第10話

 とにかく人の少ない方へ少ない方へ走った。どうにかクルマは動くものの、車体はボロボロだし操作感も格段に鈍ってきている。そのうち動かなくなってもおかしくないだろう。




 そうなる前に、俺は……やると決めたことがあるんだ。




 蜜柑ちゃんは黙って俺の後ろに付いて来てくれている。そのうえ何も聞こうともしない。こんな優しい子を罵倒したんだと思うと、再び自己嫌悪に陥ってしまう。




 とっぷりと夜も更けて、気付けば俺たちは海沿いの旧道を走っていた。蜜柑ちゃんとお父さんが思い出を語らっていた、あの場所だ。




 廃屋と化したホテルの駐車場を見つけ、クルマを停めた。それなりの広さもあるし、辺りに人や車が通る気配も無い。




 『あの……』と蜜柑ちゃんに声をかける。けれど、先の言葉が出てこなかった。ああ畜生、駄目だ。ニート根性丸出しだ。土壇場になろうが頭はちっとも働かないし、意気地もない!




 『おにいちゃん、ありがとうね』と蜜柑ちゃんが言った。




『助けてくれなかったら、わたしどうなってただろ』


『大したことじゃない。礼には及ばねえよ』




 急な感謝の言葉が気恥ずかしくて、気取った言い方をしてしまう。あたかも余裕しゃくしゃくと言った口振りだ。




 しかし、実際のところ俺たちの置かれた状況は酷く悪い。一時の危機は脱することが出来たが、俺も蜜柑ちゃんも素性がバレてしまっている。無人のクルマに轢かれたがる人間は減っただろうが、それでも好奇の目で見られることは免れないだろう。これから先、それはずっと付きまとうことになる。




 つまり、まともな生き方なんてできっこないんだ。




 けど、ひとつだけ……。たったひとつだけ、現状を打開出来る方法があった。それこそが、俺が蜜柑ちゃんの贖罪代わりにできること。




 それは……俺が蜜柑ちゃんのからだを、完膚なきまでに轢き潰すことだ。




 「無人のトラックに轢かれた者は、みな例の女神のところへ送られる」と言うのであれば、クルマの姿になった蜜柑ちゃんにだってそのルールは適用されるはずだ。




 蜜柑ちゃんには、今度こそまともな人生を送ってもらいたかったから。




 だから、俺は喜んでその『送り手』になることを選ぶ。














『無人トラックに轢かれて死ねば、望んだ来世を迎えられるそうだ』


『え、でもそれって嘘だったんじゃ?』


『あれは方便だよ。実際は違う。女神から直接聞いたから間違いない。無人トラック……つまり俺自身が蜜柑ちゃんのからだをぶち壊してやれば。今度こそ幸せな未来を掴み取ることができるはずなんだ』


『幸せな……未来……』




 俺の言ったその言葉を、噛みしめるように繰り返す蜜柑ちゃん。




『だから、俺は。今から蜜柑ちゃんを壊す』


『いいよ』




 思っていた以上にあっけなく許可が出た。




『え? あ、いいんだ……』


『だってこの身体、痛みは感じないし。壊されるのも怖くないよ』




 それに、と蜜柑ちゃんは付け加える。




『おにいちゃんが言ったことなんだから、きっとそれが正しいんだよ』




 『俺が言ったこと』だから、それを疑いなく信じてくれる。こんなに嬉しいことはない。




 俺は、少し間を置いた。ちっぽけなプライドをかなぐり捨てるための時間が必要だったから。








 ……覚悟は、決まった。




『俺は、ずっと引きこもりのニートだった。十六歳の頃から八年間も家でゴロゴロして暮らしてたんだ』


『え? 入院してたんじゃなかったの?』


『おかげさまで無駄に健康でな。ニート生活中は風邪一つひかなかったよ』


『そ、そうだったんだ……』




 明らかに当惑したような声。黒塗りの高級車からは当然ながら表情までは読み取れないが、きっと困り顔をしているに違いない。




『人と関わり合うのが心底嫌になって、一人で閉じこもる毎日を始めた。当然、家族や親戚からは後ろ指をさされるようになる。俺はプライドを守るため、自分を「高く」見積もるようになった。俺は被害者なんだ、周りはそれを理解できない馬鹿ばかりなんだってな』




 こんなもの、ただの懺悔だ。神の信徒を相手に罪の告白をするに等しい。俺がニート生活を始めた頃に生まれたような幼い子供に向かって言う話じゃないだろう。




 けれど、言葉が止まらなかった。




『周りを遠ざけて、自分で心の檻を作って。ふと気付けばいい歳だ。都合のいい免罪符を振りかざして悲劇の主人公を気取り続けるのも限界だったよ。だから、俺は自ら命を絶った』




 最後の最後まで逃げてばかりの人生。崖っぷちにまで追いやられて行き場をなくし、ついには飛び降りた。




『嘘ついててごめん。俺は、生きたくても生きられなかった蜜柑ちゃんとは比較にもならない、ダメな男なんだ。最低だろ?』


『ううん、違うよ』




 蜜柑ちゃんは即答した。




『だってわかるもん。一人っきりって、辛いもんね。私も入院してるときはずっと一人ぼっちだった。でも私にはお父さんがいてくれたから。だから耐えられた。おにいちゃんにもそういう人さえいたら、そんな悲しい思いをせずに済んだんだろうけど……。たいへんだったんだね』




 こんな身体なのに、目頭が熱くなる感覚におそわれた。自分よりずっと年下の女の子に慰められて、同情までされた。恥ずかしいったら無い。




 でも不思議と心は澄み渡っていて、晴れやかだった。




 俺はずっと孤独だった。心の飢えと渇きを誰にも理解してもらえなかった。




 俺だって、好き好んで引きこもっていたわけじゃない。そうせざるを得ない理由があった。




 けど、誰も彼もが理由も聞かずに俺を人生の落伍者扱いする。色眼鏡で判断する連中ばかりだった。




 でも蜜柑ちゃんは違った。俺を見下すこともない。偉そうに御高説を垂れ流すこともない。




 ただ、俺と同じ目線に立って話をしてくれた。




 こんな姿になって初めて、俺をありのまま認めてくれる人が現れたんだ。




 それだけで俺は……もう何もいらない。このまま朽ちて塵になっても後悔はしない。








 俺のすべては、彼女のために捧げよう。








 さあ、そうと決まればあと一踏ん張りだ! 蜜柑ちゃんを天国へ送り返すなんて大仕事、クズニートの俺には贅沢すぎる役割だぜ。














 デコトラは黒塗りの高級車に追突した。いともたやすく、車体が歪む。




『ところで蜜柑ちゃん。生まれ変わったら何になりたいんだ?』


『前は何でもいいって思ってたけど、今は違うよ。もう決まってるんだ』






 まるで世間話のような言葉を交わしながら、黒塗りの高級車を破壊していく。








『へえ。次はどんな人生を送りたいんだ?』






『えっと、ね……』








 デコトラは絶え間なく黒塗りの高級車を蹂躙する。その姿は、もはや原型がなくなるほど変形していた。蜜柑ちゃんからの声も、次第に遠く聞こえるようになってきた。








『わた……し……お……ん……』








『え? もう一回言ってくれないか』














『……ひみつ』


『そっか。分かった』








 黒塗りの高級車……蜜柑ちゃんは。くしゃくしゃのスクラップになった。








 声は、もう聞こえてこなくなった。

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