48.「赤毛の娼婦 エルダ」

「赤毛の娼婦」……エルダって名乗るあの女ね。

 噂は大したことないわ、確かに。……噂はね。

 中身がないのよ、あの噂。それがとにかく気持ち悪い。

 本当のことなんかって予感すらするわ……。




 ***




 医院に向かおうとして、「赤毛の娼婦」を見かけた。……まあ、僕には金髪に見えるんだけど。

 ……因縁がある相手ってことは、正体には予測がつきやすい。カミーユの元恋人……エレーヌ・アルノー……金髪だし、ジャックの記憶からすると「娼婦」なんて呼ばれたっておかしくない。

 ヘブライ語のEldaahはレヴィくんと関係のある名前らしいけど、イタリア語のEldaだってエルダだ。英語だとヒルダ……頭文字はH。エレーヌも綴りはHeleneだし、きっと間違いないはず。



「おーい。そろそろメール、確認できたか?」


 ぼんやりと色々考えすぎて、レニーさんに急かされてしまった。


「……これ……「ある愚者の記憶」って、君が送ったの?」

「まあな。むしろ、今まで誰が送ってるか気にしてなかったのかよ」


 図星だった。……そう言えばそうだよね。誰が送ってるんだこれ。

 ……レヴィくんかな……?


「なぜ俺を見ている。俺に長文メールの作成などできると思うな」


 いやそこは頑張ろうよ……。レヴィくん、僕より若いよね?


「ワープロソフトならいくらでも使いこなしてみせるがな」

「今時メールもそこまで使わなくね?イオリちゃんは別のも使ってたぜ」


 レオ、やめて。そういうのは流行に微妙なラインで乗り遅れてる僕に刺さる。

 記憶を綴ったメール……ロー兄さんのを見て思ったけど、本当に生々しいことが書かれてる。しかも、全部主観。誰が……というか、どうやって書いてるんだろう。


「……庵だよ。霊媒……だっけか?」

「霊媒……。それで僕にヒントをくれてるの?」


 イタコ……とか、口寄せっていうのを聞いたことならある。


「お前さんに送ってんのは、カミーユに頼まれたからだろうけどな」


 ああ……確か、カミーユが好みのイケメンなんだったっけ……?

 僕は好みじゃないらしいけど。……思い出したらムカついてくるけど、大人気ないから我慢。


「……?あの女、いつまでこちらを見ている」


 レヴィくんが、「赤毛の娼婦」……エレーヌに目をやる。

 カミーユと向き合えるまでそっとしておくべきだし、僕らと関わることもないはずだけど……あそこまで凝視されると気になる。声くらいはかけておいた方がいいのかな。

 レニーさんも振り返る。


「……見ねぇ女だな。金髪……?」

「……たぶん、カミーユの恋人」


 というか、レニーさんにも金髪に見えてるんだ。


「カミーユの恋人?ありゃあ妄想の中にしかいねぇだろ」


 その言い方は流石に語弊があると思う。


「大したことはしないはず。危害を加えるにしても、カミーユだけだろうし……」

「……金髪?赤毛の娼婦……のはずだろう……?」


 レヴィくんは噂に引っかかってる。見え方に個人差があるのは分かってるけど、やっぱり違和感が拭えない……。


「…………エリー?」


 呆然と呟いた赤毛の男は、レヴィくんの方じゃなかった。

 ニタァ、と、女の口角が釣り上がる。


 ──逃がしませんよ


 誰一人逃がしません。だってこれは神の思し召し。逆らおうとする方が愚かしいのです。ワタシはわが子を贄に捧げることで神に機会を与えられたのです。ワタシは神に許されたのです。アナタ達も受け入れなさい。これは神の思し召しなのです。だってそうでしょう?そうでなければ説明がつきません。おお神よ、感謝致します。尊い犠牲と引き換えに祝福を与えてくださった大いなる神よ!私は受け入れます。この宿命を受け入れます。アナタは願いを聞き届けてくださった。やはりワタシは正しかった!過ちなど犯していなかった……!


「ロバート!」


 レヴィくんに肩をつかまれ、視界が開けた。

 ……何だろう、今の……?エレーヌと目が合って、ええと、


 ……エリー……?誰、その人……。


「……あ?おい、どうした」


 褪せた金髪に戻ったレオが、首を捻っている。

 エリーという名前が、彼女に何かを思い出させた……ってこと、かもしれないけど……今の、何……?


「……何だ、騒々しいな。私に何か用か?」


 当人……エリーさん?は平然としている。

 何かがゾクゾクと背中を走り抜ける。なに、この感覚……?


「君、名前は……。えっと、本名の方……」

「リズ……だ」


 リズ?エリーじゃなくてリズ?

 ……ってことは……


「……ベス……って呼ぶのは……」

「……ベスだと……?」


 その言葉に引っかかったのはレヴィくんだった。

「いや、まさかな」と、首を振る。


「……その名前は……」


 女の顔が曇る。


「あ、嫌ならいいよ!リビーとかでも……」


 その瞬間、「あ、失敗した」と思った。彼女の視線が再び僕を絡めとる。暗い瞳だ、昏い、冥い、曖い、喰らい──


「……やめとけ、今は触んな」


 レニーさんの声で我に返る。なぜか、寒い。身体が寒い。


「とっとと離れんぞ。……ロバート、思い込みのまま突っ走んじゃねぇ」


 思い込み?エレーヌだと思っていたことが?

 そう言えば、エレーヌはもういないって……カミーユの記憶には……。


「……エリー、リズ、ベス……。そんでリビーか……。全部エリザベスだな」


 身体が凍える。寒くて仕方がない。体温を何かに奪われていく。


「……ああ、なんで噂になってんのかわかったよ。それが印なんだな。レヴィ」


 レニーさんはレヴィくんに話しかけている。身体が動かない。

 レオに背中を叩かれ、ようやく走り出せた。


「…………噂は時に警告にもなり得るのだろうな」


 逆に考える必要もない。シンプルな話だ。

 影響を及ぼすほどの力があれば、誰だって人を攻撃できる。生身だろうが武器だろうが、問題になるのは使い道……。


 ──逃がしません


 アナタたちに未来など必要ないのです。もちろんワタシにも。


 声が響く。心地よく染み込んでくる。ぬるま湯のように意識が溶かされていく。


 そうです。未来など必要ないのです。いいではありませんか。アナタは死んだ兄といつまでも戯れることができます。カミーユ達だってずっと絵を描き続けられます。何が問題なのですか?ブライアンも兄や友人のそばにいられます。贖罪まで続けられます。何か不都合なことがありますか?


 甘く、蕩けるような誘惑。


 ロバート……ワタシはアナタを逃がすわけにはいきません。誰かを特別扱いなどできません。それはこの楽園の秩序を破壊します。


 痛みと死に満ちたこの土地を、女は楽園と語る。


 生きているから痛むのです。生きているから死も悼むことができるのです。ここにいる彼らは生きているのです。


 ……確かに、そうかもしれない。


 アナタは兄と別れたくはないでしょう?大切な人の死を死として受け入れられますか?


 それは……


 兄に、生きていて欲しかったのでしょう。


 否定できない。


 ワタシもアナタと同じなのです。いいえ、みな、結局は同じ思いのはず。死を疎み、別れを厭う……当たり前のことではありませんか。


 ……それなら、

 安らかに眠りたいのも、怖いものから逃げたいのも、当たり前じゃないのかな。




「……あれ?」

「ぼーっとしてたぜ。生きてっか?」


 レオの声で我に返る。どうやら、足は進んでいたらしい。頭はまだぼんやりするけど、声はもう響いてこない。


「ほぼほぼ善意のうちは干渉できる……ってか……。いいねぇ。スリルは上々だ」


 レニーさんが口笛を吹く。……そうか、あの人の誘いは呪詛でもなんでもない本物の善意……。

 唇を噛み締めた赤毛の青年が、なんとも言えない形相で隣に立っていた。


「……レヴィくん?」

「…………外見を……利用された……」


 呪詛とも嘆きともつかないぼやきが漏れる。……確かに……それ、一大事かもしれない……。


「えっと……知り合い?」

「そっとしといてやれ。今だいぶ傷心してっから」

「傷心など断じてしていない。実の母に女としての名と外見を使われたということに何一つ恥じることなどない」


 そ、それは……なんというか、キツい……。

 そうか、見てわかるくらい性自認は一貫してきたんだから、異性として与えた名前を知ってる人って当然限られ……うわぁ……。


「お前ら親子揃ってなにしてんの」


 レオ、やめてあげて。


「レヴィはむしろ新参だろ。っつうか、そもそもお袋が呼んだんじゃねぇの?」


 レニーさんもやめてあげて!!


「……ほう?遊びで乗り込んだ奴らはやはり違うな。そこに直れ。その物見遊山根性とともに蹴り倒してやろう」


 翡翠の目がぎらりと光る。ニヤリと浮かべた笑顔はもはや映画の殺人鬼レベル。

 ……やっぱり、一番怖いのはこの人らなんじゃ……。

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