父と子


「親父、最近、揉め事がめっきり少なくなったよなぁ」

牧田は手持ち無沙汰に、愛用のコルトパイソン357マグナムを分解して清掃をしている。

「金城組にはマグナムを振り回すおっかないゴリラが居るってのがこの界隈で浸透してきたからじゃねーのか」

「おいおいおい、誰がゴリラだ」

「ゴリラじゃなきゃ、ゴジラだな」

「ケッ、親父に言われたかねーわ、海坊主みたく禿げあがりやがって」

「うるせー、これはオシャレ坊主なんだよ」

 ム――――ン、ム―――――ン

 昼下がり、そんなどうでも良く、どうにもくだらない会話をしている時、突然、金城の携帯が鳴った。

「ん、何だこの番号、見たこともねぇ番号だ」

「なんだよ、出会い系サイトにでも登録したんじゃねーだろうな」

「ばーか、この歳で出会い系とか有り得ねーわ、はい、もしもし、金城だ」

 電話の向こうの人物は男の様である。洗練された物言いで、知識と教養が牧田には感じとられた。どのような要件の電話であるかは、聞こえてくる会話が断片的すぎてイマイチ内容はつながらない。が、しかし、会話を始めて一分、金城の顔色が変わった。

「それは、本当なのか」

 普段では殆ど見られない金城の真顔と声で、牧田はその電話が、深刻な問題を含む電話だと理解する。

「どうした、親父」

「秀夫・・・すまねぇが、ちょっと付き合ってくれるか」

「別に暇だからいいけどよ、どうしたんだよ、親父」

「まぁ、着いてからだ」

 金城は牧田のそれに答えを濁したまま上着を羽織る。牧田は金城の後ろについて事務所を出た。牧田がベンツの後部座席のドアを開けようとすると、金城は手を顔の前で横に振る。

「いいよ、今日は二人きりだ、助手席で良い」

 言うが早いか、金城は自らの手で助手席のドアを開き中に乗り込む。室内は熱で蒸れた本革の匂いが満ちていて、それに眉を寄せた二人が同時に窓を開ける。体裁が悪いと本家の幹部からプレゼントされたこのベンツの事が二人は嫌いだった。

「あー、臭っせぇ、で、親父、どこに行くんだ」

「取り敢えず、志方に向かってくれ」

 兵庫県加古川市志方町と云う所は、昔から牛肉を扱う卸の店が点在する地区である。

「なんだよ、焼肉でもすんのか」

「違うよ、あそこに古い牛舎小屋があるんだが、そこに来いと言いやがる」

「誰がだよ」

「安樂惠瓊」

「なんだ、その坊さんみたいな名前」

「坊さんだとよ」

「坊さんが親父に何の用だってんだ」

 前方の信号が黄色に変わる。

「俺によ、血の繋がった息子が居るんだと」

「?・・・・」

在日を束ね金城組を設立した修三は、朝鮮総連からの働きかけで、在日朝鮮人を擁護する立場に居た。朝鮮人を受け入れてくれる日本企業への人材派遣、朝鮮総連の息の掛かったパチンコ店、飲食店等、それら朝鮮系の企業の尻を持ち、そこから支払われる「みかじめ料」等が金城組の収入源となっていた。

金城は、北朝鮮が覚醒剤を日本に密売している事にだけは反発を持っていた。それは、麻薬は海口組の御法度でもあり、罪の無い人々を、何処までも不幸のどん底に突き落とすからである。

ある時、金城は、学生運動に参加し、主体思想に昏倒、北朝鮮をユートピアと崇拝する芙紗子を知る。

彼女は貿易商を営む資産家の家に生まれた。芙紗子の家は高級住宅街に有ったが、近くに養護施設があり、養護施設の子供達も芙紗子が通う小学校に来ていた。芙紗子の通う小学校では、金持ちの子供たちが、養護施設の子供達を虐めると云う構図が普遍的に成立してる。養護学校の子供には、どんな虐めをしても構わないし、それを先生たちも黙認していたのである。養護施設の子供たちは、金持ちの子供たちの玩具と化していた。芙紗子はその事に憤りをお覚える。それが芙紗子が共産主義に昏倒する、最初の一歩だった。

共産主義思想を学ぶうち、芙紗子は学生運動から赤軍に参加する。芙紗子を溺愛する父親は、芙紗子の活動に頭を悩ませながらも、芙紗子を支援した。芙紗子には潤沢な資金があった。

赤軍の活動をしている中で、芙紗子は朝鮮労働党の主体思想に出合い、それに昏倒する。芙紗子は北朝鮮こそがこの世のユートピアであるとの見解から、朝鮮総連や北朝鮮絡みの人脈作りを展開していった。しかしその頃、芙紗子の父親の事業が倒産し、芙紗子は父の支援を失う。芙紗子は父の貿易商としての人脈を活かし、活動資金を得るため、麻薬の密輸と売買に乗り出していく。そこで、総連から要請を受け、日本のアンダーグラウンドで密かに朝鮮人を支援、擁護する、金城修三に出逢ったのだ。

金城の行動に共感した芙紗子は金城に惹かれ、やがて芙紗子は金城の子供を妊娠する。しかし、金城が嫌う薬物売買に芙紗子が携わっている事が露見し、金城は、苦渋の中、芙紗子と別れる。芙紗子は妊娠の事実を隠したまま金城の元を去っていた。

「ええぇぇぇーーーーー、おいおいおい、聞いてねぇぞそれ」

「ギャーギャーぬかすな、俺だって初耳だぜ、つか、秀夫、前見ろ!信号!赤!前見て運転しやがれ!」

 余りの事に牧田は信号に気付かず、赤信号の交差点にそのまま突入する。信号が青になり、左右から交差点に進入して来た車が牧田の突入で一斉に急ブレーキを踏む。

ギャギャギャギャー――――

「うるせー、ギャーギャータイヤ鳴かせてんじゃねー」

窓から左右に怒鳴る牧田の頭に金城が平手打ちを喰らわせる。

「お前が言うな、お前が」

「痛ぇーわ親父」

「危ねーんだよお前わ」

「そんな事はどうだっていい、おい、落ち着け親父」

「いやいや、お前が落ち着け秀夫」

「分った、落ち着く、落ち着いて考えろ俺、親父に息子が居るって事は、そいつは、俺の、兄貴なのか、弟なのか、ど、ど、どっちだよ」

「え・・・お前、そこ、重要?」

「重要に決まってんじゃねーかよ」

「弟だよ!考えてみろ、俺とお前、十二歳しか変わらねぇんだぞ!お前より年上だったら、俺、えれー事だわ!」

「よっしゃーーー、弟だ、弟だ、弟だ、おい、親父、よくやった、俺に弟が出来るんだぁ、よっしゃーーー、弟♪、それ弟♪、それ弟♪」

 こいつ・・・普通なら、自分は義理の息子だからとか、組の跡目の問題とか、クヨクヨ考えるもんだが・・・そんな事まるでお構いなしに、家族が増える事を心底喜んでやがる。底抜けに・・・面白い男だぜ・・・

 くぐもった空気が充満する高速道路を降り、県道65号線に差し掛かると、辺りは一面、長閑な田園風景に変わってゆく。

「田舎だなぁ、親父」

「いやいやいや、お前、都会に牛舎小屋はねーだろ」

「そうだけどよ、それにしても、こんな田園風景が、工場地帯の近くにあるもんなんだなぁ」

そこは、海と言うには狭く、川と言うには広く、遠くに望む大海原から少し陸に切り込んだ場所にある汽水域の川が流れる村で、狭い村の奥には切り立った山肌が迫出している。

「秀夫、山の方に向かえ、確か、あの砂利道の方だ」

 秀夫は、金城が言う砂利道までベンツを乗り入れ、そこで二人は車を降りる。車を停めた土手から目の前は広い川辺になっていて、二人は川辺から上流に向かい下草を踏んだ。

「秀夫、見ろ、ここだ、小さな横穴があるだろう」

金城の言葉に牧田は金城が差す方に目を向ける。するとそこには、人が二人ほど入れるだろう浅い横穴が幾つも点在していた。

「秀夫、火垂の墓って、映画、見た事あるか」

「あぁ」

「あの映画の様な悲劇が、ここでも有ったんだよ。台湾や朝鮮の民が、多く、あの戦争で、死んだ」

 金城は吐き捨てる様にそう言うと、その横穴を凝視した。薄暗い穴の奥には、今も腹を空かせた同胞が膝を抱え蹲っている様で、金城は眉間に皺を寄せる。

「秀夫」

「ん」

「戦争は、やっちゃいけねぇなぁ」

 牧田に話しながら、金城は独り言のようにそう言うと、またそのまま上流へと歩き始める。暫くすると迫出した山裾の奥に続く山道の入り口が在り、そこは鬱蒼とした緑が茂っていて、恰も人の侵入を遮る様だった。森は静寂だった。横穴を見た所為か、金城は寡黙に歩いた。そしてその静寂の中、目的の牛舎小屋に辿り着くと、もはや手遅れであろう血の海に僧体の男が倒れている。

「親父・・・」

「うむ」

 牧田は小走りに男に近付き、膝を屈める。血はまだ固まってはおらず、男には息があった。しかし、この男に生存の余地がない事も、牧田は同時に理解する。

「おい、しっかりしろ」

「お・・・お願いします・・・栄治を・・・栄治を、殺して、殺してあげてください・・・そして、惠を・・・惠を守って・・・」

男は、そこで息絶えた。

「親父・・・」

「秀夫、行くぞ」

「このままでいいのか」

「手遅れだ、見れば判るだろう。俺達は極道だ、これは警察の仕事だ。行こう」

「栄治ってのは親父の息子って事か」

「あぁ」

「惠って、誰なんだよ」

「それは分からねぇ、今から調べる」


             2

 栄治の姿は、墨染(すみぞめ)の直(じき)綴(とつ)に墨の手巾(しゅきん)といわれる丸ぐけの帯を締め、白(しろ)脚(きゃ)絆(はん)に草鞋(わらじ)、絡子(らくす)といわれる五条(ごじょう)袈裟(けさ)を肩に掛け、頭陀(ずだ)袋(ぶくろ)を前に吊し、その上から袈裟(けさ)文庫(ぶんこ)を前に、後付け行李(こうり)を振分けにし、網代(あじろ)笠(かさ)をかぶり、左手に坐(ざ)蒲(ぶ)を持っている。行雲、流水のごとく所定めずに行脚する意で雲水と呼ばれ、禅宗の修行の僧が旅をする時の正式な姿である。

 ・・・惠、どうしてだ・・・どうして、俺の中に・・・一握りの天使を置いたまま出て行った・・・

 惠は自分の中にある、悍ましき悪意の全部を栄治の中に注ぎ込んだ。パンドラの箱がもし、開いたとするなら、この様な事になるのかもしれないと、栄治はその時そう感じた。だが、おぞましき悪意の全部と共に、期せずして惠に宿る一抹の天使が栄治の中に流れた。これはパンドラの箱に譬えるなら、箱に残された最後のひとつ、「希望」であろう。しかし、一般には、災いに対抗しうる「希望」を与えられ、災いは人間の意志ではどうしようもないが、「希望」だけは人間の思い通りになるといった肯定的な解釈をされる事が多いが、そもそもこの箱は「災い」を封じた箱である筈。それならばこの箱に残された「希望」も、人にとって、災いのひとつではないだろうかと云う解釈もある。

つまり、人は「希望」と云う質(もの)を残されたばかりに、すべてを諦めて運命を享受(きょうじゅ)することが出来なくなり、希望と云う名の禍と共に、死ぬまで苦しみ続けなければならない定めを背負ったとも考えられる。

 惠の残した天使の一抹は、栄治に本能を抑える理性を与えてくれる。しかし、それは、単にそれだけでしかないのだ。人を殺したい。貶めたい。残忍に切り刻みたい。そんな化け物の様な願望は、昔のまま、栄治の中に戻されていた。

・・・お前は俺に、どうしろと言う・・・

人間を辞めて、ただの狂った野獣に戻れていれば、どんなに楽だったか・・・お前は俺がそんなに憎いのか・・・息の続く限り・・・この化け物を抱いたまま、苦しみ続けろと言うのか・・・

雲水に身を窶(やつ)した栄治は、ひたすらに山道を歩いた。栄治の中の理性は知っているのだ、人を避けねばならない事を。自分の野生が人と出逢えば、必ず、その人を殺め、金品を奪う。それは、してはいけない事だった。しかし、栄治としてそれは飽く迄も、「今は」なのである。栄治の中にある天使の一抹は、決して栄治に良心を呉れるのではない。人間社会に生きる上で、殺人は自分自身を危険に曝す。生き物を殺す事に何の躊躇いも罪悪感もない。だが、殺人を犯せば、社会が自分に牙を剥く。それを避けるための手段として、理性が働く。栄治の中の理性とは、そう云う質(もの)でしかないのだ。そんな栄治の理性が下した決断は、先ずは身を隠す事。そして、アンダーグラウンド、裏社会に居場所を探る事だった。

栄治は昔し、芙紗子と暮したアジトを目指し、山中の道なき道を歩いていた。やがて日はとっぷりと暮れ、辺りは闇に包まれていく。自分の指先さえ見えぬ山の闇は特別だった。栄治がこれまでに知っているどんな闇よりも暗く、恐ろしい闇だった。しかし、その特別な闇は、恐怖と云うよりは、むしろ安寧を栄治に与えた。この闇に包まれ生きていれば、否、この闇を自分のものにすれば、自分を脅かす他の全てから自分を守ることが出来る。

朝日が昇ると眠り、闇が自分を包む頃になると、栄治は歩いた。それをいったい何度繰り返したろう。その日、栄治は、闇に差し込む光を見た。明滅するその黄色い光は、羽虫が光に惹かれる様に栄治の心を惹く。栄治はその光を目指し、足に力を籠めた。

黒い草葉をかき分けると、そこには点滅信号が黄色の明滅を繰り返していて、その先に、あの建物が現れた。一階部分が全て車庫になっていて、その車庫の上に居室がある。居室に登るには、簡易的な細い鉄の階段を登るしかなく、その階段を閉鎖してしまえば、容易に居室に侵入することは出来ない。そして、居室の北側は山の斜面に接していて、もし何者かに襲われても、そこから山中に脱出することが出来る、正に砦と云える建物だった。

鉄の階段を登る。草鞋はその柔らかさで、固い鉄に足音を与えなかった。階段を登りきると、階段脇から北側の様子が窺えた。栄治は冷たいものを感じる。厳重に閉ざされている筈の窓が開いていたのだ。栄治は気配を殺した、否、自分を包む闇そのものに化け、闇もろとも開いた窓に足を掛け、室内へと進入した。

部屋の中を支配している圧倒的な闇を、点滅する信号の黄色が規則的に溶かしている。そこで栄治が見たものは、破壊された水槽と、床に転がる黄色いリンゴ、そしてそのリンゴを掴むように手を伸ばしたまま転がっている死体にしては艶めかし過ぎる女の體(からだ)。

生きているのか、死んでいるのか。

生きているにしては、余りに力なく転がる女の體であり、死んでいるにしては艶めかしい肌をしている女の體。栄治は暫くその女の體に近寄ることなく、凝呼(じっ)っと息を殺し、女の體を観察していた。

栄治にとってその體が他の誰かの體であれば、彼は観察などに時間を要する事なく、生きていれば止めを刺し、死んでいるなら、すぐさま死体の始末に掛かっていた筈である。しかし、彼は動かない。否、動けなかった。何故、動けないのか。それは、今、栄治の中に、恐ろしいほど様々な感情が揺れ動いているからである。

この體の中に居るのは、紛れもなく自分の母親である。自分の、人としての権利を全て奪い、自分を獣の様に扱って来たあの母である。憎い。しかし、幼いころからすり込まれた恐怖を、栄治はそう簡単には克服出来ずにいる。この體の中に居る母が、怖くて、怖くて、仕様がないのだ。最早この母に、自分を踏み躙る力も、権力も無い。それでも、一度、人としての根底を完全に掌握された相手に、そう簡単に反旗を翻せるものではない。

憎い、怖い、憎い、怖い。

循環する感情。そこで栄治は、その循環する感情の他に在る、別のベクトルを知る。もしも、もしも母が死んでいるなら、もしも、この體の中から母が亡くなっているとしたら。

・・・ あぁ・・・

 その想像に、栄治の股間が突然隆起した。自分はこの女に何を求めていたのだろう。生まれたばかりの自分は、この體に何を求めたのだろう。人並みに母親から受けるべき愛情を、自分はこの女に求めていたのだろうか。野獣であった頃、そんな事など考えた事も無かった。そんな事を夢想するのは、明らかに、惠が残して行った天使の一抹の所為である。栄治は天使の一抹が齎すその別のベクトルに意識を向けた。

 好きだ、好きだ、好きだ・・・ 愛されたい、愛されたい、愛されたい・・・

 その途端、突き抜ける、全く別の感情が栄治を襲った。

そうだ、自分は、この女に愛されたかったのだ。 愛している、愛しているからこそ、愛されたかった・・・

 それに意識がたどり着いた途端、栄治は自分の中にある別のベクトルの正体を知る。

 ・・・この體を抱きたい・・・この體を思い切り、抱いてみたい・・・

この體の中から母が消え失せていれば、最早これは肉の塊でしかない。この肉の塊に、これまで感じた欲望の全部を叩きつけたい。栄治のそれは、冒したいから、侵したいに変わり、やがて犯したいへと変貌を遂げる。

闇を溶かす黄色い明滅の中は、時間が止まっているかの様で、どんなにそこに転がる體を見下ろしてみても、栄治の感情にそれ以上の変化は訪れなかった。転倒の為か、スカートから彼女の下半身が露わになっている。栄治はしゃがみ込み、その脚を、つま先からじっくりと観察し始める。

思えばこの脚は栄治の恐怖の象徴だった。この脚が、この足こそが、自分の全てを抑圧し、押さえつけ、踏み潰して来たのだ。憎い。大きな憎悪が栄治の中を移(ヒ)臓腑的(ステリック)に駆け巡る。しかし、それと同時に、栄治は至福をも感じていた。最早この體の中にあの恐ろしい女が棲んではいないのであれば、これはただの骸でしかない。抜け殻になったこの肉は、最早、最早、最早・・・永遠に自分を踏み躙る事はないのだ。

栄治の視線は、芙紗子の下半身から上半身へと移る。灰色の地味なセーターは肌に密着していて、芙紗子の豊満な乳房を際立たせていた。思い出には無い新生児の記憶が疼く。自分は、この胸に抱かれていたのだろうか。この胸こそが、自分の故郷なのだろうか。この女のこの胸に抱かれた時から、自分の全部が始まったのだとしたら。そして、この胸から自分は、この顔を見上げていたのだとしたら。

栄治は芙紗子の顔に視線を移した。死と云う転回点に辿り着いたその表情は、あらゆる感情から解き放たれていて、最早何を語る事も無い。

 これが母・・・否・・・これが・・・母だった・・・芙紗子という質が入っていた、肉の器・・・ここから自分は生まれ出て、ここに今、こうして立っている・・・俺は今・・・何の為に・・・何をする為にここに立っている・・・

一抹の天使の羽に栄治は問う。野獣で有った頃には知るよしもなかった問いの答えを。だが、天使の羽は沈黙したまま何も答えなかった。もしもあのまま、惠の中の天使を持ったままなら、どんな答えが得られたのだろう。もしも自分が野獣ではなく、普通の人間としてここに立ったとしたら、この女を見下ろし、どんな感慨が得られるのであろう。剥き出しの神経を刺激される様な痛烈な愛情がそこに在った。辣痛とも言える愛情に遭遇させられたと云うのに、この胸の裡にある天使の一抹は、何も応えない。

「駄目だ・・・お・・・お母さん・・・し・・・死なないで・・・」

 栄治は芙紗子の着衣を毟り始めた。着衣に移る温もりは無く、冷めきった衣類に希望は感じられない。

「このまま・・・このまま死なないでくれ・・・俺を・・・俺を独りにするな・・・」

 闇を溶かす黄色い光に、芙紗子の裸体が浮いては消え、浮いては消えていた。冷たい乳房が、規則的に黄色く浮き上がる中、栄治はその乳房に向かって蘇生術を始めた。両の掌を芙紗子の胸に沿え、あばら骨が折れる程の力を加え、何度も何度も押した。やがてその運動は栄治の体温を上昇させ、額から、顔中から、汗が噴き出してくる。しかし、自分の体温が上がれば上がるほど、芙紗子の絶望的な冷たさがひとしおに伝わって来る。

「死ぬな、死ぬな、死ぬな、生き返れ、生き返ってくれ」

だが、二人は対照的だった。全身から汗を噴き、細胞全部が熱を帯びて行く栄治。永遠に停止した細胞から熱を失い続ける芙紗子。

「一瞬でいい、一瞬でいもいいから、生き返れ、死ぬな、勝手に死ぬな」

 栄治は蘇生術を辞め、袈裟を引き千切り、直綴を解き、小袖を脱ぎ捨てた。そして芙紗子の衣類の全部を剥ぎ取ると、自身の隆起したそれを芙紗子の中心ににあてがう。

「死ぬなぁぁぁぁ」

{え・・・栄治・・・}

 小さく掠れた声が、今、確かに芙紗子の唇から漏れた気がした。自分の一物を芙紗子の中心にあてがったまま、栄治は全神経を集中して芙紗子の唇を見下ろす。


{栄治・・・何を・・・している・・・自分の母親に・・・気持ちの悪い子・・・お前なんか・・・産まなければよかった・・・}


 それは幻聴だったのかもしれない。しかし、栄治はそれを聴いた瞬間、幽かに口角を上げ、微笑し、芙紗子の頸を両手で力一杯に締め付けながら、悠寛(ゆっく)りと、自分のそれを、芙紗子の中に沈めて行く。冷たく、固くなった、その中で、栄治は激しく動き続けた。そして栄治の両手は、芙紗子の眼球が浮き上がるほど、芙紗子の頸をきつく締めている。眼球の浮き上がった芙紗子の顔を見て、栄治はその顔と、水槽に居たグッピーを重ね合わせる。すると、激しく動く身体と裏腹に、心は凪の海に浮かんでいる様に静かになった。

栄治の目から汗に混じり、大粒の涙が溢れていた。しかし、凪の様に穏やかな心は、少しも悲しいとは感じていない。悲しいとは思わないのに、涙だけが、栄治の目から止め処なく流れ続けるのだ。栄治はそれを、前にも経験した事がある。それは、惠が寵愛していたあの猫を殺した時と同じ種類の涙だった。

栄治は動き続けた。夜明けの柔らかい光の中、昼下がりの気怠い光の中、夕闇迫る茜色の光の中、栄治は動き続け、変わり果てて行く芙紗子を凝視し続けた。死後硬直で固くなる芙紗子。血塗れになって行く自分の下半身。それでも栄治は動き続け、そして、果てることの無い、憎しみと、痛みの全部を抱えたまま、天使の一抹に問いかけた。

 ・・俺は・・・何の為に・・・生まれて来た・・・ この上ない憎しみと、この上ない苦しみと、この上ない悲しみと、この上ない痛み・・・そんなものを少しも感じない俺は、いったい、何の為に生きている・・・もし、神が居るなら答えて見ろ・・・お前は・・・どうして俺を・・・何故に俺を・・・この世に産んだ・・・

 やがてあの明滅する黄色い光が還って来た。単調に繰り返す闇と光の狭間で栄治は果て、そして小さくひとつ微笑んだ。それはきっと、釈迦の悟りにも似た恍惚だったのかもしれない。その笑顔と共に、栄治は芙紗子の胸に倒れ込んで行く。

・・・良い・・・神が答えを呉ぬなら・・・

・・・神が作ったこの世界を・・・俺がこの手で壊してやる・・・


           歴史

ロシア式の食卓は何時も静粛で、正装してそこに座る父は、私にとって、偉大さと威厳そのものだった。父は1937年6月4日、朝鮮咸(ハム)鏡(ギョン)南道(ナム)の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた。当時、国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有であったし、それが大きく報道され、日本官憲側が父を標的にして討伐のための宣伝を行い、父に多額の懸賞金を掛け、それを契機に父の名は知られるようになった。

この普天堡襲撃は、在満韓人祖国光復会甲山支部の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙(オ・ソンリュン)だったと、父が呉の手柄を盗んだように言う輩もいるが、私はそうではないと信じている。理想があり、確固たる信念があり、その元で、父は日本軍と戦い続け、一度たりとも負けた事など無いのだ。

日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍が消耗を重ね、壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった時も、父は党上部の許可を得ないまま、独自で判断。生き残っていた直接の上司、魏拯民を捨て、十数名ほどのわずかな部下と共にソビエト連邦領沿海州へと逃げ切って見せた。そして、1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した時、父は、ウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たしたのだ。

ソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、祖国に返り咲いた父は、その信念に基づき、主体思想を掲げた。父は今から、この国の民を率い、ここに理想の国家を建設するのだ。そんな父が、今日も、私の前に座っている。

父が帰国した当時の朝鮮半島には、まだ多くの日本人が残留しており、避難民はソ連軍や朝鮮人から使役と称して強制労働を強いられていた。この頃、私は、日本人から接収した邸宅に父と母、弟、そして二人の日本人姉妹を女中として、一緒に暮らしていた。 「さぁ、どれも残さず食べなさい。いいか、どんな時も、食べる事と寝る事を疎かにしてはいけない。これを疎かにする人間は、どんなに優秀でも、最後には負ける。食べる物を食べ、しっかりと睡眠をとり、どんな事をしても先ずは生き残る事。それが、負けない戦をする秘訣だ」

 そんな信念を持つ父であるから、我が家の食卓は何時も豪勢で、女中の日本人にさえ、父はその頃では考えられないほど贅沢な食事を与える様、母に指示をしていた。しかし、それ以外の事では、父は質素倹約に勤めた。子供の頃の私は、用を足した後、何時も新聞紙でお尻を拭いていたものだ。

父はある日、日本共産党中央委員会の発行する日本語の日刊機関紙であるアカハタを二人の女中に見せ、日本共産党の第一書記である野坂参三を褒め称えた。しかし、当時、天皇制が深く浸透していた日本人としては、共産思想などもってのほかであり、二人は父に対して怪訝な顔つきをした。

「共産主義は嫌いですか」

 父は怪訝な顔の二人に対してそう質問すると、二人は驚くことに怖気る様子もなく、怪訝な顔のままで父の質問に頷いて見せたのである。これには父も驚きを隠せないと云う顔になった。私は父がこの二人を直ぐにでも殺してしまうだろうと思った。しかし、父はその後、大声で笑いながら二人に背を向け、書斎へと引き上げて行った。

それから数日後、父は二人に「これを読みなさい、そして、自分の頭で何が正しいか、それをを考えてみなさい」と言って二人にマルクスやクロポトキンの本を手渡した。

それから暫くして、父の弟である英柱(ヨンジュ)叔父さんが我が家に出入りするようになり、その叔父も、二人の日本人女中にとても優しく振舞うのだ。私にはそれが理解できなかった。日本人は、我々の同胞を虫けらのように扱った民族だ。父の掲げる高尚な思想も理解できぬあの様な日本人など殺して仕舞えば良いのに。私は日本人に親切にする父と叔父を苦々しく思っていた。

そんなある時、姉妹の姉の方が、朝鮮人の集団に暴行を加えられ重傷を負った。以前、仲間が姉の訴えで共産党本部によって厳罰に処せられた事への報復だった様だ。これを知ったあの温厚な叔父が、阿修羅の形相で憤慨した。叔父は共産党本部から兵を募り、暴行を行った朝鮮人の集団を捕縛、徹底的に痛めつけ、投獄してしまった。そして、救護施設のベットに横たわる姉の枕元に赴き、事の顛末を告げ、最後にこう言った。

「朝鮮の人民が酷い迷惑を掛けて済まなかった、許してくれ」

 私には、これも理解出来なかった。何故に自国民を庇わず、日本人を庇い、剰え謝罪までするのか。

翌日、父と叔父は連れだって救護施設に赴き、介抱に来ていた妹とベットの姉を相手に話した。

「共産党は日本の帝国主義、軍国主義に排撃するのであって、日本人を憎むのではない。徹底的な強兵こそ国を富ませると軍備に明け暮れ、他国の人民の迷惑や幸せなど露ほども考えない帝国軍人を、君たちはどう思う。我々は、皆が安心して暮らせる国を、皆が貧富の差に苦しまない平等な社会を目指しているだけなのだ」

 父と叔父の話を姉妹は熱心に聞いていた。私も父と叔父の話に、改めて共産主義の素晴らしさに感動を余儀なくされた。

共産党万歳。

私がそう心で叫んでいると、叔父が二人に質問をした。

「どうだ、共産党を好きになったか」

 姉妹は顔を見合わせ、小さく頷いた。それでいい、やっとこの日本人にも、父と叔父の素晴らしさが伝わった。そう思った次の瞬間、姉妹は父と叔父に向かってこう言った。

「でも、私たちは、やっぱり天皇陛下が好きです」

父と叔父が顔を見合わせる。私の怒りも頂点を迎えた。こんな日本人、今すぐ殺して仕舞え。そうなるだろうと、私はカンカンに憤った顔で父と叔父を見上げた。すると、あろうことか二人は、腹を抱えて大笑いを始め「そうか、そうか、それでも天皇陛下が好きならば、それは仕方ない」と言って、それ以降、二人を教育しようとはしなかった。

 その後、傷の癒えた姉は、妹を連れ父の書斎に訪れ、南を介して日本に帰国したいと懇願をした。父は二人に南側への通行許可書を認め、それを手渡した後「今までよく頑張ってくれたな、本当に世話になった、ありがとう。気を付けて帰国しなさい」と今日までの礼を述べ、最後には私たちまで連れ出し、二人が見えなくなるまで手を振って見送ったのだ

 この様に寛大で誠実な父だからこそ、人民は父を慕い、着き従がうのだろう。それは私にも理解できる。しかし、これほど寛大に、そしてこれほど誠実で心厚い振る舞いを行う事は、私には考えも及ばない。私であれば、もうとっくにこの二人を切り殺していただろう。

偉大な父である。畏怖を覚える程に、この父は偉大なのである。だからこそ、だからこそ私は、この父が、大嫌いなのだ。

「どうして、そんなに立派なお父様を嫌うの」

「私は、自分を知っているからだ」

 ゴシック調にロシアのアンティーク家具で誂えられたその部屋には、クレムリン宮殿にある様な豪華なベッドが置かれている。

「自分を知っているって」

「そうだ、父は偉大に過ぎるのだ。私は、どう逆立ちしても、父の様には成れない」

 天蓋を見詰めながら、男は起き上がり、煙草に火を点けた。

「だから私に出来る事と云えば、父を模倣する事ぐらいだ。父ならどう振舞うか、父ならどう選択するか、父ならどう判断するか、父なら、父なら、そればかりを考え、今日まで日々を過ごして来た」

煙草に火を点けた男は、再び横になり、添い寝する女の太股を、煙草を持たない手の指先で弄ぶ。

「お父様の真似を続ける事が、そんなに苦しい事だったの」

「器が違うのだ。父と私では、同じ論法で同じ行動をしても、違う結果になる。勿論、その結果は、全てが凶に傾いてしまうのだ」

 女は、触覚を引き抜かれ、進路を見失い迷走する蟻の様に自分の太股を這い回る男の手に自分の手を重ねる。

「でも、貴方は、お父様の尊い思想を、一番に理解しているじゃない」

 男は女の指先に、自分の指先を委ねる。

「理解などしていないさ、これっぽっちもな」

第二次世界大戦中、当時の朝鮮半島は日本の支配下にあった。しかし、日本が第二次世界大戦に敗北すると朝鮮半島は北緯38度線(半島のほぼ真ん中)より北をソ連(ロシア)、それより南をアメリカが占領し両国の軍事統治を受ける事になった。

一応、国連の話し合いでは、戦争中、一旦は連合軍が占領し、その後は朝鮮民族の独立国家建設を支援すると云う事になっていた。だから、1947年1月に国連の監視のもと、南北総選挙を実施して朝鮮半島に統一政府を樹立することを決めていたのだ。しかし、ソ連の支配する朝鮮半島北部では1946年2月、すでに北朝鮮臨時人員委員会が発足していた。その委員長が、父だった。

「国連の監視を拒んだのね」

「そうだ。国連の監視下による選挙などやれば、ソ連にとって都合のいい国家が作れないからな。有権者は候補者を支持するなら白い箱、支持しないなら黒い箱に投票などといった自由とはかけ離れた選挙で、すでにソ連の言いなりになる国を作り上げる準備をしていたのだ」

ソ連がかたくなに拒んだため、とりあえず南半分だけでの選挙が行われ、1948年5月、南半分のみでの選挙が実施された。そして、その選挙の結果、1948年8月、大韓民国が成立。翌年の9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立した。父はこの時、北朝鮮の最高ポストである首相に就任し、この年、ソ連は朝鮮半島から撤退。翌年アメリカも軍を引き上げた。大戦後、ソ連のスターリンは、自分たちの思い通りに動く朝鮮人の指導者を連れてくるように命令を下し、そこで推薦されスターリンの面談を受け選ばれたのが父だった。

父はソ連の大尉でしかなく、世間ではソ連の傀儡の様に言うが、父は、ソ連の傀儡を演じる事で、ソ連の軍事力を利用したに過ぎない。確かに軍歴や軍功を捏造したが、それもカリスマを得るための策略であり、父は、南北に引き裂かれた朝鮮半島を統一し、主体思想の元で朝鮮人、全員が、豊かに、幸せに暮らせるようになる事を望んでいた。

「素晴らしい信念だと思うわ。お父様の主体思想は、本当に素晴らしい思想よ。それを何故、頭の良い彼方が理解していない等と言うの」

「父は、偉大であるし、素晴らしい人格者でもある。が、しかし、それが故に、偉大でもなく、人格者でもない、つまらない、下賤でくだらない人間の気持ちがどんなものであるかを、計算に入れていなかった」

「下賤で、くだらない人間とは・・・」

「父に媚びるだけの人間、嘘の報告を上げ、保身を図るだけの人間、父の理想に背き、自分だけが私腹を肥やそうとする人間、そんな人間を、父は一切の慈悲無くして、徹底的に粛清を重ねてきた。ちょうど日本人の武将、織田信長が、本願寺を焼き、反旗を翻した人間の全てを焼き殺した様に」

「私はそれを悪い事だとは思わないわ。理想の社会を実現するために、寧ろ、くだらない人間は粛清されるべきよ」

「それが、私は、恐ろしくて、恐ろしくて、仕様がなかったのだ」

「何故なの、貴方はあの方の息子、銀日正なのよ、偉大な実の父親を、なぜそこまで恐れる必要が有るの」

「偉大な人間の息子は、必ずしも偉大だとは限らない。私は、私と云う人間の実態は、父の様に偉大な人物ではなく、臆病で、自分の命だけが惜しく、自分だけが裕福ならそれでいいと云う、どこにでもいる、至って下賤でくだらない人間なのだ」

「どうしてそんな事を言うの」

「私は、あの父と共に暮らして来たのだ。父を知れば知るほど、己の凡庸さが嫌と云う程に理解できる」

1950年。準備を万端に整えた父は、南北統一に踏み切る。これが朝鮮戦争だ。ソ連から武器を、中国から兵の支援を受け、この時期に開戦は有り得ないと云う李(り)承晩(しょうばん)、マッカーサーの思惑を見事に見抜き、裏をかく奇襲攻撃から戦争は開戦された。この奇襲は見事に当たった。ソウルは三日で陥落し、北朝鮮は韓国、アメリカを相手に連戦連勝、破竹の勢いで最早、南北は統一されるかに思えた。

「しかし、父はここで大きな失敗を犯してしまう」

「大きな、失敗って、何なの」

「もう一度言うが、父は、自らが偉大であるが故、志を持たぬ、下衆な人間の気持ちとその動きを計算に入れていなかったのだ」

「下衆な人間って、それは韓国の民のこと」

「そうだ。父は、韓国の民の中にも、自分と同じ志を持つ人間が居ると信じていた。そして、その人々が、この勝利を見て、必ず蜂起すると信じていたのだ。だから父は、これ程の快進撃で連戦連勝をしていながら、三日間、韓国の民を想い、進撃を止めた」

「それは知っている、未だ謎とされる空白の三日間ね」

「そうだ、あれは韓国の民が蜂起する事を促す時間だった、しかし・・・」

「しかし」

「うむ、しかし、父の行いは、徹底的で、苛烈に極めた。殺し過ぎたのだよ・・・自身が偉大故に、愚か者を赦せない父は、余りにも愚か者を殺し過ぎた」

「・・・」

「実際、この世界の大半は、愚か者ばかりなのだ。一部の賢者が殆どの愚か者を率いるのが世界の真実ならば、愚か者から見て父は何に見える」

「鬼か、悪魔に見えるのかも、知れないわね」

「そうだ、父の同民族に対する虐殺を見た韓国の民は、父を恐れ、誰一人、蜂起しなかったのだ。そして、この三日間で、父は勝機を逃してしまう」

国連軍が韓国支持に入ると形勢は逆転してしまう。父はは中国国境まで追いつめられ、ここで中国から100万の軍が駆けつけたものの、戦争は膠着状態に陥る。そし1973年7月、不本意の中、休戦協定が結ばれるが、父は断固としてこれを容認しなかった。北朝鮮はこの戦争に勝利したと公言し、韓国の民の目に悪鬼に映った父は、そのまま、悪鬼の如く、父に反目する、抗日ゲリラを戦い抜いた老将達を犯罪者にでっち上げ、粛清と云う名の殺害を繰り返し、父は独裁体制の礎を築いた。

戦争後の父は、昔、日本人姉妹に手を振ったあの父ではなく、最早、どんな些細な愚かな思想も認めない、本物の悪鬼となって行った。

「お父様は悪鬼ではないわ。貴方が言う織田信長も第六天の魔王と呼ばれ、悪鬼の様に言う人々もいる。けれど、あの時代、誰かが悪鬼に堕ちる程の覚悟をしなければ、戦国乱世は治められなかった。それと同じよ、お父様は、その崇高な志の為に、悪鬼に堕ちる覚悟をした、人民の幸せのために」

「芙紗子」

「日正様」

「お前は、父の時代に、父の傍に添うべき女性であったな。俺にはもったいない女性だ」

「そんな事はない、貴方は立派な後継者よ」

「お前は、父と同じくらいに賢しい。だから、私の様な愚か者の本質が見えないのだ」

 銀日正は煙草をもみ消し、芙紗子の太股を弄んでいた方の手と合わせ、両手で芙紗子を自分の胸元に引き寄せる。

「父もこの頃になると、人間の本質に気付き始めていた。人は、自分が思う程に賢しくは無く、自分の求める質(もの)をまだ持っていないと云う事を」

「まだ、持っていないって、何を持っていないって云うの」

「博愛精神だ」

「博愛、精神」

「そうだ、自分を犠牲にしてでも、自分以外の全てを平等に愛する心。共産主義を成立させるために、それは必要不可欠なものだ。芙紗子、お前は、見ず知らずの他人と、自分の肉親の両方が同時に瀕死の重傷を負ったとしたら、どちらから先に治療を行う」

「助かる確率の高い方から治療は行うべきよ」

「的確だ。しかし、お前以外の人間も、全ての人間が、その様に振舞うと思うか」

「そ、それは・・・」

「細胞レベルでは、アポトーシスと云う博愛を、人間は持っているのだろう。だからこそ。人体は、人体として正常に機能する。しかし、個体レベルだとどうだ。人間は基本、自分が一番に可愛いものだ。自分だけが良い思いをしたい。そして好き嫌いの感情があり、好きな物を最優先する。摂理として人間は、国家ではなく、個人が一番に大切であり、基本、自分さえよければ他人の事などどうでもいい生き物だ」

「そんな身勝手を許さないのが、主体思想ではないの」

「そうだ、身勝手を許さない為に、父は、恐怖で民を支配する道を選んだ」

1956年から1958年にかけては静粛(殺害)の嵐が吹き荒れる。さらに、この静粛を父は、民衆レベルにまで広げた。民衆同士で互いに密告させたのだ。

政府の悪口を言っていたと密告されれば、その者は僻地に送られたり、強制収容所に送られる。知っていて密告せずにいても、罪に問われるようにした。また、国の各地に自身の銅像や肖像画が掲げさせた。そして、父の名を呼ぶときも必ず「敬愛する首領である銀成日さま」と呼ばなけらばならないように徹底させ、父は、恐怖政治によって、現実では得られない博愛と云う夢想の果実を育てようとしたのだ。

それから四年後、朝鮮労働党中央委員会は、四大軍事路線を打ち出した。内容は、「全人民の武装化」「全国土の要塞化」「全軍幹部化」「全軍現代化」の四つのスローガンからなる新方針である。

「全人民武装化」とは、文字通り全人民が武装し、戦闘の訓練を受けると云う事。「全国土の要塞化」は、軍事施設を地下に建設し、空爆で受ける被害を最小限に留め、衛星の監視を逃れ、北朝鮮の各地に防衛陣地を造り、全国土を要塞化してしまうと云う事。「全軍幹部化」は、兵士は皆、幹部のような仕事が出来る程の能力を身に着けろと云う事。そして最後の「全軍現代化」は、最新の兵器を導入し、最新兵器での軍を構築すると云う事である。国土、人口に於いてアメリカに太刀打ちの出来ない父は、国家全体を軍隊に育て上げ、国連軍と対等に戦える様になろうとした。

「しかしその後、韓国がサムスン電子やヒュンダイ自動車など、世界的な企業を抱え、経済的に大発展を遂げたのに対し、北朝鮮の経済は破滅的に落ち込んで行く。芙紗子、それが何故だか判るか」

「ソビエト連邦の、崩壊」

「うむ、それも大きなファクターのひとつだ」

 父の尽力により、この国はソ連や中国から多くの支援を受けて来た。特にソ連からは大量に石油の援助を受けていた。しかし、ソ連が崩壊しロシアになってしまってからは、状況が激変してしまう。それまで、石油の援助に対する支払いは農作物での現物支払いで済んでいた。ところがロシアになってからは、全て現金での支払いを要求されるようになってしまう。結果、外貨を稼げない我が国では、石油不足となり、工場が動かなくなり、火力発電所も動かすことが出来ず、物を生産する事が著しく困難な状態に陥ってしまったのだ。

「だが、それよりも大きな原因は、何度も言うが、やはり、この国では、父以外の総ての人間が、下衆でしかなかったと云う事だ」

「国民、全員が」

「社会主義国での農民は資本主義国でのサラリーマンと同じ様なものだ。決められた時間になれば帰るし、決められた休日にはしっかりと休む。だが、農業は、予測が困難な自然と云うものを相手にしなければならない。急に天候が荒れたり、大雪に見舞われたりすれば、本来は時間外であろうが、休日を返上してでも、天変地異に対応しなければならない。しかし、社会主義では、農作物の豊作が自分の収入に直接響くわけではない。農作物が危機に晒されようとも、この国の下衆どもは時間が来れば家に帰り、休日は休んでしまう。ふふふ、人間は、所詮、自分の得にならない事には興味のない下衆な生き物だと云う事なのだよ」

 そう、父は偉大ではあったが、神ではなかった。人間の本質も、自然の摂理も、父の手には無く、依然、神の手に有る。それは、どんな高尚な思想を掲げてみようとも、特定の人間に授与される事はなく、永遠に、神の持ち物なのだ。

「元来、この国は、日本の統治下で鉱工業地域として開発が進められていた。そのため、ここに建国された北朝鮮では、食糧の自給が課題であり、ある意味悲願でもある。父は、この悲願である農業にも主体思想を持ち込んんだ」

「主体農法ね」

「そうだ」

「徹底した恐怖政治で下衆を思う様に掌握することに成功した父だったが、それは、相手が人間だからできる事だ。自然を相手に、否、自然と云う神を相手に、その論法が通用すると思うか」

「・・・」

「父が敢行した主体農法により、この国は砂漠と化していく」

 父に対する恐怖に屈服した下衆どもは、自分の頭で考え得る事を辞めてしまった。我が国にも農業に熟練した者は沢山いた筈だ。しかし、その者たちの中の誰もが父に異を唱える事は無かった。

「食料が足りないなら山林を農地に変えればよい」

農業に何の知識も見識も無い父や朝鮮労働党高官の言いなりになり、伝統的な経験農法も科学的知識に基づく近代農法も全く取り入れる事無く、観念的スローガンを声高らかに叫び、父の指導で山を切り開いて土留めのない棚田やトウモロコシ畑を造った所為で、少し雨が降っただけでその田畑は崩壊した。

このような強引な農法により、山は禿山となり、山の土砂が川に流れ込んで水位が上がり、終には洪水が多発する原因となった。トウモロコシ畑はトウモロコシばかりを作り続けた為、連作障害を引き起こし、増産という目的に反し不作、ひいては食糧難を招く事になる。また洪水の影響で大量の土砂が海に流れ込み、海岸の生態系が破壊されてしまった所為で、漁業までが不振に陥ることとなってしまった。

連作障害を何とかしようと、目先の収穫量を増やす為、ソ連が援助してくれた化学肥料を大量に撒き散らし、それによる土壌の消耗で、農地は壊滅的ダメージを受ける。そこにソ連の崩壊により、化学肥料をも調達出来なくなってしまった我が国の農地は終には砂漠化したと言っても過言ではない惨状に陥る。

「人により差異はあろうが、人間は、人生の内で輝く瞬間と云うのが在る」

 銀日正は抱きよせていた芙紗子から身体を離し、芙紗子の瞳を覗き込むように話した。

「輝く、瞬間・・・」

「そうだ。お前の国の、喩えるなら、豊臣秀吉などはどうだ。あの男は、織田信長が本能寺で謀反に倒れた瞬間から輝き始めたが、天下を治めた時から、その輝きを失くした。あれほどの偉業を成し遂げた男でも、朝鮮半島に侵略戦争を仕掛け、その愚かな行為で、後世まで謗りを受ける羽目になった。そして最後には我が子可愛さに、天下の政を私物化しようとし、徳川家康によって淘汰されてしまう。わが父にも輝いた瞬間があり、そして、輝きを失くした時がある」

 銀日正は再び天蓋を見上げ、物事を語る事によって空気の中に漂い出した何某かの答えを探る顔になる。

「朝鮮戦争までの父は、輝きに満ちていた・・・しかし・・・韓国の民が蜂起せず、父の期待を裏切った日から、父は、秀吉と同じ様に、輝きを失い、転落して行ったのかもしれない・・・ふふふ・・・」

銀日正は話終えると、まるで何かを思い出した人の様に笑う、しかし、その笑いは、どこまでも自虐的だった。

「何が可笑しいの」

「これが笑わずにいられるか、そうであろう。自分の頭で何も考えなくなった下衆と、破綻した経済と、砂漠化した農地・・・それを父から手渡された私は、いったい、どうすればいいと言うのだ、神は私に、いったい、どうしろと言うのだ、あっはっはっは」

銀日正は芙紗子から離れ、ベッドから立ち上がる。

「秀吉の朝鮮出兵、毛沢東の大躍進政策、偉大と言われる人間も、民心を離れ、己の思想に己自身が捉われた時、偉人の偉大さは仇となる」

 立ち上がった銀日正と共に、芙紗子もベッドから起き上がり、銀日正の衣服に手を掛ける。

「しかし、それよりも、もっと恐ろしい事がある」

 芙紗子が差し出した上着に袖を通しながら銀日正は続けた。

「あの時代、日本には徳川家康と云う別の偉人が存在した。それ故に、日本は世界でも類を見ない、徳川三百年と云う太平の世を築いた。だが、我が国には、徳川家康の様な男はどこにも居ない」

 偉大な父を持つ私は、自分の凡庸さを父に見抜かれる事が怖かった。見抜かれれば、即、父は私を殺すだろう事が、火を見るより明らかだったからである。真夏の夜、官邸の周りで虫が鳴くと、書斎で仕事す父の邪魔になると母に言い、一晩中、家の周囲を回りながら虫を追い払う振りをして父に媚びを売った。私は、父の唱える言葉を一語一句逃さぬよう、父の全てを模範して生きて来た。そんな私だからこそ、輝きを失い、自身の偉大さが仇となり始めた父の歪んだ軌跡を見ることが出来た。最早この国は、どうにもならない。砂漠化したこの国の大地に、民を養う力が無い事は私にでも理解できる。しかしそれでも父は、農業を立て直し、食料供給の安定化で政権を維持しようとした。もし、私が徳川家康なら、事情は随分と変わったのかもしれない、しかし私は、偉大さの欠片も持ち合わさない平凡な下衆に過ぎないのだ。父を模倣する事しか出来ないただの傀儡でしかないのだ。農業を立て直し、自給自足をするなど、夢のまた夢、現実を見ないまま老境に差し掛かり、自分の夢想を我々愚民に押し付ける父の姿に、私はやせ細り、秀頼を頼むと言い残し死んで行った、在りし日の秀吉の姿を見た。

「我が思想、我が観念に支配され、誰の言葉にも耳を傾ける事無く、邪魔者を総て粛清し、宦官ばかりを身の周りに置いた結果、父は権力の化け物になってしまった」

 部屋の電話が鳴り、芙紗子が電話に出る。内容は解っていた。迎えの車が到着したと云う知らせである。しかし、私は、話を続け、芙紗子は電話の内容を伝えないまま、私の話を聞いていた。

「やはり、貴方が・・・」

「そうだ、あれは私がやった事だ。 荒れ果てた農地が齎すもの。外貨の獲得も思う様に成らず、崩壊寸前の経済が齎すものは、誰の目から見ても、それが来ることは明らかだった。だから私は、それを利用することにしたのだ」

銀日正は視線を芙紗子の張り出した下腹部に向ける。芙紗子の中で自分の遺伝子を宿した子が、健やかに成長しているのが判る。銀日正は芙紗子の腹に手を当てた。 父は、この経済危機をどうすることも出来なくなり、韓国に頼ろうとした。元々は同じ民族である韓国人の言い分は優しい。韓国は父との直接会談さえ実現すれば、直ぐにでも南北を統一しよう、その様に父に話した。

イエスマンだけを側近に置き、北朝鮮に於ける総てを掌握し、何もかもが思う様に成る父には、もはや、見えなかったのだ。そう、豊臣秀吉と同じ様に・・・

南北統一の噂は、飢餓に瀕していた我が国民に瞬く間に広がった。国民の誰もが南北統一を望んでいた。

「クックックッ、馬鹿な事を・・・フッフッフッ」

「馬鹿な・・・事・・・」

 自分の下腹部を愛おしそうに撫でながら、そう言葉を漏らした銀日正に芙紗子が質問する。

「そうだ、南北統一などすれば、銀家はどうなると思う」

 芙紗子はハッとした顔になり、銀日正を見詰める。

「秘密裏に日本に戻り、その子を育てながら私の指示を待て、もう私には、芙紗子、お前しか頼れる者はいない。頼んだぞ」

「日正様」

「心配するな。私は今からあの男の所に行く」

 銀日正は芙紗子にそう命じると、もう振り返ることなく部屋を後にした。芙紗子は今、銀日正に告げられた言葉をもう一度口の中で反芻する。

「その子を育てながら私の指示を待て」

芙紗子は感極まる思いでその言葉を噛みしめた。憧れの国である朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者である銀日正の子を宿し、そして最愛の銀日正に「もう私には、芙紗子、お前しか頼れる者はいない。頼んだぞ」そう言われたのだ。芙紗子は涙を流しながら、直ぐに日本に飛ぶ準備を始めた。

一方、銀日正は部屋に居た時とはまるで別人の様に殺伐とした顔で無言のまま迎えの車に乗り込む。

・・・この国の下衆どもは、慢性的に飢えている・・・飢えているからこそ、銀家の政権は維持できて来たのだ・・・南北が統一され、外資が入り、物資が輸入され、飢餓から抜け出した下衆どもは、次の事を考える・・・人間は飢餓に瀕している時は形振(なりふ)りを構わず、まして人としての誇りなど持ちはしない・・・食べ物を満足に与えないことが、下衆を掌握するコツなのだ・・・

「将軍様、何か私に仰せでしょうか」

 車に乗り込むなり独り言のようにブツブツと呟く銀日正に運転兵が振り向きそう尋ねる。

「うるさい、貴様に話しているのではない、黙っていろ」

・・・人間は、飢餓を乗り越えた時、何故、自分たちが飢餓に瀕したか、それを考える・・・そうなれば、銀家はフランス革命でのマリーアントワネットと同じ運命を辿る・・・

 南北統一の噂が広まると、一番に色めき立ったのは咸(ハム)鏡(ギョン)道(ド)出身者だった。咸鏡道出身者は甲山派と呼ばれ、朝鮮労働党の中では、かつて甲山派人脈が重きをなしていた。しかし父は、自身の独裁体制を確立する為、甲山派を根こそぎ粛清した。社会主義を捨てようとする父。復讐を企て、銀家を血祭りにしようと下衆を束ねる甲山派の残党。破綻した経済と食糧事情。その全部を解決するには、もはや、あれをやるより他に無いと私は考えた。

・・・下衆ども、私は偉大な将軍でも何でもない・・・私は、お前達と何も変わらぬ、普通の人間なのだ・・・死にたくない・・・この座を追われ、惨めな死に方をしたくない・・・怖い・・・怖いよ・・・オンマ・・・

神ではなかった父が下衆を掌握するには恐怖しかなかった。それならば、私は父よりもっと大きな、もっと残酷で非人道的な恐怖を生み出すしかない。下衆である私がこの政権を維持するには、更なる恐怖を演出するより、他に方法が無かったのだ。 南北を統一する父の意志は固く、私は父からその旨を受け、秘書に向かい至急、大同(テドン)江(ガン)招待所に銅容淳、里勇哲、信亨黙らを呼び出すよう指示した。

銅容淳は対南(韓国)工作のプロで、工作を統括する朝鮮労働党統一戦線部長の職を任せている男。里勇哲は私が抜擢した党組織指導部第一副部長で、最高幹部の人事権を一手に握らせていた。信亨黙は経済に精通した男であり、三人は私の側近だった。その他に私は、抗日パルチザン二世である、国防委員会のメンバーや国政を裏で支える父の息の掛かった連中も呼び寄せた。そして私はその席で、集まった面々を前にこう尋ねた。

「統一が大事か、社会主義が大事か。誰か答えてみろ」

「将軍さま、我々は首領さまが壮健である内に、必ず、統一を成し遂げる決意です」

 間髪を入れず私の質問に答えたのは父の息の掛かった国防委員の一人だった。私はその者を睨みつける。すると、それと同時に銃声が鳴り、硝煙の匂いの中、倒れる男をもはや見向きもしない銅容淳が、銃を握りしめたまま私に言った。

「将軍さま、我々にとっては統一より、社会主義を貫く事の方が大切な事です」

「その通りだ。我々は社会主義を守らなければならない。今、統一をうんぬんするやつらは、社会主義を放棄しようとするやつらだ」

 私は凍り付く様に立ち尽くす面々を怒鳴りつけた。

「考えてみろ。ベルリンの壁が取り払われ、東ドイツが西ドイツに食われたように、社会主義を疎かにすれば、我々もすぐ、米帝の傀儡である韓国に吸収されてしまう。そうなれば、お前たちはこの席に生きて座っていられると思うか。いま、統一、統一と言っている奴らは、全員、粛清する、それは父であろうと例外ではない!」

それまで、私は父の健康を理由に、何度も南北首脳会談の中止を申し入れていた。これまで一度たりとも父の行いに異を唱えたことの無い私の反対に、父も驚いた様子だった。しかし、それでも父は私の申し入れを無視し、独断で会談開催を決めてしまう。これにより、私の覚悟は決まった。その頃の私は既に、党・軍・政府部門、全ての権力を完全に掌握していた。だが、それでも首領として父の顔を立てた理由は、依然、父に忠誠を誓うパルチザン一世の支持を得るためであり、民心を束ねる為にも父の存在が必要だったからだ。

私が想像した通り、会談決定の波及効果は大きく、私に追随する政権の核心メンバー以外はそろって南北首脳会談に大きな期待を寄せ始めた。会談がもし父の思惑通りに成功すれば、私が掌握した権限をまた父に奪われてしまう可能性がある。事実、父は、米帝、カーター大統領に「後10年、国の運営は私がやる積りだ」と豪語し、それ以降、私を抜きに経済部門責任者協議会を招集するなど、国政運営に口を挟むようになって来た。そしてその会議の席で、父はこう力説した。

「工場や企業所を完全稼働すれば、生産量を三倍に出来る。そのためには、電力問題を早く解決しなければならない」

そして私の推進する原子力発電所建設に対してこうも言った。

「原子力発電所建設は時間が掛かるから駄目だ。北東部、咸鏡北道に30万~50万キロワットの重油発電所を造り、年間85万トン以上の肥料を生産すれば、農業問題、民の飢餓の全てを解決できる」

 私は、最早、社会主義も、南北統一も、どうでもよかった。この政権を守る事、それはつまり、自分自身の身の安全さえ確保出来れば、それ以外、どこの誰が何人死のうが知った事ではない。私はそもそも、端からそういう人間なのだ。私の考えはこうだった。電力の確保を建前に原始力開発を推し進め、それをそのまま軍備に使う。つまり、核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイルの開発を成功させ、核ミサイルで世界中を威嚇し、日本や米帝から金を脅し取ってやればいいと云うものだ。そうしなければ、この国の下衆どもは飢えなくなり、私の言う事など直ぐに聞かなくなる。私が絶対的権力を維持するには、常に下衆どもを飢えさせ、餓死の恐怖、父よりも酷い粛清の恐怖、そして核ミサイルと云う絶対的武器が必要だったのだ。

・・・これ以上、あの老いぼれを生かしておくわけにはいかない・・・

 父は毎年七月になると、避暑のため、北部両江(リャンガン)道(ド)の三(サム)池淵(ジヨン)の別荘で過ごしていたが、この年は政治に復帰し、国外の要人と会う機会が増えた為、平壌(ぴょんやん)から約130キロと官邸に程近い、妙(みょう)香山(こうさん)の別荘を使っていた。政に復帰した父は、下衆どもから評される様に、良く働いた。しかし、老体に鞭を打っての苛酷な業務は、父の健康を著しく蝕んだ。そして、父が健康の為、長年辞めていた煙草を吸い始めたのも、私にとっては幸運な事だった。

私は長年、偽りの親孝行に明け暮れて来た。然るに、私の親孝行を疑う者など誰一人いない。朝晩、主治医に父の持病について電話で確認、定期的に医療チームを執務室に集め、父の健康状態をチェックし、食事のメニューも全て把握していた。そう、私は二十四時間体制で父を、親孝行という名の元、監視していたのだ。

そのようにして、間近で父を見て来た私には、その頃、父の心臓が悲鳴を上げていた事が十分に解っていた。もしかしたら、私が意図的に手を下さずとも、そろそろ父は死んでくれるのではないか、そうも考えた。だが、切迫した南北統一問題をこれ以上放置することは出来ない。私は、計画を実行に移した。

父の妙香山行きに誰を同行させるべきか、警護をどうするか、それを決める権限が私には有った。当然の事ながら、医療チームの構成員を決めたのも私だ。父が患っている心臓や泌尿、咽喉、肝臓、退行性関節炎など、その分野ごとの専門医が構成する、六人の主治医団と十人の看護師団を選抜した。だが、父の心臓を三十五年に渡り診て来た心臓専門医だけを、高齢である事と健康状態が悪い事を理由に引退させ、九十四年二月、私が予てから準備していた、ルーマニア留学帰りの若い医師に入れ替ていた。

 父は、健康管理、長寿に異常な執着心を持っていた。そんな父のために1976年に設立されたのが通称「銀成日長寿研究所」である。そこでは西洋医学と一線を画す、我々独自の医療技術が日々、研究されていた。そのひとつが、アメリカの侵略に遭わなかった北部の、血が汚れていないとされる、十代、処女たちからの輸血である。処女の血には、白血球やヘモグロビン、良質なたんぱく質が豊富に含まれている為、父は定期的に少女たちの血を輸血していたのだ。風呂好きの父は、少女たちに自分との入浴も強要した。彼女たちから発散されるホルモンを熱い湯気から吸収する為だ。

しかし、ここ数年、心臓の状態が思わしくなかった父は、前任の医師からその行為を禁じられていた。私は自分が用意した若い医師に、輸血と入浴の許可を出す様、内々で言い含めていた。

 私は父に、今のこの国の深刻な経済事情を全て伏せて来ている。これまで、父が地方を視察する際は、視察先の民家の米びつを事前に満たしておき、父が帰るとすぐその米を回収する、その様な偽装を行い、隠蔽をして来た。しかし、この度から、一切の隠蔽工作を辞めさせ、父に住民たちへの現地指導に向かわせた。何も知らない住民は、食糧事情が悪いという話を素直に父に話した。「恥ずかしいことですが」とその住民が述べたところ、父は「そういう話をするのが、どうして悪いのか。あなたは正しい政策を立てるのに大事な役割を果たした」と、その住民を褒めながら、顔を真っ赤に染め拳を握りしめたそうだ。

 翌日、午前に行われた会議の席上、父は、エネルギーを確保するため、主席府の予備資金を使うようにと指示する。しかし、それに対して、経理部の幹部が「実は・・・主席府の財政状況も・・・芳しく・・・ないのです」と語尾を濁しながらそう答えた。

父の顔色は、赤を通り越し、真っ青になっていったらしい。そこで思い余った様に、軽工業担当の女性副首相、銀福信が意を決した様に立ち上がり叫んだ。

「首領様、現在のわが国の経済は、本当に酷い状況なのです。最近訪れた韓国との軍事境界線付近に位置する江原の第5軍団で、靴底がなく、雑巾をぐるぐる巻きにした靴ともいえない靴を履いて枝木を拾っている軍人の姿を見て私は、涙が止まりませんでした」

その言葉を聞くなり、全てを悟った父は「なんという事だ。私がパルチザン部隊を率いて日本と戦った時でさえ、そんな靴を履いている奴など居なかった」と憤慨極まる顔で机を叩き、直ぐに私に電話を掛けて来た。

「貴様と云う奴は、なんという事をしてくれた!直ぐここに来い!」

 父のその怒号を受け、私の口角は引き攣る様に上がった。恐ろしいとも思った。産まれた時から愛情を受ける事無く、母が死に、父が再婚してからというもの、父は新しい母の子供ばかりを可愛がり、私は冷遇され続けた。少しでも父の意にそぐわなければ、何時、消されるかもしれないと常に怖気(びく)怖気(びく)としながら生きて来た。だから私にとって、父の言葉は絶対であり、父の言葉に背くと云うのは、キリシタンがキリストの踏み絵を踏むより遥かに罪深い行為であり、しかし、あの時、私は、周到な準備の下、それを行った。

父に背く自分の行為が怖かった。しかし、最早これ以上、父の傀儡として生きる積りも無かった。私は電話での父の言葉にも背き、直ぐに妙香山の別荘には行かなかった。

7月7日。午前中の会議で経済状況の深刻さに焦りを募らせた父は、常務会議を招集しておいて、自身の目で現場を確かめるために五か所、近くの農場に出かけ、更にその悲惨な現実に愕然とした。平壌に居た私は会議招集の知らせを受け、とりあえず、政権内でもお飾りのポストにいる数人だけを妙香山に送り出し、自身は平壌に留まると父に知らせた。その知らせを聞いた父は激昂し、再び私に電話を掛けてきたが、私がその電話に出る事はなかった。何故なら、私は、父が妙香山の別荘に入ってすぐ、近くの村に潜入し、別荘の傍に忍んでいたからだ。平壌に居たのは、予てから数名造って置いている、私の影武者の一人だ。

午後九時、若い医師から許可を得た父が、少女たちが待つ風呂へ向かったとの知らせを受ける。その知らせを聞いた途端、私の口内は干ばつの様に乾いた。それはおよそ人生で経験したどんな緊張よりも大きな緊張であった。死ぬほどに、恐ろしい、しかし、死ぬほどに駆け巡る喜びと期待が同時に押し寄せて来る。

「落ち着け」

そう何度自分に言い聞かせて見ても、私の心臓の高鳴りは静まらない。私は幼い頃に亡くした、母の面影を脳裏に蘇らせ、暫く、追憶の中を彷徨った。

身長173センチの高身長、筋骨隆々とした厚い胸板、父のそんな堂々とした体格や外見を受け継ぐ事が出来なかった矮小な私は、誰からも母親似といわれ続けて来た。

母、銀正淑は、気性のとても激しい人で、そのうえ体が小さく、肌は浅黒く、そして顔立ちも、お世辞にも美人と言える人ではなかった。母が父と出逢ったのは抗日ゲリラ作戦の渦中で、初めて父を見た時、母は父に一目惚れしたと後日、私に語った。母は、抗日ゲリラ戦の最中も、父を献身的に支え続けた。真冬に洗いたての父の服を母が身に着け、体温で乾かしてくれたと云う逸話を、父の回顧録にて私は読んだ事がある。

ソ連への逃避行中、日本軍の包囲網が狭まり、容赦ない追跡の中、水さえくみに行けない窮地にあって、父が高熱に侵され寝込んでしまった時も、母は自分の指をかみ切って、自らの血を父の口に含ませ、一命を取り留めさせたそうだ。そんな一途な激しさで父を愛し抜いた母に対して、父の母に対する気持ちは打算的で腹黒いものだった。父は生き延びる為、母の愛情を巧みに利用したに過ぎない。後日、酒の席で「俺が何故あんな女と結婚したか教えてやろうか、部隊の中に、他に女が居なかったからだ」と語った事は周知の事実である。

父は、性格が激しく、容姿の悪い母に生涯冷たかった。父と継母である聖愛は、母が死亡する1年以上前から不倫関係にあったという。洪と云う幹部が私に伝えたのは、ソ連の戦勝記念日の出来事だ。父が側近を引き連れ、野外で酒を浴びるほど飲んだ時の事。酔った洪は一眠りしようと、道の脇に止めてあった車に向かった。そこで、窓越しに車内居る男女を確認した。洪はもしやと慌てたが、好奇心からこっそりと車の中を覗いた、すると、そこで抱き合っていたのは父と聖愛だったそうだ。

産褥の中にあった母はこの事実を知ってしまう。公には難産で死亡したとされる母は、実は、医師の治療を拒否した末の「憤死」だったのだ。あれほどの忠誠を示し、あれほどの艱難辛苦を共に乗り越えてきた筈の父の、余りに身勝手な、余りにも自分と自分の子供達を顧みないその態度へ、自らの命と引き換えてでも、父の不倫に抗議したかったのだろう。私の、最愛の母を、最も非人道的な仕打ちで死に追いやり、間接的に殺したのは、父、その人なのだ。

・・・お前にも、母と同じ思いをさせてやる・・・

母が非業の死を遂げた時、私はそう心に誓ったのである。しかし、母の死後、父と再婚を果たした聖愛には一平と云う息子が生まれていた。聖愛は一平可愛さに父に媚びを売り、既に父から絶大な信頼を勝ち取っている。このままでは、父の跡を継ぐのは一平になってしまう。私は聖愛に負けじと父の傀儡に徹していた。私は父に対する忠誠心の表れとして、「父の教示は「無条件」かつ「絶対的」原則で執行しなければならない」と云う掟を作った。ところが、、父は全国農業大会で「聖愛は私と同じだ、だから、聖愛の指示は私の指示だと思え」と云う趣旨の事を言及してしまったのだ。私は父のこの言葉に苦戦を強いられる事になる。

聖愛は、最高権力を左右するほどになっていった。朝鮮時代の王妃のように親族を重用して分派を作り、次第に眼中に人なしのごとく鷹揚に振る舞う様になっていった。 最早、聖愛の権勢に私は太刀打ちできなくなっていた。そこで私が目を付けたのが、素行が悪く、意志薄弱にして放蕩三昧を繰り返す聖愛の弟、聖甲である。私は聖甲が覚醒剤を使う様に仕向けた。ハニートラップで聖甲に覚醒剤を覚えさせ、聖甲に、女を通じてドンドン覚醒剤を渡して行った。三か月もすると聖甲は、自室に閉じこもり、朝から晩まで昼夜の暇なく覚醒剤を使う様になる。私は頃合いを見て、父に聖甲の事を報告した。それを聞いた父は「それが本当ならとんでもないやつだ。そんなやつが海軍司令部政治委員をやっていたとは。すぐに処分しろ」と言い放った。 

最高指導者である父から言質を取った私は、聖愛に追従する勢力を一気に排除する動きに打って出る。党組織指導部と護衛局の幹部二十人からなる査察チームを平壌市党委員会に派遣。5カ月間にわたって聖甲の同市党委書記在任時の不正行為を徹底的にあぶり出した。そして、聖愛の一族と関係のある幹部は、一人余さず、炭鉱や農村に追放した。聖甲は解任され、軟禁状態に置かれた。辛うじて女性同盟委員長のポストを維持した聖愛は、父から、平壌近郊の慈母山(チャモサン)別荘で半年間、蟄居する様に命じられ、実質、完全に失脚した。私に対抗する勢力は総て駆逐した。そう、最早この国に私の敵は居ない。この国に於いて私を阻むのは・・・

「お前たった独りだ!」

 私は単身乗り込んだ浴室の扉を蹴破る様に足で開いた。

「日正、き、貴様、」

「フフフ・・・パルチザンの英雄が、何て様だ」

 浴室にはヘロインを注射され、恍惚とした表情で父の体にまつわりつく十代の少女十人と、枯萎んで役にも立たない股間を弄り回しながら少女と戯れる父が居た。

「おのれ日正、おい!近衛兵!直ぐにこいつを捉えろ!」

 高齢となってもその大柄な身体から発する声は大きくこの建物全体に聞こえる程に通った。しかし、どんなに大声で近衛兵を呼ぼうとも、建物が騒々しくなることは無く、依然、静寂を保ったままだ。

「あれほど偉大だった彼方が、情けない、あぁ情けない、悲しいもんだな、銀成日」

「貴様!私を呼び捨てにしたのか!もう許せん」

 父は、こんな状況でもそれを理解出来ず、まだ父にまとわりつく少女を払いのけ立ち上がった。しかしその瞬間、私は手にしているトカレフのトリガーを引いた。トカレフが火を噴き、父の周りの少女が次々に血の海に沈んで行く。

「お、おのれ、よくも、よくも」

 父の全身は、恍惚の表情のまま倒れ落ちて行く少女たちからの返り血で真っ赤に染まる。私は父を観察した。そして思う。

・・・あぁ・・・もう・・・幼い頃・・・私が畏怖を感じ続けたあの父は・・・

・・・もう・・・何処にもいない・・・

「銀成日、お前は、オンマーを殺した」

「なんだと」

「オンマーは産褥で死んだのではない。お前の不倫に命懸けで抗議したのだ」

「う、嘘を言うな」

「嘘ではない!オンマ―を殺したのはお前だ銀成日」

 私はもう一回トリガーを引く、また独り、意志を持たない人形の様な顔の少女の額から脳漿が飛び散る。

「それは、オンマ―の分んだ」

「や、止めろ日正、これ以上無礼をはたらくのなら」

「働くのなら、なんだ、このケダモノ。お前はオンマ―を殺していながら、直ぐにあんな女を妻にした。そして産まれた一平ばかりを溺愛し、私と妹はパルチザンの手下の元に放置した。私と妹は、部下の家を転々とたらいまわしにされる生活を強いられたよ。銀成日、お前はその事についてどう考えている」

「う・・・」

 威勢を張っていた父が、右の手で心臓の辺りを押えた。思い通りだった。

「お前は一平が生まれた時、我が家に将軍が来た、そんな事をほざいたそうだな。一平を私がどうすると思う、ふふふ、永久に国外に追放してやる。二度とこの国の土は踏ませない」

「お、お前と云う奴は、お前と云う奴は」

父は胸を押えながら、それでもまた反撃の姿勢を示した。私はまたトカレフのトリガーを引く。今度は呆然とした表情で父の前に立っている少女の頭をぶち抜いた。少女の脳漿は、後方に居た父の顔をどす黒い赤と黄色に染める。

「それは、妹の分だ」

「うごぉ、ぐぐぐぅ、ゆ、許さん、許さんぞ、日正」

「ふふふ、いい格好だ。処女の脳みそを存分に味わえばいい、きっと、永遠の命が得られるぞ」

 私は続けてトリガーを引く。最後の一人が父の側面の壁に血を拭きながら叩きつけられ、その銃声と共に、父は終に断末魔を掴んだ。

「そして最後は、お前にめちゃめちゃにされた、俺の分だ。銀成日、ここに入る前に輸血した血液の中に、覚醒剤を混ぜておいた。覚醒剤は心拍数を限界まで引き上げる。どうだ、おまえのその老いぼれた心臓が、薬に耐えられそうか、フフフ、心配するな。お前の遺体は検死をするから傷つけられん。その為に、こんなまわりくどい仕掛けをしこんだのだ。お前の死体は、永久に腐敗しない様に処理され、この国を私が支配する為の道具として使ってやる」

「う、うご、ぐおごぉぉ」

 ・・・あの時、私の最後の声は、父に聴こえていたのだろうか・・・

「おい、運転兵」

「はっ!」

「少し遠回りをしてくれ」

「はっ!、何処に向かえばよろしいでしょうか」

「父の遺体を見に行く」

「はっ!」

 銀日正は息子、銀恩正からの迎えの車を、父の遺体が安置されている宮殿へと向かわせた。車が守衛に差し掛かり、警備兵は車の中を見て驚いた。無理もない、北朝鮮の最高指導者である銀日正その人が車に乗っているのだ。

「し、失礼しました将軍様、直ぐに、直ぐに、全館に明かりを入れます」

 守衛が館内に連絡すると、錦繍山(クムスサン)太陽(たいよう)宮殿(きゅうでん)全体の灯りが瞬時に点き、その時間に勤務している全員が車の前に殺到して銀日正を出迎えた。

「かようなお時間に、将軍様にお目に掛かれるとは、我々は幸せ者です」

 絵に描いたような笑顔と歓迎の言葉に銀日正はニコリともせず車を降り立つ。

「誰も付いて来るな、一人になりたい」

 銀日正はそう言い残すと、一人、銀成日の遺体が安置されている三階中央の永生ホールへと向かった。コツコツと銀日正の靴音だけが暫く聴こえ、やがてその音は止んだ。

「銀成日、どうだ、孝行な息子だろう。死んだ人間にこれだけ金を掛けられるのは、世界広しと云えども、俺ぐらいなものだ」

 銀成日の死後、銀日正は遺体の維持管理をロシアから派遣された技術者に依頼して、まるで生きて眠っているかのような状態を維持させた。その維持費用はなんと、年間80万ドル(日本円で9400万円)以上。その金が有ればどれだけ多くの飢えた人民の命が救えるかなど、この男は考えもしない。父が死に、頂点を極めてからの銀日正は、まるで悪魔に取り付かれた様に凄惨な行動を次々と行った。

DailyNKの記事によると、1995年夏、恐れていた事が終に起こった。北朝鮮は100年に1度といわれる大洪水に見舞われたのだ。銀成日時代に行った近代農業を無視したあの主体農法。造成した段々畑は予想通りに流され、穀物収穫量は年間345万トンに落ち込み、200万人が餓死をした。しかし、銀日正は「苦難の行軍」をスローガンに掲げ、数多の偽装工作をし、ねつ造された容疑で自分の悪政を他人に押し付け、処刑を繰り返し、国民にただ我慢だけを強いたのだ。

1998年。この、未曾有の食糧難が起こっている最中、平壌の南にある黄海(ファン)北道(ヘブクト)の松林(ソンリム)市に在る黄海(ファンヘ )製鉄所( チェチョルソ)でその事件は起きた。事の発端は数ヶ月前に遡る。

製鉄所の支配人、責任秘書が集まって十万人近い従業員のための食料をいかにして調達するかを議論していた。出された結論は、製鉄所で製造している圧延鉄板を中国に輸出してトウモロコシと交換するというもの。彼らは中央に報告せず事を進めることにした。報告したところで、圧延鉄板は軍需用という理由で輸出が許可されないことが明らかだったからだ。

黄海製鉄所所有の漁船は圧延鉄板を載せて中国に向かった。副支配人や販売課長など幹部が船に乗り込んで、中国との交渉に当たった。その結果、船は大量のトウモロコシを積んで戻ってくることができた。ところが、港に着いた瞬間に幹部、乗組員全員が朝鮮人民軍の防諜機関である保衛指令部に逮捕されてしまった。どうやら誰かが密告したようだ。松林市民たちは製鉄所の幹部がトウモロコシを積んで帰ってきたことを喜ぶ一方で、逮捕されたという話に憤りを隠せない様子だった。

結局、幹部八人は松林市の公設運動場で公開銃殺されることになった。多くの市民が見守る中、刑場に八人の幹部が連行されてきた。目隠しをされた上にひどい拷問を受けたせいかまともに歩けない様子だった。中央裁判所の裁判官が現れ、「党の唯一指導体制に反して国の物資を外国に売り渡した国家反逆罪」で八人に対して死刑を宣告した。それを聞いていた住民たちの間から「私腹を肥やすためじゃなかったのに銃殺はひどすぎる」とのささやきが漏れた。八人は柱に縛りつけられたまま、自動小銃で数十発の銃弾を浴びた。驚きと恐怖のあまり、誰も何も話そうとしなかった。

運動場は静寂に包まれた。銃声の残響がやむと住民たちがあちらこちらで「銃殺なんてひどいじゃないか」と騒ぎ出した。ちょうどその時、ある中年女性がマイクの前に立った。長年、銀成日氏の看護師を務め引退後は故郷の松林で暮らしていた有名人だった。

「どうせ死刑を正当化するんだろう」

人々のそんな予想を彼女は覆し、驚くべきことを言い出した。

「こんなに無残に銃殺するなんて!生産を増やして偉大なる将軍様に喜びを差し上げようという思いで幹部たちはトウモロコシを持ってきたのに、方法が間違っていたら処罰すべきとはいえ、銃殺までするのはあまりにもひどいです。労働者を食べさせるためにやったことで私腹を肥やすためのものではなかったのに」

いきなり保衛指令部の人間が彼女を捕まえて引きずり倒し、足蹴にしてさるぐつわをかませた。死刑囚が縛りつけられていた柱のところまで彼女を引きずって行き、事切れた死刑囚の遺体を足で蹴ってどかせ柱に彼女を縛りつけた。先ほど判決文を読み上げた男が「我が国の社会主義独裁体制に従わない者は即時処刑する。よく見ておけ」と言った途端、彼女に九発の銃弾が撃ち込まれた。わずか数分の間に起きたあまりにも恐ろしい光景に、住民たちは一言も発することができなかった。

翌日午後、当局のあまりにの非道ぶりに憤った製鉄所の労働者たちが、死を覚悟して製鉄所内で抗議活動を始めた。数千人の労働者たちは座り込み「これ以上幹部を処刑するな」「幹部は労働者と製鉄所のために正しいことをした」とシュプレヒコールを叫んでいた。自分たちの要求が聞き入れられるまで座り込みを続けるという労働者たちを見て、「さすが街が誇る製鉄所の労働者たちだ」と松林市民たちは頼もしく感じていた。

翌朝のことだった。松林の街に轟音が轟いた。十数台の戦車が街を走り回っていたのだ。米国との戦争が始まったと思った市民たちが戦車の後に続いた。戦車に守ってもらおうという思いで。ところが、どういうことか戦車は製鉄所の壁を壊して中に入っていった。数百人の軍人も後に続いた。しばらくすると製鉄所の中から轟音と悲鳴が聞こえた。座り込みを行っていた労働者の集団に戦車が突っ込んだのだ。数十人の労働者が戦車のキャタピラに轢き殺され、あたりにはバラバラになった遺体が散乱していた。家族の変わり果てた姿を見つけた人々があきこちで慟哭していた。その光景を見た市民たちは恐怖のあまり凍りついていた。

労働者たちは銃を持った軍人に包囲され「すぐに解散せよ」との命令が下されたが、彼らは一歩たりとも動こうとしなかった。すると突然、号令が下された。労働者たちに向けて発砲が始まり、戦車が突っ込んだ。労働者たちはほうほうの体で逃げ出したが、多くが銃弾に倒れ、あるいは戦車のキャタピラに巻き込まれた。松林の街には事実上戒厳令が敷かれ、街には「南朝鮮のスパイとグルになった連中が黄海製鉄所の設備を破壊した」「首謀者を人民の名のもとに裁く」との布告が貼りだされた。多くの市民が逮捕され、三人が公開銃殺された。犠牲者数は定かではないものの、現場で数百人、その後の収拾過程も合わせると1200人以上が犠牲になったとの説がある。


(DailyNK記事より抜粋)

アドルフヒトラーは誰もが認める悪魔である。が、しかし、ヒトラーにはゲルマン民族をを守ると云う意志と大義があった。銀日正には、何もない。彼の言う共産主義など、共産主義でも何でもない。彼は、自分ひとり、もはや、血のつながった自分の家族でさえも範疇には無く、自分、たった一人のために、何百万もの人間を無残に殺して来たのだ。

「しかし、それも、もう終わりだ。私も老いた。」

 彼は、経済制裁により枯渇している電力を確保する為、人生最後の事業として煕(ヒチ)川(ョン)水力発電所の建設に心血を注いぎ、息子、銀恩正にその事業を託していた。銀恩正とその側近は、物理的に不可能な工期で突貫工事に臨んだ為、張りぼての様になってしまったダムはダムとしての強度が無く、漏水に次ぐ漏水を引き起こし、もはや倒壊寸前にまで陥っていた。自分の後継者として相応しい手柄を立てるさせ筈が、数百億の損失を出す大失敗。更に、銀恩正はその事を隠蔽し、側近の幹部と共にその事を銀日正に隠していた。銀日正は銀恩正に激怒した。

「ふふふ、恩正の奴、私に謝罪がしたいと迎えの車を寄こしたよ。銀成日、それがどういう事か解かるか。歴史は繰り返すものだ」

 誰も入るなと云いつけていた筈である永生ルームの扉が開いた。銀日正が振り返ると、そこには息子、銀恩正が立っている。暗い室内に扉の向こうからの逆光で、銀恩正がどのような顔をしているのか、銀日正には良く見えなかった。

「恩正か、誰も来るなと命じた筈だが」

 銀日正の問いかけに、しかし銀恩正は無言で銀日正に近付いて来た。

「恩正、数々の隠蔽工作、私にどう説明する積りだ」

「将軍様、否、お父様、ダム建設の事については、建設が暗礁に乗り上げていた事、私は、お父様の健康を案じて、伏せておりました」

 銀恩正は銀日正の質問にそう答えながら更に銀日正に近付く、銀恩正の陰で逆光が遮られ、薄い闇の中に銀恩正の顔が浮き上がった、と思った瞬間、銀恩正の右手に握られた注射器が銀日正の胸に突き刺さる。

「お、恩正、き、貴様、な、何を・・・」

「筋弛緩剤だよ。楽に死なせてやる。隠している間に死んでくれれば良いものを」

 筋弛緩剤の注入により、銀日正はもはや次の言葉を発することなく床に崩れ落ちて行く。そして銀日正は、薄れゆく意識の中、銀恩正の顔を見上げた。

 ・・・銀成日・・・思った通り・・・息子が私を殺しに来たよ・・・私がお前を殺した時、私の顔も、この恩正の様な顔をしていたのか・・・私は・・・こんな表情で・・・

お前を・・・殺したのか・・・教えてくれ・・・銀成日・・・

「貴様は政治家としても思想家としても最低の人間だ。俺はお前の様に甘くはない。お前もこの糞ジジイと同じ様に細工してこの横に並べてやる。二人して見ているがいい。俺は天下を獲ってやる」

                         

麻薬密輸組織

金城組の事務所とは、人で賑わう商店街のアーケードの下に有り、ヤクザの事務所と云うよりは寧ろ、商店街の寄り合い所と云った風合いで、商店街の店主や贔屓の堅気の衆も金城を慕い良く遊びに訪れていたし、この界隈の人々は警察よりも金城に困り事の相談をする事が多かった。

「おい、親父、親父はいねーのか」

 そんな組事務所へ、電話番の組員を押し退ける様に、慌ただしい足取りで牧田がに入って来た。

「何だ騒々しい、どうした秀夫」

牧田が金城の声がする応接間の扉を開けると、ソファーには金城と向かい合い、金城組の親筋に当る海口組の幹部、新庄正和が難しい顔で座っていた。

「あ、新庄さん、どうしたんだよ、難しい顔してよ」

「こら、秀夫、新庄の叔父貴は親筋なんだぞ、もう少し口の利き方に」

「いいよ、修三」

「駄目ですよ叔父貴、こいつもこの渡世で生きていかなきゃならんのですから、甘やかしちゃ」

 新庄は金城のそれには答えず、ニコニコと微笑みながら牧田の方を向く。

「秀夫、なんだ、お前の用事を先に言え」

 新庄にそう問いかけられ、牧田は金城の顔を見る。

「なんだ、俺が居たら不味い話か、それなら俺の用事は又にするか」

 新庄は牧田の意を汲んで席を立ちあがる。しかし、金城はそれを制止した。

「例の件か、秀夫」

「あぁ」

「構わん、叔父貴の前で話せ。今、叔父貴ともその話をしていたところだ」

終戦直後、国内には200万以上の三国人(日本に居留する旧外地、つまり台湾・朝鮮に帰属する人々を指して用いた呼称)がいたが、とくに兵庫に多く、昭和十八年に13万5千人、四十八都道府県の7%強を占め、三国人勢力は大阪、東京につぐ三位という勢力を持っていた。 

敗戦国の日本人に対し、戦勝国の三国人は、戦時中に受けた恨み辛みをここぞとばかりに日本人の一般市民にぶつけ暴れ廻っていた。物資を豊富に仕入れる事の出来た彼らは闇市を掌握し、巨大な利益を揚げ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。通りすがりの日本人の目つきが気に食わないと難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。善良な日本国民は、三国人の暴力に恐怖のドン底へと叩き込まれた。

彼らの様な素行の悪い三国人は、旧日本軍の飛行服を好んで身に着けていた。袖に腕章を付け、半長靴を履き、純白の絹のマフラーを首に巻き付け、腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプを振り回し、日本人に対し、略奪、暴行を欲しいままにした。戦勝国の自分たち(事実は、朝鮮、台湾は戦勝国ではない)は、日本人には何をしても許されると思っていた。

「お前たちが自分たちにした事を今こそ仕返してやる」 

被害の通報で警官が駆けつけて来ても手も足も出ない。

「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が俺達に何を言いやがる」

警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無法地帯と化していた。そんな不届きな、心無い不良三国人に対し、自警団を設立し、敢然と立ち上がったのが海口組だったのである。

何時の時代の、どんな場所でもそうである。この様な過激で浅はかな考えと行動をする輩が、善良な人々に恨みを植え付け、その先の差別を生み出して行くのである。差別とは、詳細に追いかけて行けば、必ず差別する側にもされる側にも問題が有り、復讐が復讐を生み、無間地獄へと堕ちて行く。恨みは捨てるべきもの。持ち続けても、更なる恨みと復讐と云う暴力しか育まない毒でしかない。坂本龍馬が薩摩と長州に対しその様な事を述べ、恨みを乗り越え協力させた様に、この暗黒時代、金城は三国人であるにも関わらず、海口組に籍を置き、海口組の名の元、不良三国人を警察に成り代わり鎮圧し、自説を解き、やがて三国人を傘下に収め金城組を立ち上げたのである。

「シャブの出所、裏が取れた、北朝鮮からだ」

 新庄と金城はやはりと云う顔になる。

「しかも手口が巧妙で仕入れている金額が異常に安い。北に余程のパイプが無ければ出来ない取引をしている」

 それまで、三国人と敵対し、三国人を組に入れる事を固く禁じていた海口組だったが、金城たちの尽力により、不良三国人の殆どが組織の中に吸収され、彼等は海口組を名乗るようになった。全国の指定暴力団二十一団体のうち、明らかに三国人の名を持つ親分に率いられた組織は五団体。そして、これら二十一団体の構成員は二万を超えるが、そのうちの二割弱が三国人の親分に従っている構図だ。日本の総人口に占める在日の比率が、戦後に帰化した者まで含めてもせいぜい1~2%前後であろうことを考えると、暴力団に於ける組長クラスの三国人比率はかなり高い。

「それがうちの在日に流れている、と云う事か、叔父貴」

「うむ、組内の誰かが北から薬を引いているのかもしれん。このままではバランスが崩れるのも近いだろう。本家では徹底的にシャブの御法度を強化する。在日の方は頼んだぞ、金城」

覚醒剤を売買する事、それは極道としてご法度であり、覚醒剤を扱った者は、組から破門を言い渡される。つまり、極道は、道を極める者の心得として、堅気に難儀を掛ける麻薬の売買には携わらないと宣言をしているのだ。しかし、末端の組員や、これといった収入を持たない準構成員などは凌ぎの口に困る。ただでさえ社会から弾かれ、行く当てのない者達である。まともな仕事にはなかなか就けず、就いたところですぐに人間関係で揉めて辞めてしまう。そんな彼らは、安易に金になる凌ぎとして、薬の売買に手を染めてしまうのである。

新庄が退席すると、牧田は黙って金城の顔を凝視した。

「で、秀夫、叔父貴の前で言わなかった事、言ってみろ」

 金城のそれに、しかし牧田はまだ無言で沈黙している。

「なんだ、どうした秀夫」

 牧田は金城を凝視したまま、胸ポケットから取り出した煙草に火を点ける。

「親父、在日だけじゃねぇ、三国人からなる得体の知れねぇ組織が、存在するみたいだ」

「得体の知れない、組織だと」

「そうだ、組内の誰かではなく、その組織が北朝鮮と太いパイプでつながっている。そしてシャブをタダ同然の金額で、喰い詰めた末端の在日組員に流している様だ」

「うちの組に、そこから品物を引いている奴は、居ないだろうな」

「そう願いたいがな、暴力団新法から俺達の凌ぎは激減している。一度、調べた方がいいかもしれねぇ」

「秀夫、その組織、調べはついてるのか」

「潰すのか」

「当たり前だろう。国は薬が入って来ないように取り締まる。俺たち極道は、国のそれを躱して入って来た薬が蔓延するのを防ぐ、それが仕事だ」

「分った、もう少し調べてみる」

 金城の言葉にそう答えた牧田だったが、牧田は浮かない顔のまま金城に背を向け部屋を出て行った。牧田が事務所を出て駐車場の前に来ると、新聞紙に包まれた何かを手に持つ新庄が牧田を手招いた。

「あれ、新庄さん、今日は一人で来たのかよ」

 牧田は小走りに新庄に駆け寄るとそう言った。

「あぁ、俺もお前の親父と一緒でよ、徒党を組んでウロウロするのは性に合わねぇんだ」

 新庄は新聞紙の中から、ホカホカと湯気の揺蕩る串揚げを一本抜き取り、牧田の顔の前に突き出す。

「食えよ、久しぶりにここの商店街に来たけどよ、あの店の串揚げは、やっぱうめぇなぁ秀夫」

「そうだろ、俺が施設を出てここに来た時、一番に親父が俺に食わせてくれたのが、あの店の串揚げだった」

 牧田は新庄から受け取った串揚げを頬張りながら新庄にそう話した。

「お前の親父はいい極道だ。ここの商店街を在日の連中に為の興したのもお前の親父だ。お前の親父は在日の一世で、言語を絶する差別の中で這い上がって来た男だ。そして三国人と日本人の間に入り、三代目に筋を通し、在日を組に取り込んで完全に抑えた。お前の親父が居なければ、今、この国で極道をしている在日は一人もいない。つまり、在日ヤクザや堅気の在日にとっても、お前の親父は神様みたいなもんだ」

「神様は言い過ぎじゃねーのか」

「馬鹿野郎、言い過ぎでも何でもねぇ、今のこの国に住んでいる在日の生活を見てみろ、お前の親父がいたからこそ、今の在日は、貧困から抜け出すことが出来たんだ。出来たんだが・・・」

「出来たんだがって、なんだよ、その意味ありげな言い方は」

「本家を六代目が継いでから、色々とな、お前も耳には挟んでいるだろう」

「組内部で分裂が起きているって話かよ」

「そうだ」

新庄は食べ終わった串揚げをくるんでいた新聞紙をクシャリと丸め、ゴミ箱目掛けて放り投げた。

「この度の騒動には、恐ろしく複雑に絡み合う事情や経緯があるんだが、ひとつには、日本人ヤクザと、在日ヤクザの抗争と云う側面もある。その事に、お前の親父は心を痛めている様だ」

牧田は新庄が投げた新聞紙が描く放物線をじっと見つめながら新庄のその後の言葉を聞いた。

「お前の親父は、朝鮮、韓国は産みの親、日本は育ての親だと言った。どちらも親だから大事だ、しかし、どちらが大事かと問われれば、育ての親に決まっているとも言った。今の在日は、日本と云う国に育ててもらった母国語も喋れない奴らばかりだ。もう生粋の日本人と何ら変わりはないんだよ。一世、二世の頃にはいわれのない差別を受けたが、しかし、恨み、つらみはよくない、そんな事を何時までも恨んでいてどうする。在日が日本という国に世話になり続けたのもまた事実。恨み、つらみを逆転して感謝に変えたとき、清々しい気持ちになれる。在日が日本人と共に、日本国民のために、命懸けで頑張ろうと云うのは、男として、一人の人間として、全然恥ずかしいことじゃない」

「新庄さん」

「お前の親父の受け売りだ」

新庄が懐から煙草を取り出すと、牧田はすかさず新庄の咥えたそれの筒先に火をつけた。

「俺は日本人だが、俺のフロント企業ではお前の親父から随分と在日を引き受けている。いいか、秀夫、俺たち極道に人種は関係ねぇ、弱きを助け強きを挫く。困っている弱い立場の人間を助けるのが、俺たち極道の仕事だ」

「任侠だな、新庄さん」

「そうだ、だがな、今、俺たちの知らないところで、何かが動いている。お前の親父は絶対にシャブは触らない、しかし、どこかの朝鮮人が、北に大きなパイプを持ち、そこから入るシャブの力を使って、食い詰めた在日を取り込み、何かをしようとしている」

牧田は新庄が話し終わると新庄をじっと見つめた。

「新庄さん・・・」

「なんだ、どうした秀夫」

「いや、なんでもねぇ、新庄さん、串揚げ、ご馳走さん」

牧田は新庄に一礼をすると、そのまま踵を返し、車に乗り込んで行った。


            2

「う、嘘だろ、おい、こ、こんな量、見たこともねぇ」

 伊藤は驚愕の目で男の作業を見下ろしていた。

「だから言ったろ、これだけじゃねぇ、この人は色々な意味で、神様なんだよ」

 大西は伊藤にそう言いながら、男の横に腰を下ろした。 男が手にしているのは、何処でも売られている上白糖一キログラム。ビニールに梱包されたそれは、普通、砂糖が入っているはずだ。しかし、男の手に有る一キログラムのビニール袋に入っているのは純度の高い覚醒剤だった。しかも男の背後にはその一キロ入り上白糖の袋が発泡スチロールの箱にぎっしりと詰められ、ざっと見ただけでも30キロは有る。

覚醒剤の所持は、僅か0・1グラム(耳かき2,3杯程度)だったとして、一年から一年三か月の実刑。これが、量が増えるごとに刑期は加算され、男が手に持っている一キロだと、求刑で10年、判決で8年と云うのが妥当だろう。これ程の量を所持しているとすれば、無期懲役は免れない。

「前川さん、初めまして、伊藤です」

 伊藤は大西に促され、生唾を飲みながら自分の名を名乗ると、大西に習い自分も腰を下ろした。

「お前もどっかでコシャしてんのか」

(コシャ)とは、業界用語で末端の密売人を指す隠語である。

「はい、だ、誰とは、明かせませんが、大阪で、商売させてもらっています」

末端の売人が見る量など、たかが10グラム程度が精々だ。コシャをしている伊藤の様な売人にとって、目の前のこの光景はまさに驚愕に値するのだろう。しかし、密輸の現場では、一度で何百キロの覚醒剤が取引されるのが常だ。日本で押収される覚醒剤の量は年間400キログラム。しかしこれは摘発された量であって、摘発を免れ国内に流通する覚醒剤の量は、およそ2トンから4トンとも言われている。最近は北朝鮮に対する警戒が強く、北朝鮮産の覚醒剤は殆ど入って来ないらしい。

「こ、これって」

「どうだ、見た目にも、お前らが捌く様な品物とはわけが違うだろう」

 覚醒剤は主に中東、アフリカ、中国、北朝鮮などの貧困地域で作られる。特に北朝鮮の場合、国家規模で麻薬の製造工場を運営しているため、他の国から入るものとは格段に品質が違うのだ。(北朝鮮国内に二か所)

「滅多に見れない代物、ですね、北朝鮮、ですか」

 前川は伊藤のそれには答えず、代わりに、一キログラムから小分けした100グラムが入った袋を伊藤の前に差し出した。

「あいさつ代わりだ、やるよ」

「!・・・」

 伊藤は思わず言葉さえ出なかった。100グラムですら、日常、伊藤が目にする量ではない。更に純度が高い上物を、前川は簡単にやると言って伊藤に差し出すのである。

「い、いいんですか、本当に」

「いいよ、やるよ、その代り、俺のとこでコシャやれよ」

「も、もちろんです、よろしくお願いします」

「おう、いいか、渡したそいつを、お前の客に安く出してやれ、そいつは宣伝用だ」

「あ、ありがとうございます」

当時、北朝鮮から密輸される覚醒剤は二つのルートを通って日本に持ち込まれた。ひとつは東シナ海から九州へ、もう一つは日本海から山陰に向かうルート。

平成12年2月、島根県、温泉津港で摘発された事件を例にしてみる。摘発された覚醒剤は250キロ、当時の末端価格にして150億円。この時に見つかった暴力団関係者のメモが有る。そこには「39センチ、20ミリ、127センチ40ミリ」と書かれていた。これを北緯、東経に直すと、北朝鮮東部のウォンサン沖になる。ここは北朝鮮工作船の拠点として知られている場所だ。北朝鮮は国家規模で麻薬を生産し、日本にそれを密輸し、外貨を稼いでいた。


            3

「うほー、貰いました、貰いましたよぉぉぉー清水さん」

「えっ、何貰ったの」

「ほらほらほら、惠梨香ちゃんの電話番号っすよぉぉぉ」

「優樹君、あのね、あそこはね、キャバクラって場所だからね」

「いやいやいやー、ラインとかじゃないっすからね、直の電話番号っすよ、絶対、あの子、俺に惚れてますって」

「いやいやいや、だからぁ」

「あれ・・・」

 霧雨で煙った繁華街の裏路地、キャバクラの階段を降りて来た大谷(おおたに)優樹(ゆうき)と清(し)水(みず)宏(こう)太(た)の前に黒塗りのベンツが赤くテールランプを光らせて停車した。

「おい、あれ、金城組の」

「っすよね」

 テールランプが消え、ベンツのエンジン音が途絶えると、車から男がひとり降りてきた。

「あっ、やっぱそうだ、秀さんだ、おーい、秀さーん」

 呼ばれるまでも無いと云う風に、車から降りた牧田は清水宏太と大谷優樹に近づいて来る、しかし、その牧田の顔は、お世辞にも友達に見せる様な穏やかな表情ではなかった。

「え・・・な、なんで、なんで」

 宏太と優樹の前に立った牧田が、いきなり右ストレートを宏太に向けて放つ!

「うわぁぁ」

 宏太は牧田の奇襲を間一髪、身体を左にかわし避けるが、通り過ぎた筈の牧田の拳が翻り、裏拳となり宏太に襲い掛かった。

 グワシャァァァーー

さすがの宏太も牧田の人間離れしたその攻撃には反応できず、翻った牧田の裏拳をまともにこめかみに受けた宏太はそのまま後方に吹き飛ばされる。

「うぐぅおぉぉぉ」

「ちょっ、ひ、秀さん!」

 突然の牧田の襲撃に驚きながらも、優樹はファイティングポーズを取り牧田に向き直る。構える優樹に牧田の冷たい視線が走った。次の瞬間、右ストレートを打つとフェイントを掛け、そのままクルリと体を回し牧田の左回し蹴りが優樹の顔面を襲う。しかし優樹はフェイントには乗らずダッキングし、牧田の回し蹴りにカウンターで足払いを掛ける。

 ズシャァァァァーーー

優樹に足をはらわれた牧田が空に舞い、頭から地面に激突したように見えた。だが牧田は、両腕をバネの様に伸ばし、そして倒れることなく優樹の前に起き上がる。

ブゥン!

だがそのタイミングにまた、優樹はカウンターで前蹴りを牧田に放った。しかし、牧田は優樹の蹴りを軽く両腕で掴み、優樹を持ち上げた牧田は街路樹に優樹を思い切り叩きつけた。

「うがぁっぁぁぁ、ゲフゥゥッ」

 地面に突っ伏した宏太にも優樹にも、もはや牧田に対する躊躇いは無く、二人は、海上自衛隊、特別警備隊員SUBの顔になっていた。

「おいおいおい、うちのエース二人を瞬殺って、相変わらずのモンスターぶりだな、牧田」

 その声に牧田、宏太と優樹が同時に振り向く、するとそこには海上自衛隊、特別警備隊長、1等海佐である山田直輝が立っていた。

「た、隊長」

「清水!大谷!お前ら、なんだその様は!」

 山田に罵倒された宏太と優樹は瞬時に立ち上がり、今度は連携して同時に、二人掛かりで牧田に襲い掛かる。しかし、振り向いた牧田は宏太の放った右ストレートに左のカウンターを合わせ、宏太は再びなぎ倒された。だが、残る優樹の後ろ回し蹴りを牧田はかわしきれず、牧田は後頭部に優樹の蹴りを喰らう。牧田が一瞬ヨロりと前のめりになる。間髪を入れず優樹はその体制から右ストレートを繰り出した。しかし、牧田はよろめきながらもその右ストレートに左中段蹴りをカウンターで入れ、優樹は車にでも跳ねられたかの勢いで山田の足元まで吹き飛ばされた。

「何だよ牧田、何が有った」

「何が有ったじゃねぇ、山田、てめぇ、こんな時に国民の税金で、女の尻触って遊んでる場合か」

「こんな時ってよ、俺たちはどんな時だって自腹で女の尻、触ってますけど」

「何が自腹だ、お前らの給料は、国民の税金じゃねーか、この税金泥棒が」

「何だと、税金も納めねぇヤクザごときが、それはちょっと言い過ぎじゃねーのか」

 そう言いながら歩み寄って来る牧田に、山田がファイティングポーズをとる。

「はいはい、そこまで、隊長も、牧田さんも、落ち着いて」

そこに割って入って来たのは、海上保安庁第五管区准士官の高橋克己であった。海上自衛隊の海賊対処部隊の艦艇には海上保安官が同乗している。これは、国が海上自衛隊に海賊を取り締まる司法警察権を持たせていないため、法律の規定をクリアさせるには司法警察権を有した保安官を便宜上同乗させなければならないからである。

「おい、高橋、こんな時ぐらい、携帯ゲームするの、止められんのか」

 山田はファイティングポーズをとりながら、怪訝な顔で高橋を窘める。

「あ、すいません、今、イベントの最中なもので、ってか、牧田さん、いけませんよ、いきなり暴力は。いったいどうしたんです」

 高橋は携帯画面に視線を釘づけたまま、牧田を問い詰める。

「うるせー、てめぇらが腰抜けだからだろうが」

「腰抜けって、俺たちのどこが腰抜けだってんですか、俺たちは」

 すでに腫れてきている顔面を歪ませ、立ち上がって来た清水が再び牧田に殴り掛かろうとする。

「あー、もういい、よせよせ、酔いが覚めちまった。牧田、惠心に連れてけ、久しぶりに母ちゃんの顔見ながら飲み直しだ」

 山田はファイティングポーズをとるのを辞め、そう言うと、もう振り向きもせず牧田の車に向かって歩き出した。清水は牧田を睨みつけながらも山田に従がい車に向かう。高橋も携帯画面に視線を釘づけたまま、そのままで山田の後を追う。

「秀さん、ごめん、よく分からないけど、なんかその、ごめんなさい」

「優樹」

「はい」

「強くなったな、お前」

「えー、マジっすか、そうっすか、強くなりました俺、やったー。秀さんにほめられたー、えへへ」

 腫れた顔に笑顔を浮かべる優樹を見る牧田の表情にはもう憤りは無く、牧田はそんな優樹の背中を軽く叩いた。

「いきなり済まなかったな・・・行こう、母ちゃんの所で好きな物食わせてやる」

 四人は車内に乗り込んだ。

「メルセデスマイバッハS600。後部座席、広いですねぇ、大の男がこうして三人乗ってもこの余裕。6リッターV型12気筒。ざっと2500万円ってとこですか。良いですねぇ、我々の様な三下公務員には縁の無い車です」

 少しも携帯画面から目を逸らすことなくゲームをしながら、高橋がベンツの感想を述べる。

「ケッ、こんな車、乗り難くて仕様がねーや。これは本家の叔父貴の趣味だ。うちの親父は抛っとくと、長靴履いて軽トラで何処でも出かけちまうからよ。本家の叔父貴が体裁悪いって怒るんだよ」

「あはは、あの親父さんならそうなるわな。牧田、金城の親父さん、元気にしてるのか」

 山田は先程の喧嘩などまるで忘れたかの様に、穏やかな顔で牧田に問いかける。

「元気も元気さ、頭が禿げてきた以外はすこぶる健康で相変わらずだ・・・相変わらず・・・なんだがな・・・」

「なんだがって、何だ、いったいお前、何があったってんだ」

 牧田は暫く沈黙した後、しかし、それには答えず、高橋に質問をした。

「おい、高橋、お前は警官だったよな、最近、シャブの末端価格、どうなっているか知ってるか」

「下がってますよ、前代未聞なくらいにね。まぁ、終戦当時を凌ぐほどではないにしろ、国内の平均価格、1グラム4万から4万5千が、今じゃもう1万を切る勢いだ。兎に角、ここ最近の値下がりは異常ですよ」

終戦直後、まだ覚醒剤取締法が制定されていない時代、ヒロポンと呼ばれていた頃の覚醒剤は、焼酎、コップ一杯の値段より安価に流通していた。しかし、覚醒剤取締法が出来ると、覚醒剤の売買はブラックマーケットへと移り、値段はそれまでの数十倍から、今では数百倍にまで跳ね上がっている。低コストで、更に専門知識や技術すら必要としない覚醒剤の製造(調理ができる程度の人なら誰でも作れる)は瞬く間に裏社会を席巻し、今日の覚醒剤汚染を招いている。

「お前らがそれを解ってるって事は・・・」

 牧田がチラリとルームミラーを覗くと、そこには憤慨極まると云った表情の宏太が牧田を睨んでいる。

「そうですよ!俺たちも大量にシャブが密輸されている事には気づいています、ここんとこ飲み歩いているのも、仕事ですよ仕事!」

「あ・・・そう・・・そうだったのね・・・あはは・・・」

「あははじゃねーし、痛かったし!」

 宏太がそう言いながらルームミラー越しに牧田を睨みつけると、牧田はバツ悪そうにフロントガラスの向こうに視線を逃がした。

「あ、いや、でも、こんな仕事ならね、た、楽しいじゃないですか、ねぇ、清水さん」

「いやいや優樹君、楽しいのは君だけだから、つか、優樹君が電話番号もらって大喜びしてたさっきの惠梨香ちゃん、本名は藤伊京子さん、あの人、公安の人だから」

「ええーーーうそぉぉぉ」

 鼻水を流しながら涙ぐむ優樹に牧田が言う。

「ぎゃははは、優樹、まだまだチェリーボーイから卒業出来そうもないな」

「あぁぁぁ!秀さんズルい!話しすり替えてる!清水さん!駄目っすよ、秀さん許しちゃ駄目っすよ!うぎゃぁぁー、くそぉぉぉー、あんな可愛い公安の刑事なんか反則じゃーーーって、清水さん、つか、何で惠梨香ちゃんが公安とか、知ってるんすか」

「え・・・いや・・・それは・・・その・・・なんだ・・・」

「あぁぁぁ!もしかして!もしかしてぇぇぇ清水さぁぁぁん!」

 鼻水を撒き散らしながら宏太を詰問する優樹を山田が窘める。

「うるっせーわお前ら!大谷、お前の童貞の話は後にしろ。おい、牧田、お前、何か掴んだのか」

「あぁ」

 泣きべそをかく優樹をミラー越しにちらりと見た後、牧田は真顔になり横に座る山田にメモを渡した。

「なんだ、これ」

 山田が渡されたメモに目を落とす。

「そこの地図を検索してみろ」

 山田は牧田に言われた通り、メモにある住所をスマホに入力し、地図を開いた。

「これがどうした」

「地図だけを見るんじゃねぇ、海図と照らして考えてみろ、何か思い当たらねぇか」

 山田は暫く沈黙するが、数分後、驚愕の顔で牧田を見る。

「これは、秋田県の・・・男鹿半島に・・・酷似している・・・こんな場所が・・・」


 秋田県男鹿半島には鵜ノ崎灯台と潮瀬崎灯台と云う二つの灯台が北緯40度線上に一直線に並んでいる。灯台の光は領海外からも見ることが出来、領海ギリギリから潜水し、この灯台から照らされる光が重なるラインを辿って行けば、なんの情報、機器が無くとも、最短距離で日本に上陸する事が出来るのである。

「その辺りを調べてくれ」

「このメモにある男は」

「そいつの身元もついでに洗ってくれ」

「この男は、誰なんだ」

牧田は山田の質問に、一瞬、躊躇した後、その質問の答えを山田に告げる。

「俺の・・・・弟だ」


             4

「惠ちゃん、日本酒お替わり、それと刺身の盛り合わせ」

「はーい」

「惠ちゃん、こっち生中ねー、それと肉じゃがと、おでんの卵とこんにゃく」

「はーい」

「すいませーん、惠さん、梅酒ロックでお替わりお願いします、あ、それと土手焼きひとつ」

「はーい」

「惠ちゃーん、砂ずりと皮塩二本、肝とたまひもを一本ずつ、あ、瓶ビールも二本貰おうかな」

「はーい」

 次から次に客が繰り出すオーダーの群れを、惠は一切、伝票にもメモにも書き込まない。誰が何を注文し、そのテーブルのお勘定が現時点、幾らであるかも、惠は瞬時に記憶、計算できているからだ。

「ねぇ、惠ちゃん」

「なんですか」

「貴女、昔からそうなの」

「そうですね、昔からこうです。一度聞いたことは全部記憶できるし、計算を間違えた事も今までに一度もありません」

 きっぱりとそう言い切る惠を、小出辰子はただ茫然と眺めるよりなかった。

「天才って言葉はよく耳にした事はあるけれど、私、天才って人を見たのは、貴女が初めてよ、惠ちゃん」

「そうですか、ただ、記憶力が良いだけですよ」

「辛いでしょ、生きるのが」

「何故、そう思うんですか」

「だって、人間、忘れたい事だって沢山あるじゃない」

「あはは、大丈夫ですよ、忘れたい事は、忘れられます、いや、忘れ、られる様に、なりましたから」

「惠ちゃん」

「はい」

「ここでは、無理に笑わなくてもいいのよ、せめて、私の前では、無理をしなくていいんだからね」

「お母さん・・・うん・・・ありがとうございます」

「よぉー、母ちゃん、久しぶり、席空いてる、五人なんだけど」

扉に取り付けられた鈴がチリンと鳴り、それと共に牧田が店内に入って来た。

「秀夫、あんた、どこほっつき歩いてたの、連絡くらいよこしなさい、このバカチンが」

凄みのある物言いの割に、辰子の目尻が見る見る下がる。

「いやいや、母ちゃん、俺だって忙しい」

「忙しいったって、電話くらいできるでしょうに、まったく、まぁいい、とっとと座んなさい」

「なんだよぉ、御機嫌斜めかよ母ちゃん」

「いや、逆じゃないですか、辰子さん、なんだかとても嬉しそうですよ」

「いやいや、どこをどう見たって怒ってるじゃねーか、つか、あんた、誰?」

「秀夫、その子、神崎惠さん、訳あってしばらくお店を手伝ってもらう事にしたの」

「えー!」

「初めまして、神崎です、よろしくお願いします、あの、貴方は辰子さんの、息子さんなの」

「あはは、惠ちゃん、ここに来る男どもは全部、私の事、母ちゃんって呼ぶわよ」

惠心はラウンジとは名ばかりで、どちらかと言えば居酒屋、あるいはお食事処といった風合いの店である。仕事帰りに作業着のまま訪れる男性客が多く、この界隈で働く男たちの食堂といった側面か大きい。とりあえず惠が運んだビールと料理がテーブル行き渡る。

「母ちゃんが人を雇うなんてどうした風の吹き回しだよ」

この店を長年、辰子ひとりで商って来たことは、古い牧田や山田も、最近から通い始めた高橋、清水、大谷もよく知っている事である。

「あんたの嫁にどうかと思ってね」

ブファアァーーー!

牧田が口に含んでいたビールを思い切り吐き出す。

「ギャハハ、おい、牧田、母ちゃんの言う通りだ、いい加減、堅気になって所帯持てや」

「山田!テメェ!ぶっ殺すぞこら」

おしぼりを掴み取り口を拭いながら牧田が山田の頭を叩く。

「そっかー、考えてみりゃ、秀さんって全然、浮いた話聞かないもんなぁ、え、まさか、秀さん、そっち系の人!」

「おい!優樹!てめぇ!ちょっとばかし強くなったからって調子に乗んじゃねぇ」

「ちょうしのっちゃって」

 優樹がユリアンレトリバーの物まねをして更に牧田をおちょくる。

「おい、牧田」

「なんだ、山田、てめぇもまだおちょくんのか」

「ちげぇーよ、なぁ牧田、お前、本当に堅気になる気はないのか。お前は、逮捕歴はあるが前科は無い。堅気になって、俺の所に来い」

 山田が牧田と出逢ったのは、北朝鮮絡みの捜査中、駆け出しだった山田の潜入が暴露れ、窮地に立たされた山田を、牧田が自分の身体を張って助けたのが始まりだった。それ以来、牧田と山田は立場を超えた友情をつないでいる。

更に、牧田は山田たちの捜査に、この度の様な形で度々、捜査に重要なヒントや捜査方針の要になる様な情報を寄与して来た。普段はオチャラケた男だが、誰よりも勘が鋭く、牧田の勘が外れるのを山田は見たことがない。体躯は強靭そのもの。武道に於いても、誰に格闘技を習ったわけでもない素人の牧田に勝てる猛者は、山田の知る中、自衛隊内部に存在しない。この男は、自衛官として、否、国を極秘裏に守護する山田の所属する様な機密機関にとって、正に打って付けの人物なのである。

「ほら、出た、やーだよ。俺は組織が苦手なんだよ」

「ヤクザも縦社会じゃねーかよ」

「そうだな、ヤクザ組織も嫌いだ、でも、親父がヤクザだから、そこは仕方ねぇんだ」

「お前、ほんと、ファザコンよな」

「うるせー、親父は特別なんだよ」

「そうだな、まぁ、金城の親父さんが特別なのは認めるよ」

「金城!」

 夜も更け、客足も途絶えた店内で、二人の会話を聞くともなく聞きながら後片付けをしていた惠が急に厳しい顔になる。

「な、なんだよ」

「金城って、金城組の金城修三の事」

「そう、だけど、何だお前、うちの親父の知り合いか」

「あんたは、金城修三の、何」

「息子だ」

 グワシャァァァ!

 牧田が金城の息子だと名乗った途端、惠の右ストレートが牧田の顎を貫いた。後方に吹き飛ばされる牧田を庇う様に横に居た山田が間に割って入る。

「おい!ちょっと待て、いったい」

 しかし、山田の口を衝いて出た言葉を全部聞く前に、惠の左アッパーは山田の鳩尾を抉った。

「うごぉぉぉ」

 上体を前に蹲る山田の両サイドから、大谷と清水が惠に飛び掛かる。しかし惠は後方に飛び退き、振り向いた大谷と清水に間髪を入れず回し蹴りをぶち込み、大谷と清水も床に倒れ込む。いくら油断していたとはいえ、惠は、SUB襟抜きの自衛官三人と、あの牧田を一瞬で地面に沈めたのである。

「お前、いったい」

 顎にジャストミートした惠の右ストレートに三半規管を揺らされ、しかしそれでも牧田はよろよろと立ち上がった。

「殺してやる、この腐れヤクザども、あいつはどこにいる!」

 惠はカウンターのビール瓶を握り、それで再び牧田に襲い掛かろうとする。

「いい加減にしなさい!惠ちゃん!」

 寸でのところで辰子の声が響き、その一瞬の躊躇いを見逃さず、背後に回っていた高橋が惠の腕を取り、関節を決めビール瓶を奪い取る。

「落ち着きましょう、兎に角、少し落ち着いて」

 関節を決められビール瓶を奪われた惠が、大粒の涙を流し、泣き始めた。

「惠ちゃん、どうしたっていうの」

 泣き出した惠の腕を高橋が離すと、駆け寄って来た辰子が惠を抱き寄せた。

「大丈夫よ、さぁ、家に帰りましょう。秀夫」

「なんだよ」

「後は頼んだよ」

「えー、マジかよ、ちぇっ、つか、母ちゃん、そいつ」

 しかし辰子は牧田のそれには応えず、泣き崩れそうな惠の肩を抱き店外へと出て行った。

「痛っててて、おい、お前ら、無事か」

 牧田の問いかけに無言の山田、大谷、清水の三人が頷く。

「あの女、いったい何者なんですかね、こうも簡単にこの四人を倒すなんて」

 もはや携帯電話を取り出し、そのゲーム画面に視線を落としている高橋が言う。

「参ったな、油断していたとはいえ、あの女、いったい何者なんだ」

「山田」

「あぁ?」

「後は頼んだ」

「でっ!おっ!おい!牧田!どこに行く!」

「母ちゃんの家だ」

            5

覚醒剤汚染が広まった事の大きな原因は、誰もが見る事の出来るネットの普及である。これまでの販売ルートは、ヤクザ組織を通さなければ、覚醒剤を仕入れる事も、客を掴むことも困難だった。ところが、ネットの普及のより、密輸組織はヤクザ以外の一般層にも販売を拡大したのだ。密輸組織がネットを利用して中間業者を募り、その中間業者もまた、ネットで客を募る。こうして一般の使用者はリスクを冒すことなく、ヤクザ組織以外の業者から、ヤクザ組織より安い値段で覚醒剤を買うようになった。つまり、一般業者に押されるヤクザ組織は、今まで以上に安い値段で仕入れをしなければ、事業が成り立たなくなっていた。

「前川さん、もうバカ売れですよ、質は良いし、値段は安いし、今日も三次団体の組長から直接取引したいって言ってきてますよ」

 大西は前川に用意してもらった飛ばしの携帯電話の画面を見ながら興奮気味そうに言う。

「いいよ、時間と場所、決めといて」

「はい」

 もちろん、当初はヤクザ組織、本家に隠れて覚醒剤を生業にしている二次、三次団体のヤクザは前川を血眼になって追いかけた。自分たちの商売が妨害されているのだから当然である。しかし、前川はそれをことごとく鎮圧した。前川は日本では到底、手に入れる事の出来ない様な武器、弾薬を難なく入手し、武装した彼等は自分たちを狙って襲ってくるヤクザどもを相手に、死体の山を築いた。ヤクザどもは自分たちが本家に隠れて商売をしている手前、警察にも本家にも事情を説明する事は出来ない。次第に前川は誰からも恐れられるようになり、今では前川の仕入れて来る激安で品質の優れた覚醒剤に、ヤクザたちは土下座して群がり、二次、三次団体への影響力は、もはや上納金ばかりを自分たちに要求する本家より大きいものになっていた。この問題と時を同じくして、日本の巨大任侠組織、海口組に大きな時代の流れが押し寄せていた。

端を発するのは五代目の引退。生前に引退をすると云うのは組織史上前例がない。そして組織を継いだ六代目、これが東海地方の組長であり、神戸で神戸の人間が動かして来た海口組の歴史を考えると違和感がでるのも当然かもしれない。ヤクザ組織は会社組織ではない。組織に所属する人間は社会性に乏しく、社会からはみ出した人間ばかりである。そういった人間をひとつにまとめる事自体が、そもそも無理難題なのだ。

彼らは欲に忠実で、欲に流される傾向にある。つまり、ヤクザの看板を背負えば、楽をして金儲けができ、その金と看板で大きな顔ができ、自分の欲望を満たし、反社会の側から、自分たちを馬鹿にした、社会で真面目にコツコツと働く側の人間を見下ろすことが出来る。そういったメリットがあるからこそ、ヤクザになるのである。任侠などと云うお題目は、一部の人間の中にしか浸透はしていない。殆ど大半の人間が、自分の私利私欲で動いている。この現実を、あの三代目はどんな気持ちで見ているのであろう。

 雁字搦(がんじがら)めの暴対法が制定されてから 最早、暴力団の指定を受けていしまえば、組織が営むほぼ全ての資金調達源は断たれ、組織の存続は不可能となって来た。つまり、ヤクザ組織に身を置いているだけで、何時、何を発端に逮捕されるかも分からない。組織に身を置くこと自体で金儲けが出来なくなる。私利私欲で動く連中にしてみれば、それまでのロジックが逆転してしまい、正に本末転倒の時代を迎えてしまったのである。

これにより、多くの者が組織を後にした。畢竟、組織を後にした人間は、そもそも、任侠などと云う言葉には何の興味もなく、わが身の欲望を謳歌する為にだけヤクザをしていた腐れ外道どもである。この腐れ外道どもが、近年、地下に潜伏し、マフィア化し、ネット社会の中、オレオレ詐欺、人身売買、麻薬密売などの犯罪を行っている。

しかし、この環境の中、ヤクザ組織に残り続ける人間とは、いったいどんな人間なのだろう。ヤクザと云っても一括りにしてはいけない。ヤクザの中にも外道と、任侠と云う道を極めようとする漢たちもまた、在るのである。

「ケッ、腐れヤクザどもが。おーい大西、あの話、段取り出来たのか」

 前川は読んでいた週刊誌を無造作にゴミ箱の突っ込むと、パソコンを叩いている大西に問いかけた。

「はい、今日の午後九時、組事務所まで来てくれとの事ですけど、どうします」

「はぁ~、何処のヤクザも同じだねぇ、事務所に連れ込んで、応接間の神棚と代紋を見せつけて、ビビらせて、少しでも自分たちを大きく見せようとする。本当に馬鹿の一つ覚えだねぇ、ヤクザって。いいよ、行くって返事しといて」

「分りました」


             6

簡易的な塀だった。モルタルを接着剤とし、コンクリートブロックを積み上げただけの塀は、ここにそれが存在した時間を示すかのように苔生している。門の傍らに植えられた松の木も、その家の歴史を知っているかの様だった。松の木の奥には30坪ほどの、装飾の無い平屋建てである古い日本家屋がひっそりと佇んでいる。ささやかな庭園には椿が植えられており、茶の間に灯った照明が窓から漏れ、椿の花弁の輪郭を照らした。

「お母さん、ごめんなさい」

「人間だもの、そんな便利に嫌な事を忘れたり出来るものじゃないわよ」

「本当に・・・ごめんなさい」

「謝らなくてもいいの、でもね、私で良ければ、何時でも話してくれればいい」

 辰子はそう言うと台所に立ち、年季の入ったアルマイトの薬罐で湯を沸かし始めた。惠がそんな辰子の背中に目を向けると、桟に飾られた額に、紋付きを羽織った男性のにこやかな写真が在る事に気付く。

「お母さんは、何時からここに」

「そうねぇ、保夫さんがここに家を建てた時からだから、もう、随分になるわね」

 そう言った辰子の言葉を遮る様にアルマイトの薬罐からけたたましく蒸気が上がる。

「保夫さんって、この写真の」

「そうよ、その人が保夫さん」

 惠の視線を追って写真を見上げる辰子の顔が親し気な笑顔で満ち溢れる。

「優しそうな方ですね」

「ええ、優しい人だった。日本一、優しくて、私の全部を包んでくれる人だった。部落から出てきた私の全部を引き受けて、最後まで、子供も産めなかった私と一緒に暮らしてくれたの。惠ちゃん、あなたも、もしかして」

「はい、私も、部落に生まれました」

 辰子は生姜湯を入れ惠の前に差し出した。

「飲みなさい、温まるから」

「ありがとう」

 惠は辰子が差し出した湯呑を手に取り口許にそれを運ぶ。生姜のキリリとした芳香が広がって、その香りは凍てついた惠の心を少し和ませた。

「私は・・・嘗て・・・医師でした」

惠は自分の生い立ちを辰子に語った。部落に生まれ、人とは違う少し特別な力を持ち、その力の所為で宗教団体に買われ、苦しい思いをした事、母親を捨てて施設に入った事、そこから東大医学部に合格し、医師としての人生を始めた事。辰子は黙って聞いてくれた。驚く事も無く、否定も肯定もしない。ただ微笑を湛えたまま、それでいて真剣に惠の言葉に黙して耳を傾けてくれた。

「お母さん、私は・・・」

「寂しかった、どこに居て、何をしていても、孤独だった、そうでしょ」

「はい」

「そりゃそうよ、だってあなたは、人に見えるけれど、人ではないのだもの」

「人、ではない・・・」

「人でなしと云うと、ろくでもない人間を指す言葉だけれど、あなたの場合、逆の意味で人でなしなのよ」

「人でなし、か・・・」

「そうよ。その惠瓊と云う人が言った様に、あなたは人から進化した、新しい人。天使なのかもしれない」

「天使・・・天使なんて、そんな良いものじゃ・・・私はこれの所為で、何時も孤独で、何時も誰かを傷つけ、不幸にしてしまう」

「それが嫌になって、医師を辞めたの」

「私は・・・一番大切にしたいものを失ってしまったから・・・」

「一番大切なもの」

「私は、夫と息子を同時に失いました。夫は、私と同じ力を持つ人だった。彼だけが、この世界に交われない孤独から、私を救ってくれた」


          7

 私はある日、通勤の満員電車で、高校生の女の子が痴漢されているところに遭遇した。その女の子の周りには四人、それぞれ年齢もタイプも違う男性が取り囲んでいた。彼女の状態から、彼女が何某かの被害に遭っているだろう事を感じることは出来た。けれど、それが、どの男の犯行によるものなのかを、最早その頃の私は判断できずにいた。私が迷っていると、私の背後から声がした。

「右の車窓から二番目の男じゃないかな、血圧が異常に乱れている」

私はその声に促され、車窓から二番目に見える男の顔を見た。確かに平静を装ってはいたけれど、集中してよく観察すると、呼吸も早く、何処か息が乱れている。私は人垣の隙間から手を伸ばし、その男の手を掴んだ。

「な、なんだてめぇ!」

 男は憤りを露わに私の手を必死で振り払おうとする。

「この人、痴漢です」

 私が大声でそう言うと、少女と私と男を中心に、車内で人の輪が出来た。

「なんだとぉ!俺は何もしてねぇ!お前、何を証拠に!」

 証拠と言われ、私は少し躊躇った。私の感覚は、この男が痴漢に及んだ事を知っているけれど、私は男が痴漢をしているところを見たわけではない。

「ほら見ろ!証拠もないくせに何が痴漢だ!離せ!離せって言ってんだ!」

 男がもう一度、大きく私の手を振り払おうと力を籠める、がしかし、私はさらに掴んだ手に力を入れた。

「離せって言っていんのが聞こえないのか!だいたい、、誰がこんなしょんべん臭いガキの尻なんか触るんだよ、どうせ触るんなら、他にもっといい女を探すだろうがよ!」

 その言葉を聞いて、それまで羞恥に俯いているだけだった少女が、顔を押えしゃがみ込んでしまった。

 電車が次の駅に停車し、車掌と鉄道公安官が乗り込んで来る。

「見ました、僕、その人が女の子を触っているのを、見ました」

 私の行動を促した声の主が、車掌と公安官に対しそう証言をする。そして彼はお辞儀をしながら私の方を見た。

「ありがとう」

 私は彼の方を振り向いた。

「何となく分かっていたのに、自信が持てなくて」

 そう話す彼の顔を見て、私は説明の出来ない感覚に陥る。

「目撃者の方ですね、申し訳ありませんが、事情をお聴きしたいので、ご協力お願いできますか」

 公安官の言葉に、私は彼の顔を見たままで頷いた。彼は深々と私に頭を下げ、その場を立ち去って行った。

「その人が惠ちゃんの」

「はい、片山宗利、それが彼との出会いでした」

 翌日、私は何時もの様に同じ時刻の電車に乗る。あの少女の姿は無く、その後あの子がどうなったのか、私は知る術もなかったし、あまり興味も無かった。昔の私なら、事を突き詰めて、彼女のその後に心を砕いていたかもしれない。しかし、今の私は違う。あの日、あの時から、私は、そういう優しさを忘れてしまったから。

 混雑する車内の人をかき分け駅に降り立つと、また私の背後で彼の声がした。

「昨日は、あの、ありがとうございました」

 身長は私より少し高い、178センチほどだろうか。パステルブルーのシャツに総ケーブル網の白い長袖ニット、その下に黒いストレッチチノパンを履いた脚は、彼のスタイルの良さを際立たせている。黒髪は少しくせ毛で、本人がそれに悩んでいる節があった。どう考えてもワックスの量が多くてテカテカとしている、明らかに塗り過ぎだ。細い眉は長く中性的で、大きな二重瞼の瞳は、これも長く高い鼻梁を基点に中心へとバランス良く寄っている、所謂、イケメンと言えるタイプの顔だった。

「僕は、こんなだから、その、いや、いつもこんな事をしている訳じゃなくて、あの、その・・・」

 普通に考えればストーカー紛いの行動だ。女子なら誰もが引く行動だろう。私は的を得ない彼の言葉を聴きながら、昨日、彼に感じた自分の印象を検証し直していた。彼に対してあの時感じたあの感覚は、いったい、何だったのだろう。

「すいません、変に思うかもしれませんが、少しだけ、貴女の手を握らせてくれませんか」

「ごめんなさい、変に思うかもしれないけれど、少時(ちょっと)だけ、貴男の手を握っても良いかな」

 人波みの中で向き合う彼と私は、同時に同じ事をお互いに言った。その瞬間、彼が何の目的で私の手を握ろうとしたのか、そして、私が何故、彼の手を握ろうとしたのか、それをお互いがお互いに理解していた。私たちは差し出した手をそのまま元に戻した。

「あの、も、もしよかったら、今日の夜、仕事が終わったら、あの、その・・・」

「はい、七時に、ここの駅前でいいですか」

「あ、ありがとう、大丈夫、七時ですね、はい、あの、よ、良かった、話したいことが、沢山、あるんです」

「あはは、はい、私にも、訊きたい事が沢山、あります」

 あの日の彼は、ちょうど金塊や油田を掘り当てた人の様な顔をしていたと思う。それは、私にとっても、同じ事だった。有り得ないものを見つけた事に対する驚きと好奇心と喜びが、あの時の、私たちの素直な感情だったのだろう。

仕事を終え、私は約束通り七時に駅前のロータリーに向かった。慌ただしく流れる人の流れの中、川面に突き出た岩に引っかかった浮き草の様に、彼は儚げにそこに立ち止まっていた。今考えると、彼に持った最初の印象は、儚い。それだったかもしれない。

「こんばんは、お待たせしました」

「こんばんは、良かった、大丈夫です、待ってません、いや、あの、嘘です、実はそわそわして、待ちきれなくて、一時間前から、ここに居ました、あはは」

 私たちは特別な関係だった。普通の人からすれば、それは当たり前な普通の関係だけれど、私たちにとっては、その普通が特別なのだ。私たちはお互いがお互いに、「嘘を吐ける」そういう関係だった。

「嘘を吐ける・・・関係?」

 辰子は不思議そうに惠の顔を見て、疑問を口にした。

「私たちは、他人の心の声が聞こえてしまう事、その求めに、自然と誠実に応えてしまう事に苦しんで生きて来ました。でも、彼は世界でたった一人、私と普通に向き合える人でした。心を見る事も、見られる事も無い、普通の、人並みの関係」

「他人の心の声が聞こえるなんて、さぞかし、辛かったでしょう」

「はい、でも、何もかもが見えると云うのではなく、例えば太陽の下で物を見るのと、ロウソクの灯で物を見るのとでは、随分と見える範囲も色も違いますよね」

「そうね、それは随分と違うわね」

「私たちは、ロウソクの灯で対する人の心を見る、そんな感じなんです。決して何もかもを見通せるわけじゃない。遠い景色や瞭然とした色が見える訳ではなく、小さな明かりが照らす、その人の心にある声が、想いが、ほんの一部が見えるだけなんです」

「それでも、他人の心が見えるなんて、苦痛でしょうに」

「ええ、暗闇で何も見えないのと、ぼんやりとでも見えてしまうのとでは、雲泥の差が有ります。見えるが故に、聞こえるが故に、その見えたもの、聞こえた事について考えなければならない、それは地獄の苦しみでした」

待ち切れなくて一時間前からここに来ていたと、はにかみながらそう話す彼の笑顔を、私は既にあの時、愛していたのかもしれない。私は意を決して彼の前に手を差し出した。

「試してみませんか」

「はい」

 彼は私が差し出した手を躊躇う事なく握りしめた。しかし、私たちは、何も感じなかった。何かが流れ込んでくる事も、何かが流れて行く事も無く、私たちが感じていたのは、お互いの手の温もり、ただそれだけだった。普通の人にとって、それは普通の事であり、それが当然なのだろう。けれど私たちにとって、それは奇跡だった。

彼と私は、手をつないだまま歩き出した。エスカレーターにも、手をつないだまま乗った。地下の通路を抜け、アーケードを潜り、立ち並ぶ華やかな店の前を、人混みの中を、私たちはずっと、手をつないだまま歩いた。手をつなぐと云う事、何の不安も無く人に触れていられると云う事が、私たちにとって、どれほど幸せな事か、きっとこの街行く人々には理解出来ない事なのだろう。でも、私たちはその突然舞い降りて来た奇跡に、胸を弾ませて港まで歩いた。

 夜の海は、海水ではなく、まるで粘度を持ったコールタールの様に黒く、その黒い海面に映る港の夜景は、満天の星空から星の欠片がばら撒かれたかのように煌びやかで、私たちはその美しさに暫し息を飲んだ。

「綺麗だね」

「はい、綺麗だと思います、でも」

「でも?」

「はい、とてもきれいな景色だけれど、景色と云う枠を外すなら、僕は、惠さんの方が綺麗だと思います」

 こんな古典的な言葉を、嬰児の様な笑顔と純真さで彼は言った。他のどんな人が言っても臭いだけのその台詞が、彼の本心であり、私はそれを、これまでの様に能力で、心を見るのではなく、普通の人の様に、肌の温もりと、情熱の籠った目と、古めかしいその言葉から、普通の人と同じに、感じる事が出来た。中身の見えない他人の胸の裡の真実を、体温と情熱だけで感じる事。それは私に大きな変化を与えた。私は生まれて初めて、恋と云う感情を、ロジカルにではなく、感覚として経験し、そしてその感情、恋というものに落ちた。

 恋に落ちると無防備になるのは天使とて同じ様だ。私たちはお互い、訊きたい事、知りたい事が沢山有るのにも関わらず、その総てを伏せ、名前以外、相手に何も知らせず、何も聞かないようにして、「知らない」と云う事を楽しんだ。自分が何者であるか、彼が何者であるか、恋に落ちればそんな事は問題でなくなり、ただ、目の前に在る彼に恋をして、ただ、彼の傍に居られるその瞬間を楽しんで、全ての現実から離れた場所で、私たちは愛し合った。でも、そんな幸せな遊戯は、長くは続かなかった。彼と知り合って数週間が過ぎ、彼は私に旅行を提案した。行先は島根県隠岐郡隠岐の島町。

「あの、惠に、知って欲しい事が、あるんだ」

 私は夢から覚めた。このまま、何時までも、この恋にときめいて居たかった。でも、私たちは生きている。生きてこの世界で生活を営んでいるのだ。そんな我儘は何時までも許されない。けれど、私は彼を失いたくなかった。否、どんなに厳しい現実よりも、どんな辛い事よりも、彼を失う事の方がよほど嫌だ。もはや彼は私の全てであり、彼を除いて他に、私には誰も居ない。

「うん、分かった」

 前川は大西と伊藤を連れ、アポのあった三ツ輪会組事務所の前に立っていた。ここの組は三次団体でありながら最近、破竹の勢いでその勢力を伸ばしている。三ツ輪会の資金源は人身売買まがいの風俗営業、そして多種多様な麻薬の売買である。麻薬には大きく分けてアップ系とダウン系の二種類がある。

アップ系とは覚醒剤を代表とする、アンフェタミンやメタンフェタミン、MDMA、コカインなどが有る。ダウン系にはヘロイン、モルヒネ、アヘン等、芥子の実から作られるもの、大麻草から作られるマリファナ、チョコなどがある。その他にマジックマッシュルームやLSDなどの幻覚系もある。

ヨーロッパ、アメリカなどではダウン系に人気が有り、アメリカの麻薬を扱う映画に登場する麻薬は、殆どがヘロインを題材とてしいる。よって、日本に於いての麻薬のイメージも、麻薬=ヘロインのイメージが強いが、日本の市場でヘロインが流通する事は殆ど無い。日本に於いて使用される麻薬の大半は大麻を除いて総てアップ系である。大麻の場合も、その効能を考えるとダウン系とは言えない部分がある。摂取すると心が落ち着くが、陽気になり、普段では考えられない程つまらない事でも笑う様になる。舌の味蕾の感覚が上がり、食べ物が通常の何倍も美味に感じられ、精神が不安定で食欲の無い、末期がんの患者に投与する国もある。

 日本人はアップ系の麻薬を好む傾向にある。覚醒剤が絡む犯罪が起きる度に、覚醒剤取締法は強化され、覚醒剤、単体の犯罪であっても、量刑はかなり重く、割に合わない犯罪となって来ている昨今。しかし、その法律の隙間を縫うように拡大して来たのが、「脱法ドラッグ」の市場である。

 覚醒剤に代表されるアンフェタミンやMDMAは、ベータ位に水素原子しか結合していないため「フェネチルアミン類」「アンフェタミン類」などと分類されるのだが、これは不法麻薬であり、覚醒剤取締法の対象になる。とろろが、この法律に触れない「カチノン系」と呼ばれる合法薬物が作りだされた。

カチノン系化合物とは、「カチノン」という化学物質の基本骨格を持った化合物のことである。アンフェタミン骨格のベータ位に酸素原子(ローマ字のO)が二重結合している、「ケト基」を持つのが特徴である。この「ケト基」を持つ事によりカチノン系は、完全に法の規制対象外になるのである。アンフェタミンは強力な覚醒剤だが、アンフェタミン骨格にケト基が付くと、脂溶性が低くなるため、血液脳関門(脳内に麻薬を入れない身体の機能)を通過しにくくなり、中枢神経作用(脳内での働き)は落ちる。

たとえばカチノンの効力はアンフェタミンの3分の1である。ただしカチンやエフェドリンのように、同一部位に水酸基が結びついた場合に比べると、それほど大幅に効能が低下するわけではない。逆に、窒素原子上に環状の炭化水素鎖(ピロリジン基)を持つと、脂溶性が高まって脳関門通過性が高くなるとも言われている。ここで生まれたのが「メトカチノン」「メチロン」「アルファアPVP」だった。

 効き目は覚醒剤と同等、若しくは凌駕するほどでありながら、これらのカチノン類は、ベータ位に水素原子しか結合していないアンフェタミン類と比べると、化学反応が容易であり、安価に供給できる。アンフェタミンなどと比べると覚醒効果は低いが、それ以上に安価なので、大量に摂取すれば費用対効果は大きい。国内脱法ドラッグ業者で、カチノン系の物質が多く出回ったのはこれが原因である。

(現在はどれも麻薬指定を受けている)

 三ツ輪会の組長、加藤はこれに目を付け、フロント企業である三ツ輪ケミカルを立ち上げた。そして法の目を掻い潜り、麻薬指定を受ける度に化学式を変え、新しいドラッグを開発、ヒットさせて来た。

「大西、インターホンを鳴らせ」

 前川が大西にそう指示すると、大西は臆する事も無く組事務所のインターホンを押した。

「はい、三ツ輪会、どちらさんで?」

 インターホンからはどすの利いた組員らしき男の声がした。

「お電話頂いた大西です」

 インターホンはそれきり沈黙し、暫くすると施錠を外す音が三回した。組事務所の入り口は、大抵、複数の施錠がなされているからだ。

「ご苦労さんです、組長がお待ちです、さぁ、どうぞお入りください」

 玄関を開けたスキンヘッドの男が、手首まで入った刺青を態と見せながら、三人を手招き、室内へと導く。応接室への通路は狭く、一列にならなければ通れない。ガサが入った時、少しでも警察官の侵入を阻み、時間を稼ぐためである。

通路を抜けると三十畳ほどある応接室に出る。そこにはスキンヘッドの男を含めて8人の組員が居た。どうやら前川たちを迎える為、予め待機していたようだ。

三人がソファーに着席すると、組員のひとりが別室に控えている加藤を呼びに退室する。そして、そこで暫くの沈黙が用意されていた。沈黙の中、組員全員が無言で三人を睨みつけている。この沈黙と目による威嚇、これは相手に心理的ストレスを与えるためのデモンストレーションである。黒を金で抜いた物々しい代紋、神棚、鹿の首の剥製。それらの装飾品と組員の威嚇の視線に大概の者は圧倒される。堅気を相手に交渉する場合、ヤクザは必ずこの形式を採る。

「おう、待たせたな、お前が前川か」

 敬語は使わない。満を持して入室してきた加藤は完全に上からの態度と言葉でプレッシャーを与えながら前川の正面に着席する。その距離、二メートル。前川は一言の言葉も発することなく加藤に飛び掛かり、その鞭の様にしなる長い右腕で、渾身の右ストレートを放つ。大西は前川の動きとリンクして立ち上がり、三点バーストに切り替えられていたベレッタM93Rのダブルカラムマガジンに装填されている20+1発を全弾、後方に立っている組員全員に浴びせかけた。前川はそれを横目で見ながら眼にも止まらない連打で加藤の顔面を破壊する。時間にして僅か5秒程だろうか、もはや一瞬にしてその場は制圧され、息をしているのは加藤ただ一人だけだった。

「お前ら日本のヤクザって、ホーント、馬鹿だよねぇ。中東の戦場にでも行って、ちょっとは人の殺し方を勉強して来たらどうだ、あぁ?、ホント、日本人はおめでたい。元日本チャンプって云うから少しは期待したのにさぁ、あーーー詰まんねぇ」

 前川は意識がもうろうとしている加藤の髪を掴み引き摺りあげる。

「お前の商売に俺は興味が有る」

 前川は掴み上げた加藤を今度は血に染まったソファーに座らせた。

「どうだ、ここで死ぬか、俺の品物捌いて大儲けするか、どっちがいい」

「や、やらせてください、是非とも、やらせてください、でも」

「でも、なんだ」

「お、俺も、一応、組を持ってますんで、上に対して、ど、どう説明すれば・・・」

「いいよぉ、そんなの、心配すんな、時期に俺がこの国のヤクザ、全部仕切ってやるから」

「そ、そんな事、本当に出来るんですか」

「出来るに決まってるじゃん、今の業界の状況を見てみろ、あの抗争事件、自然に抗争状態になったと思うのお前」

「え?」

「あれを仕込んだの、俺だから」

「そ、それ、本当なんですか」

「お前なぁ、少しは想像力を働かせてみろ、ほれ、これはベレッタのM93R、こんな武器、俺がどうやって仕入れていると思うの。シャブをあんな値段でどこから仕入れていると思うの。これだけの死体を作って、なんで俺がパクられないと思うの」

「す、すると、ま、まさか」

「日本のヤクザは、在日が多い。分るだろ。本家をぶっ潰して在日朝鮮人初の組長を創り、海口組の看板を手に入れれば、何が起こる」

「そ、そんな、そんな事が、す、凄い、凄いじゃないですか」

「だろ?お前は本家の目を盗んでこの商売でのし上がって来た男だ、まさか、任侠だ、愛国だなんて、思想は持っていない筈だ」

「も、もちろんですよ、天皇陛下なんざぁ糞くらえです」

「なら考える事はなんもねぇ、お前は脱法ドラッグでシェアを広げ、脱法から不法麻薬にドンドン人を誘導すればいい。不法麻薬は俺が何でも揃えてやる」

「わ、分りました、前川さん、俺は、前川さんに着いて行きます」


            9

気象庁は2017年9月3日12時31分頃、北朝鮮付近を震源とする自然地震ではない可能性のある地震波を観測した。気象庁によると当該地震の発生時刻は12時29分57秒、地震の震源は北緯4413度、東経1291度、深さ0キロメートル、地震の規模はマグニチュード6・1とされる。

一方、韓国気象庁と韓国軍合同参謀本部はマグニチュード5・7と発表し、米地質調査所はマグニチュード6・3と発表した。北朝鮮の国営テレビ・朝鮮中央テレビは現地時間同日15時、「大陸間弾道ミサイル搭載のため、水爆実験に完全成功した」と発表した。北朝鮮による過去最大規模の核実験である。

「これで核弾頭の準備は出来た。次は大陸間弾道ミサイルを完成させる」

「はい、し、しかし将軍様、これ以上、実験を続けては、経済制裁による国民の餓死が・・・収容所では・・・弱い子供が・・・殺され・・・大人たちがその肉を・・・」

「だからなんだ」

「いえ、あの、しかし、このところ、軍部の人間でさえ、食料の配給が滞り、脱北する者が、後を絶ちません」

「だから何だと訊いている。俺は別に空腹で困る事は無い」

「し、将軍様・・・あ、彼方は、いったい、何時からそんな人に・・・人民の命を何だと・・・」

 ズドンッ

 銃声が響き、硝煙の匂いが充満するとすぐ、数名の軍人が室内に飛び込んで来た。しかし、軍人たちは顔色ひとつ変える事なく、早速、死体の処理に掛かる。頭を撃ち抜かれ、脳漿を撒き散らした男を見下ろし、銀恩正は無表情で死体に話し掛ける。

「勘違いをするな、お前は根本的な部分で間違いを犯している。俺はプレイヤーであり、お前らは全員、俺の駒だ。プレイヤーが、駒を可哀想だと言い使わなかったらゲームはどうなる。お前らは死ぬべき局面で死ねばいい。それがゲームの掟だ」

 銀恩正は死体の処理を指揮している男に命令した。

「おい、貴様、今からお前がこの男に替わり、任務を引き継げ」

「はい!喜んで!」

 北朝鮮は2017年、9月15日、火星12を発射。11月29日、火星15を発射。モントレー国際問題研究所・核不拡散研究センターの研究者、マイケル・ドイツマン氏は、このミサイルが以前の「火星14」よりはるかに大きいと指摘。「これほど大きいミサイルを作れる国はごくわずかだ。北朝鮮もたった今、その仲間入りをしたというわけだ」と書いた。 運搬可能な弾頭重量は約1000Kg。米大学によると火星15の性能は700Kg程度の弾頭で射程が13000Kmと推定している。

「これでアメリカ全土を射程に収める事に成功した。世界中が俺のミサイルに注目している。ふふふ、おい、貴様」

「はっ!」

「漁の出来る工作員を載せた木造船の数をもっと増やせ。漁の餌には収容所で回収した死体を使えばいい、生きている漁師を全部大和堆に向かわせろ」

「はっ!」

 軍人が管制室から退室すると、銀恩正はラジオをつけた。FM放送からは一見、何の変哲もない放送が流れている。しかし、暫くすると放送に耳を傾けていた銀恩正が暗号化されたメッセージを聴き取りニヤリと口角を上げる。「そうか、そちらも準備が整いつつあるか、頼んだぞ、兄者」

10

 私はその日の正午、伊丹空港の出発ロビーで彼を待った。その日の伊丹発隠岐行き、JAC2331便の出発は12時35分。彼が息せき切って駆け付けたのは、搭乗五分前だった。

「ごめん、急患で、遅くなってしまったんだ」

「急患?」

「うん、あの、実は、僕は、医師なんだ」

 今日、全てを話す、彼はそう決めている様子だった。この数週間で彼の育ちが良いのは理解出来ていた、けれど、まさか、彼が自分と同じ医師だとは想像も出来ず、私は改めて相手が見えないと云う事の恐ろしさを知った。事前に彼が医師であると解っていれば、私はこんな場所に立って彼を待つ事は無かっただろう。

「どう、したの」

「ううん、あまりにも唐突だったから」

「医師と云う職業に何か、偏見とか、あるの」

 彼が私の様な境遇で有る筈はなく、とりわけ医師と云うなら、彼がしっかりとした家庭で育っている事は、私の様な特別な人間でなくとも想像できる。

「大丈夫だよ、偏見か、そうね、偏見と云うよりは、医師と云う仕事を知り過ぎている、かな・・・私も、医師だから」

 私が医師だと知った彼の反応は、私とは全く逆で、彼は心の底から私が医師であった事を神に感謝していた。

「こんなに、こんなに嬉しい事はないよ、まさか、まさか惠が医師だなんて、良かった」

 良かったと云う彼の一言が何に向けられた言葉なのか、それも、普通に想像できる事だ。彼の両親、若しくは父親が医師であり、彼はそこそこの病院の跡取りなのだろう。私が医師であれば、私を両親に紹介するのは容易い。私の心は離陸して飛び立ち、上昇する飛行機の高度とは裏腹に、その現実に打ちひしがれ、降下して行く。

「ごめんね、飛行機は嫌い?」

 何時に無く塞ぎがちな私を見て、彼はそう私に問いかける。

「大丈夫だよ、何でもない」

「ごめん、急に色々話したから、かな」

「ううん、そんなことないよ。何時までも、何も話さない訳にもいかないし、ちゃんと、話さないとね」

「うん、ありがとう」

 伊丹から50分、JAC2331便が隠岐の島に降り立つ。彼は何故、季節外れのこんな離島を選んだのだろう。私はその時そう思った。

「ホテルまで車で30分くらいだけど、後で行きたい場所がある」

 空港には彼が手配していたレンタカーが既に廻されていて、私たちはさっそく車に乗り込んだ。

「どこに行くの」

「ここにはロウソク島と云う無人島があるんだけど、そこに一番近いホテルを取ったんだ」

「ロウソク島」

「うん、今日は天気が好いし、今から食事をして、チェックインを済ませてから行けば、ちょうど、見られると思う」

「何が、見られるの」

「もし僕に、大切な人が出来たら、きっと二人で見たい、そう思った景色だよ」

 空港を出ると、車は北西へと進路を執った。赤い桟橋を渡り、この隠岐の島の中心を貫く様に通っている国道485号線をひた走る。田園風景から坂路を登ると、まるで何か鋭利なもので切り取ったかの様な海抜257メートルの大絶壁。それを下るとまた田園風景が広がる。何度かそんな大自然の全部をコンプレッションした風な景色が繰り返すと、道は国道から少し細い県道44号線へと左折し、ホテルまでの途中、峠に在るレストランを見つけた私たちは、そこに入った。

「僕は、この力の所為もあるんだろうけれど、本当に臆病で、意気地なしで、そんな自分が、とても情けなく、恥ずかしく、嫌いだったんだ」

 だから彼は大学を卒業して暫く、世界中を歩いた。観光地化された様な場所ではなく、大きな紛争を抱えた国、政治的、経済的、宗教的問題を抱えた国々を、自分の足で歩いて周った。

「世界の紛争地域や貧困地帯を周っていて、僕はある疑問を感じ、そして一つの答えに辿り着いた」

「どんな答えがあったの」

「それは、戦後の日本人は、もはや日本人ではなく、アメリカ人だと云う事。僕らに祖国は、もう無い。」

「祖国が無いって、日本は二千年以上の歴史を持つ国として、今もここに存在しているじゃない」

「そうだね、確かにそうだ。でも、それは大東亜戦争に負けるまでの日本であり、あの戦争から後、日本人は祖国を見失ってしまったんだ」

 彼は世界を自分の足で歩いて、ある事を感じた。それは、教育の違いにあると彼は言った。

「メキシコを歩いている時、とある公立中学の校庭で、生徒が正装をして、メキシコ国旗を掲げパレードをしているのを見た。僕は気が弱くて、こんな風だから、誰かに問うことも出来ずにただ、一人でじっとその光景を眺めていた」

 彼が校庭を眺めていると、体格の良い髭を生やした男が近付いて来た。男は彼に「どうしたんだ」そう問いかけた。彼は自分の疑問を男に問う。すると男は、自分はここの教師であると言い、そのパレードについての説明を彼にしてくれた。

メキシコの公立小、中学校では、週替わりで当番が有り、毎週月曜に当番の交代をする。生徒たちはこの様に正装し、国旗を掲げ国家を歌いながら校内のグラウンドを行進し「今週は自分たちがこの学校に対して、責任ある行動をする」そう誓い、それを自覚する為にこのセレモニーは行われると言う。日本の学校にも週当番はある。けれど、この様に物々しい交代セレモニーは無い。彼は男にその疑問を問うた。男は不思議そうに彼を見てこう答える。

「子供の頃からこうやって、国旗を掲げ、国家を歌う事によって、自然と、自分も、他の誰かも、皆がこの祖国に生まれ、祖国の土の上で生き、その土に還って行くのだと、そう教えている」

メキシコでは当たり前のこの行事を日本でやればどうなるだろう。右翼扱いされ、冷たい目で見られ、もしかしたら教員免許を剥奪されるかもしれない。そう彼は言った。

「僕が世界を歩いて思ったのは、どこの国の教育も、必ず幼少期から、祖国、それを教えている事なんだ」

「日本だって、歴史の時間に色々、日本とは何か、それを教育していると思うけど」

「学校で教えられる歴史、それは、本当に正しい日本の歴史なのだろうか、そんな疑問を感じた事は無い?」

「そうね・・・正しいか正しくないかではなく、正解して点数が得られるか得られないか、それしか考えた事は無いし、受験して志望校に合格する事が本懐で、歴史の事実が本当かどうかなんて、疑問に思った事は、一度も無いと思う」

「あらかじめ用意された問題と解答。答えは自分で考えるのではなく、用意された解答を暗記するだけ。それが日本の社会科、歴史教育の実体だろ」

「ええ」

「その解答を、正しいとされる答えを、もし、意図的に操作すればどうなる」

「危険ね・・・それは、恐ろしく危険だと思う」

「アメリカは、それを日本に、日本人に対して行った。国家を丸ごと、教育と称して、日本国民全体を、受験戦争の中で、洗脳した」

「アメリカが?」

「そう、僕ら日本人は、二千年を超える歴史の中で、海外からの侵略に一度も負けた事の無い民族だった。それがあの大東亜戦争で、生誕から初めて、戦争に負けた。負けた者は勝った者の言う事を全部聞かねばならないと云うのが、太古から国内で繰り広げられてきた領地を争う歴史の中で培われた、日本人の文化的考えだった。これが、いけなかった。この日本固有のスタンスにアメリカは上手く乗じて、日本を洗脳する事に成功したんだ」

「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの事を言っているの」

「うん、WGIPを知っている」

「話には聞いた事がある。GHQによる日本占領政策の一環として行われた、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画、だよね、あれは本当なの」

「受け入れ難い事だった。真実に近づけば近づくほど、目を覆いたい気持ちになった。でも、その真実は、毅然とそこに在ったんだ」

 彼はそう言った。私はその時、にわかに、彼の言うWGIPなるものを受け入れることは出来なかった。しかし、私はそれと同時に、洗脳により、あの暗黒を心に育てた男の事を思い出した。安樂栄治。あの男の事を考えるなら、洗脳と云うのは有る。そして、洗脳がもたらす悲劇も、現実も、実在するものであり、それが如何に恐ろしい事であるかも理解できる。でも、一人の人間を洗脳するのではなく、国家全体を洗脳するなど、本当に出来るのか。だが、私はその疑問が自分の中に浮かぶことに、ある種の核心を得た。

然う、つまり、こうして「俄かに受け入れ難い」と感じる事自体が、思想的洗脳を受けてしまっていると云う事なのではないだろうか。洗脳とは、それが洗脳とは気づけないからこそ、洗脳として成立するのだ。私のこの受け入れ難いと感じる感情を引き出すのは何なのか。それを繙けば、それが学校教育や、メディアからインプットされた、自分が適正であると認識している情報が基盤になっている事が判る。そこに悪意の有る捏造が人為的になされていたとしたら。

「僕は、それから、この国でスタンダードとされる歴史の検証を始めた。沢山の嘘、人為的捏造が巧みに、思想が一方へと向く様にちりばめられていた。自由と平和を守る為、日夜、敢然と悪に立ち向かうヒーロー、アメリカ合衆国と云う国を好きになる様に、この国のあらゆるスタンダードな情報は捏造操作されていた。今の中国を作ったのも、実はアメリカであり、畢竟、僕らはあの国に踊らされ続けて来た。でも、そんな中でも、その現実を認識し、小さな、小さな国でありながら、アメリカと本気で戦っている国がある。さぁ、時間だ行こう」

 ホテルにチェックインを済ませた後、彼は、自らが運転するクルーザーで私を海に運んだ。大きな太陽が悠(ゆっ)寛(くり)りと茜色を纏い海に下りて来る。その様は神秘的で、太陽と云う天体の偉大さを私に感じさせた。

「惠」

「え?」

「惑わされちゃいけない」

「何の事」

「壮大なあの太陽は、確かに僕らを育んでいる、でも、その明るさに掻き消され、僕らは真実を見る事が出来ない」

 茜色の空に、ポツリ、ポツリと、小さな星の光が見え始めたか思うと、彼がロウソク島を指差した。すると、星空と茜空の境界で、長く天に挑む島の先端に降りた太陽が、まるでロウソクの灯の様に映る。それはまさに島全体が巨大なロウソクに観える瞬間だった。私は、その余りにも美しい景観に心を奪われた。

「少しづつ、伝わって来たよ、君の心が」

 彼はそう言うと、私の手を握った。

「不思議だ。今日まで君の心は見えなかったのに、今、この瞬間だけ、君の心が見える」

 私は彼のその言葉に、慌てて手を離そうとした。

「駄目だ、じっとしていて。離さないで」

 彼は私の手を離さなかった。そして、彼の手から伝わる彼の心も、私が彼に入るのと同じように私の中に入って来る。彼は誠実そのものだった。この上なく誠実であり、その誠実の全部が愛おしさと云う感情で、私の全部を視ていた。

「辛かったね・・・本当に・・・辛かったね・・・でも、もう大丈夫だよ、君は一人じゃない。これからは、僕が、ずっと、傍に居るから」

 彼は私の過去の全てを視て、大粒の涙を流しながら、そして、優しく私を抱きしめた。私はその時、私にこうして抱きしめられる人の気持ちを知った。安樂が残した暗闇が彼の言葉と体温に溶けて行く。もう、大丈夫なのだと思った。根拠も何もなく、この人が居れば、私は大丈夫なのだと、心からそう思えた。

「空を見て」

 彼の言葉に、私は満天の星空を仰ぎ見る。

「太陽が消えたら、こんなに沢山の星が見える。世界には沢山の人が生きていて、その人生をこの星の様に輝かせている。アメリカと云う太陽の大きさに惑わされちゃいけない。僕らはみんな、それぞれがこの世界、この社会の主人公なんだ。その想いを胸に、どんな苦難にも負けず、強大なアメリカと戦う国が、戦う人民が、この海の向こうに居る。朝鮮民主主義人民共和国。僕は、この国で、経済制裁に苦しみ抜き、しかし尚、それでも太陽に呑み込まれず、自分たちを貫いている人達を、なんとしても、助けたいと考えている」

 彼の考えが正しいとか、間違っているだとか、そんな事はどうでも良い事だった。自分以外、誰も居なかった不毛の大地に降りて来た彼は、私にとってこの世界の全てであり、彼と一緒に居られるなら、この混じりけの無い、本当の誠実に抱かれていられるのなら、それだけでいい。私はその日、満天の星の海で、彼に抱かれた。

「お母さん・・・」

 そこまで話すと、惠は終に慟哭する。

「辛くなった」

 辰子の言葉に頷いた惠は、大きく声を上げ泣きじゃくる。

「ごめんね、惠ちゃん、私もあなたの様に心が見える人なら、貴女を悲しませずに貴女を理解してあげられるのに」

 惠の涙を貰い、辰子の瞳も真っ赤に滲んだ。辰子は惠の肩にそっと手を添える。惠の中に、辰子の紛う事なき誠実が流れ込んでくる。心から惠を労わる気持ちは、冷えた惠の心を暖炉の様に温め、惠は再び話す気力をその温もりから得る。

「お互いの全てを理解しあった私達は神戸に帰り、彼の実家へと向かいました」


            11

「あなた、見て、どれもほら、可愛らしい」

「ははは、へぇ、こんなものが有るんだね」

「目移りするわね、どれにしようかしら」

 その日、片山総合病院理事長、片山(かたやま)昌子(まさこ)は、院長であり夫である片山宗嗣(かたやまむねつぐ)と、トライアルウィークでこの病院にやって来る中学生の為に誂(あつら)える、白衣とナース服のカタログを見ていた。普通なら、子供達はこの行事には体操服で参加する。しかし昌子は、人材が枯渇するこの医療の現場に、少しでも夢を持って子供達が飛び込んで来てくれればと、自前でコスチュームや聴診器などのアイテムを揃え、出来るだけリアルな体験が出来る様に工夫をしているところだった。

地域に根差した自分たち独自の貢献を常に考え実行する。宗嗣も昌子も、拝金主義から総合病院の経営を疎んじる昨今の病院経営者としては珍しく、本当にこの国の医療の未来を考える尊い医師であった。

 ムーン、ムーン

 カタログの山の横に置かれた昌子の携帯がバイブレーションし、二人の視線が昌子の携帯画面に移る。

「あら、あなた、宗(むね)利(とし)よ」

 着信の相手がひとり息子の宗利と分かると昌子の顔がパッと明るくなった。三宮で独り暮らしを始めてから、宗利は随分と実家に疎遠だったからである。

「はいはい、どうしたの宗利、全然電話も寄こさないで」

 宗嗣はと云うと、カタログに目を落としたまま、静かに二人の会話を聞くともなく聞いている。

「え、あなたそんな急に、ええ、そうなの、まぁ、どうしましょう、ええ、なに、今日、今日の午後なのね、ええ、分ったわ、じゃあ、後でね」

 電話を切った昌子は、手品師に、どうにも見破る事の出来ないカードマジックを見せられた人の様な顔で宗嗣を見た。

「なんだ、どうしたんだ」

「いやね、宗利が、来るんだけれど」

「あぁ、それはなんとなく会話で分かったが、今日の午後とは、また急だな」

「そっちの急はいいのよ、息子なんだもの」

「そっちの急って、なんだ、あっちの急とかあるのか」

「あるのよ、困ったわ」

「何なんだ、あっちの急って」

「紹介したい人が居ますって言うならまだしも」

「え、おい、宗利が、女を連れて来るのか」

「連れて来るみたいよ、もう結婚するって決めているみたいなの」

「おいおいおい。ちょっと待て、いったいどういう事なんだ、それがあっちの急か」

「ね、困るでしょ」

「そ、そりゃ、困るなんてもんじゃない!何を考えているんだあいつは!」

画面をスライドし通話画面を終了すると、宗利は不安そうに自分を見る惠の肩を抱いた。

「徳川家康ってね、医者より医学に精通していた人だったって、知ってる」

「うん、何かで読んだ事があるな。薬も自分で調合していたんでしょ」

「ははは、良く知ってるね、うん、そうなんだ。そんな家康の侍医を務めるってどういう事だか分る」

「うーん、そうね、随分と、面倒くさい事になるんだろうな」

「そう、医学の知識が医師より豊富な患者を手抜かりなく診る、それは相当に大変な事だっただろうと思う。事実、祖の片山宗哲は、家康が自ら調合して服用していた万病丸と云う薬を、そんな毒薬を飲んでいれば早々に死ぬと批判して、島に流されている」

「そうなんだ」

「うん、でも、家康の死後、二代将軍家忠に罷免され徳川家に戻ったけどね」

「随分と、はねっ返りなご先祖様なのね」

「反骨と云うのではないよ、多分、宗哲は、僕らと同じか、或は、それに近い、病を診る目を持っていたのじゃないかな。だから、自分の君主に対して誠実に、諫言をしたんだと思う。片山家は人の命に対して、常に誠実かつ、真剣でなければならない、僕は父にそう教えらて来たし、父も母も僕も、それは日頃、常に念頭に置いて医療に携わっている積りだよ」

 なんの気負いも粉飾も無く、彼は、自然な誠実の中で、誠実に育ち、心から人命を助ける事に人生の全てを捧げていると感じた。

片山家の自宅は、利便性の為、病院のすぐ裏に建っていた。建坪はそこそこに広いが、見栄も体裁も感じられない。素朴で機能的で、自分たちの生活を医療に寄り添わせるため、そこに建てたと云う感じの建物だった。彼はインターホンを押さず、自分のポケットから取り出した鍵で玄関を開く。しかし、開かれた扉の向こうには、既に昌子が立って二人を出迎えていた。

「ただいま」

「お帰り」

「こんにちは、あの、初めまして、私、神林惠といいます」

「初めまして、私は宗利の母で昌子といいます。惠ちゃん、奥にお父さんが居るから、まぁ、込み入った話は、上がってからで」

「あ、はい、では、あの、お邪魔致します」

 昌子の対応は来客が多い所為か慣れたもので、その態度にも言葉にも棘は無く、惠を品定めする様な視線もなかった。惠は余りの緊張で、花束、菓子折りのひとつも持たず訪れた事を悔いながら昌子に促され靴を脱ぐ。ダイニングに続く廊下は清潔だが装飾は無く、サルバドールダリの「像たち」の複写が一枚飾られているだけだった。

扉を開くと、雑誌を片手にグレーのソファに腰かけている男が居る、どうやら彼が宗利の父、宗嗣のようである。

「こ、こんにちは、初めまして、神崎惠と云います」

 男はほんの少時(しばらく)惠を定める目つきをしたがしかし、直ぐに齟齬を崩し明るい笑顔で惠の挨拶に応えた。

「初めまして、惠さんと云うんだね。恐縮だけれど、息子から君の事をまだ、ひと言も聞いていないんだよ。青天の霹靂とは正にこの事だ、なぁ、この不良息子」

 そう言うと宗嗣は眉根を寄せてじろりと宗利を睨む。しかし、その目には自慢の息子に対する愛情が溢れていた。

「ごめんよ父さん、別に隠していたわけじゃないんだ、僕と惠は、出会って間もないから、紹介する暇が無かった、それだけなんだ」

「ほぅ、出会って間もないのに、この人を生涯の伴侶に決めたって事か。宗利、父さんと母さんに教えてくれ、惠さんの、どこを好きになった」

「全部だよ。良いところも、悪いところも、日の当たるところも、影るところも、全部を、好きになった」

「・・・好い答えだ」

宗利は宗嗣に対しそう真っ直ぐに応え、それを見た宗嗣は大きく頷く。

「惠は、○○病院の精神科に努めているんだ。大学は東大医学部、主席卒だ」

 宗利のその言葉に、宗嗣と昌子の目が急に和らぐのを惠は感じた。当然と言えば当然だ。大切に医者に育て上げた息子が伴侶として連れて来た女が、東大医学部主席卒、○○病院の勤務医であると云う事は、私の内面の、どんな優れたものより大切な事なのだろう。普通なら何も怖がることはない、しかし、私には・・・

「仕方ない、こんな素敵なお嬢さんを連れて来た不良息子に、久しぶりに褒美をやろう」

「宗、あ、いや、片山君、ご褒美って」

「あぁ、うちの父さん、こう見えても料理が得意なんだ、多分」

「そう、その多分だ」

 宗嗣はニヤリとひとつ笑いを残し、腕まくりをしながらキッチンに立って行った。

「好いのよ惠ちゃん、宗利って呼んで」

「わぁ、あの、でも」

「さぁ、では私もお邪魔しないように、お父さんの手伝いでもしますか。二人とも、ゆっくりしていてね」

 昌子もクスリとひとつ含み笑いをし、宗嗣の後を追ってキッチンに立つ。

「良いご両親ね」

「うん、そうだね、親として、否、人間として、僕は二人の事をとても尊敬している」

暫くすると、肉と小麦粉が焼ける芳ばしい香りが、キッチンから漂ってくる。

「父さんはイギリスに留学していたんだ」

「イギリスかぁ、行ってみたいなぁ」

「イギリスってね、食文化が乏しくて、余り美味しいものがないんだけれど、父さんの焼くイギリス仕込みのローストビーフとヨークシャープディングは最高に美味しいんだ」

それから私たちは、彼の父が焼いた絶品のローストビーフを囲んで歓談をした。彼の両親が、息子に絶大な信頼を置いている事、そして、私が医師であると云う保険の所為か、両親は立ち入った事に一切ふれないまま、当たり障りのない会話でその日は終始した。

「あれで良かったの」

「あぁ、真実を伝える事が必ずしも誠実だと、僕は思わない。真実を知る事の方が、過酷な場合がこの世界では多すぎるから」

「でも」

「でも?」

「僕らは、僕らにとって特別な、嘘を言える関係だからこそ、剥き出しの真実を、お互いが共有しなくてはならない」

「そうね、世界でたった一人だけ、お互いの心が見えない相手だものね」

「もう一人だけ、惠に会って欲しい人が居るんだ」

「もうひとり?・・・」

「僕は彼から、とても大きな教えを受けているけれど、それだけではなく、彼は、もしかしたら、僕らと同じなのかもしれない」

「同じって・・・」

「そう、彼は、惠と同じ匂いのする人なんだ」

宗利は私の秘密を両親に話さない積りだった。確かに彼の言う通り、真実を告げる事が必ずしも誠実だと私も思わない。不必要に傷つける事も、不必要に傷つく事にも、対峙する人との関係性に於いて、目下の幸いを得る事は限りなく少ない。しかし、延々と傷つけあう事を避けて通れば、それは本当の信頼を構築したと言えるだろうか。

・・・どこかのタイミングで、本当の事は話すべきだ・・・

私はそう考えていた。そんな思案を胸にしていた頃、彼からの電話が鳴った。

「今日、あの人と会う、惠も一緒に来てくれないか」

私の覚悟は決まっていた。彼がどんな思想で、どんな活動をしていようと、私は彼から離れない。彼の呼び出しを受け、私は指定された場所に赴いた。

彼の車に乗り込み、車窓を流れる景色を見ていた。住宅街の中に在る公園の傍に信号待ちで停車した時、何気なく視線を投げた先に沢山の子供達が遊具で遊びまわり、その姿を見守る優しい母親たちが居た。その微笑ましい光景を羨む自分が、心の何処かに棲んでいて、私は、自分にもそんな未来が来たらどうだろうと、そんな希望的観測をしてみる。柑橘系の香りが鼻腔を通る様な、ツンとした切ない気持ちを感じ、私は空いている彼の左手に自分の右手を絡ませた。あれ以来、もう彼の心が見える事は無く、彼の掌は、何時もの様に温かい。

「どうしたの、不安になった」

彼の横顔に浮かぶ優しさを確かめる。

「ううん、何でもない、手をつなぎたかっただけ」

彼の横顔が優しい笑顔から、嬉しい笑顔に変わり、彼は私の掌を包む自分の掌に軽く二回力を込めた。私の胸に、また切なさが通り過ぎ、嬉しいのか、泣きたいのか分からない、そんな自分に困惑した。

彼の右手が突然ハンドルを切る。繁華街の細い路地裏に彼はゆっくりと車を入れて行った。寂れたテナントビルが空を歪に切り刻んでいる。街路にはホームレスのビニールハウスが立ち並び、交差する道の辻には幾つもの怪しげな屋台が並んでいた。

「つぼ焼き」経年劣化で煤けた暖簾には、そう書かれいて、しかしその中からは、鰹出汁と日本酒の良い香りが漂って来る。彼が私の手を引いて、その暖簾を潜った。

「これこれ、なんだかんだってさ、やっぱ、これが一番美味いのよね」

「こんばんは、前川さん」

「おう、宗利君、こーんばんわー」

目の前が真っ暗になった。視界のあらゆる物が一瞬にして白と黒の濃淡だけになり、私の中の暗黒が酸素を得て爆発を起こすバックドラフトの様に脳の中で爆ぜた。私はあの時、どんな顔であの男を見ていたのだろう。

「宗利君、この人は、だーれ?」

「僕の大切な、人で、神崎、神崎惠さんです」

「大切な、人?」

「はい、僕たち、結婚しようと思っています」

「ふーん、そうなんだ。それはおめでとう、良かったね、宗利君」

「ありがとうございます」

「初めまして神崎、惠さん、ぷぷぷ」


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