差別


 拝啓、匿名である事をお許しください。私は、御子息の片山宗利氏を良く知る者で御座います。最近、氏の身辺に、身分の怪しい女が一人、頻繁に出入りしております。私の調べによると、次の通りとなりました。

神崎 惠 ○○市、○○区出身(同和地区)父、神崎義隆、アルコール依存症により死亡。母、神崎秋江、在日朝鮮人、ギャンブル依存症。幼い頃より悪名高い宗教団体、「MOWA亜細亜救世教」に母親共々入信。小学三年生の時、児童養護施設に引き取られる。因果関係は特定出来ないが、神崎惠が児童施設に引き取られて数年後、MOWA亜細亜救世教の教祖、安樂惠瓊が不可解な死を遂げている。後、児童施設長、曾根正彦氏の尽力により、東大医学部に合格、卒業後、○○病院の医局に入局、現在に至る。性格として、頭脳明晰ではあるが、残忍にして狡猾と思われる。

御不審に思われるかもしれませんが、大切なご子息の為、一度、ご自身で興信所等を利用し、神崎惠の身辺調査をお勧めいたします。因みに、私が調査を依頼した興信所を下記に記しておきます。 モンテカルロ探偵事務所 住所 ○○市○○区○○町3丁目ー2 電話番号 ○○○‐○48‐3514 くれぐれも、神崎惠を信用する事の無きよう、ご忠告致します。

                             怜

「あ、あなた、こんな、まさか、そんな風には・・・」

「うぅむ、そんな風には見えなかったが、しかし、こんな手紙が来るのは、恨みを買っているとしても、いかんともしがたい・・・よし、一度、調べてみるとしよう」

片山家の自宅ポストに怪文書が投かんされた翌日、宗嗣と昌子は怪文書に記されていたモンテカルロ探偵事務所に連絡をし、その日の午後、さっそく足を運んだ。

「はい、依頼を受け調査をしたのは私自身です」

所長を名乗る男はそう答えた。

「いったい、誰からの依頼だったのですか」

「それは守秘義務の観点からお話する事は出来ません」

「お金をお支払いしても、ですか」

「勿論です。いくら金を積まれたところで、依頼人の秘密を漏らす様では探偵事務所としての信頼を失いますので」

「あの調査内容に、間違いはないのですか」

「間違いはありません。自信を持って私は依頼人にあの報告書をお渡し致しました。もしお疑いなら、別の興信所をセカンドオピニオンとして、再度、調査をしてみてはいかがですか」

「分りました、そうして見ます」

宗嗣と昌子は自身の人脈を使い、信用できる興信所に調査を依頼、しかし、人間性の面に於いては確認できずの回答だったが、身上調査の内容は、全てモンテカルロ探偵事務所の記述と同じだった。

「あなた・・・」

「うむ、困った事になった、まさか、朝鮮部落の出身とは思いもよらなかった・・・宗利に連絡しろ、俺があいつを説得する」

「まって、あなた、私が・・・惠さんに会って、話し合って来ます」

「何故だ、宗利を呼んで」

「駄目よ!」

「昌子・・・」

「もし、宗利があの惠って子の素性を知らなかったらどうするの、宗利は傷つくわ。知っていたとしたら、知っていてそれを受け入れたのだとしたら、宗利をいくら説得しても無理。あの子は一度決めたら、必ず最後までそれを貫く」

「う~む」」

「母親だから、それぐらいは分るの。私は、宗利を傷つけたくない。惠さんには悪いけれど、部落だけは駄目。片山家は江戸時代から続く家柄、私は片山家の嫁として、この家守らなければならない、そして、母として、宗利を守らなければならない、あなた、私が惠さんと話してきます」

ピンポーン、ピンポーン

そこまで昌子が話した時、突然インターホンが鳴り、二人がモニターに目を向けるとそこに、モンテカルロ探偵事務所の所長が映っていた。

「こんにちは、依頼者から頼まれて、追加の報告書をお持ち致しました」

宗嗣と昌子は慌てて玄関に出る。

「どうも、突然押し掛けてしまい恐縮です、しかし、事態が事態だけに、急を要すると思いまして」

「ど、どう云う事ですか」

「詳細は報告書に目を通して頂ければ。あの惠と云う女、妊娠していますよ」

「ええ!そ、それは本当なんですか!」

「ええ、本当です、それでは、私はこれで、ぷぷぷ」


              2

{神崎先生、神崎先生、外線二番にお電話です}

惠は外線二番のボタンを押し受話器を耳に当てる。

「はい、神崎です」

「お仕事中ごめなさい、惠さん、昌子です」

「あ・・・」

「今日の夜、お時間戴けないかしら、貴女と二人だけで、話したい事が有るの」

「・・・分かりました。20時以降でもよろしいでしょうか」

「20時ね。じゃあ20時に、迎えに行きます」

自由の国アメリカが建国されて236年、奴隷だった黒人が、アメリカ大統領に就任したのは記憶に新しい。

この日本と云う国が建国されて2670年、その歴史の中で長きに渡り脈々と続いて来た天皇陛下の血筋。この国は、他国など比較にならないほど、血筋を大切にする国だ。

この国で部落に生まれると云う事。

二千年以上の歴史の中、血の差別を積み重ねて来たこの国で、部落に生まれると云う事は、あるボーダーラインを絶対に越えられないと云う事なのだ。能力が有り、努力を怠らなければ、今、民主主義であるこの国で成功する事は難しくはない。しかし、どんなに成功しても、この国にある家柄、血筋を重んじる齢を重ねた文化だけは、乗り越える事が出来ない。

受話器を耳に当てた瞬間、彼女が何を思い、何を私に告げようとしているかなど、考えるまでもなく理解出来た。約束の時間より10分早く職員専用の出入り口から外に出ると、彼女が運転する白いセダンがもう私を待っていた。助手席の窓から顔を覗かせ一礼をすると、彼女は小さく微笑んでドアを開く様、私に促した。

「申し訳ありません、お待たせして」

「いいえ、私の方こそ急がせてしまってごめんなさい」

彼女はそう言いながら視線をフロントガラスに向け、ギアをドライブに入れると車を動かし始めた。

「お調べになったのですか、それとも、宗利さんから」

私は単刀直入に彼女の横顔に質問を投げた。彼女は少時考えた後、私の質問には答えず、別の質問をした。

「惠さん、貴女、誰かに恨まれているの」

「え?」

私は彼女の質問の意図が分からず、彼女の次の言葉を待った。

「これ、ご覧になって、先日、私共のポストに投函された物なの」

大きな闇だった。自分を犠牲にしても、禊なかったかもしれない闇。私は、その闇に負けた。否、私は、自分可愛さに、あの男の闇から逃げ出したのだ。そしてあの化け物を造ってしまった。ここに在る全ての現実はその一点に起因する。

「そこに書かれている事は、本当なの」

「はい、本当です」

「安樂惠瓊さんと云う方がお亡くなりになったのは」

「彼に不幸を招いたのは、結果として、私の所為です」

昌子は急にハンドルを切り、路上に車を停車させた。沈痛な面持ちの昌子が作る重い静寂が車内を支配する。

「あの子は、宗利は、どこまで知っているの」

「全て、知っています」

「何時から」

「ご両親にお会いする、以前からです」

昌子はその答えに、視線を惠に向ける。

「最後まで、嘘を通す積りだった」

「いえ」

「真実を告げる事が必ずしも正しいとは限らない。そうあの子に言われたの」

「はい」

「貴女、宗利と、別れる積りなのね」

「はい、その積りで来ました。本当に、ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

惠は昌子の質問に一切の弁解も主観も加えず、凛としてそう昌子に言った。

「惠さん・・・うちの産婦人科で診察を受けて頂戴」

「え?」

「今は私自身、何をどう考えればいいのか分らない。けれど、私の目には、どうしても貴女が、その報告書にある様な、狡猾で残忍な人には見えないのよ」

「お、お母様・・・」

「でも、解かって惠さん。片山家は江戸の昔から代々医療に携わり、今の地位を築いて来た家。私は片山家の者として」

「それは察しています。ですから私は一人で」

「それを、宗利が許すと思う」

「それは・・・」

「あの子はね、小さい頃から何処か、達観しているところが有って、自分ひとりで全部を抱え込んでしまう様な子だったの、優しい嘘を吐く子だった」

虚空に宗利との思い出を辿りながら、昌子はそこに言葉を探していた。

「だから私たち夫婦は、あの子の本当の姿を、知らないのかもしれない。惠さん」

「はい」

「少し考えさせて頂戴、でも、取り敢えず、うちの産科で診察を受けて欲しいの、お願い、出来るわね」

「分りました、明日にでも伺います」


             3

一方、宗利は今日も前川の呑んでいるあの屋台を訪ねていた。

「こんばんは、前川さん、頼まれていた物、送りましたけど、届いていますか」

「あー!宗利くーん、届いてるよ、今回もたーくさん届いてる、いつも無理ばかり言ってごめんね」

「いえ、少しでも、本国の方々の健康に貢献出来るなら、でも、何故、こんなに沢山、注射器が必要なんですか」

「宗利くん、これは国家機密なんだけれど、本国で小さな内乱が起こったんだ」

「そ、それは、本当ですか!銀恩正を、あの男を倒せそうなんですか!」

「残念ながら、答えはノーだ。内乱はすぐに鎮圧された。その際、国内の医療機器の工場が大きなダメージを受けてね、取り分け、注射器が必要らしいんだ」

「そう、なんですね、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします」

「前川さん、あの・・・」

「なんだ、どうしたんだい」

「もしかして、前川さんは、惠の事をご存知なんですか」

「何故、そんな風に思うんだい」

「彼女が、前川さんと会った日から、なんとなく元気が無くて」

「なんだ、そんな事を疑っているのかい。いいよ、宗利くん、僕の手に触れてごらんよ、そうすれば、全部、見えるでしょ」

「疑うだなんてそんな、それに、前川さんの心は、僕には見えないから」

「嘘だぁ、本当は、見えてたりして」

「本当に見えないですよ、惠と同じで」

「惠ちゃんと同じ?」

「はい、惠も、彼女の心も、僕には見えないんです。出会った時、前川さんと同じだと思いました。だから、運命を感じたんです」

「へぇー、そうだったんだ、そうか、そうか、ぷぷぷ、良かったね、宗利くん」

「ありがとうございます」

「じゃあ、宗利くん」

「はい」

「もう、ここには来ない方がいい」

「え?」

「僕とは会わない方がいいと言っているんだ」

「な、何故ですか、そんな事、言わないでください」

「君は、なんの得にもならないのに、僕達の為に身を投げ売って働いてくれた。もう、充分だよ、心から感謝している、ありがとう、宗利くん」

「ま、前川さん!」

「だから、君は、惠ちゃんと、幸せになれ」

「ど、どうしたんですか、前川さん、惠には全部話しました。彼女はちゃんと僕の活動を理解してくれています」

「宗利くん、ここからの活動は、本当に命懸けの戦いになる、やっと運命の人に出会えた君を、僕らの事に巻き込みたくないんだ、解ってくれ、宗利くん」

「い、嫌だ、駄目ですよ前川さん。臆病で傷つく事が怖くて何も出来なかった僕をここまでにしてくれたのは前川さんだ、僕は、僕は前川さんに付いて行きます」

「強情だね、昔の宗利くんとは大違いだ」

「僕をこんな風に強くしてくれたのは前川さんです」

「分かった、少し話をしよう」

前川は宗利にそう言うと勘定を済ませ席を立った。ブルーシートと段ボールで造られたテントが所狭しと並ぶ荒廃した街の夜風に吹かれ、二人は肩を並べて歩く。

「アメリカを始めとする大東亜戦争の戦勝国だけが核の保有を認められ、本国はその脅威にさらされている。アメリカが核で威圧するなら、自分たちも核武装して何が悪い、と云うのが本国、北朝鮮の言い分だ」

「でも、核兵器は、無くなるべきだと僕は思います」

「そうだね、僕もそう思う。だから、朝鮮半島から核兵器は、必ず無くして見せる」

「本当ですか」

「本当だよ、実は、アメリカや日本が求める不可逆的かつ検証可能な非核化、これについての準備は出来ているんだ」

「え、そ、そんな、まさか、ここまで開発してきた核兵器をあの男が簡単に手放すとは思えない」

「もちろん、最初から素直にすべての要求を呑む訳じゃない、そんな事をすれば逆に疑われるからね、だから、なるべく非核化の実行には抵抗もするし、交渉もする、けれど、落としどころはもう決めてあるんだ」

「落としどころって」

「僕たちが準備しているクーデターは、成功するかどうかなんてあやふやなものじゃない。100%成功する」

「100%なんて、有り得るんですか」

「あり得るよ、だって、銀恩正自らが賛成しているんだから」

「そ、それはいったい、どう云う事なんですか」

「世界中が、北朝鮮の敵はアメリカだと思っている、けれど、銀恩正の本当の敵は、実は中国なんだ、いいかい、現韓国大統領、文在虎の任期中に、韓国を北朝鮮に取り込み、その上で中国を無視してアメリカとの会談を決める。そうすると焦るのは中国国家主席、楚金平だ。この楚金平をギリギリまで焦らし、会談が決まったら、今度はアメリカの頭越しに、銀恩正自ら楚金平の元に非公式で訪れる、そして楚金平にこう言うんだ」

「・・・」

「我々は最後まで非核化に抵抗するふりをする。そして、最後の最後、決裂寸前に楚金平さん、貴方が出て来てくださいと。我々は貴方の言葉に従がう形で、核を全面放棄します。そうすれば、楚金平の株は偉大なる指導者として一気に上がる」

「そんな事を、あの銀恩正が受け入れたんですか」

「もちろん、これは銀恩正の提案でもあるからね。非核化が避けられないなら、非核化そのものを餌として使う。非核化で得られる経済利益を最大化する、それが今の彼の狙いだ」

「非核化を実現し、韓国と北朝鮮を連邦制で事実上統一、日本がアメリカの核の傘の下にいるように、朝鮮半島を中国の核の傘の下に置く。そうすれば在韓米軍はその流れで、いずれ朝鮮半島から撤退するだろう、これで朝鮮半島の核兵器は無くなるのさ」

「でも、それでは、銀王朝の朝鮮半島支配になる、そんな事になれば、朝鮮の民は救われないじゃないのですか」

「銀恩正には体制の保証を餌にこの作戦に賛成させた。楚金平には、銀恩正を中国に亡命させた後、我々が消すと約束をしている。銀王朝は無くせなくても、銀恩正を追放し、新しい指導者を擁立する事は出来る」

「いったい、新しい指導者は誰にするんですか。彼の兄の銀正男はもはや銀恩正によって暗殺されているじゃないですか」

「銀恩正には、もう一人、年の離れた兄弟がが居るんだよ」

「えっ!そ、それは本当なんですか」

「本当だよ、銀日正が極秘に愛した日本人女性との間に、銀日正の隠し子が居たんだ。そして、その子は、今、この日本に居る」

「それが、もしそれが成功すれば、朝鮮の民は救われる」

「そうだ、どうだい、分かったろ、ここからは命懸けの活動になる、もう、僕のところには来るな。惠ちゃんと、幸せにね」

「駄目です、そんな機密まで聞いて、このまま前川さんと別れるなんて僕には出来ない。前川さんは、僕を信用してくれているからそんな大きな機密を話してくれた。僕は、僕は、朝鮮の人々の為に、最後まで力になりたい」

「もう、ほーんと、強情なんだから、宗利くんったら、ぷぷぷ」


             4

「なんだ、帰っていたのか」

宗嗣はサイドボードに鍵を置き、ダイニングテーブルに佇む昌子を横目で見ながらウォークインクローゼットに入る。

「どうだった、あの娘」

壁越しに話しかけてくる宗嗣に昌子が答える。

「うちの産科で検診を受ける様に伝えて来たわ」

「な、なんだと!」

「明瞭(はっきり)とした理由は、あの子を監視する為、瞭然(ハッキリ)としない理由は、あの子が報告書にある様な、狡猾で残忍な人には思えない事」

「なんて事を・・・お前・・・まさか・・・」

「仮にもあの子のお腹にいる子供は、宗利の子、この片山家の血が流れているのよ」

「それはそうかもしれんが、あの娘の何処が、報告書にある様な人間ではないと、お前は思うんだ」

「あの子、私に対して、一切、言い訳も言わなければ、弁解もしなかった。彼女、私に会う前に、もう宗利と別れると覚悟を決めていたみたいなの」

「そうだったのか・・・」

「精神科医として勤務先での評価は抜群だった。女性として、誠実に、真っ直ぐに、宗利を愛してくれている。宗利を思うからこそ、あの子は、自分から身を引こうとしているの、あなた・・・」

「うーむ、どうして、よりによって、部落なんだ、部落でさえなければ・・・」

「そうね・・・それさえなければ、孤児であろうと、他のどんな事であろうと、解決する術があると云うのに・・」

「こればかりは、どうしようもない・・・部落だけは・・・」

「様子を見ましょう、あなた」

「様子を見るって、お前」

「まだ少しだけ時間は有る。もう宗利に好き勝手をさせない。宗利に、この病院を継ぐために、家に帰って来いと言って欲しいの」

「何を言ってる!宗利を呼び戻したところで」

「あなた、そもそも私たちは、どうしてこんな、儲かりもしない総合病院を経営しているの」

「それは・・・」

「高齢化社会に突入した日本で、介護保険を利用して、荒稼ぎする事が、私たちには出来た筈、そうでしょ」

「うーむ・・・」

片山総合病院は選択肢として、他の病院経営者がしたように、儲かる介護関連の施設を運営する事も、特定の病気に特化した専門病院を経営する事にシフトするのも出来るポジションに立っていた。しかし、宗嗣は、多種多様の病気を抱える高齢者の為、一番コストがかかり、一番利益が少なく、更に自身も仕事に忙殺され、プライベートすら顧みる事の出来ない、総合病院経営の継続を選択した。片山家は人の命に対して、常に誠実かつ、真剣でなければならない。

「この家訓を尊守する彼方を、片山家を、私は心から愛した。そして、決して家訓としてではなく、この言葉の内容を、自分の頭で考え、自分の力で行動する彼方を、片山宗嗣を、私は愛し、今も、そしてこれからも傍で、ずっと、支え続ける」

「・・・」

「歴史を鑑みて、自分たちの社会的地位も考えた。でも、私たちは、もしかしたら傾くかもしれない総合病院の経営継続に敢えてトライした、ご先祖様の家訓を尊守して。あなた、もう一度考えて、私たちは、片山家は、なんの為に医師をしているの」

「・・・」

「もし戦場に軍医として赴いて居たら、片山宗嗣は、朝鮮人の負傷兵を見捨てるの?部落の人が死にかけていたら、それを黙殺するの?肌の色が違っても、言葉や文化が違っても、命は掛け替えのない質(もの)。あなたはそんな命を、命そのものを差別する人だったの?私はそんな人を愛した積りも、そんな人に人生を捧げた覚えも無い。考えてあなた。これから宿るのではなく、もう、この世界に宿った命なの。あの子のお腹に宿っている命は、もう、私たちが、尊守すべき、掛け替えのない・・・命なのよ」

「ま、昌子・・・」

「宗利を呼び戻して。あの子の覚悟を、そしてもっと、惠さんの人柄を。ね、あなた」

「分った・・・宗利に電話をしてみるよ」

「愛してるわ、あなた」


惠は無言でつぼ焼きと書かれた、褪せたあの暖簾を潜る。

「あらぁ、今日はひとり?お久しぶりだね、惠ちゃん」

相変わらず今日も前川はつぼ焼きをあてに一人で日本酒を呑んでいる。

「惠瓊さんを、お前は・・・」

「おいおいおい、なんの事ですかもぉ。そうそう、あの人、死んだそうだねぇ、俺もびっくりした、うんうん、それで、今日はどういったご要件なの、惠ちゃん?」

惠は前川のそれに答えることなく、無言で前川の手に触れようと近づく。しかし前川は席を立って惠の動きを躱す。

「やだぁ、もう、辞めて下さいよぉ、この変態女、気持ち悪いじゃないですかぁ」

「今度こそ、今度こそ私は逃げない!お前の闇を、禊いでやる!」

そう言って惠は、席から飛び退いた前川を睨み据えた。

「いやいやいや!なーに言ってんすかぁ!あんたが置いて行ったんじゃないのよ!」

「こっちに来て」

「嫌だモーン」

「お願いだから」

「やだやだやだやだ!結構、この状態、気に入って来たんだからぁ。もう返すもんか!」

「返す?」

「うそ、なんなのあんた、気付いてないの?あんた、忘れ物してるんだよ、俺の中に」

「俺の・・・中?」

「おいおいおい、嫌ですよぉあんた、あんたが俺に何をしたか、覚えているでしょ?」

「解かってる。ごめんなさい、だから、だから今度こそ」

「あの時、あんたは俺の中に忘れ物をしたんだよ。あんたの持つ天使の羽が一枚、俺の中に残ってるの」

「!!」

「あんたは俺の闇の羽を一枚持っているでしょ」

「あ・・・あ・・・」

「なんだぁ、知らなかったんだぁ、おーもしろっ!じゃ、故意じゃなかったんだね」

「返せ」

「嫌でしょ、普通に」

「お願いだから返して」

「だからぁ、嫌ですよぉ、普通に厭ですから」

「返してくれれば、今度こそ、今度こそ、私の命に代えても、その闇を禊いで」

「あららぁ、あんた、そんな事、言っていいの?命に代えて?妊婦の分際で?」

「な!何故それを!」

「分るんですよぉ、だって、あんたの一部が俺の中に居るんだから。宗利くん、言わなかったっけ?俺とあんたが、同じ匂いがするって」

「え・・・」

「え・・・っじゃないでしょうに全くもう。少し、話をしましょうか」

前川は再び席に着く。

「おやじ、灘の生一本、お替わり、惠ちゃんにもつぼ焼きと同じの出して」

前川は出されたコップ酒を一気に煽り話始める。

「先ずは、本当にご苦労様。辛かったでしょ」

惠の前に、湯気の上がるつぼ焼きとコップ酒が置かれる。しかし、まだ惠は着席しようとはしない。

「何の話なの」

「いやいやいや、だからぁ、あんたは天使だったころ、苦しくとも疑い無く慈愛を他人に施せた。でも、俺の闇の羽を持った日から、あんたは本当の優しさを失った。それは、あんたが二重の苦しみを背負って生きて来た事になる。だから、ご苦労様って言ったの」

前川は惠の苦悩を見透かしていた。その通りだった。惠は堕天使となったあの時、その二重の苦しみを背負って生きて来たのだ。

「そりゃね、俺も色々とあったよ。血の滲む葛藤もあった。けど、俺は、あんたの天使の一抹のお蔭で、生まれ変われた」

「生まれ、変われた?」

「そう、俺は獣でもなく、人間でもない、化け物に成れたってわけだ。分る?無分別な殺戮ではなく、頭を使って、どんな悪い事でも、出来る様になったんですよぉ。俺ね、北朝鮮の工作員になりましたぁ。でね、もうすぐ、この国のヤクザを全部仕切るの。この国のヤクザは馬鹿だからねぇ、覚醒剤をあげたらホイホイ云う事を聞いてくれる。あはは、そして、それが終わるころに、北朝鮮が動く。面白いよぉ、もうね、凄くたくさんの人が死ぬの、ぷぷぷ。あ、そうそう、宗利くんとあんたが結婚するって云うのは、想定外だった。ホントよ。これはホント。でもお陰で、あんたにお礼が出来た。たくさん人が死ぬのは、宗利くんのお蔭、ひいては、惠ちゃん、あんたの所為だから」

「宗利のお蔭って、それはいったい、どういう事なの!」

「宗利くんにはね、医師の立場を生かしてもらって、予てから大量の注射器を寄付してもらってたんだ、てへっ」

「注射器・・・」

「そうだよ、注射器。その注射器が、たーーーっくさんの、人を、殺すのさ」

「そんな事はさせない!安樂栄治!お前は、私が!」

憤り立った惠が前川に詰め寄る。しかし前川こと安樂栄治は、カウンターのコップ酒を手に取り、それを惠に突き付ける。

「まぁまぁまぁ、飲みなさいよぉ」

惠はそれを力一杯払いのける。清酒を撒き散らしながらガラスコップが宙を舞い、地面に落ち大きな音と共に砕ける。

ガシャーン

そのガラスコップの軌跡の先に、宗利が立っていた。

「あ、安樂、安樂栄治って、惠・・・に、妊娠って・・・僕が、僕が北の人の為に用意したあの注射器が、なぜ・・・前川さん・・・僕を、僕を騙したんですか・・・」

「はい、そうですよ宗利くん、だからぁ、惠ちゃんとお幸せにって言ったのにぃ、宗利くん、自分から熱くなってんだもん、面白かったよぉ、宗利くん、ぷぷぷ。惠ちゃん、これで借りは返したよ。自分たちの所為で沢山の人が死ぬ。それを背負って生きて行ってね」

宗利が踵を返しその場を走り去り、惠は安樂を睨んだ後、宗利を追って走り出した。その背中に安樂は言う。

「お幸せにねー!今までありがとー!大好きだったよー!」

安樂は満面の笑顔で二人に手を振った、しかし、その直後、安樂の胸に激痛が走る。

「ウグッ・・・オゴォ・・・」

「どうされました、安樂さん」

屋台の親父が慌てて奥から表に周り、安樂の傍による。

「大丈夫ですか」

「オゴォアァァー!あの女、やりやがったなぁぁぁ!」

そう、先程の一瞬、清酒のコップを払いのけた瞬間、惠は安樂の闇をほんの僅か、自分の中に取り込んでいたのだ。それにより、安樂の中の天使の羽が勢いを増す。すると、それは安樂にこの上ない懺悔を迫る。人の闇とは、育つ質(もの)、悪徳を積み重ねていく過程で、善意は麻痺をし、やがて鬼畜と化し、冥府魔道へと堕ちて行くものなのだ。レバノンの内戦で人を殺しまくり、自分の母親を犯し、殺し、その先で安樂は冥府魔道を歩いて来た。深い、深い魔道の、闇に被われていた空に、天使の羽が舞う。天使の羽は安樂の罪を炙り出し、後悔と懺悔が安樂の中で波打った。

・・・ごめん・・・なさい・・・

「うがぁぁぁ!やめろやめろやめろ!やめやがれぇぇぇ!」

安樂は湧き上がる後悔と悔いを力尽くで我が身の内へと沈めこもうとする。しかし、一旦タガの外れた善意は、安樂のいる冥府を席巻して行く。

「くそぉぉぉ、滅茶滅茶にしてやるぅぅぅ!この世界も、そして惠、お前も、俺の闇に、取り込んで、必ず滅茶滅茶にしてやるからなぁぁぁ!」


「昌子、どうだ、あの女と連絡は取れたのか」

「駄目、何度呼び出しても出ない、そんな子ではないと思っていたのに・・・あなたの方はどうだったの」

「駄目だ、電源が入る気配がない。宗利の身に何か有ったとしか思えん」

宗利の住んでいたマンションはもぬけの殻で、一切の連絡が途絶えた宗利を探す術を、宗嗣と昌子は見失っていた。

「あなた、あのモンテカルロ探偵事務所の所長に訊けば、何か分かるかもしれないのじゃ・・・」

宗嗣は昌子の顔を見ながら、携帯のアドレスを手繰り、モンテカルロ探偵事務所に電話を入れる。

「はい、モンテカルロ探偵事務所です」

「こ、こんにちは、片山です、単刀直入にお伺いしたい、宗利の行方を、ご存じありませんか」

「行方不明になった、と云う事ですか」

「ええ、ここ数日、全く連絡が取れなくなってしまったんです」

「そうですか・・・もしかしたら・・・」

「な、何か、何かご存知なんですね」

「片山さん、今からお時間」

「大丈夫です、以前にお伺いした事務所でよろしいですか」

「ええ」

「す、直ぐに向かいます」

宗嗣と昌子が事務所の扉をノックすると、顔色の優れない所長の前川が直ぐに施錠を開けた。

「前川さんどうされました、顔色が優れないようですが」

「ええ、数日前から少し、過労かもしれません」

「もしよろしければ、触診しましょうか」

「いえ、それには及びませんよ」

前川はそう言いながら、デスクの引き出しからクリアファイルを数冊持ち出し、テーブルの上に置く。

「私も長いこと探偵事務所をやっていますが、珍しい出自の女ですね、あの惠と云う女。気になったのでね、少し、個人的に調べてみました。まぁお掛けになって」

前川に促され、宗嗣と昌子がソファーに腰を落とす。慣れた手つきでクリアファイルから抜き出した資料を、前川は時系列に並べていった。

「私が思う所、彼女は、天性の詐欺師ですね」

前川のその言葉に、宗嗣と昌子は一度、顔を見合わせ、再び前川の手元の資料に視線を落とす。

「ご覧下さい、彼女は幼少の頃から、この宗教法人で生き神様と崇められ、カウンセリングの様な事をやっていたようです。なんでも、彼女に悩みを話すと、立ちどころに心の不安が消えてなくなると評判になり、一躍有名になったみたいですよ」

宗嗣と昌子の視線が前川の顔に移る。

「幼少の頃からこの様なカウンセリングの経験を積み、東大医学部を出て、優れた精神科医になったのだから、彼女、もはや詐欺師としては、神の領域に到達しているのではないでしょうか」

宗嗣と昌子は前川の顔から少し上に視軸をずらし、その空間の先で惠との会食を思い出す。

「釈迦に説法もどうかと思いますが、ご存知の様に、人間の意思疎通は言語が半分、残りの半分は仕草、表情、そう言った外観的要素から受け取るものです。彼女はその点、幼いころから人を騙す英才教育を受けていたと言っても過言ではない。更に人の感情についてはプロフェッショナル、エキスパート、否、権威と云えるレベルに到達している。片山さん、貴方達は、騙されているんですよ、あの女に」

確かにそうなのかもしれないと宗嗣と昌子は思った。彼女に対しての不信は、彼女ではなく、彼女の出自のみなのである。会食の時も、更に昌子にしてみれば個人的に一度、二人きりで話もしている。その中で彼女に対して持った印象は、誠実で常識的で、かつ優秀にして人柄の良い女性と云うものだった。あれがもし意図的な印象操作であるとしたら、まさしく彼女は天性の詐欺師なのであろう。

二人の顔が段々と青ざめて行くのを前川は冷静に見ている。

「警察に捜索願は?」

「いえ、まだですが」

「そうですか、ならばおよしになった方がいい」

「な、何故ですか」

「宗利くん、ここ数年、発覚しないように手を尽くして、注射器を大量に入手しています」

「注射器って、い、いったい何故、そんな事を」

「その注射器は、全て、インスリン用のペン型注射器なのです。ここまで言えばもう、お判りでしょう」

「ま、まさか、そ、そんな、宗利がそんな事を!」

「悪いのは宗利くんではありませんよ片山さん」

前川は別のファイルから一枚資料を抜き取り、二人の前にそれをかざす。

「オウム真理教を御存じでしょう。あの宗教団体が、敷地内で覚醒剤を製造し、それを流通させていたのは有名な話です。この国の宗教法人の多くは裏社会の人間、つまり、ヤクザが運営している。彼女の出自を考えると、覚醒剤絡みの事件に、宗利くんは巻き込まれている可能性が高い」

「前川さん、貴方が口の堅い人だと云うのは良く存じております。何とか、何とか警察沙汰にせずに宗利を連れ戻す方法はありませんか。お金なら、幾らでも用意します。おねがいです、息子を、宗利を救ってください」

「警察を当てにせずと云う事になると、少し、時間が掛かりますが、それでもよろしいですか」

前川のその言葉に昌子が異論を唱える。

「駄目よあなた、時間は無いの。あの女のお腹には、宗利の、宗利の子供が」

前川はそこで意図的に目を閉じ、重苦しい沈黙を作る。そしてしばらくの後、徐に口を開いた。

「いいでしょう。最悪の場合、私に考えがあります」

「考え、と、言いますと、どんな・・・」

「訳あって、私は中東、特にサウジアラビアに多く知人が居ましてね。サウジアラビアでは他国の子供を養子に迎えたいと願う方が沢山、居るのです」

「そ、それは、本当なのですか」

「ええ。日本の国内で誰かに養子に出しては、後に禍根を招く恐れがありますが、サウジアラビアなら、その心配はない。経済的にも惠まれた環境で成長出来ますしね」

「本当に、そんな事が出来るのでしょうか」

「出来ますよ、ただし、お二人の協力が必要になりますが」

「大丈夫です、息子を救えるなら、どんな事でもします」

「いいでしょう、ではさっそく、捜索を始めましょう、ぷぷぷ」


拝啓、親愛なるお父さん、お母さんへ

こんな手紙を書くのは、もしかしたら幼稚園の時、以来かもしれません。勿論、小学生の時も、お父さんとお母さんへ手紙を書いた事は何度かあります。でも、その手紙は、自分の真意ではなく、雛形に沿った、無難な内容を選んだに過ぎませんでした。それは何故か。それは、僕が人ではない、何かであり、こんな事、誰にも打ち明ける事なんて出来なかったからです。

僕が、自分は人とは違うと気付いたのが、丁度、幼稚園の頃でした。ある日、大好きなお友達と手をつないだ時、何故かその子が、僕の事を嫌っているのが判ったのです。僕はその子に尋ねました。「ねぇ君、君は僕の事が嫌いなの」そうするとその子は少し驚いた顔をしたけれど、首を横に振って、そのまま僕と手をつないで歩いてくれました。

人は、本心とは違う事を言い、本意ではない行動をするのだと、僕はその時に知り、それと同時に、自分は人と違い、他人の心を勝手に見る事が出来るのを知りました。他人の善意は、意識を集中すると視る事が出来ます。でも、人の不安や悲しみ、苦しみ、とりわけ悪意は、手に触れるだけで勝手に自分の中に飛び込んで来るのです。それが辛くて、苦しくて、僕は臆病になり、他人と関わる事を極端に避けて来ました。

しかし、自分は片山家の跡取りであり、医師の家系で医師になる以外、選択肢がありませんでした。僕は、自分が最も辛いであろう、他人に触れ、他人を診る職業に就かねばならなかった。でも、それでも僕が医師になったのは、お父さんとお母さんを、そして片山家の、人の命と向き合う真剣さを、心から尊敬していたからです。僕は、このままではいけないと思い、医師として働きだす前に、この臆病で弱い自分を変えたくて旅に出ました。

紛争を抱えた国々を自分の足で周り、数々の人の死に直面して、僕は初めて本当の意味での命の大切さと、それを育む祖国とは何かを知ったのです。平和な日本で平凡に暮らしていては、それは決して気づけない大きな悟りでした。そして僕は、その気付きと共に、アメリカと云う国の醜い差別主義に大きな危惧を感じたのです。

大東亜戦争の戦勝国として、そして屈指の核大国として、軍事国家の最先端を走り続けるこの国が、戦争を止めない事。これは世界にとって、人類にとっての大きな、大きな闇です。そんなアメリカを相手に一歩も譲らず、アメリカに核放棄を呼びかけ、アメリカが核武装を解かない限り、自分たちも核開発を辞めないと、敢然と闘いを挑む小さな国が有りました。

朝鮮民主主義人民共和国。

僕は、手を伸ばせば届くほどに近隣にあるこの国に、尊敬と敬意の念を持つ事になり、そんな時に出逢ったのが、前川、否、安樂栄治だったのです。僕は彼の元で、北朝鮮の工作員として働く事を決めた、それは、安樂栄治と云う人が、もしかしたら、僕と同じ、人ではない何かだと感じたからです。彼の心は、他の人の様に視ることが出来なかった。そして彼も僕の事を視ることが出来ない。僕は生まれて初めて、自分と同じかもしれない人と出逢ったのです。でも、それがいけなかった。

僕は、他人の心が見える事に慣れてしまい、自分が騙されると云う事に無防備だった。

僕は彼に騙され、彼の言葉を信じ、彼の恐ろしい計画の一端を担ってしまった。僕が善意で送り続けて来たお金と、医療器具、とりわけ注射器が、多くの人の命を奪うと、彼は言いました。

お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください。僕は、自分の過ちを、この命に代えて、あの安樂栄治を倒し、償うしか、もう他に何も見い出せません。でも、もう少し、僕は生きます。お二人の知る通り、惠のお腹には子供が居ます。まだ妊娠五か月ですが、性別はもう分っています。男の子ですよ、お父さん。僕と惠は、この子に宗司、片山宗司と名付けました。この子が、僕に代わって、きっと、きっと片山家を継いでくれる。僕は、この子が生まれるまでは、惠を支えます。彼女は僕と違い、僕の最も嫌う差別の中、それでも自分を貫き医師となった強い人です。

お父さん、お母さん、どうか、差別等と云う醜い心は捨てて、惠と宗司を、お願いします。そして彼女に、宗司に、沢山の愛情を、僕にしてくれたように、与えてあげてください。悪いのは騙された僕であり、惠と宗司には何の罪もありません。どうか、どうか、差別を捨てて、惠と宗司を、愛してください。最後まで傍に居てあげられなかった僕の分まで、愛してあげてください。

                              宗利


そう書いた文書を宗利がMicroSDに移し文書をパソコンから削除した時、遣れた玄関の扉を開く音と共に、惠の元気な声が聞こえた。

「ただいまーねぇねぇ宗利、今日は、じゃーん、すき焼きだよ。そこのリサイクルショップでこれ見つけたの、すき焼きも出来るホットプレート」

宗利は手元のパソコンを机の奥に押しやり、笑顔で惠のそれに応える。

「やったー!惠、でかした!お肉を食べるの久しぶり、楽しみだねーって、惠さん」

「はい、なんでしょう?」

「どうして最初から、お鍋に水が?」

「え?すき焼きって、お水入れないの?」

「わーーー!危なかったぁ!駄目だよ、すき焼きは最初に、お肉を焼くんだよ!」

「えーー!そんなことしたらお肉が固くなるじゃない!こう、お湯に浸して、柔らかいうちに食べ・・・」

「おいおいおい、惠さん?それ、しゃぶしゃぶですから」

「マジかー、知らなかった、てへっ」

「てへってあーた、こっちがマジかーって言いたいわ!更に惠さん」

「な、なんでしょう?まだ有るの?」

「お肉、まだ少し凍ってますが」

「えーー!焼くなら溶けるからいいじゃない」

「ダメー!駄目だよ!凍ったまま焼くなんてもっての外!」

「そうなの?」

「そうだよ、ったく、もう少し待とう」

「はーい」

五分経過・・・十分経過・・・

「ねぇ、宗利」

「はい」

「まだ?」

「まだですよ」

「もう!電子レンジ欲しい!電子レンジをこんなに欲しいと思った事、今まで一度もなかった!」

「ダメ!それも駄目!お肉は自然解凍が一番なんだから」

「どうして?」

「電子レンジで解凍すると、肉の細胞膜が熱変性で破れてえ、旨みが全部出ちゃうんだよ」

「あーん、待てない待てない待てないーー」

惠が駄々っ子の様にそう言うと宗利が小さな食卓越しに惠の下腹部に手を伸ばす。

「もう、駄目なママでしゅねー宗司くーん」

そう言って宗利が惠の下腹部に触れた瞬間だった。

「あ・・・」

「あーーーー!」

「分った?」

「うん!分かった!動いたよね」

「うん、動いた動いた!宗司、パパの声、聞こえたんだ」

              8

「待って、宗利」

宗利に追い着いた私は、宗利のセーターの裾を掴み、宗利を引き留めた。宗利は意外にも私の静止に従がい直ぐに走るのを辞めてくれた。

「宗利、聞いて、言おうと思っていたの、赤ちゃんの事・・・でも、その前に、あの男だけは、あの男だけはなんとかしないと、そう思って」

「惠、駄目じゃないか」

「え・・・」

「そんなに走るなんて、流産したらどうするんだ。無茶をしないでね、もう、自分だけの身体じゃないんだから」

「宗利・・・」

「行こう」

「行こうって、何処に」

「何処でもいいよ。僕らの事を、誰も知らない人たちが住んでいる場所なら」

私は、何が重要か、その優先順位を心得ていた。宗利にとって、私にとって、そして彼を取り巻く、彼の大切な人々の為に何をどうするべきか、解っている筈だった。しかし、私の身体を思い遣り、その彼を取り巻く全てを捨てて、私とお腹の子供を彼に抱きしめられた時、私は、もう誰かの事を考えるのを辞めてしまった。

それは、たった今、とり込んでしまったあの男の闇がそうさせたのかもしれない。でも私は、自分の意志で、彼の両親を裏切る決意をした。もう彼を、どんな事をしても、誰にも渡さない。世界が滅びても、未来永劫、彼を、私の物にしよう。私はあの時、そう心に決めてしまった。

携帯電話の電源を切り、シムカードを抜いて駅のゴミ箱に捨てた私たちは、財布を出して中にある現金を確認した。北朝鮮の工作員であるあの男を相手に、クレジットカードいやキャッシュカードを使うのは危険だと考えたからだ。現金は二人合わせて八万円。これでは直ぐにお金が尽きてしまう。私たちはそのまま電車に乗り、唯一の頼みの綱である「あすなろ園」の曾根さんを訪ねるしかなかった。

事情を説明すると、曾根さんは全てを受け入れ、私たちの為に動いてくれた。今時、お風呂も無いアパートではあるけれど、住む場所を確保してくれ、曾根さんの信用で、鉄工所のパートの仕事も紹介してくれた。小さな家族経営である工場の社長は、当面の事を考え、日払いで現金を支給してくれる。私たちはそのお金を少しずつ貯め、リサイクルショップで家財を揃えた。

「ねぇ、惠、辛くない?」

私は貧困の出身であり、貧乏などなんとも思わない。寧ろ辛いのは宗利の方だろう。彼はこんな極貧を経験した事など無いだろうし、工場での肉体労働だって相当にきつい筈だった。

「ううん、大丈夫、宗利が居てくれたら、私はそれで幸せだから」

なのに彼は、自分の辛さなどおくびにも出さず、私を思い遣り、そんな風に何時も言葉を掛けてくれる。この人となら、どんな事でも出来る。どんなに辛い事でも、どんなに苦しい事でも、きっと乗り越えて行ける。私はそう確信していた、でも、そんな幸せな時間は長く続かなかった。

「宗利、シャンプー入れた」

「うん、入れた入れた、大丈夫」

「はい、じゃこれ、もう百円、渡しとくね」

「サンキュウー、週末のフルーツ牛乳、楽しみだね」

「うん」

私たちの住むアパートには風呂が無く、最近はめっきり少なくなってしまった銭湯に通っていた。週末の入浴の時だけ、私たちはささやかな贅沢をする、それは銭湯の中でフルーツ牛乳を飲む事だった。

出産予定日を八日後に控えたその日、日本の西には高気圧が、東には低気圧が位置する冬型の気圧配置で、北寄りの風が強く、日中からとても寒さの厳しい日だった。

私たちは工場の社長が仕事用に貸与してくれた作業用の防寒服をお揃いで着て、銭湯へと向かい、歩き出した。

川沿いに植えられた銀杏の梢が、痛々しい程に冷たい夜空を突き刺している。昔から冷え性だった私は寒さがとても苦手だった、でも、今は違う。今は、宗利が私の肩を抱いてくれるから。彼の温かさを余計に感じる事が出来るのなら、冷え性もさほど苦にはならなかった。

「じゃ、後で」

「うん、先に上がっても、外で待たないで、冷えるといけないから」

「分った、今日も上がったら声掛けて」

「うん」

昔ながらに「ゆ」と一文字書かれた濃紺の暖簾を潜り、私たちは銭湯に入った。入浴料を番台で支払った後、宗利の手には百円が残っていた筈だった。週に一度の贅沢をする為の百円硬貨は、その日、別の事に使われた。その硬貨は、銭湯に備え付けられた古い公衆電話機に吸い込まれたのだ。私はそんな事など、何も気づかないまま、湯船に浸かっていた。宗利がどんなに苦しんでいたのか、宗利がどんなに罪の重みに耐えていたかなど、まるでしらないまま、最後が訪れるなんて、思いもしないで。

・・・もしもし、母さん、宗利です・・・

翌週の週末も、二人は同じ様に銭湯でささやかな贅沢をした。惠は湯船から上がり脱衣所に出た。まだ湯気の上がる身体をバスタオルで丹念に拭いて行く。

「さてと、お楽しみのこれこれ」

拭き終わると、脱衣所の隅に置かれたガラス張りの冷蔵庫から、惠はフルーツ牛乳を一本取り出し、番台に座る老婆の元に精算に行く。

「すいません、おばーちゃん、これ一本」

老婆は硬貨を受け取りながら、大きく張り出した惠のお腹に目を落とす、

「はいよ、ありがとね、惠ちゃん、あら、いよいよだね、頑張るんだよ」

「はい、ありがとう、おばーちゃん」

惠は楽しみにしていたフルーツ牛乳をゆっくりと味わいながら湯上りの火照りを冷ます。暫くして惠は、備え付けのドライヤーで髪を乾かし始めた。宗利を待たせては悪いと思いながらも、この季節、綺麗に乾かしておかないと、アパートに戻るまでに洗い髪が芯まで冷えてしまう。だが、ドライヤーを終える頃、惠は違和感を覚える。何時もならもう、宗利が番台の向こう側から声を掛けて来てもいい筈なのに。しかし、惠に声を掛けて来たのは宗利ではなく、老婆だった。

「惠ちゃん」

「はい?」

「外で待っている人が居るわよ」

「あ、はーい、ありがとうございます」

・・・どうしたんだろう、宗利・・・

小さな違和感が疑問に変わる。惠は急いで支度を整え、年季の入った引き戸を開ける。

「あっ!」

しかし、空きの多い下駄箱のあるフロアで惠を待っていたのは、宗利ではなく、昌子だった。

「先週の週末、宗利から連絡があったの、貴女の出産予定日が明日だって」

「む、宗利が・・・」

「全部あの子から聞いたわよ。お金も無く、母子手帳も保険証も無くて、貴女、どうやって子供を産むつもりだったの!」

「彼に、取り上げてもらう予定でした・・・」

「ふざけるのもいい加減にしなさい」

バチンッ

昌子が惠の頬を叩いた。

「そのお腹の子を何だと思っているの!宗利の、片山の血を引いた子供なのよ!」

昌子は惠を叩いた後、惠の右手を掴む。惠は持っていた、リサイクルショップで宗利とお揃いで買った洗面器を床に落とす。

「来なさい」

昌子は落ちた洗面器に見向きもせず、惠の手を引き強引に外に出た。路上に停められている白いセダンの中で、眉間を狭くした宗嗣が運転席から顛末を見ている。

「さぁ、乗りなさい!」

惠は無言でセダンの後部座席に昌子と共に乗り込む。もはやどんな言い訳も通用しないだろう。けれど、昌子の言葉に惠は一抹の安心を覚えていた。

・・・宗利の、片山の血を引いた子供・・・

昌子が言ったその言葉は、たとえ自分がどうなろうと、この子だけは、宗司だけは、救って貰えるのではないだろうか。

「お母さま、彼は、今どこに」

「荷物をまとめにアパートに戻っている筈よ」

惠は項垂れ、それから先は無言で、宗嗣、昌子のそれに従う覚悟を決め、車内は一切の沈黙が貫かれていた。もっと色々と詰問を受けると思っていた惠にとって、それは不気味な沈黙だった。そんな沈黙の中、車が片山総合病院に近くなる。そこで、いよいよ本格的に陣痛の痛みが惠に襲い掛かる。二日前に前駆陣痛が来たことから、それは本陣痛の始まりなのだと惠は理解する。

「もうすぐ着くわ」

そう言って昌子が惠に視線を向けた時、惠の陣痛は10分刻みになっていた。

「どうやら間に合った様ね」

病院に着くと、救急出入口では、もうスタッフが待機をしている。惠は物々しくストレッチャーに乗せられ、いきなり分娩室へと運ばれた。まだ開口期を過ぎたばかりで分娩室に入るには早い。

「お、お母様、う、う、な、何故、うぅ、あぁ」

「貴女は私を裏切って検診に来なかった。だから胎児の状態が分からないのよ。全身麻酔の帝王切開で安全に胎児を取り出します」

「ご、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい、お母様、うぅ・・・」

昌子は、陣痛に苦しみながら自分に謝罪を続ける惠を見下ろし考える。前川の調査内容、状況証拠から考えても、間違いなくこの娘が宗利をたぶらかしたに違いないのだ。それなのに、湧き上がる憎しみの中に、どうしても拭えない違和感があった。

・・・何なの・・・この胸騒ぎは・・・

惠の腕に全身麻酔の点滴が施される。麻酔は直ぐに惠の意識を朦朧とさせた。気道確保の管が気管に通された辺りで、惠の意識は完全に失われる。

・・・宗司・・・どうか・・・無事に・・・産まれて来て・・・

そう願った次の瞬間に、意識が戻った感じがした。まだ覚束ない視界には他の職員の姿が無く昌子一人が付き添っていて、生まれた筈の宗司の姿も何処にも無い。

「お母さま、私の、私の赤ちゃんは、何処に」

「惠さん」

「は、はい」

「落ち着いて聞いて頂戴」

「え・・・」

「エドワーズ症候群を御存じ」

「あ、あの、18トリソミーの事ですか」

エドワーズ症候群は染色体異常により発症する先天性疾患群のひとつ。胎児の18番染色体が3本1組のトリソミー(三染色体性)となってしまうことから18トリソミー(Trisomy 18)とも呼ばれる。エドワーズ症候群に見られる特徴としては低体重であることや小さい顎や耳介低位、指の重なりなどの外観の他に、重度の心疾患が発生するこがあり、生後の生存率も低く、2ヶ月までには半数が亡くなり、1年生存率は10%程度。出生時の体重は2200グラム以下と低体重であり、著しい成長障害や精神発達遅滞が見られる。

「そうよ」

「ま、まさか」

「そのまさかよ。惠、否、神崎さん、貴女のお子様は、残念だけれど、お亡くなりになったわ」

「そ、そんな!嘘よ!赤ちゃんに、宗司に会わせて!」

「神崎さん、貴女はこれで、片山家には何の関係も無い人間になった。出て行って。直ぐにここから出て行ってちょうだい」


宗利は惠を銭湯に置いて、そのままアパートに戻つた。部屋の遣れた扉を開くと、どうやって入ったものか、そこにはあの男が座っていた。

「ごめん、ごめん、外、さっぶいからぁ、入らせてもらったよ、こんばんわぁ宗利くーん」

「こんばんは、前川、否、安樂さん」

宗利はそう言いながら安樂の前に歩み寄る。

「君は、この日本と云う国、そのものだね」

「え?」

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

「日本国憲法第9条・・・」

「ぷぷぷ、そうそう、まるで君の事の様だろ?戦争を放棄します。戦力を持ちません。国の交戦権を否定しますってね、馬鹿じゃね?君が今その掌に隠し持っている刃物は、喩えるなら、この国の自衛隊だ」

安樂は立ち上がり、宗利の顔に自分の顔をグイっと近づける。

「ほらね、攻撃できないだろ?」

「うぐっ」

「君の手にある刃物は、十二分に僕を殺す威力があるのに、君はそれを僕の身体に突き立てられない。何が君をそうさせているのか、考えてごらんよぉ」

安樂は宗利の手首を万力の様な力で掴む。

「あうっ」

「ぷぷぷ、ほらほら、ね?こうなって初めて、君は僕に対しての攻撃を考えている。どうして僕が座っているうちに、襲い掛かって来なかったの」

「うがぁぁ」

安樂に捻りあげられた宗利の手からナイフが床に滑り落ちる。

「戦後の日本人は、道徳の時間に、人を騙してはいけませんって教育をうけるの。でもね、中国人や朝鮮人は、人に騙されてはいけませんって、そう親に教育をうけるの。この違い、解かるかい」

安樂はナイフが床に落ちるのを確認すると、体を入れ替え宗利の関節を決める。

「おわぁぁ」

「戦後72年間、GHQのWGIPで骨抜きにされ、振り上げた拳を振り下ろすことにためらいを感じる君たち日本人は、もう僕らの敵ではないんだよ」

宗利の自由を完全に奪った安樂は、懐からスルスルと忍ばせていたロープを抜き出す。

「ほらぁ、先制攻撃をしなかったから、もう君は僕にされるがままになっている。君たち日本人は、何を勘違いしているんだい」

安樂は抜き出したロープをゆっくりと宗利の頸に巻き付けて行く。

「じゃあ、質問だよ、もし憲法に、いかなる台風も、この日本国には上陸しないって条文を書いたら、台風は日本を避けて通ってくれると思うの?憲法9条に戦争はしませんって書いたら、他国は、そうだねって、日本は戦争しないんだよねって、侵略を諦めてくれると思うの?」

安樂が手に力を込め、巻き付けたロープをゆっくりと引いて行く。

「オゴォア!」

「折角アメリカが骨抜きにしてくれた国だ、ぷぷぷ、遠慮なく、僕らが戴くとしよう。安心して彼の世で見ているといいよ、宗利くーん」

そう言うと、安樂は一気にロープを引く。それが合図の様に、宗利の全身の筋肉が硬直し、宗利はポケットのMicroSⅮを握りしめた。

・・・惠・・・・宗司・・・・・守ってあげられなくて・・・ごめん・・・

            10

「前川さん、大変な事になりました・・・」

応接室に入って来た宗嗣は、懊悩を露わに、開口一番、ソファーに座る前川にそう話した。

「どうされたんです」

「生まれた子供が、18トリソミーと云う、染色体異常の先天性疾患群だったのです。これでは、養子に出すなど、到底・・・」

「お引き受けしますよ、片山さん」

「え・・・」

「片山さん、彼方が誠実でありたいと言うなら、無理にとは言いません。しかし、誠実であろうとするなら、この病院も、地位も名誉も、全てを失う事になります」

「・・・」

「徳川の昔から続く片山家。貴方の代で終わらせてもいいのですか」

「ま、前川さん・・・」

「勿論、それ相当の手数料は請求させていただきます。但し、私は他人には、どんな高額を積まれても、依頼者の守秘義務を守るのは、ご存知でしたね」

「分りました。何卒、何卒、穏便に、よろしく、お願い致します」

「承知しました」


別れ

本当の悲しみに直面した瞬間、人は泣いたりなんかしない。処理できないほど重いストレスは、時間を掛けて分解され、分別される。感情がそうして整理される過程で、段階的に人は悲しみを受け入れるのだ。そして、その悲しみを洗い流す為に、涙と云う液体は有るのだろう。

「お母さん。、私、私・・・」

「いいの、惠ちゃん、さぁ、もっと泣きなさい、もっと、もっと、思い切り泣いていいのよ」

辰子は惠の肩を抱き、そのまま胸元で優しく頭を撫でてやる。惠は嬰児の様に泣いた。何が悲しい等、考える事も無く、辰子の優しさに解体された悲しみを、泣いて、泣いて、その悲しみを受け入れるべく泣き続けた。

何処をどう歩いたろう・・・どれ程の時間、歩いたろう・・・

私は何時の間にか、宗利と暮したアパートの前に居た。魂の抜け去った肉体と云うのは、どんな汚物よりも醜悪であり、その肉体に宿る魂を生前、愛していれば愛しているほど、魂の抜けた亡骸を見た時の嫌悪感は大きくなるものではないだろうか。遺体を前にした時、人はその肉の塊にまだ、命の名残を見ようとする。そして、藁にも縋る思いで、愛して止まなかったその人の魂を、その朽ちた肉の中に探そうとする。

しかし、私は医師だ。朽ちた肉の中にもう彼が居ない事は、一目で理解できる。

私は彼の変わり果てた姿を見て、涙を流す事も無く、自分が如何に彼を愛していたか、それを取り乱した態度で表現する事も無く、唯、異臭を放つ朽ちた肉に、嘔吐し、嫌悪に眉を顰めただけだった。それを見た彼の両親は、最初、信じれれないものを見る目で私を見、そして、私の態度を自分達の価値観で判断する。

「あなたは、あなたは、なんて人なの、私が間違えていたのね、あなたは矢張り、その報告書にある通り、冷酷で、残忍で、狡猾な人だった」

私にあの報告書を投げつけながらそう言う彼の母を、あの時、私は、どんな顔で見ていたのだろう。

「あなたさえ現れなければ、私たちは、幸せな日々を送れたはずなのに、あなたさえ居なければ、宗利はこんな事にならなかったのに」

・・・私さえいなければ・・・こんな事にならなかった・・・

「この人殺しぃぃぃ!」

悲鳴にも似た甲高いその声と共に、彼女は私に襲い掛かって来た。殴られて、殴られて、殴られて、殴られ続けた。しかし、どんなに殴れても、少しも痛いと思わない。怖くもなく、悲しくもなく、苦しくもなかった。彼女が降らす涙の雨が、夏のスコールの様に生暖かいと感じ、それがとても不快感だった。阿修羅と云う神様は、きっとこんな顔をしているのだろうと、意味不明の事を考えていた。

「おい!昌子!もう止めなさい!」

宗嗣に羽交い絞めにされ、しかし昌子はそれでも渾身の力で拳を惠の顔に振り下ろそうとする。

「おい、お前!息子を殺しておいて、私の妻まで人殺しにする積りか!消えろ!二度と私たちの前に現れるな!死ね!勝手に何処かで死んでしまえ!」

・・・死んで・・・仕舞え・・・勝手に何処かで・・・シンデシマエ・・・

「惠ちゃん」

惠は辰子の胸に顔を埋めたまま、辰子の言葉に耳を傾ける。

「私がそんなに長くないって分ったのは、何時」

「お、お母さん」

「貴女は彼と、宗司君の元に行こうとしていた。それを私が止めた。貴女が私の静止を聞いてくれたのは、私が癌で、もう長くないと知ったからでしょ」

「・・・」

「惠ちゃん、貴女は堕天使なんかじゃないわ。貴女は何時だって、こうして、誰かの事を気に掛け、思い遣って生きている。駄目よ、このまま終わっては駄目」

「でも、もう私には」

「貴女、彼の事を信じていないの」

「それは・・・」

「彼が最後に何を思い、何を考え、どう行動したのか。貴女は知るべき。安樂栄治を探しなさい。大丈夫、うちの子はデリカシーは無いけれど、勘だけは鋭い。それにね、あんな怖い顔しているけどね、本当はとっても優しい子なのよ、秀夫!何時までそんなところに居るの!入って来なさい!」

辰子が誰も居ない玄関にそう声を掛けると、牧田が扉を開き中に入って来る。

「母ちゃん」

話を聞いていた牧田の目は、真っ赤に充血していた。

「秀夫」

「母ちゃん、酷いじゃねーか、何で言ってくれないんだよ」

「何を言ってんだい、あんたに話したところで、私の寿命が変わる訳でもなし、あんたの鉄砲玉が直るわけでもなし」

「でもよぉ、それでもよぉ、黙ってるなんてよぉ、酷ぇじゃねーかよぉ」

全身をゴリラの様な筋肉で固める大男の牧田が、子供の様に辰子の膝元に蹲り、大声で泣きだす。

見境が無い程の純粋だった。純粋に辰子の命を思い遣り、唯、真っ直ぐに、何を顧みる事も無くこの男は泣いている。子供の様に穢れなく、無邪気に、恥じることもなく堂々と、この男は全身で泣いていた。

「秀夫、いいかい、母ちゃんの最後の頼みだよ」

大声で泣く牧田の背中に辰子が触れる。

「惠ちゃんを、助けてあげて頂戴」

声にならない奇声を上げ、しかしそれでも牧田は辰子の言葉に頷いて見せる。金城の元に来て、駆け出しで金の無かった秀夫に、「出世払いでいいから」そう言って毎日飯を食わせてくれた辰子である。その外見と腕力を恐れて、誰も自分に近付かない、逆らわない中、正しい事は正しいと、間違っている事は間違っていると、毅然と、そして本気で叱ってくれたのも辰子である。辰子は、両親の居ない秀夫にとって、血の絆を越えた、母親以上の母親だった。

「母ちゃん、病院は」

ひとしきり泣いた牧田が鼻をすすりながら辰子を見上げる。

「秀夫、人間には寿命ってのがあるんだよ。それは尊くお受けするもんだし、妄りに足掻いて生きようとするもんでもない。終わる人は終わり、生きるべき人は生きる。病院なんかに行かなくても、死ぬ時が来たら、私は死ぬんだよ」

「そんな事言うなよ、俺は、俺はどうなる、母ちゃんには、母ちゃんの飯を食いたい息子が、大勢いるんだぜ」

「馬鹿たれ!男はね、親が死んで、ようやく一人前になれるんだ、そろそろあんた達も一人前になれって事なんだよ、直輝!宏太!勇樹!それから高橋君も、中に入ってらっしゃい」

「あ、あの母ちゃん、み、店はもう、片付いてるから」

「直輝、何時もありがとう」

「え・・・」

「あんたが私の所に隊員たちを連れて来てくれるから、揉め事の多いこのスラムで、私の店だけは何時も、治安が保たれていた」

「いや、俺は別にそう云う積りじゃ」

「宏太も優樹も、何時も私の店を、それとなく守ってくれて、ありがとね」

「か、母ちゃん」

「高橋君」

「はい」

高橋が珍しく携帯画面から辰子の顔に視線を移す。

「貴男はこの子達と少し立場が違うから、色々と気苦労も多いわね」

「お、お母さん」

「あんた達、あんた達は、こんなハードで危険な仕事を、何故しているの」

「それは、国家、国民の安全を守る為ですよ」

「国家、国民と云うのを決めているのは何」

「それは、日本国憲法です」

「では、あんた達の自衛隊は、憲法で認められているの」

「そ、それは、でも、我々が居なければ、この国は」

「憲法であったり、法律であったり、そう云った決まり事を守るところから国は成り立つけれど、国家、国民を守る為には、時には違法と言われても、立ち上がらねばならない時がある、それが、自衛隊でしょ」

「はい、たとえ国民の理解を得られなくとも、我々はこの国を守る為に、戦います」

「法律を破っても、憲法を曲げても、目の前にある、優先されるべき人命を守る、それが、あなた達ね」

「はい!その通りです」

「それでは、ひとつだけ、これは、私の遺言だと思って聞いて欲しいの」

その場の全員が辰子を注視(みつめ)る

「憲法を守らなければならない時も、法律を守らなくてはならない時も、組織の決まりよりも、どんな決まりを守らねばならない時も、それよりも貴男たちは、自分の手より小さな手を優先して守りなさい」

「自分の手より、小さな、手・・・」

「どんな国の人も、守りたいものはひとつよ。あんた達は、それを守れる人達だと、私は信じている。どんな時も、自分より弱い、自分より小さな手を、貴男たちは守れる男になりなさい、好いわね、だから惠ちゃんの事を、助けてあげて。惠ちゃんを助ける事で、あんた達が本当に守るべきものに突き当たる気が、私はするの」

辰子の、迫真のその言葉は、全員の胸を貫き、そしてその場の全員が涙した。

「さぁさぁ、あんた達、明日も仕事でしょ、帰って、寝なさい、寝なさい」

全部を話し終えると、辰子は一転して何時もの辰子に戻り、その場の全員に帰るよう嗾(けしか)けた。山田が優樹の肩を、高橋が宏太の肩をそれぞれに叩く。その軽い痛みの感触に促される様に四人は何も言わず踵を返した。

「母ちゃん」

「秀夫、あんたも帰りなさい」

「嫌だ」

「何を言ってるの、普段は寄り付きもしないくせに」

「今日だけ、ここで寝る」

「あっそう、じゃ、泊まるついでに、惠ちゃんに手を付けたりするんじゃないよ!この極道息子が」

そう言うと辰子は、しかし満更ではない含み笑いを残し、そのまま寝室へと引き上げて行った。

「誰がこんなおっかねー女に手ぇだすかよ」

「おっかなくて悪かったわね」

「のわ!てめぇ!すみっこで泣いてたんじゃねぇのかよ」

・・・勝手に何処かで死んで仕舞え・・・

そう宗嗣に言われた時、私には、もうどんな生きる理由も無かった。自分の所為で誰かが不幸になり、そして、剰え命をも失ってしまった今、私にできる事は、これ以上この世に関わり、負の連鎖を広げない事だと思った。

宗利と見た夜の海。コールタールの様な黒いうねりに身を投げようと考えた。しかし、それを、もはや命の灯が消えようとしている辰子に見咎められ、私は考えた。

悲しみに流され、その悲しみを理解しないまま、この残された命を絶つのは余りにも安易で無責任ではないだろうか。何故、司法には無期懲役と云うのがあるのか。死んでしまうのは簡単な事だ。それなら、今しばらく、生きて、この悲しみを理解し、受けとめ、流される事無く、苦しみ抜いて、私は死ぬべきなのではないだろうか。

「もう泣かない、お母さんをちゃんと、送る日まで」

「おい、惠、母ちゃんは、本当に、本当に、もう・・・」

「私は、医師だから・・・」

昨年、全国の暴力団員の構成員数が約1万8100人となり、統計をとりはじめた1958年以降、初めて2万人を下回ったことが警察庁のまとめでわかった。報道によると、全国の暴力団員と準構成員の数は、昨年末の時点で計約3万9100人で、一昨年とくらべて約7800人減った。このうち暴力団員は約1万8100人、ピーク時だった1963年(約10万2600人)の2割ほどに減少した。

暴力団員は以前、自分が◯◯組の△△だと示すことが、金を稼ぐための手段であったとともに、相手が恐れてくれることで自尊心も満たされ、堅気を上から目線で見ることが出来た。ところが、2007年の政府犯罪対策閣僚会議幹事会『企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針』や、2010年から2011年にかけて、全国の都道府県で制定された暴排条例などによって、企業などが暴力団等との取引を一切遮断すべきことが示された。そのため、暴力団員との取引が明るみにでれば、企業や行政もコンプライアンス違反として、法的にも社会的にも強く非難されるようになる。その流れのなかで、銀行取引をはじめとして、各業界で暴力団員との取引拒絶が進められた。

ちなみに、公営住宅や銀行口座閉鎖に関する裁判などでも相次いで、『暴力団構成員という地位は、暴力団を脱退すればなくなるものであって社会的身分とはいえず、暴力団のもたらす社会的害悪を考慮すると、暴力団構成員であることにもとづいて不利益に取り扱うことは許されるというべきであるから、合理的な差別であって、憲法14条に違反するとはいえない』という趣旨の判決が続々と示される。その結果、暴力団員は自分がそのような立場であることを隠さなければならず、社会も暴力団員と知り合いであることを自慢するような時代ではなくなったのである。

その流れにより、自分が◯◯組の△△だと示す、昔ながらの方法では金も稼ぎにくくなる一方で、暴力団は組織維持のために組員からの上納を厳しくせざるをえなくなる。その事が反発を招き、海口組の分裂等も起きている。このような厳しい現状によって、現役の組員たちもやめる者が増えるとともに、加入する若者も減少の一途を辿っている。

(弁護士ドットコムニュース)


「じゃ、聞きますけど、ヤクザを辞めた8割の人間は、真面目な堅気になったんですかぁ?それとも、この日本から消えてなくなったんですかぁ?どうなんですよぉ」

河川敷で小石を弄びながら俯く金城の横に座り、金城を下から覗き込みながらそう質問をする男が居た。

「消えたヤクザに潜在的な半グレを合わせれば、二十万を超えるかもしれんな」

「ヤクザ組織は、もう社会からはみ出した人間の受け皿になれる時代じゃない、そうですよねぇ」

「その通り、情けない話だがな」

「それでいいんですかぁ、任侠が廃れていいんですかぁ、二十万の食み出し者を放置して、何が任侠道なんですよぉ」

「だからといって・・・」

「悪意じゃないんですよぉ、昔とは違う。本国では経済制裁で餓死する人間が溢れています。生きる為なんですよぉ、金にものを言わせてシャブで遊んでいる奴らと、本国で、死ぬ思いでシャブを作っている同志たちと、どっちが大切なんですかぁ」

もはや金城は何も言えなかった。この国には何でもある。贅沢な食べ物も、清潔な住まいも、オシャレな服も、世界の高級品も、それが当たり前の様に与えられ、それを当然と思い、感謝すらしない若者。本国では毎日、毎日、餓死者が出ている中、この国の人間は、贅沢な暮らしに感謝もなく生きている。

「食み出した二十万の半グレを抑える為に、本国で餓死する人を救うために、僕はこうして働いて来たんですよぉ、もう、分ります、お父さん」

「栄治、一度、事務所に来い、秀夫と会ってみろ」

「いいですよ、でもぉ、その前に、僕と本国に帰りましょうよぉ、ご自分の目で、確かめるといい」

日本政府は北朝鮮に渡航しないよう自粛を促しているが、日本から北朝鮮に入国するのは一般人でも意外に簡単な事である。金城と安樂は関空から北京に飛び、そこから陸路、北朝鮮へ向かう国際列車に乗り込んだ。

スモッグに煙る駅前は、近代と過去の遺物が混沌としている。日本なら昭和でさえ見ない程の板金技術で製造された古い車両は、車体の凹凸が激しく、艶の無い深い緑色をしていた。コンパートメント(旅客車の個室席)には二段、四台の鋼鉄製のベットが設置されていたが、安樂はそのコンパートメントを貸し切りにしていた。

「栄治、どうしてこんな時間の掛かる陸路を選んだ」

「お父さん、北京からの越境も、よく見ておいて下さいよぉ。お父さんの知る昔の朝鮮と、今の朝鮮、人民の違いを」

やがて列車が丹東站( ダンドン ヂャン)に着くと、国内線の車両が切り離された。金城は長い停車時間に飽き飽きとして車外に出てみる。食堂を探しても何もない。小さな売店で唯一、カップ麺が売られていたが、給湯器が壊れている車内に持ち込んでも食べることが出来ない。

「どうぞ、越境すると暫く食べ物にはありつけませんよ」

安樂は戻った金城に、マントウ(中華マンの様な蒸し饅頭)と茹でたトウモロコシを一本差し出した。

「時間が止まっている様だな」

「止まっているならまだしもねぇ、越境したら、時間が逆行していると感じるかもしれませんよぉ」

中国側での出境審査が終わり、パスポートが戻され、ようやく列車が動き始めた。列車は何度もスイッチバックを繰り返す(険しい斜面を登坂・降坂するため、ある方向 から概ね反対方向へと鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた線路を走る)そして終に越境用の線路に入り、川を渡った。

橋を渡り、普通なら新義州(シニジュ)の駅で北朝鮮の軍人が乗り込み入国審査が行われるが、観光客ではない金城たちのコンパートメントに入国審査官は来なかった。列車は終に平壌へとたどり着く。外国人が訪れる時の平壌は清潔な服装をした人々が、塵ひとつ落ちていない清潔な街で楽しそうに暮らしている。立派な高層アパート街やスーパーマーケット、電線工場、産院などの近代的な施設が立ち並ぶ中、人々は口々に銀恩正を讃え、自由に携帯電話を使用し、おしゃべりをしたりしている。しかし、これは全てが架空なのだ。

芝生で楽しそうにピクニックをしている家族も、買い物を楽しむカップルも、全員が、役者であり、自由と豊かさを謳歌する人の役を演じているのである。少し前。平壌の郊外に住むある男に煙草を一本勧めると、男はこう言った。

「外国人が訪れる行事があるときは、人から借りてでもきれいな服を着て外出しなければなりません。服装がみすぼらしかったり、大荷物のある人は街を歩いていると軍人に咎められ、隔離されるんです。平壌のアパート街は、普段はごった返すほど露店が広がっていますが、行事の時はずっと役人が立って商売は一切禁止です」

街全部が、映画のセットなのである。よく観察すれば、高層アパートの裏側が張りぼてになって居るのが分る。しかし今の平壌は、更に酷い。まるで廃墟の様だった。闇市も無い。売る物が、もはや闇市ですら無いのが現状なのであろう。平壌ですらこの有様である。街を離れればどんな惨状か、それは金城にも容易に想像できた。

「お父さん、どうです、お分かり頂けましたかぁ」

「こ、これ程までに、これ程までに酷い事になっていたのか」

北朝鮮では、食糧確保の為、漁業の振興に力を入れてきた。朝鮮日報によると、銀正男は2014年、「全国の育児院と孤児院、初等及び中等学校・養老院に、365日、1日も欠かさず魚を届けよ」と人民軍に命じている。その量は、1日1人当たり300gという。世界的にも魚介類を多く食べる日本人でさえ、1日平均80g程度である。実態を無視した強引な目標だ。その目標を果す為に、多くの漁民が命懸けで日本海へと出漁している。同年4月、朝鮮労働党の機関紙・労働新聞は、「最高司令官が提示した漁獲量目標を必ず遂行する海の漁労決死隊になろう」と、荒天時の出漁を推進している。また2015年、朝鮮中央テレビでは冬期漁獲量増加スローガンが流され、雪降る荒海に出漁することを推奨していた。

昨年1年間に日本海沿岸に漂着した北朝鮮船は、66隻にも上る。11月に京都府舞鶴市の海岸に漂着した長さ約12mの漁船には、白骨化した9人の男性の遺体が残っていた。エンジン故障を起こし、漂流している間に食料が底を突き、餓死したのだろう。船内には、ハングルの書かれた煙草の箱や、イカ釣り用の疑似餌等が残されていた。最高指導者の指示の下、無謀な漁に出た漁民たちの悲しい姿である。

「日本のスーパーで販売されるスルメイカ、高くなりましたねぇ、昔は一杯が百円で買えたのにねぇ、北朝鮮の漁場荒らしで、一杯、二百円以上になりました。でもねぇ、お父さん、イカが一杯、二百円になったからと云って、日本で人が死にますか。生活に困る人がいますか。我々の同志は命に代えて人民の為、漁に出ているのに、日本人はたったの百円ですよ、我が同胞の命は、日本人にしたらたったの百円、ねぇ、お父さん、どう思います」

それから安楽に導かれ、金城は北朝鮮の主だった街を周る。そこに有ったのは貧困どころではなかった。こうも残酷に、こうも非道に、人はなれるものなのか。阿鼻叫喚の無間地獄、それだけがどこまでも、どこまでも、その大地を覆い尽くしている。

「日本に居ると、どんなに言葉を尽くして説明を受けても、この光景を理解する事は出来ませんよぉ、特に戦後の暗い影が過ぎ去り、高度経済成長の時代を生きた日本人にはねぇ」

正に栄治の言う通りだった。戦後を知る自分でさえ、この地獄絵図は想像だにしなかったと金城は思う。

「栄治、お前は・・・」

「なんです、お父さん」

「お前は、何を企んでいる」

「銀王朝の時代を終わらせるんですよぉ、我々の手で」

銀王朝を終わらせる。果たしそんな事が、本当に出来るのだろうか。命の貴さなど歯牙にも掛けず、ここまで人民を追い込み、自分達の王朝存続の為だけに人を殺し続け、核開発に血道を上げて来たあの王朝から、核兵器を奪い、人民を解放する事など、本当に・・・

「出来ますよぉ、お父さん」

安楽はまるで金城の心を読む様にそう言う。

「さぁ、帰りましょう。日本に帰ったら、全て話します、僕らの計画を」


             3

「さて、本日皆さんに集まって貰ったのは、言うまでもなく、今後の事についてだ」

とある地下の会議室の壇上で前川が見下ろすのは、二十数名に及ぶ海口組の二次、三次団体の組長たちだった。

「お判りだと思うが、もはやこの国で、指定暴力団は生きて行けない」

度重なる暴力団対策法の改定、暴力団排除条例により、指定暴力団、特に、特定危険指定暴力団、特定抗争指定暴力団は、普通に暮らしていたとしても、警察がその気になれば何時でも、何らかの理由を作り、逮捕する事が出来るようになってしまった。ここまで強固に法で縛られてしまえばもう、人権すら無いも同然である。

「新しく分裂した新庄さんは、組長を置かない、盃を交わさない、そんな新しい方法を打ち出したけれどさ、どうなの君たち。君たちは、なんの為にヤクザになったの」

前川が顎で指図をすると、加藤、大西、伊藤の三人がジェラルミンケースを壇上へと運び込む。

「三代目は素晴らしい人物だったね。戦後の三国人の横行、悪行から命懸けで堅気の衆を守った。ところがだ。自分たちを命懸けで守ってくれた海口組に、堅気はどんな仕打ちをしたか考えてみろよ。暴力団新法を作り、暴力団排除条令を作り、命懸けで堅気を守って来た君たちの息の根を止めようとしている、そうだろ」

「勝手だよねぇ、三国人の脅威がなくなったら、自分達を守ってくれた恩を忘れて、迷惑だから、怖いからって、社会から排除しようとするんだもん」

前川が更に三人に顎で指図をすると、三人は並んだジェラルミンケースの蓋を開いた。

「堅気は何時だってそうだ。自分たちの脅威が無くなったら君たちの様な人間を利用するだけ利用して、簡単に切り捨てようとする」

開かれたジェラルミンケースの中には、みっしりと覚醒剤が詰め込まれていた。

「廃藩置県で落ちぶれた武士は最後、和傘の修理なんて事をするところまで追い詰められ、滅んでいった。君たちも、そうなりたいの」

その覚醒剤を、前川は一袋、手に持つ。

「そもそも、考えてみろよ。部落に生まれたり、家が貧しかったり、そんな社会に居場所のない君たちは、流れに流れて、この裏社会で生きている。堅気の人間はそんな君たちにリスクだけを背負わせ、利用し、拙くなったら切り捨てる、それを繰り返して来た」

前川が手に持った覚醒剤の袋に目を落とす。

「これだってそうだろ。覚醒剤は欲しい、やりたい、でも捕まるのは嫌だ。だからリスクだけを君たちに背負わせ、自分達は楽しい部分だけを持って行く」

ひとしきり覚醒剤の袋を見詰めた後、前川はケースの中にそれを戻した。

「もう、いいんじゃねーの。新庄さん、好い事言うじゃない。組長も盃も要らない。それならさ、もう、ヤクザなんて辞めちゃえよ。自分勝手な堅気に何を遠慮する必要があるの、そうだろ。あいつら堅気が欲しがるこの玩具をさばいて、金を吸い上げて、君たちを好いように利用して来たあいつらを、この国を、破滅させてやればいいんだよ」

そこでまた前川が顎をしゃくる。すると今度三人は大量の注射器を壇上に運び込んで来た。

「好きなだけ持って帰れよ、そしてどんどん儲ければいい」

それを見て色めき立つ組長たちの中で、一人の男が手を挙げて発言をする。

「前川さん、しかし、組を抜けて半グレになっちまったら、組織として収拾がつかなくなるぜ、そこはどうする積りだ」

「表向きは、金城組が尻を持つ」

「か、金城組!」

「そうだよ、なんか問題ある」

「い、いや、金城の親父さんは、シャブは絶対に触らないって有名じゃ・・・」

「ああ、大丈夫、諸行無常ってね、人も世間も、全ては移ろい変わりゆくもの。金城の親分だって例外じゃない、ねぇ、お父さん」

 そう言いながら振り返る安樂の視線の先には、あの金城修三が立っていた。


             4

山田たちが辰子の家を出ると、高橋が用意していた覆面パトカーが路上で待機している。

「あれ、もう帰るんじゃ・・・」

それに驚いた優樹が不思議そうな顔で山田を見る。山田は優樹を見つめ返した後、冷たい閃きを宿した目を高橋に向けた。

「高橋」

「はい、牧田さんの勘に間違いは無いようです、先程、公安から案件の回答がありました。男の名前は安樂栄治。銀芙沙子の死から突然現れた北朝鮮の工作員だと、公安もマークしていた様です」

「その安樂栄治が」

「その様ですね。更にこの男、今回の海口組分裂、抗争事件にも関与していると思われます」

「隊長、俺、牧田さんに」

そう言って走り出そうとする優樹を山田が止める。

「そっとしといてやれ、今は」

「隊長・・・」

「高橋、覆面を呼んだって事は」

「ええ、深夜から、何か動きが有る様です」

「よし、行くぞ!」

「はい!」

入り組んだ路地が多い繁華街の寂れたビルに到着した山田たちは覆面パトカーを降りた。すると、ひとりの男が山田たちに近寄って来る。

「どうされました」

男は懐から警察手帳をだす。兵庫県警明石警察署、捜査四課、堀尾茂吉とそこには書かれていた。

「隊長!」

後から降りて来た宏太が、ビルを指さし山田に声を掛ける。山田は宏太が差す方に視線を向ける、すると、大層な荷物を黒塗りの車に積み込む集団が居た。優樹はそれを見るなりその場を駈け出そうとした。

「おいおいおい、待った、待った、あの車のナンバー、よく見て下さいよ」

山田は車のナンバーに目を向ける。するとそのナンバーには(領)の文字が刻まれている。

「駐神戸大韓民国総領事館の車ですよ、近づいては、ねぇ」

堀尾は四人の周りをゆっくりと歩き出した。

「覆面パトカー、うーん、あなた達、公安の方かな、いや、海上保安庁、違うなぁ、あなた達、もしかしたら、自衛隊じゃないんですか?」

山田が冷たい目を無言で堀尾に向ける。

「行けませんなぁ、自衛隊が大韓民国総領事館車両に何の用です?まさか、憲法9条をご存知ないとか」

「おい、行くぞ、乗れ」

「た、隊長」

山田は全員にそう促し、自ら先に覆面パトカーへ乗り込んだ。じっとりと濡れる様に陰湿な堀尾の視線をスモークガラス越しに見ながら、彼らを乗せた覆面パトカーが動き出す。言わずもながら、警察であっても、領事館ナンバーの車に気安く職質や任意捜査は出来ない。更に堀尾はこちらを自衛隊だと見抜いていた。自衛隊は、対する相手が外国である場合、喩え目の前で、横田めぐみさんの様に人が拉致され、連れ去られようとしていても、一切の行動は出来ず、ただ、指を咥えて見ているしかない。脅かす相手が外国なら、日本人は殺されても反抗してはいけない。黙って殺されてしまえ。憲法9条とは、そんな理不尽この上ないものなのである。

「隊長・・・」

「うむ」

繁華街を離れ、加納町を過ぎ、雲地橋辺りに来た時、山田の携帯が鳴る。

「山田、動きがあったんなら、灘に向かえ、その辺りで怪しい車を探せ」

「牧田、お前、何故、俺たちの動きが」

「今更なんだ、このバーカ、お前ら帰る時、癖で覆面の赤橙回したろ?俺は勘がいいんだよ」

「ちっ、ホント、目聡い野郎だぜ」

「いいから、早く向かえ!そしてブツを押さえて来い!」

「・・・分ったよ、ったくてめーは」

山田は電話を切ると牧田の指示に従い灘区に向かう。この辺りはヤクザの事務所が多い。暫く、路地から路地へと走っていると、軽く20年は落ちている黒いセルシオを発見する。車高単にメッキのアルミホイル、如何にもチンピラが乗りそうな車だった。

「どうする高橋」

警察官は高橋一人しかいない、この場合、逮捕するなら高橋が動くしかない。

「すいません、ちょっと、ゲームのイベント中なんで、適当にボコって、ブツ押さえて来てもらっていいですか、見なかった事にしますんで」

「だとよ、おい、行くぞ、お前ら」

山田は宏太と勇樹を促し車から降りる。しかし、何やら車の中でゴソゴソと作業をしていた後部座席の男が、直ぐに山田たちを発見、その刹那、車は急発進をして逃げ出した。

「おい!こら!チッ、逃げられたか」

優樹はダッシュで追いかけたが、時すでに遅く、セルシオは路地の暗闇に消える。

「ん?」

優樹はセルシオはが走り去った後に残された紙片を見つけそれを拾い上げた。

「こ、これって」

優樹は踵を返し車に戻る。

「隊長、これ」

戻った優樹から山田に手渡されたその紙片は、宅配便が利用者に渡す伝票の控えだった。それに目にした山田の顔が曇る。伝票の差出人の欄には、片山宗利の名があり、受取人の欄には前川喜平の名が書かれていた。

「隊長、これってあの惠って云う子の話に出てきた」

「そうだな。宏太、優樹、お前ら、もう少しあの車が停車していた辺りを探してみろ、まだ何かあるかもしれねぇ」

「はい」

山田はそう指示すると眉根を狭くして伝票の控えに目を落とした。これは、北朝鮮の工作員である安樂栄治に片山宗利が覚醒剤に使用される注射器を提供していた動かぬ証拠になる。この事が公になれば亡くなった片山宗利ひとりの事では終わらない。間違いなくマスコミは大挙して片山総合病院に押しかけ、病院は閉鎖、倒産の危機に瀕するだろう。

「隊長、有りました」

宏太は車が停車していた横の側溝から注射器を二本見つけ出して来た。一本は明らかに、先程使用されたもので、シリンダー内部に使用した者の血液が少し残っている。あのビルの地下で配られた覚醒剤を、待ちきれず直ぐに使用したのだろう。だが、もう一本はセルロイドで包装された新品の注射器だった。しかし、山田はその梱包に違和感を覚える。熱で圧着されている部分が、どうにも機械的ではなく、開封されたものを、もう一度手作業で圧着した様に見えるのだ。三人は車に乗り込み、高橋に発見した注射器を手渡す。

「高橋、そいつはお前の方で調べてくれ、この伝票の控えは・・・」

「任せますよ隊長」

「うむ」


            4

翌日、惠心は何事もなく開店していた。惠が取るオーダーを、辰子は何時もの様に料理し、客に提供している。

「いらっしゃいませ」

「こんばんは、牧田の野郎、来てますかって!!ええーー!」

今日は隊員を連れることなく一人足を運んだ山田だったが、店に入るなり、いきなり素っ頓狂な奇声を上げた。

「ま、牧田、てめぇ、何やってる!」

「何ってお前、手伝いだよ、お店の手伝い」

「お、お前が、り、料理とか、有り得んだろ!調理場がゴリラの檻に見えるわ!」

確かに、カウンター越し、狭い調理場で右往左往する牧田は、動物園のゴリラそのものである。

「気は確かか、牧田」

「あたりめぇだろうが!俺はな、心を入れ替えたんだよ!山田、額に汗して働くってのは、やっぱ、清々しいもんだねぇ」

「キモイ、マジでキモイ、もう、他の言葉が探せねぇ!キモイしかねぇ」

「うるせぇ!てめぇ!人の勤労、邪魔するんなら帰りやがれ!あー忙しい」

そんな言葉の応酬に割って入る様に、惠が冷えた水を山田の元に運んで来る。

「いらっしゃいませ、あの、昨日は、本当に、本当に、すいませんでした」

「いいよ、いいよ、つか、惠ちゃん、あれ何なの、母ちゃん、よく許可したね」

「辰子さん、すごーく嫌な振りしてますけどね、実は、とてもうれしい筈ですよ、彼の事、本当の息子と思っていますから」

「そうか、あいつにとっても、あの人は、本当の母親、否、それ以上かもしれねぇ。彼奴は、孤独の中で生きて来た男だからな」

「仲が好いんですね、牧田さんと」

「仲が好いのかどうかは分からねぇけど、俺は海で一度あいつに命を救われている。どうやっても死ぬしかなかった場面で、あいつは命懸けで俺を助けてくれた。自分を捨ててでも人を救うってのはな、口では簡単に言えても、いざとなると、なかなかできる事じゃないんだ、職業柄、俺にはそれがよく分かる。だから俺はあいつを認めているし、自分の組織に欲しいとも思うんだ」

「自分の組織」

「あぁ、俺たちは自衛隊だけれど、普通とは少し、違うから」

「そんな事、私なんかに話していいんですか」

山田は懐から昨日、現場で見つけた伝票の控えを惠に手渡す。

「図らずもだが、俺たちは昨日、あんたの事を色々教えてもらった。今度は俺たちが、あんたに色々と話す番だ」

手渡されたそれを見た惠の顔色が翳る

「それの事は俺たち以外誰も知らない、それをどうするかは、あんたが決めればいい」

「山田さん」

「惠ちゃん、牧田は当分、母ちゃんの」

「はい、当分は、一緒に暮らすと思います」

「そうか、じゃ、今夜、家に行くよ、そこで三人で話そう」

「分りました」


             5

「母ちゃん、こ、これでどうだ!」

辰子の家の台所に立つ牧田が、もう何度目になるだろう、一番出汁の味に関するお伺いを辰子に立てている。

「全然駄目!秀夫!お前、私の料理、何年食べてんだい!ったく!もう一回!これをちゃんと味わってみな!」

辰子に小さな鍋に入った出汁を突きつけられた牧田が神妙な顔でそれの味をみる。

「ち、ちきしょう、何故だ、何が入ってる、どうしたらこの味が出せるんだ」

「お母さん、私も参加していい?」

その様子を傍らで見ていた惠が、辰子にそう声をかけた。

「ほぅ、自信ありげだね、いいわよ、やってごらんなさい」

辰子は牧田に突き付けていた小鍋を、今度は惠に手渡した。

「待ってお母さん、先ずは秀さんの出汁から」

惠は牧田の出汁を味見した。

「秀さん、これ、材料は?」

「え、昆布だろ、鰹節、それとオイスターソースに、出汁ジャコに・・・」

「オイスターソースって秀さん、もうそれ、一番出汁じゃないから」

「だってよ、昆布やら鰹節やらジャコだと、母ちゃんの味にならねえんだよ」

惠は次に辰子の出汁を味見する。

「んー、なんだろう、知ってる味なんだけど」

惠は辰子の出汁に、ひとつまみ、砂糖を足した後、もう一度味見をする。

「あ、判ったよお母さん、鰻か穴子、若しくはドジョウでしょ」

「惠ちゃん、あんたはやっぱり天才だわ、当たり、私はね、開店当時から鰻のかま(頭)と昆布、鰹節で出汁をとってるの」

「おい、惠」

「なによ」

「お前、ここに来てどんくらいだ」

「え、さ、三週間、くらいかな」

「秀夫!」

「な、何だよ」

「あんた、あたしの店に何年通ってる」

「に、二十年、くらいかな」

「秀夫」

「は、はい」

「この店、惠ちゃんに継いでもらうよ」

「ええーーー!」

「堅気になって店を継ぎたいなら、先ずは惠ちゃんを口説き落とすんだね」

「お、お母さん!」

「嫌だ!こんなおっかねー女!」

「おっかなくて悪かったわね、あんたの顔のがよっぽどおっかないじゃない!」

「なんだとてめぇ!」

「なによ!」

「てめぇみたいな可愛げのねぇ女!誰が!・・・」

ガラガラガラ。

玄関の引き戸が開く音がする。

「こんばんわー、母ちゃん、山田だけど、牧田と惠ちゃん居る?」

「山田!取り込み中だ!引っ込んでろ!」

「取り込み中ってお前、え!おわ!牧田!後ろ!後ろ!」

入って来た山田の方を向いた牧田が、再び振り返ると、そこには流星群が飛来し、飛散する流星群の狭間から強烈な右ストレートが牧田の顎を貫いた。

ぶぁこぉぉぉーーーむ!(リングにかけろより抜粋)

「ま!牧田ぁぁぁーー!」


             6

「お母さん、ごめんなさい」

「いやいやいや、誰に謝ってんだてめぇ!、殴られたの俺だし」

「私、私こんな、こんなキャラじゃない筈なのに、なんかこの人と居ると、調子が狂うんです」

「調子が狂ったら人を殴ってもいいんですかー、もう一度幼稚園に行ったほうがいいんじゃないですかー」

ぶぁこぉぉぉーーーーむ!

「うぎゃーーー」

座った姿勢からのパンチでも、軽く牧田を吹き飛ばす惠のパンチ。

「め、惠ちゃん、恐るべし」

それは山田が畏怖の念を抱くほどに、惠のパンチは強かった。

「お母さん、ごめんなさい」

「いやだーかーらー!何で俺にあやまらねーんだよ!」

あたふたとする山田を前に喧嘩を繰り返す二人を見て、辰子は嬉しそうに微笑む。

「お似合いだよ、あんた達」

「ええーー!」

「はぁ!?」

「ところで直輝、何か話が合って来たんじゃないのかい」

辰子の言葉で我に返った山田が厳しい顔になる。

「おい、牧田」

「なんだよ」

「お前、どう云う事だ、いきなり店の手伝いなんか始めて」

「あぁ、俺、金城組、辞めるわ、堅気になろうと思う」

「牧田」

「だから何だよ」

「俺が今日、誰も連れずに来たのは、自衛隊員ではない、山田直輝ってひとりの人間として話したかったからだ、牧田、知ってる事、全部話せ」

「別に、なんもねーよ」

「惠ちゃん」

「はい」

「今日、渡したものが世間に公表されれば、片山家は終わりだ、それは解かるね」

「・・・はい」

「君が動けば、片山家が危ない。だからもう、暫くは安樂を追うのは辞めるんだ。あの伝票は高橋がなんとかする、けどな、安樂がその気になれば、片山総合病院は・・・」

最後まで分かり合えることは出来なかった。しかしあの二人はまごう事なき、宗利が尊敬し、心から愛していた、宗利の両親なのである。ここで惠が動き、安樂がもし注射器の事を世間に公表したら、世間は安樂ではなく、宗利の両親と、片山総合病院を許さないだろう。

「で、牧田、てめぇ、何で金城組を辞める決心をした」

「さぁな、俺もいい年だしよ、親孝行でもしたくなったからじゃねーか」

「ほぅ、良い心がけじゃねーか、なら牧田、親孝行ついでに惠ちゃんと所帯持って母ちゃんを安心させてやれよ」

「はぁ!何でこんなおっかねー奴と」

「ちょっと、山田さんまで何を言うんですか!」

「惠ちゃん、こいつはな、惠ちゃんの為に組を辞めようとしてんだよ」

「え・・・」

「牧田、安樂栄治はお前の弟、いや、弟分、つまり、金城修三の実子って事だろう。お前は栄治を調べていた。その延長線上で惠ちゃんの話を聞いて、お前は彼女を守る為に腹を決めたはずだ、組を辞めるってな」

「安樂惠瓊って坊主は、俺と親父に、栄治を殺してくれと頼んだ」

「え!惠瓊さんに会ったの」

「あぁ、惠瓊って坊主から、息子を引き取ってくれと親父に連絡が来た。俺は自分に弟が出来ると思って、ウキウキして出かけた。そしたら、虫の息の惠瓊って坊主が、今際の際に俺たちに言ったんだ、栄治を殺してやってくれ、そして、惠を守ってやってくれってな」

「まさか、そんな・・・」

「俺はだから、惠って名前を聞いた時、ピンと来た、もしかしたらこいつが、あの坊主が言ってた惠なんじゃないかってな」

「すると、安樂惠瓊を殺したのは」

「栄治で間違いないだろう」

惠は俯き、目を閉じたまま拳を握りしめる。

「全部、私が、悪いんです。あの男の闇を恐れて逃げ出した、私の所為」

鬱ぎ込む惠を横目で見て、山田は話題を変える。

「牧田、お前の指摘は当たってたよ、多分奴らは男鹿島沖に似たあの場所から機材を使用せず、人海戦術で覚醒剤や武器を持ち込んでいた様だ」

「手は打ったんだろうな」

「あぁ、高橋が情報を公安にリークして、今は麻薬捜査局が事に当たっている」

「牧田、安樂栄治は何を企んでる」

「さぁな、それは俺にも分からねぇ、麻薬、武器の密輸、密売、拉致、人身売買、臓器売買、その辺りがあの男の凌ぎだが、あいつの動きを見ていると儲けちゃいねぇ、ひたすらにそれで作った金を、この国の半グレに撒いている」

「あいつの狙いは、海口組か」

「それは有るだろう。現在、あいつが掌握している海口組系の組員、半グレの数を合わせれば、本家の十倍以上になる」

「それがマフィア化すれば」

「海口組は崩壊する」

「しかし何故だ、海口組をマフィア化したとして、この国には暴力団新法がある。組織犯罪をやるなら、もっとやり易い後進国でやるだろう」

「この国でなければならない事情があいつらにあるって事だ」

「この国でなければ・・・」

「政治的側面から考えろ、今、世界で何が起きている」

「米朝首脳会談・・・」

「この会談でドランプ大統領は北の完全非核化に対し、在韓米軍の撤退を示唆している。将来的に北とアメリカの国交が正常化し、在韓米軍が撤退したらどうなる」

牧田の言葉に山田の顔色がどんどん青ざめる。

「韓国とアメリカの軍事同盟は解消される、そうだろ」

「あぁ・・・」

「そうなれば、朝鮮半島は完全に中国の傘下になる。これまで、朝鮮半島の冷戦構造があり、資本主義と共産主義の緩衝地帯が朝鮮半島だったからこそ、日本はあんな平和ボケした憲法9条をそのままに出来た、違うか」

「その通りだ」

「近い将来、この国が、朝鮮半島の代わりに緩衝地帯になる日が来るとしたら、改憲出来ないこのままの日本はどうなる」

「尖閣諸島を中国に奪われ、竹島を韓国に奪われ、沖縄で進行している中国の工作により、やがて沖縄も遠くない未来、中国の手に落ちるやもしれん」

「海口組を崩壊させ、組員や半グレを取り込むのも、北朝鮮、中国の工作活動だ。日本は二十万人を越すテロリストを国内に抱え込む事になる」

「中国の息のかかったオールドメディア、野党議員、二十万人を超えるマフィア、日本は、北朝鮮と中国に内側から支配されてしまう」

「山田」

「なんだ」

「親父が暫く、行方不明だ」

「な、なんだと」

「親父は安樂惠瓊の事件の後、少しずつ変わって行った。他の組員には分からんだろうが、俺には解る。親父は安樂栄治と接触している筈だ」

「牧田、それは幾らなんでも、あの親父さんがまさか」

「親父は俺に組を継げと言い出した」

「そりゃ、親父さんも、もう歳だし、別に変な話じゃないだろう」

「馬鹿野郎、あの親父がそんな愁傷な事言う訳がねぇ、あの男は死ぬまで極道だよ」

「じゃあ、何故、親父さんはお前に組を継げと」

「それが分からねぇ、何を企んでやがるんだ、あのクソ親父」

・・・注射器・・・

二人の会話を聞いていた惠がぼそりとそう呟いた。

「惠ちゃん、どうしたの」

山田と牧田が惠を見る。

「安樂栄治が言っていたの、宗利から騙し取った注射器が、沢山の人を殺すって」

それを聞いた山田の視線が宙に舞った。

「おい、山田、どうした」

「いや、お前に言われて怪しい車を捜査していた時、あの伝票の控えと一緒に、注射器を二本押収したんだが」

「調べたのか」

「あぁ、高橋に渡して鑑識で調べさせている」

「結果は」

「まだだ」

ジリリリーーン

その時、山田の携帯が黒電話のけたたましい着信音を鳴らす。

「高橋か」

「隊長、鑑識の結果がでました」

「そうか・・・」

山田は高橋からの電話を切り、牧田と惠に内容を伝える。

「使用済みの注射器からは覚醒剤の陽性反応、血液からその使用者が保菌しているC型肝炎ウイルスが検出されたそうだ」

「山田さん、C型肝炎ウイルスは麻薬常習者ではよくある事です、注射器の回し打ちで常習者同士が感染を拡大・・・」

惠はそこまで言うと、自分のその言葉に悪寒を覚える。

・・・感染が・・・拡大・・・

「山田さん!新しい注射器の方は!」

「・・・俺も同じことを考えたんだが、何も出なかったそうだ。それに、タイミング的に、米朝首脳会談が終わり、次は日朝だ、経済状態の悪い韓国だけで北の財政難は救えない。経済に於いて、北朝鮮が最も頼りにするのは日本だ。その日本をこのタイミングで細菌攻撃するのは、有り得ないだろう」

朝鮮半島の完全非核化。先日の米朝首脳会談で銀恩正はドランプにそれを約束した。しかし、北朝鮮が保有する化学兵器(VXガス、サリン)や生物兵器(天然痘ウイルス)等をどうするかについては何の言及もされていない。

核兵器は、兵器として本来の役割を果たさない兵器である。どんなに核兵器を保有したところで、何処かの国が、一発でも発射すれば、自動的にその一発に対する報復措置が発動し、世界は滅亡してしまう。核兵器は威嚇を目的とするだけで、実際には使用出来ない兵器。しかし、化学兵器や生物兵器は違う。シリアでは最近、内戦でサリンが使用された可能性がある。恩正の兄、銀正男を暗殺するのに使用されたのはVXガス。恩正は使えない核兵器を手放し、安価で実利的な細菌兵器や化学兵器の開発にスイッチする方向で世界戦略を考えているのかもしれない。

「そんな筈ありません、警察なんて信用できない、もう一度、私自身が調べます、山田さん、お願い、押収した注射器を私に調べさせてください」

「惠ちゃん、この子達を信じなさい」

惠の言葉に、それまで黙って事の成り行きを見ていた辰子が口を開いた。

「あなたが動けば、宗利君の御両親が危ない。解るわね。大丈夫、必ずこの子達は、あなたを安樂栄治の元に連れて行ってくれる、この子達を信用して、待ちなさい」

「お母さん・・・」

「山田、俺は親父を探し出して来る」

「牧田・・・」

牧田はそう云うと直ぐに立ち上がり辰子の方を向く。

「母ちゃん」

「なんだい」

「傍に居てやれなくて、ごめんな」

「なに言ってんだい、何時もの事じゃないか」

「惠」

「え?」

「母ちゃんを、頼む」

「秀さん・・・」

牧田は惠に大きく頭を下げた。

「直ぐに戻るから、母ちゃんを」

「うん、分かった。大丈夫、お店の事も、お母さんの事も、心配しないで」

牧田を見上げ惠が微笑む。それを見た牧田はもう振り向くことなく辰子の家を出た。

「惠ちゃん、俺からも頼む、母ちゃんの事、よろしくな」

「はい」

山田も惠の返事を聞いて席を立ち、辰子に敬礼をし、家を後にした。

「惠ちゃん」

「はい」

二人が去った後、辰子は惠に語り掛けた。

「私は、子供を産めなかったけれど、この店のお蔭で、沢山の子供を育てる事が出来た。私はそれを、何よりの幸せだと思ってる。次は惠ちゃんの番だよ」

「お、お母さん」

「幸せになりなさい。幸せになってから、もっと生きたいって、心からそう思える様になってから、死ぬなんて、何時でも出来るんだから、ね」

「・・・はい・・・お母さん・・ありがとう・・・」


             6

駅前の飲食店テナントなどが入居する雑居ビル三階の二室。バカラ賭博店と違法パチスロ店がそれぞれ営業をしている。営業時間は午後9時ごろから翌日の午後1時ごろまで。酔客らが行き交う繁華街の一角にその賭場は在った。

薄暗い室内に入ると、派手な電飾を明滅させるパチスロ機が所狭しと並ぶ。そこに設置されているパチスロ機は、通常よりも掛け率の高い「裏スロット」と呼ばれる違法なものだった。そしてもう一方の部屋には、大きな2台のバカラ台を取り囲むように革張りの椅子が並んでいる。2つの店は隣接してはいたが、個別に営業していた。それぞれ看板はなく、2つの扉をくぐらないと室内に入れない構造になっている。

店の外には、しきはりと呼ばれる見張り役を立て、客の出入りを監視。警察に踏み込まれるような事態を想定してか、2つの店内は鉄製の隠し扉で行き来できるようになっていた。

「いらっしゃいませ、お客様、パスの確認をお願いします」

狭い階段を登って来た見慣れない客に、しきはりの男が、ズボンのポケットに忍ばせる警報装置のボタンに指を置きながらそう声を掛ける。

「パスはこれだ」

しかし客が懐から取り出したのは、この店が発行している入店パスではなく、金城組の代紋が刻まれている金のバッジだった。しきはりの男はそれを一瞥すると、警報装置のボタンから指を離し、襟もとに着いているインカムで店内に指示を仰ぐ。

「どうぞ、お入りください」

三秒後、しきはりの男は、その客の入店を認め店内に通した。様々な色に加工されたゲーム機内部の発光ダイオードが放つ派手な光が、店内に充満する煙草の煙を幻想的にしていた。案内された客は、しかし、そのパチスロに触れる事も無く、バカラ台を取り囲む皮張りの椅子に腰を降ろす事も無く、一番奥にある非常階段横の一室へと案内された。しきはりの男は、その一室の扉を二度ノックしてから開き、軽く中を窺う。そして開いた扉のドアノブをその客に預け、一礼をし、その場を去って行った。

「いらっしゃい、兄貴、会いに来てくれたんですね、とっても、とっても、会いたかったですよぉ、初めまして、兄貴ぃ」

満面の笑顔で部屋に入って来た牧田にそう言う安樂は、室内であるにも関わらず、GUCCIの高級コートを羽織っていた。そのダブルブレスト、トレンチコートはレザーにパイソンの模様をプリントしている。

黒を基調とした室内に置かれた黒いガラス張りのテーブル。その上に置かれたM93Rの暴力的な銃身は、テーブルの黒に上手く溶け込んでいた。牧田はそれを見て、自分の懐から出したコルトパイソン357マグナム6インチをM93Rの横に並べて置く。

「お前が安樂栄治か」

「はい、そうですよぉ」

栄治は牧田が懐から出した357マグナムなど見えていないかの如く、心から偲ぶ様子で牧田を見詰める。

「俺は、自分に弟が出来るってよ、腹から喜んでた」

「わぁ、そうなんですね兄貴、嬉しいですよ、兄貴ぃぃ」

「だがよ、それは間違いだった、俺はお前の兄貴にはならねぇ、だから二度と、俺を兄貴と呼ぶな」

「なんで、なんで、そんな事いわなで下さいよぉ、家族じゃないですかぁ」

「家族?反吐が出るぜ安樂、いいか、俺は組を辞める、組はお前の好きにすりゃいい、だがな、神林惠にだけは手出しするな、もし、手出ししたら」

牧田はそう言った刹那、357マグナムに手を伸ばす。それと同時に安樂もM93Rを握った。二人は同時にお互いのこめかみに銃口を向ける

パンッパンッパンッ!

セミオートで三発発射されたM93Rの銃声が響く。しかし、瞬間的に頭を躱し、牧田の首に挟まれたM93Rの銃口は牧田のこめかみには無く、安樂が発射した弾丸は、虚しく部屋の壁にめり込んだ。

「これがお前だ、安樂、俺なら、曲がりなりにも家族と口にした相手に、発砲はしない」

M93Rの銃口は牧田のこめかみには無いが、357マグナムの銃口は、確実の安樂のこめかみを捉えている。

「あ・・・兄貴ぃ・・・まぁ・・・まぁ・・・落ち着いて・・・」

牧田の殺意が357マグナムの銃口を通して安樂に伝わり、牧田は安樂の言葉が終わるのを待たずに引き金を引いた。

カチッ!

しかし撃鉄は空を切り、弾丸が発射されない。357マグナムのレンコンには、一発の銃弾も装填されていなかったのだ。

牧田は怯んだ安樂からM93Rをねじ取ると、銃のグリップで安楽を殴り伏せる。そしてM93Rからマガジンを抜き取り、銃身を安樂の前に投げた。

「お前は親父の、実の息子だ。だから俺はお前を殺さない積りでいる、だが、神林惠に手を出したら、俺はお前を殺す。親父に伝えておけ、俺は組を出るとな」

・・・面倒くせぇ野郎だぜったく・・・でも・・・嫌いじゃないけど・・・ぷぷぷ・・・


            7

「よぉ、ひさしぶりだな、どうした牧田」

数か月ぶりで新しく立ち上げた事務所へ顔を出した牧田に、新庄は屈託のない笑顔で微笑む。

「お久しぶりです、新庄さん、この度の件、全部の裏が取れました。三国人組織を操り、シャブを使って海口組全体を取り込んでいるのは、北朝鮮の工作員、安樂栄治って男です」

牧田は伽藍とした事務所で独り電話番をする新庄の前に座ると、これまでの経緯を説明する。

「そうか、牧田、そいつはまるで、フランシスコザビエルの手口みてぇだな」

「フランシスコザビエルって、あの、宣教師の」

「そうだ、構図としてはこうだ」

スペインが世界帝国に発展したのは、世界戦略があったからだ。ローマ法王は商人に奴隷貿易のお墨付きを与えた。まずキリスト教布教と貿易を目的として、アジア、アフリカなどにローマ法王のお墨付きを得た商人の船に乗せ宣教師を派遣する。宣教師が赴任した国で貿易に利益があることを、地元を治めている大名や王様に説き。布教と貿易を認めてもらう。そこで、信者を増やし、信者から財産の寄進を募る。洗脳された信者にとってローマ法王は絶対だ。信者は、それより少し前の本願寺の狂信者の様に宗教によって洗脳されているから、無料で、何の見返りも求めない命懸けで動く戦闘ロボットとして、いつでも好きなように動かせる。そして、最後はスペイン本国から軍隊を呼んで、地元の政権を倒し、植民地化を図る。

「天草四郎時貞とかな、憐れなもんだぜ。この侵略モデルは昔からあるし、アメリカでもそれを(ソフトパワー)って言葉で外交の手段として利用している。ウォーギルトインフォメーションプログラムもその一種だろう」

宣教師に洗脳され生まれたのがキリシタン大名。キリストの教えを受け入れれば、異教徒、つまり、仏教徒を奴隷にしても良いと当時のローマ法王は言った。それを大義名分に、戦に勝つ為に、鉄砲、その火薬となる硝石を手に入れたいが為に、その代金換わりに捕虜としてつかまえた敵の領民を奴隷として彼らは商人に売った。

「ある作家が言っていた、麻薬は宗教の代用品だってな」

物理学、科学が発展した現代では、神を信じる者は少なくなり、昔の様に宗教は人を洗脳出来なくなった。廃れた宗教の代わりに人を支配する道具として、麻薬が使われるようになった。古くはアヘン戦争。最近ではオウム真理教が覚醒剤を使用し、信者をつなぎとめていたのは紛れもない事実だ。

「本家も、俺が分裂に手を貸した団体も、そして金城組も、シャブでその安樂栄治って奴の手に落ちたって事だな」

「日本のヤクザに、もう、任侠は、無くなった。これから新庄さんは、どうするんです」

「俺か、俺は別になんも変わらねぇ、お前と一緒で、俺は俺だからよ。徒党を組むのは元々性に合わねぇし、弱きを助け強きを挫く、それは俺に備わった座右の銘だしな。ここで、自分に賛同してくれる奴とだけ、俺は自分の任侠を貫いて行くよ」

「随分と寂しくなりましたね」

「あぁ、でもよ、欲呆けした連中と徒党を組んでるより、気楽なもんだぜ」

「あはは、なんかそれ、新庄さんらしいや」

「牧田、俺たちの力が必要になった時はいつでも来い。俺は、お前の任侠を信じている。お前、金城組、辞める腹なんだろ」

「はい、俺、守りたいものが出来たんすよ」

「おおーい、何だ牧田、好きな女でも出来たのか、珍しいえじゃねーか」

「いやいや、そんなんじゃないっすよ、ただ、色々と考えた末、俺は金城組を辞めて、堅気になるって決めました。新庄さん、今迄、本当に色々、ありがとうございました」

「牧田、最後にひとつだけ言っておく」

「はい」

「たとえ事態がどう転がっても、お前の親父の事、お前だけは信じてやれ。あいつは本物の極道、それは俺が保証する、いいな、牧田」

「新庄さん・・・」

「迷うな牧田。自分のここを信じればいい」

新庄は左拳を胸に数回当て、牧田にそう言った。

「ありがとう新庄さん、やっと迷いが晴れたよ」

「あぁ、行ってこい牧田」


              8

「お母さん、どうですか」

「お世辞じゃなく、満点だ。よくこれだけ完璧に私の味を再現できたもんだ、あなたは、本当に凄い子だよ、惠ちゃん」

「良かった」

「これで私は、明日、死んでも、もう悔いはないよ」

「お母さん!なんて事言うんですか!そんな事言わない!」

「あはは、ごめんなさい。でもね、本当に、本当に、人生の終わりに、あなたに出逢えて、良かった、私は息子は多いけど、娘が居なかったからね」

「お母さん」

その時、早朝に有るはずのない来客が店の内側に掛けてある暖簾を潜り店内に入って来る。

「よぉ、久しぶりだな、辰ちゃん」

「あら、どうした風の吹き回しだい、金城の親分」

辰子はしかし、微塵もたじろぐ事なく、金城の到来に笑顔を見せ迎え入れる。惠はあまりの事に金城を睨み据えたが、二人の会話を見守る様、一歩下り椅子に腰かけた。

「今日は辰ちゃんに頼みが有って来た」

「お断りだね」

「おいおい、未だ何も言ってねぇぞ俺は」

「大体、想像出来る。あんた、いつから堅気になりたいって子分を引き留める様な男になったんだい、あんたの任侠も、廃れたもんだね」

「相変わらず厳しいなぁ、辰ちゃんは」

「心配しなくていい」

「え?」

「考えてごらんよ、あのゴリラが私の店を継げるはず無いだろ。秀夫に店なんか渡したら、店がサファリパークになっちまうよ」

「あはは、そりゃ違えねぇ、じゃあ、店は」

「店はこの子、私の娘に継がせるよ」

「そうか、そりゃ助かる」

「でもね」

「なんだ」

「昔のあんたは、堅気になるって子分を組につなぎ留める様な男じゃなかった。堅気になるか、渡世で生きるか、それはあんたの決める事じゃない、秀夫の決める事だよ」

「辰ちゃん、俺たちにも、まぁ、色々と事情があるんだよ」

「あんた、秀夫を引き取る時、私に言いやしなかったかい?俺たち在日は、日本国に育ててもらった。今度は俺が恩返しする番だって、この日本人の息子を立派に育てて見せるって」

「あぁ、あいつは立派に育ったぜ、辰ちゃん、あいつはもう直ぐ、俺に会いに来る筈だ、俺に三行半を突きつけにな」

「必ず、受け取りな、その三行半」

「駄目だ、あいつだけは特別だ、あいつには、俺の金看板は継いでもらう」

「何故なの、あんた、実の息子が見つかったんじゃないのかい」

「そうだ。安樂惠瓊と云う坊主から突然連絡が来て、芙紗子と俺の子である栄治を引き取ってくれと言って来たんだが、会いに行くと惠瓊は殺されていた」

安樂惠瓊は金城に栄治を託すことを拒んでいた。出来れば自分の手で、栄治の心を禊、清め、その暗闇から救い出してやりたい、そう思い詰め、惠瓊は惠に栄治を託したのである。

「惠瓊さんが殺されたのは、彼の心の闇から逃げた、私の所為。だから私は、生きると決めた以上、彼の心を禊なければならない。金城さん、お願いです、彼と私を合わせて下さい」

「惠ちゃん、だったかな。色々有ったんだろうが、栄治をこの世に送り出したのは、俺だ。芙紗子が懐妊していた事を知らずに追い出し、あの気狂いに栄治を育てさせたのも俺の責任だ。あんたは何も責任を感じる必要はない」

「違う!安樂栄治は、私があの時、彼の闇に呑み込まれさえしなければ、普通の、心優しい少年に戻れたはずなんです!」

「あいつの心をそうさせたのは芙紗子だ、そして、それを見逃したのは俺だ、あんたには関係ねぇ、もう、罪に苛まれて生きるのは止めろ。あんたはあんたの人生を行けばいい」

金城は全てを見透かしたように、食い下がる惠にそう言った。

「親分、あんた、もしかして・・・」

毅然とそう言い切る金城を前に辰子がポツリと呟いた。

「辰ちゃん、分ってくれたかい」

「組は、そんなにひどい事になっているのかい」

「あぁ、うちの組に、もう一人もまともな組員は居ない、何処の組織もそうだ。この国の腐れヤクザは、新庄の叔父貴が立ち上げた組織以外、殆どが栄治の手中に在る。もうじき、戦後のあの三国人が暴れた時代より、もっと、もっと、酷い時代が来る」

「それを阻止するために」

「そうだ。牧田秀夫、あいつ以外に、マフィア化、否、テロ組織化した海口組を止められる奴は居ねぇ」

「親分、あんた、安樂栄治の罪を」

「息子がしでかした事だ、親が責任をとるのは当然。それにな、あいつの言い分には一理が有る。アメリカの核の傘に護られ、国家と云う概念を忘れた日本。その日本で、平和と自由を当たり前に与えられ、それに胡坐をかいて生きるている今の日本人は、少し考えるべきだ。俺は北の現状をこの目で見て来た。そりゃ、酷いもんだった。だからな、喩えあいつのそれが、俺を陥れる為の手段であったとしても、俺は甘んじてそれを受ける。北の人民を救うために、大馬鹿な今の日本人の目を覚まさせる為にな」

「秀夫がそれを許すと思うのかい」

「許さねぇだろうなぁ、あいつはたった独りでも、栄治の率いる二十万人相手に殴り込みをかけて来るだろう」

辰子は金城のその言葉を聞いて、何故、金城が牧田に組を継げと言い出したのか、その真相に確信を得た。この男は、秀夫を守る為、今は栄治と引き離す為に、敢えて組を継げと秀夫に言っているのだ。今、栄治と敵対すれば、秀夫は栄治に殺されるだろう。しかし、自分が栄治の組織を掌握し、全責任を自分が被り、組織を内側から解体できる時が来たら、残した金城組を秀夫に託し、この国の堅気を、あの三代目が護った様に、秀夫に護らせようと考えているのだ。

「頃合いが来たら、あいつには組を継いでもらうぜ」

「親分・・・あんたって人は・・・」

辰子が自分の意を汲んだ事を確認した金城は、今度は惠に視線を向ける。

「惠ちゃん、あんたは何も悪くない、悪いのは全部、不甲斐ないこの俺なんだ。あんたは自分の人生を生きろ。そして、出来る事なら、秀夫の事、頼まれちゃくれねぇか」

「か、金城さん」

「ははは、出来れば、出来ればでいいんだ、ゴリラの世話、頼んだぜ」

金城はそこまで話すと立ち上がり、再び暖簾を潜り店外へと出て行く。その背中を見送りながら、辰子が惠に話し掛ける。

「惠ちゃん、時期が来るまででいい。今は、親分の意を汲んであげてちょうだい。秀夫の為にも」

「はい・・・」

惠は「はい」と答えた。しかし、辰子のそれに、頷けない自分を隠し切れず、その場に立ち尽くすしか無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る