66. ある罪人の真実

 肉体が、魂が解けていく。

 奥底に閉じこめた感情が漏れだしていく。

 暴かれる不快感の中、私は「私」でも「僕」でもなくなる。意識が掻き消えていく。


 ……生まれた時から、欲しいものはだいたい手に入った。

 幼い記憶がするりと解けて、「僕」の魂の奥底へと審議の瞳が向けられる。


「ロン」


 ああ、そんな目で見ないでくれ。

 私は君を友だと思ったことは1度もない。君を親友だと思ったことなんか1度もない。


 僕は君が妬ましかった。


「ロジャー、そっちの家は大変だね。まだ古臭い因習を引きずっているのかい?」

「まあな。お前のところが気楽に思えるよ」


 ロジャーは忙しなく長男としての振る舞いを求められ、それでも何とかこなして両肩に責任を背負ったうえで立っている。

 勇ましくて、誇らしくて、憎らしかった。


「単なる田舎貴族の系譜だよ。資産も権威も、そっちには負けてる」

「……権威は、どうだろうな。ドーラさんの祖父は名の知れた商人で、政界にも関わりがあるそうじゃないか」


 そうやって人を褒める余裕が羨ましい。


「そういえば、ローザが今度アンに用があるらしいな。俺も同席して構わないか?」

「ローザに会いたいのかい?」

「……。まあ……」


 頬を染め、初恋の相手の名を語る姿がいかにも滑稽で、いかにも人間らしくて、いかにも隙があって、優秀なハリス家長男で「弟」にも慕われる兄で両親から熱烈な期待を寄せられて、その上かつ人間的な魅力まで持ち合わせている。

 君と話すだけで本当は、胸がかきむしられる思いだった。


 そのサファイアブルーの瞳が嫌いだった。真っ直ぐに意志を持った、純朴で、それでいて凛然と煌めく誠実の塊のような瞳が大嫌いだった。


「ロナルドは何も気にしなくていいのよぉ。賢いあなたには母さんがなぁんでも与えてあげるもの」


 猫撫で声で母さんはそう言ったけれど、彼女に頼んだら与えてくれるのだろうか。

 あの忌々しいサファイアが砕け、絶望に澱み、僕に縋り付いて乞い願う姿を与えてくれるのだろうか。


「……ロン兄さん、話があるんだけど」


「妹」の瞳はサファイアよりどこか緑がかった、ターコイズブルーだった。……そういえば、生まれたばかりの弟はトルマリンブルーだったか。ハリス家の兄妹は揃って宝石のように煌めく青い瞳で、美しい色をしていた。


「おれ、アンって呼ばれるのが嫌なんだ」


 知ったことか。……そう思ったけれど、父が言っていたことを思い出す。


「君が男の子だったら、Roland……という名前を提案したのだと父が言っていたよ」

「……!それがいい!おれも兄さんたちと一緒がいい」


 まだ幼かった「彼女」は純真な瞳で、照れたように、楽しそうに何度も「ローランド」と呟いた。

 無性にその光を汚したくなった。その白い肌をなぶって、奥まで暴いて、その瞳に恥辱を、絶望を、悲嘆を、諦観を、──堕落を、刻み込みたい。

 湧き上がった衝動をすんでで堪えて、別の記憶をたぐる。一刻も早く、僕は、この欲望から逃れたかった。


 それが取り返しのつかない感情だと知っていた。

 ……だから、歯止めが欲しかった。


「……ナタリーさん。ローは……ローランドは僕の父の子だと聞いたんですが、本当ですか?」

「な……ッ!?あの子は私とレイモンドの息子よ!間違いない!間違いなんてあるはずがない!」


 母から冗談交じりに聞いた噂話を、ヒステリックに否定する姿が滑稽だった。


「……じゃあ、が異常なのは、貴女たちの子だからですか」

「……ッ、馬鹿なこと言わないで!あんな身体に生まれたのは私のせいじゃない!」


 そこまで言って、ナタリーはハッと息を飲んだ。自分の言ったことの意味に気付き、静かに青ざめていく。


「違う。違う……。あの子が一番悩んでるはずで、でもあの子は優しい子だからそんな様子も見せなくて、あの子は男の子で……」

「……なら、彼は弟なんですね」


 血の繋がりに少しでも疑惑があるのなら、性別の垣根があるのなら、


「貴女もいい趣味を持ったものだ」


 この衝動もいずれ治まるだろうと、

 そう、思ったこともあった。


 ああ、でもあれはあっちが悪いんだ。僕に色目を使っていたのは向こうの方だ。

 未成熟な首筋に舌を這わせ、抵抗する小柄な肉体を押さえつけ、そして──


「……最低。クソ野郎。死ねばいい」

「君は僕に惚れていたのに、嬉しくないのかい?」


 キッと睨みつけて、純潔を散らしたばかりのターコイズブルーが涙を浮かべていた。


「ああ、好きだったよ。好きだった……!でも、今はもう嫌いだ、顔も見たくない!!」


 その瞬間、手に入っていたものが遠ざかる気がした。

 ……だから、力ずくでも手に入れていたかった。

 僕から逃げることは許さない。僕から勝手に離れるなんて許さない。だって、君は僕に汚され、なすがままに身を委ねたんだ。だからもう、僕のものだ。


 昔から欲しいものはだいたい与えられた。

 ……与えられるのが、当たり前になっていた。

 それが罪だというのなら、それが悪だというのなら、もっと早くに周りが間違いを正しておくべきだった。今更変えるなんて不可能に決まっているのに。


 僕は優れていたから与えられた。

 ローザは僕より劣っていたから僕の次。

 ロデリックは一番劣っていたからむしろ奪われる。

 ……優れているからより多く与えられるなんて、当たり前じゃないか。


 アンドレア……ローランドは何度も抵抗して僕を罵り糾弾したが、人に言うことはなかった。あまりに声が大きいようなら殴って黙らせたし、殴られることが分かれば大人しくなっていった。

 鈍く光るあのターコイズブルーは、いつまでも変わらなかった。

 だから奪い去りたいんだ。君が、君たちが美しくある限り、僕は汚して貶めたくなる。……そうしなければ、本当は届かない位置にいると知っている。


 だって、僕は、僕たち兄妹は君たちに比べたらこんなにも醜く、矮小だ。


 だから、ロジャー。君は僕より優れていなくてはいけない。

 君はいつか、僕の罪を暴いて妹に何をすると糾弾し、公にすると毅然とした態度で告げるだろう。……それを、ナタリーかレイモンドか、どちらかが諌めるだろう。……そう、思っていたのに。


「……ロン、嘘だと言ってくれないか。……私が見てしまったのは単なる悪ふざけだと、頼む、そう言ってくれ」


 そんな弱った顔をする男じゃないだろう、君は。


「最近は俺も疲れているんだ。テロだのなんだの……まあ、色々あるのはお前だってわかるだろ。……だから、なにか見間違いをしたのだと、……何かの間違いだと言ってくれ」

「何かの間違いなんてことはない。……私とローランドは合意の上でああいう関係なんだ。あっちが照れくさくて隠そうとしただけだよ」

「……そうか……」


 なぜ、そこでほっとした顔になる。そこで公正さをなぜ貫かない。なぜ君は、いつも立派に役目を務めあげ、周りから認められ慕われる……はずなのに、どんどん仕事でも侮られていくんだ。

 私がいくら私の方を下げて取り繕おうが、君は落ちていくばかりじゃないか。それくらいなら、君が勝手に落ちていく、いっそそれくらいなら私が、僕が君を堕とし穢し踏みにじりたいくらいだ。


 それでも耐えていたのに、


「……少し酒でも飲むか。明日になってから、また話し合おう」


 君は、


「なんれすかドーラさん、またローザについて?もううんざりですよ、いつもいつも自分の娘の悪口ばっか……り?」


 君は、死んだ。


 君がそんなに簡単に死んで、僕の罪が君によって裁かれることもなく、君はあっさりとこの世から消えて、君にとって僕はいつまでも「唯一無二の親友」だの「たった一人の理解者」だの、見当違いも甚だしい関係で、それがもう変わらない?


 そんなこと、許されるわけがない。


 いつの間にかローランドは壊れかけていた。……私がとどめをさせたのなら、また違ったのかもしれない。

 まったく意図しないところで、彼は完全に破壊された。私はわだかまった熱を抱えたまま日々を過ごし、そして、ロジャーに似た瞳の輝きを見た。サファイアでなく、ヒスイのような色の……




 ──もういい。もう分かった。もう何も語るな。罪を悔い何度も滅び何度も苦しみ何度も何度でも終わらない苦痛のもと懺悔しろ。


 ……君か。ああ、本当に君は愚かだね。可哀想な子だ。

 私がただの矮小で醜い欲深いだけの哀れな小悪党だと知ることで、踏みにじられるものがなにか、よく分かっているだろうに。


 黙れ黙れ黙れ黙れッ!!!!貴様、消滅し続ける苦痛を永久に与えられようが足りんらしいな……!!!


 分かっているくせに。私を永久に捕まえ呪おうとすることは、のと同じだ。だって私の罪はそこまで重いのかな?私が殺したのは何人だい?君は私怨で、公正な裁きとやらを投げ捨てるつもりかい?


 消えかけのくせをして口がよく回ることだ……。分かった、ならばもういい、貴様の苦痛もここで終わりだ、この世界から塵すら残さず消え失せろ。


 レヴィ。


 貴様の声に耳など貸すものか……!


 君を殺したのは、君自身だよ。


 ……は?


 ……ははは、最期にいい声を聴けた。……壊れた君を見れないのが、少し名残惜しいけれど……大人しく消えるとしよう。


 おい、貴様、何を知っている……!?

 おい、答えろ、どこに消えた。貴様だけは、貴様のような外道だけは決して赦すわけには……!

 ……あ




 ***




「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあああッ!!!」


 月夜に響きわたったのは、雄叫びのような、悲鳴のような、激しい哭き声だった。


「れ、レヴィくん!?」


 翡翠の瞳は絶望に染まり、その肉体に黒い霧が襲うようにまとわりつく。


「えっ、何!?カミーユさん……!?」


 振り向くと、カミーユさんも思わず身を固くし、目を見開いていた。目蓋を無理やり閉じて頭を押さえ、何事かブツブツと話し出す。


「……ッ……!?そう、あいつ……ただじゃ消えてやらないってこと……!」


 悔しそうに唇を噛み締め、カミーユさんはレヴィくんの方を見やる。


「……レヴィくんを殺したのは……だよ」


 その言葉はあまりにも後悔に満ちていた。


「母親の死を見届け、失意のまま帰路に着いたレヴィくんは僕の訃報も聞いてしまった。……しかも、僕のロナルドへの嫌がらせを「僕の魂が汚された」と勘違いして……」


 肉親と恩人を相次いで亡くし、恩人の生業が踏みにじられたと思った。

 ……僕なら、正気でいられるはずがない。


「ショックで、赤色を遮断してしまった」


 ……赤色?


「……父親の死を目の当たりにして、一時的に瞳から追い出した色だよ。治ってはいたけど、時折強いショックで同じ症状が出る。……ただ、ブライアンの前では出たことなかったって……」

「父親の……。そ、それになんの意味が……?」


 あれ?そう言えば、そんな場面前になかったっけ?

「赤毛の娼婦」の時に、エリザベスを見て、反応が曖昧で……


「……信号機って、君の国は何色?」

「それはたぶん万国共通で、赤が止ま……れ……」

「……車のランプもだよね」


 彼は、自分の肉体と、精神に刻まれた傷に殺された。

 ……彼を殺したのは、が壊れた彼自身の世界……。


「ぐ、ぅ……」


 胸を押さえ、レヴィくんは苦しげに呻く。


「……跳ね飛ばした車の主は、俺が道路下に落ちたのを見て走り去った」


 ぼたぼたと、噛みちぎった唇から血が滴る。


「折れた木の枝が胸に突き刺さり、上手く動くこともできず、助けの声すら届きはしない。……そんな場所で、俺は、……俺は……ッ!」


 あの辛苦を、

 あの屈辱を、

 あの無念を、

 あの孤独を、

 あの悔恨を、

 あの絶望を……


 忘れるものか

 赦すものか

 誰一人逃がすものか……!!


「レヴィ落ち着け!憎しみに身を委ねるな……!」


 ロジャー兄さんの声にぴくりと反応し、彼はまだ耐えていた。

 飲み込もうとするような霧を拒絶し、膝を折り、懸命に歯を食いしばっている。


「……レヴィくんは、小さい頃錯乱したお母さんに殺されかけたことがあるし、心の中では何度でも憎い奴らを殺してきただろうから……。……本当の死や殺害がどこまでか、僕には判断できない」


 ……そんな壮絶な人生を送りながら、彼はこの空間に秩序を作ろうとしたのか。

 そんな憎しみを抱きながら、そんな苦痛に悶えながら、彼は呪いよりも正しさを貫こうとしたというのか。


「レヴィくん」


 僕の役目は、「時間稼ぎ」だ。……選択は間違えられない。だけど、今は放置もできない。


「頑張ったね。……でも、今は休もう。たくさん休んだら、また状況も変わるから」


 がりがりと地面を削っていた、冷たい手を握る。どくん、どくんと脈打つ音が、「まだ生きている」ことを伝えてくる。


「……僕は君に生きて欲しい。その方が難しくても、呪詛で罪を犯してたとしても、それでも僕は、君と、この街や森の外側で会いたい」


 はぁ、は、と乱れた吐息が、徐々に収まっていく。

 やっぱり彼は、生きてる。……まだ、助けられる。

 だから、いつかきっと、


 ──半死半生だ、と言ったはずだ


 その声は、レヴィくんの背後から聞こえた。

 こふ、と、彼の口の端から鮮血が溢れる。ちょうど、彼の髪と同じ色に見えた。


 ──……憎しみを忘れるな。そのために生かされていることを忘れるな


 黒い霧残留思念は霧散し、レヴィくんの体内へと

 森林を思わせる昏い緑が僕を見つめる。


「……ロバート、ありがとう。だが……俺は、ここまでらしい」


 ぎこちなく笑って、レヴィくんは僕の手を握り返す。


「……俺は俺の弱さに負けた。いや……最初から敗北していたようだ。次会った時……俺は、復讐を続けるため、お前を殺すだろう」


 嘘のように穏やかに笑って、レヴィくんは僕を突き飛ばす。


「ロブ、俺は……お前に殺されてなんかないよ」


 ロー兄さんの、宣告が響く。

 青ざめた顔が見える。骨の透けた指が、頬に伸びる。


「一人は、寂しかったろ。……ごめんな」


 何かが弾けるように、涙が溢れた。


「なんで、みんなして」


 僕を、置いていくの。

 その言葉は届かないまま、光の筋が僕だけを引きずり戻そうと伸びてくる。


「……嫌だ!!兄さん!兄さん戻して!!僕は、もう……!もう、何もできないのは嫌だ……!!何もできないまま、みんないなくなるのは嫌だ!!!」


 泣き叫ぼうが喚こうが、カミーユさんもレヴィくんもロー兄さんも、僕だけを逃がそうとする。……そんな優しさ冷たさ、今はいらない。いらないんだよ。


「よぉ、ロベルト」


 肩を叩いた熱。振り返った先に、袋小路の路地裏。

 それで誰かわかった。名前をまた間違われていたのはもうこの際気にしない。……惜しいけど。


「迎えに来たぜ。……ちょっくら、別のこと手伝ってくれや」


 赤毛になった「レオナルド」が、さっきのレヴィくんのように穏やかな笑みを浮かべていた。


「俺は、妻子を置いて最悪な死に方をしてしまったからな。……償いというのは柄じゃないが、せめて救いたい」


「路地裏の血濡れ獅子」は、黄昏の中静かに佇んでいる。


「……なんとか間に合いそうで良かった」


「レオ」が振り返る。夕闇の迫る入口も出口もない場所に、金髪の女が幽鬼のように立っている。


 プツリと、糸が切れたように僕の身体から力が抜ける。


「やばくなったら何とかする……っつうのは言っといたしな。悪ぃけど、使わせてもらうぜ」


 太い腕に抱え上げられたのは、何となくわかった。

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