壁を背に

「よお、ウィット。元気か」

「……嫌味?これが元気に見えるって言うの」


 ジト目で睨みつけられた。けれどもこちらもだいぶ落ち着いたらしい。それを確認できただけいいだろう。


「ミルク、飲んでねぇのな」


 ウィットの傍らには、寝室へ上がる前にヴァンが渡したミルクがそのまま置かれていた。りんごを齧って倒れたキンス。その一部始終を目の当たりにしたのだから無理もない話とは思う。


「今は、そういう気分じゃないの。ごめんなさいね」

「……へえ」


 彼女から素直な謝罪の言葉が口にされたのはこれが初めてに思う。少なくとも、ヴァンに向けられたものとしては初めてのものだった。

 やはり彼女は彼女で、小さい体で考えることがあったのだろう。


「素直じゃん。せっかく可愛い顔してんだから、そっちの方がいいと思うぜ」

「……あの人、目、覚ましたの?」

「いや、まだだ。気になるか?やっぱり」

「そりゃあね……」


 ウィットは同じ位置、部屋の隅っこで膝を抱えて縮こまっていた。その傍らに座ってみたが、別段文句を言う様子はない。


「あの人がああなったの、あたしのせいかも知れない」

「っていうと?」

「あたし、言えなかったの。『嫌いじゃない』って。もしそう言えてたら、あんなことにならなかったのかなって」

「……そっかあ」


 それはどうだろうかとヴァンは思うが、言わずにおいた。説明できる話ではないし、納得のいく話でもなかっただろうから。


「ウィットは、キンスのこと、嫌いか?」

「……好きじゃ、ないわ。ココの方が好き。あなたのことだってそうよ。でも」

「でも?」


 様子を見ながら訊ねてみる。伏した長い睫毛が、淋しげに揺れていた。


「あたし、ココのことしか見てなくて、あなたたちのこと、ちゃんと見ることが出来てなかったのかな、って。そう、思ってたの」

「……なるほどねえ」


 この子もココと肩を並べる程に、聡い子だということを知る。いや、心根は優しい少女なのだろう。これまでの態度は全て、不安や警戒心、ココを慕う気持ちが齎していたのだろうなと感じさせた。

 だとしたら、この子もまた1人の被害者だ。姫は王子と結ばれるという物語の常識の、被害者。


「ウィットはもし、このままキンスが目を覚まさなかったらどうする?」

「そんなの嫌よ。ココがかわいそう。あたしだって、あの人と話したいこと、たくさんあるわ」


 間髪入れずに届いた言葉に、思わず苦笑する。たったひとつのりんごがこうも、物事を変えるものだろうかと思わずにはいられなかった。


「あなただって、そうよ」

「俺?」

「ええ。ずっと一緒に住んでいたんでしょう?あなたが今1番哀しいはずよ。それを表に出さないなんて、あなたは強いのね」

「…………」


 真っ直ぐな瞳に見透かされたような気持ちになって、二の句が告げずに固まってしまう。その間もウィットの大きな瞳は、窺うようにこちらを見つめていた。

 こんなにも小さな童子だというのに、少し惹かれてしまった自分を否定するように、ヴァンはかぶりを振る。


「そんないいもんじゃねぇよ、俺はさ。褒められるようなやつじゃねぇんだ」

「どういうこと?」

「そういうこと!」


 誤魔化しにもならない誤魔化しを向け笑う。暫く心配そうな瞳がこちらを向いたままだったが、そう、と短く告げるとウィットはまた前へと向き直っていた。

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