黄色いリンゴ

マルムス

虐待


この夏の暑さは異常だった。蒸せかえるトラックの荷室に重い家電製品を運んでいると、その余りの暑さに、この世の終わりは本当に来るのかも知れないと、横山涼太は思う。

今年の記録的な猛暑がエアコンの記録的販売台数を叩き出した所為で、この、某家電量販店の配送を担う物流倉庫は火がついた様に忙しい。

「終わった、もう、死ぬ、つか、地球、暑すぎる! 大丈夫かよ、人類滅亡すんじゃねーのか!」

遼太は、もう梃子でも動くものかと言わんばかりに、倉庫の板の間の上に大の字に寝転がった。

「馬鹿野郎、てめぇが地球の心配なんかしてどうなる。そんなくだらん心配より、地図のひとつでも覚えろ、この馬鹿たれが」

「くそー、ったく、こんなにきつい仕事だなんてよ、ホント、詐欺だぜ、詐欺、この詐欺師オヤジが!」

遼太は、自分の横に移動し、自分と同じように大の字になった牧田(まきた)秀夫(ひでお)に目を向ける事なく、倉庫の高い天井を睨みながら辛辣に悪態をつく。しかし牧田は、そんな遼太を横目で見ながら、何かを愛でる様に目を細めた。

 遼太の推定年齢は二十代前半。あどけなさは残るが、もう成人である。成人と言えば聞こえはいいが、最近の二十代などガキの延長で、まるで使い物にならないと牧田は考えている。自分の行く道も、自分の生活の保障も、何もかも、社会や親が用意してくれるものだと勘違いしている。戦争も、貧困も知らない、産まれた時から平和が日常であるこの世代は、自分で何かを切り開こうと云う気概がない。何を考えているのか分からない、このゆとり世代の若者たちが、牧田はどうにも好きになれない、と云うよりは、むしろ毛嫌いをしていた。そんな牧田が遼太と出会ったのは、初夏の湿った空気が産毛を撫でる去年、五月の事。その日、仕事を終えた牧田は、何時もの様に神林(かんばやし)惠(めぐみ)が商う店に顔を出した。

古い店内は、立ち呑みの店とさほど大差はない。狭いカウンターと数席のボックスがあるだけの酒舗、兼、食堂の様な店は、しかし、惠の人柄の良さと先代店主の味、そして、今時に無い良心価格で、商売は大いに繁盛し、宵の口になると、店には何時も酔客が溢れていた。

「よう、席、空いてるか」

漆喰の壁は、長年の風雨に曝され随分と傷みのある白に変色していて、そこに嵌め込まれた木製の引き戸は立て付けが悪く開くのには少しばかりの力とコツを必要とした。 

牧田が「惠心」と白で抜かれた文字の浮かぶ藍色の暖簾を潜り、ガラガラと音をたてながらその扉を開くと、店内は珍しく静としていて酔客が居ない。しかしその代りに、血塗れで蹲る若い男と、それを取り囲むようにチンピラ風の男たちが三人、店の奥に居た。

「秀さん・・・」

 惠は、珍しく困惑を露わに、入って来た牧田を見てそう一言呟く。

「おい、今日は貸し切りだ、出て行け」

 そんな惠を押し退ける様に、若い男の髪の毛を掴んでいたリーダー風の男が、男の髪の毛を離し牧田に視線を向ける。

「惠、ビール、あては、そうだな、揚げ出し豆腐がいい」

 牧田は緊迫した店内の状況など意にも解さぬと云う風に、カウンターに腰かける。

「おい、おっさん、貸し切りだってのが聞こえなかったのか、ああ!」

 血まみれの男の髪の毛を離したその男は、そう言いながら牧田に近寄って来た。牧田はうんざりしたように男を見上げる。

「なんだこの安物のドラマみたいなシュチエーションは、いいか、安物のドラマならな、俺が今からお前らを外に連れ出して叩きのめす、今風に言うならフルボッコだ。そうなってもいいのか」

「なんだとてめぇ、なめんじゃねぇぞ」

牧田の前に立った男は、そう言うといきなり牧田に殴りかかる。しかし牧田はそれより早く、既に手にしていた割り箸を襲い掛かる男の拳に向けていた。

「うぎゃあぁぁ」

鋭利ではない割り箸の先端が男の拳に突き刺さり、男は悲鳴をあげて突き出した拳を、今度は懐に抱え込むようにして後ろに飛びのく。

「おいおい、だから言ったろうが、あーもう、面倒くせーなお前ら、望み通りフルボッコにしてやるよ、外に出ろ」

牧田はそう言うと、拳から血を流す男の髪の毛を鷲掴みにし、店外へと連れ出す。それを残る二人が慌てて追い駆け外に出た。

「君、大丈夫・・・」

 惠は男たちが居なくなると、手拭きに氷を包み、蹲る男の傍による。

「すいません、迷惑、ゲホッ、お掛けして、ゴホッ」

「そうね、迷惑だわ、客はみんなビビッて帰っちゃったし、商売あがったりよ」

男の咳には血が混じっている。どうやら腹を蹴られた時、胃から出血をしたようだ。

「君、名前は」

「横山ゲホッ、遼太」

「そう、じゃ、遼太君、救急車を呼ぶ前にひとつだけ訊かせて、今、二階の物置でかくまっているあのお嬢さん、あの子は君の何なの、私が見るに、君、まだ随分若いでしょ、娘が居るようには見えないんだけれど」

「いや、美月は、美月は俺の、俺の娘です」

「本当に」

「はい」

「嘘じゃないでしょうね」

「間違いありません、ゲホォ、美月は、俺のゲホォ、ゴホォ」

「分かった。もういい、救急車が来るまで、しゃべらないで」

惠が扉を開き外の様子を窺うと、さっきの男たちの姿はなく、深々と煙草の煙を吸い込んでいる牧田一人がそこに居た。

「あいつら、どうしたの秀さん」

「あぁ、やっぱフルボッコにすると後が面倒だから、ハーフボッコにして帰らせた。あいつら、金城組傘下の組のチンピラだ」

「金城組・・・」

「あいつら、俺たちを狙ったわけじゃない様だが、あのガキ、なんだ、彼氏にしちゃ若すぎるよな、お前、ロリコンだったのか」

惠は軽く握った右こぶしで牧田の鳩尾を殴り、舌を出しながら119番に通報する。

「もしもし、こちら●○市●○三丁目の飲食店、惠心ですけど、喧嘩で殴られた男の人が居て、はい、吐血が認められるので、はい、よろしくお願い致します」

惠は電話を切ると睨むように牧田を見上げた。

「バカ、さっきまで顔も知らなかったわよ」

「痛ぇぇぇ、てめぇ!いったい、どう云う事だ」

「どう云う事かなんて、こっちが訊きたいわよ!」

牧田と惠がそんな問答をしていると、遠くで救急車のサイレンが聞こえて来る。

「兎に角、あの遼太って子を、病院に連れて行って来て。あの子、小さな女の子を連れて来てるのよ、私はその子を見てるから、秀さん、後は頼んだわよ」

「お、おい!惠!」

惠はそう言うと、もう振り向きもぜず、店の中に入って行った。牧田は駆け付けた救急隊員に顎で店の方向を示す。折りたたんだ担架を持った二人の隊員は、五分もしない内に遼太を担ぎだして来た。

「親族の方ですか」

「否、ゆきずりだが」

「付き添い願えますか」

牧田は一瞬の間を置いて、無言で首を縦に振る。

「受け入れ先の病院が決まりました」

別の隊員が、無線機を片手に牧田の方に声を投げる。牧田は遼太の横に乗り込み、二人を乗せた救急車がけたたましいサイレンと共に夜の国道に消えて行った。

「もう大丈夫だよ」

 惠は二階に上り、物置の扉を開きながら中に匿っていた幼女にそう声を掛けた。しかし、幼女は振り返らないまま惠に質問をする。

「パパ、大丈夫なの」

「大丈夫よ、内臓が破裂したわけじゃないから、直ぐ、元気になるわ」

「そんな事、どうして分るの」

「え、あぁ、そうね、私は、昔、病院で働いていた事があるんだよ」

「そうなの」

「うん」 

「看護師さんだったの?」

「うーん、看護師さんでは、ないんだけれど・・・」

「じゃあ、お医者さん?」

「ええ、そうよ。私は医師だから、診れば解るの、お父さんは大丈夫。あっ、そうだ、お腹、空いてるでしょ、下に降りてご飯、食べない」

「あのね、美月は、ここに来る前に、パパとラーメン食べたんだよ、海苔とね、卵が入っててね、凄く、美味しいラーメンなの」

 惠は美月に近づきながら膝を落とし肩に手を掛けると、自分に背を向けたまま話す彼女の顔を覗き見た。子供らしい丸い輪郭にくりくりとした大きな目が付いている。そしてその愛らしい目は、よく動いた。まるで小動物の様にきょろきょろと動いて、何かを探している様にも見える。

「美月ちゃんっていうんだね。そっか。美月ちゃん、でもね、お店を、お休みしたから、料理がいっぱい余っているし、私は、お腹空いたな。美月ちゃん、一緒に食べようよ」

「いいの」

「うん」

 美月は惠に手を引かれ階下に降りる。惠は保冷ケースの中の肉じゃが、切り干し大根などを適当に小鉢に盛り、出汁巻き卵を焼いてそれらをテーブルに運んだ。美月はそんな惠の動作をつぶさに目で追っている。否、それは追っていると言うよりは、観察していると言った方が適切なのかもしれない。

「さぁ出来たよ、美月ちゃん、お米、どれくらい食べられる」

 惠の質問に、美月は少しだけと云う感じのゼスチャーを、申し訳なさそうに小さな手で惠に示す。美月の仕草に惠は微笑みながら頷き、しかしそれに反して、かなり多めのご飯を茶碗によそって美月の前に出してやった。

美月は、何かを確かめる様に惠が出した料理をほんの少時(しばらく)、凝呼(じっ)と見詰める。しかし、次の瞬間、美月は、弾かれた様にパクパクとそれらを食べ始め、その様子は貧困のスラム街に居る子供達の姿を惠に連想させる。

惠は、当然の疑問を胸に抱いた。惠の目から見て、美月は四歳から五歳くらいだ。これくらいの歳の子供が、父親が口から血を吐き、救急車で運ばれた後、こんなに気丈でいられるものだろうか。遼太が運ばれた後の惠に対する美月の質問は余りにも的確だったし、美月の話し方、所作、それら全てが、無理に子供らしい無邪気さ、可愛らしさを強調している様な気がしてならない。そして、食事を済ませたと言いながら、美月は黙々と惠の出した料理を食べている。

惠はよく動く美月の瞳を観察した。色素が薄いのか、美月の瞳はカラーコンタクトをしている様な綺麗な鳶色をしている。そして、惠と目が合うと、必ず愛らしい顔で微笑むことを忘れない。しかし、笑っていない。よく見ると、美月の目は、微細(ちっとも)も笑っていないのである。美月の笑顔は、統制された共産主義国に在る、高級ホテルのフロアガールの様に、洗練された、否、計算された様な、そんな凍り付いた笑顔だった。

「ごちそうさまでした、美味しかったぁ」

美月は惠が出した皿の全部を平らげた。とても直前にラーメンを食べて来たとは思えない。

「ねぇ、美月ちゃん、よかったら、私の家に帰って、一緒にお風呂入ろうか」

「え、あ、うん、いいよ」

 その問いかけに美月は零れる様な笑顔で素直にそう応えた。しかし、一瞬、美月の眦が奇怪な変化をする。惠は意を決し、美月の手を握ってみる。すると、美月の中で何かが、一瞬にして、まるで逃げ出すかのように消えるのを感じた。

 ・・・何なのこれ、心が見えない・・・いや、この子・・・心が・・・

惠は洗い物もそこそこに戸締まりをし、美月の手を引き、歩いて僅かの距離にある自宅マンションへと帰宅する。

「でも、そっか、着替えが無いのかぁ、ねぇ美月ちゃん、美月ちゃんのお家は、ここから遠いの」

 浴室に入ると、惠は一生懸命に服を脱いでいる美月に質問をする。

「うん、遠いよ、今、パパと旅行しているから」

「車で旅行しているの」

「ううん、電車だよ」

「じゃあ、着替えは、ホテルか何かに置いてるいの」

「あ、うん、そう、ディズニーランドのね、中のホテルなの。とっても可愛いお部屋なんだよ、ミッキーがね、たくさん居るの」

「そっか、じゃ、直ぐには取りに行けないわね、よし、寒いから浴槽に入って、ちょっと待っててね」

この子の服や下着の汚れは、あの騒動で急に汚れたものではない。もう、何日も着替えていないし、入浴もしていない。そして、あんな状態で、ディズニーランドで観光しているはずも無いのである。この子は、その少ない語彙を駆使して嘘をついている。刹那的な、悲しい、悲しい虚言を並べている。

浴室を後にした惠は、寝室に置いてある箪笥の抽斗を開けた。

・・・有った・・・

抽斗に仕舞われていた衣類は男児の物である。しかし、一年に一度、買い足されて溜まったその衣類の中には、ちょうど美月の身の丈に合う物も大切に保管されていた。

「お待たせ、これ、男の子の物だけれど、これで明日まで、我慢してね」

「ううん、わぁ、可愛い、ありがとう」

 お世辞にも可愛いとは言えない男の子用のパジャマを見て、美月は満面の笑顔を見せる。

「さぁ、私も一緒に入るね、美月ちゃん」

 判断をするには情報量が余りにも少ない、しかし、ほぼ間違いないだろう。入浴をしながらこの子の身体を観察すれば、たぶん、その痕跡があるに違いない。

・・・この子は・・・虐待を受けている・・・


           2

牧田は足を小刻みに揺らしていた。落ちつかない。そもそも、牧田は大の病院嫌いである。つまり、病院などと云う看板の掲げられた建物に入ったのは、もう何十年ぶりの事であるし、驚いたことに、昔の病院には、必ず長椅子の横には、足の長い灰皿がおかれていたものだが、何処を見回しても、それが見当たらない。それどころか、最近の病院では、喫煙室はおろか、敷地内での喫煙さえ禁止であると云う但し書きが、壁と云う壁いたる所に掲示されている。遼太が施術室に運び込まれてからもう一時間。牧田の目にはそれほど大したことは無いと映っていたのだが、思った以上に遼太の容体は重篤な様だった。

それから更に一時間が過ぎた。牧田は限界を覚え、外に煙草を吸いに出ようと腰を上げる。しかしその時、施術室の扉が開き、遼太を担当した医師が扉の向こうから姿を現し、牧田の方を向いて歩いて来た。

「お待たせしました、牧田さん、でしたね。遼太君、胃の他にも、後頭部の打撲、殴打による出血が内臓の至る所に見受けられましたので、大事を取って、一週間ほどの検査入院になります」

「ちょっと待ってくれ先生、俺は、単なるゆきずりで、そんな、一週間の入院だなんて言われてもよ」

医師は何かを言おうとして、しかしその言葉を一旦呑み込み、少し虚空を睨んだ後、牧田に話した。

「遼太君、もうそろそろ麻酔が切れて目覚めると思います。その後の事は遼太君とよくお話をされて、今後の対応は牧田さんにお任せします。正直、面倒な事に巻き込まれるのは御免被りたい」

 医師は淡々とそう牧田に告げると、それっきり振り向きもせず、仄暗い廊下の向こうに消えていった。

「なんだあの医者、ったく、マジかよ、面倒くせぇ」

 牧田はポケットから煙草をつまみ出し、それを咥えると、そのまま病院の夜間出入り口に向かって歩いた。とりあえず外に出て、惠に連絡を入れ、遼太の親族を探すのが先決だと思われたからだ。

時間はもう深夜である。夜間出入り口の対面にある受付カウンターは閑散としていて、牧田がその左側に目をやると、シャッターの閉じられた売店が目に入った。

「けっ、面倒くせーなぁ、もう」

建物の外に出ると、牧田は左右を見回しコンビニの灯りを探す。すると幸い、北東二百メートル程の場所にコンビニの灯りが見える。咥えた煙草にライターで火を点け、牧田はその灯りを目指しながら携帯を取り出し惠に電話を掛けた。

「もしもし」

惠はワンコールで直ぐに電話口に出る。

「おう、遼太、だったな、あいつ、思ったより酷かったよ。一週間の入院だそうだ」

「そう、秀さん、ごめんね、遅くまで引っ張って」

「あぁ、まぁ、いいよ、で、どうすんだ」

コンビニに着くと、牧田は入り口に設置されている灰皿で煙草を揉み消し店内に入る。

「それがね、困ったことになったのよ」

「困ったことってお前、もう充分困った事になってると思うけどよ、まだ困んのかよ」

牧田は携帯を首と肩で固定し、会話を続けながら空いた右手で買い物かごを手に取った。

「秀さん、警察には知らせたの」

「否、まぁ、俺も、なんだ、やべーからよ、警察はしかとだ」

雑誌の置かれているコーナーで適当な若者向けの週刊誌を三冊、日用品のコーナーで下着を二セット、歯ブラシ、タオルをかごに放り込み、T字の髭剃りは思い直して商品棚に戻す。

「良かった。明日の朝一番で美月ちゃんを連れて病院に行く、だから取り敢えず、私が遼太君と話すまでは、そのままにしておいて」

「美月、ちゃんって、なんだ、それ」

「遼太君が連れて来た子、小さな女の子なのよ。彼は娘だと言っていたけど、彼、どう考えても父親には見えないでしょ。だから詳しく話を訊かないと。もしかしたら誘拐の可能性だってあるかもしれない」

牧田はレジで精算を済ませると、右手に携帯を持ち替え、コンビニ袋を左手で掴むと外に出た。

「誘拐ってマジかよ」

「ええ、そして、更に困った事があるの」

「おいおい、もう腹いっぱいだぜ、これ以上困った事を食えってか」

「美月ちゃんね、多分、かなりの長期間、日常的な虐待を受けている」

「なんだとぉ!」

 虐待。その言葉が出た途端、おちゃらけた何時もの牧田の声が突然凍り付いた。

「誰が、何故、あの子を虐待しているのか、それは判らない。けれどもし、あの遼太って子が、あの子を誘拐し、連れまわして、虐待をしているとしたら、ほっとけないでしょ」

「分かった」

牧田は今さっきレジで精算したばかりのコンビニ袋をそのまま乱暴にゴミ箱に投げ捨てた。

「秀さん、明日、仕事は」

「センターに話して仕事は止めてもらう。俺はあいつが逃げない様に今から病室で張るから、お前はなるべく早く病院に来てくれ」

「分った、ありがとう、秀さん」


            3

清潔な真新しいアルミサッシの窓から注ぐ柔らかな朝の日差しが頬を温める。とても安らかな気分だった。しかし、まどろみの中の意識が身体の感覚を取り戻すと、得も言われぬ痛みと不快は、それは当たり前の如く遼太の中に戻ってきた。

「麻酔が切れても、結構よく眠ってたな」

「なんだ、あんたか」

付き添いの椅子に凭れ、遼太の横たわるベットに足を延ばしている牧田の声に、遼太は素気なく応えた。

「なんだはねーだろ、お前、誰のおかげでそこに寝てられると思ってる」

「すいません、そうでした、ありがとうございますって、感じで、申し訳ない顔でもすればいいんすか?」

遼太は牧田に振り向きもせず、アルミサッシの窓の外に咲いている、アジサイ、アリウム、カルミア、そんな初夏の花々に目を向け、更に素気なく牧田の質問に悪態をつく。しかし、牧田はそれに、不思議と不快を感じなかった。

牧田の身長は百九十三センチ、全身筋肉の塊の様な武骨な体格に、黙って歩いていればヤクザでも道を開ける程の厳つい顔を付けている。そんな牧田に対し、あのチンピラ共の様に虚勢を張る訳でもなく、堂々と悪態をつくこの若者に、牧田は少し興味をそそられたのだ。

「で、お前、何であんな小さな子を連れ歩いている」

「あんたには、関係の無い話だ」

「関係なくもない、俺も、惠も、随分と迷惑を受けているからな」

「俺はあんたには何も頼んじゃいない、あの惠って女の人には頼み事をしたけどな」

「じゃ、私には訊く権利があるわけだ」

 突然の惠の声に、牧田と遼太が扉の方に振り向く。するとそこには、惠と、惠に手を引かれて入って来た美月が立っていた。

「美月!」

「パパ!」

 美月は遼太の顔を見るなり、惠の手を振り解き遼太の横たわるベッドに駆け寄った。

「大丈夫だったか、美月」

「うん」

心の底から再会を持ち望んでいたかのように寄り添う二人を見て牧田と惠は思う。この様子から見て、遼太が美月を虐待していると云う疑いは持てない。しかし、昨日の夜、惠は確かに見たのだ。美月の身体に刻まれた、長年に渡る虐待の徴を。

「ねぇ、遼太君、いったい、彼方達に何があったの。どうして金城組のチンピラなんかに追い廻されているの」

 質問に答えると云うのは、概ね、記憶を手繰る作業である。遼太はそこで初めて、直近に起こった出来事を思い出してみる。そしてその結果、遼太は愕然とする。思い出せないである。自分が何故、どう云った理由でここに居るのかが、まるで思い出せないのだ。

「答えたくない事は答えなくてもいい、でも、どうしても答えて貰わなければならない事がひとつだけある」

 惠は遼太の耳元に口を寄せ小さな声で囁いた。

「美月ちゃんの身体に刻まれている、沢山の古い傷跡、あれは、何なの。もし、あれが彼方の所為なら、私は彼方を許さない」

惠の言葉を聞いた遼太は、少時のあいだ目を閉じ、そして再び目を開く。

「美月、暫く外で遊んでおいで」

それを聞いた美月は悲しい顔になる。遼太は美月に小さく頷く。すると美月は、もうそれ以上何も言わず三人に背を向け、病室を出て行った。

「おっさん」

「おっさんじゃねーわ、牧田秀夫だ」

「じゃ、えっと、牧田さん」

「ケッ、秀さんでいい」

「お願いね、秀さん」

「あぁ」

 牧田は懐から取り出したクシャクシャになったコンビニ袋を遼太に投げつけると、一人、病室を出て行った美月の後を追った。

「なんだ、これ」

 遼太は牧田に投げつけられたコンビニ袋に目を落とす。

「着替えと日用品よ、あの人、昨日の夜中、彼方の為に、それ、コンビニに買いに行ったのね。でも、買ってすぐ、一度ゴミ箱に捨てたみたい」

 遼太は、袋の中を見ずに中身を当て、更に一度捨てたことまで即座に指摘する惠の勘の鋭さに驚く。

「どうして、そんな事、分るんですか」

 惠はさっきまで牧田が腰を降ろしていた付き添い用の椅子に腰かける。

「昨日ね、彼方には、ある嫌疑が掛かっていたの」

「ある嫌疑って」

「彼方が、あの子を誘拐して、連れまわし、虐待をしていると云う嫌疑。私はそれを秀さんに話した。それに腹を立てた彼は、せっかく買ったそれをごみ箱に捨てた。でも。思い直して、もう一度ゴミ箱から拾った」

 惠は遼太の目を強く見る。

「それを拾って、そうやって彼方に手渡したって事は、あの人は、彼方の事を悪くは思っていない」

 遼太の視線がコンビニ袋から今度は惠に向く。

「あの人はね、昔、彼方を襲った様な連中を束ねて暴れまわっていた人。だから、漢を見る目は確かなのよ」

遼太は、コンビニ袋を脇に置く。

「彼方、昨日、美月ちゃんの事、私に頼んだわよね」

「・・・」

「私はそれを、思わずだけれど、引き受けた、解るわね」

「・・・」

「引き受けたからには、私はあの子を守らなければならない、譬え相手が、父親を名乗る彼方であっても」

「どうしてそこまで」

「私は、精神科医、だからかな」

「精神科医って、どうして医師が、あんな場末のしけた飲み屋で酔っぱらいの相手をしているんですか」

「しけた、は失礼ね、私は元、精神科医なの。事情があって、今は場末のしけた飲み屋をしている。でも、その先は、先ず、彼方が私と秀さんに心を開いてくれてからよ」

惠は軽く体を屈めると、痛々しく包帯が撒かれた遼太の頭を撫で、そして、優しく髪に指を通した。

「迷惑はしているけど、私や秀さんは彼方達の敵じゃない、さぁ、話しなさい」

惠のその行動に遼太は少し驚く。しかし、惠の掌から伝わるものは、明らかな誠実さを宿した人の温もりだと感じた。そしてその温かさが、何故か遼太の心を、訳もなく落ち着かせていく。

遼太は先程のコンビニ袋を再び手に取り中を見る。すると惠が言っていた様に、中には下着や歯ブラシなどの日用品、それと、遼太の趣味ではない、少しアダルトな雑誌が三冊入っていた。それを見て遼太はクスリと笑い、そしてそれと同時に、遼太の唇は、漸やっと、この重い空気の中に混沌と浮かんでいる言葉を拾い集め、そして、途切れ途切れの記憶を紡ぎ始めた。


             4

 朝、目が覚めると、必ずあの人は俺の枕元に立ち、俺を見下ろしていた。魚の様に、感情の無い目をしていた。課題が、毎日、有った気がする。与えられた課題をクリアできた時は良かった。でも、出来なかった時、あの人は、何時も俺の頭を足で蹴った。そう、声でも、手でもなく、無言で揮われる、俺に対する有形力の行使は、何時も、足で行われた。

「惠さん、知ってる」

「何を」

「あのね、人の手は、どんな時でも、何処かに、優しさが残っているものなんだ。ほら、手加減をするって言葉はよく使われるけど、足加減って言葉は、使わないでしょ」

「そう言われてみれば、そうね」

手は愛情を示す。それは、仮令それが、どんなに些細な愛情であったとしても、手はその人の中の愛情を相手に伝えるものなのだ。しかし、足は違う。足は、それを揮う対象に、一切の慈悲を与えない。

俺は、そんなあの人が、とても、怖かった。

朝食は、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)が交ぜられた五穀米に、豆腐の味噌汁、味付け海苔、そして生卵。それが三百六十五日、毎朝食卓に上った。昼と夜は数十種類のメニューがあったけれど、それ以外の食べ物は一切提供されない。緻密に計算された栄養を適切な時間に適切に摂取する。俺の食事は、楽しむためのものではなく、身体を如何に健康に維持し、成長させるか、それ以外の事は何も考えられていなかった様に思う。俺はあの人の前で食事をするのが、嫌いだった。

・・・まるで、囚人じゃ・・・

でも、幼かった俺は、そのことについて、自分が不幸であるだとか、あの人の行いが人道に悖るだとか、そんな風に考えた事はなかった。俺にとってそれは、当たり前の日常だったし、その環境に不満を持ち、否定的、かつ反逆的な気持ちを育てるには、余りにも俺は幼く、俺はあの人の求める事に応え、与えられる課題をこなすしかなかった。でも、食べる物は与えられたし、あの人の求めに応えていれば、あの人の足が俺を踏みにじることは無い。だから俺は、あの人の足が自分を踏み躙らない様に、毎日、努力するしかなかった。

「ねぇ、遼太君、ひとつ質問をしていい」

「なんですか」

「彼方の話の中に出てくる、あの人って、いったい、誰なの」

「母親かな」

「お母さんなの」

「たぶん」

あの閉塞された空間には、情報を得る物が何もなかった。テレビもラジオもなくて、限られた書物と、熱帯魚の水槽だけが、俺が物事を考える為の道具だった。それは、俺の記憶の一番最初から存在していたし、俺は好きとか、嫌いとか、そういう事ではなく、何かを考える時、何時も水槽の中の魚を見ていた。

「その水槽の中には、どんな魚が飼育されていたの」

「グッピーだよ」

「他には」

「居ない、グッピー、だけだった」

 俺は、あの水槽が、何の目的であの場所に置かれていたのか、それは知らない。最初の記憶では、数種類の連飼いのグッピーが、90センチの大きな水槽の中を広々と泳いでいた。そのグッピーが初めて子供を産んだ時の事を、俺はとてもよく覚えている。

「惠さん、卵胎生って分る」

「ええ、雌親が、卵を胎内で孵化させて子を産む繁殖形態、かな」

あの時、一匹の雌の様子が怪(おか)しいのを、俺は薄々感じていた。だから、ずっと、その雌を見ていた。何かが起こる予感がしていた。それはもう明け方だった。水槽の隅で、ガラスの壁に寄り添うように泳いでいた雌が、ふいに身震いしたかと思うと、雌のおしりから、勢いよく小魚が飛び出して来た。凄いと思った。生命がひとつ増える事。そうやって生命が、秩序立てて、新しく生まれる事に、訳も分からず、とても、感動した。

小魚は、一度飛び出してくると、次々と、何匹も何匹も産まれた。俺は、それを夢中で見ていた。

産まれた子供は直に大きくなり、大きくなった子供は、またそれぞれに子供を産んだ。それは無分別に、無差別に、ある時は自分の兄妹に、ある時は自分の親や、子供に、生殖器を向け、貫き、そして繁殖を繰り返した。けれどある日、それは起こった。

 無分別と無差別の繁殖により、血が濃いくなり、遺伝子に異常をきたした気味の悪い奇形の個体ばかりが水槽の中に増えて行った。そんな気味の悪い感情の無い顔をした奇形の魚がひしめく水槽の中で、それは起こった。感情の無い不気魅な顔の親魚が、産まれたばかりの子供を、食べた。なんの躊躇いもなく、今、自分の尻から放りだした、産まれたばかりの自分の子供を、我が子を、次々に、食べていた。

それを見た俺は、袖をまくる事もせずに、そのまま、両手を水槽の中に突っ込んだ。

水草を拭き抜き、装飾の流木も岩も取り払った。水槽に繋がれていた全部のコンセントを引き抜いた。力一杯、滅茶苦茶に水槽の水を掻き雑ぜた。悲しいのか怖いのか、それが怒りなのか恐怖なのか、何も分からないまま、ただ泣きながら水槽の水を掻き雑ぜた。

キッチンに走った。抽斗と云う抽斗全部を開けた。そこに有った、塩と醤油と油を水槽にぶち込んだ。有りっ丈の全部をぶち込んだ。やがて、黒ずんだ水の中の小さな世界が死滅した。振り向くと、そこには、何時の間にかあの人が居て、あの人は、あの、親魚と、同じ顔で、俺を見ていた。

その頃の俺は、もう、あの人の肩を越す位に背が伸びていた。だから俺は、あの人を相手に、初めて拳を振り上げた。俺を踏み躙り続けて来たあの人の足が、殊の外非力だった事を、俺はその時、知った。自分が誰なのか、ここが何処なのかも、あの閉塞された空間の、外の世界の全部をも知らなかったけれど、あの人の足が非力で、自分の力の方が強い事が判れば、俺にはそれで充分だった。

もうあの人の足は俺を踏み躙れない。その事実は、希望だった。その希望は一気に、俺の肩に堆積していた重い暗闇を払拭した。全身の筋肉が、暴力的に動き、力を発揮した。やがてあの人は動かなくり、俺は寝室に行き、本棚に有る全ての書物を、俺に課せられて来た課題の全てを、気が狂ったように破り捨てた。

室内を物色すれば、幾ばくかのお金もあったろう。でも、そんなもの、その時はどうでもよかった。俺は、ひとつの壊滅した匣(はこ)に在った小さな世界と、それが置かれていた、もうひとつの、それよりも、少し大きな箱の中の世界に横たわる、あの人に背を向けた。

総ての光を遮断していた分厚いカーテンを引き千切って、俺は生まれて初めて、窓の鍵を開いた。鬱蒼と茂る夜の黒い木の枝の隙間から、遠くに黄色い点滅信号が見えた。

室内の灯りを全部消すと、明滅する黄色い光だけが、今、見えている世界の全てを照らしていた。俺は、最後に一度だけ、後ろを振り向いた。横たわるあの人は相変わらず動かなかったけれど、あの人の横たわる床には、その明滅する光に照らされた、黄色いりんごがひとつ、ふたつ、転がっているのが見えた。

「少し、休もうか」

「黄色だった」

「何が」

「りんごは、黄色くて、黒ずんでいて、怖い、怖い、腐っていて、それから、それから」

「分った、よく分かったから、もう話さなくていい、大丈夫よ、少し休みなさい」

惠のそれに、肩で息をしていた遼太が言葉を止め、素直に目を閉じる。

「大丈夫だから」

 惠はそう言うと、遼太から自分の中に何も伝わらない事を確認しながら、遼太の頭をもう一度撫でた。

「いい、私は今から入院の手続きをして来るから、そのまま、休んでなさい」

 惠は遼太の瞼を指でなぞると、そのまま席を立ち病室を出た。

この子達は・・・いったい・・・

病室から階段を階下に降り、受付に目を向けると、そこに、牧田と美月が居た。それを見た惠はくすりと笑う。あながち似合わなくもない、が、あの厳ついゴリラの様な牧田が小さな子供の手を引いているのが、惠にはなんだか滑稽に思えたのだ。

惠は美月に気を取られている牧田の背後に気配を消して近づき、掌を耳元に近づけ、パンッ、と大きく打ち鳴らした。すると、あの厳ついゴリラの様な牧田の顔が、今度は、鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔になる。

「のわっ、てっ、てめー、惠、な、何しやがるっ」

「あっはっはっ、可笑しい、秀さんが鳩になってるよ美月ちゃん」

そう言いながら大笑いする惠を見て、美月も笑う。その笑顔は、そのまま雑誌のグラビアにも使えそうな程に愛らしかった。しかし、やはり、美月のそれは、顔面の筋肉だけのもので、心からの笑顔ではない。

虐待が始まる平均的な年齢は二歳前後という統計的な結果が出ている。二歳前後と云うと、子どもの「環境を探索しようとする能動的行為」が活発になる年齢だ。この年齢に虐待が始まる事で、子どもは好奇心に満ちた能動性が、保護者からの虐待を引き起こすと感じるようになる。能動的な動きは危険を招くものであり、自分の安全を保証するために能動性を抑えるのが一番であることを経験から子供は学習してしまうのだ。すると、自分をとりまく環境に無理やりに適応した結果、子供は能動性や好奇心を抑え込んでしまう。そんな子供に共通するのが「凍てついた眼差し」である。

周囲に警戒心を抱き、内面を決して見せようとしない、凍り付いた、冷たい瞳。惠は、美月のその凍てついた眼差しが、医師としてよりも、人間として、痛い程、理解できるのである。何時の間にか唇を噛み締める惠の肩を牧田が軽く撫でる。

「おい、こいつら、面倒を見る事に決めたんなら、早く入院の手続きを済ませて来いよ、美月は俺が見ているから」

牧田は不器用に口角を上げ、撫でた惠の肩を、今度は軽く後ろから押してやった。そうすると、痛い程に唇を噛み締めていた惠の顔が、それは何かの確信を得た人の様な笑みに変わる。

「ありがとう秀さん、行ってくるね」

惠がそう言うと、牧田はいきなり美月を抱き上げた。美月の顔は笑顔である。恰も抱き上げられた事を喜んでいる子供の様に見える。しかし、本当は、困惑している、否、或は、嫌悪なのかも知れない。

人に優しくされる事が無かったであろう彼女にとって、それは耐え難い違和感なはずである。しかし、この牧田と云う男は、そんな事には全くお構いなく美月を可愛がろうとする。医師の立場から考えると、それは余り褒められたことではないのだが、牧田にそんな事を言ったところでどう仕様もない。逆に、こんな男だからこそ、もしかしたら、美月の心を開くことが出来るのかもしれないと惠はその時、そう思った。

「じゃ行って来るね」

笑顔でそう言った惠を見て、牧田は惠が大きな決心をしたことを感じた。牧田に背を向けて受付のカウンターを目指す惠の足取りに、もう迷いは無い。惠を見送った牧田は、美月を抱いたまま正面玄関から外に出た。そして、昨日の深夜に訪れたコンビニに足を運び、店の中で美月を床に降ろす。

「さぁ着いた、で、美月、どのお菓子にするんだ」

「いいよ、美月、お菓子、好きじゃないもん」

「んなわけねーだろ、子供はお菓子が好きって相場が決まってんだよ。秀さんなんかな、子供の頃なんて、お菓子しか食べなかったんだぞ」

「うそだー」

「うそだよ」

「秀さんのうそつき」

「美月のうそつき」

「美月、うそなんかついてないもん」

「うそついた、本当はすげーお菓子が好きなくせに」

「好きじゃないもん」

「おい、美月、ひとつだけ俺の言う事を聞け、これは命令だ。いいか、俺は、美月の事が好きだ、それだけは信じろ」

「好きなの、なんで」

「そうだな、なんか、小っちゃくて弱っちいから」

「小っちゃくて弱っちいから好きなの」

「あぁ、大人はな、そんな小っちゃくて弱っちい子供を守りたいと思うもんなんだよ」

「そんなの、うそだ!」

「・・・そうだな、これは少し、うそだな。じゃ、俺は、そうだな、美月のじーちゃんになってやるよ」

「うそだ!」

「これは、本当だ、俺は美月が好きだから、今日から俺は美月のじーちゃんだ、あのな、じーちゃんってのは、お菓子を買い与えて、孫を甘やかすって相場が決まってんだよ。だから、意地張ってないで、早く好きなお菓子選べ」

美月の鳶色の瞳が、凝呼(じっ)っと牧田の顔を見ていた。その少ない人生に於けるありったけの抽斗を開け、美月は今、何度も何度も、牧草を繰り返し反芻する時の牛の様に、牧田が話した言葉を考え、この目の前に居る大男を、信じて良いのかどうかを考えているのだろう。そうまでしなければ人を信用できない。そんな美月の生い立ちを思うと、牧田は言いようの無い悲しみを覚える。

時間にして数十秒、否、数分だったかもしれない。凝呼っと牧田を見ていた美月の視線が、不意にコンビニの外を流れる車の群れに移る。その視線に釣られて牧田が目を外に移した瞬間、開いたままだったコンビニの出入り口から、突然、美月が迫りくる車の群れ目掛けて飛び出した。

「なっ!おい、待てっ、美月っ、危ないっ!」

牧田は慌てて腰を上げ美月の後を追う、しかし、美月のその小さな足はまるで、獲物から逃れようとする小鹿の様に速かった。

コンビニの前は病院前のコーナーを抜けた車が、丁度加速するポイントだ。数台の乗用車に煽られた二トントラックが、アクセル全開で加速しながら近づいて来る。そこに美月は目を閉じたまま、飛び込んだ。

ギャギャギャーーーー

トラックを先頭に、数台の車が踏む急ブレーキの音と、ゴムの焼ける匂いと白煙が辺りの空気を支配する。

ドンッ

鈍い衝突音が、辺り全部の喧騒を静寂に導くと、美月を抱きしめた牧田が、歩道の外の雑草の上に転がっていた。トラックの後方にいた乗用車は、自分達は関係ないとばかりにそそくさとアクセルを踏み我先にと逃げて行く。しかし、牧田を跳ねたトラックの運転手は、突然の出来事に顔を青ざめて外に飛び出して来た。

「だ、大丈夫ですかっ」

「お、俺は、も、もう駄目だ、お、お前、この子を、この子を、頼む」

体を小刻みの震わせながら、美月を抱きしめていた牧田が腕の力を緩める。すると、その腕の中に居た美月が突然大声で泣き出した。

「いやぁぁぁ、ごめんなさぁぁぁい!秀さぁぁぁぁん!」

「み、美月、も、もう、こんな事、しちゃ駄目だぞ」

「はいぃぃ、ごめんなさぁぁぁい、わぁぁぁん、もうしませぇぇぇぇん!秀さん!死んじゃだめぇぇぇ」

牧田はそこで断末魔を掴んだ。牧田を跳ねた男が腰を抜かした様にその場に座り込み、震える手で携帯電話を胸ポケットから取り出そうとする。 

「お、おい、待て、お前、俺の、俺の最後の頼みを聞いてくれ」

「へ、あ、あの、と、兎に角、救急車を」

「救急車は、もう、もういい、俺は、手遅れだ」

「そ、そんな」

「お、俺は、こ、この子が、好きなお菓子を、食べて、喜んでいる姿が見たかった、あそこのコンビニで、この子に、好きなお菓子を、選ばせてきて、く、くれ」

「いや、あの、そ、そんな、場合じゃ、と、兎に角、警察に、警察に」

それを聞いた美月は突然立ち上がり、今度は行き交う車に細心の注意を払いながらコンビニへと走った。美月の姿が視界から消えると、牧田はむくりと起き上がり、震える男の耳たぶをひっ掴む。

「おい、てめぇー、痛かったじゃねーか」

「す、すいません、あ、あの、大丈夫、なんですか」

「そんな事はどうでもいい、おい、お前も運転手なら、人身事故になればおまんま食い上げだろ、勘弁してほしかったら、直ぐにあの子の後を追って、レジ済ませて来い」

「えぇぇ!本当にそれで勘弁して貰えるんすか!」

「いいから、早く行ってこい、おい、美月に悟られんじいゃねーぞ、今いいとこなんだからよ」

「わ、わかりましたぁ・・・」

男は狐につままれた様な顔で美月の後を追い、コンビニへと駈け込んで行った。それを見送ると、牧田は再び元の場所に寝そべり、右の人差し指をぶすりと鼻の穴に突っ込んだ。

「痛ってぇぇ、ちょっとだけ鼻血が出たじゃねーかよ、ったく、いい根性してやがるぜ、あのお嬢様」

暫くすると、慌てふためいた小さな足が、ザクザクと下草を踏み分ける音が聞こえて来る。一瞬、牧田の口角があがり、しかし、次の瞬間、もう牧田は断末魔の中に在った。

「秀さん、グスン、見て、美月、いっぱい買って来たよ」

美月は、両手いっぱいに抱えたコンビニ袋を牧田に見せると、その中からプリンを取り出し、封を開ける。

「そ、そうか、美月、よ、よかったな」

「うん、ほら、美味しいよ、美月、本当はね、プリンが大好きなの」

「美月、秀さん、これで、もう、思い残すことは無い、さ、さよう、なら・・・がくん」

 牧田が息を引き取った。(迫真の演技)

「ひ、ひでさぁぁぁん、いやぁぁぁーーー」

「うっそぴよぉぉぉおぉぉーん、ぎゃっはっはぁぁー、やーい、騙されたー」

最初、この上もなく点になっていた美月の瞳孔が、溢れんばかりの怒りと共に黒目の全部を覆いつくす。

「ひ、秀さんの、ばかぁぁぁぁ!」

「うるせー、美月が悪いんだろ」

「ほんとうに、ほんとうに、心配したのにぃぃぃ!」

美月は手に持ったプリンを思い切り牧田に投げつける。

「うぎゃ」

 卵に含まれるたんぱく質が熱によって固まる(熱変性)時に、一緒にある水分(牛乳)を抱き込んで固まっただけの頼りない半液体が牧田の顔面に炸裂する。

「やりやがったな、てめー、もうゆるさねー」

 牧田はしかし、美月ではなく、この騒動に巻き込まれた憐れなトラックドライバーを睨み据える。

「おい」

「ひっ、は、はい、な、何でしょう」

牧田はジーンズの後ろポケットから萎びた二つ折りの財布を引き抜き、ドライバーに投げつける。

「これで、あのコンビニの、半液体状の乳製品、全部買い占めて来い、お前も混じれ、戦争だぁぁぁぁ」

「ひ、ひぇぇぇ、わかりましたぁぁぁ」

            5

惠が手続きを終え病室に戻ると、遼太はまだ微睡(まどろみ)の中に居た。遼太が横たわるベッドの脇にある据付の棚に、音を立てぬようにそっと受付でもらった書類を置くと、惠はそのままの姿勢で遼太を見下ろす。安らかとは言えなかった。時折、遼太の眉の間には、思い出した様に軽い皺が刻まれ、その吐き出される寝息には、幾つもの苦悶が含まれている様に惠には思えた。

「あ、あぁ、惠さん、美月は」

惠は付き添い用のパイプ椅子に再び腰を降ろすと、遼太の頭を撫でてやる。

「大丈夫、秀さんが見ていてくれてるよ」

「そっか、そうだった。惠さん、ちゃんと話せなくて、ごめんなさい」

まだ微睡から覚め切らぬ遼太の目は薄い。しかし、遼太がこうして話してくれるようになったことに惠は少し安心を覚えていた。

「ねぇ、惠さん」

「ん、なに」

「あの人、秀さんって、いったい、どんな人、なんですか」

「あはは、何よ、藪から棒にそんな事」

「俺には、父親が居ないから、もし、自分に親父が居たら、どんなだろうとか、考えていたら、なんか、秀さんの事が頭に浮かんで」

惠はひとつ、大きな深呼吸をする。消毒液のツンとした刺激臭が肺の中に溜まると、惠は、しかしその不快ではない匂いを含んだ空気をゆっくりと吐き出した。

「私もね、父親を知らないの」

私は、名前のとおり、惠まれていた。私の家は、川辺に、何時、誰が建てたものかも分からない様なバラックで、そこは、いわゆる、差別用語で言うところの、朝鮮部落と呼ばれる場所だった。

父は私の記憶に最初から存在しないし、母は、私が物心ついた頃には、もう、アルコールが切れると手の震える人だった。

市の福祉課の人たちが、よくバラックに来ていた。福祉課の人たちは私を施設に引き取ろうとしたけど、母は頑なにそれを拒んだ。それは決して、私を大切に思っていると云うのではなく、単に、私が居なくなれば、生活保護を打ち切られる可能性があったからに過ぎない。

「それの、どこが惠まれているの」

話を聞いていた遼太は、怪訝な顔で惠を見る。

「確かに、環境は人間の成長を左右する大きなファクターではあるけれど、環境だけが人の全てを決めるわけじゃない」

生まれ出た環境はお世辞にも整ったと言えるものじゃなかった。けれど、私はそれを悲観する事がなかった。それは、私が、人並み、ではなかったからだ。

身長は常に列の最後尾だったし、飛んでも跳ねても走っても、私の前にいる子供は誰もいなかった。知能指数が180以上あった私には、取り立てて勉強する努力も必要なかった。授業中にノートを開いたことが無い。集中すれば一度聞いただけで先生の話を全部記憶することが出来た。だから、何時も成績は学年トップだった。

資本主義社会では、飛びぬけた能力にはお金が集まる。それが良い事なのか悪い事なのかは別として、私は、様々な援助を得て、東大医学部、医学科に合格し、六年後には医師免許を取得していた。

臨床研修病院で二年間の研修を修了し、私は〇〇病院の精神科の医局に入局した。彼と出逢ったのは、丁度その頃だった。

「彼って、それは秀さんの事」

「ううん、違う、私の、元夫、片山宗利よ」

片山家は、晩年の徳川家康の侍医を務めた家柄で、江戸時代から代々、医者と云う由緒正しい家柄だった。でも、それは後々に分かった事で、私と宗利が出会ったのは、極々、他愛もない出来事が切っ掛けだった。

「他愛もないって」

「そう、他愛もない事よ、偶々、通勤の電車が、一緒だった、ただ、それだけのこと」

私は彼の顔も名前も、勿論、職業も知らなかった。ある日、何時もの満員電車の車内で、高校生の女の子が痴漢に遭っていた。その女の子の周りには四人の、それぞれ年齢もタイプも違う男性が取り囲んでいて、彼女の表情から、彼女が何某かの被害に遭っているだろう事は確認出来た。けれど、それが、どの男の犯行によるものなのかを、私は判断できずにいた。私が迷っていると、私の背後から声がした。

「右の車窓から二番目の男だよ、血圧が異常に乱れている」

私はその声に促され、車窓から二番目に見える男の顔を見た。確かに平静を装ってはいたけれど、よく観察すると呼吸も早く、何処か息が乱れている。私は人の垣根の隙間から手を伸ばし、その男の手を掴んだ。そして、声がした後方に振り返った。彼は透き通るような笑顔を私に向けていた。{後ろを振り向かず、明日に向かって走れ}そんな言葉を美徳だと感じる情緒がこの国にはある。私も昔は、とても素敵な言葉だと思っていた。でも、今の私は、それを正しいとは思えない。

古いアメリカの映画のワンシーンに{現実を知りたければ、後ろを振り向くことだ}と云うのがあった。私は、それが正しい事なのだと思う。

「どうして、それが、正しい事だと思うようになったの」

「現実はね、何時だって、過去と云うものの呪縛からは、逃れられないからよ」

私が敢えて精神科医を選んだのは、単に血を見るのが嫌いだった事と、それは核心を得る程のものではないにしろ、私は、人の心を診る事が出来た。私が自分の現実を悲観せずに生きて来ることが出来たのは、人並みではない、その力の所為だったのかも知れない。それが、誰かの為に役立つのなら、私の過去に有る、他の全ての不都合を、全部昇華してくれると信じていた。でも、それは違った。私は、彼に出逢った瞬間から、後ろを振り向かねばならなくなった。

「振り向いたの」

「ええ」

「そこには、何が、あった」

「差別」

「差別って」

「この国にはね、昔、インドのカーストに勝るとも劣らない、純然たる人種差別があった。そして、インドに、未だそのカースト制度が蔓延(はびこ)るように、この国にも、その差別は脈々と生きているの」

突然、病室の扉のドアノブがゆっくりと回る気配がする。その小さな異変は、酷く張り詰めていた空気の中に居た二人には直ぐに伝わった。

「おーい、そろそろいいか」

その声と共に扉に隙間が出来る。二人が振り返ると、しかし、その隙間から最初に入り込んで来たのは、芳醇にして、少し胸が悪くなるほどの甘い匂いだった。

「寝ちまったんだよ」

恐ろしく甘い匂いと共に病室に入って来た牧田の全身からは、なにやら茶褐色の滴がポタリ、ポタリと滴り落ちている。

「ちょっ、なに、秀さん、それ、どうしたのよ」

「あぁ、悪りぃ、戦争ごっこしてたら、こうなった」

牧田の大きな胸に抱かれすやすやと眠る美月の全身からも、その茶褐色の滴は、そこが病院の、清潔なリノリウムの床であるのにも関わらず、ポタリポタリとお構いなく滴り落ちている。

「せ、戦争ごっこって、どんな戦争ごっこしたら、そんな洋菓子の化け物みたいな格好になるのよ」

「あはは、そこのな、コンビニのな、プリンやらヨーグルトやらを全部買い占めて戦争ごっこしてたんだ」

惠は遼太に向け「次の機会に」そんな含みのある微笑みをひとつすると、抽斗からタオルを取り出し席を立った。

「ちょっと、もう、こんなタオルだけじゃどう仕様もないわよ、お風呂入らなきゃ」

「だよなぁ、美月め、ったく」

「美月めじゃないわよ、秀さんよ、もう、全く、彼方だけは、本当に私の期待を裏切るわね。まぁ、良い意味でだけど」

惠はそう言いながら、すやすやと眠る美月の顔に目を落とした。副交感神経が働いている。なんという安らかな寝顔だろう。まるで胎盤に護られて眠る胎児の様に、何の不安もない安らかな顔を美月はしている。ほんの小一時間。たったそれだけの時間で、この男は、長年に渡り蓄積されたはずの美月の人間不信を払拭して、こんな安らかな寝顔の美月を、当たり前の様に抱きかかえている。惠は改めて牧田の計り知れない人間性の豊かさに可笑しさを覚える。

「なんだよ、なに笑ってんだよ」

「ふふふ、なんでもないわよ。遼太君、見ての通り、これが秀さんよ。まぁそう云う事だから、今日は帰るわね。美月ちゃんの事は、心配しなくていい。彼方は、先ず、自分の身体を治しなさい・・・って、秀さん」

「なんだよ」

「この人・・・誰?」

惠が指をさすその先には、あの憐れなトラック運転手が、牧田や美月と同じ様に茶褐色の雫を滴らせながら、困り果てた様に立っていた。

「兄貴」

「だ、誰が兄貴だ、な、何だ、お前、まだ居たのかよ」

「今、会社に電話、掛けたんすよ」

「うっ、で、なんて」

「クビだって」

「マジか・・・」

「どうしましょう」

「そ、それは、残念だったな」

「はい、残念です、で、どうしましょう」

「え、どうってお前、そんな、俺に言われてもよ」

「突き放すんすか」

「いや、その、なんだ、そうじゃねーけどよ」

「俺、今、冷静に考えてみたんすよ、事の顛末ってやつを」

「顛末って、む、難しい言葉を知ってるんだね、君は」

「兄貴」

「げっ、はい」

「そもそも、俺、悪くないですよね」

「え、まぁ、うん、そう、かなぁ」

「そうかなぁじゃねーし、俺、実は被害者だし!」

「え、そうなの?」

「兄貴ぃぃぃっ!」

「わ、分かったよ、巻き込んで悪かったよ、何とかするよ」

「ほ、本当っすか、兄貴」

「あぁ、いいよ、明日から俺んとこ来いよ、丁度、厄介事抱え込んだとこだし、まとめて面倒見てやらぁ、この秀さんがよ」

「兄貴ぃぃぃ」

「な、なんだよ、つか、その兄貴やめろよ、秀さんでいいよ」

「兄貴」

「なんだよ」

「ちょー、かっこええー」

「やめろ、お前、そんな、気持ち悪ぃ」

「兄貴、明日からよろしくお願いします」

「お、おう」

「兄貴、明日、何時に出勤っすか」

「んー、じゃ、六時にここで」

「了解っす、じゃ、失礼します」

憐れなトラック運転手は、ハッピーこのうえない笑顔で、病院を後にした。

「だから秀さんって」

「なんだよもう」

「あれ、誰なのよって」

「あ・・・名前、聞いてねーや・・・」


          サイコパス

寂れたテナントビルが月の夜空を歪に切り刻んでいる。街路にはホームレスのビニールハウスが立ち並び、交差する道の辻には、幾つもの怪しげな屋台が並んでいた。

「これこれ、なんだかんだってさ、やっぱ、これが一番美味いのよね」

そんな屋台のひとつで、サザエの貝殻に大貝の身をぶつ切りにしたものを入れ、日本酒と塩だけで味付けをした焙り焼きをつまみに飲んでいる男の周りを、遼太を襲ったあのチンピラ共が取り囲んでいた。

「で、なんなのお前ら、なんで、手ぶらな訳よぉ」

 男はチンピラ共の方を振り向き、怪訝な声でそう言う。

「叔父貴、すいません、スーパーマンみたいな野郎が邪魔に入ったもんで」

男は、右手に痛々しい包帯を巻いた男のそれを聞いて、思い切り口の中の物を噴き出した。

「ぶぅはぁっ、へっ、ひゃっはっはっはっ、スーパーマンみたいな野郎って、なにそれ、なんなのその言い訳ぇ」

「いや、でも、本当に、化け物みたいに強いやつで」

「あのさ、お前、馬鹿じゃね、俺らはさ、そんなときの為に道具持ってんじゃん、なんで弾いてやんないんだよぉ」

「叔父貴、いや、そんな簡単に道具使ったら、すぐにパクられ・・・」

     パンッ!

叔父貴と呼ばれる男は、手に怪我を負った男が言い終わるのを待たずに、懐から取り出した22口径のリボルバーを空に向けて発砲した。辺りには銃声が響き、硝煙の匂いが立ち込める。

「おいおいおい、なに言ってんのお前、道具はさ、使う為にあるんでしょ、違うの、びびって引き金引けねーならヤクザなんかやめちゃえよ」

叔父貴と呼ばれる男は躊躇うことなく、その22口径のレンコンに装填されている残りの5発を全弾打ち尽くした。呆然とするチンピラ共が後退りをする。やがて遠くでパトカーのサイレンが聞こえて来ると、それが合図の様に、手に包帯を巻いた男以外、チンピラ共の全員がその場から一目散に逃げだした。

「ったく、いいよもう、俺が行ってやるよ、おい、その店、連れてけ。つか、お前、誰だっけ」

「お、俺は、あの、えーと」

「ひゃっはっはっ、ウケる、いいよそれ、お前、今日からそれに名前変えろよ」

「へっ、な、なんの、ことっすか」

「阿野だよ、阿、野、お前、今日から阿野瑛人な、ひゃっはっは、ウケるぅぅ、つか、オヤジ、これ、はい」

叔父貴と呼ばれる男は、手に持ったリボルバーを屋台の店主に手渡す。店主をそれを顔色一つ変えずに受け取り、焙り物の網の横にあるおでん鍋の中に沈めた。

「安楽さん、これ、捌いても」

「いいよ、安物だけどさ、おじさんにあげるよ」

屋台の店主はそれを聞くと、柔らかくにんまりとした笑顔で安楽に頭を下げる。

「ありがとうございます安楽さん、また、御贔屓に」

金城組に突如として現れたこの安楽栄治と云う男を、この界隈でもはや知らぬ者は居なかった。徹頭徹尾の武闘派であり、潰された組は数知れず、この男に逆らうヤクザ者は、もう誰も居なくなっていた。

「よし、阿野瑛人君、案内したまえよ」

 安楽は腰かけていた椅子から立ち上がる。足が長い所為か、座っているとそうでもないが、こうして立ち上がると安楽はかなりの大男だった。肩幅は広いが、胸板はそれほど厚くない。そして、その広い両肩から伸びる二本の腕は異常に長く、安楽の影だけを見ると、まるでその体つきは蟷螂の様だった。

「あの、叔父貴、タクシー呼んできましょうか」

「いいよ、丁度いいこんころもちだからさ、歩こうよ、瑛人君」

 安楽にそう促され、阿野瑛人と名付けられたこの男は、控えめに安楽の少し後ろを歩いた。

「叔父貴、少し質問をしてもいいですか」

「なんだよぉ、お前、質問ってなんだよもう、なんか畏まってそんなのさ、照れんじゃんよぅ」」

「あの、叔父貴は、なんで極道になったんですか」

「瑛人君」

「は、はい」

「違うよ、お前さ、なんか勘違いしてるいよ、俺はぁ、ご、く、ど、う、なんかじゃないからね」

「え、だって、叔父貴は、金城組の若頭補佐じゃないですか、喧嘩上等、抗争無敗の安楽栄治に憧れて、俺、金城組に入ったんすよ」

「え、なんて、聞こえなっかった、もっかい言ってみて」

「いや、だから、俺は、喧嘩上等、抗争無敗の安楽栄治に憧れて、極道になったんすよ」

「もう、なんだよぉ、お前、言葉責め得意か、こんにゃろめ、憧れとか、そんな、お前、照れるじゃんよ。んー、そっか、じゃ、いいもん見せてやるよ、着いて来い」

「えっ、あの遼太って奴と、美月ってガキ、探さなくてもいいんすか」

「今日はもういいよ、つか、お前ら、あのガキどもが何故、追われてるか、知ってるの」

「いや、し、知らないっす、ただ、命令されたから」

「お前さ、何故あのガキどもが追われてるか、知りたくね」

「し、知りたいっす、金城組全体で追うって、それ、尋常じゃないっすよね。俺、ずっと疑問だったんすよ」

 大きな国道沿いに立ち並ぶ、全国チェーンの飲食店の看板は、それは、何処かの国の国境線の様に、安樂達が住む裏町から、ここが現実世界である事を誇示する様に光っていた。

「じゃ、教えてやるよ、瑛人君、タクシーを拾おうか」

安樂は歩道から少し車道に体を出し、前方から走って来るタクシーに向けて手を挙げる。タクシーは安樂の挙げた手に応じてオレンジ色のウィンカーを左に出し、次いでハザードを焚きながら二人の前に停車した。タクシーは二人を乗せ、そのまま西に進路を執る。阿野が窓を少し開くと、都会特有の雑踏に含まれるあの匂いは何時しか消えていて、新緑の草の匂いが鼻先を掠めた。

「叔父貴、何処に行くんですか」

「ぷぷぷ、秘密基地。どう、楽しみだろぉ?」

やがて車窓から内に入る風に汐の香りが混じり込んでくる。阿野は窓を全開にして、ヘッドライトが切り裂く闇の向こう側に目を凝らした。

「ここは、いったい・・・」

 そこは、海と言うには狭く、川と言うには広く、遠くに望む大海原から少し陸に切り込んだ場所にある、汽水域の川が流れる村だった。安楽は無言でタクシーを降り、阿野が精算を済ませるのを振り向きもせず、車外で大きくひとつ伸びをしている。運転手は妙な緊張を顔のあちこちに浮かせたまま、卑屈な態度で料金を受け取ると、そそくさと車を走らせ元来た暗闇の中に消えて行った。

「なんすかね、強盗でもされると思ったんすかね」

「タクシーの運転手はよく知ってるんだ。ここがどれだけ危険な場所かってのをね、ここは、村中だから」

「村中って、そう云う地名なんすか」

「あはは、瑛人君、お前、結構世間知らずだな。ここは、村。いわゆる、部落さ」

「部落って、あの、昔、身分の低い人が押し込められてたっていう」

「なんだ、知ってんじゃん。そうだよ。同じ人間なのに、ここに住む奴らは、こんな時代になっても、まだ、人間として扱われていない。ここに住んでいる連中は人間以下だと、未だに世間は差別をする」

「差別、ですか」

「ここはね、俺の、故郷なんだよ」

「ここが、叔父貴の・・・」

安樂が右手の人差し指と中指を立てる。阿野は心得た様に煙草をポケットから取り出すと安楽にそれを差し出し、その筒先にライターで火を点けた。

「差別ってのはね、色々な原因がある。でもね、概ね、風習や宗教が理由だ。インドのカーストはよく差別の槍玉に挙げられる事が多い。しかし、これも宗教上の理由からでね、日本の部落差別とは根本が違う」

「根本・・・ですか・・・」

「あぁ、そうだ。差別には肌の色の違い、生活風習の違い。インドのカーストは同民族間差別であっても、宗教って目に見える理由がある。だが、日本の部落差別は違う。同じ民族で同じ風習であるにも拘らず、宗教的理由もなしに、ただ、人を、人でなしと呼び、差別をした。これは、差別の歴史の中でも世界に類を見ないものだ」

「どうして、そんな差別が始まったんですか」

「人は、他の誰かより、自分の方が優れている、優位に立っていると思いたい生き物だ。特に日本人は、狭い島国根性ってのがあってね、心のさもしい人間が多かった。狭い島国の中、更に狭い地域の中で、俺は庄屋だから偉い、地主だから偉い、そうやって、一部の人間が自分の虚栄心を満足させる為に、同じ国の人間であるにも拘らず、同じ風習や歴史、宗教を持つ同民族であるにも拘わらず、差別する対象を、無理やりに造り出した」

 安樂はそこまで言うと、右手の指に挟んだ煙草を川に投げ捨て、阿野に背を向けたまま歩き始めた。阿野はその安樂の背中を黙って追う。

「日本には飛鳥時代、仏教が伝来した。それ以来の日本人は四足、つまり豚や牛を食べなくなった。仏教は日本人にこう教えた。四足には魂が有る、殺生をしてはいけない。死体には触れるな、死の穢れが移る。馬鹿な話だ。動物の命にまで日本人は差別をする。鳥類、爬虫類、魚類、昆虫は殺していいなんて誰が線引きしたってんだ」

 安樂は振り向かず、前を向いたまま独り言の様に話を続け、阿野は安樂のそれに耳を澄ませる。

「だがな、生き物はいつか死体になる。死体は絶えることなく毎日生産される。その死体の処理は誰がする、それは、誰かがやらねばならん仕事だ。畜産もそうだ。仏教の影響で日本人は殺生を嫌う。ところが、日本は今では世界でも有数の食肉消費大国だ。食肉の生産には大量の穀物が必要になる。もし、その穀物を、貧困の国の人々に配ったとしたら、ふふふ、どれだけ多くの人の命が救えるか」

 安樂と阿野の足元は、やがて舗装路から離れ、小さな砂利が靴の下で感じられる砂利道になって行った。

「殺生はいけない事だと子供に教えながら、食肉を貪り喰う日本人。自分たちが食う食肉を生産する為、貧しい人々に供給されるべき穀物を、金にものを言わせ買い占める日本人。食肉を生産供給する人々、豚や牛の皮を剥いで革製品を生産供給する人々、人間の死、死体の処理に関わる人々を、卑しい身分、エタや、ヒニンだと呼び、蔑み差別する日本人」

安樂が突然立ち止まった。そこは川の土手だった。安樂はその土手を下りて川辺へと向かった。阿野もそれに習い安樂の後を追って川辺に下りる。安樂は暫く無言で土手を見上げながら川上へと歩いた。

「ここだ、見ろ、小さな横穴があるだろう」

安樂の言葉に、阿野は安樂が指さす方に目を向ける。するとそこには、人が二人ほど入れるだろう、浅い横穴が幾つも点在していた。

「瑛人君、お前さ、火垂るの墓って、映画、見た事ある」

阿野は安樂に言われ、あの映画のワンシーンを思い出した。確かに、似ている。あの少女が、亡くなった川辺に、ここはとてもよく似た風景だった。

「あの話は、よく出来ていた。あれは事実だ。お前が見ているその横穴で、エタだ、ヒニンだと差別を受け、行き場を失った在日朝鮮人や村の人々が戦時中、この横穴で、あんな風に死んでいったんだ、ぷぷぷ、酷いと思わないか、日本人ってよ」

「叔父貴、叔父貴は、俺が在日だと、知って?」

「お前が半殺しにした遼太君、彼奴も、お前と同じ朝鮮だ。まぁ、あいつの場合、ハーフだがな」

「それは、本当なんすか」

「あぁ、彼奴は、俺が拾った。丁度、今、瑛人君をここに連れて来た様に、彼奴もここに連れ来て、今、話した事と同じ事を話した。彼奴に俺は、鞭を握れと言った。彼奴は俺が渡した鞭を手に取り、俺達の仲間になった」

「む、鞭って、いったい何の話ですか叔父貴」

安樂はコートの内側からそれを取り出した。安樂が手にしているのは一般に認知度が高いしなる紐、或は細い棒状の鞭ではなく、唐以降の中国などで用いられた、金属の警棒状の捕具、所謂、硬(こう)鞭(べん)と呼ばれる物だった。しなりはまったくない。鉄の場合は鉄鞭と言い、日本の十手も同種。柄となる部分以外には、威力を増すために竹のような節などが付けられている。中国の刑罰で鞭打ちとなった場合、ひも状のムチではなく、棒状のムチを指す。成人男性が全力で殴りつければ、刑の途中で死亡する者もいるほどの威力がある。

「これが、鞭だ」

 安樂は、阿野の眼前でゆらり、ゆらりとその鞭を揺らして見せた。

「瑛人君、生き物を、殺した事はあるか」

「生き物って、あの、えーと」

「何でもいいよ、虫でも、魚でもよ、何でもいい、殺したことはあるか」

「は、はい、あります」

「初めて生き物を殺した時、お前、どう思った」

「ど、どうって、言われても・・・」

会話をしている最中も、安樂の手に握られた鞭は、ずっと、一定のリズムで揺れている。

「俺は、他の意思ではなく、自分の意思で、自分の悪意で、初めて生き物を殺した夜、一晩中、泣いたんだ」

「えっ、お、叔父貴が、な、泣いた・・・」

「怪(お)訝(か)しいか」

「あの、えーと、叔父貴が、泣くなんて、なんか、その、イメージ出来なくて」

「ぷぷぷ、だよねぇ、自分でも話してて恥ずかちぃ。でもよ、不思議と、悲しいとは思わなかったんだよ。別に、なんともねぇのによ、涙だけが、止まらねーんだ」

「そ、それは、俺には、よく分からないです」

「でも、それっきりだ」

「何が、それっきりなんすか」

「俺にもよくわからねぇよ、よくわからねぇけどよ、その夜以来、俺は、変わった。俺はそれ以来、どんな事をしても、何も思わなくなった。だからよぉ、何でも出来るようになったんだ。どんな悪い事でも、躊躇うことなく出来るようになった。ところがだ。たったひとつだけ、消えない感情が有る」

「消えない、感情、ですか」

「なぁ、瑛人くん、在日朝鮮人の二世、三世たちは、この日本に産まれて、日本人と同じ飯を食って、同じ糞をして、同じ様に、真面目な暮らしをしているのに、ずっと、チョンコ、チョンコって、蔑まれ、差別され、どんなにひたむきに頑張っても、ろくな仕事にも就けず、何か問題があれば直ぐに解雇され、最後は刑務所に行くか、死体になるしかなかった。そうだろ、違うか。俺の中にたったひとつだけある感情、それは、この国に住む、閉鎖的な人間どもに対する憎しみだ」

安樂は揺らしていた鞭を突然、握り緊め、、グッと阿野の目の前に差し出した。阿野はそれを躊躇うことなく受け取った、否、最早、阿野はその時、躊躇う事が出来なかったのかもしれない。

「向こうを見ろ、あそこに森が見えるだろう」

「はい」

阿野に鞭を手渡した安樂は、再びコートを開き、今度は自分の煙草を一本取り出して阿野に手渡した。

「俺の姿が見えなくなったら、そいつを一本吸って、あの森に来い、いい物を見せてやるよ」

安樂は阿野にそう告げると、意味ありげな嗤(わら)いを口元に含んだまま、阿野に背を向け鬱蒼とする夜の森へと歩いて行く。

ジャリジャリと、革靴の底が小石を踏む音が遠ざかって行き、つむじ風が安樂のコートをひらりと揺らす。すると安樂の羽織るコートは、瞬く間に黒い景色の一部となり、黒の中に溶けて行った。

初夏であるというのに、川辺の風は肌を刺すように冷たい。阿野は安樂が消えるのを見送ると、その冷たい風にひとつ、身震いをした。

安樂が言葉にしてくれた質(もの)は、阿野が今まで言葉にできなかった憤りの全てだったのかもしれない。己が、何故こうも破壊的に、反社会的になるのか。何に悲しみ、何に憤り、何に怒っているのか。阿野は安樂の話を聞いたこの瞬間、それを理解した。それは一種の悟りだったのかもしれない。阿野は目の前をもう一度見た。そこは、暗い川辺の黒い道、そして、その先に聳えるのは、何者をも黒く包み込む黒い森。

「恐い」

それを見た阿野は感覚的にそう思う。視覚を奪われる闇を恐いと思うのは生き物の本能だ。しかし、阿野は、その本能が示す恐怖の向こう側に、限りない床しさと魅力、そして期待を見ていた。安樂に手渡された煙草を、阿野は、それに火を付けぬまま匂いを嗅いでみる。厭な臭いがした。バナナに含まれるアルカロイドの様な厭な、そして、危険な匂い。阿野はそれでもよいと思う。どうせこの先、この日本に居る以上、自分には陽の光の下を歩く未来は訪れないだろう。

安樂の煙草を口に咥える。ライターの火をゆっくりと筒先に近づけた。煙を吸い込むことへの微かな躊躇いと恐怖感を喉元でグッと奥に呑み込む。すると、そんな自分が滑稽に思えて、阿野はライターの炎を一気にその筒先から吸い込んだ。

時間にして数秒だった。何時もは死んでいる筈の、何者にも命を与えることの無い月の光が、まるで太陽の日差しの様に明るく見えた。阿野が知っている世界の色、色彩の全てがそこに在る気がした。そして、その鮮やかな色彩が自分に別れを告げに来たことも、阿野は同時に理解した。光の中に在る、この世界のあらゆる彩に、阿野は小さくひとつ手を振り、それに別れを告げた。後に残ったのは、純然たる黒の濃淡だけの世界。阿野は安樂から渡された煙草を吸い終えると、それを足で踏み躙り前を向き、安樂が消えて行った、一切の色を失った、その黒い森を目指し、歩き始めた。

阿野の見ている世界は、もう以前の世界ではなく、点描画の様な、黒と白だけの世界だった。麻薬ではない。これまで様々な麻薬に身を落とした事のある阿野には、それが分った。精神の興奮も鎮静も感じられない。ただ、その感じられないと云う事に違和感を覚えるのである。どうでもいい。あらゆる物事が、どうでもいいと感じるのだ。

なるほど、これは諜報機関などが暗黙の元に用いる、自白剤、或は、洗脳剤のようなものだろう。阿野は黒い森の中を歩いた。速くもなく、遅くもない歩調で、空っぽのまま歩いた。どれくらい歩いたろう。安樂が歌を口遊(くちずさ)みながらひとり、道端で阿野を待っていた。

♪探し物はなんですかー ♪見つけ難いものですかー 

しかし、もうそれは安樂ではなく、阿野の目には巨大な蟷螂に見える。

♪カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからないのにー

安樂の目は、蟷螂の点黒目の様に、何処から見ても自分を無感情に睨み据えて来る。

♪まだまだ探すきですかー ♪それより僕と踊りませんかー

蟷螂は阿野に背を向け、さらに深い森へと歩き始め、阿野は導かれるようにそれを追う。

♪夢の中へ、夢の中へ、行ってみたいと思いませんかー♪うふっふー♪うふっふー うふっふー♪さーあー

暫く歩くと、そこには古びた牛舎があった。しかし、牛は一頭もいない。静寂の中、その牛舎の異臭だけが、そこが牛舎であったことを告げている様だった。

「着いたよ、瑛人君、ここが、その夢の世界だ」

蟷螂は朽ちかけた牛舎の一角に積まれている藁を、その細く長い手で払いのける。するとそこには、幾重にも頑丈に施錠を施された赤錆びた鉄の扉が現れた。

「いらっしゃい、瑛人君、歓迎するよ」

厳重な施錠はすぐさま取り払われた。数段の階段を降りると、更にまた、今度は鉄格子があり、その先には何人もの子供が監禁されている。阿野は驚かない、否、あの煙草の所為で驚けなかった。

「瑛人君、質問です、これは、良いことですか、悪い事ですか」

阿野は蟷螂の質問を考えてみる。こんな暗い森の朽ちかけた牛舎の地下に、子供が何人も監禁されている現実。それは、誰がどう考えてみても、悪い事だ。阿野は少時(しばらく)の空白の後に蟷螂に対して答えた。

「わ、悪い事です」

「そうですか、では、次の質問ですよぉ、瑛人君が見ているこの光景は、悪い事ですか、良い事ですか」

 阿野は再び蟷螂が言う同じ質問を考えてみる。そしてまた少時の空白の後、蟷螂の質問に答える。

「悪い事です」

「そうですか、では、また次の質問をするよ、瑛人君、子供がここに沢山います、これは正しい事ですか、間違った事ですか」

「間違った、事です」

「瑛人君、よく、考えてみよう、これは、悪い事ですか」

同じ内容の質問が繰り返される。何度も、何時間も、同じ質問内容だけが質問される。自分の答えを否定されることは無い、しかし質問に対する答えが正解なら、質問者は同じ質問を繰り返さない筈だ。質問の答えが間違っているから、質問者は同じ質問を繰り返す。自分の答えは間違っている。正解はなんだ。阿野は思考の停止した頭で考える。

「良い事です」

「おい、加藤、伊藤、大西、出て来い、瑛人君がちゃんと答えられたよ」

いつの間にか阿野の周りを三人の男が取り囲んでいた。

「ようこそ、神の園へ」

加藤がそう言うと、三人は続けざまに阿野の肩を軽く叩き、歓迎の意を表した。

「瑛人君、知ってるかい、日本では届けが出されるだけで、年間、8万人の行方不明者が居る。捜索願が出されない者を含めると、延べ10万人の人間が消えているが、発見されるのはその内の半分にも満たない。そして、全体の多くを占めるのが十代以下の若者であり、子供達だ」

蟷螂が再び阿野に煙草を勧める。阿野はそれを口に咥え筒先に火を点けた。アルカロイド系特有の苦みが煙に混じり阿野の鼻腔を刺激する。そして、その刺激は更に阿野の思考を奪って行く。

「日本の警察は、犯罪検挙率90%以上、日本は世界でも有数の治安大国だ。しかし、それには裏がある。日本の警察は、解決できる事件しか、事件にしない。解決出来そうもない事件は、民事不介入を盾に、はなから事件として取り扱わない。つまり、勝てる戦しかしない、と云う事だ」

阿野の指をすり抜けるように煙草が床に落ちる。意識はある。しかし、阿野の思考は完全に停止した。阿野はゆっくりと後ろを振り向いた。狼が居た。大きな眼球に、小さな点のような黒目をつけた狼が三匹、阿野の背後で涎を垂らしていた。

「お前なんか産まなければ良かった。お前なんかいなければいいのに。そんな風に扱われる子供は、世の中には吐いて捨てる程に居る。こいつらはそんな子供だ。要するに、親だけではなく、社会から見捨てられた人間だ。捨てられているなら、拾って何が悪い、そうだろ」

母子家庭の多くは、家賃が優遇される公営住宅に移り住むことが多い。しかし、家賃や、保険料の控除、幾ばくかの母子手当の給付を受けても、父親が居る世帯に比べれば、その生活レベルは遠く及ばない。母親の多くはその現実に打ちひしがれる。現実から逃避しようと、仕事に逃げる者、ギャンブルに逃げる者、男に走る者、酒や麻薬に溺れる者。数多の理由の中、ネグレクト(育児放棄)は始まる。

「ぷぷぷ、公営住宅なんかに行くとよ、ランドセルを背負ったまま夜遅くまでウロウロしている子供が何人もいる。そいつらは大概、母親からのネグレクトに遭っている。俺達は何も無差別に攫うわけじゃない」

一般の感覚で、子供が行方不明になれば、親も警察も必死に捜索するものだと考える。しかし、ネグレクトに遭っている子供にそれは当てはまらない。心を病み、未来に希望を見出せなくなった、そんなシングルマザーたちは、子供が消えた事に、「もうこのまま、忘れてしまえば、育児に悩まされずに済むかもしれない」そんな悪魔の囁きに耳を傾ける者も居るだろう。捜索願は出す、しかし、必死になって探そうとはしない。警察も事件性が有る(解決できる問題)と判断しなければ、事件にする以前に、探そうともしない。

行方不明になった子供は、やがて失踪宣告を受けるなどして、社会から忘れ去られていく。そして、もし、その誘拐犯が、日本国民でなかったら。この国の直ぐ近くにある、あの独裁国家の人間が行った事件なら、憲法9条に縛られ、他国に軍事力を行使できないこの国は、誘拐された人を取り返しに行く事はおろか、逆に誘拐された事を隠蔽し、闇に葬ってしまう様な国なのだ。

「日本人の子供は、大金になるんだよ、ぷぷぷ」

阿野の頭の中にはもう何もない。洗脳により、安樂が頷く事だけが答えの正解だと云うロジックが完成している。

「何故、日本人の子供は金になるのか、ぷぷぷ、それは、日本が、これも世界でトップクラスの衛生大国だからだ。日本人は清潔だ。アジアの貧困国の子供の様に病気を持っていない。考えてみろ、臓器を移植したら、変な病気に感染したってなったら、何の為に高い金を支払って臓器を買ったのか分からないだろ」

拉致・・・ 臓器売買・・・

アルカロイドで抑えられた阿野の思考は、それでも、この言葉にだけは嫌悪を感じる。罪もない小さな子供を殺し、その臓器を売買する。それはもう正に悪魔の所業である。

「憲法9条で縛られたこの張りぼての国、日本は、浚い放題、拉致放題のドル箱だ。どんなに拉致して、国民を海外に売り捌いても、国家は何も出来ない。いや、何も出来ないどころか、国家間の摩擦を恐れ、自国民を平気で見殺しにする」

阿野の瞼や眉がぴくぴくと蟷螂のその言葉に反応する。しかし蟷螂はその反応を見逃すことなく、すかさず阿野に質問をする。

「瑛人君、君は日本人じゃないよね。日本人の子供を売買する、それは悪い事ですか」

阿野の思考は洗脳に従がい、蟷螂の求める答えを模索する、しかし、阿野の中の善意が悲鳴を上げる、それは間違いだと、それはいけない事だと必死に泣き叫ぶ。

「そ、それは、わ、悪い、事です」

「瑛人君、もう一度聞くよ、在日を苛め抜いて来た日本人になら、何をしてもいいんじゃないのかい。君も差別に苦しんで来たんだろ。ぷぷぷ、よく考えるんだ、日本人の臓器を売買するのは、悪い事ではないですよねぇぇぇ」

「うごぉあぁぁぁ」

 阿野の口角に白い泡が吹き出してくる、奥歯は砕けそうなまでに食い縛られ、無感情であるはずの阿野の顔が苦悶に歪んで行く。

「瑛人君、俺達は、差別される側から、差別する側に行くんだ。誰がどんなに叫んでも、この世から差別はなくならない。それなら、差別する側に行くしかないだろう。違うか」

「おぉぉじきぃぃ、み、見損ないましたぁぁ、極道はぁぁ。極道はぁぁ、在日はぁぁ、そうじゃないぃぃ」

「おいおいおい、馬鹿かお前、だから最初に言ったじゃん、俺は極道じゃないよって」

「うがぁぁぁ」

阿野がいきなり立ち上がり、鉄格子に向かい走り出した。

「やめろぉぉぉ、こんな事、こんな事、人間のやることじゃねぇぇぇぇ」

 阿野は必死に力ずくで鉄格子を外そうとする、しかし、頑強な鉄格子はびくともしなかった。

「あららー、洗脳失敗かぁ、意外に義侠心が強い。なんだよもぅ、けっこう気に入ってたのになぁ」

 安樂は振り向くと、加藤に向かいそうため息を漏らす。

「珍しいですね、あいつ、そんなに見どころがあったんですか」

「そうじゃねーよ、阿野瑛人って、名前がさ、ぷぷぷ、ウケるぅ、いいだろ」

「叔父貴、どうするんです、あいつ」

「そうだなぁ、阿野瑛人はお気に入りだったけど、殺すか」

「叔父貴、提案なんですが」

加藤の横から前に出て口を挟んだのは大西だった。

「何だ、大西」

「はい、檻の中にいるガキどもの中から、阿野瑛人を選んじゃどうです、こいつらの中に、差別される側から、差別する側に行きたい奴が居るかもしれません」

大西の提案を聞いた途端、安樂の目がきらきらと輝いた。

「大西ぃぃ、お前いい事言うなぁ、そいつはいいや、あはは、うん、いいよ、大西、やろう、やろう」

安樂は立ち上がると、阿野の後ろに立った。阿野は鉄格子から手を離し、安樂に向かい身構える。

「瑛人君、君の憧れの、安楽栄治が相手だ、さぁ、掛かって来いよ」

阿野は大きく目を見開き、拳に力を籠める、しかし、身体に力が漲(みなぎ)らない。アルカロイドの効き目がピークを迎え、阿野はなす術もなくその場に膝を付いた。

「なんだよ、だらしないなぁ、もういいよ、おい、大西、阿野を檻にぶち込め」

「はい」

阿野は大西に髪の毛を引き摺られ、子供たちが監禁されている檻の中に抛り(ほうり)こまれた。安樂は、檻の前に転がっている、阿野が手放した鞭を格子の隙間から檻の中に投げ込む。

「お前ら、誰でもいい、そいつを殺せ、そいつを殺した奴が、今日から阿野瑛人だ」

しかし、そんな安樂の呼びかけに応える子供は誰一人居なかった。子供たちは真っ青な唇に恐怖を浮かべたまま、ただ、その状況に震えているばかりだ。

「なんんだよぉ、折角のチャンスだよ。ほら、言うだろ、成功は逃げない、逃げているのは自分だってさ。誰か殺れよ、後一分な」

そう言った安樂が腕のロレックスに目を落としたその時だった。一人の少年が檻の一番隅から立ち上がり、前に向かい歩いて来た。

「おれが、やる」

「えーっ、お前が殺るのぉ」

少年は鞭を拾い上げ、無表情でそのしなりの無い鉄の塊を見詰めている。

「ははは、おもしれぇ、いいぜ、殺れよ、殺れば、お前を今日から、俺たちの仲間にしてやる」

加藤、伊藤、大西が、興味深げに檻の前に足を向ける。少年は白目を剥いて泡を吹いている阿野を見下ろした。なんの躊躇いもない一撃が、阿野の頭上から阿野の頭蓋骨を目掛けて振り下ろされる。悲鳴は上がらない、ただ、スイカが叩き潰されるような鈍い音だけが檻の中に響いただけで、後は暫くの静寂がその場を包んだ。

ポタリ、ポタリ。ポタリ。

鉄鞭から滴る血が檻の床を赤く染めて行く。

「いいよ、いいね、おい、拍手だ、拍手」

四人の拍手が少年のその行為を賞賛する。

「まぁ、お前、売り物にならねえし、そもそも、まだ生きてたのかよって感じだし、よしよし、合格、合格。お前、今日から阿野瑛人になれ」

阿野瑛人と命名された少年は、血塗れになった、もう阿野瑛人ではない男の頭にとどめの一撃を打ち下ろそうと、もう一度、鞭を振り被る。

「おい、待て、そいつにとどめを刺す前に聞いておきたい事がある」

安樂はそう言うと、自ら檻の中へと足を運び、そして血塗れの阿野だった男の髪の毛を掴み上げ、耳元で囁いた。

「おい、お前らをボコって、遼太と美月を匿っている奴ら名前を言え。言えば、金城組で同じ釜の飯を食った好で、このまま解放してやる、運が良ければ命は助かるだろう。もし、言わなければぷぷぷ、分るよね」

もう虫の息しかしていないこの男が助かる可能性は殆ど無い。しかし、男にはまだアルカロイドと、安樂の洗脳が効いていた。

「ま、まきた、ひぃ・・でお・・・と、かん・・・ばやし・・・め、めぐみ・・・」

男がその末期の声を発した途端、安樂の背中には、まるで凍り付くような殺気がほとばしる。何時もは、いったい何をどう考えているのか全く分からない、この安樂と云う男が、誰が見ても分るほどの殺気と憤慨をその背中から放ったのだ。

「なぁんだとぉぉてめぇぇー、何故それをもっと早く言わねぇんだぁぁぁあぁぁ」

蟷螂の様に長い安樂の腕が天井に最も近い場所まで振り上げられたかと思うと、それは左右の目にもたまらぬほどの連打となって、男の顔面に降り注いだ。一瞬で男の顔はもうその原型を留めない。既に、それは顔ではなく、肉の塊でしかなくなっていた。

「はぁ、はぁ、はぁ・・・」

グチャグチャに潰れた男の顔面を凝視していた安樂が、漸く顔を上げる。

「ひゃっはっはっ、どうだかねぇ、縁ってのは、不思議なもんだねぇ。惠、お前は、俺から逃げられねぇようになっているみたいだぜ」

独り言のようにそう呟いていた安樂が、三人の名前を呼んだ。

「おい、加藤、伊藤、大西、お前らは牧田秀夫と、神林惠の消息を調べろ」

「ま、牧田秀夫って、親父さんにはどう説明するんです、あいつらには手を出すなと言われていますが」

「頃合いだ、俺は親父の所に行ってくる」

「分りました」

「そうだ、阿野、お前がとっても知りたい事、教えてやるよ。お母さんの事、知りたいだろ?教えてやるから、あいつらの居場所が分かったら、お前がその死体、始末して来い」

           2

「気が付いたら」

「うん、気が付いたら、そうなっていた」

「それは、二人とも、気が付く前の事が分らないと云う事なの」

「うん」

遼太と美月が惠のそれに頷く。

「どこで、彼方達は、気が付いたの」

「雨が降っていたんだ。寒くて、寒くて、俺と美月は歩道橋の下で、抱き合うように蹲っていた」

話の途中、惠のiPhoneが数秒間鳴り沈黙した。画面を確認した惠は立ち上がり、遼太の話を虚空に抱えたまま、狭い玄関へと足を運ぶ。金属的な、施錠を開錠する音が室内に響いた後、おちゃらけた声が美月を呼んだ。

「たっだいまぁー、みーつきちゃん、今日はフロマージュのプリンだよぉー」

「あっ、秀さんっ、おかえりー」

 先に玄関い出ていた惠を押し退ける様に、バタバタと大きな足音をさせて近づいて来た美月が牧田の腰に纏わりつく。

「なんなの、あなた達、不純異性交遊しているカップルみたいじゃない」

 惠がその光景に呆れた顔でものを言う。

「おい、惠」

「な、なによ」

「今時、不純異性交遊はないだろ、歳が暴露(ばれ)ちまうぞ」

 牧田の言葉に、惠が無言のボディーブローで応える。

「ゲフッ、おい、少しは手加減しろ、これでも人間なんだぞ、馬鹿野郎」

 確かに牧田は人間である。だから、牧田の腹に弾力はある。しかし、それは大きな衝撃を吸収するウレタンの緩衝材の様に、恐ろしいくらいの強度を持っていた。

「もう、おねぇちゃん、秀さん叩いちゃダメー」

「おい、美月」

「なーに」

「おねえちゃんじゃねーし、惠ばーちゃんだって教えただ・・・」

牧田が言い終わるより早く、流星群が巻き起こり、惠のギャラクティカマグナムが牧田の強靭な腹筋に炸裂した。

「うごぁぁぁ、暴力はんたぁぁぁい」

「なによ、ギャラクティカファントムも喰らいたい訳」

「やめろ、惠、そのパンチを放つと、また年齢が暴露るぞ」

「なんだとぉぉ、ギャラクティカファントムゥゥゥ」

※ギャラクティカマグナム、ギャラクティカファントムとは、リングにかけろに登場する剣崎順の必殺パンチ。相手をリング上からふっとばすどころか会場の外までふっ飛ばしてしまう。しかも、パンチを放った瞬間に隕石などが背景に出て来る。マグナムの強力バージョン、ファントムに至っては、背景が隕石から、惑星に変化する驚きのパンチである。

「なにやってんすかっ、腹減ったんすけどっ!」

遼太の大声で、今まさに放たれようとしていたギャラクティカファントムが阻止され、惠の背景に映し出されていた惑星群が掻き消される。

「チッ」

「チッじゃねーわ、暴力反対ぃぃ」

「大丈夫、秀さん」

「おろろぉぉーん、痛いよぉ、痛いよぉ」←(ハクション大魔王風に)

「どこが痛いの」

「ここだよ、ここが痛いよ、美月ちゃん」←(ドラえもん風に)

「じゃ、ナデナデしてあげるね」

「うん、ありがとう、美月ちゃん」←(のび太風に)

「ナデナデ」

「あはは、美月、お前の手、ちっこいなぁ、どれ、見せてみろ」

牧田はそう言うと腰を屈めて美月の目線の高さに顔を降ろした。

「ほら、これが秀さんの手だ」

「わぁ、おっきいー」

「あのな、美月、手の大きい方が、手の小さい方を守ってあげるんだ。分るか」

「手の大きい方が、手の小さい方を、守るの?」

「そうだ、お前もいつか大きくなって、手も大きくなったら、お前より小さな手をしている奴らを守ってやれ」

牧田はそう言いながら美月の小さな手を自分の厳つい大きな手で包み込んだ。美月は一瞬、つぶらな瞳をきょとんとさせた後、にっこりと笑って牧田に頷いた。

「よし、じゃ、プリン食べようぜ」

「わーい、プリンだぁ!プリンだぁー」

食卓に惠の手料理と牧田が買って来た、斬新なデザインの硝子のグラスに満たされた、如何にも高級そうなプリンが並んだ。

「で、そこの二人、なんでお箸じゃなく、スプーンなわけ。プリンはご飯食べてからでしょ!」

「チッ」

「チッじゃないぃぃっ」

「チッ」

「こらっ、美月ちゃん、秀さんの真似しなくていいのっ」

ベロを出してスプーンを置き、箸に持ち替える二人を見て、遼太が少し複雑な笑みをする。

「あっ、美月、見てみろ、パパがやきもち焼いてるぞ」

それを見つけた牧田が、悪戯な面持ちで美月を見ながら遼太を指さす。

「あ、パパが笑ってる、どうしたの、パパ」

「え、なんでもないよ」

「うそこけ、お前、俺が美月とラブラブだから、やきもち焼いてんだろ」

「ち、ちげーよ、そんなんじゃねーよ」

「ねぇねぇ、秀さん、ラブラブって、なーに」

「なんだ、美月、ラブラブも知らねーのか、ラブラブってのはな、こういう事だぁぁぁ」

牧田はお道化た声でそう言うと、握っていた箸を抛り出して、美月に抱きついた。

「こちょこちょこちょぉぉぉぉ」

「きゃははは、やめてー、秀さん」

「どうだ、分かったか美月、これがラブラブだぁぁぁ」

ひとしきり美月の大きな笑い声が部屋を包んだ後、思い出した様に牧田が言いだした。

「あっ、そうだ、おい、惠、遼太、借家を借りたからな、みんなで、引っ越しするぞ」

牧田のその発言に、二人が驚きの声をあげる。。

「ひ、秀さん、引っ越しって、どうする積りなの」

「どうするってよ、惠、お前はどうする積りなんだ、どう考えたって、三人で暮らすのに、ここは狭いだろう」

「そ、そうだけど・・・」

「まぁ、いい、つかよ、膨れ上がった金城組の、ここはもうシマ内になっている」

「・・・」

「金城組って事は、つまり、あのせこい枝の三次団体をぶっ潰したところで、問題は解決しない」

「・・・そうね」

牧田と惠が話していると、突然、遼太が箸を置いて二人に向かい頭を下げた。

「すいません、俺達がここに押し掛けたばかりに、こんな迷惑、かけちまって」

遼太のその姿を目の前にした牧田と惠が顔を合わせる。しかし、二人の口元には笑みがこぼれていた。それは、何処か、親が子供の成長を目にした時の様なさわやかな笑顔で、二人は顔を見合わせた後、遼太の方を向いた。

「ははは、何だよ、遼太、柄にもねぇ、そんな愁傷な言い様、似合わねぇぞ」

「で、でも・・・」

「いいのよ、遼太君。これも何かの縁、運命だと、私は思う」

「運命・・・」

「あぁ、金城組は、惠にとっても、俺にとっても、特別なものなんだ。それは、俺達が、何時かは乗り越えなきゃならねぇ、壁みたいなもんだ」

「何時かちゃんと話すけど、そうね、あなた達が最初、金城組を巻き込んで来た時、振り向く事を躊躇っていた私は、少し悩んだ。このまま流されて、過去を振り向かないまま、罪を背負ったままで、苦しみ抜いて、静かに死んで行こうと考えていたから。でも、あなた達が、私が、あの壁を乗り越える契機(きっかけ)を持って私の前に現れた。もしあなた達が現れなければ、私は、何時までも秀さんに頼って、それを決心出来ずに今の、この怠惰な日常を続けていたと思う。あなた達は、天使よ。私にチャンスと、試練を持って現れた天使。矢張り、人は罪から逃げてはいけないのだと、あなた達を通して、神様が私に教えてくれた。だから、あなた達は、何も心配しなくていいの」

 それを聞いた遼太の切れ長の目が、温かいもので濡れて行く。

「遼太、父親って、何だと思うよ」

「俺には、父親が居ないから、分かんないよ」

「だよな、俺もわかんねぇ」

牧田のそれに、俯きかげんだった遼太の顔が上がる。

「秀さんも、父親が居ないの」

「否、俺は両親共に居ない、俺は、赤ちゃんポストに入れられた人間だからな」

「え・・・」

「思ったよ、なんで赤ちゃんポストなのかってな。俺を捨てるなら、いっそうのこと、どうして川にでも捨ててくれねーんだろってな。中途半端に、どうして、情けを掛けるんだってな」

「秀・・・さん・・・」

「見ての通り、俺はガキの頃からこんなんだ。身体も態度もでかい、顔もな、お世辞にも可愛らしい子供じゃなかったから、誰も引き取ってくれなかった。ははは、条件ばっちりだろ。勿論、グレにグレたさ。そしてグレまくって、行きついた先が、金城の親父の懐だった」

「え、じゃあ、金城組って、秀さん、もしかして」

「あぁ、俺は、元、金城組の、若頭だ」

牧田の育った施設の近くには朝鮮学校があった。ある日、中学生だった牧田は、朝鮮学校の生徒十数人に絡まれた。

事の発端はつまらない事である。ガンを飛ばした。そんなつまらない事で牧田と十数人の朝鮮学校の生徒が近くの河原で大喧嘩を始めた。そこに偶然通り掛ったのが、金城組、組長、金城修三だった。

喧嘩は牧田の圧勝である。十数人と言っても、その殆どが烏合の衆。大人数を相手に喧嘩をする時は、一瞬で一番強い奴を倒す。牧田はそんなコツを肌で知っていた。朝鮮学校の生徒たちが桟を乱し、河原から逃げ出すのに十分とは掛からなかった。

顛末を見終えた金城は彼らが去った後、河原に寝そべり、鼻をほじっている牧田の傍にやって来て、牧田の顔を覗き込んだ。

「おい、悪かったな」

「はぁ、なんでおっさんが謝るんだよ」

「俺は、なんだ、彼奴らの保護者みたいなもんだからよ」

「なんだ、おっさんも朝鮮人か」

「あぁ、そうだ、お前も、朝鮮人は、嫌いか」

「嫌いとか好きとかそんなんじゃねぇ、面倒くせーんだよあいつら、俺の顔見たらすぐに喧嘩売って来やがる、保護者ならちゃんと躾けとけ、ったくよ」

金城の容姿は誰が見てもそれと分かる程に極道らしい。更に、金城の来ているシャツからは、唐獅子ボタンの端正な刺青が、ちらちらと袖の隙間から見え隠れしている。普通、金城の様な男が傍に来れば、何某かの警戒感を人は露わにするものだ。しかし、牧田には微塵もそんな様子は無かった。

「ははは、すまんな、あいつらはな、朝鮮人だが、産まれた時から日本で育ってる。

あいつらは、自分らが朝鮮人だなんてちっとも思っちゃいない。なのに、人は朝鮮人と云うだけで、あいつらを差別する。日本で育ったあいつらにいまさら朝鮮人としての思想教育をしても、本国の朝鮮人の様にはなれねぇ。つまりあいつらは、朝鮮人にもなれない、日本人にもなれない、ユダヤの民の様に、自分の国が無い、自分の故郷が無い、可哀想な連中なんだよ。」

「おっさんよ、俺は、国なんざぁどうでもいいと思うぜ、どっかの禿げたジジイがテレビの宣伝で言ってたけどよ地球は一家、人類はみな兄妹、それでいいんじゃねぇか。この二本の足が踏んでいる大地は、世界中の、どこに行って、どこで踏んでも、大地に変わりはねぇ、そうだろ」

「お前、名前は」

「牧田秀夫だ」

「この辺りに住んでるのか」

「あぁ、まぁ、住んでるってもよ、施設暮らしだけどよ」

「親、いねぇのか」

「あぁ、産まれた時から施設暮らしだよ」

「お前、俺が怖くないのか」

「なんでおっさんがこえーんだよ、俺が怖いのはゴキブリとムカデと、それからえーっと、ダンゴムシと、げじげじと、カマドウマと、コオロギと」

「ぎゃっはっはっ、お前、それ、便所に居る虫ばっかじゃねーか」

「笑うなよ、本当にこえーんだからよ」

牧田のその屈託のない物の言いように金城は妙に惹かれていく自分を感じる。

「お前、あれだけの人数の悪を相手に喧嘩できるのに、虫がこえーのか」

「それとこれとは別なんだよ。うへぇ、おっさんが変な事訊くから今、げじげじが歩いてるの想像しちまってじゃねーかよ、さぶいぼが出るぜ、ったくよ」

「お前、おもしれーやつだな、おい、腹減ってねぇか、飯でも食いに行くか」

「おっさんのおごりでか」

「あぁ、好きなもん食わしてやるぜ、お前、気に入ったからよ」


          3

 牧田は煙草を取り出すと、惠に灰皿を要求する。

「俺はそのまま、施設には帰らなかった」

「えっ、そんな事が許されるの」

「許されねぇよ、でもそれは書類上だけの事でな、実際、施設の子供が行方不明になったところで、親が居る訳でもねぇ。警察も、誰も、ちゃんと探したりはしねぇんだよ」

「じゃ、その金城組の組長が、秀さんの親代わりってこと」

「そうだ、金城の親父は、本当にいい極道だ。在日や、俺みたいな居場所のない人間の為に必死で居場所を作ってくれた。極道ってもんが形骸化して行く中、あの親父は最後の極道だったかもしれねぇ。凌ぎが下手な極道だったけどよぉ、それでも、自分が抱える所帯を支える為に、必死で働いてくれていた」

「最後って、今でもヤクザなんて、どこにでも居るじゃないか」

「馬鹿野郎、極道と腐れヤクザは違うんだよ。今のヤクザ者の中に、極道なんて居ねぇ、今のヤクザは商社なんかと変わりねぇ。金になるなら何でもやる外道ばっかりだ」

 惠が灰皿を無言で牧田の前に置くと、牧田は遼太の目を見たまま煙草の筒先に火を点け、その煙草を遼太に差し出した。

「遼太、お前は美月のなんだ」

遼太は牧田から受け取った煙草を一度深く吸い込み、その煙を吐き出しなが牧田の目を見る。

「父親、だと、自分では思ってる」

「お前、父親をなめんじゃねーぞ、お前のどこが父親だ、言ってみろ」

「そ、それは」

「いいか遼太、俺も父親を知らねぇから大きな事は言えねぇ、けどよ、俺は金城の親父を見て思った、父親ってのはよ、とにかく、所帯、守る為に働くもんだ。お前、明後日から仕事しろ、俺んとこでな」

そこで惠が話に口を挟む。

「ちょっと待って秀さん、秀さんのトラックって小さい一トンだから、二人も必要ないって何時も言ってたじゃない」

「買ったよ、三トン半の新車降ろして来た」

「えっ、じゃあ、前のトラックはどうしたの」

「あれはハチに譲った。ハチにはあれで仕事をやらせる」

「ハチって・・・誰よ」

「何言ってんだよ、ハチってこいつ、ん、あれ、ハチは」

「だから、ハチって誰よ」

「おいおいおい、俺、こないだのあいつ、一緒に連れて来ただろうよ」

「いやいや、秀さん、ひとりで来たし」

「うそ、マジで、玄関の外に忘れて来た感じ・・・」

「秀さん、ここ、オートロックだし、インターホンの音、消してるし、玄関閉めたら、私の携帯にワン切り入れなきゃ、誰も玄関、開けないわよ」

「や、やべぇ」

 牧田は慌てて立ち上がった。

「待って、外、カメラで確かめるから」

 惠はインターホンカメラで、室内モニターから外の様子を窺う。

「い・・・いるわよ・・」

「そうか、よかった、で、なにしてる、あいつ」

「しゃがみ込んで、足元らへんに、指で、なんか、書いてる」

「おい、やべーよ、絶対それ、イジケテるやつじゃねーかよ」

「知らないわよ。秀さんが忘れて来るからでしょ!、つか、あの人、あ、あんなに、ハゲてたっけ」

「ばかっ、なんてこと言うんだ、あいつ、滅茶苦茶それ気にしてんだよ、絶対にハゲって言うなよ、薄毛って言え、薄毛って」

「わ、分かった、と、とにかく、迎えに行こう」

牧田の言葉に、全員が腰を上げ、バタバタと玄関に向かう。惠が施錠を開錠するのと同時に牧田が外に出た。

「お、おい、ハチ、な、なにしてんだよ、早く入れよ、ったくよ」

「兄貴・・・」

「な、なんでしょう」

「やっぱ、髪の毛の薄い人間って、存在も薄いんすかね、よく、あるんすよ俺、こういう事」

「そんな、こと、ね、ねーよ、ハチ、お前は、ひ、人より、ち、ちょっとだけ、う、薄いだけだって」

「ねぇねぇ、秀さん」

「な、なんだ、美月」

「ハゲって、なーに」

「みっ美月ちゃーーーーん、な、何を言うんですか、あなたって子はっ」

「兄貴・・・」

「は、はい・・・」

「兄貴、俺、・・・」

「ハチ」

「なんすか、兄貴」

「ド・・・ドンマイ」


              4

牧田の仕事とは、家電量販店が販売した電化製品の配達、及び設置である。とりわけ、エアコンの設置作業は金になる仕事だった。普通に物を配達するだけなら誰にでも出来る、しかし、大型電化製品はほとんどの場合、設置作業が伴う。この設置の手数料、テクニカルコミッションは全額牧田の手に入る仕組みになっていた。栗山(くりやま)蜂(はち)兵衛(べえ)は工業科を出ていて、幸い電気関係の知識に明るく、すぐに家電の設置技術を覚えることが出来た。牧田は自分のトラックをハチに譲ってやり、ハチを独立させ、そして自分は三トン半の新車のトラックを購入し、自分の助手として遼太を育てることにしたのだ。

以前より勢力を増し、膨らんだ金城組の島内から少し離れた場所に賃貸の一軒家を借り、そしてまた、その近くに、手放さざるを得なくなった思い出の店、「惠心」に代わって、惠が過去から出発する為の、新しい店舗の準備をする。

「ここからの生活は全部が俺の名義だ、だから、彼奴らがお前らを探そうとすれば、必ず俺の存在にぶち当たる。それでも尚、あいつらが、お前らから手を引かないなら、俺にも考えがある。でもな、たぶん奴らは手を出しては来ない。金城の親父が生きている間はな」

おろしたばかりの三トン半トラックで、引っ越しは人通りの少ない早朝に行われた。引っ越しと言っても荷物は殆ど無い。着の身着のままの遼太や美月に荷物はなかったし、惠もその殆どの荷物を置いたままの引っ越し、所謂、夜逃げ同然の移動だったからである。

「秀さん、これは」

「それは持って行けよ、荷物は殆ど無いから、まだいくらでも積める。今度こそ、勝負するんだろ、あいつと」

「うん」

「じゃ、持って行かなきゃな」

「そうね、ありがとう、秀さん」

牧田は躊躇いがちに佇んでいた惠の肩を叩いた。そして、惠の横にあるプラスチック製の青い箪笥を軽々と持ち上げ、無言で玄関から外に停めてあるトラックに運んで行った。それが、惠が持って行く最後の荷物だった。

惠は温もりを失い、冷たくなった部屋の全部に目を向ける。忘れてしまいたい、けれど、その忘れてしまいたい記憶も含めての今の自分なのである。もし、その部分の記憶を消してしまえば、もう、自分は既に自分ではなくなってしまう。

{私は、私であるべきだ。どんなに辛くとも、私は、自分を取り戻さねばならない}

惠はそう思う。

{私が、私であるために。それには、あの男を、安楽栄治を禊なければならない。もう逃げない。私は逃げたまま、振り向かず前に進まない。しっかりと振り向いて立ち止まり、過去と向き合い、罪を償う}

「お姉ちゃん、秀さんがね、もう行くぞって言ってるよー」

無邪気な明るい美月の声が、玄関先から聞こえて来る。

{あんなに小さな子が、あんなに頑張って自分と向き合いながら、必死で、今を生きている。負けちゃだめだ、今度こそ、昔の自分を取り戻してやる}

「はーい、直ぐに行く」

惠は深々とひとつ、部屋全体に対して頭を下げた。それは自分の過去に対するものなのか、暫くの間、世話になったこの空間に対するものなのかよく分からない。けれどその時、惠はそうする事しか出来なかった。慣れ親しんだ部屋の空気を胸いっぱいに吸い込んだ後、惠は玄関を出る。急ぎ足で階段を駆け降りると、惠は美月の幼い足に追い着く。美月の小さな背中は、牧田に頼まれたお使いを成し遂げた自慢に溢れていた。

「秀さーん、お姉ちゃん、直ぐに降りて来るよー」

手を振りながら駆け出した美月に牧田が大声で言う。

「美月―、お姉ちゃんじゃない、おばーちゃんだー」

 その途端、惠の背景に流星群が流れる。

「ギャラクティカーーー!、マグナムーー!!」

             5

惠は服用していた睡眠薬を、バルビツール酸系からメラトニン受容体作動薬に変えた。

「気が向いたら起きる」

そんな生活習慣が今日から通用しない事を、惠は理解していたからだ。とは言え、ダラダラとそんな夜型の生活を続けて来たツケは、確実に惠の瞼に重くのしかかる。

「あぁぁ、くっっそぉぉ、眠いぃぃぃ」

前日にアイロンを掛けていたエプロンと真新しいタオルをひっ掴み、惠は洗面台の鑑の前に立つ。思えば女性としての最低限の手入れすら怠ってきた肌は、それでなくとも重い瞼に腹を立てている惠を余計に憂鬱にさせた。

「はぁーーーー」

思わず吐いた溜め息に、惠は思い直したように、鏡に向かい無理に笑ってみる。

「戦う、向き合う、逃げない」

口に出すのは簡単で、それは誰にでも出来る、でも、それを実行する事、ありふれた毎日の中で、変わらない気持ちでそれを積み重ねて行く事が、どれほど困難なことか。

「おいおいおい、初日から弱気になってどうする、がんばれー、私」

「おいおいおい、荒れ果てた肌の女が、腫れ浮腫んだ目で鏡に向かってがんばれーって、それ、ちょー怖えーわ」

忍の様に気配を消して、惠の背後に居たのは牧田だった。

「ち、ちょっとぉぉぉ、何時からそこにいたのよぉぉぉ」

不意を突かれた恥じらいが、途端に怒りとなって惠の背景に流星群を巻き起こす。

「待て、おい、何時からって、俺は朝から仕事なんだよ」

「許さない」

「おい、ま、待て、許さないって、そんな、遅刻するじゃねーか」

「うるっさぁぁい、私より早く起きるなぁぁぁーーー」

炸裂したのがマグナムなのか、ファントムなのかは定かではない。しかし、惠の繰り出したパンチに朝一番から牧田が吹き飛ばされた事は、確かだ。

「惠さん、おはようございます、どうしたんすか」

次に洗面所に現れたのは、仲良く手をつないで起きて来た遼太と美月だった。

「なんでもないのよ、おほほほ、遼太君、美月ちゃん、おはよう」

「おはよー、お姉ちゃん」

「美月、お姉ちゃんじゃないだろ、よく見てみろ」

「あんたはひっこんどれやぁぁぁ」

 今度のパンチは・・・ファントムだった。

流星群が消え、辺りが元の柔らかい朝の景色に変わると、惠はズンズンと大きな足音を踏み荒らしながら台所へと消えて行き、それを見ていた遼太は、吹っ飛ばされた牧田を指さし、腹を抱えて笑っていた。

「てめー、遼太、笑い過ぎだぁぁ、痛てて、おいおいおい、あいつ、何か最近、キャラ変わってねぇか、あいつ、あんなだったっけ、ちきしょーめ」

腹を抱えて大笑いする遼太の手を離し、美月が心配そうに牧田の元に駆けよる。

「秀さん、大丈夫」

「痛いよー、美月ちゃーん」←(ハクション大魔王風)

「ナデナデ」

「わーい、治ったよ、美月ちゃん」←(ドラえもん風)

「秀さんは、治るの早いね」

「あはは、美月がナデナデしてくれたら、秀さんは直ぐに元気になるんだ」

「よかった、ねぇ、秀さん」

「ん、何だい、美月ちゃん」

「秀さんは、美月の事、好き」

「ははは、あぁ、もちろん、大好きだよ」

「じゃあ、パパの事も好き」

 美月のその突然の質問に、それを見ていた遼太が目を丸くして大きく息を飲む。

「ええー、パパは、そうだな、小憎たらしいけど、好きかな」

「憎たらしいなら嫌いじゃないの、どうして好きなの」

「なんだよもう、ええーっと、そうだなぁ、反抗的だし、口は悪いし、怠け者だし、弱いし、でも」

「でも?」

「あぁ、でも、息子だからよ、息子にするって決めたからよ、好きに決まってんじゃん」

それを聴いていた遼太の顔が、まるで赤いペンキを顔に掛けられたコメディアンの様に真っ赤になる。

「パパ、良かったね」

「うがぁぁぁー腹減ったぁぁぁー、惠さぁぁぁーん、めしだ、めしだ、めしだぁぁぁ」

「秀さん、パパが逃げた」

「お前が変な事きくからだろ」

「そうなの」

「そうだよ、ったく」

そう言いながら顔を顰める牧田の頬を美月が小さな手で数回優しく撫でる。

「パパを好きになってくれて、ありがとう、秀さん」

忌む者、嫌う者、呪う者。そんな冷たい目に厭と云うほど出会って来た。親が居ない事、施設で育った過去。身体が大きくて、顔が厳つくて、力が強過ぎて、その力で、初めて拳を振り下ろした日から、自分には誰も近づいて来なくなった。誰もが自分を怖がった。男は勿論、女も、年寄りも、子供も。それは、とても寂しい事だった。

「美月は、秀さんの事、好きか」

「うん、だい、だい、だーいすき」

この真っ直ぐな言葉を聞いていたい。何時までも、何時までも。

「あはは、さぁ、飯食おうぜ、美月」

「はーい」

牧田は立ち上がると美月の小さな右手を握った。それはとても自然な事でありながら、特別な事だった。牧田は頷く。何だかわからないものに頷きながら誓う。

・・・ただ、この小さな手を、ただ真っ直ぐに、守る、そうだよな、母ちゃん・・・

牧田と美月がダイニングに行くと、豪華な朝食が用意されていた。ジャーマンポテト、スクランブルエッグ、ベーコンとほうれん草のソテー・・・

「おい、これなんだ」

「見ての通り、ブレイクファーストよ」

「惠、お前、ここは日本だ、日本の朝ごはんは、味噌汁に納豆だろうがよ」

「残念、遼太君のリクエストなの、我が家の朝食は、パン食に決めたの、ねー遼太君」

「うん、俺、朝は、絶対パンがいい」

「い、嫌だ、パンなんて嫌だー、遼太、てめー、我儘言うなっ、朝からパンなんか、力が出ねーだろうがよ」

「嫌だ、パンがいい、米は腹にもたれて動けなくなる」

「てめー、若いくせに何言ってやがる、おい、美月、お前はどうなんだよ」

「美月は、うーんとね、プリン」

「美月ちゃん、プリンはご飯じゃないでしょ」

「てへっ」

「おい、待て、てめーら、よし、美月、いいか、ご飯か、パンかどっちかだぞ、今から多数決をとる、ご飯がいい人手を挙げて」

しかし、手を挙げたのは牧田だけだった。

「み、美月、お、お前も、パンなのかぁぁぁ」

「やーい、秀さんの負け、俺は、出来れば三食、パンでもいい」

「遼太てめー、覚えてろ、朝からマックスこき使って、ひーひー言わせてやる」

「いっただきまーーす」

食卓の料理あっと言う間に、そのたが全てが平らげられた。

「マジかぁ・・・育ち盛り舐めてたわ、ほんと、よく食べるわね、あなた達」

「だって、お姉ちゃんの料理、美味しんだもん」

「うん、惠さんの料理、最高、ねぇ、秀さん」

「うるへー、俺は、お米が食いたいんだー」

「もう、秀さん、そんなにいじけないで、はい、お昼のお弁当。お昼はちゃんと、お米だから」

惠は真新しい弁当の包みを牧田と遼太に手渡す。

「秀さん、お仕事頑張ってね、遼太君も、しっかり」

「秀さーんがんばれー、パパもがんばれー」

惠の真似をしてそう言う美月に、その場の皆が笑顔になる。

「遼太、行くぞ、んじゃ、行ってくるわ」

「はい、行ってらっしゃい」

遼太を助手席に乗せた牧田は、玄関で手を振る惠と美月を背に、トラックを国道へと走らせた。暫くすると、牧田の携帯にメールが着信する。開いてみると、それは惠からのメールだった。

{秀さん、ごめんね、遼太君、昔、色々あったみたいで、朝はパンにする事にしたの、私も全部聞いたわけじゃない、だから、話せる時が来たら話すから、暫くはこのまま、我慢してね}

牧田は読み終えると、それなり惠のメールを消去する。

「おい、遼太」

「ん、なに」

「これ、持ってろ、携帯ないと不便だろ」

「わっ、秀さん、すげー、最新機種じゃん」

まるで新しいおもちゃを買って貰った子供の様に喜ぶ遼太を見て、牧田は目を細める。

「俺はガラケーだからよ、それ、スマホだからナビも使えるんだろ、仕事に使え」

「ありがとう、秀さん」

「おう」

相変わらずの憎まれ口は直らないが、もう遼太に以前の様な棘はない。牧田にはそれで充分だった。言いたい放題言い合える。いい事も、悪い事も、思う事を言い合えるなら、それで充分だ。

「さーて、着くぞ、覚悟しろよ、とりわけ月曜の朝は宵積みしてねーから、戦争だからよ」

キミドリ電化の配送センターは国道に面していて比較的立地には優れている。しかし、それ故に潤沢な土地を活用することが出来ず、ホームは狭く、沢山のトラックで混雑していた。牧田が搬出ブースにトラックを乗り入れると、三番ホームから誰かがこちらに手を振るのが見える。遼太は目を凝らしてその人影に目を向ける、それは牧田から仕事を貰う事になった栗山蜂兵衛の姿だった。

「兄貴ぃぃ、こっち、空きましたよぉぉ」

遼太を連れての初日と知って、どうやらハチは少し早く出て、積み込みの段取りをしてくれていた様だった。

「おぉー、なかなか気がきくじゃねーかよ、ハチ」

牧田はハチに導かれ、トラックをホームに着け、遼太にトラックから降りるように促す。

「いいか、車が停車したら、俺より先に降りて後ろの扉を開く癖を付けろ」

「へいへい」

相変わらずの態度だが、それでも遼太は牧田の言葉に従がう様になった。

「おはよう、お前、大丈夫か、兄貴に迷惑かけんじゃねーぞ」

「けっ、分ってますよ。ハチさん、兄貴ぶらないでくださいよね」

「ったく、相変わらず生意気だねぇ、おめーはよ」

ハチはそう言いながら、コンビニ袋の包みを遼太に投げてよこした。中には四双の荷物運搬用の手袋が入っている。

「祝いだ、使えよ。この仕事はな、手を怪我したら辛れー事になる。怪我すんじゃねーぞ」

「あ・・・ど、どうも、ハチさん」

「おう」

ハチはそう言うと背中を向け、自分のブースの荷物を積み込みにその場を後にした。

「何だよ、遼太、お前、それ俺の手袋よりいいやつじゃねーかよ」

牧田にそう冷やかされながら、遼太は手袋をひとつ袋から取り出し、梱包を解いて手にはめてみる。

「な、ほら、俺のと比べて見ろ、ゴムの素材が違うだろ、お前のが、ほら、柔らかくて、しかも、滑りにくい」

「あ、本当だ」

「結構いい値するんだぞ、それ、張り込みやがったあいつ、感謝しろよ」

「あ・・・うん・・・」

「ハチの野郎もなんだ、お前が気に入ったみたいだな、良かったな、遼太」

牧田に肩を叩かれた遼太の顔は、しかし、複雑なものだった。皆がこんな風に自分を受け入れてくれる事は嬉しかった。しかし、遼太の胸の裡に流れるのは一抹の不安。

・・・俺は・・・どこから・・・来たんだ・・・

「なんだ、どうした」

一瞬、遠い目をした遼太に、牧田が問いかけた。

「いや、なんでもないよ」

「そうか、おい、そろそろ仕事にかかるぞ」

再び、今度は、パンッと小気味の良い音が鳴るほどに、牧田は遼太の背中を叩いた。その音と背中の軽い痛みに、何かを振り切るように、遼太の目は何時もの不敵さを取り戻した。

             6

牧田が惠の為に借りた新築のテナントは、まだ基礎工事が漸く終わった段階だった。建物が完成して更に店の内装が終わるまでにはまだかなりの時間を要する。しかし、惠にとって、その時間は、美月を診察し、医師としての観点からも、そして、人としての立場からも、美月と向き合う大切な時間に感じられた。

「さてと、野郎どもは仕事に行ったし、私は家事を片付けちゃいますか」

「ねぇねぇ、お姉ちゃん、カジってなぁに」

「ん、あぁ、家事は、掃除とか、洗濯とか、お料理とか、主婦がやるお仕事の事よ」

「主婦ってなぁに」

「そのお家の、お母さんの事、かな」

「お姉ちゃんは、この家の、お母さんになったの」

「ええ、そうよ」

「お母さんって、ママの事」

「そうだよ」

「お姉ちゃん、あのね、あの・・・あのね・・・美月は・・・」

「美月ちゃん、言いたい事があれば何でも言って良いし、言いたくない事は言わなくてもいい。大丈夫、私は、これからは、どんな事があっても、美月ちゃんの家族だから。どんな時も一緒だから。何も心配しないで、何でも言っていいんだよ」

「ホントに」

「ええ、本当よ」

「あのぉ、お姉ちゃん・・・」

「だから、ママって呼びなさい」

「えっ、ママって呼んでもいいの」

「いいに決まってっるでしょ、私は、美月ちゃんの事が、大好きなんだから」

ニッコリ笑う惠のその返事を聞いた途端、美月は大きな声で泣きだした。誰かに縋りたかったに違いない、誰かに甘えたくて、誰かに思い切り我儘を言ってみたかったに違いない。けれど、その時、彼女を取り巻く環境には、誰一人として、彼女を愛する対象として、否、それ以前の問題だ。もう、彼女は、誰にも、人間としてさえ、扱われえては居なかったのだろう。凍てついた眼差し、虚言、そして彼女の身体に刻まれた、数多の古傷は、彼女がどれ程虐げられてきたかを物語って余りある。

惠の裡に切なさがこみあげる、そして、それと同時にやり場のない悲しみと憤りが、移(ヒ)臓腑的(ステリック)なまでに体の芯を突き抜けて、惠のこめかみを揺らした。

「ねぇ、ママ、あのね」

「ん、なんですか、お嬢様」

「ママは美月のこと、すき」

「うん、大好きだよ」

「パパのことは、すき」

「うん、美月ちゃんと同じくらいに大好きだよ」

「あのね、さっき、秀さんも、パパのこと、すきって言ってくれたんだよ」

「あはは、美月ちゃんは、パパが大好きだもんね」

「うん、だい、だい、だいすき。ねぇ、ママ」

「ん」

「パパのこと、好きになってくれて、ありがと」

 惠は笑顔で頷いて美月を抱きしめた。

「うん、さーて、先ずはお洗濯からだよ、美月ちゃんにも手伝ってもらうからね」

「わーい、美月もお洗濯やりたいー」

惠は喜んで駆け回る美月を連れて洗濯機の前に立った。真新しい、最新式の洗濯機の電源を入れる。取扱説明書など読んではいない。しかし、数十秒もあれば十分だった。複雑極まりない人の心を読む惠にとって、こんな機械の取り扱いなど考えるまでもなく読み取れてしまう。

・・・この子の心も、この洗濯機の様に、簡単に診る事が出来れば・・・

限りなく広く白い場所に穿たれた小さな黒い点。惠には、どう喩えて見ても、それは、それしか喩え様の無い質(もの)だった。美月の中に在るその点は、とても小さく、形而上の点の様に、その存在さえ覚束ぬ程に小さな点でしかない。しかし、その黒い小さな点の向こう側には、気も遠くなるほどの何かが隠れている様な気がした。

・・・なんなの・・・美月ちゃん・・・

・・・貴女は・・・何をそこに・・・隠し持っているの・・・

「こう、ママ」

「そうそう、出来た、じゃあ、そろそろ買い物に行こうか」

「やったー、ねぇ、ママ、プリン買ってもいい」

「いいよ、秀さんとパパの分も選んであげてね」

「はーい」

駅前から少し離れているが、ここの近くには大型のスーパーがしのぎを削る様に乱立していて、生活に必要な物は何でも直ぐ手に入る。

「美月ちゃん、何が食べたい」

「何でもいい、だって、ママの料理は何でも美味しいもん」

四階建ての大型店舗が三店舗、約五百メートルに渡り、道沿いに軒を並べている。二人はニコニコと微笑み合い、そのポプラが埋まる街路を歩いていた。

つないだ手を大袈裟に振りながら歩いている二人の背中は本物の母娘の様で、幸せと云う言葉が何の違和感もなく似合っている。惠は食料品売り場ではなく、先に専門店街へと足を向ける。

「似合うかな、美月ちゃん、ちょっと着てみようか」

惠はそう言うと、CASEYと云う子供服のブランドを扱うブティックの前で足を留めた。ここの服は値段が張るが、とにかく可愛くて、惠は年に一度、ここで必ず買い物をしていた。何時も手にして眺めるのは男の子の物だったが、今日は、初めて女の子用の服を手に取る。女の子の服は、種類が豊富で、どれを取ってみても可愛い。美月は本当に、何を着せてもよく似合う。とりわけフリルをあしらえた物を着ると、まるでディスクドールの様だ。

「ママ、見て、見て、美月、これがいい」

「わぁ、可愛い、じゃ、それにしよっか」

美月が選んだのは、フリルがあしらわれた赤いチェックのスカパンと、白い生地に、原色の糸で花柄が刺繍されているTシャツだった。

「ねぇ、ママ、美月、これ着て帰りたいぃ」

「ふふふ、いいよ、じゃ、カウンターでタグを外してもらって、着て帰ろっか」

「わーい、やったー」

 清算を済ませた二人は店を出る。

「うーん」

「どうしたの、ママ」

「靴がね、イマイチ、よし、靴も見に行こう」

「いいの、ママ」

「うん、美月ちゃんは直ぐに大きくなるから、少し大きめの靴が要るしね」

「ねぇ、ママ」

「ん、なに」

「美月ちゃんじゃなくって、美月って呼んで」

「えー、なんか照れるなぁ、ふふふ、美月」

「ママ」

「美月」

「ママ」

「あっはっはっはっ、やだ、もう」

数回呼び合った後、二人は大声で笑い合う。それはどこから見ても、極々ありふれた、そして、ありふれた、一番大切な、幸せの時の中に居る母娘の姿だった。

             7

「え・・・これ、全部積むの」

「そうだが、何か」

「引っ越しの時と、随分違うんだけど」

「これは、仕事だ、遊びじゃねぇ、荷物が多い方が金が稼げる、喜べ、遼太」

「秀さん言ったよね、この仕事、あの引っ越しに比べれば、屁みたいなもんだって」

「それは、オフシーズンの話であり、夜逃げの場合に於いてだ」

「・・・じゃ、今は」

「シーズンの入り口」

「はぁ?じゃ、シーズンインしたらどうなんだよ」

「これの、まぁ、二倍ってところだ」

「詐欺だぁぁぁ!」

「馬鹿野郎、てめー、何様のつもりだ、見てみろ、ハチなんかよ、チョー嬉しそうに頑張ってるじゃねーかよ、お前、父親なら根性入れろや」

「くっ、くそー、マジ、騙された」

「へんっ、遼太、男はな、騙されて大きくなって行くもんだ。文句ばっか言ってねーで、とっとと運びやがれ」

電化製品は精密機械扱いだ。更に家具などと同様、かすり傷ひとつ、付ける事も許されない。つまり、荷物の運搬には細心の注意が必要となる。大きな衝撃を加えて内部に損傷が出ても、本体に傷がつくようなことがあってもクレームが来る。運搬時に起きたトラブルは、ドライバーが全責任を負わなければならない。普通のドライバーの三倍近い年収を得られる代わりに、普通の、雇われドライバーには考えられないほどシビアな、責任とリスクが伴うのである。

「荷物ってのはな車体のやや右寄りが一番重くなるように積み込むんだ」

「なんでだよ、何処に積んでもいいじゃん」

「馬鹿野郎、道路ってのはな、水捌けを良くするために、センターラインから左側に向かって、傾斜が付いている。つまり、車は左側に傾いて走ってるんだ。だから、車体のやや右側を重くしてやる方が、傾きがとれて、荷物が安定するってわけだ。遼太、いいか、どんな仕事の世界にも、技術と云うのがある、その技術を持っている者がその世界のプロだ。やるって決めたら、プロになれ」

「へいへい、ったく、面倒くえせーな、もう」

遼太は積み込む荷物のチェックを始めた。重い物、軽い物、大きい物、小さい物、背の高い物、背の低い物、様々な属性を持っている荷物を、個別に分析して、積み込む位置を考える。

「秀さん、なんか、テトリスやってるみたいだよ」

「あはは、そうだ、重さがあるパズルだと思え、上手く出来なくて走行中に崩れたらゲームオーバーだぞ」

「なるほど、へへ、なんか面白くなってきた」

やがてホームに山積していた総ての荷物がトラックの荷台にびっしりと隙間なく積み込まれた。

「はぁ、はぁ、で、出来た、出来たよ、秀さん」

「おう、まぁ、初日にしては上出来だ」

「本当」

「あぁ、才能あるぜ、お前よ」

朝とはいえ、夏を間近に控えた空気は沢山の湿り気を帯びていて、トラックの箱の中は噎せ返るように熱い。しかし、肌をつたい滴る汗も、激しく呼吸する苦しみも、積みあがり、完成したこの光景を目の当たりにすると、それらの不快は、一気に爽然とした達成感に変わる。働くと云うのは、こう云う事なのか。遼太はそれを今、軽い疲労と共に全身で感じていた。

「遼太、扉閉めろ、後がつかえてる、トラック出すぞ」

「はーい」

遼太のへいへいは、はーいに変わる。小さな変化である。しかし、それは確実な変化であり、また、成長でもあった。後ろの扉を閉める遼太を後目に、牧田は運転席でひとり目を細める。人が成長する姿を見るのがこんなにも楽しい事だとは。ゆとり世代が苦手で、ひとりで仕事をして来た牧田にとっても、それは初めて感じる喜びだった。

「遼太、これが今日、積み込んだ荷物の伝票だ。今日は時間指定は無いから、ここから近い順に並べて見ろ」

そう言って伝票を渡された遼太は、それなり固まってしまう。しかしそれは、牧田の想定していた事だった。牧田は、遼太は在日コリアンの二世や、三世ではなく、安樂に追われている事から考えても、不法入国、若しくは、脱北してきた朝鮮人なのではないか、と考えていた。しかし、そう考えると、遼太の日本語が余りにも流暢に過ぎる。だから多分、その辺りに、何か人には明かせない秘密があるのだろうと、牧田は思っている。不法入国者や、脱北をした朝鮮人なら、当然日本の地理には暗い筈だ。しかし、この仕事をする以上、地理は必要不可欠である。そう思って、牧田は遼太の為にスマホを用意したのだ。

「おいおいおい、何を固まってんだよ、さっきスマホ渡したろうが」

「あ、そっか」

「地理は走って居ればその内に覚える、最初は、伝票からそいつに住所を入力して、本体の音声を消して、音声の代わりに、お前が俺を案内してみろ」

「うん、分かった」

遼太はスマホのナビを見ながら、そこに表示される情報を自分の言葉で牧田に伝えた。どんな事でもそうだが、頭の中で考えているより、口に出したり、或は文字を綴ったりする方が、短期記憶から長期記憶に移行されやすい。つまり、忘れ難くなるものなのだ。運転経験もなく、免許も土地勘もない遼太にとって、牧田の考えたその方法は、正に、最良の方法と言えた。

「秀さん」

「ん」

「秀さんさ、俺に、何も、聞かないんだね」

「なんだ、聞いてほしい事でもあるのかよ」

「いや、なんて言うか、普通なら、色々聞くじゃねーかよ、親の事とか、何処の出身だとかよ」

「なんだ、えーと、お前がそれを人に話したら、人はお前に、どうした」

「それは・・・」

「お前、それで傷ついて来たんだろ、例えば、それで女にフラれたとかさ。ははは、まぁ、何となく想像はつく。俺もそうだったからな。だから聞かない。それに聞いたって、いまさら関係ないしな。お前がどこの何者であろうと、そんなもん関係ない。大切なのは過去じゃない、今、目の前にある、この時間だ。お前は、美月の父親として、頑張ろうとしている。俺がお前を助ける条件には、それで充分だ。言うのが怖いなら言わなくていい、言いったくなったら言えばいい、聞いてやる、でも、聞いても、俺はなんも変わらねぇ、俺は、俺だからよ」

遼太は牧田の横顔に目を向ける。キリリとした太い眉、厳つく大きい目は人を威圧するだろう。しかし、その目尻に刻まれる皺には、自分には想像も出来なおい程の苦難を乗り越えて来た男の優しさが刻まれている様な、そんな気がした。

午前中、設置の必要な大型家電の配達は無かった。勿論それは初日である遼太に対する牧田の配慮である。

「さーてと、そろそろ、飯にしようぜ」

「やったー、もう、俺、腹減って死にそう」

「ははは、ざまーみろ、パンなんか食ってるからそうなるんだ、男は米だ、米」

「けっ、米は腹にもたれるし、太るし、嫌いなんだよ」

「甘い、お前、この仕事してて太れると思ってんのか、特にこれから始まる地獄の夏は、食っても食っても痩せちまう。この仕事をしていて太れるのは、オフシーズンだけだ」

「あー、もう、マジかよ、詐欺だぜ、ったくよ」

そんな事を言い合いながら、二人は惠が持たせてくれた、真新しい、買ったばかりの弁当箱の蓋を開いた。すると、内容が若干、牧田の物とは異なっていた。

「あー、てめー、また惠に好き嫌い言ったな、なんだ、お前、リンゴも嫌いなのかよ、ったく、好き嫌いは良くねーぞ、遼太」

精神科医である惠は、遼太が話した、昔、あの場所で出されていたメニューを覚えていて、遼太のトラウマを考慮して、弁当のおかずを考えて詰めていた。二種類の違った内容の弁当を作るなど、随分な手間である。しかし、惠は手を抜かない。自分に過去を打ち明けてくれた遼太に対する、それが誠意だと思うからだ。遼太は、そんな惠の思い遣りに胸が熱くなる。

「ありがとう、惠さん」

弁当箱の中を見下ろしながら、小さな声で遼太はそう呟く。そして牧田は、そんな遼太を、そっと横目で静かに見守っていた。


惠は朝から、パンだ米だと大喧嘩をしていた二人の為に、夕飯はパスタを選択した。毎晩、惠の店に夕飯を食べに来ていた牧田の食性は純和風、一方、遼太のトラウマは和食を嫌う傾向にある。つまり、真逆の二人の食性を満たすには、洋食に和のテイストを盛り込む、或は、和食に洋のテイストを盛り込む必要が有る。

「あー、もう、男って、面倒くさい」

「どうしたのママ」

フードコートの簡易テーブルに腰かけ、惠に買って貰った洋服を汚さない様に、細心の注意を払いながらソフトクリームを食べている美月が惠の顔を見上げる。

「あ、ははは、何でもないよ」

惠は、心配そうに自分を見上げている美月を見下ろし、微笑みを返した。美月の顔に落とした視線を惠は再び雑踏へと戻す。視軸を茫っとその雑踏全体に据え、流れゆく人々の姿を見るともなく見ていると、惠は今、自分が、何に拘り、何を変えたくて、何処に向かうべきなのかを改めて考えてみる。

人間とは括りで考えるべきではないと惠は思う。ここには、沢山の人が往来を過ぎて行く。どの人も、何かを求めここに集まっている。そう云う意味ではここにいる人々は皆、同じなのだ。しかし、ここにこうしている人々には様々な属性がある。年齢、性別、職業、年収、本籍地、或は国籍、或は肌の色。自分を幸せだと思っている人、不幸だと思っている人。他人に話せない秘密がある人、そうでもない人。好きな人が居る人、居ない人。守るものがある人、無い人。人は自分と同じ事情を抱える者同士が集まる傾向にある。そして集まった人々の中に在る利益と、相反する利益を求める別の集まりがあると、そこに争いが生じる。人は、群れを成すことで、争い、傷つけ合い、差別が生まれ、憎しみは堆積されていく。人は何故、誰かを踏み躙り、競い合い、我先に頂を目指すのか。その頂から見下ろす景色には、いったいどんな景色があると云うのか。

・・・キンキンキン・・・キンキンキン・・・・

それは、犬笛の様に、人には聞こえぬ何か、例えば、背後に視線を感じた時の様な、誰かの気配を感じた時の様な、そんな感覚だった。惠は、自分からではなく、その何かによって、はっと我に返る。ふと、惠は美月を見る。美月が居る。確かに美月はそこに居る。しかし、それを見た惠の背筋には、得体の知れぬ悪寒が走る。

・・・キンキンキン・・・キンキンキン・・・・

そこに居る美月は、美月ではなかった。美月の目が凍り付いている。しかも、それは、今までに見た事がない、初めて見る種類の目。惠は美月の視線の先を追いかけた、するとそこには、季節外れのロングコートを着た男が立っている。男はコートの袖の中に何かを隠し持っていて、その先端を指で弾いていた。

・・・キンキンキン・・・キンキンキン・・・・

それを見た途端、惠は美月を抱き上げ、一目散に走り出した。その行動は理性でも知性でもなく、本能が告げる原始的な危険信号に従がう野生動物の行動そのもので、惠は必死に、建物の反対側のロータリーにあるタクシー乗り場を目指し、走った。

 ・・・キンキンキン・・・キンキンキン・・・・

しかし、その気配は消えなかった。気配は一定の間隔で惠の背中に張り付いている。振り返ることは出来ない。惠はひたすらに人波をかき分け走った。タクシー乗り場に人の列はなく、幸い扉を開いて待機するタクシーが一台停車していた。惠は身体ごと転がり込むようにタクシーの車内に乗り込む。

「ど、どうされました、お客さん」

「閉めて、ドアを閉めて、早く、兎に角、車を出してっ」

突然の出来事に、しかし、それでも運転手は惠の声に従がいドアを閉じる。金属の扉が閉まる音は、自分達が違う空間に移動した事を確約する声の様に惠の心理に余裕を与える。その時、初めて惠は後ろを見た。男の身の丈にロングコートは馴染んでいなかった。肩も、裾も、妙に大きい。

・・・まだ・・・子供・・・

タクシーが走り出すと、男はもうロータリーには入ってこなかった。街路樹のポプラを背にしたまま、身動ぎもぜず、凝呼(じっ)っとこちらを見ているだけだった。もう遠くて人相までは確認出来ない。しかし、そのぼやけた顔は、殺意でもなく、憎しみでもない、何かを浮かべているようで、その茫洋とした男の顔は、惠の脳裏に漠然とした疑問を焼き付けた。

二時間程、あてもなくタクシーを走らせた。もしも尾行されていたら。そんな一抹の不安が惠にその選択をさせた。

「ねぇ、ママ、まだお家に着かないの」

美月はもう、何事もなかったかのように普通に戻っている。

・・・あれは・・・いったい・・・何だったの・・・

「うん、そろそろ、お家に着くよ」

やがて二人がべらぼうなタクシー料金を支払い自宅に着くと、丁度、牧田と遼太も仕事を終え、帰宅して来たところだった。

「ただいまー、みーつきちゃーん」

「秀さーん、パパー、おっ帰りー」

満面の笑顔で、何時もの様に二人の腰にまとわりついて行く美月には、何の変哲もない。

「おう、なんだ、どうした」

「ううん、何でもない、お帰り、二人とも、お疲れさま」

浮かない顔の惠を不審に思い、声をかけた牧田だったが、惠は直ぐに何時もの笑顔に戻り、二人を迎え入れた。

「秀さん、パパ、みて、みて、あのね、ほら」

美月は手にしていたポリの手さげ袋から、プリンを取り出し牧田と遼太に見せる。

「あぁー、美月、それ、自分だけ、ずるいぞ」

「ちがうよパパ、みんなで一緒に食べるの、ほら、秀さんのはこれ」

「え、それ、俺の、やったー」

「そうだよ、美月が選んだの、秀さんが一番好きそうなのどれかなって、でね、パパのがこれ」

「えー・・・、なんか、秀さんのが、高そうだし、旨そうじゃん」

「おいおいおい、えー、マジかよ、お前、普通、子供にそれ言う。せっかく美月が買って来てくれたんだぞ」

「だってぇ、そう見えるんだもん、贔屓だ、つか、おっさん、顔、にやけ過ぎだろ」

「あー情けない、直ぐにそうやってひがむ、ほんとっ、情けないっ、子供かぁぁ、お前はぁぁ」

「うるせー、筋肉ゴリラァァァ」

自慢気な天使の笑顔が、楽しそうに喧嘩をする二人を見上げている。その笑顔には何の濁りもない。それは惠の診える目にも確かにそう映っている。しかし、遼太に何か異常が有る事は惠には診えていた。遼太は断片的な記憶しかない。多分それは心の安全装置が施した、記憶操作、或は。記憶の喪失なのだろう。遼太の記憶を手繰るべきなのか。だが、悪戯に遼太の記憶に手を伸ばせば、遼太の精神を崩壊させてしまう可能性もある。それほどに、今、遼太の中でロックされているであろう彼の記憶は、危険なものであることに間違いは無い。

「もうっ、パパも秀さんも喧嘩しないで、でね、これが、美月と、ママのだよ」

「おい、美月」

「なーに」

「今、なんつった」

「これが、美月ので、これが、ママのだよ、秀さん、こっちのがいい、かえっこしてあげようか」

「うん、じゃ、遠慮なく、って、違うわっ、そうじゃねーわ、ママって言ったか美月、ママって言ったよな、おい、美月、ママってなんだよ」

「あのね、ママは、ここのお家の家事をするの、家事をするのはお母さんの仕事なの、だから、ママって呼んでいいの、ねー、ママ」

「あはは、ねー美月、私はママだもんねー」

「おい、美月ちゃん」

「なーに」

「この人は、誰」

「パパ」

「この人は」

「ママ」

「じゃ、俺は」

「秀さん」

「・・・美月ちゃん、もう一回・・・俺は、なに」

「秀さん」

「おいおいおい、それはぁぁ、どうかなぁぁ、それはぁぁ、どうなんだろうなぁぁ、なぁぁんか、違う気がするなぁぁ、惠がママで、遼太がパパで、俺だけ、秀さんって、なんかなぁぁ、秀さんさぁぁ、なぁぁんか、寂しいなぁぁぁ」

「パパ、秀さんが、いじけてる」

「ぎゃっはっはっはっ、ざまーみろ、人の事言えねーじゃん、子供か、おっさん」

「なんだとぉぉ、てめぇぇぇ」

「逃げろ、美月」

「キャーーーーー」

真実を明らかにすることが、必ずしも正しい事だとは言えない。真実は何時だって、誰かを傷つけるものだ。牧田が居る所には何時も笑いが絶えない。大切な笑顔、大切な時間。私は、こんな時が訪れる事を、ずっと望んでいたのかも知れない。もし、遼太の記憶が戻ったら、そして、美月のあの小さな黒い点の向こうに在る、真実が明らかになったら、この目の前にある幸せは、砂上の楼閣の様に、サラサラと崩れてしまうのかもしれない。壊したくない。この時間を、この幸せの瞬間を、何時までも、何時までも、守りたい。牧田がその気になれば、二人の戸籍を手に入れる事ぐらい訳はないだろう。それなら、やはり過去は振り向かず、もういっそのこと、何もかも忘れて、ここで、この場所で、この子達と、幸せになって、何が悪い。親も捨てた。医師も辞めた。片山家とも別れた。

・・・宗利・・・私は・・・どうすればいいの・・・

「さぁ、暴れてないで、ご飯にしよう。今日は、タラコとイカの和風パスタだよ」

「わーい、ママのパスタだー、美月の一番好きなパスタだー」

「やったー、めぐ・・、いや、あの、か、母さんの、あのパスタ、俺も、一番好きなんだよな、へへ」

美月の無邪気な笑顔、そして、遼太のこのはにかんだ笑顔、もう、いいじゃないか。

・・・もう・・・振り向かなくても・・・いいじゃないか・・・

「ちょっとまてぇぇぇー、おい、今、なんつった、おい、今、なんつったよ遼太ぁぁ」

「え、母さんって言ったけど、なにか」

「うご・・・あがが・・・」

座り込んだ牧田は完全に撃沈して、足元のささくれをいじり始めた。そんな牧田の肩を美月が優しく叩く。

「どうしたの、秀さん」

「ふんっ」

「ごめんねー、いじけないでー」

「ふんっ」

「どうしたらゆるしてくれるのー」

「美月が、惠の事を、おばーちゃんと呼ぶなら・・・・」

牧田が全部を言い終わるまでに、惠のギャラクティカマグナムが炸裂したのは、言うまでもない。


          神隠し

「はぁ、またかよ、このひと月でもう何人変わった」

「三人目か」

「いや、四人だな、シンナー中毒のガキも居たろ」

「あ、そうだな、あのガキ、どうした」

「知らねー、来ないって事は、多分パクられたんじゃねーか」

片田舎のその線路沿いのアパートには、数週間単位で、入れ代わり立ち代わり、何人もの男が出入りしていた。伊藤が仕掛けた盗聴器から聞こえてくるのは、昼夜を問わず流れて来る低音の利いたロックと、女の喘ぎ声、そして、その女のものと思われる子供を罵る朝鮮語と、陶器が割れる音。その罵声が始まると、決まって少女は玄関から外に叩き出された。

「また始まった、男が来るとこれだ」

「男ってより、シャブか、コカインが入ったらだろ」

「ははは、違いねー、ドラッグキメてガキを外に抛り出して、夜通し盛りの付いた猫みたいにニャーニャー喘いで、男が出て行くとガキを中に入れて、寝る」

「なんで、あの女、ガキ、手放さないんすか」

「ガキが居るとよ、国から色々とな、働かなくても食える程度の金が貰える。それに、多少の犯罪なら、執行猶予判決で娑婆に出られる。ここは間抜けた国だからな」

加藤はそう言いながら車の助手席から降りる。

「おい、大西、この車、いつ盗ってきたっけ」

「三日前だ」

「ふふ、頃合いだな、おい、行くぞ」

彼らは、その盗難車を態と斜めに不法駐車したまま、車内にシャブ(かくせいざい)のパケをひとつ放置したまま現場を離れた。こうすれば、誰かが勝手にこの盗難車を警察に通報する。通報さえ入れば、この盗難車の捜査に警察が来る。これだけ頻繁に、男を連れ込み、ドラッグをやり、子供を虐待していれば、いくらなんでも、近所の住民が、盗難車の捜査に訪れた警察に、その事を密告するだろう。ネグレクトや虐待は判断が困難なため、警察はなかなか動かない。が、しかし、麻薬が絡んでいるとなれば別である。ある程度の確証が得られれば、四課の内偵捜査が始まる。

内定が入れば、一か月以内に確実にあの女は逮捕されるだろう。

「いよいよデビューだ、拾いに行くぞ、遼太」

「なんでこんなまどろっこしい事するんすか」

車から降りた加藤は大きくひとつ伸びをしてから話に戻る。

「いくらこの国の警察が馬鹿でもよ、手あたり次第、調べもせずに連れ去れば直ぐに足が付く。あのガキはまだ四歳か五歳、保育園や託児所にも行っていない。子供もな、小学生になると、学校がうるさくなる。狙うなら、六歳未満、そしてあのガキみたいに託児所にも保育園にも行っていない、社会とつながりの薄いガキを探して拾うんだ」

「でも、警察を態と動かすなんて、余計に危ない気がするんすけど」

「考えて見ろ、あのガキはあの朝鮮女の唯一の飯の種だ、普通に居なくなれば騒ぎ出す、しかし、自分がパクられたとなれば、ガキどころじゃなくなる。執行猶予で娑婆に出て来るにしても、四か月から半年は、警察の留置所、裁判所の拘置所の中から出られない。警察も、検察も、自分達が起訴した事件を先きに優先する。つまりあのガキの捜索が始まる迄には、半年以上の時間を稼げる。その間に、あのガキは教育を受ける」

「なるほど、流石は、加藤さん」

「俺じゃねぇよ、俺達を仕込んでくれたのは叔父貴だ。叔父貴は調査と人攫いのプロだからよ」

「調査と人攫い・・・」

「あぁ、あの人の手際は、神だ。これは、神隠しってやつだ」

加藤はそう云いながら手にしていたクリアケースから紙切れを取り出し、全員にそれを配る。

「地図・・・ですか」

「そうだ、ここからはバラバラに歩いて帰る。あの盗難車はエヌシステムに何度も映っているからな。ここから普通に帰れば、そこら中にある監視カメラを調べられれば、足が付く。その地図には監視カメラの無いルートを調べて書いてある。それと、お前の地図には、俺達のアジトが載っている、そこで、叔父貴がお前を待っている」

「叔父貴が、俺を」

「フフフ、あぁ、そうだ。そこで叔父貴が、お前に、いいものを見せてくれる」

「いいものって・・・」

「紙芝居さ。叔父貴の紙芝居は楽しいぞ。分ったらもう行け。おい、その地図、間違えても落とすなんてへまはするんじゃねーぞ、遼太」

加藤や伊藤、そして大西と別れた遼太は、暗闇を朧朦(ぼんやり)と照らす、電柱に吊るされている寂れた街灯の下でその地図を見た。地図には詳細にカメラの場所が記載されている。それは、家庭の防犯カメラをも含める程の精緻さだった。しかし、手書きのその地図では、ここから何分、否、何時間歩けば、目的地に着くのか、地理や土地勘のない遼太には皆目見当もつかない。暫く遼太は、思い出したように明滅を繰り返すその古い蛍光灯の下で、昔の事を思い返していた。

あの部屋から飛び出して、最初に俺を拾ったのは、さっきの女と変わらぬ様な女だった。まるで羽虫が光に魅せられ、惹かれ、狂った様に飛来するのと同じに、俺は繁華街のネオンに惹かれ、それを目指し、歩いた。繁華街に辿り着くと、そこは思う様な桃源郷ではなく、腐った溝の匂いと、女の淫らな体臭と、アルコールの匂いを吐きだす男の口臭ばかりが、狭い路地に充満しているだけの世界だった。もう何日も食い物を口にしていなかった。通貨と云うい概念は理解していたが、金を懐から出して物を買うと云う事をしたことの無かった俺は、どうやって食い物を得ればいいのか、それが分からなかった。

水槽の魚が誤って外に飛び出してしまったようなものだ。俺は死を覚悟していた。ビルの裏に置かれているゴミ箱の横にある水道の蛇口を捻った。溝とゴミの匂いを嗅ぎながら、塩素臭い水道水を胃の奥に流し込んで、俺はそこで意識を失った。気が付くと、俺はセミダブルのベットに横たわっていた。傍には、俺より一周りは年上の二十代後半の女が居る。頬骨の出ているその女のほつれ髪は、女の幸の薄さを端的に示していて、女は物悲しい声で俺に言った。

「お腹、空いてるんでしょ、食べなよ」

発泡スチロールの容器に入った、ふやけて生ぬるい焼きそばとお好み焼きを、俺は必死で空っぽの胃に詰め込んだ。そして、数日後、男がやってきた。

「てめぇ、俺の女に何しやがった」

襤褸(ぼろ)襤褸(ぼろ)にされた。女も襤褸襤褸になるまで殴られていた。動けなくなった俺を男は車で連れ出し、訳の分からぬ住宅街の公園の前で捨てた。しかし、俺はまた、暫くすると、繁華街を目指した。光に惹かれる羽虫の様に、繁華街を目指した。何度でも、何度でも。

自分を糞虫だと思った。生きる価値の無い糞虫だと思った。繁華街の女は、俺に食い物をくれた。けれど女は、食い物をくれる代わりに、俺の中にある、何か大切なものを取り出して、それを貪り喰った。それが、とても、厭だった。

線路沿いを少し歩き、南に低く狭い降下を潜る。地図に示されるジグザグの道を忠実に歩いた。道は、殆どが古い住宅街の中を抜けて行く様に描かれている。歩いていると、時折、温かな暖色の光が漏れる窓から、その家の家族の楽しそうな笑い声が聞こえた。同じ場所の同じ大地の上に居ても、その暖かい光の向こうに在る世界は、自分には永遠に縁の無いものだと思い知らされた。煙草に火を点けた。その時、右手に持っていたライターで、その家を燃やしてしまいたい衝動に駆られる。ライターを握りしめた。しかし、そのまま、そこを通り過ぎた。

 加藤さんは、叔父貴を、神だと言った。俺は、叔父貴に拾われた。叔父貴は、何時もの繁華街の女の様に、暖かい布団と、旨い食い物をくれるのに、俺の中の大切な何かを貪り喰ったりはしない。

「神様の所に、行こう」

 俺はそう思い、その手書きの地図を詳細に追いかけた。


{秀さん、少し二人で、話したいことがあるの}

着信したメールを牧田が消去するのとほぼ同時に、牧田の部屋のドアがノックされ、惠が浮かない顔で入って来た。

「なんだ、どうした」

「今日、近くのスーパーに買い物に行ったら・・・」

惠は今日、自分と美月の身の上に起こった事の顛末を牧田に説明した。

「彼奴がその気になれば俺達を見つけるのは容易い、何か、奴らの中で動き出したのかも知れんな」

「秀さん・・・私・・・」

「もう、無理をしなくてもいい。どんなに悔やんでも、人の命は取り戻せねぇ。宗利君も、お前がそんな風に悲しみ続けることを、望んじゃいないだろう」

牧田は立ち上がると、ドアに凭れ立ち尽くす惠を、そっと優しく抱きしめた。

「あいつらの中で何が動き出そうと、俺はもう堅気だ、このまま、過去を忘れて生きるのも、ひとつの生き方だぞ、惠」

    キン     キン    キン 

キン   キン   キン   キン

牧田の胸に顔を埋めていた惠の背中に、ゾクリとした悪寒が走る。

「どうした」

惠は、牧田のそれに答えず、いきなり牧田から離れ、二階の出窓のカーテンを乱暴に開いた。

「秀さんっ」

惠の後を追い、後ろに立った牧田が窓の外に見たのは、今しがた惠から聞いたコートの男の姿だった。惠が言う様に、確かに男の着ているコートは身の丈に合っていない。その男は華奢な肩に無理やりにコートを羽織っていた。牧田はそのコートに見覚えがある。男が来ているダブルブレスト、トレンチコートはパイソンのプリント入りで、レザーにパイソン模様のプリントを施してからプレートで凹凸を付け、パイソンのテクスチャーを演出している。それは忘れもしない。安樂が愛用しているGUCCIの高級コートだった。

「惠、お前はここに居ろ、俺が見て来る」

「嫌っ、私もっ」

「静かにしろ、遼太と美月が起きたらどうするっ、いいから、ここに居ろっ」

牧田は自分について来ようとする惠を無理やり椅子に座らせ階段を降りて行く。足音を忍ばせ、細心の注意を払いながら玄関の扉を開き外に出ると、しかし、そこにはもう、コートの男の姿はなかった。だが・・・

「なんだ・・・」

玄関先には大豆を出荷する際に使われる大きな麻袋が置かれていた。麻袋にはぎっしりと重量感のある何かが詰め込まれている。牧田の目が恐ろしい程に冷たく澱んで行く。まるで別人の様に。

「ひ、秀さん、そ、それは」

「来るなと言ったろ」

麻袋の中のそれは黒いビニールで覆われていて、惠が玄関に来た時にはもう、牧田は中を確認した後だった。惠は、牧田の声に一瞬びくりと身体を震わせる。しかし、惠はそれでも牧田の横に行き、足元に有る麻袋を見下ろした。

「店に来た、金城組のチンピラだ」

牧田が黒いビニールを少し解いて惠に中を見せる。血の匂いと腐乱した肉の臭いが一気に外に溢れ出して来た。遺体の手足は折りたたまれ、生きた人間では到底有り得ない状態になり袋に詰め込まれている。遺体の右手には、包帯が巻かれたままだった。惠は口を押え、二、三歩後ずさると、牧田に背中を向け、押し殺すような吐瀉を庭先に数度繰り返した。

夜の静寂の中、遠くでパトカーのサイレンが聞こえて来る。やがて赤橙とヘッドライトが牧田と惠を取り囲むと、一台のパトカーから、白髪交じりの男が降りて来た。

「よう、秀夫、元気そうじゃねーか」

「堀尾、なんでお前が来るんだ」

「通報があったんだよ、薄気味の悪い麻袋が玄関先に転がってる家があるってな」

堀尾と呼ばれた刑事は、血生臭い麻袋を一瞥すると、待機する警官に指示を出す。

「この家の人間、叩き起こして全員、署に連れて行け、子供も女もだ」

それを聞いた途端、牧田は立ち上がり堀尾の胸ぐらを掴んだ。数人の警官が慌てて牧田と堀尾の周りを取り囲む。

「なんで子供が居ると知ってる」

「おいおいおい、いいのか、俺はまだ来年まで刑事だぞ、娘がなぁ、大学に行くんだよ。俺も色々とな、大変なんだ」

牧田は堀尾の胸ぐらを締め付けていた手を軽く緩めると、堀尾がだらしなく巻いているネクタイの先を掴んだ。

「来い」

堀尾はにやりと笑い、振り向き様に取り囲む警官に再び指示を出す。

「赤橙とライトを消して暫く待機してろ」

牧田は堀尾のネクタイを掴んだまま階段を登り、自分の部屋に堀尾を引き摺り込むと鍵を掛けた。

「安楽に幾ら貰ってる」

堀尾はまるで牧田の声が聞こえぬ者の様に、萎びた煙草を懐から取り出す。銘柄は安物のわかばだった。

「変えたんだよ、もう煙草も高くてな、侘しいもんだぜ。子供も嫁もよ、金だ、俺から金を毟る事しか考えてねぇ、結婚は人生の墓場ってのは、よく言ったもんだ、なぁ、秀夫」

牧田は机の引き出しを開けると、厚みのある茶封筒を取り出し、中にあった札を堀尾の胸に叩きつけた。

「鏡、見て見ろよ、その面、てめぇのどこにも漢なんて見えやしねぇ、便所虫みたいな面しやがって」

堀尾は、足元に散らばった札を、無言で跪き、拾い集める。

「安樂から離れろ、娘、大学に行くんだろ。てめぇ、その姿、娘に見せられんのかよ」

「ケッ、お前ら極道に俺らの何が分かる」

 札を拾い終えた堀尾は立ち上がると牧田に背中を向けた。

「ここは今から警察が押える。今のうちに女と子供連れてガラをかわせ、現場の警官は俺が黙らせる」

牧田が部屋の扉を開けると、そこには惠が立っていた。

「惠、遼太と美月を起こして裏口から出て来い、俺はトラックを裏に廻す」

「分かった」

牧田は惠にそう指示を与え、堀尾を促し、警官達が待ち構える玄関から外に出て行った。それを見送った惠は、小走りに走り、遼太と美月の部屋の扉をノックする。

「遼太君、起きてる」

惠の声が掛かると殆ど同時に、遼太が美月を抱いて外に出て来た。

「遼太君、あのね」

「母さん、分ってる、聞こえてたよ」

美月はすやすやと眠っている。二人は無言で頷き合い裏口に向かうが、惠は途中、思い出した様にリビングに戻り、財布だけを手にしてもう靴を履いて立っている遼太に財布を見せて苦笑いした。遼太が裏口の扉をそっと開けて外部の様子を窺うと、牧田は既にトラックの運転席で三人が来るのを待っている。三人乗りのトラックに四人が無理やりに乗り込み、少しずつ騒然となりつつある、住み始めたばかりの我が家を彼等は後にした。

「なぁに湿気た顔してんだよお前ら」

「秀さん、何処に行くの」

「取り敢えずは、ハチのところだ」

牧田は惠の問いかけに笑顔で応える。もう先程の別人のような陰りは無く、牧田は何時ものお道化た牧田に戻っていた。

「秀さん、ごめん、俺達の所為で、ホントに、ごめん」

「馬鹿野郎、お前らが悪いんじゃねぇ。お前らは切っ掛けに過ぎない。これは、俺と惠の問題だ、心配すんな」

「でも・・・」

「あ、居る、居る、ハチの野郎、まだ起きてやがる」

牧田はトラックが数台停められる、小さな潰れた中古車屋の跡地を借りていた。そこに建っている、以前、中古車屋が事務所にしていたプレハブに、ハチは今、住居を移していた。起業する力は十分に持っていたにも拘わらず、これまで、牧田は一人で仕事をしていた。その方が気楽だったし、極道を辞めた牧田には金も必要なかった。しかし、牧田は、思いがけず遼太と美月、そしてハチの面倒を見る事になる。

惠、遼太、美月、ハチ。

 自分がこの人々に何をしてやれるだろう、何が出来るだろう。牧田は、それを考え、この際、個人の運送店をたたみ、運送会社を立ち上げる事を計画した。生きて行くには地盤が必要だ。縋るものが無ければ、人は人生の海原に呑み込まれ、溺れてしまう。この人々が溺れない様に、もし、自分が居なくなっても、前を向いて生きて行ける様に。この運送会社の立ち上げには、そんな牧田の思いが籠められていた。

「え、なんで」

「なんだよ」

「なんで、こんなに遠くにトラック停めんだよ」

「馬鹿野郎、トラックで近くまで行ったら音でハチにばれるじゃねーかよ」

「はぁ、意味わかんねぇ」

「いいから着いて来い」

牧田は、車庫から200メートルばかり離れた場所にトラックを駐車させると、皆を引き連れプレハブに向かう。プレハブの窓からはまだ明かりが漏れていた。

「な、起きてる感じだろ、いいかお前ら、そーっとだぞ、そーっと」

こんな事が起こった後だ、牧田が警戒するのも仕方ないのかも知れない、美月を抱いている遼太はそう思う。遼太は真剣な眼差しで後ろを振り返り、後をついてきている惠に話し掛ける。

「母さん、大丈夫、って、あれれ」

遼太が振り向くと、惠の背後に、薄らと、流星群が見える。

「こんばんは、夜分遅く恐れ入ります、渋滞で遅くなりました、宅配便でーす」

 こんな深夜の配達などありえない、余りにもずさんである。

・・・パチン・・・

案の定、点いていた照明がいきなり消え、中からはなんの返答もない。明らかな居留守である。

「DVDのお届けになりますぅ、団地妻、真昼の情事・・・」

 パチンッ、ガタンッ、ガザガザガザ、ドドドドッ

再び煌々とした照明が点いた。

「あれー、俺、そんなクラッシックなの注文したかなぁ」

ハチがぶつぶつと呟きながらか、鍵を開け、扉を少しだけ開く。すると、そこには満面の笑顔の牧田が居た。

「のわぁぁぁぁ!!兄貴ぃぃぃーーー」

「やーい、騙されたー」

「もう、ちょっと、勘弁してくださいよ」

「入っていいか」

「ど、どうぞ」

ハチは牧田のそれに応じ、少しだけ開いていた扉を全開にした、かと思うと、今度は扉が吹き飛びそうな勢いで扉を全力で閉じた。

「なんだよ、ハチっ!」

「ダメダメダメーーー、後ろにぃーーー、なんでこんな時間に姉さんと美月ちゃんが居るんすかぁぁぁ」

「入れろ、ハチ」

「ダメったらダメダメダメ、ちょっと、兄貴ぃーーー」

「なんかやってたな、ハチさん」

「な、なんもやってないっすよーーー」

「じゃ、入れろよ」

「いや、だから、無理ってば無理無理」

「俺、鍵、持ってんだけど」

「わぁぁぁぁ、待って、入れます、入れますから、ちょっと、待ってぇぇ」

「ぎゃっはっはっはっ」

余りにも尋常ではないハチの裏返った声に、牧田と遼太が大爆笑をする。

「おい、遼太、突撃するぞ、惠、美月を頼む、遼太、美月を惠に抱いて貰え、よぉぉぉし、突撃だぁぁぁ」

「ぎょえぇぇぇぇーーーやめてぇぇぇぇーーー」

美月を遼太から手渡された惠は、美月を抱いたまま扉の外でその騒動が終わるのを待っていた。中からは楽しそうな笑い声が響く。牧田はこんな時でも、何が一番大切なのかを見失わない。どんな苦しみも、どんな悲しみも、不安も憤りも、牧田はこうやって、何時だって笑い飛ばしてくれる。

「おい、ハチ、お、お前、こんな趣味が・・・」

「おわぁぁぁ、何見てんすか兄貴ぃぃぃ」

「ハチさぁぁぁん、マジっすか、これ、俺、実物、初めて見ましたぁぁぁ」

「ゴォウラァァ、てめぇぇぇ、やめろぉぉぉ、遼太ぁぁぁ、触んじゃねぇぇぇ」

騒ぎは、約十五分続いた。

「ぎゃはっはっはっ、惠、もう入っていいぞ」

惠が中に入ると、まさにハチは、茹で上がった水タコの様に顔を赤面させていた。

「もう、姉さんまで、勘弁してくだいよ、つか、しかし、美月ちゃんよく寝てますね、これだけ騒いでるのに、あはは、大物になりますね」

「あはは、そうね、きっと、大物に・・・」

・・・大物・・・

「えっ、どうしたんすか、姉さん」

 ハチの投げた言葉に返答をしたと同時に、惠の身体が、一瞬大きくビクリと揺れた。

・・・心拍数が落ちていない・・・体温も正常・・・

「あ、ううん、何でもない、もう上がってもいいの、ハチさん」

「どうぞ、どうぞ、もう教育上問題のあるものは全部、片付けましたから、あはは」

・・・待って・・・この子・・・

「今、お湯、沸かしてます、コーヒーか紅茶しかありませんけど。姉さんはどっちがいいっすか」

・・・間違いなく・・・起きている・・・

「ん、あれ、姉さん」

・・・何時からなの・・・

「あれ、おーい、姉さん?」

・・・何時から起きていて・・・話を聞いていたの・・・

「ん、あっ、ごめん、私は紅茶、かな」

惠は何事もなかったように振る舞い、ハチの布団に美月を寝かせ、優しく美月の髪を撫でながら、そのあどけなく、しかし切なすぎる程に悲しい嘘の寝顔に目を落とす。常に周りを観察し、人に気を使い、自分を押し込めようとする、環境にすり込まれた、その悲しい悲しい、嘘つきな天使の寝顔に。

「姉さん、紅茶、入りましたよ」

「あ、うん、ありがとう」

美月を子供だと思ってはいけない。この子は見た目には小さな女の子だ。けれど、この子の中身には十代前半、否、もう成人に近いくらいに成長した何かが在る。それほど、急いで、自分を成長させねば生きられなかった美月の置かれていた特殊な環境とは、いったい、どれほど過酷なものだったのだろう。仕事柄、精神に問題を抱えた子供は沢山見て来た。しかし、これほどの問題を抱えた子供を、私は見たことがない。

「さてと、先ずは何から話すかな」

「話って、何の事っすか」

「ハチ、俺達、家に帰れなくなっちまった」

「へっ、な、なんでなんすか、越したばかりじゃないっすか」

「喧嘩売られたんだよ、一番、面倒くせぇ相手によ」

「秀さん、もういい、もう、私・・・」

「そうじゃねぇ、いいか惠、人間にとって、過去は忘れていいもんじゃねぇ。どんなに恥ずかしい過去も、どんなにみっともなかった頃の自分も、それは自分の一部だし、それを忘れたり、捨てたりしたら、今の自分が自分じゃなくなっちまう。お前はその事を良く知っていて、必死に自分の過去を、自分の罪を、あの穴蔵みたいな場所で考えて暮らしていた。俺は、傍でずっとそれを見守っていた。でもな、惠、自分と向き合う事は大切な事だが、それをするべき時ってのがある。悪戯に自分の過去をほじくり出して、弄り回して、自分を責めるのは、どうかなぁ、そんなの、自分が可哀想じゃねーか、そうだろ。自分を幸せに出来るのは自分しか居ねぇ。反対に、自分を不幸にするのも他人じゃねぇ、実は、自分自身しか居ないんだよ」

「秀さん・・・」

「辛くて苦しい過去を思い返して、自分を見つめ、生きる方向を決めて、そこに向かって頑張って行くのは大切な事だ、でもよ、それは今じゃねーんだ。まだ早い、判るか、惠。自分の辛い過去を振り返って、自分を見つめ、考えるのは、自分が今、幸せだと思える日が来た時なんだ。今、この瞬間の中で、確かに自分は幸せなんだと思える時だからこそ、恥ずかしい過去も、あの頃の情けない自分も、この幸せに辿り着く為のものだったと思えるんじゃねーのか。遼太と美月がお前にとってのそれだと、俺は思った。病院でこいつらの面倒を見るって決めた時のお前の顔は、すげぇ、幸せそうに見えた。惠、過去は振り返るべきだ。自分の犯した罪はどう償うべきか考えるべきだ。でもよ、先ずは、お前が幸せになれ。先ずは自分の気持ちの中に幸せの蕾を持て。過去を振り向き自分の罪を考えていいのは、それからだ。そして、その時が来たら、しっかりと、必死に自分に向き合え。血を吐くほど向き合え。その努力は、お前が最初に胸に持ったその幸せの蕾を育てて、お前だけの花を、胸の裡に咲かせてくれる、そしたら、その後はよ、過去は大切に、胸の何処かに、仕舞いこめばいい」

「ありがとう、秀さん」

「分ったら、もう、自分が幸せになる事に戸惑うな。お前が前に進むには、今、自分の目の前にある幸せから逃げない事だ」

「うん」

「遼太」

「は、はい」

「お前の欲しいものはここに、俺達の所にあるか」

「え、あの・・・うん」

「覚えている事を元に、失った記憶を想像する。すると、ろくでもねぇ記憶が自分の中に眠ってるって事がわかる。怖いだろう」

「秀さん、分ってたの・・・」

「馬鹿野郎!いいんだよ、別にお前にどんな過去があっても構わねぇんだ、何故だかわかるか」

「でも、これ以上俺達がここに居たら、俺、秀さんも、母さんも、ハチさんも大好きだから、だから、俺達の所為で、みんなが困るのが、嫌なんだ」

「ははは、だからそれでいいんだ。お前はもう昔のお前じゃない、そんな風に他人を思い遣ったり、人を愛したり、お前は、もう、違う自分としての一歩を踏み出している。そこを真っ直ぐ進め。もし、何時か記憶が戻ったら、その時は、それと向き合えばいい、でも、お前も、惠と一緒だ。先ずはお前が幸せになれ。お前の欲しいものがここにあるなら、ここで、俺達と一緒に、幸せになれ、そして、ここで、自分と向き合え、俺や惠は、譬えお前にどんな過去があっても、お前から逃げたり、見捨てたりしねぇ、それぐらいの事は解るよな」

「秀さん・・・」

「ハチっ」

「えっ、お、俺にもお言葉が、キター」

「お前はな」

「はっ、はいっ」

「騙され過ぎだ」

「へっ」

「こんな夜更けに宅配便が来るか」

「あ・・・」

「宅配便の奴が、玄関先で、エロDVDのタイトルを、大声で読み上げるか」

「あ・・・」

「ハチっ」

「・・・はい」

「ドンマイ」

ハチの真っ赤な蛸顔を見て、全員が大きな笑い声をあげる。何時だってこうだ、牧田は何時だって笑いを忘れない。そうだ、私たちは、ここから、この人と共に、新しく、生まれ変わって生きればいい、どんな過去があっても、ここでなら、この人となら。

・・・キン・・・キン・・・キン・・・

・・・キン・・・キン・・・キン・・・

ダイレクトではない。その音は、あらゆる構造物に反射して耳に届いて来た。

「秀さんっ」

「どこだ、惠」

「分らない」

突然、牧田と惠が立ちあがった。

「母さん、秀さん、どうしたの」

「静かにしろ」

牧田はカーテンの隙間から、自分の影が見えない様、壁に体を隠し、外の様子を窺がうが死角が多い、そこからでは殆ど外の様子が分からない。

「い・・・いやぁぁーー、秀さんっ」

すると突然、惠の悲鳴にも似た叫び声があがり、全員が惠の方を振り向く。

「美月が、美月がいない!」

「なっ!なんだとっ!」

美月が寝ていた筈のハチの布団が何時の間にか蛻(もぬけ)の殻になって居る。しかし、そこで誰かが争った形跡などない。攫(さら)われたのではない。美月は、自分の足でそこから姿を消しているのだ。

「しまった、どうして、どうしてこうなる事に気付かなかったの」

惠は自分の髪の毛を乱暴につかみ、頭を抱えしゃがみ込んでしまう。

「いったいどうした!」

「あの子、寝ていなかったのよっ、多分、自宅での騒動の最中も、私たちの会話を全部聞いていた筈」

「な、そ、それは本当なのか」

「さっき、遼太君からあの子を手渡された時、体温も心拍数も、全く副交感神経の影響を受けていな状態だった」

しゃがみ込んだ惠の背後に居た遼太が無言で後退り、突然プレハブから外に飛び出した。

「まっ、待てっ、遼太っ」

牧田の制止に一瞬、遼太が振り向く。

「全部、全部、俺の所為だ」

それだけを言うと、遼太は裸足のままで夜の中へ走り出して行く。

「ハチ、すまねぇ、遼太を追ってくれ、俺と惠は美月を探す」

牧田の言葉に小さく微笑んだハチは、すぐさま遼太の後を追いプレハブを飛び出して行く。

「惠っ、へこんでる場合かっ、てめぇ、もう一度、母親になるって決めたんだろうが!立てっ」

牧田の恫喝に、痛い程に瞑っていた目を、惠は大きく開いた。

・・・そうだ・・・決めたんだ・・・私はもう・・・あの子たちの・・・母親だ・・・

「秀さんは音を頼りにあの男を追って、でも気を付けて、自分の存在をわざわざ音で誇示するって事は、何かある」

「一人で大丈夫か」

「大丈夫、母親はね、世界中の何よりも強い生き物よ」

「いいか、携帯を通話の状態で耳に当てておけ、そして何かあったら、辺りの看板か、目に入った家の表札を大声で叫べ、俺ならそれで、GPSより早くお前を見つけることが出来る」

「分かった」

惠は靴を履きながら背中で牧田に返事を返すと、そのまま闇の中へ飛び出して行った。牧田の携帯から着信音が流れ、牧田は携帯を開き、それを耳に当てる。

「秀さん、聞こえる」

「大丈夫だ、そのままにしておけ」

牧田は携帯を耳に当てたままトラックの運転席の扉を開ける。運転席の下には小さなジェラルミンケースがゴムバンドで頑強に固定されていた。牧田はそのゴムバンドを外し、ジェラルミンケースを取り出すとケースの蓋を開いた。黒く鈍い光を放つコルトパイソン357六インチの凶暴な銃身。牧田はそれに手を触れる。

「兄貴ぃ、ご無沙汰ですぅ」

パイソン357マグナムの弾倉に装弾を終えた刹那、牧田の背後から突然声がした。

「俺はお前の兄貴にはならないと言った筈だ。そして、惠に手を出したらどうなるかも忠告した筈だ」

牧田は背を向けたまま、安樂に気付かれぬよう、パイソンの銃身を左脇に挟み、その銃口で安樂を捉える。

「あはは、兄貴ぃ、そんな物騒なもん仕舞って下さいよぉ」

しかし、そんな事はお見通しとばかりに安樂はそう言うと、くるりと踵を返し、100メートルほど離れた所に停車しているメルセデスベンツマイバッハに向かい歩き出す。牧田は左脇に挟んでいたパイソンの銃口を脇から離すと、ピタリと安樂の背中に銃口を向け、そのまま安樂の背中を追う。

「もう、だからぁ、止めて下さいってばぁ、兄貴ぃ、今日は三人でとことん、呑みましょうよぉ、ほら、ねぇ」

安樂がメルセデスベンツマイバッハの後部座席の扉を開くと、眉間に深い皺を刻んだまま目を閉じた金城が座っている。そして、金城を牽制する形で、金城の奥には加藤が座っていた。

「親父・・・」

金城の姿を見て、牧田は安樂に向けていた銃口を下に降ろす。しかし、牧田の目は、此れ迄にない程の殺気を含んでいる。

「兄貴ぃ、なんですよぉ、怖い顔してぇ、さぁ、どうぞ」

安樂は牧田に、金城の横に乗り込む様、促した。だが、牧田は安樂のそれには従わず、加藤が乗っている方の扉を開いた。

「降りろ」

地の底から鳴る様なドスの効いた牧田の声が、静とした住宅街に響く。

「牧田さん、生憎と俺はあんたの舎弟じゃねぇ、だから、あんたの・・・」

グワッシャアー!

加藤が話し終えるのを待たず、牧田の右手に握られたパイソンのグリップが加藤の顔面にめり込んだ。

「オゴゥアァ」

「手前ぇの返事なんざ聞いちゃいねぇ」

砕かれた顎を押さえ前のめりにうずくまろうとする血塗れの加藤を、牧田は左腕で車内から引きずり降ろす。

「ちょい、ちょい、兄貴、もう、勘弁して下さいよぉ、そいつは俺の大事な舎弟なんすからぁ」

しかし最早、安樂の声など牧田の耳には届いていない。

ズガァァ!  グゥワシャ!

牧田の剛腕から繰り出されるパイソンのグリップが加藤の顔面を砕く。

「安樂栄治、俺に粉かけるってのは、こう云う事だ」

牧田はメルセデスベンツマイバッハのトランクを開け、虫の息になった加藤を中にぶち込む。

「手前ぇがハンドル握れや」

トランクを乱暴に閉め、パイソンの銃口を向けながら安樂に指図する牧田は、あの優しい牧田ではなく、地獄の鬼、そのものだった。

「てめぇ、どう云う積りだ」

「兄貴こそどう云うつもりなんですよぉ、俺の大切な人を奪う積りですかぁ」

「なんの話だ」

「あの二人ですよぉ、遼太と美月は、俺の家族なんですから、返して下さいよぉ」

「何を寝言抜かしやがる、家族なら、どうしてあの二人は逃げて来た」

「家族だって、喧嘩くらいするじゃないですかぁ」

「家族なんて言葉、てめぇが気安く口にするんじゃねぇ!反吐が出るぜ」

「もう!この分からず屋!組も継がずに勝手に出て行くは、遼太と美月を拉致して返さないはわ、兄貴、それ、長男としてってか、人間としてどうなんです?っとにもう、人格疑いますよぉ、ねぇ、お父さん、何とか言ってやってくださいよぉ」

安樂のその言葉に、金城はゆっくりと牧田の方を向き、険しく閉じていた瞳を開いた。

「秀夫、二人を栄治に返せ」

「親父・・・」

「ほらぁ、兄貴、もう勘弁してくださいよぉ、遼太も美月も、俺にとっては大切な家族なんですよ。おまけに加藤だって、もう死んでるかもしんないし、俺が何をしたって言うんですよぉ、俺になんの恨みがあるっていうんです」

安樂は泣き出しそうな声でそう牧田に訴える。しかし牧田はそんな安樂を一切無視して金城に話し掛ける。

「親父、本気で言ってるのか」

「本気だ、お前とは、背負っているモノが違う」

 金城のそれに牧田は目をつぶり、苦渋の表情をした。

「栄治、その角を左だ、そこの広場に車を停めろ」

「いやいや、だから、兄貴ぃ、人の話聞いてます?今日は、今からね、三人仲良く呑みに行くんですって・・・」

ドォゴォォーーーン!

それはまるで、落雷の様な銃声だった。ベンツの後部シートから牧田のマグナムが火を噴くと、その銃弾はインパネを破壊し、そのままエンジン内部を貫いた。ピストンが焼け付く。大きな金属摩擦音と共にエンジンが破壊され、シャフトが止まり後輪をロックされたベンツは急停止した。

「親父・・・」

牧田は銃口を安樂に向けたまま、金城に静かに呼びかける。

「秀夫、金城組を継げ」

金城の言葉に、安樂が狂気を宿した笑顔になる。

「親父、否、金城修三、俺は、あんたと親子の縁を切る」

「どうしてもか、秀夫」

「俺は、あんたの事を本当の父親だと思って来た。核開発に莫大な金を費やし、亡国の憂き目にあるあの国を想う親父の胸には色々とあるんだろう。しかしな、俺は、俺だ」

牧田は銃口を下げ、安樂に視線を向ける。安樂はこの上なく眉間を狭くして牧田を睨み据えている。

「もう、俺達に拘わるな。俺は親父と縁を切る。親父が何をやろうと、もう俺には関係ねぇ、だがな、惠と遼太、美月だけは渡さねぇ。親父があの国を想う様に、俺は、家族になったあいつらの事を想っている。国も、宗教も、肌の色も、なんにも関係ねぇ。あいつらは、俺の家族だ。俺の居場所だ。そいつを壊そうってんなら、たとえ親父だろうが、北朝鮮だろうが容赦はしねぇ」

自分を見つめる二人を一瞥すると、牧田はベンツのドアを開き車外に出る。それと同時に金城が窓を開く。

「秀夫」

「何だ」

「良かったな、お前が一番欲しがっていたものに出逢えて」

「あぁ、世話になったな親父、お別れだ」

「うむ、達者でな」

「あぁ」

牧田が去った沈黙の車内。安樂は、もう見えなくなった牧田の背中をそれでも追いながら、半ば放心したように金城に話し掛ける。

「あのぉ、お父さん」

「何だ」

「いやぁ、だからぁ、なにこれ」

「だからも、なにもねぇ、そう云う事だ」

「いやいや、だからぁ、違いますよぉ、そう云う事じゃなくてぇ」

「栄治、もう諦めろ、あいつは、人を愛せないお前とは違うんだよ」

「はぁーーーっ、意味わかりませんけどぉーーー」

「秀夫をはな、昔っから、ああなんだよ。肌の色も、思想も、宗教も、なーーんも関係なく、人が好き、ただそれだけの漢だ。あいつは何時だって、人の幸せを願っている。自分は差別を受けても、虐げれられ、恐れられ、訝(いぶか)られても、それでもあいつは、人が好きだから、好きな人の幸せを願う。あいつみたいな人間ばかりならな、共産主義なんて思想も必要ない。だってよ、あいつみたいな人間ばかりなら、誰も悲しい思いはしないし、ひもじい思いもしない。自分より弱い者を守る、たったそれだけの簡単な事が、どうして、人間には出来ないんだろうなぁ、栄治」

「うるっせぇぇぇ、このくたばりぞこないがぁぁぁ、偉そうに講釈垂れてんじゃねぇぞぉぉ!」

修羅の形相で安樂が懐に隠し持っていたワルサーPPKの銃口を金城に向ける。

「もう手前ぇなんざぁ必要ねぇ、ぶっ殺してやる、てめぇが死ねば、あいつが金城組を継ぐしかないからな」

「そんな事をしなくてもあいつは組を継ぐ。お前の組織は俺の責任で解体する。お前の組織を解体したら、残した金城組の金看板で、秀夫がお前の解体した組織をちゃんと治めてくれる」

「な、なんだとぉぉぉぉ!てっ!てめぇ!騙しやがったなぁぁぁ!」

「馬鹿やろうが、お前に言われたかねぇぜ、栄治、お前は、あいつには勝てねぇ、悪かったな、俺はお前の母親を止められなかった、お前を俺の元で、ちゃんと育ててやれなかった、すまねぇ、だがな栄治、秀夫はお前に、殺させねぇ」

「やっかましぃぃわぁぁ!死ねぇぇぇぇ!」

パンッ、パンッ、パンッ


            3

・・・キン・・・キン・・・

惠はその音の方に振り向く。

「美月!!」

美月はその少年が着る体に合わない大きなパイソンコートの裾に巻かれ、男に肩を抱かれていた。

「あなたは、あなたはいったい、誰なの」

少年は無言のまま、惠を見ている。

「お願い、お願いだから、美月を返して」

少年の目は澄んでいた、その目の奥に悪辣は無く、逆に、大きな、大きな寂寥、悲しみ、そんな質さえ見える気がする。少年は美月を座らせ、羽織っていたコートを美月に被せる。

「いったい、何がしたいの!、美月を返しなさい」

惠は、ひな鳥を守ろうとする親鳥の様な目で少年を睨み据え、そのまま少年の前面にゆっくりと歩み寄って行く。少年の目に浮かんでいた寂寥が、少しづつ、少しづつ、赤い熱を帯びて行く。

「お願い、話を聞かせて、私は、どんな事でもする、美月は、私の娘なの、お願いだから、その子を・・・」

わたしの・・・む・・・す・・・め・・・

少年の目が大きく見開かれた。その白目は、毛細血管が膨張した赤い筋に埋め尽くされている。眼圧が上がり、涙腺から絞られた涙の粒が、幾つも、幾つも、少年の頬を、とめどなく流れる。惠は集中する。昔ほど、もう能力は無い、更に相手に触れる事も出来ない。しかし、どうしても、この少年の心に触れたい。惠はその一心で、慎重に、ゆっくりと少年に近付いて行く。すると、終に、少年は後退りを始めた。

「く、る、な」

「お願い、少しでいい、あなたに触れさせて、私に出来る事ならなんだってする、お願い」

少年は鉄鞭をもつ左手を前に突き出した。

「覚悟は出来ている、殴るなら殴りなさい」


             4

疎らな住宅街の街灯がついには消え、そこにはポツンとした公園があった。

・・・キン・・・キン・・・

その犬笛にも似た高い金属音は、何故かハチにも聞こえた。ハチはその方向に振り返る。ハチの視線の先には、探していた遼太の背中があり、そしてその背中の向こうに、コートを羽織った少年と惠が対峙しているのが見える。

「遼太!」

反射的に発せられたハチの声に、しかし遼太はスローモーションのようにゆっくりとハチを振り返る。ハチは遼太の元に駆けよる。

「遼太、お前、探したん・・・」

「シックロプタ(だまれ)」

ハチが遼太の肩に手を掛けようとした途端、振り返った遼太はハチの首に手をかけ、頸動脈を力一杯に絞めた。

「うぐぐっ・・・り、りょう・・・た・・・おま・・・え・・・」

荷役を生業として来たハチは、腕っぷしには自信がある。しかし、どんなに足掻いても、首を絞めつける遼太の腕を跳ねのける事が出来ない。それは恐ろしいばかりの怪力だった。

「ジュゴ(しね)」

遼太の手に万力の様な容赦の無い力がこもっていく。

「な・・・なぜ・・・なん・・・だ・・・おめぇ・・・」

「ジュゴボリョョーーー(しんでしまえ)」

「うごぉぉあぁぁ」


惠は鉄鞭を恐れる事無く、更に前に進む。鉄鞭を握る少年の手が、徐々に下がり、そしてその指先は大きな震えを帯びていた。

「大丈夫、大丈夫だから」

少年の震える手に握られた鉄鞭が、完全に下がる。眼球を支配していた赤い激情が、心なしか小さくなった様に感じた。

「大丈夫よ」

惠はそう言うと、右手で少年の頬に触れようとする。少年はもう抗うことなく、惠の掌が近づくとともに目を閉じた。

「辛かったね」

ギャイィィン!!

何処かで、誰かに弾かれた鉄鞭の音が、これまでには無いほど大きな音で住宅街の隅々にまで響いた。その途端、少年の目は見開かれ、手に握られた鉄鞭がいきなり惠の頭上に振り上げられた。

「うがぁぁぁぁ」

ズシャアァァァァ!!!

何かがへしゃげる音と、大きな重力を惠は感じる。しかしそれは、痛みではなく、柔らかく、優しい、優しい、何か。懐かしい柔らかさ、愛おしいく、切ない、弾力。

・・・オンマ(ママ)・・・

惠の耳に入ったその声は、紛れもなく美月の声、そして、惠の視界にあったのは、愛らしく、優しい、美月の笑顔だった。少年が振り下ろした鉄鞭は、惠と少年の間に飛び出し、割って入った美月の後頭部を砕いていた。血飛沫が惠の視界を覆い、美月の顔が見えなくなる。

・・・アンニョンヒ(さよう) ケーセヨ(なら)・・・

「いや・・・いやよ・・・」

・・・オンマ・・・マニ(だい) チョアヘヨ(すきだよ)・・・

「い・・・  いやよ・・・美月・・・いやぁぁぁぁぁーーー!!」


            6

ブンッ!

失われようとしていた意識の中で、空気が切り裂かれる音を聞いた。

グワッシャァァァーーー!!

その瞬間に起こった大きな破壊音と共に、ハチの意識が現実の土を踏む。大量の酸素を欲する肺と心臓が、まるで自分とは別の生き物の様に動き、そうして降りて来たハチの意識の先にあったのは、鬼の形相で遼太を殴り飛ばした牧田の姿だった。

「ウッゲホッ、あ、兄貴」

「ハチッ!、大丈夫か!」

「だ、大丈夫、です、ゲホッ」

牧田の剛腕に弾き飛ばされた遼太は、しかし、直ぐに立ち上がる。

「ノ(ころ) ジュッヌンダ(してやる)」

そして牧田を振り向いた遼太は、明らかに牧田の知るあの遼太ではなかった。

「遼太、お前、いったい、何が」

ギャイィィン

今度は鉄鞭を、何か固い物にでも叩きつけた様な音がする。牧田は音のする方に振り向く。そこには、鉄鞭をアスファルトに叩きつけた安樂と、コートを脱いだ少年と、少年に対峙する惠、そして、その隙間に、惠を庇う様に飛び込んだ美月の姿があった。

・・・オンマ・・・

美月の中に穿たれた小さな暗黒の入り口が、まるで宇宙の始まりの様に加速して、一気に広がる。突き抜ける様な黒いエネルギーに、少年の揮った鉄鞭の衝撃が交叉して、それが美月の小さな、柔らかい掌から惠に伝わり、惠の脳裏を突き抜けた。

・・・宗司・・・

同じDNAだった。底知れない遺伝子の、その絶叫とも言える叫びを、惠は確かに捉えた。

・・・どうして・・・どうして・・・こんな事に・・・

「アンニョンヒ ケーセヨ」

・・・美月の中に居るのね・・・あなたは、話せた筈なのに・・・

「マニ チョアヘヨ」

・・・どうして・・・話してくれなかったの・・・

それは余りにも残酷な現実だった。惠の意識は、シュレッダーに粉砕されるように、その現実に粉々にされ、失われていった。


堕天使の力

それは、見た事もない、長い、長い、坂道だった。緩やかな勾配は限りなく続いていて、時折、階段の踊り場の様な、坂の切れ目があった。夕暮れ時といいながら、まだ、その坂の切れ目には蜃気楼が揺れている。随分と標高が高い場所の所為か、緑は燃え立つように繁茂(はんも)していて蜩の声が耳に痛かった。

私の前を歩く男はくたびれた黒い革鞄を持っていて、頻繁に額の汗をぬぐいながら歩いている。迚(とても)、辛そうだった。男は振り返らない。それは、振り返る必要がない事を、男が理解しているからである。普通なら、自分の後ろをついて来る小さな子供の事は気に掛かるものだ。しかし、男は、私が我儘を言って立ち止まったり、不意に姿をくらましたりしない事を知っている。そもそも、そこに行きたいと男に懇願したのは、私だったからだ。漸くそこに辿り着いた時には、もう日はとっぷりと暮れて仕舞っていた。男に手招かれ、私は男の隣へと、疲れ切ったふくらはぎと足首を引き摺る様に駆けた。

「遅くなりました」

「秋山さん、どうしんたんです、その顔」

 秋山は、曾根の耳元に口を移し、小さな声で曾根に言った。

「別れ際、アル中の母親が暴れましてね」

「そうですか、それは大変でしたね」

「あはは」

秋山は、曾根のねぎらいに苦笑いをしながら私を見下ろす。

「彼女が、神林惠さんです」

私を出迎えてくれたのは、園長の曾根正彦と、職員の安田順子。彼らの顔はこれまで見た福祉関係の人間の中で、誰よりも誠実な優しい顔をしていた。

「こんにちは、否、もう、こんばんは、かな、惠ちゃん、疲れているだろうけど、夕飯までに色々と片付けてしまう事がある、もう少し頑張ってくれ」

「あ、はい」

 私がそう返事をすると、二人はニッコリと笑って優しく私の肩と背中に手を置いた。優しい顔だった。優しい手だった。でも、その優しさは、みぞれ交じりの雨の様に冷たい。また、優しい雨が、私の羽に降って来た。

私に携わった福祉の人達は、皆、本当に優しい人ばかりだった。自分の人生全部を、私たちの様な惠まれない子供たちの為に、日々捧げている。それはとても尊い事で、おいそれと真似のできる行いではない。彼らは誰よりも優しい心根の持ち主なのだと思う。だからこそ、彼らは、誰よりも、疲れ果てている。殆ど死んで仕舞いそうなほどに、疲れ果てているのだ。優しいが故に、誠実であるが故に、その責任感が彼らを蝕むのだろう。そんな彼らの優しさは、何時も冷たい。そんな彼らの降らす優しい雨は何時も冷たくて、私の心は優しくされる度に葉枯れ、根枯れ、木枯れた。何故なら、彼らの胸には、同情と憐憫と、使命感しかないからだ。

間違えてはいけないのだ。それは愛情と似ていて非なるもの。愛情から来る優しさは、春の太陽の様に人の心を育む。しかし、同情や憐憫からなる優しさは、みぞれ交じりの雨の様に人の心を濡らし、その人の生きるのに必要な体温を奪ってしまうものなのだ。私は、施設の暮らしの中で、彼らの冷たく優しい雨に心を濡らさぬ様、傘を差さねばならない事を学んだ。

「さぁ、今日は此処の部屋を使って」

 ここでは本来、三人がひとつの部屋を使う事になっている。だが、あの騒動の所為で入所が遅れてしまった為、今日は此処で寝て、明日、改めて入所式を取り行うと曾根は話した。そして、今までの法律では、親に育児に関わる条件が整い、それを監査官が認めた場合、本人の意志とは無関係に、子供は親に帰されていた。しかし、法律が変わり、ここを出て親の元に帰るかどうかを、子供自身が選択出来るようになったとも、曾根は話した。

「少し話を聞いてもいいかい」

「はい」

 曾根は手に持っていたファイルから書類を取り出し、その書類を流し読みする。

「秋山さんから話は聞いていたけど、本当に、凄い成績だね、将来は医師を目指しているんだって」

「はい、あの、それより先生」

「あぁ、分かっている、もう君がご両親の元に戻されることは無い、君が帰りたい、そう言わない限りはね」

 私は何度か、自ら望んでこういった児童施設に入所させてもらってきた。しかし、その度に母は言葉巧みに職員に取り入り、見せかけの体裁を繕い、私を引き取りに来た。母にとって、私は金の成る木だったからだ。私が生まれた村の中でも、貧富の差はあり、村の内部で、その格差により、差別が存在していた。怪訝(おかし)な話である。長年に渡り差別に苦しんで来た筈の人々の中に格差による差別がある。差別を憎み、その差別からの解放を訴えている人々が、自分たち自身で差別を行っていると云う構図。

私の家は、村の中の最下層にあった。酒に溺れパチンコに狂う母親。収入は生活保護費だけ。しかし、そんな僅かな金で、酒代や、パチンコにつぎ込む金を賄えるはずがない。そう、私の家にはスポンサーが居た。否、厳密に言うなら、私に、スポンサーが付いていた。それが、安樂惠瓊った。

村の人達も、福祉も、安樂惠瓊の素性を正確には把握していない。食い詰めた安樂惠瓊と云う破戒坊主が、村中の廃寺に住み着き、何時の間にか寺の住職を名乗っていたと云うのが定説な様だ。高度経済成長期の中、惠瓊は宗教法人を設立し、やがて村の中で一大勢力を拡大して行った。

「安樂さんからの援助も、一切受けないと云う事だね」

「先生、安樂さんからの援助がなければ、医師になれませんか」

「そんな事はない、普通なら難しいかも知れないけれど、惠ちゃんの場合なら、幾らでも方法はあると思う」

「それなら、お断りして下さい」

「惠ちゃん、君と安樂さんとの間に、いったいどんな軋轢があると言うんだい、君の家は随分と安樂さんに世話になって来たそうじゃないか」

「それを訊いて、先生は、私に対して責任を取れますか」

「責任って」

「この事は、誰にも話したことが有りません。それでも先生が訊きたいと言うなら話します」

 目の前にいる少女を、曾根は少女だと思えなかった。成績がずば抜けていると云った言葉を能く耳にする事があるが、彼女の場合そうではない。ずば抜けているとは、同じレベルの何かを比較対象した時に用いられるもので、惠の場合、同じ年齢の子供とは比較にすらならないのである。言葉遣い、所作、思考、あらゆる点に於いて、もう彼女は成人女性と比較しても、なんら遜色を覚えない。「天才少女」そんな言葉では片付けられないこの大人びた少女を曾根は改めて見つめた。

「分かった、でも、どう責任を取ればいいんだね」

「大学に受かるまで、あいつから私を守ってくれますか」

 惠の顔は真剣である。しかし、その顔は、何かを意気込んでいると云った力の籠る表情ではなく、それは森のフクロウの様に、夜の闇で駸々(しんしん)と標的を探し捕える様な、そんな静かさで曾根を見ている。多分、曾根が否と言えば、彼女は「そうですか」と、ひと言で全てを悟る。しかし、もう二度と、曾根に心を開く事はないだろう。

「出来るだけ、と云う言葉は使えないんだね」

「はい」

「いいだろう。僕が知る限りの法と制度を駆使して、君が医学部に入るまで、必ず君をサポートする、約束だ」

 曾根の言葉を聴いて惠は軽く目を閉じた。彼女は真摯に、今から話す事柄から、自分の主観を取り除こうとしている。忠実に、詳細に、事実関係だけを話そうとしていた。人は自分を語る時、どうしても自分の立場から見る世界を語る。しかしそうなると、その話は主観的になり、自分の非を擁護する方向に傾いていく。結局、人は自分の周りを悪者に仕立てて、自身を擁護して仕舞う質(もの)なのだ。惠は、極力、それを避けたいに違いない。自分を、事実だけを抽出して、後は曾根の判断に委ねる気でいるのだ。

「先生、目を閉じて、私を抱きしめてみて下さい」

 曾根は惠の真意を想像出来なかった。この子は、何がしたいのだ。

「君を抱きしめる、何故」

「もう、余り使えなくなってしまったけど、私を抱きしめてみれば、私が何者かが分かります」

惠の目が、また、森のフクロウの様な目になった。曾根は立ち上がり、惠の前に近づき、惠の指示通りに膝を付いた姿勢で惠を抱きしめた。

「先生、少し苦しいけど我慢して」

 惠は曾根の背中に手を回し、グッと爪を立て、その指先に力を入れる、するともう、曾根は次の瞬間、現実から遠く遠ざかって、今まで感じたことの無い世界に居た。そこはとても情景に乏しく、観念的な、黒と白だけの世界だった。その世界の中で、曾根の意識は驚く程沢山の知識を何か特別なものと共有している。

不思議な感覚だった。何かを考え選択して答を出すというプロセスを必要としない。その世界でなら、曾根は何も考えなくても良かった。一切の不安を取り除かれ、完全な安らぎの中に居る。怖くなかった。何も怖いとは思わない。だからなのだろうか、曾根の意識は、駆け出しの時代を過ぎ、この職に就いて、一番辛かったあの頃の事を思い出していた。

「僕がこの職に就いた時、僕は此処にやって来る全ての子供達を何としても救おうとがむしゃらになって働きました。その結果、僕はどれくらいの子供達を救う事が出来たと思いますか」

曾根は以前、里親になろうとする若い女性に、こんな話をした事がある。彼女は曾根の質問に子供の様に素直に「見当も付きません」と答えた。彼女のその純粋さと、謙虚さに釣られ、曾根はたたみ込む様に、彼女に自分の懊悩を話した。

「一人もいません」

「一人も、ですか」

「はい、つまり僕は此処に来る子供達を、ただの一人も、ただの一度も、救う事はなんて出来やしなかった」

曾根は、そのまま話を続ける。

「哲学的な事を言う様ですが、僕がこの職に就き、そして子供達の為にがむしゃらにやって来て感じた事は、他人が、誰かを救う事なんて出来ないという事です」

「人が、人を救う事なんて出来ない?」

「ええ、僕は、人という生き物の心はその成り立ちに於いて、全て、硝子の様な性質をしているのではないかと考えています。だから(救われる)だとか(癒される)等という言葉は、飽く迄も、ただ便宜上、使用されるだけの言葉でしかないとも考えています。仮に、人の心というものの性質が、ゴムやスポンジ、或いはウレタンの様な弾力のある柔らかい質(もの)で出来ているなら、人は、どんなに傷付き、深い悲しみに曝されたとしても、時が過ぎれば、その性質に於いて、自然な張力の様な力が働き、救われたり、癒されたりするのかも知れません。しかし基本、矢張り人の心というものは、硝子の様な、固くて、そして、割れて仕舞う様な質で出来ている。一度、罅(ひび)が入ってしまえば、その罅は、二度とは元には戻らない。どんなに時間が過ぎても、当時の事を心に思い描けば、その心の罅はまるで昨日の事の様に、真新しい痛みを伴い疼きます。つまり、人が一度心に受けた罅破れは、癒される事も、また、救われる事も無いのです」

「なんだか、悲しいですね、それ・・・」

「本当に、情けなく、悲しい事です。でも、人は、生きて行く中で、少しずつ増えていくこの罅破れに、いつの頃からか危機感を覚える様になります。そしてその時、その罅破れが、なるべくそれ以上増えない様、生きて行く術を覚えるのです、つまり(嘘)を覚えるのではないでしょうか。そして人は自分に嘘を吐き、人に嘘を吐き、世間に嘘を吐いて、この溢れんばかりのストレスが漂う世界の中で生きて行く。否、生きて行ける様に、実は出来ているのでしょう。しかし此処にいる子供達は違う。産まれて、本当に間もない内に、それは考えられない程多くの、あらゆる種類の暴力を受け、とても大きく、深く、そして、数多くの罅破れを、その小さな身体と心全体に抱えて生きているのです。この際だ、もっと具体的にお話ししましょうか」

「え?」

「ここに居る、ある小学四年生の女の子は、親が金を得る為に、売春を強要され、挙げ句の果ては、動物とセックスをさせられ、それをビデオに撮影される、等の虐待を受けた末、保護され、今は此処で暮らしています。此処に来ている殆どの子供達は、この様にして、肉体的に、精神的に、そして性的に、肉親や、極身近な、周りの大人達の虐待から保護されて此処に来ています。」

「そ、そんな・・・」

「時は痛みを癒してくれる。貴方の笑顔が心を癒してくれる。何処かで聴いた、こんな何かの歌の、歌詞に出て来る様な言葉なんて、僕に言わせれば、綺麗事の幻想にしか過ぎない。たとえば、貴女ならどうです」

「・・・」

「一番に信頼出来る筈の、実の親に、陰湿な手口で、何度も何度も殺されそうになった記憶や、動物とセックスをさせられた忌まわしい記憶を、時間が解決してくれると思いますか。誰であろうと他人の笑顔なんかで、その昔、損なわれた、自尊心の毀損(きそん)を恢(かい)復(ふく)する事など、出来ると思いますか。彼等の心の傷は、世の男女がおしなべて体験する、人生の失敗や、失恋如きの傷とは、その性質に於いて、根本的に、違う質(もの)なんです。彼等は生まれながらにして、既に、全身に深く、そして多くの罅割れを抱えていて、後、ほんの少し負荷が掛かれば、簡単に、彼らの心は、粉々に壊れて仕舞います。この子達は、そんな自分の果敢さと、薄氷の上を進む様に、剣の刃の上を歩く様に、終生、それと対峙して行かねばならないのです」

「酷い・・・」

「だから、現実、統計的に見ても、彼等の殆どが人生の何処かで破綻してしまいます。

そして、その破綻を、我々はどうする事も出来ない。救う事も出来なければ、癒す事も出来やしない。ただ、彼等が破綻して、ある者は職業的犯罪者に、ある者は麻薬の世界に墜ちて行くのを、指を咥えて見ているしか、ないんです。僕は、だから時々、自分がしている事が、まるで砂漠に水を撒いている様に不毛に感じる事が有ります。否、僕だけじゃない。この仕事に携わっている人達は、皆、僕と同じ虚しさを抱え、この仕事をしている筈です。でも、どんなに頑張っても、どうすることも出来ない。どうしてあげる事も出来ない。無力だ、僕は、なんの役にも立たないクズのような人間だ。同情心と、憐憫を、自己満足で垂れ流す、くだらない人間なんだ」

・・・辛かったね、先生・・・

床と天井がひっくり返る様な感覚と同時に、曾根は、惠の言葉を聞いた。

「僕はいったい・・・今・・・・何が起こった・・・」

曾根がそう思った時、もう惠の爪は曾根の背中に食い込んではおらず、その小さくて温かい掌は、優しく曾根の背中を撫でていた。

「大丈夫、大丈夫だから」

その場所の、何に対して投げられているかもわからぬ惠のその言葉は、しかし、曾根の根幹にある苦しみに手を伸ばし、優しく触れて来る掌は見る見るうちに曾根の苦しみを和らげて行った。惠に「大丈夫」そう言われる事で、何の根拠もなく、曾根の苦しい心は、癒され、救われていくのを感じている。

「これが、私です、先生」

「き、君は、い、いったい、何を・・・」

「私は、安樂惠瓊の教団で、これをしていました」

アメリカのとある州でこんな実験が行われた事がある。実験施設で男性の精子を採取し、プレパラートの上に生きたまま泳がせておく。その男性を約7000キロ離れた別の州に移動させ、女性と性行為に及んでもらう。すると、なんと、プレパラートに採取した男性の精子が、男性の性行為に反応して活気づくと云うのである。

7000キロも離れた場所の男性と男性の精子は、いったい、どんな方法で連携をしているのか。人間には、意識には登らない不思議な力がある。科学で解明出来なくても、医学的根拠がなくても、惠にはその力が備わっていたし、それは惠の意志とは別に、人の心の病を診抜き、癒した。

しかし、その力は諸刃の剣で、誰かを癒す度に、惠はそれと相応するダメージを受け、苦しむ。だが、そんな事は関係ない。彼女の母親にとって、それが金になるのなら、惠の苦しみなど関係がなかった。惠のその力を知った母親は、惠のそれを金儲けに使い始めた。

小さな村の中で、私のそれは直ぐに噂になった。そんな私の噂を聞いて母親の元を訪ねて来たのが安楽寺の住職、安樂惠瓊だった。私は彼の背に手を回し、私のそれを、彼に施した。彼に私の施しは、実は必要なかったのかも知れない。彼は苦しんでいたのではなく、ただ、迷っていただけだからだ。

彼は施しの後、小さく頷いて、私を養女にと母親に申し出た。だが、母親にとって私は唯一の収入源である。母親は当然、彼に金を要求した。しかし、彼は、現金の代わりに、母親に対し教団役員の職を与え、福利厚生を完備し、給料を支払うと約束をした。彼は母親ともども、私が置かれた環境を救いたかったのだろう。こうして私は観世音菩薩の生まれ変わりと称され、私たち母子は教団に入信、彼は新たな宗教法人「MOWA亜細亜救世教」を立ち上げ、私は生き仏として人々から拝まれる存在となった。

私はそれから毎日、信者の悩みに耳を傾け、その懊悩を、この力で癒す事を繰り返した。でも、暫くすると、左右の肺と肺の真ん中に、ザラリとした違和感を覚える様になる。最初のうちは、眠れば快復していた。しかし、快復は日を追うごとに遅くなり、やがて、そのザラリとした違和感は快復しなくなった。そしてその違和感が、竟には違和感などではなく、確実な肉体的痛みとなり、私は恵瓊にそれを報告した。

「お前のその力は、本来、生身の人間が持つべき力ではないのだろう」

教団に来て丁度三カ月が過ぎた頃、私は惠瓊に連れられ、川のほとりにある森に来ていた。そしてその鬱蒼とした森の中を進んで行くと、糞尿の匂いと、牛の泣き声が聞こえて来て、やがて、食用牛が飼育されている牛舎が現れた。

「惠、許して欲しい。お前を教団に招いた本当の目的が、ここにある」

惠瓊は惠にそう言うと、牛舎の地下に続く、鋼鉄で出来た扉に鍵を差し込む。蝶番には赤茶けた錆びが浮いていて、長い時間、開けられることの無かった扉が、ギシギシと重く沈んだ音をたてながら開いた。惠瓊に手招かれ、惠は数段の階段を降りた。するとそこには、鉄格子が成された地下牢の様な場所がある。

「これが、私の真意だ」

惠瓊はそう言うと惠の横に進み、地下牢の奥を指さした。惠瓊が指さした奥の暗闇から、線の細い人影が歩み出て来る。

「人・・・誰なの」

「私の・・・息子だ・・・」

暗闇から歩み出て来た少年は、太い鋼鉄で出来た格子の前に立った。外側に居る惠の鼻先に息を感じるくらい近くに、その少年は近づいて来た。少年は痩せていた。身長はさほど惠と変わらなかったが、手足が異常に長く、まるで蟷螂の様だ。

「栄治、ひさしぶりだな、調子はどうだ」

「はい、あれから、沢山本を読みましたよ。沢山、反省もしました。もう大丈夫です。ね、ほら」

栄治は屈み、足元に散乱していた本を一冊拾い上げ、それを惠瓊にかざした。本のタイトルは、大河の一滴、著者は五木寛之。しかしその本は、ページを繰られた形跡はなく、新品同様である。

「出してくださいよぉ、お父さん」

栄治の猫なで声は、男の子とは思えぬほどに少女的で、惠は自分の耳を疑うほどだった。栄治はそのままの猫なで声で、今度は惠瓊と惠の足元に土下座をし、その懇願を繰り返した。

「惠、もう少し後ろに下がれ」

惠瓊は惠にそう言うと、懐から金属製の鉄鞭を取り出した。惠は惠瓊の言葉に従がい、すっと一歩足を後ろに引く。

・・・キン・・・キン・・・キン・・・

惠瓊が鉄鞭を指で弾くと、耳障りな高い金属音が檻の壁に響く。

「うぎゃあぁぁぁ」

その途端、栄治は本を右手に握ったまま、力一杯にその右手を惠に向かって伸ばした。

「あっ」

栄治の腕は、思いのほか長く、そして、本に隠されていた食事用のナイフの切っ先が惠の喉元を襲った。惠瓊は惠の肩に手を掛け、惠を後ろに引く。

「大丈夫か、惠」

惠の顎の下辺りに、薄らとした赤い血液の線が現れる。

「だ、大丈夫です、掠っただけ」

惠瓊は惠を地面に座らせ、簡易的なマスクを施すと、懐から取り出したお香の様な物に火を点ける。

「それは、なんですか」

「アルカロイドを含む植物を乾燥させた物だ。これを嗅ぐと、栄治の興奮が治まると、芙紗子(ふさこ)に手渡された」

「芙紗子、さんって?」

「この子の、母親だ。これの母親は、ある日突然、姿を消した」

惠瓊は、出家する以前、何の変哲もない、大学生だった。性格は地味で、生真面目、酒も煙草もやらず、博打も打たない。趣味と云えば読書くらいなもので、休日などは、殆ど外出をする事もなく、狭い1Kの下宿で本を読んで過ごした。

白セキレイが、少ない食べ物を探すのに躍起になって、深々と降り積もる雪の上に長い尾の影を落としている。雪曇りの晴れ間、惠瓊は本屋に出掛けていた。下宿に戻ると、駐輪場の物陰に、何者かがしゃがみ込んでいる。しゃがみ込んでいるのは若い女だった。

「あの、どうしました」

異常を感じた惠瓊は、女に近付き、覗き込むように様子を窺った。すると、女の腹は臨月の膨らみを露わにしていて、しかも、足元から湯気が立ち上っているのである。女が破水している事は、惠瓊にでも直ぐに解った。

「ちょっと待っていて、す、直ぐに救急車を」

惠瓊はそう女に告げると、慌てて立ち上がろうとした。しかし女は、そんな惠瓊の腕を掴み、激しく顔を横に振った。

「お願い、彼方の、彼方の部屋に運んで」

緊迫した女の様子に、惠瓊はその乞いを受け入れるよりなく、女を部屋に担ぎ込み、湯を沸かし、ありったけの敷布やタオルを女の下に敷いた。平日の白昼、他の学生共が出払った静かな下宿に、元気な産声が響いた。

それから数か月、女は産まれた子供に栄治と名付け、自分は芙紗子と名乗っただけで後は何も話さなかった。しかし、芙紗子は、アナキズム、プルードン主義、(バクーニン主義、クロポトキン主義、アナルコ・サンディカリスム)、マルクス主義(トロツキズム)、毛沢東主義など、新左翼の思想についてはよく話した。惠瓊も当時は学生である。これらの話から、芙紗子の素性を惠瓊は理解した。しかし、惠瓊はそれを知っても、芙紗子を追い出すと云う事はしなかった。

若かったのである。何をするでもなく、本ばかりを読んでいた惠瓊にとって、芙紗子の出現は、人生の転回点に思えた。惠瓊は芙沙子が説く思想に昏倒し、やがて二人は男女の関係にいたる。惠瓊とって初めての女性である芙沙子に、思想的にも、精神的にも、そして肉体的にも、溺れ、やがて、彼にとって、芙沙子は人生の全てになって行った。

そんなある日、芙沙子は【パレスチナに行きます】たったそれだけをメモに走り書きし、栄治と共に姿を消した。惠瓊にとって、芙沙子と栄治の失踪は、我が身の全てを否定されたに等しかった。

「芙沙子、何故だ、何故、俺を連れて行かない、俺たちは、同志じゃなかったのか」

全てを失った。そう感じた惠瓊は、大学を退学し、真言宗が主宰する、とある佛教大学に入学する。俗世を捨て、出家し、僧籍を目指したのだ。

大学を卒業した惠瓊は、僧籍を取得し、僧となった。厳しい修行を終えた頃、惠瓊の中で芙沙子から擦り込まれた思想も、芙沙子と栄治の存在自体も、もう朧げになりつつあった。そんな時、突然、芙沙子が、成長した栄治を連れて惠瓊の前に現れたのだ。

その昔、法然上人がした様に、それは瞳から炎が噴き出すかの如く、仏経典を日々、読み漁って来た。救いも、悟りも無いこの世界で、必死に自分の中の穢れと戦って来た。 漸く体裁も整い、精神に安定も覚えて来ていた。ところが、芙紗子の顔を見た途端、それまで積み重ねたものは、一瞬にして消え去ってしまった。

袈裟を掛けたまま、門前に立つ芙紗子を抱きしめた。そして、そのまま、務める寺を逃げ出し、恵瓊は芙紗子のアジトへと向かった。

彼女のアジトは三桁の県道沿いにある、少し変わった建物だった。一階部分は、全て車庫。その車庫の上に、居室があり、ちょうど、縄文時代の高床式倉庫の様な造りをしている。居室に登るには、簡易的な細い鉄の階段を登るしかなく、その階段を閉鎖してしまえば、容易に居室に侵入することは出来ない。そして、居室の北側にあるトイレの窓は山の斜面に接していて、もし何者かに襲われても、そこから山中に脱出することが出来た。それはまるで小さな戦闘用の砦の様だった。

惠瓊はそこに招かれ、大きな水槽が置かれた横のソファーに腰を下ろした。そして、道中、疑問に感じていた事を、芙沙子に問い質し始めた。

「芙沙子、どうして栄治と自分に手錠なんか掛けているんだ」

「この子は、こうしておかないと、何をするか分からないから」

「何をするか分からないって、いったいどんなことをすると言うんだ」

「主に、殺生よ。動物なら、なんでも殺してしまうの。失敗だった。戦場に出すのが早過ぎたのね」

惠瓊は栄治を見た。体格は同じ年齢の子供に比べれば、随分と大きいかもしれない。しかし、栄治を見ていると、俯いたまま、おとなしい態度で芙紗子に着き従がい、至って従順である。とても手錠が必要な様には思えない。

「芙紗子、俺が見る限り、栄治にそんなもの、必要ないと思うんだが」

惠瓊の言葉に、芙紗子は小さく口角を歪め、腰のあたりから抜き出した金属製の鉄鞭を指先で弾いた。

キン・・・キン・・・キン・・・

「うごぉあぁぁあぁぁぁーー!!」

その甲高い音を聞いた途端、栄治は狂った様に惠瓊に襲い掛かろうとした。

「うわぁぁぁ」

突然の事に、惠瓊は座っていたソファーから飛びのき、強か腰を打つけて床に転げる。

「ふふふ、この子が大人しいのは、私が調教しているからよ。この手錠を外してしまえば、もうこの子は、私にも手に負えない」

惠瓊は転げた床で腰を押さえながら顔を上げる。

「芙紗子、お、お前、いったい、この子に、何をしたんだ」

「心を取り除いたの、弱い心。共産主義に最も不必要な、軟弱で下衆な人間の愚かな心を、取り除いたのよ。明日の共産主義を担う為にね」

 話し終わった惠瓊の顔を見て、惠は憐れみを含んだ小さな声で惠瓊に聞いた。

「芙紗子さんは、今、何処に」

「多分、北朝鮮に居る」

「連絡は、取れるんですか」

「いや、音信不通のままだ」

「なら、何故、芙紗子さんが北朝鮮に居ると分るんです」

「レバノンの首都ベイルートで、日本の日立製作所の関係者を名乗る者が、容姿端麗で未婚、フランス語ができる女性を秘書として募集すると、現地の女性に応募を呼びかけ、そして応募の結果、採用が決まった女性四人(一説には五人とも言われる)を目的地であるはずの日本ではなく、ベオグラード経由で北朝鮮に拉致する事件があった。芙紗子は、この事件に関与していたと、私に話した」

「拉致事件に、関与って」

「そうだ、芙紗子は、赤軍から、北朝鮮のスパイになった女だ」

芙紗子はこの事件の後、栄治を連れて帰国した。そして惠瓊に栄治を託し、再び姿を消したのだ。

「芙紗子が書いた置手紙には、この子の実の父親の名前が書かれていた。そして、もしこの子の処分に困ったら、その男を頼るようにとも書かれていた」

精製されてはいない、焦げ臭いアルカロイドの匂いが地下に充満すると、栄治はぱたりと地面に転がり、眠り始めた。

「この子の父親って、いったい、誰なんですか」

「広域暴力団、金城組、組長、キムジェナン、日本名、金城修三」

「ヤクザの組長、なんですか」

「そうだ。私は、この子を、なんとしても、普通の人間に戻してやりたい。暴力団の組長になど、渡せるものか」

惠瓊はそう言うと、それまで見せたことの無い苦悶の表情で、惠の手を握った。

「惠、頼む。私はお前の癒しを受けた時、全てを悟った。私は間違っていたのだ。もう芙紗子とも、北朝鮮とも縁を切る。だが、この子だけは、この子だけは、何としても、救いたい。この子を救えるのはお前しか居ない。頼む惠、この子の、この子の穢れを、禊いでやってはくれまいか」

惠は、先ほど栄治に傷つけられた首の傷跡に手を触れる。ナイフの切っ先が惠に触れたのは、ほんの一瞬だった。しかし、その一瞬のコンタクトでさえ、伝わってきたのだ。この、栄治と云う人間の、果てしも無い、心の闇が。それは、想像もできない、深い、深い、色の無い世界。ただ、黒と白それ以外、どんな色も存在しない、褪せた世界。

・・・こんな心の闇を・・・どうやったら・・・禊ると云うの・・・

「彼は、何時からここに」

「芙沙子が姿を消してからずっとだ。色々と試みてみたが、私の手には負えなかった。だから、ここにずっと閉じ込めている」

惠瓊が言い終わると、惠は無言で再び鉄格子の前に立った。

「ここを開けてください」

「な、何を言っている、今見た通り、こいつに近付けばただでは済まん」

「でも、離れていては、何も出来ません。私をこの中に入れて下さい」

「・・・よかろう、ならば、私も一緒に入ろう」

惠瓊は鉄格子の施錠を外し、扉を引いた。酸化した鉄と鉄が擦れるギィと云う不快な音がすると、何か月も開かれなかったその扉が開く。

「惠、これを」

惠瓊はアルカロイドを含む植物の乾燥粉末を惠に手渡そうとする。

「そんなもの要らない」

「し、しかし」

「要らないと言っている、火を消して」

惠はそう言うと、躊躇うことなく眠っている栄治に近寄り、腰を下ろし、そして、栄治の首にある頸動脈に指をあてる。静かな脈が暫く、トン、トン、と、惠の指先に伝わって来る。

「惠、な、何をしている」

「意識の無い人の心には、触れる事が出来ないんです」

トン、トン、トン

静かな脈拍を感じながら、惠は目を閉じている。

トン、トン、トン、トン、トン、トン・・・ドクンッ!

凪の海の様に静かだった脈が、その海底で地震が起きたかの如く、ひとつ大きく揺れた。刹那、弾かれた様に起き上がった栄治の拳が、惠の顔面に襲い掛かる。しかし、その拳は惠の耳たぶを掠めただけで、惠を捉える事が出来ない。

「随分と腕が長いけど」

跳ねる様に飛び起きた栄治の拳が空気を切り裂き、次々と惠を襲い続ける。しかし、栄治の拳は一発も惠に当たらない。

「来ると分っていれば、避けられる」

次の右ストレートが惠を襲う。惠はその軌道に合わせる様に自分の拳を栄治に向けて放った。

ガキィ!!

栄治の伸びきった拳はまた虚しく空を切り、反対に惠の拳は、栄治の顎の骨を砕き、脳を激しく揺らす。

「うぐおぉぉぉ」

一切の平衡感覚を失った栄治は、獣の様な声を上げ地面に倒れる。

「ごめんね」

そして更に追い打ちを掛ける様に、惠の足が、倒れた栄治の鳩尾を力一杯に踏みつけた。平衡感覚を奪われ、鳩尾を蹴られた事によるチアノーゼが、苦しみに歪んだ栄治の顔面を蒼白にしていく。野生動物は、人の様におごることなく、命の危険に対し純粋に恐怖する。勝てないと思えば、躊躇うことなく、恥じる事無く逃げ出そうとするものである。栄治は、そう言った意味で、殆ど野生に近いと言っても過言ではない。勝てない。そう感じた途端、栄治の野生は惠にある種の恐怖を感じた。惠は倒れている栄治の胸ぐらを掴み、壁に引き上げると、今度は平手打ちで栄治の頬を叩く。

「大丈夫、大丈夫だから」

そう言いながら、惠は何度も、何度も、栄治の頬を叩く。しかし、栄治はその時、不思議な感覚に捕らわれていた。

「大丈夫」

頬に感じる平手の痛みから伝わってくるのは、幼い頃、芙紗子に殴られ、蹴られた痛みとは、全く違う痛みなのだ。

「大丈夫、辛かったね」

そう言いながら、惠に叩かれていると、栄治の心は、何の根拠も無く、今まで、一度も感じたことの無い、安寧と云う感覚を覚えるのである。三半規管が平衡感覚を取り戻した。鳩尾の痛みも引き、チアノーゼも治まり、回復した呼吸は栄治の顔に普段の血色を戻す。もう栄治は十分に反撃を企てる体力を回復している。だが、栄治は反撃をしなかった。否、もはや、惠に攻撃をすると云う事の意味を失っていた。栄治の瞳から、涙が流れる。しかしそれに反して、涙に濡れる栄治の頬には、幸せの皺が刻まれていた。

惠は、栄治を打つことを止め、掴んでいた胸元の手を緩める。栄治は項垂れ、そこに座り込み、子供の様に背中をしゃくり、シクシクと泣き続けた。

「安樂さん、栄治くんを、ここから出してあげて・・・」

背後に居る惠瓊を振り向き、惠はそう言った。しかし、その直後、惠は、足元から崩れ落ちる様にその場に倒れた。

「お、おい、惠、大丈夫か」

惠瓊は急ぎ、倒れた惠に歩み寄る。胸を押さえ、荒い息をしている惠の胸元が、あからさまに色素の異常かと思えるほど茶褐色に変色していた。

「お前・・・こんなになってまで・・・すまん・・・」

超純水と云うものがある。主に産業分野で用いられる用語で、極端に純度の高い水を指す。純水の製造方法では取り除けない有機物や微粒子、気体なども様々な工程を経て取り除かれているのが主な特徴である。

極限まで純粋な水を得ようとする科学史上最初の試みは、1870年代にフリードリッヒ・コールラウシュによって行われた。窒素ガスと石英器具を駆使した特製の蒸留装置で42回蒸留を重ねて得た精製水の電気伝導率として、0.03ミューs/㎝(18度)の値が記録されている(現在の理論値は約0.055ミューS/cm)。この結果、水は非電解質ではなくわずかに解離することが実証され、水のイオン積を求める上で重要な功績となった。20世紀に入り、イオン交換樹脂の登場によって容易に電解質を除去することが可能となり、水の精製コストは劇的に低下した。これ以降、水の品質によって成果を左右される種々の分野で、純水、超純水が活用されることとなる。

この世界で、一番何もかもを溶かし、洗浄できるのは、実は、どんなに優れた洗剤でもなく、化学物質でもなく、、限りなく純粋な「水」なのである。純粋な水と云うのは、どんなものでも溶かし、その穢れを洗い流す。だからこそ、純粋と云うそれは、どんな物にも穢されると云う裏側を持っている。惠が持つ、本来、人が持つべきではないほどの純粋は、数多の人を天使の様に癒した。しかしそれは、惠を中の純粋を穢し、堕天使に変えていくと云う危機を、同時に孕(はら)んでいた。


             2

私の上半身は、左から右に掛けて歪んでいて、下半身は、右から左に掛けて歪んでいた。どうやら、その私は、物理的存在ではなく、極めて不安定な非物質的存在だった。

回っているのか、吸い込まれそうになっているのか、よく分からない状態で、私は誰かと話している。それは、とても優しく、とても崇高にして、尊敬できる何かだ。それの声を聴いている私に疑問はなく、その声が私に伝える事に、ただ、ただ納得するばかりなのである。そう、心から、それの話す事全てに、共感の中、私は微笑んで頷いていた。ある瞬間、

「あぁ、そうか、そうだったのか」

私は、心からそれの言葉に得心をする。しかし、何に得心し、何に納得しているのか、それは思い出せない。私の身体が、それの前で反転し、渦を巻く様に吸い込まれていく。身体に、遠心力の様な、それでいて圧力の様な、どうにも説明できない力が加わると、私はそれの居るその世界からここに、引き戻された。

め・・・さん・・・

めぐ・・・さ・・・ん・・・

めぐみ・・・さん・・・

床の間に飾られた青磁の茶器が目に入る。柔らかい金木犀の香りが室内に漂っていて、特別弱々しいと云うでもなく、また、特別元気と云う訳でもないその声は、しかし、執拗に、私に、私の名前を呼び掛けて来る。

「わぁ、良かった、意識が戻った。御師様、御師様」

非物質だった先程の記憶が急速に失われていく。それと引き換えに、私は、自分の名前や立場、この世界に於ける自分の属性を再認識して行く。所謂、夢から覚めると云うやつだ。

「おぉ、惠、良かった。意識が戻ったか」

それはよく見知っている惠瓊の顔だった。

「あぁ、良かった、良かったですよぉ、胸元のあざも、すっかり治って」

しかし、その横には見慣れない顔がある。どうやら寺の小坊主の様だが、どうにも上手く思い出せない。

「彼方は・・・」

「何ですよぉ、剃髪しただけですよぉ、思い出しませんか」

「あ・・・栄治・・・くん・・・なの・・・」

作務衣にモンペを着用している栄治が、すっかりと剃りあがった青い頭をポンポンと叩いて見せる。

「いやだ、フフフ」

瞼がまだ薄いままの惠が、それでも栄治のそれに笑いを漏らす。

「なんですよぉ、笑わないでくださいよぉ」

口ではそう言いながら、しかし栄治は、お道化てまたじぶんの青い頭を叩いてそれを惠に見せる。

「ごめん、ごめん、良く似合っているよ、栄治くん」

次第に広がって行く視野。そこに映る惠瓊と栄治の姿は、初秋の涼しげな風に漂う金木犀の香りの様に穏やかで、惠には、この二人が本当の親子のように見えた。

惠瓊に呼ばれて来た医師が、診察を終え、栄養点滴の針を惠の腕から抜く。

「もう大丈夫ですよ、軽い食事から身体を慣らして下さい」

あの後、三日三晩、眠り続けていたと惠瓊に聞かされた。

「とにかく今はゆっくり養生しろ、母親の事も、進学の事も、すべて私に任せておけ」

惠瓊は慈愛に満ちた笑顔でそう言うと、惠を栄治に任せて席を後にした。

「惠さん、どうです、食欲はありますか」

惠瓊を見送った栄治が惠の枕元に跪き、心配そうに顔を覗き込んでくる。その顔にも、そして瞳の奥にも、もう、あの暗闇は微塵も垣間見ることは無かった。

「うん、少し、お腹空いたかな」

惠は小さく微笑み。栄治の質問に答える。

「分りました、直ぐに用意して来ますね」

栄治は満面の笑顔になると立ち上がり、枕元を離れた。

「もう藪蚊も余りありませんし、障子はこのまま開いておきます。ほら、木蓮がとても綺麗なんですよぉ」

立ち去ろうとする栄治の背中に目を向けると、広々とした境内を包む甍の先に、可愛らしい蕾を宿した木蓮が連なっている。静かだった。幽かな風の動きと、それが運んでくる金木犀の香しかない。栄治の足音が遠ざかると、惠は見るともなく障子の外に目を向ける。仄白い雲が、ゆっくりと、それでいて堂々とした動きで青い空を移動していた。遠いところから、近いところに、惠の視軸が落ちて行く。

それは緑だった。ささくれた棘のある鎌の様な二本の腕には、捕獲した昆虫の痛々しい骸がしっかりと握られていて、ガラス玉の如く澄んだ眼球の中心には小さな黒目があり、その感情を持たない残虐な黒目は、明らかに惠を見ている。

「蟷螂(かまきり)・・・」

澄んだ眼球に穿たれた蟷螂の黒い目は、惠の視線がどの角度から蟷螂を見ても、それを追ってくる。突如、頭の中で何かが聞こえた。しかし、それは暴風雨に掻き消される人の叫び声のように、まるでその内容を聞き取ることが出来ない。

「惠さん、食事、お持ちしましたよ」

膳を抱え、再び部屋に姿を現した栄治の声に、惠は振り返る。長い腕に抱えられた膳が昆虫の骸に見え、一瞬、栄治の姿が蟷螂と重なる。

「どうしたんですよぉ、そんなに驚いて」

栄治は膳を置くと、惠の背中を優しく抱き、床から起こそうとした。栄治の掌が体に触れた途端、惠は得も言われぬ違和感に襲われる。禊いだ栄治の暗闇を感じたのだ。しかしその暗闇は、栄治の中には無いのである。

憎い・・・どうして・・・私ばかりが・・・どうしてこんな目に・・・

また、頭の中で声がした。しかし、今度は、その内容を明瞭(はっきり)と感じた。

「やめて!私に触らないで!」

惠は栄治の手を払いのけると、頭を抱え前のめりに蹲った。

・・・禊げていない・・・彼のあの暗黒は・・・私の中にある・・・

「大丈夫ですか、惠さん」

栄治の声に惠は顔を上げる。栄治が惠を見る目は、まるで邪気を感じない透き通った目をしていた。

・・・鬱陶しい・・・お前の所為で・・・

「だ、大丈夫だから、そっとしておいて」

惠は自分の中で聞こえるその声をかき消すように再び頭を抱えた。声に負けてはいけない。栄治の齎した闇の声を聴いてはいけない。そうは思っても、その声はそれから毎日、片時も休まず惠を苛んだ。栄治は献身的に惠の看病に勤しんだ。惠から得た純真な心で、ただ純粋に、惠を思い遣り、惠の回復を心から願った。

数か月もすると、微生物が汚染を分解、浄化して行く様に、惠の心は小康を得ていた。しかし、惠の中に根を下ろした穢れは、もはや惠の一部となり自分に溶け込んでいるのが判る。

もう、前の自分には、戻れない・・・

それは、確かに恐怖だった、だが、そもそも、人間とはそれが普通であり、自分は普通の人間に戻っただけなのだと思うと、少し安心をしているのも確かだった。

もう、誰かの為に、あんな苦しい目に遭わなくても済む・・・

惠はそんな事を想いながら、伽藍とした境内を独り散歩していた。

・・・ナァーオ・・・

境内を歩いていると、草むらの中で猫の泣き声がした。一度だけ、絞り出すような悲しい声で泣いた後、それはもう鳴かなくなった。しかし、次に聞こえて来たのは、か細い、小さな、小さな泣き声。

「ミィ・・・」

惠は声のする方に近寄り、腰を低くしてそれを探してみる。それは薪小屋辺りの下草の中に横たわっていた。力尽き、横たわる母猫の横で、真っ白な子猫が一匹、縋り付く様に母猫の顔を舐めている。もう、二度と動くことは無いであろうその骸となった母猫と、それに寄り添い鳴く子猫に、惠はそっと近づく。

「シャーーーーッ」

惠の接近に気付いた子猫は、母の骸を庇う様に、子猫とは思えぬほどの強い威嚇の声をあげた。

「大丈夫、心配しないで」

惠の左手が母猫の骸に触れる。すると、風も光も、惠と骸を取り巻く全てが穏やかになる。目には見えない、そして、言葉では説明の出来ないであろう何かが、惠を通して空に昇り、それと同時に、白い子猫が惠の右手に縋り付いて来る。

「おいで」

「ミィー」

惠は子猫を抱き上げると、愛おし気に声を掛ける。

「あなたは、真っ白だね、私と似ている」

「真っ白な子猫か、白変種だな」

愛おし気に子猫の顔を撫でていた惠の背後で惠瓊の声がする。

「白変種・・・」

「そうだ、メラニンに係わる遺伝情報の欠損により白化したアルビノとは違って、白変種は、突然変異だ」

「突然、変異・・・」

「うむ、諸行無常と言ってな、この世界は時間の流れの中で、あらゆるものが、留まることなく変化をしている。それは、目には見えなくとも、耳に聞こえなくとも、変化をしないものは無く、あらゆるもの凡てが常に変化している」

「諸行無常」

「そうだ。我々の様な生物も、その時々の環境に適応しながら変化を続けている。それが、進化と云うものだ」

「進化・・・」

「しかし、偶に、環境の変化が激し過ぎて、生物の進化が環境の変化に間に合わない時がある。そんな緊急事態に対して、生物が生存戦略的に行うのが、突然変異だ」

惠瓊は惠の横に歩み寄り、白い子猫を見下ろした。

「この地球の海にアミノ酸と云うのが出来、それが集まりタンパク質となり、そこから生物は誕生した。地球の環境は常に変化を続け、その変化に対応しながら、生物は進化して来た。原始の生物はその時々の環境に合わせ、肉体を進化させてきたが、脳の進化に伴い、生物は肉体的進化とは別のベクトルの進化も同時にして来た」

「肉体とは別の、ベクトルって」

「心だ」

「心・・・」

「そう、目には見えぬ、心と云う質(もの)を進化させて来たのだ」

惠瓊は自分の右人差し指を、そっと子猫の鼻に近付ける。子猫は惠瓊の指に、不思議を瞳に浮かべながら嗅いでみたり、爪先で触ってみたりする。

「心、そしてその心を支配している(感情)と云うのは、最初、恐怖から始まったのではなかろうか」

「恐怖・・・」

「うむ。耳も聞こえず、目も見えず、感覚器官の殆どが未発達だった最初の生物の心にあったのは、(死ぬのが怖い)唯それだけだったと、私は思う」

惠瓊の指先が子猫の眼前で八の字を描くと、子猫の目は、その軌跡をずっと追いかけている。

「恐い。その感情は如何にして自分の命を守るか、それを生物に教え、学習させた。そして何かを守る為には、自分を脅かすものと戦わねばならない。何かと戦い、それに勝ち抜くには、怒りが必要だ。つまり、恐怖と怒りは、生物の、もっとも原始的な感情と言える」

突然、子猫の目が鋭くなり、子猫は惠瓊の指に咬みついた。

「この子にも、それは摂理として生まれた時から備わっている」

惠瓊は自分の指を甘噛みする子猫に視線を向けたままそう言う。

「恐いものから逃げる、弱いものを捕食して自分の命、子孫の命を育む、世界中で繰り広げられる弱肉強食と云う悲劇も惨劇も、それは決して間違いではなく、生物の進化と云う物語の一部だ、しかし」

子猫を見下ろしていた惠瓊の視線が、今度は惠に向く。

「人は・・・獣の心から進化した人の心は、それではいけない、獣が続けて来たそれを、続けてはけない、と、そう思う様になった、それが、獣にはなかった、人間だけが持つ、(優しさ)と云う感情だ」

惠は、惠瓊の視線の先にある子猫をじっとみつめる。

「お前が今、この子を見て感じる感情、それは、獣には無い、(優しさ)と云う感情だ」

「やさ・・・し・・・さ・・・」

「生き物は、恐怖から始まり、怒りを覚え、悲しみを乗り越え、人に至り、今、優しいと云う感情を知ろうとしている、だが、人間の持つ優しさ、それは未だ、不完全なものなのだ。例えば、お前の心臓は、お前の肺は、お前の中で動いているが、お前の意志で動いていると云う実感があるだろうか」

「いいえ、自然に、動いています」

「人は、何かに優しくする時、自分の意志の働きで、それを行う。心臓が動く様に、肺が呼吸する様に、自然ではなく、飽く迄もその行いの原動力は、意志の力だ。人の意志は、それほどに強固なものか。残念ながら、肺が動く様に、心臓が動く様に、命の限り強固に何かを行えるほど、人の意志と云うのは、強くは無い」

ひとしきり惠瓊の指先にジャレついていた子猫が、疲れたのか、安心したのか、その小さな瞳を閉じ、眠りに落ちて行く。

「共産思想は、本当に理想的で、素晴らしい思想だ」

瞳を閉じた子猫の眉間にチョンと指先を触れると、子猫に向けられていた惠瓊の視線は再び惠の顔に据えられる。

「しかし、我々には、まだ早すぎる思想なのだ」

「早すぎる・・・」

「軟弱な意志に頼る優しさしか持たぬ人間には、まだ追いきれぬ思想だ。どんな事があろうと命の限り動き続ける心臓や肺の様に、自分を包む世界を愛し抜く、途絶えることの無い博愛がなければ、この思想は反映される事無く歪んでしまう」

「歪んで・・・しまう・・・」

「芙紗子の言いなりに、この教団を立ち上げ、この民主主義の日本内部に、共産主義として独立した自治区を創ろうとした。しかし、 芙紗子に育てられた栄治を見て、惠、お前と出逢って、私は、その事に気が付いたのだ。共産思想は素晴らしい思想だ。だが、それは、人間が、本当の優しさと云うものを手に入れた時、初めて社会に反映される思想であり、考え方だ。心がまだ未発達な、現在の人間には、荷が重すぎる」

「荷が、重い・・・」

「我々は未熟な、首の短いキリンの祖先、鼻の短い像の祖先の様なものだ。彼らは高い場所に有る食物を食べることが出来なかった、しかし、進化の過程に居た彼らは、それを食べたいと願う内に、突然変異や進化を繰り返し、首を伸ばし、鼻を伸ばし、高い場所の食べ物を取り、食べられる様になった。人の心も、突然変異を繰り返し、理想と云う名の果実を自分の物にしようと、日夜、進化している。しかし、まだ、我々に、共産思想と云う理想の木の実を食べることは出来ない。それは、キリンの首や像の鼻の様に、人の心が、それを得るまでに進化出来ていないからだ。」

「人の・・・心は・・・進化、出来て・・・いない」

「そうだ。だからその重さに耐えきれず、共産思想を掲げる国、共産的宗教思想を掲げ、テロを繰り返す芙紗子の様な人間は、思想の重さに耐えきれず、心が歪み、本末を忘れ、残虐と殺戮の外道に堕ちてしまう。だが、惠、お前は違う」

「私・・・」

「お前の力の正体は、人がまだ見ることの無かった、本当の優しさと云うものだろう」

「本当の・・・優しさ・・・」

「お前の中の(優しさ)は、我々の(優しさ)とは違う。お前の中の優しい気持ちは、我々の様に、意志の力を必要としていない。心臓が体内に血液を送る様に、肺が酸素を体内に送る様に、自然に行われる。」

惠は惠瓊の顔を見上げた。惠瓊は惠の頭に手を乗せ、ひとつクシャリと髪を撫でた。

「お前は、この白変種の子猫と同じだ。戦争を、兵器を放棄できず、絶滅の危機を感じる人間と云う種が生み出した、突然変異だ」

「突然・・・変異・・・」

「御師様―、惠さーん」

惠の床に様子を見に来た栄治が、息せき切って薪小屋に居た二人を見つけ駆け寄って来る。

「ハァ、ハァ、ハァ、どうしたんですよぉ、突然いなくなるもんだから、ハァ、ハァ、ハァ、驚いたじゃないですかぁ」

栄治はそう言いながら、少し戸惑う様な目になる。

「これ・・・なんです?」

栄治は惠の腕の中で眠る子猫を指さした。

「この子は、そうだなぁ、うん、ミィ、ミィちゃんよ」

「ミィちゃんて、お父さん、ここで、こんな、いいんですか」

腕に抱いたミィへ愛おし気に視線を落とす惠に、惠瓊は小さく頷く。

「よかろう、特別に許そう、大切に育ててやれ」

惠は再び惠瓊を見上げ、小さく微笑みながら頷いた。

「そうか、よかったな、ミィちゃん、フフフ」

栄治も惠瓊のそれのように、小さく微笑みながらミィの頭を指の腹で撫でる。

「シャァァーーー」」

途端、薄目を開いたミィが栄治の指を跳ねのける。

「なんですよぉ、少し触れたぐらいでぇ」

「まだ慣れてないのよ、栄治君には」

「ふーん、そんなもんですかねぇ」


              3

あれから私は夢を見なくなった。毎日のように見ていた夢の中でつながっていた、あの誰かとも、もう、会えなくなっていた。あの誰かと会えない事は、私の心を酷く不安定にした。毎日、不安の中で目が覚め、栄治の顔を見ると、更に不安になり、嫌悪が募る。あの誰かに会えなくなったのも、栄治に嫌悪を感じるのも、その原因は、栄治から流れ込んだ、暗黒の所為だ。それに飲まれてはいけない。頭では解っていても、心がそれを拒む。献身的に私の世話をしようとする栄治が、気持ち悪く、更に憎く、私は終に、栄治に対して心を閉ざした。

栄治の暗黒が流れ込んで来た時から、私は天使ではなく、至って普通の人間になったのだろう。私の中の、本来ならば、まだ人が持つべきではない天使の優しさは消えた。しかし、私の中の特別な能力は、まだ私の中に残ったままだった。普通の人間が、天使の心を失い、天使の力だけを持つと云う事が、どう云う事だか解るだろうか。それまで、どんな時にも、一度も感じたことの無い、一度も持ったことの無い感情。母親を殺したいと思った。邪魔者は全部、死ねばいいと思った。こんな世界など滅亡すればいいと思った。そんな感情を持つようになった私に、特別な能力が有ると云う事、それはとてつもなく恐ろしい事だった。もし悪意を持って力を使えば、それは天使の力ではなく、悪魔の所業となる。私は怖かった。暴走する力を、暴走する自分を止められない事が怖くて、怖くて、だから私は・・・

            4

「随分大きくなってきましたねぇ」

栄治はそう言いながら、惠の顔色を窺う様に、ミィの餌を床に置く。

「あの・・・」

この時間になると、栄治は惠の部屋にミィの餌を持って来る。私の中に移植された栄治の闇は日毎、私を浸食していた。

「うるさい、私に話し掛けるな」

「あ・・・はい・・・すいません」

私は子猫のミィを溺愛した。甲斐甲斐しく私の世話を焼く栄治を後目に見ながら。私は何処かで解っていたのだ。栄治が私から得たそれで、真っ直ぐに恋い焦がれている質(もの)が何なのか。それを知りながら、私は、そうなる事を予見しながら、子猫のミィを、溺愛する事を続けた。

一度、フィルターでろ過された純粋は、純粋であれば、純粋であるほど、穢れ安いもの。ある日の夕方。真っ白だったミィが、どす黒く酸化した薄汚い紅に塗れ、縁側に横たわっていた。その傍らに力なく俯き、ぽろぽろと涙を流す栄治は、しかし、少しも悲しそうではなかった。それどころか、放浪と漂泊の末、やっとたどり着いた水源に程近い芝生の上に、漸くやれやれと寝転んだ人の様な顔で泣いているのだ。ミィの骸には五寸釘が、その固い、そしてその冷たく錆びた鋭利な切っ先をミィの中に沈めていた。もう戻れないと思った。天使が心に在る事は、それは諸刃の剣を抱く事であり、私は、自分の諸刃で自分を切り刻んだ事を知る。

「おい」

栄治は私の呼びかけに、放心したままで顔を上げる。

「お前に貰ったもの、返してやる」

私は、私を見上げる栄治の額に手を当てた。

「惠・・・さん・・・」

その時、湧き上がる憎悪を、もう私は、抑える事が出来なかった。

「死ねよ、気持ち悪い、死んでしまえこの変態!私はここを出る、お前の所為で、お前の所為で私は!」

「ごめ・・・んな・・・さ・・・い」

「うるさい、二度と私に近付くな、死ね。この闇に抱かれて死んでしまえ、この出来損ないの屑がぁ!」

私は自分の中に流れ込んだ彼奴の闇を、そして、その時感じていた憎しみの全てをそこに集め、栄治にそれを送り返した。

「うわぁぁあぁぁあぁぁーーー」






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