気付いた女は美月に話し掛ける。

「オ、ヒロネンヘッザァヨ」

(あら、起きていたの)

「オ・・・オンマァ」

(お、お母さん)

「ピンツェペェイヨ、ピィアァ、パイピィシヨ」

(いいのよ、さぁ、眠りなさい)

「イェ」

(はい)

美月はその言葉を信じてはいけない事を知っている。今まで、何度も何度も、女は自分を裏切り続けて来た。信じてはいけない。

「ナイキイョンタエ」

(私の可愛い娘)

「タニシィネイネイポムヨ」

(あなたは私の宝物よ)

信じてはいけないと思うのに、美月はその言葉を何度も頭の中で反芻しながら眼を閉じていた。青天の空に雲が掛かると、窓から差し込む日差しが陰る。何度となく、日差しが陰るのを、気に留めるともなく感じていた。やがて強い西日が燃え尽きて、窓の外は橙から紫に傾いていく。騒々しい雀の羽音も消え、何処かの犬がひとつ遠吠えをした。携帯が鳴る。饐えた匂いの布団を足で蹴り、女は食らいつく様に電話を耳にした。

「あなた、これる、よかた、なんじ、これる」

ガゼルの子供を喰うライオンの周りに屯し、下卑た涎をたらすハイエナの様な目で、女は質問を続けた。

「それだめね、10グラム、それでないとだめね」

「・・・・・!!」

「そんなこと言わないね、わかた、何グラムある」

「・・・、・・・」

「いいよ、たいじょうぶ、美月、好きにする、でも、いっかい、5グラムね」

「・・、・・・・、・・」

美月は自分の名前を口にした女を見て、今から自分の身の上に何が起こるかをおぼろげに理解した。怖いと思う自分が胸の奥に吸い込まれ、自分は人形であると認識した。何が有ろうと、怖がりもしない、痛みも感じない人形なのだと。美月が生きるのに、希望と云う感情は邪魔でしかなかった。期待しては駄目だ。希望は悲しみだけを連れて来る。

私は、お人形

私は、お人形

怖がらないお人形

  痛がらないお人形

   ずっと笑ったままのお人形

  声を出さないお人形

 大きくならない

   大人にならない

お人形

遠くの街灯から入る光が一瞬遮られた。人が近づいて来たからだ。窓の外を人影が過ると、ドアが二回、ノックされた。

 私はお人形

   怖がらない

  痛がらない

 ずっと、笑ったままのお人形


              4

単線の寂れた線路沿いを遼太は歩いていた。もう、この先数百メートルで、あの少女が住むアパートがある。遼太は立ち止まり、その先の暗闇へと目を凝らした。加藤達が駐車させていた盗難車両が消えている。アパートの東西南北に、人の気配を感じる。人数は少ない、三人か、四人か。しかし、間違いなく、その気配の主が警察だと涼太は確信した。加藤達の計画より、警察の行動が早すぎたのだ。

しばらくすると、あの少女が住む部屋の前に男が立った。男は、ドーベルマンだろうか、大型の犬を連れていた。ノックが二回。中からあの女が現れ、男から何かを受け取ると部屋を出る。それと入れ替わりに男と犬が部屋に入った。女がアパートから離れ歩いて行く。その後を追って警察が動く。アパートに残った気配は1人。涼太はその気配に背後から忍び寄る。矢張り、残った警官はひとりだった。

犬が何かを威嚇する様に唸り声をあげている。少女の悲鳴を押し殺した様な喘ぎ声。男の嘲笑とも憫笑とも覚束ぬ含み笑いさえその警官の位置からは聞き取れた。警官の指先がホルスターのスナップを外す。遼太は警官の指先の行方を見守る。しかし、警官の指先は、そこで凍り付いたまま動かなくなってしまった。

遼太は背後から左手で警官の口を塞ぎ、右手で5インチのバタフライナイフを慣れた手つきで開く。そしてそれを警官の鼻先にかざし、耳元でささやいた。

「静かにしろ」

警官は遼太の言葉に従い、四肢の力を緩める。警官の口から左手を離し、それをそのまま頸に回した遼太は更に警官を問い詰める。

「何故、拳銃を抜かない」

「じ、上司に、た、待機していろと、命令を受けている」

「目の前で子供が殺されそうだというのにか」

「上司の命令は絶対だ、それに、拳銃を抜けば、色々と面倒な事になる」

「面倒な事?」

「拳銃を抜いて、罷り間違って発砲なんてしてみろ、今後の出世にも関わる」

「だから抜かないのか」

「当たり前だ、抜かずに済むなら、それに越したことはない」

遼太は左腕で警官の頸を締め付け、右手のバタフライナイフで警官の頬を抉った。

「オゴゥウァァー」

警官が頬の痛みに怯んだ隙に、遼太はスナップが外されていたホルスターから拳銃を抜き取り、その銃口を警官の後頭部に充てがう。

「お前らは、自分の頭で考える事をしないのか?市民を守る職責を果たさない奴がどうしてこんな物を腰にぶら下げてる必要がある」

「ま、待て、待ってくれ、警官にだって家族がいるんだ、む、娘が生まれたばかりなんだ、か、勘弁してくれ」

遼太は一旦外した安全装置を元に戻し、トリガーから指を抜き、グリップで思い切り警官の後頭部を殴打する。

「グッ、グフッ」

「家族、か・・・」

前のめりに倒れた警官を一暼し、遼太はアパートのドアノブを回し中に入った。男は部屋に入るなり、予め薬剤を入れた注射器を自分の腕に突き立て、ピストンを押す。瞳孔がこの上なく開き、男は狂人の笑みを浮かべて美月に近づく。

「大丈夫、怖がらなくていい、ほら、こうして口輪を着けたら噛めないからね」

男は仕切りと美月に話しかけるが、美月は口元に微笑みを湛え遠くを見ているだけだ。

「ほら、怪我をしないように、こいつの前足に、靴下を履かせるよ、ね、もう怖くないだろう」

「・・・」

「さぁ、どんな顔を見せてくれるのかなぁ、おじさん、楽しみだなぁ」

男はその様にした犬を、ジワリ、ジワリと美月に嗾ける。犬は唸り声をあげて美月にのしかかり、やがて美月を組み伏せる型になった。美月は依然として微笑みを湛えている、しかし、その小さな口元は恐怖に耐えかね、押し殺した喘ぎが漏れる

・・・私は、お人形・・・

・・・痛くない、怖くない・・・

ボムッ

「ギャイン」

サイレンサー代わりに被せたクッションの中からくぐもった拳銃の発射音がすると同時に、犬はこめかみを撃ち抜かれ脳漿を撒き散らした。

「だ、誰だ!」

犬を嗾ける事に夢中になり、男は遼太の侵入に全く気づかないまま、犬を殺され、更に背後を取られる。遼太は拳銃の入っているクッションを今度は男のこめかみに充てがう。

「お前の様な奴がいるから、日本は、従軍慰安や南京大虐殺なんて、ありもしない、ねつ造された歴史を他国に押し付けられるんだろうな」

「お、おい、やめろ、これをやるから、早まるな」

男は懐から致死量の十数倍の量の覚せい剤をつかみ出し、遼太に渡そうとする。

「覚せい剤がそんなに好きか」

遼太は男から受け取った覚せい剤を乱暴に開封し、それを男の口に押し込んだ。

「冥土の土産だ、好きなだけ食え」

ボムッ

「ウガァッ」

覚せい剤の所為なのか、頭を打ち抜かれて尚、男は暫く動いていた。犬と男の血に染まった床に立つ遼太は、もう既に正気に戻っている。

「美月、もう大丈夫だよ」

凄惨な殺人現場を、それでも薄ら笑いを浮かべたまま凝視する美月に遼太は話しかける。

「迎えに来るのが遅くなってごめんね」

遼太は血に染まる床に膝をつき、美月に手を差し伸べる。

「怖がらなくていい、僕は君のパパだ」

何故、自分が美月の父親だと名乗ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ目の前のこの子に掛ける言葉が見つからなかったからかもしれない。

「本当に、本当に、美月のパパなの」

「そう、今までのお父さんとは違う、本当のパパだ」

「いつまで、いつまでパパなの」

「ずっとだよ、これからは、パパと一緒に暮らそう」

そんなつもりは微塵もなかった筈なのに、遼太は何かに憑かれた様に、そう美月に告げる。

「パパ!パパ!うわぁぁん」

美月は大粒の涙を流しながら、溺れる者の様に涼太にしがみついた。


・・・こんな子供達が、この世界には・・・たくさん居る・・・


              5

「ちょっとすみません、鄭さん、ですね」

急ぎ足で線路沿いを歩く女の背後から警察官二人が声を掛けた瞬間、女は自分のアパートに向かい一目散に走り出した。

「ま、待て!」

女は走りながら手に持っていた物を道端の側溝に投げ捨てる。警察官二人は立ち止まりそれを拾い上げた。

「覚醒剤だ!やはり、持っていやがった、確保だ」

警官二人が再び立ち上がると、女はもうアパートの敷地内に辿り着いている。だが、確実に異変に気付き、女の確保に飛び出してくるはずの待機させていたもう一人の警官が出て来ない。警官二人は焦りを覚え女を追って走り出す。女は室内に逃げ込み鍵を掛けた。遼太が突然なだれ込んで来た女に銃口を向けると、美月は遼太が握る拳銃に自分の手を添える。

「み・・・美月・・・」

遼太は、まるで月を仰ぎ見た狼男の様に変貌していく美月を呆然と見る。

「おい!鄭!ここを開けろ!もう逃げられないぞ!」

戸外から投げかけられる警官の怒声の中、美月の人形の様な童顔が見る見る歪んで行く。

「イーミツキ!チェバイ!トワチュセヨ!」

(お願い、美月、助けて)

簡易な作りのアパートの入り口を、終に警官二人が蹴破った。

ドガァァァ!

「鄭、もう逃げられんぞ!大人しく・・・」

ボムッ ボムッ

遼太は進入して来た警官二人に銃口を向け、美月の指の上から自分の指を重ね、続けて二回トリガーを引く。至近距離から胸を撃ち抜かれた警官は、最早、物言わぬ人となった。背後の二人が血に染まり、女はそれを見てニヤリと笑う。

「イーミツキ、チャニゾ」

(美月、よくやった)

女がそう美月に微笑みかけた瞬間、遼太の意思ではない力が、怒りと憎しみに満ちた悲しい握力が、拳銃のグリップに、撃鉄に、そして、トリガーに伝わる。

「ナイキイョンタエ」

(私の可愛い娘)

ボムッ

その小さな手の握力から繰り出されたくぐもった銃声と共に、遼太は美月を見下ろす。幼児の輪郭の中に、確かに遼太は、成人女性の顔が浮かんでいるのを見た。


「こ、こんな・・・」

ハイランダー症候群。報告されている例が極めて少数である為、謎の奇病とされている病気で、その存在は医学的に架空であるとさえ言われている不老不死になる病。しかし生物学的に見た時、生き残るために「幼い時期を長くする」そういう戦術が、生き物の中には在る。これがネオテニーと呼ばれている現象だ。寿命の長い生き物ほどこのネオテニーが強く見られるのである。

例えば、人間の乳児が成長するまでに、ほかの動物より時間がかかるのはこれの所為だ。親に保護される時間を延ばすことで、脳の成長する時間を稼いでいると言われている。ハイランダー症候群は、このネオテニーが、特別強力に発生した場合という可能性も考えられと云う、報告もある。

遼太と美月以外の呼吸と体温が途絶えた。美月の手に籠められた頑なな力が次第に抜け、銃口はゆっくりと床に向かい傾いてゆく。

「ナイキイョンタエ」

(私の可愛い娘)

美月は女が話した末期の言葉を、鸚鵡返しにポツリと言った。遼太は拳銃のサムピースを手前に引き、シリンダーを左に出した。硝煙の匂いがする五発の空薬莢を抜き取り、最後に残った実弾一発をポケットの入れた。

「パパ」

遼太を見上げる美月の顔から、さっき浮かび上がっていた成人女性の顔が消えていた。

「行こう」

「どこに行くの」

「神様が、神様の国に連れて行ってくれる」

「本当に?」

「あぁ、そこで、二人で暮らそう」

「うん」

遼太は美月の手を引き、血に染まった床を歩き、玄関から外に出た。警官の大声や、断末魔の叫びを聞いて集まった野次馬が、外巻きに集まり、遠くにはパトカーのサイレンも聞こえ始めていた。

「叔父貴、想定外です、どうしましょう」

「仕方ない、回収して連れて来い」

「はい」

野次馬の壁の中から、爆発的なエキゾーストノートを響かせたランサーエボリューションが突然現れ、遼太と美月の前に停車する。

「乗れ」

運転席から加藤にそう促された遼太と美月が乗り込むと、ランサーは爆音と共に野次馬を蹴散らし、闇の中へと走り出す。

やがてランサーの暴力的なエキゾーストノートが途切れ、感じ続けていたGから解放されると、透過性の無いフィルムで完全に下界から遮断されている窓を、遼太は開いた。窓から差し込んで来たのは、明滅する黄色い信号の光と、むせ返る様な草の匂い。

「こ、ここは・・・」

「降りろ」

遼太はランサーから降り、地面を踏む。鬱蒼と茂る木々の間を貫く、曲りくねった3桁の県道。その県道と、県道が交差する地点にある、黄色い点滅信号。そこは紛れもなく、遼太が抜け出したあの匣がある場所だった。

「パパ・・・」

遼太に続き、車内で死んだ様に眠っていた美月が起き出し、遼太を追って車外に出る。

「さぁ、叔父貴が待っている、歩け」

遼太は加藤にそう言われるが、まるで足が自分の足では無いかの様に震え、うまく歩けない。

「ちぇ、面倒くさい」

加藤は遼太に聴こえる程の声で独り言を言い、懐から取り出したシガーケースから煙草を一本取り出す。

「落ち着け遼太、さぁ」

加藤は取り出した煙草を遼太に勧め、ライターで、その震える唇に咥えられた煙草の筒先に火を着けてやる。アルカロイドの匂いが、草の匂いを圧倒し、やがて遼太の震えが止まる。

「落ち着いたか遼太、さぁ歩け」

赤茶けた鋼鉄製の階段に、大きな靴音と小さな靴音が響く。扉は既に開かれていた。室内からアルカロイドと金木犀の香りが入り混じった匂いがしている。

「ようこそ、僕らの故郷へ、ぷぷぷ」

壊滅した筈の大きな水槽は見事に復元されていて、澄んだ水の中を涼しげにグッピーが泳いでいる。その水槽にもたれかかる様にしてこちらを見ているのは、冷酷な小さい黒目をこちらに向けた緑の蟷螂だった。

「良い香りだろ、金木犀だ。俺はこの匂いが好きだ」

無数に置かれた香炉から、湧き上がる様に煙が揺蕩(たゆた)っている。蟷螂は大きな鎌を左に降って、そこにある椅子に腰掛けるよう、遼太と美月を促した 。金木犀の香りに包まれるアルカロイドが、遼太と美月の思考を、ジワリ、ジワリと奪って行く。

「どうだい、この香りを嗅いでいると、凪の海の様に、心が静まるだろ」

蟷螂が言う様に、遼太の心は今、凪の海に在った。見渡す限りの大海原に波はなく、どこまでもが静寂であり、星雲を遠く離れた暗黒の宇宙とは、もしかしたらこんな世界なのかと思わせる。

「これで、二度目だね、遼太君」

何も無いその場所で聴く蟷螂の声に方角は無かった。蟷螂の声は頭の中に直接入ってくる。

「ちょっと厄介な事になったけれど、二度目の人殺しはどうでしたか」

・・・そうだ、俺は、警官を二人と、シャブ中の男を一人、射殺した・・・そして、美月の母親も・・・

「シャブ中のあの変態男と母親は、殺されて当然の人間でしたけどね、どうでしょう、あの警官二人、彼等には当然、彼等の帰りを待つ家族が居る筈ですよね」

遼太は殺さなかった警官の言葉を思い出す。

{ま、待て、待ってくれ、警官にだって家族がいるんだ、む、娘が生まれたばかりなんだ、か、勘弁してくれ}

「大切な息子かも知れない、或いは、大切な主人、お父さんかも知れない。彼等を殺された家族は、遼太君の事を、どんな風に思っているだろうね」

「や、やめて下さい、叔父貴」

「やめて下さい?人を殺しておいて、それを君は無かった事にするつもりなのかい?」

「それは」

「それは、なんだい?人にはね、その人がそこに存在する為の過去、歴史がある。家族と暮らしてきた時間、積み重ねて来た大切な思い出、君はそれを、踏みにじったんだよ、彼等と、彼等の家族の歴史を、踏みにじった」

「や、やめろ!やめてくれ!」

「そして、この場所でも、君は、人を殺しましたね」

「あうぅぅぅ・・・」

「それは、君を育ててくれた人だったはず」

「おぁぁぁ・・・・」

「君は、自分の母親を、ここで、この場所で、殺したんだ」

「うぐぅ、うぐぅ・・・」

「この人殺し、この人殺し、この人殺し」

「うわぁぁぁぁーーーーー」

煙るアルカロイドの中、蟷螂は、いよいよ凶暴に、そしていよいよ冷酷に、遼太が犯した罪を炙り、その是非を問う。

「怒りに任せて自分の母親を殺し、罪の無い二人の警官を殺し、殺された人達は、草葉の陰で君の事をどう思っているだろうね。君はそんな事、僕に言われるまで、考えもしなかったろう。酷いね、君は本当に、酷い人間だ」

そこまで言うと蟷螂は遼太の元に歩み寄り、緑の鎌で遼太の顎をくいと押し上げた。

「あ・・・あ・・・あ・・・」

「大丈夫だよ、遼太くん、君は酷い人間だけど、君なんて、君の父や、祖父、そして僕に比べたら、可愛いもんだ。君はまだこうして、人を殺したことに罪悪感があるんだから」

「父・・・祖父・・・」

「知りたいかい、教えてやろう。君の父親は、自分の地位と権力を守る為だけに、我が世の春を追う為だけに、何百万、否、もはや、それ以上の人を殺し、その殺した人々の家族の人生を、今も狂わせ続ける、悪鬼、あの銀日正だ」

「う・・・うそ・・・うそだ・・・」

「この匣から現世に飛び出して、君は不思議に思った筈だ。何故、自分はあんな狭い匣に閉じ込められていたのか。何故自分は興味も無い共産主義思想を来る日も来る日も、叩き込まれていたか、どうだい?」

「うそだ、そんなの、うそだ・・・」

「それはね、君が、朝鮮民主主義人民共和国、あの銀日正の後継者だったからだ」

「あがぁぁぁぁーー!」

アルカロイドの効き目が境界線に達した。遼太の心は凪の海の様に静謐なのに、涙だけが、涙だけが、涙腺を破壊しそうなほどに溢れ出してくる。

「ほら、ちっとも悲しくないだろう、でも、君は泣いている。その涙が君の中の何を洗い流してくれると思う?」

「うぅぅ・・・うぅぅわぁぉぉおぉ・・・」

「罪悪感だよ。人殺しは今より次、次よりその次、どんどんと気持ちが楽になるんだ。君のお父さんも、お爺さんもそうだった。殺して、殺して、殺し続けるうちに、何も思わなくなり、最後には人の死を笑える様になる」

「いやだ、い、いやだ、そんなの、いや・・・」

「今更、何を言ってるの、もう、後戻りなんて出来ないんだよ、君は罪もない人を殺している、剰え、自分の母親を、ここで、この場所で、殺した人間なんだよ。君はお父さんの血を立派に引き継いでいるんだ。心配ない、差別される側から、差別する側に、君の居場所は、俺の居る、ここだ」

「やめろぉぉおぉ!やめてくれぇぇぇ!」

頭を抱え、前のめりにうずくまった遼太の絶叫が室内に響き渡ったその時、その絶叫に掻き消され、誰も気づかないところで美月に変化が訪れていた。アルカロイドの所為なのか、美月の中に棲んでいるもう一人の何者かが姿を現す。あの現場で遼太が拳銃から抜いた銃弾、それが前のめりになった遼太の胸ポケットから零れ落ちる。美月の中の何者かは、その銃弾を拾い上げると、それを、ひっそりと、香炉を焙る火の中にくべた。「さぁ、泣け、泣いて洗い流せ、罪の意識を、罪悪感を洗い流せ、君は人殺しだ、もう、何人でも、簡単に、殺せる」

人殺し・・・人殺し・・・人殺し・・・人殺し・・・

ズドォォォーーーーン!

安樂の洗脳で遼太の人格が崩壊し、遼太の精神は終に安楽の手に握られた。しかし、それと同時に、爆音を上げ銃弾がくべられた香炉が爆ぜる!

「うがぁぁぁーーー!」

爆ぜた香炉の破片が、横に座っていた加藤を襲い、暴発した銃弾は跳弾となって安樂の脇腹を撃ち抜いた。

「パパ!逃げるの!早く!」

千切れるかの勢いで遼太の耳を引き寄せえた美月の中のもう一人の美月が、大声で遼太に叫ぶ。遼太は殆ど本能的に、美月のその言葉に従がい、美月を連れて全速力で外に飛び出した。

「お、叔父貴!大丈夫ですか!」

「加藤!追え!絶対にあいつらを捕まえてこい!!」

しかし、顔面に破片を喰らった加藤は直ぐには動けず、遼太と美月は、黒い森の漆黒の中へ走り去って行った。


           それぞれの想い

「苦しまなかったのか・・・・」

「うん・・・」

「母ちゃん、ごめんな、間に合わなくて、ごめん・・・」

枕花には、惠が選んだ百合、カーネーション、蘭が添えられ、そこに横たわる辰子の顔は、清々しい程に安らかだった。

通夜の会場設営が始まり、大勢の、辰子が作る飯で育った、辰子の息子たちが参列の受付に次々と訪れる。通夜が開式されると、僧侶による読経の中、参列者はそれぞれの思いを込め、涙ながらに焼香した。通夜が閉式し通夜振る舞いでは、ある者は笑顔で、ある者は目に涙を蓄え、それぞれが、それぞれに、辰子との掛け替えのない思い出を語り合い、やがて弔問客は一人、二人と引いて行った。通夜会場は祭り

の後に似た静けさが訪れ、燈明の火を絶やすまいとその場に残ったのは、辰子からの、たっての願いで喪主を務めた惠、そして、山田、高橋、清水、大谷、牧田だけになっていた。

「惠、疲れたろ、ありがとな、後は俺が見てる、お前は少し寝ろ」

障子に凭れ掛かる惠を気遣う牧田だったが、牧田の顔もまた、色を失ったままだ。

「惠ちゃん、本当に、母ちゃんの店を継ぐのかい」

「うん、私はお母さんの、たったひとりの娘だからね」

極貧から、途方もない努力をして医師となった惠だったが、惠の医師を辞めると云う選択を山田は間違いだとは思わなかった。人には誰しも、幸せになる権利がある。それは、どんな酷い過去を背負った人間であっても、人は、誰でもが、幸せになるべきなのだ。

「牧田、お前は・・・」

「親父の行方も、安樂の行方も掴めねぇし、もう面倒臭ぇーや。惠が店を継ぐなら、俺はそうだな、暫くは、トラックでも買って、気楽に堅気でもするかな」

「そうか・・・まぁ、気が済むまでのんびりしろよ、俺たちは俺たちで動く、だが、連絡だけは取れる様にしておいてくれ」

「あぁ」


            2

「つまり、片山の両親が、お前を騙したって事か」

「結果的にはそうだけど、違う、そうじゃない」

「惠・・・」

「今まで、つながらなかった。部分的に偶然が重なったと思っていた。でも違う。これはあいつの、私に対する復讐。いや、私を通して、自分をこの世界に産み落とした、神に対する復讐かもしれない。ずっと続いていたんだ。宗司が生きていたのなら、全てはつながる。宗利は自殺じゃない。きっと、あいつに殺された筈。全部の絵を、この恐ろしいシナリオを描いたのは、あの安樂栄治に間違いない」

「惠・・・親父がな、安樂に打たれたらしい・・・」

「え!・・・そ、そんな・・・」

「親父は安樂の悪事を全部自分が被る積りだったんだろう。だから、自分の代わりに、俺に組を継がせたかった。だが、安樂は俺に組を継がせて、金城組に全部の責任を擦り付け、この国の極道を壊滅させる腹だったんだ」

「どうしてこの国の極道を壊滅させなければならないの」

「この国の極道は、他の国のマフィアとは違うからだ」

「極道と、マフィアの、違いって」

「この国の極道は、海口組三代目が築いた、任侠、弱い者を助け、強いものを挫くって信念がある。この国を武力ではなく、思想的に内側から支配するとしたら、この任侠ってのは、大きな壁になる」

・・・お俺に組を継がせる・・・そこで親父と安樂の利害が・・・一致していたのか・・・

「秀さん・・・」

「取り返しに行こう!惠!俺たちの家族を!」

「でも秀さん、美月はどうするの」

ベットの傍で、美月の寝顔を見下ろす惠がそう言った時だった。

「秀さん、どうです、容態は」

そう言って病室に入って来たのは、総理大臣、安武晋三その人だった。

「晋ちゃん、来てくれたのか、人目があるだろうによ、大丈夫か」

「大丈夫ですよ秀さん、ここは私の友人の病院だから」

そういって微笑む安武は、美月の傍らにいる惠に歩み寄った。

「初めまして神崎惠さん、内閣総理大臣の安武晋三です」

惠はそう言って自分に頭を下げる安武に別段、驚いた様子もなく小さくお辞儀をする。

「安武さん、でよろしいでしょうか」

「ええ」

「安武さん、彼方は今、総理大臣を名乗りましたが、今、ここに居る彼方は、日本の総理大臣、安武晋三なのでしょうか、それとも安武晋三と云う個人、人間として、私の前に立っているのでしょうか」

安武はその毅然とした惠を見て、納得した様に言う。

「なるほど、秀さんが惚れる訳だ」

「おい!晋ちゃん!何を言ってんだぁぁ!」

しかし惠は、そんな狼狽える牧田を後目に、森の梟の様な目で安武に質問をする。

「安武さん、安武さんは海上自衛隊、特別警備隊長、1等海佐の山田さんをご存知ですか」

「ええ、今日、ここにお呼びしています」

安武のその言葉を聞き、惠は殆ど、現時点での概要を理解した。

「惠さん、山田さんたちと話に入る前に、残念な事をお知らせをしなくてはなりません」

「まさか・・・片山総合病院に・・・」

安武は手に持った新聞の一面を惠に手渡す。その紙面には、予想通りの見出しが在った。

【片山総合病院、暴力団と癒着、覚醒剤乱用を幇助していた悪魔の病院】

「今すぐには出来ない、けれど、私は、この政治生命に掛けて、日本の偏向報道、捏造報道を先導する、この様なメディアを、断固、改革して見せます」

しかし惠は、そんな安武の言葉を、聞いてはいなかった。

・・・まただ・・・また私の所為で・・・

宗利の両親が今、どんな事になっているか、それは想像に難しくない。

「安武さん、片山夫妻は」

「現在、任意出頭を求められ、警察に居ます。車を用意しましょうか?」

「お願いします」

「晋ちゃん、あいつらを待たせて置いてくれ、俺も一緒に行ってくる」

安武はそれに頷き、直ぐにタクシーの手配をさせる。

「惠さん、片山のご両親は、管轄外の明石警察に居ます」

「何故、管轄外の警察に?」

「裏で安樂が動いているからでしょう。取り調べの担当は、あの堀尾です」

堀尾の名が安武の口から出ると、牧田の顔が矢張りと云う顔になる。

「便所虫は俺が黙らせてやる、晋ちゃん、あの話、頼んだぜ、行くぞ惠」

牧田は言うが早いか、もう病室を、飛び出して行く。

「惠さん、大丈夫、私の方からも手を回して置きます」

「ありがとう、安武さん」

安武が用意したタクシーに乗り込むと、牧田は直ぐさま堀尾に電話を掛ける。

「もしもし、堀尾か、俺だ」

「秀夫、悪いが今は取り調べ中だ、後にしてくれ」

「本当に後にしていいのか、お前の娘の事だぜ」

「秀夫、てめぇ、警察官の家族に手出ししてただで済むと思うなよ」

「ただとは言ってねぇ、ここに500万有る」

「本気か秀夫・・・いいぜ、それなら今日のところはあの二人を早めに帰してやるよ」

「そうじゃねぇ、堀尾」

「なんだ、どういう事だ」

「なぁ堀尾、てめぇもウダウダ言ってもよ、結局は娘を守るために働いている、そうだろ」

「ケッ!てめぇら極道に俺の何が分かる」

「分かるよ、俺にもな、そうやってでも守りたい家族が出来た、だからお前の気持ちも分かる」

「お前が家族?笑わせるぜ」

「茶化すな堀尾、お前の娘が受ける大学の話しだ。アメリカのとある大学に特別枠で、卒業まで国がサポートしてくれる様、手配出来るってよ。お前はこの500万と自分の有り金を全部持ってアメリカに行け。大切な娘の為にも、もう危ない橋を渡るのはやめろ」

「秀夫・・・」

「北に殺された自分の骸を娘に見せたいのか?もうすぐそっちに着く、考える時間はねぇぞ、分かったな堀尾」

牧田からの電話を切った堀尾は、再び取り調べ室へと入る。昌子に向けられている取り調べ室のカメラを背中で隠す様に背後に回った堀尾は、懐から煙草を取り出し、その筒先に古めかしいマッチで火を点けようとする。すると、堀尾が耳にしているインカムにバックヤードで取り調べを見ている他の刑事から苦言が入った。

「堀尾さん、弁護士からの依頼で取り調べを撮影しているのはご存知でしょ。煙草は控えて下さい、それから、カメラ、塞いでいますよ」

「うるせぇ!」

堀尾は同僚からの苦言に一喝して、インカムを取り外し床に叩きつける。

「片山さん」

「はい」

「喫煙はされますか」

「いえ、私は医師なので」

「まぁ、そう言わず、ここは禁煙ですが、ここから出たら、一服して下さい、マッチもね、オマケしときます」

堀尾はそう言うと、マッチ箱を半分開け、昌子に中を見せた後、煙草とマッチを昌子のポケットに押し込んだ。

「片山さん、俺はね、もう、この警察と云う所がうんざりなんですよ、ここは、魑魅魍魎の巣窟だ」

昌子はマッチ箱の中に、黒い小さな物体が入っている事に気付く。

「刑事さん・・・」

「後一年で定年なんですがね、今日限り、こんな所、辞めようと思います。今日は私の責任で、ご夫妻はお引き取り頂いて結構。外はマスコミがウヨウヨ居ますからね、裏口まで私が送ります、準備して下さい」

それだけを昌子に告げると、堀尾は取り調べ室から出た。それと同時にバックヤードから同僚二人が堀尾を追う様に飛び出してくる。

「堀尾さん、あんた何を考えてるんだ」

「うるせぇ!お前らこそ何を考えてこの仕事をしてる?警察に入る時、お前らはどんな気持ちで来た?少なくとも俺は、正義の味方になるつもりでここに入って、頑張って、頑張って、気が付いたらこの様だ。俺は今日限り刑事を辞める。あの二人は俺の最期の権限で釈放する、後はお前らの好きにしろ」

そう言い放った堀尾は、正面入り口へと向かう。そこには片山夫妻を追うオールドメディアが大挙して押し寄せている。堀尾は携帯を取り出し、着信履歴から牧田の名前を押す。

「秀夫、もう着くのか」

「後、二、三分って所だ」

「それなら、その辺をもう一回りして、10分ほど遅れて来い。正面入り口は記者で埋まってる。裏にあるパトカー用の出入り口を開けておくから、そこから入れ、そこに夫妻を連れて行く」

「堀尾、お前・・・」

「それから、嫁さんの方にある物を待たせている、それは俺からの、せめてもの償いだ、受け取れ」

タクシーが警察署に着く。高い門で普段は隠されているパトカー用の入り口が開いている。牧田と惠はその前でタクシーを待たせ、車から降りた。開いた門から中に入ると、黒いフィルムで窓を遮ったワゴン車が待機していて、その運転席から堀尾が降りて来た。

「お前らはダミーだ、こっちの車に乗れ、タクシーに夫妻を載せて逃がすんだ」

そう言って堀尾はワゴン車の後部座席の扉をスライドさせる。そこから降りて来た二人は、見るも無残に憔悴しきっていた。惠はそんな二人に声を掛ける事すらできない。呆然とする惠に替わって、牧田が二人をタクシーまで誘導する。

「自宅でいいかい」

「はい」

沈痛の面持ちでそう言った宗嗣を遮る様に昌子が牧田に問う。

「待って、神崎さんに話があるの」

「分った」

牧田は安武や山田たちが待つあの病院を行き先として運転手に伝え、自分は堀尾が待機させているワゴン車に戻る。

「行くぞ」

ワゴン車とタクシーは、正面、裏の両方から同時に発車した。巣を壊されたスズメバチの様に、マスコミが黒いワゴン車に集る。しかし堀尾は慣れたハンドルさばきで黒集るマスコミを躱し国道へと走り出す。その隙にタクシーは裏道から上手く街の喧騒に溶け込んで行った。

「堀尾、何処へ向かう」

「後ろを見てみろ」

堀尾は牧田のそれに答えずそう指図する。二人がテールガラスに目を向けると、3台の大型バイクがこの車を追跡している事に気付く。

「留置所の空きがなくて加西署に預けていた被疑者をな、空きが出来たから連れて来て貰った。その護送車がこれだ、こいつを今から加西署まで返しに行く」

「加西か、それなら撒けるな」

「否、あいつらは執拗だ。加西署まで付いてくるだろう。加西署から歩いて2分のところにコンビニがある、そこにタクシーを呼んで置くから、お前らはそれで帰れ」

そう言うと堀尾は手錠を二つ牧田に放り投げる。

「なんだこれは?」

「車から降りる時は手錠をしてろ、そうすればあいつらは、お前らを別の事件の被疑者だと思い、追跡を諦めるだろう。署に入ったら外してやる、コンビニまでの2分だけは充分注意しろ」

「堀尾」

牧田は堀尾の名を呼んで厚みのある封筒を堀尾に手渡そうとした。

「それは受け取れねぇ、余りにも額が大き過ぎる。お前、それ、事業資金だろ、運送会社を始めるんだよな」

「ケッ、何でもお見通しだな」

「報酬は娘の大学の件で充分だ、あいつは俺に似て頭が悪くてな、正直、困り果てていた」

堀尾は娘を詰りながら、しかし、珍しく爽やかな笑顔をルームミラーに写している。親が子を思い遣る心は、毅然としてそこにある。子に伝わろううとも、、伝わらなくとも、その心があれば、堀尾の人生はその一点に於いて、幸せを取り戻せると牧田は思う。


・・・え?・・・お父さん?・・・全然興味ない・・・ウザい・・・大嫌い・・・

・・・・お金を持って帰って来るだけの人だよ、あんなの・・・


「どうやら諦めて帰ったようだな、さぁ、手錠、外すぞ」

堀尾は牧田と惠の手錠を外し、裏口から二人を外に出す。

「もうコンビニにタクシーが着いている、行け」

「堀尾、お前も直ぐに日本を」

「分ってるよ、秀夫、達者でな」

「堀尾さん、ありがとうございました」

「礼を言われる筋合いはねぇ、俺は利害だけで動く、人間のクズだ」


・・・クズよ、あの男は人間のクズ・・・なんであんな男と結婚したのかしら・・・

・・・ねぇ、慰めて・・・ほら、今日は少し多くあげるから・・・いいのよ・・・どうせ汚い金なんだから・・・


牧田と惠を送り出すと、堀尾はその足で署長室に向かう。ここの署は最近、新しく移転して随分と綺麗になった。しかし、警察署と云う所は、古くても、新しくても、同じ匂いのする場所だ。閉塞されたこの空間に漂うのは、人の怨念、恨み、働く人間の苦悩、ストレス、そんなものがひとつの、一種独特の匂いとなって、建物の中に充満している。

階段を上りながら堀尾は警察手帳と拳銃を懐から取り出す。自分の人生は、これに縛られ、しかし、これを飯のタネに生きて来た。堀尾はそれを見て、つくづく、この世界に正義など無いのだと思う。

警察が証拠を固め犯人を逮捕すれば、検察は、それがどんなに汚い手で固められた証拠であれ、譬え捏造された嘘の証拠であっても、露見するリスクさえなければ被疑者を起訴する。検察が起訴すれば、裁判官はほぼ100%に近い確率で被疑者を有罪にする。起訴された案件を無罪にすれば、自分の経歴にリスクが生じるからだ。

この国の司法は、全てが利害と欲で動いている。逆に言うなら、利益があるならば、無罪の人間を有罪にする事に、何の罪の意識も感じていないのが、警察と云う、組織なのである。

「よう、署長」

堀尾はノックをしただけで、許可を待たずに署長室の扉を開く。

「なんだ、堀尾か」

加西署の署長は、あからさまに嫌な顔で、しかし、咎める事はせず、堀尾を室内に迎え入れた。

「今日は特別に多く案件を持ってきたぜ」

中心部から離れた加西の様な田舎町は、人口に比例して犯罪件数も少ない。田舎の警察は、ノルマがキツイのである。堀尾のそれを聞いて、途端に署長の声が明るくなる。

「いつもすまんなぁ、堀尾」

署長は堀尾がデスクに置いた封筒からクリアケースを取り出し、その件数の多さに驚く。

「おいおい、堀尾、盆と正月が一緒に来たのか」

「まぁ、そんな感じだ」

「で、今回はなんだ、余り面倒な事なら」

「面倒でも何でもねぇ、こいつを今から二週間程、預かってくれ」

堀尾は警察手帳と拳銃を署長に手渡す。

「潜入か」

「ご想像に任せるよ、二週間経ったら、明石署に返しに行ってくれれば良い」

「ふん、いいだろう、承知した。しかし、面倒は御免だぞ面倒は」

しかし堀尾は署長の後の言葉など聞こえぬ様に踵を返して署長室を後にする。これで自分はもう、何者でもない。警察官と云うしがらみに縛られ、このコンクリートの匣の中で人生の大半は過ごした。同じコンクリートの匣である、刑務所に、罪が有ろうが無かろうが、警察と自分の利益の為だけに人を捕まえ、押し込んで来た。刑務所に入ると、どんな人間でも、その環境に染まり悪くなる。警察官も同じだ。警察官になれば、その環境に汚染され、腐り果て、人間のクズになる。

産まれた娘の顔を漸く見たのは、妻の実家だった。家庭を顧みるなど、夢のまた夢。結婚した事を後悔した。妻や娘に対する罪悪感は、より一層、家庭を顧みない事に拍車をかける。やがて自分は夫でも無くなり、父親でも無くなり、家族としての居場所を失くし、妻の不倫にも目を瞑るしかなくなった。

「それも今日で終わる」

堀尾は加西署の近くに出来た食パンの専門店に入る。その店には食パンしかなく、手頃とは言えない値段だが、飛び切りに美味い。

「すいません、一斤下さい」

運良く本当の焼きたてだった食パンは、この上なく芳醇な小麦の香りを放っていた。堀尾はその香りについ口元が緩む。

「喜ぶかな、こんな物で」

柄にもないと思うが、娘と妻の顔を思い浮かべながら、堀尾は食パンが萎んでしまわない様、細心の注意を払いそれを手にして店を出た。

田舎町は白昼でも人が疎らだ。見渡す限りの田園を見るとも無く観ながら、堀尾は北条鉄道、北条町駅を目指して歩いた。県道から農道に入ると、人は疎か車すら通らない。雑草の匂いに包まれ、何も無い緑のあぜ道をただ、これを持って帰った時の、娘と妻の驚く顔を思い、更に歩いた。

しばらくして、前から白に近い褪せたクリーム色の軽トラックが走って来る。農家の人ぐらいしか、この道は通らないのだろう。軽トラックはゆっくりと近づいて来て、堀尾の横で停車する。

「あれ、明石署の堀尾さんじゃないですか」

「え、どちら様でしたか?」

不意を突かれ堀尾がそう答えた次の瞬間。

パスンッ!

サイレンサーで押し殺された銃声が頼りないほど静かに、そして一瞬に、見渡す限りの緑に吸い込まれた。軽トラックはまたゆっくりと走り出し、何事も無かったかのようにあぜ道を走り去って行く。

「俺は、何処で、間違えたんだろうなぁ、秀夫」

堀尾は撃たれた拍子に放り出してしまった食パンに手を伸ばす。食パンを入れた清潔な白い袋が、血の色に染まって行く。その血に染まった食パンの香ばしい香りはしばらく続いた。やがて食パンは冷め、香ばしい香りをさせなくなった。堀尾はそれに気づかないまま、冷たくなっていた。

             3

「久しぶりだな、牧田、惠ちゃん」

国会で席を外していた安武になりかわり、山田、高橋、宏太、優樹が、美月が眠る病室に戻った二人を迎えた。

「山田さん、あの方は?」

惠が視線を向けた先は美月のベッドにあった。

「惠さん、あの人は、俺の母です」

美月のベッドの横にある介助者用の簡易椅子に腰かけていた女性が立ち上がり、惠に視線を合わせる。

「初めまして、大谷優樹の母で、紀子と申します」

「惠さん、あれから、色々と、明らかになった事が有って、あの、つまり、その」

自分の母親が何故ここに居るのか、それを何から、何処から話せばいいのか、しどろもどろになる優樹を抑えて山田が言う

「大谷、俺から話す。惠ちゃん、単刀直入に言う、俺たちに手を貸してくれ」

惠の目が森の梟の目になる。

「あんたは、本当なら、俺たちなんかに拘らず、自分の幸せを目指すべきだ、しかし、この国は、今、未曾有の」

「バイオテロによる、バイオハザードの危機に直面している、そうなんですね、山田さん」

「あんたの意見を聞いて、直ぐに対処すべきだった、すまない」

恥じ入る様に頭を下げる山田に牧田が言う。

「おい、山田、片山夫妻を連れて来い」

「何を言う!駄目だ!あの二人は民間人だ」

「山田、惠はな、宗利くんの事と、宗司くんの事、そして遼太、美月の事に、先ずは向き合わなくちゃならないんだよ。国がどうとか、バイオハザードがどうとか、そんな事より、惠にとっては、こっちの事のが最優先なんだ!てめぇ!ちょっとは惠の気持ちも考えてやれ!」

「秀さん・・・」

「牧田・・・」

「惠、堀尾が片山の奥さんに、何か機密情報を持たせたと俺に言っていた。多分、宗利くんに関わる情報だと思う」

「山田さん」

「山田、片山夫妻は民間人だが、当事者だ、真実を告げる事が、真実を知る事が、正しい時もある」

「分かった・・高橋、あの二人を」

「分かりました」

しばらくすると高橋に招かれ、片山宗嗣、昌子が部屋に入って来る。昌子は直ぐに惠に目を向ける。しかし宗嗣は、惠を見ようともしない。

「片山さん、初めまして、私は、株式会社中縞商会、営業部長の山田と言います」

「中縞商会?山田、なんだそりゃ?」

突然の奇異な山田の自己紹介に、牧田が声を上げる。

「それは後で説明する、高橋」

「はい。昌子さん、堀尾から受け取った物を」

「これが、マッチ箱に潜ませて、彼に手渡された物です」

そう言って昌子が机の上に差し出した物は、microSDだった。

「ここで開きますか、部長」

「良いんだな、惠ちゃん、牧田」

「大丈夫です、山田さん、開示して下さい」

高橋は持参して来たパソコンを立ち上げ、カードスロットにそのmicroSDを差し込み、ファイルを開く。

「こ、これは・・・」


・・・遺書・・・


そう銘打たれファイルには、宗利が両親に宛てて認めた、彼の遺書が残されていた。

「ま、まさか、そ、そんな」

その内容を読んだ宗嗣は最早、そこから先を声にする事も出来ない。

「私たちは、私たちは、取り返しのつかない事を・・・」

宗嗣が惠に目を向ける。しかし、宗嗣の、余りにも惨めな姿に、惠はそれを正視できず、俯いてしまった。

「あんたらを騙していたのは惠じゃない、それは、理解して貰えたか?」

俯いてしまった惠の代わりに、牧田が代弁する。

「そして、あんたらにとってはキツイ事だろうが、宗利くんは自殺ではなく、安樂栄治に殺されたんだろう。医師であるあんたらにも見抜けない程、巧妙に、彼は殺された」

牧田のそれを聴いている惠の中で、安樂の闇の羽がひとつ羽ばたきをする。

「すまない、神崎さん、私は、なんと、なんと愚かな事を。家柄、そんなつまらないものの為に、私は・・・私は息子の事を、何も理解していなかった。孤独だった。息子は、私たちがこんなに近くに居て、こんなに愛していたのに、それなのに、ずっと、ずっと、孤独だったのだ。分かってやれなかった。気づいてやれなかった。宗利、許してくれ」

宗嗣はもうそれ以上は嗚咽するばかりで、話すことが出来なくなる。

「神崎さん」

宗嗣の背中にそっと手を置いた昌子は、しかし、凛とした声で惠に問う。

「今更、虫のいい話だけれど、私は、何処かで違和感を抱えていたの。自分のその感覚を信じるべきだった、今にして考えればそう思う、でもね、神崎さん」

「はい」

「もしあの時、あなたが私との約束を守って、診察に来てくれていたら、もしあの時、安樂栄治と宗利の関係を私たちに打ち明けてくれていたらって、もしも、もしもって、私は考えてしまうの。それは、悪い事?」

「いえ、当然の事です。全ては、私の至らなさが招いた不幸です、お母様、本当に、本当に、約束を守らなくて、ごめんなさい」

「神崎さん、でも、貴女も、私と同じに、息子を亡くした。あなた達が宗司と名付けたあの赤ちゃんが、18トリソミーだった事は嘘じゃない。夫は出産後、直ぐに亡くなったと私に報告した。宗利の亡骸を見て、散々あなたを殴って、その時、私は感じたの、この人も、息子を亡くしたのだと。その痛みが、この人の今の姿を象っているのだと。だから私は、私は貴女を」

「昌子」

嗚咽を押し殺し顔を上げた宗嗣が昌子を見詰める。

「すまない」

「え?」

「あの子は、まだあの時、生きていたんだ」

「な!何ですって!」

「あなた・・・あなたはなんて事をしたの・・・それじゃあ・・・あまりにも・・・あまりにも神崎さんや宗利が・・・」

「すまない昌子・・・」

「・・・もう、全部、捨てましょう、あなた。私たちは医師である前に、人間として失格よ。徳川時代から続く名家、代々医師の家系、そんなものに縛られて、他人の血を卑しいと差別して、私たちは、本当に大切な事を見失っていた」

「待ってください」

惠は二人の元に歩み寄った。

「宗司は・・・生きています」

「え?」

「18トリソミーが本当なら、あの子が生きられる可能性は極めて少ない、けれど、けれど、確かに、確かに、あれは宗利の遺伝子だった。どんな奇跡が起こったのかは分からない、けれど、彼は安樂の元で、生きている」

{生きている}

惠のそれを聞いた途端、宗嗣は顔を両手で覆い、奇声を上げながら床に突っ伏す。そんな宗嗣の背中を抱いて、昌子もまた、涙を流す

「神崎さん、いや、惠ちゃんと呼んで、いい?」

「はい、お母様」

「惠ちゃん、私たちは、今、自分達にある全てを捨てて、自分達の犯した罪を償います。でも、その前に、私たちにも、何かをさせて頂戴、このままでは、このままでは、愚か過ぎる自分達が許せないのよ」

「お父様、そしてお母様」

惠のその問う様な呼びかけに宗嗣はびくりとして顔を上げる。

「あそこに眠っている子は、美月と言います。血はつながらないけれど、私が娘にした子です、そしてもう一人、私は遼太と云う男の子を、息子にしました」

宗嗣と昌子がハッとなり、美月が横たわるベッドに目を向ける。

「最初は偶然だと思っていました。でも違う。あの子も、そして遼太も、安樂栄治の被害者です。私は、自分の息子である宗司と、遼太を、今から取り戻す為の戦いを始めます。お父様、お母様、私が留守にする間、美月をお願い出来ませんか」

「外傷によるものかね?」

宗嗣はむくりと立ち上がり美月の枕元に歩み、昌子もそれに従う。優樹の母、紀子が 二人に美月の状態を説明する。

「自発呼吸は出来ないのだね」

「はい。生命維持装置を外す事は出来ないそうです」

「うーむ、ここの医師の判断では、脳幹の不可逆的損傷による脳死の様だが・・・詳しく脳幹の状態が見たい、カルテとMRIの画像を持ってきて下さい」

宗嗣は美月の寝顔を見て、それまでとは別人の様に自分を取り戻し、医師として振る舞い始めた。

「はい、暫くお待ちください」

宗嗣に言われた物を取りに行く為に病室を出ようとする紀子を惠が呼び止める。

「あの、紀子さんでしたね」

「はい」

「貴女は、何故ここに」

「息子に、頼まれたんですよ」

すると、それを見ていた優樹が惠の側による。

「美月ちゃんと遼太くんの話を秀さんから聞いて、僕が母に頼んだんです。母は長く看護教員をしている人です、美月ちゃんの看護を母にしてもらい、惠さんの憂いをなくす事が、少しでも出来ればと、そう思って・・・」

「ありがとう、優樹くん」

「惠さん、僕はどんな事をしても、惠さんをサポートしたい、駄目ですか」

「ううん、片山のお父様とお母様、紀子さんが美月の側に居てくれるなら、私は何の憂いもなく行動出来る、お父様、お母様、紀子さん、美月の事、よろしくお願いします」

「私も、惠ちゃんと、呼んでも良いかな」

「はい、勿論です」

「妻共々、身勝手な言い分だが、私は、社会的に全てを失う事になる、が、しかし、不思議と今、それに後悔は無いし、寧ろ清々しささえ感じている。これまで背負って来たものから解放され、私は、医師としての原点に立ち戻ることが出来た。君が私に託してくれたこの子の命、私は、医師としての全力を尽くして引き受ける」

「ありがとうございます、お父様」

「だから君も、頑張って欲しい。必ず生きて戻ってくれ。そして、私が焼いたローストビーフを、今度は、本当の家族として、もう一度、一緒に食べて欲しい」

「お父様・・・」

「いってらっしゃい、惠ちゃん」

「はい」


            4

「なんだこれ、本当に自衛隊の船か」

病院から出た一行は、車で港に到着。そこで彼らを待っていたのは海上自衛隊の特務艇「はしだて」だった。国内外の要人を招いての式典や、海上自衛隊を訪問した諸外国の軍人との会議などに用いられるこの艦艇は、戦闘をするための装備は搭載されていない。そのため、はしだては“迎賓艇”“迎賓艦”とも称される。

「なんで新幹線か飛行機じゃねぇんだよ」

「船の中には、オールドメディアもスパイも野党議員も居ない。ここが一番安全なんだよ」

「なら、もっと簡素な船でいいだろうが」

「俺たちだけならそうするさ、だが、今から横須賀で開かれる会議には、安武さんを始めとする、内外の要人が参加する」

「なるほどな」

「牧田、喜べ」

「はぁ?」

「ここの飯はな、死ぬほど美味い」

「嘘コケ、自衛隊の飯なんざ美味いわけねぇだろう」

「嘘じゃねぇ、母ちゃんの飯の次に美味い」

「おいおいおい、それはお前、言い過ぎだろ」

陸海空の3自衛隊で、最も食事が美味いと評判なのは、伝統的に海上自衛隊だが、中でも、この「はしだて」の厨房は別格とされ、数々の国内外の来賓をうならせてきたのは事実。調理部門の自衛官にとって、はしだてで働くことは誇りとされ、最高の目標の一つになっているぐらいだ。

「まぁ、楽しみにしていろ。さぁ、乗艦するぞ」

「珍しい色ですね」

ラッタルの前で船体を見上げた惠が言う。

「本艇は海上自衛隊艦艇としては数少ない2色塗色だ。上部構造物と艇体の上端は白色に塗り分けられている」

ラッタルを登ると甲板は生憎の天気の中、小雨混じりの潮風に吹かれていた。甲板から階段を下り船内に入る。内装も自衛隊艦とは思えない、漆塗りの温かみある木で造られていて、まるで豪華客船の様だ。山田は一行を会議室に案内する。

クラブラウンジのような会議室は、カーペットに深い海の色があしらわれていた。中央に置かれた木目が美しいテーブルの周りには黒のソファーが並んでいて、その一番奥、間接照明の下にひとり、先客が座って寛いでいるのが見える。

「よう、秀夫」

一行に目を向けた先客は、そう言って牧田に向かい手を挙げる。

「し、新庄さん、どうして」

「牧田、俺が頼んだ」

山田は振り向き、牧田を見て言う。

「最早、この国の危機に、自衛隊も極道も無い。志のある者は、皆が立ち上がるべき、そうだろう、牧田」

「ふふふ、お前を命懸けで救い出して良かったよ」

「馬鹿野郎、恩着せがましいぜ」

山田直輝、高橋克己、清水宏太、大谷優樹、牧田秀夫、神崎惠、新庄正和がテーブルを囲んで着席する。

「大谷、牧田と惠ちゃんに」

「あ、はい!」

山田に言われた優樹が立ち上がり、キャビネットの中から取り出した物を二人の前に配る。

「なんだこれ」

「見れば解るだろ、作業服だよ」

「いやいやいや、何で作業服なんだよ、つか、お前らも何で作業服来てんだよ、新庄さんにまでこんなもん着せやがって」

「気に入らんのか牧田」

「いや、俺は別に構わんが、惠はお前、医師だし、女だし、その、なんだ、白衣とかよ、他になんかあるだろうがよ」

袋から取り出した作業服を手に持つと、惠は姿見の前に立ち身の丈に合わせてみる。

「あはは、秀さん、私もこれで大丈夫よ」

そんな牧田と惠の微笑ましい姿に、新庄が笑いながら言う。

「何だ秀夫、俺もこいつが似合わないか」

「ぎゃはっはっはっ!いやぁ、新庄さんは、ある意味、マジもんの職人さんより似合ってるぜ、親方って呼んでいいか新庄さん」

「てめぇ!笑いすぎだ!」

新庄は、右のげんこつで一発牧田の頭をしばくと、左手で持ち上げたジェラルミンケースを牧田が座るテーブルの前に置く。

「痛ぇ!新庄さん、え?何これ?」

「まぁ詳細は聞くな、俺には扱えねぇから、お前にやるよ」

そう言った新庄がジェラルミンケースを開くと、中には見た事も無いような大きな拳銃が入っていた。

「こいつはアメリカのS&W社が2003年に開発した超大型回転式拳銃だ。454カスール弾を超える弾薬を撃つことのできるリボルバーとして開発されてな、一般市場に流通する商品としての拳銃では世界最強の威力を持つ弾薬、500S&W マグナム弾に対応している」

S&W M500は4インチと8・375インチ、「ハンターモデル」と呼ばれる10.5インチのものがあり、使用する50口径のマグナム弾である500S&W マグナム弾は44マグナム弾の約3倍の威力を誇るといわれる。そのため、フレームには特大フレームであるXフレームを使用した。S&W製リボルバーの構造上、装弾数を6発にするとシリンダーを停止させるシリンダーストップノッチがシリンダーホールと重なってしまい、肉厚を確保できなくなるため、M500は装弾数を5発としてシリンダーの強度を確保している。ジェラルミンケースの中で沈黙するS&W M500は、三タイプある銃身の中でも、一番短い4インチだった。ただでさえ大きな銃身は携行するのに不向きだが、この4インチなら、何とか携行が出来る。しかし、銃身の長さは、発射時の反動に反比例する。つまり、一番反動が強く、よほどの筋力を持つ人間でなければ、この拳銃で正確な射撃は望めない。

「一発撃って、諦めた、肩が抜けちまってな、だからやるよ、お前に」

「いいんすか新庄さん、俺、こいつ、めっちゃ欲しかったんすよ!やったー!やったー!」

牧田はS&W M500を両手で持ち上げると、子供の様にはしゃぎまわる。

「うーん、自衛隊の艦艇の中で、ヤクザが違法に入手した拳銃を野生のゴリラに譲渡している・・・信じられん光景だな」

「てめぇ!山田!誰がゴリラだ!」

「ぎゃはっはっはっ」

入室時、張り詰めっていた空気が牧田の戯けた怒鳴り声と皆の笑い声で和んで行く。惠はそんな牧田の横顔を静かに見つめ、微笑んだ。配布された作業着のポケットには業務用のガラケーと中縞商会の社員証が入っていた。

「中縞商会?」

社員証をポケットから抜き取り、それを眺めながら牧田がつぶやく。

「俺たちはあれから、別の個人情報を与えられ、身分を民間人に変え、ここの社員として動いていた」

「山田さん、中縞商会って、何の会社なんですか?」

中縞商会は塗料の専門商社で、国内約1000社以上の塗料、塗装関連メーカーの製品を扱っている。中でも、住宅等の一般建築物や工場の内外装、コンビナートや橋梁等の防食塗装における汎用塗料分野では業界トップクラスの取扱高を誇り、自動車塗料分野、工業用塗料分野などすべての分野に対応している。

「経済制裁でイランの原油が入らなくなっている今、原油が高騰している。それに伴い、石油製品は軒並み値上がりだ。そこに東京オリンピックがある。オリンピックの特需を前に、塗料専門商社のうちとしては、なにがなんでも塗料やシンナーを安く仕入れなければならない」

山田がそこまで話すと、牧田と惠はほぼ概要を理解した。北朝鮮に対する経済制裁はそう遠くない将来、緩和されるだろう。北朝鮮は麻薬や化学兵器を製造するための工場を多く持っているし、更にイランとは非常に密接で親しい間柄にもある。

「原油を売りたいイランと原油が欲しい北朝鮮。経済制裁の緩和が目前の北朝鮮としては原油を買う金が欲しい。そこに、既存の設備で製造し、利益を生める塗料やシンナーの受注があれば、北朝鮮としては渡りに船だ。経済制裁が解かれたら、二国間に塗料の専門商社が介在するのも極めて自然だし、北朝鮮国内でも動きやすい。考えたな、山田」

牧田がそう言うと、次に惠が山田に問う。

「ワクチンの開発は」

「残念だが間に合いそうにない。更に言うなら、北朝鮮もこのウイルスに対するワクチンを持っていないと云うのが、国の見解だ」

「おいおい、ワクチンが無ければ、自分達も被害を受けるだろう、銀恩正は自爆するつもりか」

「否、そんな訳はない」

「・・・恩正は、敢えてワクチンを作らなかったのかも知れない」

惠が呟いく様にそう言う。

「何故、そう思うんだ、惠ちゃん」

「ワクチンを開発するには莫大な費用と人員を必要とする。そんな余裕は、今の北朝鮮には無い筈」

「じゃあやっぱり、壊滅覚悟の国を挙げた自爆テロじゃねーか」

「違う、多分、ワクチンでは無い、何か、簡易的な治療法があるんじゃないかしら」

「簡易的?」

「そう、この亜急性硬化性全脳炎は遅発性。つまり、ワクチンが無くても、治療法さえあれば、急に事態が悪くなる事は無いから」

「それならバイオテロとは言えないだろう」

「そんな事はない。進行は遅くても、確実に死に至る事に変わりはない。既存の治療薬では・・・」

そこまで話し、声を止めた惠に皆の視線が集まる。

「インターフェロン」

「インターフェロンって、肝炎の治療に使用されるあのインターフェロンか」

「ええ。亜急性硬化性全脳炎に対しては、インターフェロンやイノシンプラノベクスによる免疫賦活治療、リバビリン投与などの抗ウイルス薬治療などを行うことで、症状の進行を遅らせて延命させる程度の効果は得られる場合もある。多分、新しい、インターフェロンに類似する治療薬を、銀恩正は持っているのじゃないかしら」


              5

「私のお願いはそこにあります、皇帝陛下、私は、彼方の、後継者になりたい」

人は迷いの中で人生を生きている。母の胸に抱かれ過ごす時期が終わりを迎える頃、自我は両親の手を離れ、個となり、備わった個性は、世界の全部に懐疑を向ける。「自分は何の為に生まれたのか」「生きる意味とは何なのか」「何故人は死ぬのか」「どうして道徳や倫理が必要なのか」「愛とは何なのか」「何故、人は戦争を辞められないのか」懐疑と迷いの中で、人は苦しみ、問題意識を言葉に出来るか出来ないかの違いはあれ、誰一人の例外も無く、それはたとえ、イエスキリストであっても、一度生を受けこの地上に降りたからには、同じ迷いの道を歩き、ゴルゴダの丘に聳え立つ十字架を目指すのである。

しかし、この男の双眼にはそれが無かった。何故、この男には、人に課せられるべき迷いが無いのか。楚金平にはそれが解らなかった。しかし、この男の迷い無き双眼は、自分と同じ場所を目指している。それだけを、楚金平は、この目の前の男の双眼の中に見つけることが出来た。政権2期目に突入しても慣例に反して後継者を明らかにせず、かつ憲法改正を通じて終身最高指導としての地位確保を理論的・制度的に可能にした楚金平である。

「陳敏爾と云う男が居る、この男を見て、この男の全部を学べ、君が以前、祖父である銀日成を学んだ様に」

「こ、皇帝陛下!」

「先ずは別の身分で北京大学で学び、それと並行して陳敏爾、この男を完全に模倣して見せろ、それが出来たら、答えを考えよう」

「ありがとうございます皇帝陛下、この銀恩正、全身全霊を皇帝陛下に捧げ、お仕えしてまいります」


             6

「本当に貴女がここに居てくれて良かった」

そう言いながら会議室に入って来たのは安武である。

「安武さん」

 山田、高橋、清水、大谷は立ち上がり安武に敬礼をする。

「皆さん、楽にして下さい。神崎さん、凡ゆる国家機関の意見を統括すると、綜合的に我々政府の見解は、貴女の言う意見と共通です」

「では、総理」

「そうです。皆さんの任務は、このウイルスを北朝鮮が開発したと云う確たる証拠の入手、そして、北が持つ特殊な免疫賦活治療法を手に入れる事です」

「晋ちゃん、証拠なんて必要なのか」

「必要です。戦後、WGIPにより、国民の多くは、祖国を忘れてしまっている。北を始め、韓国、中国の工作は横行し、政界にも、財界にも、彼らに洗脳されてしまった人々が多く居る。我々はオールドメディアの様に証拠を捏造をしてはいけない。本当の真実を彼らの前に、国民の前に突き付けて、是非を問うべきなのです」

「総理・・・」

「私は小泉訪朝の時、小泉総理に随行し、彼らにも、小泉さんにも、煮え湯を飲まされている。暴力で奪われた拉致被害者の方々を救い出せなかった上に、小泉さんは、たった五人、しかも、北が指定した人だけを一時帰国させると云う内容で、国民の血税を一兆円も北に渡してしまった。あの過ちを、二度と繰り返してはならない」

安武は拳を握り締め、話を続ける。

「皆さんは悔しくありませんか。私は悔しかった。当時の自分の無力を、心から呪いました。私はあの時、誓ったのです。私がこの国の総理大臣になり、必ず奪われた国民を、全て救い出すと。そして、もう二度と、誘拐犯に頭を下げて金を払う様な愚かな事はしない、拳を振り上げ、私たちの大切な国民を返せと、はっきりと恫喝できるようにしたいと。その為の、国民を守る為の、憲法改正なのです」

それは安武の悲願と言ってもいい。彼はこの問題に、以前から心血を注いで携わって来た。

「私は、家族を拉致され、拉致された人のみならず、その家族の人生を、人生の全部を奪い、不幸のどん底に落とした銀日正、そして、この国に未曾有のバイオテロを仕掛けて来た銀一族を、絶対に許しはしない!」

温厚な彼の顔に刻まれた皺が、怒りと悲しみに歪む。

「同感です、総理」

「俺たちは、立場は違っても、任侠を胸に生きている。そうだな、みんな」

山田以下に次いで立ち上がった新庄がそう皆に話しかける。

「自分達より小さな手を護る」

優樹はそう言って拳を握りしめ、それを聞いた辰子を知る全員が、あの時の辰子の顔を思い出した。

「この国だけじゃない、北朝鮮にも、否、世界中に、為政者に弾圧される、救いを求める小さな手が在る。断じて言おう、大東亜戦争は日本が侵略国家として起こした戦争ではない!日本は西欧諸国の侵略から、アジアを守るために立ち上がったのです。我々は、先立った英霊をこれ以上貶めてはならない!」

諸説、様々な見解、意見はある。しかし、惠には分かった。安武の迸るような、真っ直ぐな誠実は、どんな諸説や見解より、人と云うものの命に密着した、尊い誠実さなのだと。

「秀さん、神崎さん、新庄さん、貴方達には本当に、本当に、なんと詫びれば」

「晋ちゃん、いいんだよ、誰かがやらなきゃならない事だ、それに、俺たちだって、自分の家族を守るための戦いなんだ、心配すんな、俺たちに任せとけ」

「ありがとう、秀さん、ありがとう、皆さん」

安武のその誠実は、ここに居る全員の心をひとつにした。

「秀さん、頼まれていた横山遼太君の事ですが」

「何か分かったのか晋ちゃん」

「残念ながら、銀芙沙子、日本名、横山芙沙子に関する情報以外、遼太君に関する情報はありませんでした、しかし・・・」

「しかし」

「芙沙子が北朝鮮に渡り工作員になる過程で遼太君を妊娠したのなら、安樂栄治は遼太君とは異父兄弟、彼は安樂栄治の弟と云う事になる。安樂栄治は、単に家族を探していた、と云う事にはなりませんか」

「それは、考え難いな。あの腐れ外道が、父親の違う弟に執着するとは思えねぇ。何か、あいつにとってのメリットが遼太にあるはずなんだ」

そう言って口を閉ざした牧田に優樹が言う。

「秀さん、遼太君の父親って、いったい誰なんでしょうね?」

優樹のその一言に、牧田と惠は愕然とした顔になった。

「おい、惠」

「灯台下暗しね、余りにも単純過ぎて考えても見なかったわ」

「晋ちゃん」

「分かりました、芙沙子の線から全力で捜査させましょう。それでは、私は私の仕事をして参ります。準備に準備を重ねて、不退転の決意と共に、憲法改正、日朝首脳会談を、必ず、成功させて見せます」

そう言って大きく腰を曲げ頭を下げる安武に対し、その場の全員が、心から尊敬の念を抱き、安武を送り出す。安武が退室すると、それぞれがそれぞれにソファーに着席する。

「もっと詳しく、あの子から話を聞いていれば良かった、のかな・・・」

惠は深刻な顔でソファーの背もたれに体を委ねた。

「あの時の状況で、それは難しかっと、俺は思う」

惠の横に腰を下ろした牧田が、天上を睨みながら惠の呟きに応える。確かに牧田の言う通り、惠が病院のベッドの上で遼太の過去を聞き出そうとした時、遼太の精神はあからさまに危うい状態になった。無理に彼の記憶を引き出すことに危惧を感じた惠は、彼の過去に振れないよう、先ずは彼の心身の健康を取り戻す事に努めた。

「惠、あいつは本当に、自分の母親を殺したのか」

「動かなくなった、そう、あの子は言っていた」

・・・横たわるあの人は相変わらず動かなかったけれど・・・

  ・・・あの人の横たわる床には・・・・

 ・・・その明滅する光に照らされた・・・

・・・・・・黄色いリンゴがひとつ、ふたつ・・・・・・・

・・・転がっているのが見えた・・・・

「黄色いリンゴか・・・」

牧田は吐き捨てる様にそう言った。

母親の足による虐待と、共産主義を唱える書物と、共食いをする魚が泳ぐ水槽。閉塞された空間で、生まれた時からそれだけを見て育つと云う事が、どんな事なのか、牧田には想像も出来なかった。生まれたばかりの子供がそんな環境に置かれたら、その子供の真っ白なキャンバスには、いったい、どんな歪んだ絵が、描かれるというのか。

「なぁ、惠」

「え?」

「俺はあいつに、遼太によぉ、赤くて瑞々しい、リンゴを、食わせてやりたい」

「秀さん・・・」

「俺はあいつの心に転がっている、黄色くて、黒ずんだリンゴを、赤くて瑞々しいリンゴに、変えてやりたいんだ」

「うん、秀さん、探そう、とにかくあの子を探し出して、安樂から取り戻そう」

「あぁ。おい、山田」

「おう」

「安樂達はまだ日本に居ると思うか」

「現段階で出国するのはかなり難しいだろう、国は総力を挙げて入出国の管理に努めている。しかし、牧田よ」

「なんだ」

「そもそも、芙紗子は何故、日本で出産し、日本で彼を育てたんだ」

山田の問に、惠はそれについて考えてみる。遼太が北朝鮮にとって大切な人材であるなら、本国で育てる筈である。工作員として育てるとしても、洗脳教育を行うなら、環境の整わない日本国内でやるのは論理的におかしい。わざわざ日本で行うと云うなら、おのずとそこには理由が存在するはずである。

「国内で行う事が出来なかった事情・・・」

「反体制派、と云う事でしょうか」

そうポツリと言ったのは高橋だった。

「北朝鮮と雖(いえど)も、銀恩正以下、一枚板と云う訳ではないでしょう」

「確かに、銀日正が亡くなって、彼は日正ほどではないにしろ、粛正を行なっている。その最たるものが、長男、銀正男のVXガスによる暗殺」

「すると、遼太くんも、粛正の対象となる何かの背後関係を持っていた」

「粛正の対象として安樂が彼を追っていたのなら、遼太くんはもう・・・」

議論がそこまで来た時、牧田が声を上げる。

「違う、遼太はな、安樂の洗脳を受けていた。殺すだけの相手に洗脳を施す必要はない。遼太は生きている。洗脳を施され、生きた状態の遼太に、安樂は何かの価値を持っているんだ」

・・・妊婦だった芙沙子が、単身日本に入国するには、それ相当のパイプが無ければならない。それはつまり、日本国内の工作員の協力が必要・・・当時、国内の工作員を動かせるのは、独裁国家であるあの国には、ひとりしか居ない・・・まさか・・・そんな事って・・・

惠は自分の余りにも恐ろしい発想に言葉を飲み込んだ。しかし、それを見透かす様に牧田が言う。

「参ったな、あいつ、もしかしたら、銀日正の隠し子なのかもしれん」

「ちょっと待って下さい、遼太くんの推定年齢から逆算してみましょう」

そう言った高橋がパソコンで検索を始める。

「これは・・・」

高橋はロダンの考える人の様な姿勢になる。逆算すると、遼太は銀日正が亡くなる直前に芙沙子が懐妊した子供と思われる。丁度その頃、銀日正は、経済制裁により枯渇している電力を確保する為、煕川水力発電所の建設に心血を注いぎ、息子、恩正にその事業を託していた。恩正とその側近は、物理的に不可能な工期で突貫工事に臨んだ為、張りぼての様になってしまったダムはダムとしての強度が無く、漏水に次ぐ漏水を引き起こし、もはや倒壊寸前にまで陥っていた。

「この件で、日正は恩正に対し怒り、日正と恩正の仲が険悪になっていた。その直後、日正は亡くなっている」

「日正の死は、恩正による、暗殺・・・」

「日正は恩正が自分を暗殺しようとするのを知っていたのかもしれんな。その為に、芙沙子を日本に逃がし、自分の落とし胤を芙沙子に育てさせた」

「しかし、それなら、遼太くんは完全に恩正が粛正する対象になるはずじゃないのか」

「本来なら・・・しかし、遼太くんが日正の実子、日正の血を継いだ子供と云うところに、安樂栄治が価値を持っていて、自分の思い通りになる様、洗脳したのだとしたら・・・」

「私も、それだと思う」

高橋の意見に惠が同意する。

「安樂は日正の血を受け継いでいないけれど、遼太とは兄弟。あの男は、遼太が日正の実子である事を利用して」

「クーデター、か・・・」

「たぶん」

「なるほど、そう云う事か」

すると、それまで沈黙して話を聞いていた新庄が話し始めた。

「俺はお前らも知る通り、韓国、朝鮮系の企業舎弟を多く持っている。これは、そいつらが本国から入手した、日本のメディアも、この国の諜報機関も持っていない映像だ」

新庄はそう言って、高橋にUSBメモリーを差し出し、受け取った高橋がそれをパソコンに差し込み、動画を再生させた。そこには、米朝首脳会談を控え、恩正が初めて中国を電撃訪問した時の様子が記録されている。

北京駅に到着した列車を儀仗兵が出迎え、賓客用の車が列をなしている中、列車から随伴を伴って降りて来た恩正がリムジンに乗り込む様子をカメラは捉えていた。恩正が乗り込んだリムジンには妻の李主雪、そして屈強な体格をしたボディーガードと思われる黒服の男が一人乗り込んだ。

「高橋、少し早送りをしてくれ」

新庄にそう言われ、高橋は映像を早送りする。

「よし、そこだ、止めろ」

新庄が制止させたその部分には、会談を終えた恩正が釣魚台迎賓館から移動する為に再びリムジンに乗り込む様子が映っている。

「これが、どうしたんだ、新庄さん」

「秀夫、よく見てみろ、お前らもだ」

新庄に言われ、全員がパソコンの画面を凝視する。

「あ!」

その異変に、優樹と宏太以外の者が声を上げた。

「あ!」

そして遅れる事十数秒、今度は宏太が声を上げる。

「いやっ、もおっ、ちょっとぉ、何でぇ俺だけぇ分からないぃぃ」

「馬鹿野郎、大谷、よく見てみろ!」

山田に叱責された優樹が、姑に掃除のずさんさをなじられた時の嫁の様な顔で画面に食い入る。

「おわぁぁぁあぁぁ!分かりました隊長!」

「遅い!お留守番させるぞテメェ!」

「ひぃぃー、す、すいません・・・とほほ・・・」

それは余程に気を付けて見ていなければ見逃す様な、些細にして、しかし重大な変化だった。

「最初に随伴していた黒服の男が、釣魚台迎賓館から出て来たこの時、別人に入れ替わっている。これが何を意味するのか俺には分らなかったんだが、お前らはどう視る」

「どう云う事だ、安樂の企みに、何の関係が・・・」

ボディーガードが入れ替わると云う変化に、その場の全員が頭を抱えるのを見て、最初、不思議そうな顔でその様子を見ていた優樹が、突然、厭らしくニタニタとした笑顔になる。

「ゴォウラァァ!!貴様らぁぁぁ!どこに目を付けている!それでも海上自衛隊、特別警備隊員SUBかぁぁ」

突然、気がふれたかのように、優樹が全員を前に怒鳴り散らした。

「あ、あの、優樹くん・・・どした・・・どしたの・・・」

「やかましぃぃ!高橋ぃぃぃ!銀恩正の別の画像を出せぇぇぇ!」

高橋はなんら動揺することなく、何時ものとぼけた顔のまま優樹に乗って、しかし無言で優樹の指示に従う。

「優樹くん、これでいい?」

「ちがーーーう、横だ!横顔の画像だぁぁぁ!」

優樹の要求通りに、高橋はすぐさま銀恩正の横顔の画像を探し出した。

「お前らぁぁぁ!耳だ耳ぃぃぃ!その節穴みたいな目でよく見てみろぉぉ!」

優樹の怒声と共に、新庄以外の全員が奇声を上げる。

「あぁぁぁ!!」

銀恩正には多数の影武者が存在すると言われている。その影武者を見抜く方法として、一般的に言われているのが、耳を注視する事である。それは近代、発達した美容整形技術で人は顔を変える事は出来るが、しかし、耳の形までそっくりに整形するのは不可能だからだ。画像の恩正の耳と、映像の恩正の耳は、微妙に違っていた。更に、最初の映像に映っていた屈強な黒服のボディーガードの男の耳の形が、なんと、恩正本人の耳の形と一致しているのである。

「ゴォウラァァーーー!大谷ぃぃぃーーー!」

「ひぃぃーー、す、すません、すいません、一回、一回、隊長の真似、やってみたかったんですぅぅぅーーーごめんなさいぃぃぃ」

しかし山田は、情け容赦ないほど、思い切り、優樹の頭をしばきあげた(叩くと云う意味)

「うっぎゃぁぁぁ」

「でかした!大谷!ビンゴだ」

「うわぁぁぁぁ――そしたらなんで叩くぅぅーーー」

「愛情表現だよ、ばーか」

高橋は恩正が初回に訪中した以降の写真を、あらゆる角度から顔認証システムに掛け、解析をする。

「間違いない、亡命です。銀恩正は、新庄んさんが発見したあの瞬間から、中国に亡命し、楚金平がそれを保護している」

「話を整理しろ、高橋」

惠はパソコンの画面から顔を離し、はしだての天井を仰ぎ見る。

銀恩正が中国に亡命した、それも秘密裏に。それ以降、本国に居るのは恩正の影武者である。安樂は日正の隠し子である遼太を利用してクーデターを計画している。つまりそれは、クーデターが起こる事を、事前に恩正が知っていた事になる。影武者の恩正を相手に、国内でクーデターを起こす意図は・・・

アメリカの軍事オプションを前に、北朝鮮は最早、核兵器を手放すより他に選択肢が無い。核を手放せば、人が人の肉を貪り喰う程に追い詰められた民衆は、なにも安樂が計画しなくとも必ずクーデターを起こすだろう。安樂の意図は、コントロール不能の民衆によるクーデターを、コントロール可能なものにすること・・・

遼太を旗頭にして自分達がクーデターを起こせば、内乱を自分たちでコントロール出来る。内乱をコントロールしつつ、核兵器を完全に放棄する事で、北朝鮮は在日アメリカ軍を撤退に追い込み、さらに、拉致被害者を全員日本に返す事で、日本から莫大な経済支援を引き出す。そうなれば、安樂栄治と横山遼太は、北朝鮮全土を再び治める事に成功するだろう。

「な、なんて恐ろしい男だ、あの銀恩正と云う男は・・・祖父、父から、どうしようもない程に破綻した国家を手渡され、それを見事なまでの策略で、世界を手玉に取り乗り越えようとしている」

「その後のシナリオは・・・」

銀王朝を自ら滅ばし、在韓米軍の撤退と引き換えに、中国に亡命した恩正は、その見返りとして身分を詐称し、中国共産党の幹部の地位に就くだろう。当然、中国共産党の幹部となった恩正の指令で、韓国と北朝鮮はひとつにまとまっていく。そうなればもはや、朝鮮半島は中国領も同然。朝鮮半島を手中に収めた楚金平が次に狙うのはおのずと知れた、この日本。

政治的、経済的、軍事的に、あらゆる方面から、中国の日本に対する工作活動は進行している。その中で、漸く遅発性ウイルスによるテロが牙を剥く。手立てを持たない日本人は次々と発症、そして死んで行く。生き残るのは治療法を持つ恩正と安樂の手下のみ。予め日本のあらゆる場所で土地を買い漁り、自国の国民を日本の高齢化に付け込んで労働力として送り込んでいた中国は、その数を武器に完全に日本を支配下に置くだろう。

「違う」

そこまで高橋が話したところで、惠がそれを否定する。

「どこが、違うというんです、惠さん」

「いえ、高橋さんの読む筋に間違いはないと思います。でも、でも違うんです。この遠大な計画を立てたのは、多分、安樂栄治でしょう」

「銀恩正ではなく?」

「ええ。銀恩正は安樂栄治の立案を採用したに過ぎない。本当の黒幕は、あの男です」

「黒幕が安樂栄治だと、筋に違いが出て来ると?」

「そうです。安樂は、あの男は、北朝鮮の事も、中国の事も、根底の部分では、どうでもいいと思っている筈なんです」

「これほど中国と北朝鮮の侵略にコミットした計画を立てておいて、どうでもいいとは、どう云う事なんです」

「結果にコミットしているからこそ、銀恩正は安樂栄治の立案を採用し、あの楚金平までもが、安樂の計画に乗った。でも、あいつは中国を、北朝鮮を騙している。安樂栄治と云う男が、これまでにどれだけ巧みに人を騙して来たか、それを考えれば、この計画の裏にこそ、安樂の本当の目的が隠れている筈なんです」

「別のベクトルで、安樂の中に、本当のシナリオが有ると?」

「はい」

「私たち日本人やアメリカ人の価値観から共産主義を見ると、それは間違いであったり、不本意であったりします。でも、根底の部分で、楚金平や銀恩正は、何を思っているでしょう。彼らの行動原理とはなんでしょうか」

惠は高橋にだけではなく、その場に居る全員にそれを問う。

「彼らがどう思っていようと、彼らは独裁者で、共産思想による世界征服を考えている。それは、我々の側からは到底受け入れられるものではないし、断固撃破すべきだと考える」

山田は惠の問にそう答え、他の誰もがそれに共感を持つ。

「違う、彼らは独裁者ではあるけれで、否、独裁者として君臨したいからこそ、その為に必要な、人民の育成と国家の運営が、その根底には在ります。でも、安樂栄治は、どうでしょう」

惠は全員の顔を静かに見渡す。

「楚金平、銀恩正と、安樂栄治は決定的に違う。楚金平も、銀恩正も、私たちとは違う視点であっても、人が生きる、この星の未来を考えている。しかし、安樂栄治にそれは無いんです」

「未来を、考えていない・・・」

「そう。安樂栄治に有るのは、本能に縁どられた殺戮による快感の追求と、私が犯した罪に対する憎しみ、そしてその罪を通して、逃げ場のない世界に自分を誕生させ、この世界に自分を縛り付けた、神に対する復讐しか無い」

「め、惠さん、まさか・・・」

「そのまさかです」

惠の見立てが恐らく本筋であると理解したその場の全員に戦慄が走る。その戦慄を知っていたかのように、はしだての汽笛が鳴る。やがて横須賀に到着したはしだてには要人が集まり、艦橋と煙突の間にある01甲板が賑やかになって来た。甲板の奥にある艦橋は、バーカウンターとなり、中には黒いベストに蝶ネクタイをしたバーテンダー(自衛官)による飲み物の提供が始まる。

「高橋、今の内容を報告書にまとめて総理に提出しろ」

「はい」

「牧田、惠ちゃん、高橋の報告書が出来上がったら、そのまま作業着に着替えてくれ、飯を食いに甲板に出よう」

「おいおいおい!山田!作業着でパーティーにでるのかよ」

「いいんだよ、そいつを着ていれば、ここで勤務する自衛官に、お前たちが何者かが判る」

「そいつはちょっと、脇が甘くねぇか山田」

「新庄さん、ここ特務艦はしだての中ですよ。ここに居る自衛官は、襟抜きの者ばかりです。機密が漏洩する事はありません、信用して下さい」

山田にそう言われ、新庄は小さく笑いながら頷き、惠もそれに習う。

「じゃ、着替えて来るね、秀さん」

「え、お、おう」

しかし牧田は憮然としたままの顔で惠を見送る。

「何だよ牧田、浮かない顔しやがって」

「重いんだよ」

「はぁ?何が重い」

「あいつが抱えちまった問題だよ」

「まぁ、それは確かに、しかし牧田、彼女なら」

「馬鹿野郎、買い被るな、あいつだって人間だし、まぁ、か弱いとは言わねぇが、いや、か弱いとは程遠かもしれんが、いちおう、、いちおうな、あれでも女なんだぜ。そりゃ腕っぷしは強いし、頭は切れるし、でもよぉ、いちおう、いちおうは、あれでも」

「お、おい、牧田、待て、」

「へ?」

「いちおういちおうって四回も言うなーーー!」

振り返るとそこは流星が飛び交い、その隙間から惠のパンチが牧田に襲い掛かる。それを間一髪で牧田が躱す。

「うぎゃーーー!てめぇ!着替えるの早すぎんだろうがよ!」

「うるさい!早めし、早着替えは芸のうちって言うでしょ!」

「いや、それを言うなら早糞でしょ」

次の瞬間、牧田に成り代わり、早糞と否定した山田の顎にギャラクティカマグナムが炸裂したのは、言うまでもない。

「痛ッ、痛ててて」

「ごめんなさい、山田さん」

「いやいや、学習能力のない俺が悪い」

「そうだぞ山田、流星群が見えたら即退避だ、惠は急に止まれない、よく覚えとけ」

「車は急に止まれない的な?」

「そうだ」

そこまで言うと、また惠の背景に薄らと銀河の瞬きが浮かんでくる。

「山田!退避!」

「あんたら!」

甲板に出るとはしだては、もはや要人を収容したのか、4ノット、時速7キロメートルで悠然とクルーズを開始していた。向こうの港を出る前に降っていた小雨も上がり、雲の切れ間から望む夕日は、丁度、幻想的な色を海に沈める時分に来ていた。

「おい!山田!もう出航してるじゃねーか!急げ!食い物が無くなる!」

「牧田、大丈夫だ、死ぬほど食ってもまだ料理は出て来る」

例えば、航空自衛隊に於ける格納庫でのレセプションでは、乾杯前からテーブルの食べ物をいち早く食べている人が居て少し驚くそうだ。空自のレセプションでは、基本、食べ物が追加されず、そこにあるものがなくなればもう終わりなので、人々が我先にとがっついてしまうらしい。しかし、はしだてのレセプションではテーブルから料理が品切れる事は無く、パーティが終わりかけでも、テーブルにはまだご馳走が山盛りというのがこの海上自衛隊なのだそうだ。

まるで、はだしのゲンを彷彿とさせる慌てようで食い物にむしゃぶりつこうとする牧田に係員と思しき女性の自衛官が近寄る。彼女が涼し気に片手で持つ、バラのモチーフで装飾された銀のトレイには、沢山のアミューズッブッシュが乗っていて、それは随分な重量である事が想像出来る。しかし彼女は片手で持つそれをまるで紙製であるかのように、全くと言っていいほど重さを感じさせない優雅な振る舞いで一行の前に運んで来た。

「先ずはアミューズブッシュからお召し上がりください」

アミューズブッシュとは、客がメニューから選んで注文するオードブルではなく、シェフの独断によって、内容が自由に決められたもの。日本風に言うなら居酒屋の突き出しがそれである。これは、客に食事を食べる準備をさせ、また、シェフの料理術へのアプローチの片鱗を見せるために供される。牧田は係員から渡されたそれを、一口で頬張り、そして歓喜の絶叫を挙げる。

「な、な、なんじゃあこりゃぁぁぁぁぁぁーーーー!」

「どうだ、旨いだろう、牧田」

「美味い!上手い!旨い!ヤバいぞ山田!」

余りの料理の美味さに牧田は転げまわる勢いで悶絶する。それを見ていたその場の全員、見渡す限りの人々が大笑いをした。

「あれ・・・」

しかし、牧田はその見渡す限りの風景に違和感を覚える。

「おい山田、安武さんとか、国防関係、安全保障関係の要人とかは・・・」

「あ・・・本当だ・・・」

「これは、どう云う事だ?」

牧田の言葉に、惠も新庄も同じ違和感を抱いた。

「彼らは、船底の会議室に特設した本部に緊急移動した」

「どう云う事だ」

「数週間前から北朝鮮の木造船がこれまでにない数で港に集結しているとの情報を得ていたんだが、それが何を意味するのか我々は未確認だった」

大和堆へ侵入している木造漁船で本国に帰還できない船は3割ほどに上る。北朝鮮漁民にとって日本の管轄海域である大和堆への出漁は、命がけである。北朝鮮では、冬場の荒れた海への出漁を「冬季漁業戦闘」と位置づけ、漁師の出漁を半ば強制しているのである。軍部が漁師に課している目標は、国民1人あたり1日300グラムを賄える量といわれている。朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」には、「党の水産政策を決死の覚悟で貫徹し、黄金の海の全盛期を切り開こう」と漁民を危険な海に送り出すプロパガンダを実践している。しかし、船上に干されたイカの量から推定すると、漁獲高は一隻あたり10万円相当にも満たない。これでは燃料代にもならない筈なのである。危険でかつ採算が捕れない漁を、軍が関与して行う真意は・・・

「漁民の大半は、銀恩正の命令一下、漁業決死隊となっていると云うのが表向きだが、しかし、漁民の漂流を利用し、日本への漂着を目論んでいると云うのが政府の見解だ。有事の際、日本に上陸するルートの探索や、上陸してからの作戦行動に関する調査なども、奴らの仕事だと政府は考えている。政府と云うか、まぁ、安武さんの考えだがな」

「山田さん、漁業決死隊として集結する木造船の本当の作戦内容は」

「そうだ、今日、惠ちゃんの話を聞いて確信した。奴らの真の目的は、これまで擬装的に流して来た木造船の漂着問題を利用し、混乱に乗じて安樂栄治、横山遼太、片山宗司、この三名を回収する事にあると断定した」

「だから非武装の迎賓艦を予め・・・」

惠がそう言うと、牧田も新庄もこの現状を理解した。憲法9条があるため、他国に対して自衛隊が武装しての作戦行動は許されない。そのため、横須賀でのレセプションを利用して出航させたはしだてを展開し、そのまま木造船対策の本部をここに置くのが安武の予定だった。

「本当に申し訳ない、しかし、私はこれより先、皆と命運を共にする。君たちだけを死なせはしない。これが俺たちに対する安武さん、否、日本国総理大臣、安武晋三からの伝言だ。そして惠ちゃん」

「はい」

「どんな機関の調査、解析より、君の見解を信じる。そう、彼は言っていた」

安武や要人達が高橋の報告書を読み、突然、山田や牧田たちと一切の接触を断ち、船底の会議室に移動したのは、彼らがこれから起こす想定外の事態に対する作戦に、初動に於いて政府や自衛隊の関与を完全に消す為だ。

「さーて、飯だ飯だ」

暫く姿を見なかった大谷、清水が武装して牧田たちの前に現れる。

「おい、お前ら・・・山田・・・これは・・・」

「あぁ、俺たちは中国を介して、経済制裁が解かれた後の商談を北朝鮮に持ちかける商社のしがない社員だ。これから起こる事は、中国軍に護衛され商談に向かう商社の社員が、洋上で間違って北朝鮮の木造船団と衝突になり、運が悪ければ死ぬ。それがメディアに提供する記事の概要さ」

牧田は二人の武装と、山田の為に運ばれて来た武器に目を向ける。装備は92式拳銃 5・8ミリの中国独自の弾を使う拳銃。それに中国の兵士から使いにくいと不評の95式自動小銃。山田に用意されていたのは、それよりは少し扱いやすい03式自動小銃、ただそれだけだった。

「あはは、この装備で千隻を超える北の船団と戦うのか」

新庄が呆れ果てた様に呟く。

「仕方ないだろう、急に人民解放軍を偽装しなくちゃならんのだ、これしか手に入らなかったんだよ。まさか安樂栄治の狙いが本筋から離れたところに有り、それが恩正不在の北朝鮮に保有されている核の発射ボタンだとは、想定外だからな」

「確かにそうだな。しかし笑えるぜ、武器が全部、密輸されて押収された粗悪な中国製しか使えないとはな」

「まったくだ。しかし、初動時は、自衛隊が所有する武器の痕跡を残せないんだからこれも仕方ない。あはは、牧田、新庄さん、惠ちゃん、本当に最後の晩餐になるかもしれんが、これも運命だ。さぁ、敵が動き出す前に、好きなだけ、飲んで、食ってくれ」

本来、立食で行われる晩餐会だが、デッキにはテーブルが設けられ、武装を済ませた一同はそこに着席した。テーブルの上には司厨員によって次から次へと、はしだて自慢の山海の珍味が運ばれる。

「おいおい、恐ろしく豪勢じゃねーか、海自に入ったらこんなもん毎日食えるのかよ」

「ばーか、んなわけねーだろうが、これは迎賓用の料理だ」

牧田と山田がそんな会話をしていると、そこに責任者と思しき男がひとり、手ずから料理をテーブルに運んで来る。

「失礼します、特務艦はしだて、司厨長の貝原です」

貝原は精悍に日焼けした顔に、嬰児も懐きそうな柔らかい笑顔を蓄えて一同のテーブルを訪れた。

「貝原さん、お世話になります」

「山田さん、この度は、なんと申し上げればよいか」

しかし貝原は、その笑顔に反して目を潤ませて山田に話し掛ける。

「本当に申し訳ない、私も、出来る事なら、直ぐにでも武装して戦いたい」

「あはは、止してください、分っています。自衛官なら誰だってそう思いますよ」

山田は貝原に向けていた視線を牧田に据える。

「おい、牧田」

「ん?」

「この船を見た者の中には、洋上で飲み食いするためにわざわざ船を建造するなんざぁ税金の無駄使いだ、そんな金があるならミサイル艇でも造れ、そんな風に言う輩が居る」

「まぁ、そうかもしれんな」

「しかしな、そうじゃない。国の防衛力にはな、色々な側面がある。それらを隈なく押さえておくことが我が国の安全につながるんだ」

「色々な側面か・・・」

惠が山田の話に耳を傾けながらそう呟く。

「このはしだての洗練されたすべては、日本が誇るおもてなしの心は、税金のムダ使いどころか、何兆円もの防衛費に匹敵する戦力になるんだ」

海外からの賓客をもてなすのは、ホスト国として当然の事である。軍の高官をもてなす事は、実は単なるおもてなしではない。

「これは音楽隊にも言える事だが、軍高官を迎えた時の儀仗や栄誉礼の際の音楽隊・儀仗隊の術力、斉一さ、気迫などを、歓迎を受ける他国の高官らはよく見ている。それは、その後の接遇についても同じだ。接遇を見れば、その軍隊の士気、練度が如何に高いレベルが垣間見えるからな」

山田は牧田から視線をこの船全体に向ける。

「この和やかな現場では、武器を使わない、否、料理と云う弾丸を用いた戦いが、日々繰り広げられているんだよ。侮り難い、信頼できる、頼りになる。他国の高官にその様な印象を持たせる事が、わが国の安全にどれほど寄与している事か」

「山田さん・・・」

「貝原さん、我々はもう自衛官ではない。しかし、我々の志は、貝原さんと、皆と同じです」

「ありがとうございます、皆さん」

「さぁ、牧田、貝原さんの最高の弾丸を腹に詰めろ、お前らもだ、食え!」

「遅くなりました」

食事が始まる際になり、遅れて登場した高橋が携帯ゲームを興じながらテーブルに着く。

「部長、頼まれていたリストです」

高橋はそう言うと、相も変わらず画面に目を落としたまま、山田にクリアケースを手渡した。

「何のリストだ」

新庄の問に山田が答える。

「直近で中国、韓国に出国した人間を高橋に洗わせていたんだ」

「新庄さん、まだあの三人、国内に潜伏しているようですよ」

「周到だな、山田」

「木造船の数が多過ぎるからな。木造船団がフェイクの可能性も考えただけだ。もし何らかの方法で陸路か空路に抜け道があったとしたら、終わりだからな」

「それと、惠さん、準備出来ましたよ」

「ありがとうございます、高橋さん」

「惠ちゃん?準備って、何の準備だ高橋」

山田は主語が抜け落ちた二人の会話に質問をする。

「ビニール袋に詰めた大量の北朝鮮ウォンと、人民元、それに米ドルです」

「北朝鮮ウォン?」

「はい。折角このはしだてと云う非武装の船で敵を油断させるなら、桶狭間で行きませんか、山田さん」

山田は考えていた。千隻を超える木造船団がフェイクではないのなら、陸路、空路を完全に封鎖された安樂栄治は海路を採るしかない。木造船が集結しているのは元山港(ウォンサン港)である。例によって北朝鮮は日本海側に木造船を出してくる。吹けば飛ぶような老朽化した木造船と視られる様、これまで、北朝鮮は日本に対し装って来た。しかし、今回は違う。外観はそのままであっても補強され、エンジンも高性能なものを装備した船が、何隻も配備されている筈だ。武装も強化され、見た目には何時もの木造船だが、全くの別物になっている可能性が高い。

更に、安樂達を回収するための母船は、これまでにない機動性の高いものを投入してくるだろう。勿論、舞鶴基地から自衛隊の艦艇にも出動要請はする。海上保安庁の船艇も出来る限り動員する。だが、そう言った戦力を総動員しても、木造船の数が多すぎるのである。敵の目的は攪乱。排他的経済水域ギリギリまで前進しても、広く散開されてしまえば、網羅する事は不可能だった。なんとしても敵に、漂着とは言わせない形で領海侵犯をさせなければ、武力の行使の新三要件を充たせない自衛隊や海上保安庁は手出しが出来ない。

・・・それを・・・どう解決するか・・・

「惠ちゃん、信長の桶狭間は、あの狭い窪地に義元を誘い込んだ地の利が有ったからこそだ。この障害物の全くない海上で、それは無理・・・待てよ・・・惠ちゃん・・・そうか・・・それで・・・」

「ええ、対馬海流に乗せて、小分けした袋に入れた紙幣を浮かせます」

惠の考えはこうだった。極貧の中でこの海に出て来る北朝鮮の兵士は、決してこの命懸けで無謀な作戦に乗り気ではない筈だ。そこに、ビニール袋に小分けされた紙幣が流れてくればどうだろう。必ず兵士の中には作戦を無視して紙幣の回収に走る者が出て来る。

「秀吉が蜂須賀小六や前野長康を使い、懐柔した農民に酒や餅を持たせ義元を籠絡させた、あの手を使います」

「しかし、何故、三種類の紙幣を?」

「北朝鮮ウォンには、国内で通貨としての価値が殆どありません。つまり、北朝鮮ウォンだと、敵の兵士はやがて見向きもしなくなるでしょう」

「それなら人民元と米ドルだけでいいんじゃないか?何故、入手に困難な北朝鮮ウォンを」

「排他的経済水域で北朝鮮ウォンを流し、徐々に日本の領海内に向けて人民元と米ドルを流す。いったん作戦を無視して北朝鮮ウォンの回収に走った兵士は、もう止まらない。更に価値の高い人民元や米ドルが領海内に浮いているとしたら、彼らは必ず領海侵犯をすると思いませんか」

「惠ちゃん、あんたって人は・・・」

「この作戦で一番の懸念は敵の船団に広く散開され、攪乱される事。紙幣に群がる兵士たちは、狭い桶狭間で縦に伸びきった今川軍そのものになる」

「しかし、そんなに上手く、あの粛清と恐怖で洗脳された北朝鮮の兵士をコントロール出来るだろうか」

「赤信号、みんなで渡れば怖くない。群集心理を利用します。たったの一隻でいい。船団の内、たった一隻でも作戦を無視する船が出れば。新庄さん、彼方のパイプで木造船団に人を潜らせることは可能ですか」

「驚いたな惠ちゃん、可能だ、というより、もう手配をしている。北の背取りに関わる企業から情報を得てすぐ、俺の息の掛かった連中を十数名、敵の船団に潜り込ませる手筈になっている」

北朝鮮国内にパイプを持つ新庄に期待をしてこの度の作戦参加を頼み込んだ山田だったが、この新庄の先見の明には流石の山田も舌を巻いた。

「流石は新庄さんだ、ありがとうございます」

「新庄さん、その人達と連絡は」

「もちろん可能だ、だたし、奴らに持たせているのは傍受の可能性を考えてレシーバーにしている、だから距離を詰めなければ連絡が出来ん」

「領海外では発泡できない、危険だな」

「大丈夫だ、それは俺が行く」

「新庄さん」

「仮に捕まっても、俺ならあの国から生きて帰れる、心配するな。で、惠ちゃん、俺の手下には」

「はい、サクラをやってもらいたいんです。作戦を無視する最初の一隻を」

「だよな、よし、分った、任せておけ」


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