65.「遺されたもの」

 ロバートにも、アンジェロ読者にも、……誰にも、言っていなかったことがある。

 俺は、ロー兄さんが……いや、が好きだった。


『……死んだ方が、マシだと思ったのよ』


 電話先で、ナタリーさんはそれだけ告げて泣き崩れた。

 アン姉さんにアンダーソン家の血は流れていない。……あの人の身体を思うと、生まれた時に遺伝子検査だってしているに決まっている。当然分かっているはずだった。分かっているはずなのに……。


 ──違う。そいつは、そいつは私の子じゃないッ!あの汚らわしい男の血を引いた、別のなにかだ!!恥知らずのアンダーソンの子だ!!


 それほど傷が深かったのかもしれないし、我が子の肉体の異常すら、憎い男親父のせいにしたかったのかもしれない。だけど、それでも、……許せることじゃない。


『アンドレア……こっちじゃ男の名前だけどねぇ』

「こっちじゃ基本は女性名ですね。……お揃いがよかったみたいです。頭文字がRってのが、どうにも気に入らなかったみたいで」


 サーラとミュンヘンで落ち合う約束をして、いてもたってもいられず家を出た。

 今すぐ会いたかった。……本当のあの人の姿を、どんな姿でも生きていてくれたあの人の姿を、見たくて仕方がなかった。

 あの人がどこまで傷ついていたのか、本当は何に、どこまで悩んでたのか。俺には、まだわからない。わからないけど、そこに続きがあるのなら、……救えるのなら、何だって構わない。


 飛行機では、一睡することもできなかった。




 慣れない風景に惑いつつ、空港に降り立つ。

 ふと、目立つ姿が視界に入った。

 190センチにも近そうな長身に、光を照り返す銀髪。色の濃いサングラスの男が、タバコをくわえて立っている。

 ひらひらと、シャツの腕の片側が、空調の風に揺られていた。


「……ああ」


 俺に気がつくと、灰皿にタバコを押し付けてこちらに歩いてくる。


「初めまして。俺は英語、苦手です」


 絶妙にカタコトな発音で、男は話しかけてくる。


「アドルフ・グルーべ。……話、通ってる?」


 ……思った以上に強面で、つい固まってしまった。


「……と、とりあえず、リヒターヴァルトに……」

「ああ、案内?」


 ビビりつつ、踵を返した男について行く。


「……そういや」

「は、はい!?」


 低い声がやけに鼓膜を刺した気がして、飛び上がった。


dasダス Giftギフト ……って、言われたら……あー……どう思う」

「……Doesダズ giftギフト……? なんか貰えるって思います」


 よくわからない質問だった。もしかして、英語とドイツ語じゃ意味が違うとかか?

 アドルフは納得したように頷いて、


「「毒」って意味。こっちドイツだと」


 そうとだけ、告げた。


「……そういうことか」


 何が何だかさっぱり分からないまま、一人で納得して相手は歩いていく。正直なところ運動不足の脚じゃ、追いつくのでやっとだった。




 ***




「ロバート」


 緑の湖畔が揺らぐ。カミーユさんは何かを悟ったようにブライアンから距離をとり、レヴィくんは静かに歩み寄る。


「……ぼく、ひとりはやだ……」


 ポロポロと溢れる涙。風景の緑が萎れ、色を失っていくように思えた。


「でも、わるいこと、したなら……しかたない、から」


 カミーユさんの舌打ちを、その時初めて聞いた。


「それは君の罪じゃないし、君が背負うことでもない。背負わせた相手に償わせるべきこと。……何度も言ったよね」


 ブライアンの肩が跳ねる。はっとしたように、カミーユさんは「……ごめん」と口を噤んだ。


「……でも、四礼しれいも、悪くない……えと、あのこ、」


 その言葉には、耐えきれなかったらしい。目を見開き、押し留めていた感情が濁流となる。


「悪くないわけないよね!?善悪の区別も付かないなら、武器なんか握るべきじゃないんだよ!?当然誰かに握らせるべきでもないし、罪を背負わせることがどれほど酷なことかそいつは全っ然分かってない!!君がどれだけ傷ついて、君がどれだけ……どれだけ、心を壊したか、君が一番分かってるでしょ!?」


 蒼い、深海のような瞳から、黒い涙が零れていた。

 ……この人ももう生きていないのだと、嫌でも思い出してしまえる色だ。


「だから、だから君は悪く、な……。……。君が、君だけが、苦しむことじゃ……」

「じゃあ、連れてって」


 あまりにも、冷たい風が吹いた。

 その背をさすっていたレヴィくんの手が、思わず、離れてしまうほどに。


「連れてって。……ひとりに、しないで」


 レヴィくんが、ぎり、と歯噛みするのが聞こえた。

 カミーユさんは目を見開き、……その続きを、ひとことも言えなくなっていた。


「僕は、……僕は……」


 揺らぐ蒼は、いつものように、深く、穏やかな色じゃない。弟の澄んだ空色を見つめて、不安定に揺らいでいた。


「…………ブライアン」


 背後から届いた声に、聞き覚えがあった。


「俺お腹減っちゃった。ブライアンの美味いからさ、また作ってくんない?ハンバーグでもポトフでも、ボルシチでも、なんならスシでも」


 開いた医院の窓から、白衣がちらりと見える。


「……うん。グリゴリーさんの好きなの、作る」

「庵がラーメン食いたいってよ。いける?」

「ん、がんばる」


 透明な涙を袖で拭って、ブライアンは「寂れた医院」の方へ駆けていく。

 今度こそ、湖畔そのものが揺らいで消えた。


「……だから、嫌いなんだよ。見てるだけでイライラする」


 その声は、「ロー兄さん」の響きだった。

 骨はもう見えない。腹を押さえて、苦しげに息をして……膝をつく。


「……あの子が憎んで、恨んでさえくれたら、どれほど楽だったかな」


 あはは、と、気が抜けたように、カミーユさんは笑った。……涙を流したまま、顔を押さえて、泣きながら笑っていた。


「狂ってる方が楽だよね。……だから、狂いたかったんでしょ?」


 その言葉は、僕に向けられたものじゃない。……ロジャー兄さんや、レヴィくんに向けられたものでもない。

 ロー兄さんは、一言「そうかもな」と呟いた。


「……「ローランド」は、痛くても我慢できるし、「ロー」は、苦しくても笑っていられるから」


 立とうとして、ふらつく兄さん。思わず支えて、その軽さに驚いた。……すぐに実が詰まったように「取り繕った」姿に変わるけど、中身はやっぱり、骨なのか……。


「だからこそ、は、死にたかったんだろうなぁ……」


 ぽつりと他人事のように、ロー兄さんは月の輝く空を見つめていた。


「……痛いなぁ」


 赤い涙が頬を伝う。……骨の指先がそれを拭って、半分骸骨の男は立ち上がる。


「ロバート、お前は自分が罪人だと言った」


 ロジャー兄さんは、静かに語り始める。


「……自らを加害者と語れる勇気を、自ら行動を起こした気力を褒め讃えよう。だが、今は己の危機を知れ。お前は生者だ。……これ以上、死なせるわけにはいかないのだよ」


 隣でレヴィくんが丸く輝く月を見つめ、


「……俺は、誰に殺されたんだったか」


 その瞳に、昏い影を移していた。




 ***




「……さて、そろそろいいぜ、レオ」


 姿を消したアドルフと警察署を気にも止めず、レニーは片割れに目配せした。周りに広がるのは、塵と木の葉の散らばった路地裏。


「ん?もう独り言終わり?」


 レニーの態度に合わせ、適当に相槌を打っていたレオナルドもそれに呼応する。


「俺の存在を構成してんのは、この街の霊魂から奪った生命力、活力……まあ、そんなもんだ。つまり、情報の塊を食ってるってことでもある」

「悪ぃ何言ってんのか全然わかんねぇ」

「だろうな。まあ細けぇ理屈はいい。大事なのはこれからの方針だ」


 目の前のは、……いや、ロナルドは悟る。

 自らの正体など、この2人にとっては瑣末なことだ、と。


「君たちは、生きたいんだろう?」


 隠すことなく、男は告げる。


「それなら、私と組んだ方が好都合だ」


 ニタリと、「顔のない」表情が確かな笑みを浮かべた。


「断る……と言いたいところだが……正直なとこ、俺もそう思うぜ。……こちとら信条も何も持ち合わせてないもんでね」


 ニヤリと笑みを浮かべ、レニーはリレ硬貨を指で弾く。


「カミーユの不安定さは命取りだ。レヴィの憎しみはきっとこっちに飛び火しやがる。エリザベスに関しちゃ論外。……庵やグリゴリーはちっとお花畑だな。ロバートたちにゃ悪ぃが、あっちに義理立てする恩は特にねぇ」


 レオナルドは何も語らず、レニーがつまんだ硬貨を眺める。


「お前さんの目的を聞かせな。それとも……俺にゃ理解できそうにないもんかい?」

「いいや、君になら当然理解できそうなことだ」

「へぇ?なら言ってみろ」


 パチン、と、再び硬貨が弾ける。


「私はね、ロジャーの立場を手に入れたいんだ」

「それはちっとばかし理解できるぜ。人間ってのはないものねだりするもんだからな。……だが、そりゃあもう知ってる」

「理由を知らないだろう?私はロジャーをロナルドにすり替え、その先で、ロジャーの目的を奪いたい。……彼が何年も望んできた、「生き返りたい」という願いを利用したいんだ」


 へぇ、と、レニーの喉がなる。掴んだコインの女神が、レオナルドの方を向く。


「で、本音は?」

「……さすがに鋭いね。それなら、答えてあげよう。私は──


 ロジャーの全てを、私のものにしたい。

 私がロジャーになるんじゃない。ロジャーを私にするんだ。

 ロジャーは私が持たないものを全て持っていたし、それを驕りもせず一心に磨いていた。優秀で、素晴らしい男だった。

 だからだ。ロジャーが私より劣っているなんてあってはならない。ロジャーが私より劣ってしまえばロジャーの価値が相対的に下がってしまう。私の方がロジャーより優れてしまえば、私はロジャーを対等に尊重することなんて不可能だ。ローランドなんか私より絶対的に劣っていたから、私に蹂躙されてばかりで哀れだったくらいだよ。

 私がロジャーを竹馬の友として愛するには、ロジャーが私より優れていなくてはならない。だがロジャーは私より劣り始め、挙句の果てには間抜けにも母にあっさり殺された。そんなことが許されるわけがない。だから私はロジャーからその存在の一欠片に至るまで奪い尽くし、そして、その上で、私の欲望を満たす。ロジャーが嫌うであろう権威と権力を振りかざし相手を支配する行為をロジャーから奪ったロジャーの自我とロジャーの誇りを持って行い、ロジャーを穢し踏みにじり私の元に引きずり落としたい。

 ……君たちならわかるだろう?君も、自分より上の存在を対等に見ることができなさそうだからね。特に、レオナルドの方はそういう性格だろう?」


「悪ぃ何言ってんのか全然わかんねぇ」

「奇遇だな兄弟。俺もだ」


 途中からなんの話かもわかんなくなっちまったよ……と、レニーは呆然と呟く。そもそも、ロジャーがどちらの家の何番目の兄弟かすらレニーには曖昧なのだ。レオナルドに至っては、おそらく誰か検討もついていない。


「……?まさか、君に理解できないはずがない」


 あ、こいつ話通じねぇ。

 そう悟るのが、わずかに遅かった。


 ロナルドから伸びた影がレニーの影を掠めとり、小さな足を縫い付ける。


「……君自身も存在証明が曖昧だと、忘れてはいけないよ」


 下卑た声で、男は舌なめずりをする。足の先から這い上がるように、黒い泥がレニーを飲み込んでいく。

 舌打ちと共にレニーがコインを落とし、刹那、金色の塊が弾け飛ぶ。


「……馬鹿だね。理屈がわからないのなら、飛び込んでくるべきじゃない」


 精神にさえ踏み込んでしまえば、容易なのが君のような男だ……と、言うまでもなく、黒い塊は空中に弾け飛んだ。


「ローザが言ってたぜ。てめぇ、おしゃべりに自信がありすぎるんだってな?」


 レオナルドはレニーが落としたコインを拾い、投げ渡す。

 黒い泥は人の形を再び成すことさえもできず、言葉はひび割れて言語にもならない。


「オレはたしかにバカだぜ。だからてめぇの言ってることも理屈も欠片もわかりゃしねぇが」


 コインを受け取り、レニーはひゅうと口笛を吹く。「女神の柄=最近出会った女性を思い出せ」という合図は通じたらしい。


「気に食わねぇ野郎をぶっ飛ばすってのに理屈だのなんだの、いちいちこねてられっかよ」


 泥を踏みしだき、レオナルドはニタァ、と、牙のように尖った八重歯を見せて笑った。


「……で、アンジェロ・セヴェリーニってガキを知ってっか?てめぇに殺された、オレの息子なんだけどよ。……知ってたよなぁ?どんな気持ちであん時、名前だしたか知らねぇが……」


 爛々と輝く瞳が、嬉々として殺意を放っていた。


「あっちののぶんも含めて……息子の仇はオヤジが取ってやらねぇとだろ?」


 腕にまとわりつく泥を振り払いもせず壁に穴が開くほど叩きつけ、脚にも纏わり付かせたまま全力で電柱を蹴り折る。

 一服するようにタバコの火をつけ、背後から迫り来る影に燃えさしを投げつける。


「……ああ、一個だけわかったぜ。自分より上の存在がなんちゃらってやつ」


 煙を吐き出しながら、レオナルドはすり潰すように靴の踵を地面に叩きつける。


「オレより上の生き物がいるわきゃねぇだろ。バカかてめぇ」


 レニーはその様子を眺めながら、「いやバカはてめぇだけどな」と、楽しげに茶々を入れた。

 その背後から、ヒールを履いた影が現れる。「ロー……ザ」と、泥は人の言葉で呻いた。


「……お兄様、気付いていたでしょうけど、貴方はこの場に向かない性質なの。……共感を得られないことは、不利に働くのよ」


 だから、はったりと御託で自分を飾り付け、もっとも近くにある呪いからも逃れようとした……と、それさえ分かってしまえば、恐怖を植え付けられたレヴィにすら驚異ではない。ローザには、それがよく分かっていた。


「貴方がするべきは、弱点を知るものの排除だった。……ローランドを狂わせ、私を追い詰めようとしたのもそうだと分かってる」


 かつて最愛の夫がしたように、今度こそ、、ローザはガソリンを地面にぶちまけた。

 レオナルドは後ろに飛び退き、またライターを用意しようとして……ローザの手にあるそれに気づく。


「……私は知っていた。貴方が自分の手を汚さないのは……いえ、汚そうとしないのは、兄さん……貴方の本質が父さんやロデリックと同じように、臆病で気の小さい人間だから」


 哀れな人、と呟いて、ローザはライターを落とす。悲鳴すらもひび割れ、人間らしき声はもうどこからも響いてこなかった。

 ……燃え盛る炎を見る瞳に躊躇いを感じ取ったのか、


「……兄弟が死ぬのはつらいもんだ。……あんたが臆病で気が小せぇなんて、俺はちっとも思わねぇぜ」


 涙すら流さず唇を噛み締める女に、レニーは語りかけた。

 燃え盛る炎の中から解放されたように飛び出していく輝きと、逃げ出すように這いずって引き戻される濁りが果たして誰のものだったのか。……もう、分かりはしない。

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